「港?」
シャルの誘導で駐車したのは、割と大きな港に近い駐車場。高速道路から一般道を辿った先で、港に入るとは思わなかった。「ここから船に乗って移動する必要があります。」
「船で移動ってことは、目的地は島?」
「はい。ヒラマサ島、町名も分かりやすくヒラマサ町。『銀狼の町』と言われています。」
ヒラマサ町には、天翔ける銀の狼が降り立ち、それまで島に巣食っていた巨大な毒蜘蛛を対峙したという伝説がある。銀の狼を祀る神社-銀狼神社が島の中央に鎮座して、年1回、春に行われる銀狼祭では、銀色の飾りつけをした神輿を担いで、供え物である肉を献上するため坂道を駆け上る勇壮な催しがある。
日本では、かつて確かに狼が存在したけど、絶滅した。今でも散発的に目撃情報があるけど、集団生活を送る狼が群れを維持するだけの個体数があるとは考えにくいこと、えさとなる動物と縄張りとなる里山の減少、狂犬病対策としての野犬狩りなどから、絶滅したというのが定説だ。
ところが、このヒラマサ島で、月明かりを受けて銀色に輝く狼を見たという目撃情報が相次いでいる。ヒラマサ島は、中央の銀狼神社を守るように深い森が今も多く残っているけど、島という限られた面積の中で、狼が主を維持できるだけの個体数を維持できるとは考えにくい。だけど、目撃情報は多数に上っていて、不鮮明ながら動画や写真も撮られている。
それらの解析でも野犬か何かの誤認だと見られているけど、野犬はそれこそ狂犬病対策で日本ではほぼいなくなったし-野犬が普通にいる海外では犬にうかつに触れてはいけないという-、犬という雰囲気じゃなかった、神々しさは伝説の銀狼としか思えない、と目撃者は口々に語っている。
「ということは、今のヒラマサ町は銀狼を見ようって人でいっぱいなんじゃ?」
「察しが良いですね。ヒラマサ町は銀狼特需とばかりにセールやツアーを実施しています。銀狼神社以外めぼしい観光スポットがなかった町は、千載一遇の機会と位置付けているようですね。」
『今回は、銀狼とヒヒイロカネに何か関連があるかもしれないってこと?』
『はい。直接間接や所在の有無は現段階では不明ですが。』
「チケットは手配してあります。こっちです。」
シャルの案内で、近くの管制塔のようなビルに向かう。その1階は人で溢れかえっている。荷物の多さからしてかなりの割合でヒラマサ町に行くんだろう。こんな状況でチケットを受け取るだけでも時間がかかりそうだけど、シャルは混雑するエリアを横目に、奥にある券売機の画面にスマートフォンを翳す。券売機の画面の枠が緑に替わり、軽快な電子音が流れる。領収書らしい紙が横のスロットから出て来る。シャルはその紙を受け取って、僕に向き直る。
「これでチケットの受け取りは完了です。あとはターミナルから乗船するだけです。」
「チケットレスなんだね。さっきの紙は領収書?」
「それも兼ねています。チケット情報を転送したスマートフォンなどを紛失した際の代替です。」
次の乗船は2時間後。フェリーだからシャル本体も載せていける。遠隔のエネルギー伝達が可能とは言え、距離があるとどうしてもロスが生じる。滞在期間中にシャル本体に水素スタンドに行ってもらうことは可能だけど、無人の車が来てノズルを接続して補給したらパニックになる。滞在期間がどれだけ長くなるか分からないから、シャル本体に乗って補給に行ける環境の方が都合が良い。
「かなり早く到着したんだね。」
「色々物資を補給しておく時間を取りたかったので。」
当然、島の人々の生活にも影響が出ている。宿も物資、特に日用品の持ち込みを推奨しているけど、啓発はまだ始まって間もないから浸透が遅れている。あと、宿なら宿泊客の食事や日用品は宿が料金と引き換えに用意するのは当然、という見解もあって-通常なら当然のことではある-、思うように進んでいない。
船旅の前後で物資を購入する人を想定しているのか、今いるターミナルビルの2階から4階がショッピングモールになっていて、食品や日用品を中心に様々な商品が売られている。1階の混雑ぶりに対して、ショッピングモールの混雑はさほどでもない。人は多いけど十分店や品物を見て回れる。
シャルは服くらい自分でどうでも出来るし、本来は入浴も洗顔も不要。だけど、島の環境に溶け込むには人と同じ生活をする必要がある。だから、日用品はシャルの分も用意しておく。あと、長期保管が可能な携帯食料など飲食物も準備しておく。航路は割と海が荒れやすいから、欠航が長期化する危険もある。現状でも物資が不足気味なんだから、欠航となれば物資の争奪戦が起きかねない。
買い込むと、かなりの量になる。持ってきたボストンバッグがいっぱいになって、急遽シャルがバッグを用意して何とか収まった。食品や日用品は、1つ1つは小さくても数がかさめば容積もかさむ。あと、下着類は畳んでも限度がある。かなり重いけど、駐車場にいるシャル本体まで運べばあとは何とかなる。
後部座席に2つのボストンバッグを詰め込む。これでおよそ2週間程度、物資は自前で確保できる。飲用水もかなり買い込んだし-基本的に消費するのは僕だけ-、それでも不足するようなら、シャルが光学迷彩付きで浄水プラントを作って補充できるというし、島の物資が底をついても何とかなるだろう。
この旅に出て、食品や日用品を買う機会はめっきり減った。大抵は宿に備え付けのものがあるし、それらは清掃時に交換してもらえる。食事は宿か外の飲食店で十分間に合う。生活スタイルが大きく変わったけど、それに違和感を覚えたことはない。順応性が高いのか低いのか、よく分からない。
まだ1時間ほどあるけど、船は既に入港している。物資が続々と搬入されている。やっぱり需要が相当増えているようだ。船便での運行と手間があるから、多分島に渡ると価格は1,2割増しになるだろう。船に乗り込む多くの人を見ていると、物資を買い込んでおいて正解だと思う。
車の乗り入れは、人が乗り込んでからになる。車は意外と多くない。駐車場や燃料を気にしてのことか、此処まで公共交通機関で来たから車がないのかの何れかだろう。他の車が少ないから、初めてのフェリーでも安心して乗り入れられる。誘導に従って桟橋を渡り、ゲートでスマーフォンに取り込んだチケットを翳して、開いたゲートを通過。駐車場というか駐車スペースは、特に指定位置はないそうだから、空いているところに止める。
「これから先は何処に行けば良いのかな?」
「デッキに出ましょう。今日は晴れていますから、見晴らしが良いですよ。」
後ろの方を見ると、物資を買い込んだターミナルビルが小さくなっていく。潮の香りが強い。海岸線に出たことは何度かあるけど、この潮の香りは海の上に居ることを感じさせる。進行方向には、海と空、そして若干の雲しか見えない。もう少し進まないと見えてこないか。
「船で海を渡るって、違う世界に行くみたいですね。」
「そんなところはあるかも。」
10分くらいシャルと海を交互に見ていたら、進行方向に何か見えてきた。三角形の頂点の1つを残して潰したような地形。あれがヒラマサ町、ヒラマサ島か。青空を背景にしているけど、何となく霞んで見えるのは水蒸気のせいだろうか。
次第に島の全体像がはっきりしてくる。三角錐を描く山をはじめ、島全体を広く多く深い森。海岸線を取り巻くように、申し訳なさそうに森に食い込む集落。かなり大きいとはいえ離島だと感じさせる。限られた平地をやりくりして、森を切り開き、生活圏を広げてきた歴史に、銀狼が浮かび上がっている。
船が次第に速度を落として、桟橋に近づく。船にとって最も神経を使う時間でもある。フェリーは人間から見ると十分大きいとはいえ、海からすれば塵のような存在。絶え間ない波に翻弄されながら桟橋に近づき、慎重に接岸する。
「乗客の皆様。長らくのご乗船、お疲れさまでした。ヒラマサ島シベツジ港に到着しました。足元に気を付けてお降りください。」
船内アナウンスで、デッキに居た人々が続々と降りていく。僕とシャルはシャル本体に乗って降りるから、降りるのは最後でも良いくらいの感覚だ。エレベーターで駐車スペースに降りて、シャル本体に乗り込み、システムを起動する。HUDに道案内が表示される。港からかなり進んで、ほぼ反対側まで行くようだ。「道は意外と広いね。」
「島の事実上唯一の交通手段ですから、生活や流通のために、まず道路を整備したようです。」
水田や畑はあるけど、少し郊外の地方都市といった印象を受ける。格段に違うのは、信号が兎に角少ないこと。これまで走った町は規模にかかわらず中心部は信号が彼方此方にあったし、それに一方通行が加わって迷路のようになっている町もあった。此処ヒラマサ町は、信号が殆どない。西の集落にさしかかったところで、ようやく1つ目の信号が出てきた。
この交差点で北に向きを変えて、道なりに北上する。広い駐車場を伴う量販店やパチンコ店、飲食店が道沿いに点在していて、水田や畑が多いくらいで典型的な地方都市という印象が強くなる。走ってみると、そこそこスピードを出しているのに移動時間が思った以上に長い。地図で見た印象よりかなり大きな島のようだ。
山間を暫く走ると、視界が再び開けて集落が見えて来る。集落というより町と言った方が良いかもしれない。国道から町に入ると、一転して道が狭くなる。コンパクトカーだからまだ走りやすいけど、この道幅だと大型車は対向車が来た時に大変そうだ。一方通行の標識の少し先をHUDが入るように指示している。それに従って運転すると、こじんまりした駐車場に入る。今回拠点とする宿の駐車場らしい。
「お疲れさまでした。チェックインして休憩しましょう。宿はあそこです。」
「これまた雰囲気の良い…。」
「いらっしゃいませ。」
ロビーやフロントも純和風。靴を脱いで、並べられたスリッパに履き替えて、フロントでチェックインの手続き。僕が名前と連絡先を書いて、カードで決済して、カードキーを受け取って完了。建物は内も外も純和風だけど、カード決済やカードキーと、設備や手続きは地方の下手なホテルより進んでいる。2人の仲居に荷物を持ってもらって、エレベーターで3階へ。階段も見えていたけど、便利さや先進性も雰囲気に合わせて取り込んでいる。今回は荷物が大きくて重いから、持ってもらえるのはありがたい。仲居の案内で部屋に到着。カードキーで開けて中に入る。
「凄いお部屋ですねー。」
「ありがとうございます。」
「お客様に1つお願いがございます。当旅館は築100年を超える木造建築ですので、夜間は一般のホテルなどより音が響きます。TVやご談笑の音量は控えめにお願いします。」
「分かりました。十分注意します。」
「ありがとうございます。では、お荷物はこちらに置かせていただきます。ごゆっくりお寛ぎくださいませ。」
『この旅館にしたのは、雰囲気や料理、サービスが良好なのは勿論ですが、銀狼目当ての喧騒からかなり離れることが出来るからです。』
シャルが茶を淹れてくれる。音が響くと言われて警戒しているのか、早速ダイレクト通話に切り替えて、TV画面に地図を表示する。大画面だとこういう時に便利だ。『銀狼の目撃情報は、銀狼神社を中心とするこのエリアに集中しています。』
『フェリーが入港した港から近いね。』
『はい。元々フェリーが入港した港がある集落、アシヤマは、このヒラマサ町最大の集落で、宿や商業施設も多く存在します。その分、この銀狼特需で人が急増して、一部では地元住民と宿泊客の諍いも起きています。今後、食品や日用品を巡って対立が本格化する恐れもあります。』
『この騒ぎとヒヒイロカネを思わせる雰囲気の中で、今回あえて離れた場所を拠点にしたってことは、シャルは銀狼の実在の可能性は低くて、目撃情報の信憑性も低いと見ているってこと?』
『流石に聡いですね。そのとおりです。』
また、目撃情報は殆どが夜間だとされているが、夜間の暗闇の中で銀狼とされている物体だけが浮かび上がるように映っているのは不自然だ。本当にこれだけ浮かび上がるように映るには、少なくとも街灯レベルの本体の発光が必要で、生物としてはあり得ない。周囲の光の反射という反論も、この光量が出せるならもっと周囲が鮮明に見えることで容易に打ち消せる。
『-他の写真や動画も、程度の差はあれ、同様です。』
『未確認生物のでっち上げ目撃情報が氾濫していて、それをヒラマサ町が観光の呼び水に利用しているって構図かな。』
『現時点では、その確率が高いです。ヒラマサ町のWebでも銀狼の目撃情報をいくつかピックアップしていますし。』
『銀狼の信憑性がかなり低いのにこの町に入ったのは、銀狼とは別に、この町にヒヒイロカネがある確率が浮上したからだよね?』
『はい。三付貴神社のご神体に刻まれていた不可解な模様と酷似するものが、銀狼神社のご神体にも見られることが分かったからです。』
『!』
もし文字だとすると、考古学的には重要な意味を持つ。同じ文字を使う集団あるいは国家が、海を2回隔てたT県とこのヒラマサ町に存在したことを意味する。しかも、現在の考古学や歴史では、今の日本語表記の原型が出来たのは「古事記」や「万葉集」が成立した奈良時代とされている。それとは異なる言語、あるいは今と異なる表記の日本語表記が存在したと明らかになれば、考古学や歴史では一大センセーションになり得る。
海を隔てていることは、移動では想像以上の障害になる。移動には船か飛行機を使うしかない。造船技術が発達した現在でも座礁や転覆は相次いでいるし、飛行機は船ほど多くの人や物資を運べない上に、飛行機のサイズに比例する滑走路を持つ土地が必要になる。更に、どちらも天候の影響を受けやすい。台風や降雪の時期の欠航は珍しくも何ともない。
飛行機が運輸手段として実用レベルに達してから、ほんの100年にも満たない。それまでの何百年以上、1000年を超える間「海を渡る=船を使う」だった。ましてや、造船技術が今より低く、船の動力は風か人力に頼るしかなかった時代に、海を隔てた場所に同じ文字を使う文化圏があったことがどれだけ考古学や歴史にインパクトを与えるか、容易に想像できる。
『確か三付貴神社は、ヒヒイロカネがある逆鉾山に程近いところにあったよね。ということは、シャルは銀狼神社かそこに近いところにヒヒイロカネがあると考えてる?』
『そのとおりです。今のところ、上空からのスキャンでは検出できていませんが、このヒラマサ町の何処かに手掛かりがあると見ています。』
『可能性はあるね。』
もうすぐ夕暮れ時だから、明日からヒラマサ町を巡ることにして、今日は夕食がてら宿があるこの集落-カウハラ集落を散策することにする。カウハラ集落は、島に食い込むようにできた湾を取り巻くように出来ている。フェリーが入港したアシヤマ集落とは違って、多くの漁船が停泊している漁港の集落という感じが強い。
アシヤマ集落には大型ショッピングモールもあったけど、このカウハラ集落にはそれらしきものは見当たらない。湾を取り囲むように作られた住宅街に、所々紛れ込むように旅館や飲食店がある。ヒラマサ町という1つの町でも、集落の規模や雰囲気は全然違う。拠点としては、こういう場所の方が寛げて良い。
漁港の集落だし、夕食は海鮮料理を主体にしたい。シャルは既に旅館から程近い場所にある料理店を予約していた。夕食には少し早い時間だからか、店内は閑散としている。奥の座敷席に通され、シャルお勧めの刺身御膳と麦焼酎を注文する。刺身はこれから捌くから多少時間がかかるそうだけど、一向に構わないし、そう返す。
先に麦焼酎と、つまみ数点が運ばれてくる。麦焼酎はシャルの勧めということで注文したけど、僕は焼酎やウィスキーといった蒸留酒がどうも苦手だ。匂いがきつめなのと、アルコール度数が高くて、悪酔いしやすいのが理由。少しずつゆっくり飲めば大丈夫かな。
「香りを楽しみながらゆっくり飲むと良いですよ。」
シャルがグラスを渡してくれる。小さい泡がひっきりなしに上昇しているから、炭酸割か。焼酎の炭酸割って初めて飲む。今まで飲んだのは水割りで、何故か凄いきつい匂いだったのを憶えている。ちょっと匂いを嗅いでみる。…あれ?良い匂い。「乾杯しましょう。」
シャルは自分の分のグラスを手に取る。シャルと軽くグラスを合わせる。離島で飲む麦焼酎の炭酸割。果たして味は…?「…今までの焼酎の記憶やイメージと違う。」
「多分、質の悪い芋焼酎をストレートか濃い水割りで飲んだんだと思います。」
「焼酎の種類は憶えてないけど、明らかに違うのは分かるよ。飲んだ感じも、前はもっとどろっとしてた。」
「炭酸水を多めにして、氷も入れましたから、度数も下がっています。ゆっくり飲めば悪酔いはしませんよ。」
少しして、刺身御膳が運ばれてきた。流石は漁港最寄りというか、様々な刺身が綺麗に盛り付けられている。定番のマグロに始まり、鰤、鯖と鯵、牡蠣などなど。そして2人でどうぞと、ヤリイカの活き作り。TVか何かで見たことはあるけど、本物を見るのは初めて。シャルの調査は今回も的確だ。
刺身を食べながら炭酸割の麦焼酎をゆっくり飲む。新鮮な魚の旨味と、仄かな甘い香りと魚と調和するまろやかな味が、炭酸と融合して口いっぱいに広がる。濃口の少しどろっとした刺身醤油も良い。シャルはヤリイカの活き作りを興味津々な様子で見ながら、少しずつ食べる。僕と同じで、「知ってはいたけど見るのは初めて」らしい。
離島に渡るのも、フェリーに乗るのも初めて。この旅は兎に角「初めて」が多い。それだけ旅に出る前の生活が単調で味気ないものだった証拠でもあるけど、こうしてシャルと向かい合って食事をすることで、あの日々やしがらみを脱して今を生きているんだと改めて実感する。
離島の初日は穏やかに過ぎていく。刺身と麦焼酎で満腹になって、酔い覚ましも兼ねて少し散策した後、旅館に戻る。僕とシャルがチェックインした時は閑散としていた旅館が、かなり賑わっている。見た感じ、客層は若い。全員男性。時期が時期だから海水浴はないだろうから、目的はサーフィンか釣りか、それとも銀狼か。
ざわめきの内容が変化して、視線がシャルに向いたのを感じる。根元までの完璧な金髪とアイドル顔負けの容貌。コートを脱いでニットとズボンのシンプルな服装で鮮明に浮かぶ身体のライン。何時ものこととは言え、僕は未だに良い気分はしない。
「エレベーターから先は絶対に来れませんよ。」
そういえば、エレベーターはカードキーがないと動かない。それを持つのは、2階以上の部屋の宿泊者だけ。階段もあるけど、途中にカードキー付きのドアがあって、非常時以外はカードキーが必要とチェックインの際に説明があった。エレベーターに乗ってしまえば良い。視線が向き続けているのを感じながら、エレベーターの「閉」ボタンを押す。乗る時とは正反対に、誰もいないロビーに出てひと安心。部屋に入ればさらに安心。部屋に入ってようやく完全に安心できる。他の客がいるのは珍しくないけど、ああいう客がいることは予想外。何かまたひと悶着起こりそうだ。
『あの日焼けサロンで誤魔化した貧相な身体だと、刺身にしても食べられたものじゃないですね。』
『いや、刺身にしなくて良いから。』
『あんな連中のことは忘れて、さ、こっちへ。』
『あんなチャチな連中に意識や時間を費やすより、私に費やしてくださいよ。』
『シャル…。』
『…音や揺れは大丈夫?』
『勿論、完全防音・防振対策済みです。この旅館は私の制御下にあると言っても良いくらいです。』
『入浴してからにする?』
『んー。今日は終わってからにします。』
僕はシャルの両腕を取って引き寄せる。シャルは小さい悲鳴を上げて僕に覆い被さる。シャルを抱いて上下を入れ替えてキス。あの連中には手が届かない、万一手が届いたらその瞬間に指がなくなる、世界屈指の、否、世界最高の女性を、僕は脱がすところから何でも出来る…。
…。
暗闇に荒い呼吸音だけが浮かんでは消える。僕が今日最後の放出を終えてベッドに身体を投げ出した時、部屋の電気が消えていることに気づいた。この部屋、否、この旅館全体がシャルの制御下にあるから、最中でも部屋の電気を消すくらいは余裕か。隣で横になっていたシャルがゆっくり身体を起こす。僕の方を見て、支えを失ったように僕の方に倒れ込んで、僕に抱き着く。僕の位置を確認してくっつくためか。シャルは、2人きりになると積極的に密着してくる。跳ね除けられるよりは、こっちの方がずっと良い。
『不穏な動きがありますね。』
シャルの声が頭に流れ込んでくる。『1階の大部屋に宿泊している連中が、大挙して旅館を出て行きます。夕食から帰った時に出くわしたあの連中です。』
『今って、遅い時間だよね?今からサーフィンは流石にないと思うけど。』
『手に持っているものがサーチライトや大小の網ですから、サーフィンではないですね。』
『銀狼を捕まえに行くつもりなのかな。狼は夜行性って聞いたことがある。』
『その可能性もなくはないですが、あまり知能の高い人間が考えることではないですね。』
『どういうこと?』
『海辺で狼よりは簡単に捕まえられて、場合によっては高値で売れることがあるものといえば…、密漁。』
『!』
漁業は未明から早朝の活動が多い。魚介類のセリは朝方だし、そこから出荷されて消費者の手に渡るまでを考えると、その方が理に適っている。だから、夜は寝静まる。この旅で初めて訪れた海辺の町ナチウラ市もそうだったように、夜に騒音を出すことは半ばタブーなのは、漁業関係者の生活パターンを考えれば至極当然だ。
密漁は、そのスキを突いて行われることが多いと言う。漁師が明日に備えて休んでいる間に、漁師の生活の糧を盗み出すんだから、非常に質が悪いし、処罰の対象になるのも当然のこと。なのに連中はその違法行為を行おうとしているらしい。わざわざ離島に渡ってまで密漁なんて、その思考回路が理解できない。
『密漁しても、運び出して売るところまで持っていくのは難しいんじゃない?』
『闇夜に紛れれば何とでもなりますよ。現に、かなり大きなクーラーボックスを持っています。』
『警察に通報する?』
『1日2日泳がせます。単なるチンピラにしては行動の統制が取れていますし、何を狙っているか特定することで、今後に繋がる可能性もあります。』
『密漁は種類と量によっては洒落にならない損害になるそうだから、うまく妨害するか逃がすかして。狙いが何か分かれば、むざむざ密漁を成功させる理由はないから。』
『分かりました。』