『-そして天鵬上人は、所謂『空白の7年間』で、仏教知識の習得と並行して、ヒヒイロカネを長期間確実に隠蔽できる場所を探していた。それが…逆鉾山。』
『はい。これもまったく同じ見解です。』
私費留学生の天鵬上人は、朝廷の公認こそなかったけど、それが逆に自由な行動を可能とした。元々は官僚として朝廷に入り込んだ天鵬上人は、僧侶であることが渡航と活動に有利と知り、僧侶の知見を得ることにした。その修行の軌跡がヨクニ地方に伝わる88ヵ所巡礼だけど、その過程は同時にヒヒイロカネの隠蔽場所の捜索の旅でもあった。
今でもヨクニ地方は交通の難所が多い。ごく一部の例外を除いて基本的に徒歩しか移動手段がなかった時代、ヨクニ地方を巡るには相当な時間を要した。天鵬上人は仏道修行と銘打って故郷があるヨクニ地方を巡る際、立ち入りが困難で神聖化できる場所を見出した。それが逆鉾山。天鵬上人は持ち込んだ知識と技術で、逆鉾山を聖地として出来るだけ遠ざけると共に聖地を拝するように、特に逆鉾山から見て東西南北、北東北西南東南西に位置する8ヵ所だけ、逆鉾山を拝するように札所を配置した。
天鵬上人となる手配犯の1人は、自分が持ち込んだヒヒイロカネは勿論、中国渡航で得たヒヒイロカネを長期間確実に隠蔽できる場所として、逆鉾山を定めた。そして、史実とは異なる新羅→アイジマ列島→ヒラマサ島→オオフクヤマというルートで帰国し、途中でヒラマサ島に銀狼神社を建立し、捕縛した狼に特殊な手術を施して銀狼とした。史実での帰路とされるイツシマ諸島に明星寺を建立させ、そちらを帰国ルートと印象付けることで本来の帰国ルートを隠蔽した。それは取りも直さずヒヒイロカネの隠蔽のため。
天鵬上人が帰国した頃、天鵬上人を中国に送り込んだ桓武天皇が崩御し、朝廷では皇位継承を巡る対立があった。桓武天皇の実子である平城天皇を擁する藤原薬子(くすこ:女性)を輩出した藤原式家と、同じく桓武天皇の実子である嵯峨天皇を擁する藤原冬嗣を輩出した藤原北家の対立でもあった。この対立は結局、藤原薬子は平城上皇を煽って平城京への再遷都と重祚(ちょうそ:一旦退位した天皇が再び即位すること)を宣言した「薬子の変」-最近の研究では平城上皇の方が主体的に動いたと見られることから「平城太政天皇の変」と呼ぶ-を、嵯峨天皇が坂上田村麻呂を派遣して武力衝突を回避しつつ鎮圧したことで、嵯峨天皇、つまり藤原北家の勝利に終わった。
この「薬子の変」もしくは「平城太政天皇の変」という政権内部の対立の前、天鵬上人を教育した阿達大足が教育係を務めた、やはり桓武天皇の実子である伊予親王が、時の天皇であり実兄でもある平城天皇への謀反を計画したとして親王を剥奪・幽閉され、無実を訴えて憤死している(807年)。一方、天鵬上人の帰国は806年で、嵯峨天皇の即位は809年。天鵬上人が20年の予定を2年に繰り上げて帰国し、シンザイ市に2年間据え置かれたのは、中国渡航の後ろ盾である桓武天皇の存命中に急遽帰国しようとしたが間に合わず、その後の政権安定化まで待機を余儀なくされたと見るのが自然だ。
桓武天皇が早くから認めていた嵯峨天皇の時代になって、天鵬上人は朝廷の宗教顧問という位置づけで重用され、天道山菩提浄寺の開発許可など様々な便宜を受けた。いわば中央政府公認の宗教家としての地位を確立した天鵬上人は、天道山菩提浄寺の建立と合わせて、逆鉾山を拝するように88ヵ所巡礼の札所を配置し、道中当時の水準から大きく乖離した技術や知識で治水や病の治療に尽力して地方での名声を固めた。そして聖地とした逆鉾山にヒヒイロカネを秘かに隠し、後の時代に逃げ込んだであろう手配犯の仲間に託すことにした。
現在の歴史の定説や信者から見れば、天鵬上人を侮辱するような仮説ではある。だけど、当時の宗教は中央政府と一体になり、時には癒着や強訴で中央政府に影響を与えるブレーンであり、密使やスパイは古今東西存在する。天鵬上人に纏わる不可解な謎の多くは、朝廷から秘密資金を受けて活動していたという仮定で合理的に説明できるのも事実だし、誇張があるとはいえ、天鵬上人が卓越した能力で各地の問題を解決して、民衆の生活向上に大きく寄与したのは事実。朝廷の密使として活動したことをもって天鵬上人が完全悪とするのはあまりにも早計だ。
手配犯の能力や考え方は様々だけど、天鵬上人となった手配犯は、かなりの状況分析能力と順応力があったようだ。単純に人里離れた奥地にヒヒイロカネを隠すんじゃなくて、語学力や博識を活用しての時の政権への参入、仏教が渡航に有利となれば関連知識を含めて早期に習得、知見を活用して政権のみならず民衆の強い支持を得て後世に繋げる、といったことは、単にヒヒイロカネを利用して覇権を狙うという安直な考え方では及ばないところだ。
同時にそれは、手配犯がこの世界の歴史に深く介入してしまっていることを示している。手配犯=天鵬上人となったことで、シャルが創られた世界から天鵬上人が生きた時代に入り込んで天鵬上人の身柄を拘束したら、天鵬上人がいなくなってしまう。そうなったら、天道宗は勿論、88ヵ所巡礼とその札所、更にはそれをヒラマサ島に模した88ヵ所札所も存在の立脚点を失う。更には天鵬上人の影響を強く受けた桓武天皇や嵯峨天皇の思想的背景も怪しくなる。つまり、歴史の大幅な改変になってしまう。
SMSAがこの世界に要員を派遣して手配犯の追跡や身柄確保に積極的でないように映るのは、歴史上の人物として成り代わってしまって、手配犯を捕縛することが逆にこの世界の歴史を改竄することになるからだろう。だから、歴史の流れの中で今を生きる誰かに、歴史の流れを漂ってきたヒヒイロカネの捜索と回収を委ねるしかないんだろう。対症療法的な面は否めないけど、歴史を改竄すれば大変なことになりかねない。あったことがなかったことになったり、なかったことがあったことになるレベルじゃすまない。
『これまでの仮説から成立するのは、銀狼を銀狼にしたのは、秘かにこの島を訪れて一時滞在した天鵬上人。』
『これも全く同じ見解です。天鵬上人が医学にも長けていたことは事実です。』
『狼を捕らえて事実上の不老不死や全身の発光を施したのは、シャルが創られた世界の医療技術を駆使した結果だと思うけど、ヘブライ語を使えるようにした理由が分からない。どうして当時の中国語じゃなくてヘブライ語なのか。』
『天鵬上人がヘブライ語を使えた可能性があります。天鵬上人が中国に渡航した際、当時中国に存在した景教-キリスト教ネストリウス派に触れていても不思議ではありません。』
天鵬上人は中国の滞在期間中に、様々な言語や文化に触れて吸収した。梵語やキリスト教もその1つ。会話を現地の言葉で直接する方がより相互理解が深まりやすいように、文献を筆者の意図に近いところで読み解くには、使われている言語を直接使用するのがより効果的だ。言語では特有の表現があって、それを理解するにはその言語を直接理解するのが一番の近道だ。
天鵬上人の中国渡航の最大の目的は、当時の最先端の仏教を得ること。これは歴史的事実として明確だ。桓武天皇の2代前、称徳天皇の代まで奈良仏教が朝廷に深く関与していた。特に称徳天皇(桓武天皇の2代前の孝謙天皇でもある)は悪名高い道鏡を重用し、道鏡を次期天皇にしようと画策して、それに異を唱えた者は皇族であっても容赦なく粛清した。これが称徳天皇まで続いた天武天皇系の断絶と、天智天皇系の復活へと繋がったのは皮肉な話。復活した天智天皇系の一番手が光仁天皇。その後継が桓武天皇だ。
光仁・桓武路線の最大の課題は、朝廷に食い込み過ぎた奈良仏教を切り離すこと。道鏡とその息子達を左遷あるいは流刑にして追放すると共に、新たな知財ブレーンとして母方の血統である秦氏や阿達氏を登用するために彼らの本拠地に近い京都に遷都することで、奈良仏教と物理的な距離も取った。また、新たな宗教ブレーンにすべく天鵬上人や清明上人を中国に派遣して、新しい仏教を得させた。それが天鵬上人が開祖である天道宗であり、清明上人が開祖である大栄宗だ。
国費留学生であり当時のエリート僧侶でもあった清明上人に対して、天鵬上人は身内のコネを利用して食い込んだ私費留学生。それゆえに現地での自由度は天鵬上人の方が高かった。桓武天皇から流れた秘密資金と、元々の博識と聡明さを背景に、最先端の仏教以外の様々な知識や技術を得た。その中にはキリスト教やユダヤ教といった仏教とかけ離れた宗教もあったし、それらの言語的な基礎であるヘブライ語もあったと見られる。
銀狼が語った、自分に改造手術を施した人物が語った言葉-「神の功績を称えることを司る存在であれ」「やがて来る神の時代の灯であれ」は、聖書、特に新約聖書の内容を反映している確率が高い。新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」と知られる聖典では、神の激しい怒りによって天変地異が起こり、獣の刻印を持つ者や獣の像を崇拝した者と大淫婦バビロンが裁かれ、キリストの統治による千年王国と千年王国後の神の民とサタンとの戦い、サタンや獣などに齎される「第二の死」、そして新天新地と死も苦しみもない新しいエルサレムの登場と続いていく。
この「ヨハネの黙示録」では、光り輝く新しいエルサレムが、神の栄光と子羊自身が明かりとなることで夜がなく、そこに入れる者は子羊の命の書に名前が記載されている者だけとされている。銀狼が光り輝く様は新しいエルサレムを自らの光で照らす神の栄光や子羊を体現したものだし、新しいエルサレムに入れる資格を持つ者の名前を記載した命の書を体現したものと言える。
史実のルートと違って、より安全性の高いヒラマサ島を経由するルートで帰国した天鵬上人がキリスト教やヘブライ語の知識を得ていたなら、当然キリスト教の聖典である新約聖書も読んで理解していただろう。原語であるヘブライ語で読み解いていたら、その理解度はより高い。
天鵬上人は、やがて来る神の時代、すなわちヒヒイロカネを奪ってこの世界に逃げ込んだ手配犯の仲間によってヒヒイロカネが再び表舞台に現れ、それを使う者、すなわち手配犯とその僕(しもべ)が世界を支配する時代の到来を祈願して、新約聖書になぞらえて自ら光るものを創り出したんだろう。日本には当時羊は居なかったから、羊とある意味対を成す狼で代用したと考えられる。
『-オカルトとして一笑に付されそうな内容だけど、先入観を排除してヒヒイロカネに纏わる逃亡と追跡っていう特別な事情を加えると、かなり現実味があるね。』
『はい。繰り返しになりますが、私も全く同じ見解です。手配犯の1人が天鵬上人としてこの世界の歴史に深く関与するに至ったと見て間違いないでしょう。』
『天鵬上人を直接追跡して身柄を押さえるのは歴史の改竄になるから出来ない。そうなると、やっぱり今の時代にあるヒヒイロカネの捜索と回収っていう本来の目的に立ち返ることになるね。』
『まったくそのとおりです。』
『その観点からシャルに確認したいんだけど、密漁グループがヒヒイロカネやそれに関係する痕跡や情報を掴めた?』
『夜通し捜索させていますが、現時点では何も発見されていません。範囲が非常に広大なことと、起伏に富んだ地形と森林が捜索の障害になっています。』
『それはシャルの気が済むまで続けてもらうとして、ヒラマサ港に停泊していたフェリーの荷物の追跡調査はどんな状況?』
『こちらは非常に興味深い事実が判明しました。現町長と対立する元町長が経営する建設会社の倉庫に流れ込んでいます。』
『!』
区長に届けられた物資は、半分程度が各集落にある商店に届けられ、半分は区長が保管している。だからアシヤマ集落以外は物資がやや品不足になることはあっても、底をつくことはない。商店の品不足が生じたら区長に言えば保管してある分が出て来る仕組みらしい。
理由は恐らく次の町長選挙を見越してのもの。10年前の選挙で大差で敗れ、前回前々回と無投票だった町長選挙は、このままだと再来年に実施される。元町長は各集落の区長に恩を売って、次回選挙を有利に進める算段だと見て良い。物資がアシヤマ集落に一切流れないのは、現町長の地元がアシヤマ集落で、そこには現町長肝入りの大型ショッピングセンターがあるのと、元町長の地元がヒラマサ集落にあることから、落差を町民に見せつけるためだと考えられる。
『ありがちなのが何と言うか…。』
『これまでの利害の衝突と比較すると小物感が否めませんが、典型的な地方の小悪党と言える行動ですね。』
元町長のやり方は贈賄の疑いが強いし、これを受けて各区長が元町長への投票を斡旋するようなら収賄の疑いが強い。恐らく元町長は分かってやっているだろうけど、区長や商店の経営者は分かっていないかもしれない。地方の選挙は政策や将来構想より、後援会の大小や有力企業を抱き込んだかどうかで当落が決まりやすいものだし、有権者の贈収賄の認識はかなり弱い。元町長はそこを突いて次回選挙での返り咲きを虎視眈々と狙っているらしい。
現町長に協力する義務はないけど、次回選挙で返り咲くためにせっせと贈収賄をしている。しかも1つの集落を見殺しにすると同時に晒しものにしている。「俺に従わなければこうなる」という、「有力者」がやりがちな見せしめは、知って気分が良いものじゃない。
『これの解決というか排斥は簡単です。今もヒヒイロカネを捜索中の木偶の処分ついでに実行します。』
『密漁グループがヒヒイロカネや関連情報を発見できなかったら、この島から出た方が良いね。本筋と関係ない争いに巻き込まれかねない。』
『それが良いと思います。別に考えたいのは、銀狼をどう処遇するか、です。』
『銀狼か…。』
シャルが銀狼の抹殺を考えていないことくらいは分かる。広くて神社の敷地という性質上そう簡単に荒らされたりはしない場所にいるとはいえ、生活は決して楽じゃない筈。精神的な負担は想像以上だろう。銀狼神社の森から連れ出して、シャルが創られた世界に搬送するのが、銀狼にとって最も安全で心が落ち着く手段だと思う。
問題は、銀狼の警戒心がまだ十分解けていないこと。仲間から排斥され、人間に追われ、孤独に過ごした時間があまりにも長過ぎる。その結果、心を守るために出来た警戒心という強固な壁はそう簡単に崩せないだろう。銀狼の警戒心が溶けないまま、シャルが創られた世界に搬送するのは、銀狼の遺恨を生んで心理的負担を増やすだけの有難迷惑だろう。
僕とシャルには、十分な時間の余裕があるとは言い難い。ナカモト科学大学の一件で、学園の理事長や学長など重要容疑者が相次いであり得ない自殺をした。政権中枢にいると見られる手配犯の1人、通称Xが徐々に動き始めた確率が高い。Xとの対峙は日本の国家権力と大企業経営層など、日本の上級国民とその取り巻きや護衛との対峙でもある。本格的な対峙に至る前にヒヒイロカネを出来るだけ回収して、Xやその取り巻きからヒヒイロカネの独占と悪用という大義名分を奪いたいところだ。
『明日銀狼と会った際に、この世界からの脱出を持ちかけようと思います。』
『銀狼が受け入れるかな…。』
『可能性は高くて五分五分ですが、銀狼に現状からの脱却を提案する意義はあると思います。』
『銀狼がその場で受け入れるかどうかは別として、提案するのは良さそうだね。』