銀狼神社の混乱を他所に、札所の参拝と移動を続ける。途中、シャルが目星をつけた店に立ち寄って、飲食物を買ったり最寄りの札所周辺の隠れスポットを聞いたりする。「土地勘がないし知らないことが多いから教えてほしい」というスタンスで接すると、住職も住民も訝ることなる色々話してくれる。それは見た目外国人のシャルがいることも大きい。
「そろそろ日が暮れて来たね。」
「今日の参拝は此処までですね。」
周囲の明るさが急速に衰退していく。ヘッドライトが自動で点灯して、HUDにリアルタイム処理された透過ビューが出る。細い路地が多いから、不意の飛び出しを察知するためだ。この先進的な安全・事故防止システムはシャルだけの機能。この機能のおかげで、黄昏時から夜の細い路地も安心して運転できる。
細い路地から県道に出て、そこから例の名もなき道に入る。この頃には空も周囲も真っ暗。シャルのヘッドライトとHUDの透過ビューが頼りだ。帰路は僕が座る運転席の方が森に近くなる。果たして銀狼は現れるだろうか?ひとまず、コンタクト予定地店の駐車スペースまで慎重に移動する。銀狼以外の動物も活発化するから、油断は禁物だ。
駐車スペースに到着。今日も他の車は1台もなかった。地元の人も通らないこの道。街灯もないから外は本当に真っ暗。ライトがないと何も見えない環境は、上を見ると星空を鮮明にする絶好の環境だと分かる。冷え込みがまだ強い中、天に広がる星の海は、下界の喧騒を他所に無音の演舞を見せてくれる。
「星が綺麗ですね。」
「うん。星座は殆ど分からないけど、これだけ星が綺麗に見えるだけでも良いよね。」
『銀狼が現れました。』
肩を寄せ合って星空を眺めていたら、シャルのダイレクト通話が入る。視線は空に向けたまま。僕が銀狼を探したり、銀狼の方を見たりすると、銀狼が警戒して姿を隠す恐れがある。シャルの指示があるまで星空を眺めている体を保つのが賢明だ。『コンタクトを試みるのはシャルに任せるよ。周囲に人がいないか、監視カメラに映っていないか注意して。』
『分かりました。道路沿い1kmの範囲に人や車がいないのは現在も確認済みです。監視カメラには干渉してリアルタイムの偽造処理をしています。万一銀狼が撮影範囲内に入っても、一切その姿は映りません。』
『ちなみに、銀狼は昼間みたいに森から顔を出している感じ?』
『いえ、完全に森から出てきています。夜間の方が発光が目立つように思うんですが、それを別としても時間帯で行動範囲を変えているのは間違いありません。』
『光学迷彩付きの部隊を派遣しました。銀狼に音声によるコンタクトを試みます。音声はダイレクト通話で流します。』
いよいよ始まった。果たして銀狼とのコンタクトは可能か?『銀狼と呼ばれし者。私達の言葉が分かりますか?』
『…。』
『A person called silver wolf, do you understand our words?』
『…』
『Eine Person namens Silberwolf, Verstehst du unsere Worte?』
『…。』
『Une personne appelée un loup argenté. Comprenez-vous nos paroles?』
『…。』
『Una persona llamada lobo plateado. ¿Entiendes nuestras palabras?』
『…。』
『Lupus Argenteus dictus es. Verbane intelligis?』
『…。』
『日本語、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ラテン語の順でほぼ同じ呼びかけをしてみましたが、応答はありません。』
『日本語と英語は分かったけど、他は何が何だか分からなかったよ。』
『…!もしかすると…。שמך הוא זאב כסף. אתה מבין את דברינו?』
『הופתעתי לשמוע אותך מדבר בשפה שאני מבין.』
『こ、言葉が返ってきた?!』
『この言語が通用するなんて…。』
『どこの言語が銀狼に通じたの?』
『ヘブライ語です。』
『!!』
『さっきの応答は『貴女が、私が理解できる言語を話すのを聞いて驚いた。』という意味です。以降は、私がリアルタイムで日本語に翻訳したものをヒロキさんに伝えます。』
『貴方が、私達の前に姿を現した理由は何ですか?』
『恐らく、貴女達と同じだと思う。意思疎通が出来るか試みたかったからだ。』
『私達は、3日前に此処を訪れた時に、貴方の存在を察知しました。その時は、野生動物だろうと思っていました。貴方は、何時私達の存在を検知しましたか?』
『同じ日だ。貴方達がそこに車を止めて、この森にある秘密の通路を歩いて寺を行き来するところを見ていた。他の人間と全く異なる行動をしていることを感じて、もしかしたら私に対する下劣な好奇心などがないのではないかと考えて、接触の機会を窺っていた。』
『改めて言いますが、私達は他の人間と違って、貴方を捕らえたり危害を加えたりするつもりは一切ありません。ただ、銀狼と呼ばれる貴方に関する謎を知りたいだけです。』
『答えられる範囲でなら答えよう。念のため、距離は取る。貴女達の近くに常時遠隔で監視している機械仕掛けの目があるので、それに映りたくない。』
『貴方の希望を最優先します。まず1つ目の質問です。銀狼と呼ばれる貴方は、何時頃からこの地に居ますか?』
『私はおよそ1200年前から、この島にいる。』
『1200年前というと…天鵬上人が修行をしながら88ヵ所巡礼の札所になる寺院を建立した時期だね。』
『!天鵬上人との関係性を聞きます。貴方は、天鵬上人-天道宗という仏教の1宗派の開祖と接触したことがありますか?』
『人物の名前は知っているが、面識はない。』
『この島には、ヨクニ地方にある88ヵ所巡礼と同じ、天道宗の88ヵ所巡礼があります。何らかの関係があると思っていますが?』
『この島の巡礼とやらは、120年ほど前に天道宗とやらの信者が寄付金を募って制定したものだ。ヨクニ地方に赴かずとも天鵬の軌跡を辿れるように、と。』
代替手段であるなら、今まで巡った札所が一般的な寺というより、小さい民家か小屋のような建物が殆どな理由も分かる。120年ほど前というと、明治時代。廃仏毀釈で多くの寺院が破壊され、廃寺を余儀なくされた寺もある。しかも平地が限られる島という環境で、相応の規模の88ヵ所の札所を設けるのは、相当厳しかっただろう。だけど、信仰の深さは寺の規模や寄進の額の大小じゃない。天鵬上人の生きざまを辿るという本来の信仰の形の1つが、後世に結実したのが、この島の88ヵ所巡礼だと思う。
『色々質問してきましたが、今回は最初のコンタクトということで、次を最後にしたいと思います。…貴方はどうして発光しているんですか?』
『この島に侵入した何者かに捕まり、眠らされ、目が覚めたらこうなっていた。』
『追加の質問になりますが、貴方がヘブライ語を理解して話せるのと、その人物とは何らかの関係がありますか?』
『ある。その者が私にこの言語の使用を可能にした。もっとも、この言語を純粋な他者との意思疎通に使うのは、今日が初めてだが。』
すべての謎を解明するには時間を要する。今回は最初のコンタクト。双方、否、銀狼はまだ完全に警戒を解いてはいない。銀狼の警戒心を解きながら徐々に銀狼の謎を明らかにして、それに関係していると思われる、遠い過去に逃げ込んだ手配犯の軌跡を追い、この島の何処かにあると推測されるヒヒイロカネを回収する。段階を追って進めるのが王道だし、最善の策だろう。
『今回の意思疎通は、これくらいにしたいと思います。いきなりあれこれ聞かれるのは、貴方も違和感や不安を覚えるでしょう。』
『賢明な判断だ。私は完全に貴女達を信用したわけではない。少なくとも私への敵意や、私を拿捕するなど邪悪な意図を持っていないことは感じ取れたが、それをもってすべての警戒を解くには至らない。』
『極めて自然な思考です。他の質問は、次の機会に持ち越します。それまでくれぐれもお元気で。』
『ありがとう。初めてまともに意思疎通が出来る人間に出逢えたこの日を憶えておく。また会おう。』
本当の孤独は、家族や知人が近くに居ないことじゃない。意思疎通が出来る存在が近くにいないことだ。意思疎通が出来る出来ないは言葉が通じないこと、同じ言葉を話せてもこちらの意思が伝わらず、相手の意思が分からないこと。かつての僕はまさにこの環境下にいた。日本語を聞いて話せるのに僕の意思は全く通じず、ただ良いように使われ、動かされるばかりだった。今思い返しても、本当に孤独な時間だった。
銀狼は、僕とは比較にならない長い年月を、孤独な環境で過ごしてきた。周囲の動物に言葉が通じる筈がなく、人間も危害を加えようと迫って来るから意思疎通どころじゃない。長い時間を孤独に森の中で過ごしてきた銀狼は、今日の会話で少しでも孤独を解消できただろうか。
「燐光は本物で、銀狼の肉体が光源であることも改めて確認できました。」
シャル本体に戻って、システムを起動したところでシャルが言う。「発光のメカニズムは不明ですが、銀狼が嘘を言っている確率はかなり低いと思います。」
「ようやく言葉が通じた相手に、強い感動とかを見せなかった落ち着きぶりが凄いと思う。伊達に1200年生きてないっていうのかな。」
「まだ警戒は解いていませんが、少なくとも敵意や危害を加えるつもりはないことは伝わったようです。第1段階クリアですね。」
「シャルが多彩な言語を使えるから出来たことだよ。流石だね。」
「ヒロキさんに褒めてもらえて嬉しいです。」
少し遅い夕食を例の料理店で摂って、旅館に戻った。ドミトリーには密漁グループが屯していて、多少体力気力が回復したのかシャルを凝視していたけど、シャルは一瞥もしなかった。「眼中にない」とはこのことか。入浴して浴衣に着替えて、茶を飲みながら話す。…銀狼とのコンタクトにおける最大の謎を。
『シャル。単刀直入に聞くけど、銀狼にヘブライ語が通じるかもしれないと思った理由は何?』
『銀狼神社のご神体に、三付貴神社のご神体に刻まれた模様に酷似したものがあるとお話したと思いますが、その模様がヘブライ語の表記に類似していたからです。』
『!!』
シャルは、スマートフォンにヘブライ語の表記例を出す。確かに、模様のように見える。ヘブライ語だという予備知識がなくて、単語の間隔が不規則だと、模様だと思うだろう。シャルの説明によると、ヘブライ語はアラブ語などと同じで、右から左に文字を並べるとのこと。この表記が銀狼とのコンタクトに成功した呼びかけだそうだ。
続いてシャルは、スマートフォンに三付貴神社と銀狼神社のご神体を表示する。長い年月で風化したり欠損した部分があって見づらい、あるいは読み取れない部分もあるけど、確かにヘブライ語に似ている。少なくとも、分かる範囲では三付貴神社と銀狼神社のご神体の模様は同じタイプだ。
『驚いたよ…。まさかヘブライ語に似たものが日本の離島や交通の難所の先にある神社のご神体に刻まれているなんて…。ということは、銀狼にある意味改造手術を施した人物も、このことに関係ある?』
『まだ推測の域を出ませんが、その確率は十分あると思います。』
『謎は更に深まったね。どうしてヘブライ語の痕跡が銀狼神社や三付貴神社にあるのか、誰が銀狼に改造手術を施したのか、その目的は何なのか。考えるだけでも色々出て来る。発光する上に1200年も生きる改造手術っていうこと自体、想像もできないし。』
『これも現時点での推測ですが、驚異的な再生能力を付与されたと見ています。』
また、野生動物は病気や怪我が時に致命的なことになる。薬もなければ病院もないから、自然治癒しなかったらハンディを負って生存確率が低くなるリスクがあるし、最悪死に至る。病気や怪我をしたらそれを自分で完全に治癒する能力があれば、野生動物は長く生きられるだろう。そういった能力が、改造手術によって施されたんだろう。
餌をどうしたかは推測だけど、強力な再生能力を得て、否、持たされたことで、他の狼が寿命や怪我や病気で死んでいく中、生き残ったことで、獲物をある意味独占できる環境が出来たと考えられる。狼が絶滅した地域では、草食動物が増えすぎて農作物の被害が増大して、わざわざ外から狼を持ってくる事例もあるくらい、狼は森の食物連鎖の最上位に君臨する動物だ。仲間であり生存のライバルでもある他の狼がいなくなれば、獲物は独占状態になるだろう。
『言葉を話すようにさせられた理由が、いまいち読み取れないな…。しかもヘブライ語なんて、分かる日本人はごく僅かだろうし。』
『これも推測ですが、日本人を対象にしてのことではないと思います。』
『ヒラマサ島も日本の領土なのに?』
『日本人を相手に意思疎通を図るのが目的でなければ、日本語である必要性はありません。むしろ、日本人が縁遠い言語の方が都合が良いです。』
『スパイか何か?』
『はい。銀狼がそれを認識しているかどうかは別ですが。』
でも、スパイにするならわざわざ狼を捕縛しなくても、島の住人を適当に拉致する方が楽だと思う。狼の機動力は人間より高いだろうけど、明らかに人間とは異なる形態だし、狼が実存して恐れられていた時代だと地域への潜入も難しい。スパイは対象がいる国や地域の住人として溶け込む必要がある。わざわざ森に来て情報のやり取りをすることはまずないだろう。
この辺の事情を銀狼が知っているのかは不明。銀狼にしてみれば、今日話していたように「ある日捕縛されて、目が覚めたら不老長寿の身体になっていた」というレベルかもしれない。その辺の事情や経緯を銀狼から聞き出すには、まだ銀狼の警戒心が強い。徐々に警戒心を解きほぐして、場合によっては銀狼の要求を受け入れることも必要だろう。
銀狼に改造手術を施した人物が、何処から来たのか、何を目的に島を訪れたのか、何処へ向かったのか、といった疑問もある。何しろ1200年前のこと、しかも秘密裏に行われたであろうことだ。記録が残っていることには期待できない。謎は広く深くなった。だけど、ヒヒイロカネの捜索と回収とかけ離れるようなら、深入りしない方が良いだろう。古代史の謎を追って解明することが、この旅の目的じゃないから…。