「シベツジ港は今、陸からも海からも出入りできる状況ではありません。」
デッキに出たところでシャルが言って、僕にスマートフォンを出すよう要請する。僕が出したスマートフォンの画面に、映像が表示される。これは…密漁グループ?「SNSの投稿です。密漁グループが前町長の会社の倉庫から物資を略奪して、それを止めようとした社員に暴行を加えて排除しています。」
「見た目ゾンビだね…。」
『連日入浴せずに全裸で森の中を徘徊していましたからね。この映像は密漁グループの一員が自己顕示欲で撮影して投稿したという体です。』
「略奪された物資は、その足でシベツジ港へ運ばれています。前町長と自分達の悪事を口頭で喧伝しながら。」
「死の行進だね…。」
シャルが見せるSNSでは、一気に密漁グループの「雄姿」がトレンド入りしている。まだ冷え込みが厳しい中、傷だらけの全裸で物資が入った段ボールをシベツジ港に運び、その足で前町長の倉庫に戻る様子は、ゾンビにしか見えない。自由意思を剥奪されているから本来の意味のゾンビと言えるか。
シベツジ港には混乱の収拾を図るため、N県県警からの応援が入っている。不正に蓄えられて次回町長選挙に向けた賄賂に充てられていたものとは言え、物資の略奪や止めに入った社員への暴行は犯罪だ。更に全裸だから猥褻物陳列罪にもなる。これらが全て現行犯として目の前を闊歩していたら、流石に警察も黙認は出来ない。警官が密漁グループを制止するが、まったく意に介さずに物資を置く。シャルによって自由意思を剥奪され、無意識のリミッターも外されているから、警官1人では簡単に振り払われる。
シベツジ港に入る物資はこれまでどおりで、需要に対して極端に少ない状況が続いている。そこに続々と物資が運び込まれたら、奪い合いになるのは必然。しかも不正に蓄積されていたものを運び込んだとなれば、判官びいきの国民性も重なって、「義賊による物資の搬入を妨げようとする警察」という図式が出来上がる。
物資を我先にと奪い合う一方で、警察に対しては先に前町長を逮捕しろ、政権党言いなりの国営警備会社め、などと非難が浴びせられる。他所の県警の状況を全く知らないわけではない筈だし、統率する上層部はキャリアだから全国を渡り歩いている。上層部の知らぬ存ぜぬは通用しないけど、現場の警官に非難が浴びせられるのは少々理不尽ではある。だけど、上の命令は絶対として行動する以上は致し方ない面もある。
現場は大混乱する中、観光客以上に空き地や道路を占拠していたマスコミが、撮影しながら物資確保に走る。マスコミの所業は地元住民も観光客も十分知っているから、マスコミの物資確保は自然と団結して妨害する。まず並べ、マスコミ風情が何様のつもりかなどと罵声を浴びる。警察への非難とボルテージは同じくらいか。
以前なら非常時のどさくさで報道を暴力で妨害する一般人という図式を描けただろう。だけど、今はスマートフォンとSNSがある。マスコミのシベツジ港周辺での暴挙狼藉は散々SNSで報じられているから、運び込まれた物資をも我先にと確保しようとするなら、非難はマスコミにも向けられるし、他の人を押しのけて物資を確保しようとするマスコミの身勝手な様子はスマートフォンで撮影され、SNSにアップされる。しかも個人の撮影だから著作権云々で公開を差し止めすることも出来ない。マスコミが隠蔽することは不可能だ。
地元住民、観光客、警察、そしてマスコミのバトルロワイアルと化しつつある現場を尻目に、密漁グループは黙々と物資を搬入して踵を返す。働き蟻の行列みたいだ。物資を運ぶ時も倉庫から物資を略奪する時も、基本的に黙々と作業に取り組む。妨害が入ると一転して攻撃的になって殴る蹴るするから、前町長の会社の社員は返り討ちにあって呻いている。
「木偶も数が揃えば、荷役としては使えるレベルになりますね。」
「物資を全部シベツジ港に運んだら、密漁グループは解放するの?」
「勿論です。用済みですから。」
「前町長は贈賄、各地区の長には収賄の容疑がかけられるだろうから、次の選挙での返り咲きは厳しくなるだろうね。」
「立候補どころではないでしょう。それは現町長も同じですが。」
「それって、昨日の話に関係すること?」
「はい。論より証拠。出てきてもらいましょう。」
『銀狼は本物とは別にもう1匹いたんですよ。本物と比較すればチャチな作りの偽物ですが、遠目には銀狼そのものにしか見えないでしょう。』
『本物の銀狼と同じ手術を施された銀狼がいたってこと?』
『いえ、狼に近い小型犬の雑種です。身体の至る所にLEDと駆動回路、更にバッテリーも埋め込まれてはいますが。』
『!』
『流石に察しが良いですね。現町長と宮司の仕業です。』
シャルの説明を聞く。銀狼の目撃情報は昔からあったが、それらは暗闇で野犬か何かを誤認したものだと考えられる。現町長は外貨獲得のため、銀狼を利用することを考えた。そこで宮司に秘かに接触し、銀狼の偽物を作り出して適時外に出すことにした。偽物の銀狼の母体は、N県の保健所から秘密裏に運び込んでいた。日本の狼に近い小型の雑種犬を選んで。当然ながら、現代の医療では生物の全身から燐光を出す技術はない。発光遺伝子による燐光はあるにはあるけど、遺伝子操作が必要だし、あくまで特定の細胞や組織の挙動を観測するためのマーカーだから、発光量はライトのように多くない。そこで現町長と宮司は、犬の体にLEDとバッテリーを埋め込むことを考えた。
LEDくらい光れば目につくだろうという安直な発想を実現するのも、これまた安直。ペースメーカーの埋め込みも外科医という専門知識と技術を持つ人物が、手術室という厳重に管理された環境下で行うもの。まともな獣医なら門前払いする方法を請け負ったのは、雑種犬を送り込んだペットショップの経営者。この経営者は現町長の大学時代の後輩という繋がりがある。
元々、このペットショップは保健所に送られていずれ処分される運命だったペットを引き取って、里親を探して引き渡す形の販売事業を進めてきたけど、手間がかかるし、里親のなり手も少ない。小型犬はまだしも大型犬や成犬はまず里親のなり手がいない。現町長からの話は、通常の事業を大きく上回る金銭が提示されたことで、実行へと移された。
当然ながら、不十分な環境下であり得ない手術を施された成犬の寿命は短い。そこで現町長と経営者は、引き取る成犬の絶対数を増やすため、N県内外の保健所や保護施設に手を伸ばした。収容や保護したは良いものの、その先に苦悩していた保健所や保護施設は、渡りに船とばかりに経営者に成犬を引き渡した。成犬を待ち受けているのは地獄だと知る由もない。
かくして、銀狼伝説による観光資源の強化は成功して、銀狼目当てに訪れる観光客は増加した。だけど、離島という隔絶された環境と下水などのインフラ整備が後回しになったことで、観光客が激増した最近の状況を受けて、現町長は苦心していた。自業自得と言う他ない。
『狂ってる…。』
『どうもこの世界では、自分の利益のためなら他人や他の生物の生命を蹂躙して憚らない倫理観が広く存在するようです。』
『この企てが分かったのは、密漁グループに捜索させていた時、偶然宮司の電話か何かを傍受したから?』
『そのとおりです。偶然の産物ですが、社務所での電話を耳にしたことがきっかけです。その後社務所などを捜索したところ、雑な改造手術を施された多数の成犬が地下に収容されていることを発見しました。』
現町長やペットショップ経営者、そして宮司は、元々捨てられて処分されるのを待つだけだった成犬を有効活用しているという気分だろう。処分されるだけの成犬が銀狼伝説を形作り、ヒラマサ島に外貨を持ち込み、島の生活を豊かにする礎になるのだから、むしろ感謝される方だとさえ思っているかもしれない。だけどそれは、銀狼伝説を利用して処分費や里親探しの費用を浮かせ、外貨獲得と支持基盤の拡大のために犠牲になれと言うものでしかない。
今までも、ヒヒイロカネに纏わり無関係な住民や他人を犠牲にする企てがあった。今回は直接ヒヒイロカネは関係していないけど、天鵬上人こと手配犯の1人に関わる地で行われていることだから、間接的にヒヒイロカネが関係していると言える。どちらにせよ、ヒラマサ島の現職元職の町長がそれぞれの利益のために様々なものを利用していること、特に現町長は成犬の生命を犠牲にしている。まともな神経じゃない。
『遠目には銀狼にしか見えない生物が現れたら、それの出現を今か今かと待っていた連中はどう出るか。』
『当然…追いかけるよね。』
銀狼は、そんな不穏な雰囲気と我先にと階段を駆け上がって来る人間の集団に驚いたらしく、境内の奥に逃げ込む。勿論、観光客やマスコミがその程度で諦める筈がない。人の波が遠目に見て分かる動きで銀狼神社に向かう階段を登り、境内に雪崩れ込む。
『偽の銀狼が幽閉されていた地下室は、そのままだと分かりません。演出のため、密漁グループの一部を使いました。』
境内には、密漁グループの一部が佇んでいる。勿論、シャルの懲罰で森を全裸で不眠不休で捜索させられたから、ズタズタでゾンビのような見た目なのは変わらない。そんな人物が境内に佇んでいたら観光客やマスコミは尻込みする。だけどそれは一瞬。姿が見えなくなった銀狼は何処か、銀狼を出せと騒ぎ始める。密漁グループはゾンビのような緩慢な動きで、社務所へ向かう。その動きに合わせて観光客とマスコミが社務所に向かう。社務所はそれほど広くないから、入れる人は限られる。この映像は、超小型の自由移動できるカメラで撮影されているんだろう。社務所の天井側に視点が移動する。密漁グループの1人が床の一部を操作して、ロフトに続く天井の階段を床に移動したような構造の扉と階段への道を開く。異様な雰囲気を漂わせる地下への入り口を前に、観光客とマスコミは誰が入るか口々に言い合う。
その時、地下通路の奥から光が漏れて来る。ほぼ真っ暗な地下での発光は、かなり目立つ。意を決したのか特ダネを得るためか、カメラマンがアシスタントを引き連れて地下室に突入する。少しして驚きか何か分からない叫び声が響き、アシスタントの1人が駆け出してきて「銀狼がたくさんいる!」と言う。
アシスタントの背後で悲鳴が上がり、それに続いて無数の光が駆け上がって来る。解き放たれた偽の銀狼が一斉に社務所に躍り出た。入口周辺で押すな押すなの混雑だったところに、唐突に偽の銀狼が多数出てきたことで、一気にパニックに陥る。しかも、偽の銀狼は一部将棋倒しになった観光客やマスコミに激しく吠え立て、噛み付く。当然パニックは悪化する。
『シャル。偽の銀狼に何かした?』
『いえ、私は宮司の脳を操って、偽の銀狼が閉じ込められていた檻を開放させただけです。満足に走ることも出来ない地下の檻に幽閉されていた強いストレスと、そのような環境に自分達を押し込んでいた人間に対する激しい怒りと敵意を、解き放たれた今、目に見える人間すべてに剥き出しにしています。』
這う這うの体で逃げ出した観光客やマスコミにも、偽の銀狼は容赦なく襲い掛かる。聖域の境内はさながら血の池地獄。倒れた人々は強い痛みと出血で満足に動けないようだ。噛まれた傷は複数の刺し傷のようなもの。刺し傷は皮膚の内側にも達するから治癒に時間がかかる。身体の内側には動脈もあるから、噛まれた場所によってはかなり危険だ。
『…宮司は?』
『地下の檻を開けさせたら、偽の銀狼に襲われて全身噛まれて虫の息です。穢れのない装束がズタズタで血塗れですよ。』
『現町長と結託して、社務所の地下の檻に閉じ込めて、杜撰な改造手術をされて観光の餌にしていたから、偽の銀狼の恨みを買って当然か。』
『処分される運命だった畜生が人の役に立てるだけありがたいと思え、とか言っていたそうですから、扱いは相当酷かったようです。実際、過去に犠牲になった偽の銀狼の白骨も檻の中にありましたし。』
『!埋葬すらしてなかったの?!』
『穢れのない境内に穢れた死体を埋めるなど笑止、とか言っていたそうです。』
もしかしたら、餌の費用すらケチって碌に食べさせないことで、共食いをせざるを得ないほど飢えさせられていたかもしれない。仲間を殺して食わなければならない絶望や屈辱、悲しみや怒りは想像するに余りある。畜生に感情などないという思い上がりが、偽の銀狼達に耐えがたい精神的苦痛を与えていたことは十分あり得る。
『どれだけ敷地や儀式で穢れを嫌い祓っても、腐った性根は祓われるどころかそのまま増殖していたようですね。』
『一番穢れていたのは宮司や現町長だったってオチか…。』
『宮司は全身噛まれて一部は食いちぎられましたし、現元両方の町長にはN県県警が逮捕状と捜査令状を請求したそうです。既にN県県警の一部が出向いて任意の出頭を求めています。逃げ場はありません。』
『このままだと死者が出るよ。』
『そのようですね。』
『シャル?』
『私の役割はヒロキさんのサポートと護衛、そしてヒヒイロカネの回収作業です。極端な話、ヒロキさんさえ無事なら他の人間が生きようが死のうがどうでも良いことです。』
『だけど、このままじゃ…。』
『偽の銀狼を鎮めるのは人間では不可能です。追い回されて噛み殺されるか、あるいは…。』
だけど、僕はそう簡単に切り捨てられない。その他大勢にも人生があって、同居別居は別として家族もいるだろう。腕や足、更には顔にも深手を負った様子や入院して満足に動けない様子を見せられる家族や友人は辛いだろう。どうやってシャルを説得するか。
『鎮まれ!!』
脳内に僕の声じゃない、シャルの声とは明らかに違う低い叫び声が響く。『この声は?』
『偽の銀狼達を唯一鎮められるものがいるとすれば、本物だけです。その本物の発声を翻訳して音声化しています。』
『お前たちの怒りや悲しみ、憎しみは十分理解できる。なす術なく仲間が息絶えていく様を見せられ、人間によって不本意に自分の肉体を操作されたのは、私も同じだ。お前たちを道具とした人間に報復することは止めはしない。だが、それ以外の人間に怒りや憎しみを向けるのは筋が通らぬ。』
『…。』
『それに、人間に怒りや憎しみをぶつけても、肉体は元には戻らない。肉体に埋め込まれた不可思議なものを取り除けるわけでもない。だが、お前たちが人間への無差別攻撃を止める代わりに、私はお前たちが背負わされた重荷を取り除き、残りの生命を全うできる機会を与える術を知っている。』
『それって…。』
『同志よ。私の声が聞こえるか?聞こえる筈だ。そうする術を施していったのだから。』
『は、はい。勿論聞こえています。』
『私がこの森に残るかどうかは、まだ決めていない。しかし、私とは異なり、杜撰な方法で肉体に重荷を背負わされた同胞達を救ってもらいたい。貴女なら出来る筈だ。』
『分かりました。信頼できる組織を派遣し、貴方の同胞を救助させます。その上で身体に埋め込まれたものを確実に除去させ、貴方や貴方の同胞を苦しめた人間から隔絶された安住の地を提供することをお約束します。』
『感謝する。聞け!間もなくお前たちに救いの手が差し伸べられる!此処で待て!お前たちは確実に救われる!この私が保障しよう!』
予想外の形で混乱は収束に向かう。シャルが早速SMSAに偽の銀狼達の救助と移送を要請する。ヒヒイロカネをはじめとする特殊物質の管理を担当するSMSAが成犬の保護活動を手掛けるのはイレギュラーだろうけど、SMSAに任せれば安心だ。
『噛まれた観光客やマスコミはどうするの?』
『銀狼を目撃したかもしれないので、偽の銀狼達を救出するついでにSMSAに銀狼に関わる記憶を消去させ、最低限の応急処置をさせます。』
『死なないなら良いか。』
『大量の出血は勿論、噛まれた傷は組織の奥深くに達しますから、傷跡が残る確率が高いです。更に、不衛生な環境下で軟禁されていた動物に噛まれた以上、出血や傷だけでは済まないでしょう。』
インフラ整備が後手後手に回る中、銀狼を餌に観光客を呼び込み、更に銀狼を人為的に創り出してまで外貨獲得に執念を燃やした現町長。現町長の足元を掬おうと物資を秘密裏に独占し、賄賂に転用していた元町長。現町長と結託して社務所の地下に地下牢を作り、杜撰な環境と手術で偽の銀狼を作り出していた宮司。
私有地を占拠してまで銀狼の撮影、すなわち視聴率と発行部数に執着したマスコミ、あわよくば捕縛してひと財産築こうと目論んだ観光客。欲望の坩堝と化した島は今、血みどろの惨事に直面し、今後は重い代償を払わされることになるだろう。現町長の辞職、現元町長の逮捕送検は不可避だろうし、各地区の区長なども相応の罰を受けるだろう。偽の銀狼達の激しい報復を受けた観光客とマスコミは、生命に関わる感染症の恐怖におびえながらの長い入院・通院生活を強いられるだろう。
『そういえば、密漁グループは?』
『用済みですので、解放してシベツジ港に捨ておきました。』
何だか…、今回は今までの旅の中で一番後味が悪い。ヒヒイロカネが見つからなかったことよりも、人間の最も醜悪な部分を寄せ集めたかのような実態と、声を上げることが出来ない動物を犠牲にしていたことに直面したからだろう。旧来の地縁血縁のしがらみを使った選挙と新しい風を吹き込む選挙という新旧構図じゃなくて、現元両方が自分の利益のためなら生命も尊厳も踏み躙って憚らない醜悪さを孕んでいた。
銀狼神社の宮司が悪事に手を染めていたのも重大だ。シャルの皮肉どおり、穢れを嫌い祓う筈の立場の人間が穢れていた。これまでも寺社仏閣の長が悪事に手を染めていた事例はあったけど、醜悪さは今回が群を抜いている。宮司も動物愛護法違反などの容疑で逮捕送検されるだろう。そうなると銀狼神社の存在も危うくなるかもしれない。
寺社仏閣は災害や放火、戦災を除くと破壊や廃止の対象になり難いとはいえ、絶対じゃない。後継が途絶えたり、収入が途絶えて維持できなくなった寺社仏閣が、近年も打ち捨てられて廃墟になっている。否、少子高齢化社会で限界集落なんて言葉が普通に出てきて、その状況にある集落も続出している状況で、氏子や檀家といった、一定数の人口を前提とした収益システムが成立しづらくなっている。
これから先の銀狼神社がどうなるかは僕には分からないけど、今回の流血の惨事は銀狼神社にとってマイナスの方向に作用する気がする。だけど、銀狼にとって、銀狼神社は自分の名を冠した建造物であって、聖域でも何でもない。銀狼は1200年以上生き続けた森への愛着を断ち切ったら、この世界を後にするだろう。それで良い。寺社仏閣とて人がいなくなったり、維持できなくなったら消滅するものだ。寺社仏閣だから未来永劫残さなきゃならないことはない。
『ヒヒイロカネはありませんでしたが、手配犯の1人と共に通過したのは確実です。貴重な情報がいくつか入手できたのは収穫です。』
『ご神体の不可思議な模様のこと?』
『それは勿論ですし、天鵬上人こと手配犯が史実とは異なり、ヒラマサ島を経由して日本に戻ったという情報は、手配犯の足取りを追う重要な手がかりになります。』
天鵬上人は史実とは違ってヒラマサ島経由でオオフクヤマ港からF県に入った。当時からオオフクヤマ港は他の地域を航路で結ぶ重要拠点だった。史実のルートと実際のルートでは、かなり時間差が生じる。一旦オオフクヤマ港に移動するか、オオフクヤマ港から直接移動したかで、天鵬上人の後の足取りは大きく変わって来る可能性がある。
天鵬上人が逆鉾山にヒヒイロカネを隠した可能性はかなり濃厚だ。問題はそのルートと時期。史実だとイツシマ列島から入ったとなっているけど、それがヒラマサ島経由で入ったとなると、帰国に要する時間が大きく変わる。蒸気機関なんて概念すらない時代、風と潮の流れに頼るしかなかった航海の時間が全然違ってくるからだ。
ヒラマサ島経由のルートだと、中国を出国して日本に帰国するまでの時間が史実よりかなり早くなる。最短でも2,3か月、長いと半年とか。現代の感覚だとあり得ないずれだけど、風と潮の流れしか駆動手段がなくて、天候による難破の危険も現代とは段違い。現に、往路は本来の目的地から大幅に南にずれた上に、到着までひと月を要している。地図で見れば、現代なら船でも1日2日で到着できる距離なのに、だ。
そのずれを利用して、真のルートであるヒラマサ島経由で帰国して、先にヒヒイロカネの隠し場所として目星をつけていた逆鉾山あるいはその近くに移動していたことが考えられる。元々私費留学生として、しかも時の桓武天皇から秘密資金を受けた密使として活動していた天鵬上人が、秘宝中の秘宝と言えるヒヒイロカネを抱えたまま都に入る機会を座して待っていたとは考えにくい。
古代日本に逃げ込んだ手配犯によって、寺社仏閣がヒヒイロカネの隠し場所や情報を隠蔽すると共に、聖地として容易に踏み込むことを心理的に妨害するランドマークとしての役割を担ったことは明らか。他の寺社仏閣を調査することで、逆鉾山のような事実が明らかになる可能性もある。それは同時に、この時代に逃げ込んでいる手配犯Xより先に1つでも多くのヒヒイロカネを回収し、Xとの対峙をより優位にするためでもある。
Xはヒヒイロカネを量産できる体制を有していない。量産できる体制があるなら早々に量産して、軍事と政治、そして宗教に取り入るか乗っ取るかで世界を支配しようとする。実際、ヒヒイロカネが支配者の証として継承あるいは争奪の対象となっている財務省など霞が関では、ヒヒイロカネが少量しかないことの裏返し。量産されているなら継承や争奪の優先度は金銭と同等になる。
Xを含む手配犯がいた世界で連中が目論んでいたことを平たく言えば、世界征服。ヒヒイロカネが文明の利器の1つであり、製造から使用まで頑強に管理されている世界と違って、この世界ではオーバースペックの神器だ。この世界に散らばったヒヒイロカネをより多く集めることが、世界征服の土台を強化することに繋がると言って良い。
天鵬上人こと手配犯の1人は、情勢を読んで世界に順応し、持ち込んだヒヒイロカネを逆鉾山に隠した。それだけでなく、地形を巧みに利用し、寺社仏閣を容易に破壊されないランドマークとすることで、様々な情報を隠した可能性が高い。緻密に計算されたヨクニ地方の88ヵ所札所、銀狼神社と三付貴神社のご神体、容易に近づけない逆鉾山や岩殿神社などなど。
一方、天鵬上人の時代にオーバーテクノロジーが存在したことは見逃せない。典型的な例が、岩殿神社周辺のジャミング施設やピーキングアイの存在。ヒヒイロカネの製造は最高レベルの機密情報だけど、ジャミング施設やピーキングアイはそこまで高いレベルの機密情報じゃない。天鵬上人が当時の技術水準で創り出せたとは想像しづらいが、現に存在する以上、この世界の技術水準を超えた製造手段を構築し、それが世界の何処かに存在する確率もある。
『ヒヒイロカネを探して回収するのは勿論だけど、その痕跡や手掛かりも出来るだけ集めることが、Xより早く多くヒヒイロカネを回収することに繋がるってことだね。』
『はい。世界をつぶさに捜索するようなことになるかもしれませんが。』
『資金は十分あるし、僕とシャルは独りじゃない。協力して知恵を出し合って、一緒に探して集めて行こう。』
『はい。』
ふと後ろを見ると、島がどんどん遠ざかっている。今回も半月以上滞在して、捜索の合間に88ヵ所札所巡りで島をほぼ一巡りした。島を巣食っていた腐敗は鼻が曲がるほどの腐臭を放っていたけど、島に息づいていた人々の生活はゆったりした時間の流れに漂う心地良いものだった。魚介類を中心とする料理は美味しかったし、悪酔いする印象が強かった焼酎にも美味しいものがあることを知った。
スマートフォンの画面を消してジャケットのポケットにしまう。澄み切った青空は、今は何となく皮肉めいたものに見える。次の候補地は何処だろう。次は何が待っているんだろう。次は…腐敗や堕落とは無縁でヒヒイロカネの捜索と回収に専念できると良いけど…。