まず、銀狼目当ての観光客は、フェリーが入港した港があるアシヤマ集落に集中している。大型ショッピングセンターが港の敷地内にあるし、旅館や飲食店も潤沢だから、人はおのずとアシヤマ集落を拠点にする。夜になると一斉に宿を出て、銀狼探しに奔走しているけど、街を少し外れれば街灯すらない環境だから道は分からないし、足元もおぼつかないから躓いたりは日常茶飯事。時には足を滑らせて骨折や捻挫をする人も出て、島唯一の総合病院は、島外の人の治療や入院の対処に追われている。
島の人は、やはりというか、大半は銀狼の存在を疑問視している。銀狼神社自体は誰でも知っていて、その由緒も暗唱できるレベルで知られているけど、あくまで伝承であって、島に狼が住んでいる形跡はないし、この島は狼が集団生活と広大な縄張りを維持して生息できる環境じゃないという見解だ。
にもかかわらず、町を挙げて銀狼ブームを作り出そうとしているのは、町長が外貨獲得を強力に推進しているから。この町長はヒラマサ町の出身で、高校から島外に出て進学・就職して、大手メーカーの管理職を経てUターンして、観光会社と建設会社を融合させた会社を起業した。
町長は「自立できる島暮らし」「人を呼び込める島と町」をスローガンとして、国や県の補助金を活用して港湾や道路、住宅地やインフラの整備を進め、ついにはアシヤマ集落に大型ショッピングセンターを誘致した。それが契機になって、アシヤマ集落を中心に住宅地が整備され、そこに行きやすいように道路が整備されたことで、集落間の往来が活発になった。
そして今から10年前、町長選挙に立候補し、現職を大差で破って当選した。ヒラマサ町が人口増加に転じ、これまでフェリーで渡った先にしかなかったショッピングセンターや量販店の誘致で住民の生活水準や利便性の向上、銀狼神社をはじめとする、島としてはかなり異例な数の寺社仏閣や新鮮な魚介類を前面に出した観光や漁業の振興は、ひなびた離島の1つという現状維持に甘んじていた現職を破る材料に事欠かなかった。
2年前、銀狼神社近くで銀狼が目撃されたという情報は、新たな起爆剤を欲していた町長にとっては福音だっただろう。「銀狼伝説の島」「銀狼の町」と打ち出し、町長自ら海を渡って、全国メディアの支社があるF県で記者会見まで開いた。結果、観光客は大幅に増加して、町の外貨獲得に大きく貢献している。
一方で、島の生活とは無縁な島外の人が大挙して押し寄せたことで、食品や日用品が慢性的に不足するようになった。それ以外にも、銀狼目当てに夜に繰り出すことに伴う喧騒、若い女性への無遠慮なナンパや痴漢、酔った勢いでの喧嘩、ゴミの不法投棄による海の汚染-などなど、負の側面も多く生じてきている。町長は物資運搬の貨物船をチャーターしたり、観光客に食品や日用品の持ち込みを推奨する呼びかけをしているが、まだ日が浅くて事態の改善には至っていない。
『外貨獲得を推進して島の生活水準は確かに向上したけど、キャパシティを超えてマイナスの要素が噴き出してきたって感じだね。島の人も町長の評価は複雑なようだし。』
『はい。道路はかなり整備されましたが、人口や観光客の増加に対して下水道の整備が遅れています。ごみ処分もそうですが、廃棄物や汚物の処理は処分場の立地の問題もあって二の次になりがちで、それは外部との行き来が実質船に限られる離島では深刻な事態に繋がることがあるという典型例ですね。』
『物資を買い込んで正解だったね。島に渡る前に食品や日用品を相当量買い込んできたって言ったら、態度が明らかに変わった人も結構いたし。』
『大型ショッピングセンターや量販店を誘致したことで、物資は以前より潤沢になったでしょうけど、観光客の大幅増加を賄えるだけのキャパシティはないようです。島の人が自分達の生活を脅かされるのでは、と警戒するのも無理からぬことです。』
『島の人が存在に懐疑的な銀狼を前面に出した観光施策を進めているから、これから軋轢や不満が噴出するかもしれないね。』
『それはあり得ますね。』
まだ不満や軋轢は表立ってはいないけど、この状況が続くと島の人は生活に不便を強いられ続けることに、「町民より金が大事か」となるかもしれない。町長が有効な手を打たないと、次の町長選挙で有力な対立候補が出たら一気に失脚する恐れもある。首長や議員は落選すればただの人、だ。
町の様子や銀狼、そして町長に対する町民の見方は凡そ掴めた。焦点はやっぱりヒヒイロカネと、同じ旅館に泊まっている集団の目的。ヒヒイロカネはまだ見つかっていないけど、集団の目的は掴めた。シャルの予想どおり、密漁とあわよくば銀狼を捕獲すること。
銀狼を捕獲できれば、一獲千金も夢じゃないだろう。日本では絶滅したと認識されている狼が生きていて、しかも銀色に輝くという希少種。動物園や大学などが引き取りのために巨額の金を提示してきても不思議じゃない。金と引き換えに渡してしまえば、銀狼の行く末はどうなっても良いと考えているだろうし。
陸の狼がだめなら、海の魚介類がある。島の人に聞いた話だと、このヒラマサ町は主力産業の1つとして漁業のブランド化を進めている。親潮に乗った鰤や鯵などをヒラマサブランドとして売り出し、ヒラマサ町を含むQ地方の他、冷蔵技術を活用して大都市に売り込み、一定の地位を築きつつある。
ブランド化する以上、品質や鮮度は重要だ。適当にブランド化しても、一時は売れてもメッキが剥がれたらアウトだ。ヒラマサ町漁協では魚介類のサイズ、重量、鮮度を厳密に管理して、一定の水準に達したものだけをブランド商品として売り出している。証明としてシリアルナンバーがついたタグまで付けられるくらいだ。
一方で、ブランド化の負の側面として、偽物や横流しといったことも出てきている。シリアルナンバー付きのタグがあるのはその対策だけど、タグも偽装できる。密漁した魚介類を秘かに持ち出し、偽物のタグをつけて高値で売り飛ばすことが、対岸のF県を中心に発覚していて問題になっている。
旅館に泊まっている連中は、どうやら密漁グループの1つらしい。1階のドミトリーに陣取って、夜な夜な出かけて魚介類を狙っているらしい。もっともこの時期海は荒いし、夜間の漁はかなり危険だから、船を出すには至っていない。それでも、埠頭や防波堤で無許可で釣りをして、それなりの収穫があるらしい。
網と違って漁獲量は少量とは言え、本来漁協、つまりは島の漁師の収入源になるものを勝手に獲らせるわけにはいかない。シャルは魚群を誘導したり、釣り糸を引っ張ってから切断したりして釣りあげられないように妨害している。それでもなお諦めずに夜な夜な密漁に精を出しているところからして、かなりの高値で売れるようだ。
その傍ら、銀狼神社周辺に赴いて銀狼の捕獲を目論んでいる。30人近い大人数だから、役割分担も容易。片方が密漁に勤しむ一方で、片方は銀狼の捕獲を目指して、森を徘徊している。とはいえ、街灯もなければ参道は1本だけ。しかも照明は祭りと大晦日以外は消されているから真っ暗。そんな中を歩き回るのは相当な制限がかかる。
当然ながら、こちらも毎日手ぶらで戻っている。だけど、こちらはあわよくば、というレベルだからか、割とあっけらかんとしている。密漁が「本業」で銀狼の捕獲はブームに乗っかったものらしい。どちらにせよ、島としては招かざる客の1つには違いない。
今日の情報収集を終えて、旅館近くの料理店で食事中。初日に行った料理店が良かったから、店を此処に固定している。店を巡るのも良いけど、良い店ならそこに固定すると、毎回探す必要がなくなる。料理のメニューも色々あるし、刺身1つでもその日の漁獲によって内容が変わる。新鮮な魚料理は癖がなくて美味しい。
「これ、注文して良いですか?」
シャルはメニューの1つを指して言う。鯵で作る崩し刺身という料理。写真を見た感じでは、ヒョウシ市で食べたなめろうに近い。なめろうはシャルも好んで食べていたから、此処で似たメニューを見つけて食べてみたくなったんだろう。「勿論良いよ。僕の分も注文して。」
「はい。」
ゆったりした食事を終えて、夜のカウハラ集落を散策する。漁港を中心とする町は、波の音以外は殆ど音がしない。漁港だけに、船が何隻も係留されている。漁港に入ってくる波に乗ってゆったり上下に揺れている。風も波も今は穏やかだ。この集落に居ると、銀狼騒ぎが別世界のことのように思える。銀狼騒ぎの中心であり、ヒラマサ町最大の集落でもあるアシヤマ集落とは、銀狼神社を挟んで島の反対側に位置する。それだけでこんなに違うものなのか。
冷え込みが厳しくなってきたし、そろそろ旅館に戻ることにする。旅館への道を歩いていると、複数台の車とすれ違う。どれもワンボックス。かなりスピードを出している。こんな時間に何処へ?
「例の密漁グループです。」
「よく分かったね。」
「常時監視していますから。ついさっき、銀狼神社の方で大きな動きがあったようです。」
「銀狼が姿を現したとか。」
「そのとおりです。それも、姿が分かるほどの至近距離で。」
「本当に銀狼がいるってこと?」
「狼が現存する確率は非常に低いです。いるとしたら逃げ出した犬くらいですが、ペットとして飼いならされた犬が食事も寝床もすべて自分で調達するしかなく、危険から保護されることもない環境で生きながらえるとはまず考えられません。」
「そうだよね。なのに銀狼神社に急行するってことは、それなりに信憑性が高い情報ってことかな。」
『情報がないと正確な分析が出来ないから、銀狼神社に偵察部隊を派遣して。』
『分かりました。』
翌朝、僕とシャルが朝食を食べる旅館の食堂では、ローカルTVが銀狼騒ぎを伝えている。
「昨夜午後7時頃、ヒラマサ町ナンハルの銀狼神社付近に、銀色に輝く狼、銀狼が姿を現しました。」
TVには、銀狼とされる物体の映像が流れる。かなりズームしたらしく、ややピンボケして不鮮明ではあるけど、四つ足の獣のようなものが森の中に佇み、燐光のような光を放っているのが分かる。獣は周囲を警戒している様子を見せた後、映像外からの「いたぞ」「捕まえろ」という声に反応したのか、俊敏な動きで身を翻して夜の森に消える。「-映像からは、確かに銀色の光を発する犬や狼と思われる動物が存在することが分かります。同様の映像は複数の角度から撮影されていて、銀狼が存在する確率が一気に高まった、と銀狼を探しに来た人々の熱気が高まっています。地元ヒラマサ町も情報収集を進めると共に、『伝説の銀狼が1000年以上の時を超えて姿を現した可能性が高い』として、銀狼神社一帯を自然保護区とする条例制定に向けて準備を進める方針です。」
「銀狼神社一帯は大変なことになりそうだね。」
「人の流入が加速すると、物資不足が表面化して奪い合いになる危険もあります。」
『あの映像に映っていた動物は本物?』
『断定はできかねますが、体長1m程度のイヌ科の生物である確率が高いです。』
『光も本物?』
『かなりの確率で、生物本体が発光していると見られます。』
そうなると、話を聞きつけた大学や研究機関、更にはオカルト好きな人達や興味本位の人達がヒラマサ島に乗り込んでくるかもしれない。今でも最大集落のアシヤマ集落で物資不足や昼夜を分かたぬ人の活動による諍いが生じているから、一定水準を超えたら戦争になりかねない。
渡航前に買い込んだ物資は、今のところほとんど減っていない。食事は、朝は旅館、昼は出先、夜は近くの料理店で出るし、日用品は歯磨きと僕の髭剃りで開封したものを使っている。これは旅館側にも交換の必要がないことを伝えて、驚かれると同時に感謝感嘆が返ってきた。「まだ町の推奨がアシヤマにも行き渡っていないのに、外の若い人がよく考えてくれている」と。
服は、僕はもともと数えるほどしか持っていないし、シャルは自分で創れる。下着類は随時1階のランドリーで洗濯している。シャルは今まで下着も自分で創っていたけど、長期滞在で洗濯が僕のものしかないと怪しまれる恐れがあるということで、今回買い込んで使っている。女性用下着はネットに入れないと洗濯できないというのは、これで初めて知った。かなりデリケートな作りらしい。
そんな状況だから、僕とシャルは当面物資不足で困るリスクは低いけど、物資は基本的にフェリーだけで、まずアシヤマ集落に入るのがネックになる。アシヤマ集落での消費が多いと、特にアシヤマ集落にある大型ショッピングセンターが需要を見込んで大量に仕入れて、他の集落に回ってこなくなる恐れがある。買占めというやつだけど、自称愛国者が「民度が高い」と誇らしげに言う日本では、災害が起こるたびに大小の物資買い占めが起こっているし、ネットオークションでの限定品の筈のものの転売はもはや日常茶飯事だ。「民度が高い」なんてものは、マスコミが切り取り報道する部分を見越しての行動や、マスコミが「それ見たことか」とあげつらう筈が偶々なくて平穏なまま終わったものをを挙げた、一部の姿でしかない。
服や下着はまだしも、食品や水の不足は深刻な事態を招く。特に離島という、出入りが船か飛行機しかない隔絶された環境では、物資が不足しているから車や電車で隣町まで買いに行くことが非常に難しい。物資不足で儲かるのは大型ショッピングセンターだから、島の人にとっては外貨より迷惑の度合いが強まる。益々諍いが強まり、やがて戦争へとつながる恐れは現実のものと見た方が良い。第一次欲求、すなわち生存に関わる部分が危機に瀕したら、買占めや略奪は自称「民度が高い」国民でも平気で起こす。生きるために。
『買い込んだ物資はすべて部屋に搬入していますし、水は臨時のプラントで生成できますから、十分滞在できますよ。』
『僕とシャルだけなら、ね。』
『どういうことですか?』
『この島にいるのは僕とシャルだけじゃない。物資が潤沢だってことが知られたら、略奪の対象になり得るってことだよ。』
『!』
『さらに言うなら、1階のドミトリーを拠点にしている連中のような、一見分かりやすい人達ばかりが略奪の主犯になるわけじゃない。乳幼児や老人を抱えた、弱者を自称する連中が、救済や差別を武器に物資の譲渡を迫ることも十分あり得る。』
凄まじい傲慢な考え方だけど、これがまかり通りやすい現実を、僕とシャルはカノキタ市で目の当たりにした。幼児がいるということで、市や店の膨大な援助を受けて享楽に溺れる親と、碌な躾もされていない野獣のような幼児。育児サークルを市役所に食い込ませた女と、選挙目当ての財務省主計官が共謀して実現した「子育て世帯に優しい市政」とやらがなせるディストピアだった。
「権利を逆さにすると利権になる」とは誰が言ったか知らないけど、よく言ったものだと思う。本来正当な処遇を受けたり、必要な支援を受ける資格と言える権利を逆手にとって、自己利益のためだけに濫用すると利権になる。カノキタ市は権利を利権に変えた連中が跋扈していた。「子育て中の母親」という支援が必要なことを逆手にとって、子育て中であることを利権にして、市の財政と子育て世帯以外の世帯、特に単身者を食い物にしていた。
それと同じようなことが、このヒラマサ島という閉鎖空間で起こったら、物資を奪われたという被害は「非常時」を名目に闇に葬られるだろう。非常時は弱者を標榜する者が優先される。弱者を保護すること自体は悪いことじゃないけど、弱者と自称弱者の区別は困難だ。弱者を標榜して物資を奪ったり、他人を使役することが認められるなら、それは利権と言うしかない。
『物資がある僕とシャルの部屋、もっと範囲を広げるなら、旅館全体とシャル本体の警備は警戒レベルを上げておいて。』
『分かりました。早速警戒レベルを引き上げます。』
『杞憂に終わればそれに越したことはないけど、この手の不安要素は現実になりやすいから。』
この朝の時間帯、特に早くも遅くもないと思うけど、僕とシャル以外に人は居ない。これがかえって嫌な予感を覚えさせる要因だ。食堂は広いとはいえ1か所だから、他の客室の客とも1組2組は同席したり入れ違いになったりするだろう。特にドミトリーには少なくとも20人以上の密漁グループがいるから、なおのこと僕とシャル以外誰もいないのは嫌な予感を覚えさせる。
『密漁グループは、銀狼神社周辺に屯しています。』
『昨日の夜からずっと?』
『はい。派遣した偵察部隊が存在を把握して、以後監視を続けています。密漁についてはそこそこの成果を上げているようですが、陸上は対象も地形も海とは勝手が違いますから、基本テントを張って交代で見張りという名の見物をしている程度です。』
『深い森に1頭いるかいないかの狼を捕らえるなんて、罠でも仕掛けないと無理なんじゃ。』
『狼は夜行性で警戒心が強い動物。しかも嗅覚が優れていますから、素人知識で配置した罠は簡単に見破られます。』
それにしても、テントを張って交代制にしてまで監視をするんだから、銀狼捕獲での一獲千金は相当な期待があるんだろう。日本では絶滅して100年以上経つとされる狼が実存して、しかも銀色の光を発するとくれば、見たこともないような金額で売れる見込みは十分ある。そんな一攫千金にかける意気込みは、共感はしないけど理解はできる。
『銀狼神社周辺の混雑は凄い?』
『はい。銀狼目当てで島に来た人は、ほぼすべて銀狼神社周辺にいます。銀狼神社とヒラマサ町は、銀狼神社周辺の森は銀狼神社の所有であること、参道以外道路がなくて危険が多いことから、参拝者以外は銀狼神社に立ち入らないよう広報車を走らせて要請しています。』
『流石に町も観光客だからと大目に見る状況じゃないか。』
『周辺の田畑や駐車場などに無断でテントを張る-例の密漁グループもそうですが、そういう連中が続出していて、昼夜問わず騒いだりゴミを放置するなど、アシヤマ集落の不満が高まっています。銀狼神社に直接近づかない方が良いですね。』
シャルの話からして、銀狼目当てで島に来た人の多くは、ショーか何かのような気分なんだろう。だから、その人達から見れば、集落の店や旅館は祭りの出店みたいなものだろう。だけど、大型ショッピングセンターはまだしも、田舎にある商店はその商店を営む人が生計を立てるための商売だ。そしてそれを生活のために利用する人がいる。島や町としては大きいけど、集落の規模はさほど大きくない。だから、そういった店にある物資の量は町を、否、集落を維持する程度だ。そこに観光客が大挙して押し寄せたらどうなるか。
銀狼の信憑性が高まったことで、更に島に押し寄せる人が増えるだろう。物資は勿論、インフラの供給に限界が来る恐れが強まる。上水道もさることながら、下水処理がキャパシティをオーバーして、使用不能に陥る危険もある。日本は上水道の普及はほぼ100%だけど、下水は首都東京でも100%に達していない。郊外に行くほど、浄化槽に集めて回収するという手段が未だ多数派なのが実情だ。
下水処理が追い付かなくなることで生じる重大な懸念は、伝染病の蔓延。一見華やかで清潔な印象がある欧州なんて、路上にはごみが散乱しているし、パリではかつては路上に汚物が散乱していた。下水処理なんて概念もなかったし、ハイヒールは散乱する汚物を避けるため、香水は臭いを消すために創られたくらいだ。
そして、そういう衛生観念の低さが招いたのが、ペストの大流行。14世紀には欧州全体で1/3が死ぬに至ったとされる。ペストは決して過去の病気じゃない。たまたま日本で発生していないだけで、世界で根絶された病気は天然痘だけだ。衛生状況の悪化は、ペストだけじゃなくて赤痢やコレラと言った、致死率が高い伝染病が蔓延する危険がある。万一そうなったら、当面島から出られなくなる。物資も検疫されたものしか入らなくなるから、手間と時間の分だけ遅れるし量も減る。悪循環だ。そこから僕が懸念する弱者利権も使った物資の略奪が始まる危険も高まる。
『こういう状況下で最悪のシナリオを想定しておくのは良いことです。ただ、考え過ぎるのは良くありません。』
『どうしても離島という隔絶された環境がね…。』
『浄水は光学迷彩付きのプラントを建設して、製造したものを海中に備蓄しています。下水処理も非常時に浄化槽から切り離して処理するプラントを準備済みです。この旅館、この集落を拠点にしている限り、衛生的な環境は十分担保できます。』
『シャルが言うなら…。』
『あと、食料や日用品は、追加補充分をマスター名義で発送してもらいました。万一島への物資供給が途絶しても、3か月は不自由なく生活できます。もっとも、そうなる前にSMSAに救助を要請しますから、映画やドラマのように隔絶された環境に長期間閉じ込められることはありませんよ。』
『そうですよ。私がいるんですから、安心してください。』
シャルは僕の脳に直接言葉を送り込んで、僕に向かって微笑む。僕の正面に座って朝食を食べている女性は、戦闘機も戦車も戦闘ヘリも、浄水プラントや水素プラントも創れてしまうんだよな…。