幸い、若くて徒歩での登山を断続的にしていたことで体力があったことで、1週間ほど入院すれば転院可能とのこと。地元の病院に転院できるよう手続きを聞いて、軽傷の1人に、もう1人の転院手続きを取るのに合わせて親兄弟か彼氏に引き取りを頼むよう伝える。軽傷の1人は何度も礼を言って、病院を後にする僕とシャルを見送ってくれた。
もう1人は、休暇はまだあるし、友人を置いて戻れないということで、サカホコ町の旅館に泊まって転院手続きが可能になるまで待つそうだ。骨折して身動きが取れなくなった時点で、見捨てるという選択肢も取れた。遭難時は下手に救出を試みるより、避難や見捨てるという選択肢が必要なこともある。でも、友人を置いて行けなかった。看護をしながら救援を待ち、一縷の望みを繋いだ。
「ヒロキさんには、私がいますよ。」
旅館に戻る道中、シャルが言う。「世界のすべてがヒロキさんの敵になっても、私はヒロキさんの隣にいます。それはこれからも立証していきます。」
「シャルを疑ってはいないよ。ああいう関係があるんだな、って羨ましく思った。」
あの2人の件は決着の道筋が出来た。そうなると、僕とシャルの本題であるハルイチ市の動向と、逆鉾山周辺の状況に焦点が移る。朝の段階で、ハルイチ市の方は贋作を懸命に分析中とのことだから、もう暫く時間稼ぎが出来るだろう。問題は逆鉾山周辺の方だ。地理的条件がこれまでになく厳しい。
「対象範囲が非常に広いので、ジャミング施設の特定には当分かかると思います。」
「その間、サカホコ町に居た方が良いよね。現地に行くにしても時間がかかるし。」
「はい。エネルギーは雪と温泉を利用する水素プラントを構築したので十分維持できますが、本体の移動にはどうしても道路の制約を受けます。現場に向かう必要性とその確率はこちらの方が高いので、当面サカホコ町に滞在したいです。」
「調査はシャルに頼るしかないから、シャルの考えを最優先しよう。となると、サカホコ町や周辺の名所とかは…。」
「私が探しますよ。」
「ヒロキさん。あれ、試して良いですか?」
旅館に着いて外に出て少ししたところで、シャルが向かいの店の1軒を指して言う。「着物試着できます」の幟(のぼり)が立っている。「着物か。浴衣はあるけど着物はなかったね。勿論良いよ。」
「楽しみにしててくださいね。」
夕食時までの時間から逆算して、3時間コースを選んで、番傘と羽織をオプションで加えてもらう。シャルは着替えのため奥に案内される。その間、僕は外で待つ。その前に店の人にこの町と着物の関連を聞く。この町は織物が盛んで、落ち伸びた平家の奥方などが京の織物を持ち込んだのが始まりだという。平家の落人伝説と関連していたわけだ。
ストーブに当たりながらシャルの着替えが終わるのを待つ。引き戸のガラス越しに見える雪は静かに降り続けている。この調子だと明日の朝にはかなり積もっていそうだ。何だか外が賑やかになる。数人のグループが軒先に来たようだ。着物は普段着る機会が殆どないから、関心を引くんだろうか。
「すみませーん。着物の試着って出来ますかー?」
「あ、あれ?!もしかして富原君じゃない?!」
「!」
「何々?会社辞めて自分探しの旅でもしてるの?」
「お前が唐突に辞めたおかげで、取引先から納品が遅くなっただの、問い合わせのレスが鈍っただの、クレーム続発で大変だったんだぞ。」
「…お前1人居なくなっても会社は回る。僕に何度もそう言っていたのはどこの誰ですか?」
僕が仕事を回していたことは、皮肉なことに「外」の方が理解があった。取引先からは「納期に十分間に合って助かります」「連日残業ですね」とか感謝や気遣いがあったし、「他の人は何をしてるんですか?」という問い合わせも何度かあった。担当が僕から別の人に替わったら対応が悪くなったとクレームがあったのも事実だ。
辞める時には引継ぎをしたし、取引先は残念がっていたけど仕方ない。それらはもう、僕が会社を辞めたことである意味チャラになった。そう思うようにしている。それよりも、今は容認できないことがある。
「それを差し引いても、僕は会社を辞めて貴方達とは何の関係もありません。なのに会っていきなりタメ口とは、どういう了見ですか?貴方達の会社では、親しくもない相手にタメ口をきくように、マナーの研修を受けているんですか?」
「…そ、そんなマジになるなよ。」
「空気悪くなるじゃないー。」
「僕は連れ合いを待ってますので、着物の試着は店の人にどうぞ。」
「連れ合いって、誰かと一緒に旅行?誰と?」
「会社と俺達を放り出して旅行って、良い身分だよなー。」
「お待たせしました。」
「!!」
「着付けは知っていましたけど、初めて着るので時間がかかってしまいました。…その人達は?」
「前に働いてた会社の元同僚だよ。」
「初めまして。富原シャルと申します。」
「…え、えっと…。その女性は?」
「僕の奥さん。」
「はい?!」
「お、奥さんって、こ、この金髪美人が?!」
「戸籍謄本など携帯していませんので書面での証明は出来かねますが、私が名乗った際の氏名と、この指輪でご理解いただけるかと。」
「奥様、大変お綺麗ですから、着物も映えますねー。」
「ありがとうございます。」
「こちら、オプションの羽織と番傘になります。どうぞ。」
「奥さんって紹介されて、凄く嬉しいです。」
「どう呼んだら良いかって考えてたけど、瞬時に出たのが『奥さん』だった。」
「表現は些細なことです。他人に私との関係を名言してくれたことが重要で、嬉しいことです。」
何だか複雑な気分だけど、シャルはすこぶる嬉しそうだし、僕もさっきの紹介で「会社を辞めて孤独に彷徨っている」という勝手な悪評を一掃できたし、多少なりともあのグループを見返せたようだから、これで良いと思うことにする。否、これで良い。それより、シャルを連れて何処へ行こうか。ただ適当に散策するだけでも十分かな。
「この下駄という履物は、雪に接触する度合いが減りますが、足の固定部分が1か所しかないのでぶれやすいですね。」
「昔は、これか草履が普通の履物だったんだ。指が挟む力が違ったのかな。」
「後方の固定さえ何とかなれば、現代でも通用したかもしれません。コツを掴めば、何とかなりますが。」
「足元、気を付けてね。」
「はい。ゆっくり歩いてくれているので、大丈夫です。」
「この辺で写真を撮っておこうか。」
木製の橋が対岸に延びて、傍らに柳の木が並ぶところで、スマートフォンを取り出す。シャルに番傘を渡して、橋の近くに立ってもらう。…うん、これ以上ないほど様になっている。正面から、少し斜めから、微妙に角度を変えて写真を撮る。これだけで相当なコレクションが出来そうだ。「私の撮影会みたいですね。」
「これは撮っておきたいと思うよ。」
「一緒に撮りたいです。」
「人がいないから、自撮りになっちゃうよ。」
「少し工夫すれば大丈夫です。」
カメラ機能にはタイマーもあるから、離れて撮るには不自由しない。僕が番傘を差すと、シャルが僕の腕に両腕を回す。突然の動きにドキッとする。スマートフォンからシャッター音がする。少しずつ僕とシャルが角度を変えて、写真を撮る。10枚以上撮ったところで、スマートフォンで確認する。しっかり撮れている。
『少しヒヒイロカネを伸ばして固定の補助とカメラの操作をしましたけど、これくらいは良いですよね。』
『うん、勿論。』
「良い具合に撮れたね。」
「せっかくの機会ですから、2人で撮っておきたかったです。」
『彼方で指を咥えて眺めている人達もいますし、見せつけておきました。』
「まだ時間はありますから、撮影スポットを探しましょう。」
「うん。街並みをバックにするのも良さそうだね。」
店の近くだと、頼めば店員が写真を撮ってくれる。必ずシャルへの称賛が寄せられる。良く似合っている、佇まいが外人とは思えない-「金髪=外国人」という公式だろう-、着物映えする綺麗な女性だ、などなど。シャル単独だと左手が見えるように番傘を差して、僕と並んで撮る時は左手が上になるように絡めるから、指輪が存在感を出す。そうなるとこういう声がかかる。
「綺麗な奥さんですねー。」
「ありがとうございます。」
「新婚?」
「はい。今は日本各地を巡っているんです。」
元々、シャルが指輪を填めるようになったのは、O県でのヒヒイロカネ捜索中に、試しに創造して填めたところ、特に年配層の対応がかなり違うことがあることに気づいたのが発端だ。夫婦関係=既婚=一定の社会的信用、という公式が根強く存在することが分かったシャルは、オクセンダ町の一件が片付いた後、指輪を手配した。
それより前に、シャルとは大きな一線を越えた。だけど、今の時代、寝るだけの関係もさして珍しくないし、夫婦でなくても寝るのが普通になっている。寝ることが特別な関係の証明とは言い難い中、左手薬指に指輪を填める夫婦関係は、社会的信用を伴う関係として健在なのは分かるような気がする。
雪は静かに降り続けている。僕とシャルの全然違う形状の足跡が、より鮮明になっていく。逆鉾山周辺の調査が完了するまでの待機のために滞在することにしたこの町で、元同僚を含めてシャルとの関係を周知することになるとは思わなかった。何とも因果なものだけど、会社を辞めてこの旅に出たことは正解だったと改めて思うには十分だ…。
暗くなり始めた頃に店に戻って着物一式を返却して、旅館に戻った。元同僚のグループは僕とシャルを尾行していたようだけど、気づかないふりをしてやり過ごした。シャルがこれでもかとばかりに着物姿と指輪を見せつけていたから、近づこうにも近づけなかったかもしれない。
旅館では、買い込んできた猪や鹿の肉が鍋料理となって出された。癖のない、だけど牛肉や豚肉とは一味違う旨味を伴う温かい鍋料理は格別だった。大浴場で入浴を済ませて、部屋で寛ぐ。昨日は遅い時間にチェックインして、食事と入浴を済ませたら即シャルとの夜戦に突入だったから、初めてこの部屋で寛いでいる実感がする。
「着物、凄く似合ってたね。」
「喜んでもらえて嬉しいです。」
逆鉾山周辺の状況と存在の確率が高いジャミング施設の特定までの待機の拠点として、シャルが偶然発見した救難信号を基に救助した2人を搬送した病院があるこの町で、シャルが目にした着物のレンタルが、思わぬ形で人との交流と思い出を作ることになった。不思議なものだ。
「色や模様はシャルが選んだの?」
「はい。たくさんあった中から、髪の色と対になる色で紫をベースにして、模様はシンプルなものが良いと思って。」
「センスの良さが光ったね。」
「私は着物を着られたのも勿論ですけど、ヒロキさんが私のことを奥さんって紹介してくれたのが嬉しかったです。」
「色々な人に聞かれて答えてたね。僕もそうだけど。」
「私が奥さんってことで、自慢になりました?」
「もうこれ以上ないくらい。」
そんなシャルが左手薬指を見えるように番傘を差したり、僕に密着したりしたことで、自然とシャルとの関係を聞かれた。僕は時に自分の指輪を見せて「僕の奥さんです」と紹介した。羨望や称賛はあっても、不思議とやっかみの声はなかった。ただ僕に届かなかっただけかもしれないけど。
元同僚のグループも女2人が着物を着ていたけど、完全に霞んでいた。先に容貌も着こなしも完璧なシャルが衆目を集めていたし、着物店で出くわした時から、シャルの登場と僕の奥さんという紹介で呆然としていたくらいだ。比べられたら敵わないとばかりにコソコソしていたのを見て、溜飲が下がる思いだった。
僕が働いていた時にあのグループに良いようにやられたのは、彼女が欲しいという僕の希望を悪用された結果だ。勿論公言したことはないけど、そういうのを察するのは得意なんだろう。バーベキューに騙されて呼び出されて酷使されたのもその1つ。ああいう連中は人を利用するのが上手い。
着物店で出くわした時、恐らく僕が会社を辞めて独りで彷徨っていると思ったんだろう。そこに着付けを済ませたシャルが現れて、僕が奥さんと紹介したことで、仕事から解放されて美人妻と優雅気ままに旅行中だと認識させた。落ちぶれたと思った相手が実はそうじゃなかったと知った衝撃は相当のものだっただろう。
今は浴衣を着て僕に凭れかかっているこの金髪碧眼の美女が、僕の奥さんと知った時の連中の表情は、今思い返すと漫画みたいだった。…そう、僕に密着している浴衣姿の、僕の好みストライクど真ん中の美人が、僕の奥さんなんだな…。着物だと羽織もあってあまり分からなかった胸が、浴衣に窮屈そうに収まっていて…。
「どこ見てるんですか~?」
不意に僕は鼻先を突かれる。胸を凝視していたのがばれたか。「も~。毎晩掴んで揉んで咥えて吸ってるのに~。」
「言い方言い方。」
僕はシャルにキスをする。シャルは僕の肩に凭れて僕を見つめたまま。もう1回。ハルイチ市の状況や逆鉾山周辺の状況調査についてシャルが何も言わないのは、目立った進展がないからだろう。待つ時は待つしかない。それまでは…シャルとの時間を大切にしよう。あれこれ考えながらシャルと向き合っていたら、シャルに失礼だし…。
…。