謎町紀行 第57章

隔絶された寺に巣食う堕落と策謀

written by Moonstone

 朝。シャルに起こされて目を覚ます。シャルは…裸?!否、一応浴衣を羽織っているけど、前を合わせていない。本当にただ羽織っているだけ。着崩すとかえってエロさが増す。僕の目覚めを良くしたいと思ってのことだろうけど、刺激が強すぎる。

「ど、どうして浴衣を着崩してるの?」
「お風呂に入ろうと思って。」

 そういえば、昨夜は…。当然だけど、僕もかなり汗をかいた。こういう時、部屋風呂は助かる。今度は浴衣と下着を持って外へ。少し冷えるけど、身体を洗って湯に浸かれば、首から上を良い感じに冷やしてくれる。改めて思い返すと、昨夜は凄かったな…。

「本当に昨日の夜は凄かったです。」

 唐突なシャルの同調で、僕は思わずむせそうになる。シャルも気恥ずかしいのか、正面を向いたままで頬を少し赤らめている。

「私もかなり興奮していました。ヒロキさんが私を全力で求めて、たくさん気持ち良くしてくれたので、私も同じようにしたつもり…です。」
「凄く気持ちよかったよ。あと…凄く幸せだった。」

 僕はシャルの肩を抱いて引き寄せる。シャルは僕に身体を密着させる。そして…キス。夜の時とは違う気分だ。

「お風呂から出たら、するんですか?」
「そういうのは夜の方が良いかな。仲井さんも来るだろうし、明るい時にするのはちょっと…。」
「暗い方がムードは出ますね。」

 まったくしたくないと言えば嘘になる。だけど、風呂から出て布団に直行となったら、際限がなくなるのは間違いない。愛欲に溺れた生活も出来なくはないけど、マスターことあの老人が僕に魔法のカードと言うべきキャッシュカードを、そしてシャルを託したのは、そのためじゃないってことは理解しているつもりだ。
 何しろ、O県における謎や疑惑は、1つも解明・解決できていない。アヤマ市の人が透明人間に見えて声も聞こえない現象は、アヤマ市外の人限定らしいところまでしか判明していない。法勝寺の本尊を奪った手配犯らしき人物は、足取りも掴めていない。やることは山積みだ。
 謎を解き、手配犯を追う拠点の1つとして、シャルはこの旅館を手配してくれた。昼間はヒヒイロカネに纏わる謎や疑惑の解明に尽力して、夜はゆったり休養して気分転換する理想的な環境だ。それを有効活用してヒヒイロカネの回収、そしてアヤマ市の不可解な現象の解明や手配犯の追跡に繋げるべきだ。
 風呂から上がって浴衣を着たところで、仲居が布団の片づけと朝食の配膳に訪れた。朝食を食べながら今日の計画を考える。シャルがTV画面にオクセンダ町の周辺マップを表示する。今日のサンプル採取予定ポイントは5か所。数は少ないと思うけど、移動時間を考えれば納得。ポイント間の移動時間は平均2時間と出ている。

「かなり採取ポイントが散らばってるね。」
「採取ポイントがある河川や温泉が、蛇行する県道でしか行けないのが大きいです。高速道路は完全に対象外です。」
「1本道しかないところが多いから、気を付けて行かないといけないね。」

 郊外、特に山間部の移動で最大の関門は、道路事情だと思う。山肌か谷を縫うように作られた道が多いから、随所で曲がりくねっている。しかも車が対向するのが難しいところも多い。更に、土砂崩れや落石で通行不能になるリスクもある。こういう道でしか移動できない場所が多いのも事実だ。
 O県はアヤマ市の名前を知っている程度なのもあるけど、見たこともない地名ばかりだ。でも、蛇行する道の先にある小さな集落にもきちんと集落や土地の名前があって、そこに人の生活がある。良くも悪くも狭い社会を構築している奥地にまで、手配犯が足を延ばした理由は何だろう?

「今日、これらの奥地をサンプル採取ポイントに選んだのは理由があります。…これまでの解析の結果、本尊を奪った手配犯のDNAの断片が検出されたポイントがあるからです。」
「?!」

 手配犯はこの辺まで来ていた確率が高いという事実は驚きだけど、納得がいくことでもある。人目を避けるには人が居ないのがベスト。少数ならベター。そう考えたんだろう。少額の金銭や小さい宝石ならいざ知らず、奪ったのは寺の本尊。布で覆っても大きさで目立つだろうし、向けられる奇異の視線に神経が過敏になった確率は十分ある。
 シャルの説明を聞く。手配犯のDNAの断片は法勝寺があったオオヤマナカ町を流れる川、ニュウドウ川から検出された。ニュウドウ川は上流に向かうにつれて、幾つかの源流に分れる。その1つがこのオクセンダ町を流れる、僕とシャルの部屋の前方にあるセンダ川。
 まだセンダ川と周辺で採取したサンプルは分析中だけど、ニュウドウ川から検出されたということは、これまでの経路で同様に検出される確率が高い。そして、法勝寺の本尊を奪った手配犯が本尊を隠したと考えられる寺の1つが、これから向かう源流の1つ、ジャバラ川の近くにある厳生寺(げんしょうじ)だ。

「-移動に時間を要しますが、重要な手掛かりが得られる可能性はあります。」
「ぬか喜びになるかもしれないから過信は禁物だけど、繋がりが見えてきそうだね。」

 これまで、アヤマ市の不可解な現象といい、本尊を奪われた法勝寺といい、断片的なものだった。何か繋がりがあるかと思って、否、期待していたけど、その気配がなかった。此処へ来てシャルのサンプル採取と分析の結果が出始めて、繋がりが感じられるようになった。繋がりそうな糸の先は、探らないと分からない。

「手配犯が本尊を隠した可能性があるってことは、新道宗に属するんだよね?」
「はい。33か所の札所の1つでもあります。」
「かなり行きづらいところだけど、巡礼の人も大変そうだね。」
「それを見越してか、札所の中では宿坊が最も充実しています。此処を中継地にすることが前提という見方も出来ます。」

 宿坊-寺の宿泊施設は、札所や宗派の総本山など来訪者の滞在に備えたものだ。僕とシャルが赴いた法勝寺にも小規模の宿坊があるそうだ。O県の札所は全般的に移動に時間がかかるところで、特に今日向かう厳生寺の前後は、徒歩だと丸1日を見込んだ方が良いという立地だ。
 その割に県道しか通っていないのは、厳生寺が新道宗の原点回帰派、すなわち本来の開祖の足跡を辿り信仰を深めることを重視する派閥の有力寺院だからだ。巡礼を観光の呼び水にしたいO県の度々の道路整備の申し出に対し、厳生寺は悉く拒否している。車が行き来できる県道があるから十分らしい。

「前後の札所が対外協調派なので、極力関りになりたくないという意思の表れとも取れますね。」
「巡礼者が来なくなったら、寺が立ち行かなくなるんじゃないのかな…。」
「そのとおりです。国家神道ならいざ知らず、文化財の保全以外は基本的に自己収入でどうにかしないといけません。そこまで考えているかは不明ですが。」

 厳生寺に手配犯が逃げ込んで、本尊を隠したか入れ替えるかした確率があるのは、この立地も大きな要因だろう。だけど、巡礼を修行と位置付ける派閥の有力寺院が、本尊の入れ替えを良しとするとは思えない。万一事態が発覚したら、一大スキャンダルなのは勿論、新道宗の内紛に決定的な影響を及ぼしかねない。
 厳生寺に何かきな臭いものを感じる。手配犯の手掛かりや痕跡、奪われた本尊の他に、何か重大なことを隠蔽しているんじゃないかという気がしてならない。地理的にも組織的にも可能な条件だ。寺や神社は高潔なものというのは、単なる思い込みでしかない。欲や金で簡単に堕落するし、派閥争いや後継者争いもある。
 地理的に隔絶されていて、宗教や修行が口実や正当化に使われる体質だと、簡単に暗部が隠蔽される。しかも、何かと怪しいイメージが付きまとう新興宗教と違って、一定の社会的地位や信頼がある仏教寺院だと、告発も嘘扱いされやすい危険がある。内部から批判が出ない組織は簡単に腐るし、異質な者や腐らない者を迫害する。「いじめ」を巡る学校や企業を見れば一目瞭然だ。
 兎も角、行ってみるしかない。シャルの航空部隊での調査も時間がかかるし、手配犯がヒヒイロカネを持っていることも考えられる。タカオ市で拘束された手配犯がまさにそうだった。シャルの航空部隊を万能と見て安易に派遣してもらうと、手配犯が持つヒヒイロカネに察知されて、事態を悪化させるリスクがある。
 まさかと思っていた手配犯のDNA断片の検出で、事態が一気に動き始めた感がある。だとしたら、行動あるのみだ。ちょっと気になるのは、厳生寺の周辺。人家らしいものが見当たらない。縮尺の問題か、それとも本当に人家と隔絶された場所なのか…。
 日が西に傾きかけた頃、長い移動が終わりに近づいていた。今日のサンプル採取ポイントとしては5番目、謎や疑惑のポテンシャルとしては最高と言える、厳生寺。ところどころで、巡礼者らしい白装束の人を追い越した。朝早く前の札所を出て、今日中に何とか到着できるであろうという距離を歩くのは、修行と言うしかない。
 問題は、その途中で休憩しようにも、休憩できる場所が何もないところだ。早い話、その辺にテントを張るか寝袋に包まるしかない。周囲に人家はないけど、「猿に注意」とか「鹿に注意」という看板はある。夏や冬は暑さや寒さで更に厳しいだろう。死と隣り合わせの巡礼が本来の在り方というのなら、疑義を挟まざるを得ない。
 道は蛇行は勿論のこと、頻繁なアップダウンもある。大小の山を幾つか超えるイメージだ。これは2Dの地図では分からない地理的なトラップだ。シャル本体だとアップダウンを感じるのは一時的なGくらいだけど、徒歩や自転車は-後者は見たことがない-相当厳しいだろう。その距離と高低差を突破しないと、厳生寺には到達できない。

「シャル。厳生寺に駐車場ってある?」
「はい。一応団体客を想定しているらしく、相応にあります。駐車料金は無料です。」
「シャル本体を止めておく場所は困らないのか。」
「土地は十二分にありますし、周辺に人家がないので、極端なことを言えば、止められるところに止めても良いくらいのイメージです。」

 僻地にあると駐車場が潤沢と言えば、そうとも限らない。僻地だから駐車場という概念がなくて、路駐が当たり前だったり、車が通ることを想定してなくて道が狭かったりする。駐車場があると聞いて一安心。あとはこの…不規則に蛇行する道を踏破することか。この左右の揺れは、運転してなかったら確実に酔ってると思う。
 今のところ、車と行き違いがない。道は普通車同士なら何とか行き違える程度の幅だから、運転する側としては助かる。だけど、僕とシャルのように車で札所を回る人も少なからず居るはず。駐車場も十分あるというし、通じる道はこの県道1本。行き違いがないというのは不自然な気がする。

「シャル。厳生寺の駐車場に車は止まってる?」
「2台、普通車が止まっています。」
「ただ単に、車が少ないだけかな…。」
「断定は出来ませんが、その確率は十分高いと思います。」

 HUDに周辺地図が表示される。厳生寺の周辺には、否、周辺にも、人家は一切ない。ただ森と川-これがサンプル採取ポイントの1つであるジャバラ川-と、若干の平地しかない。地域自体が人家と隔絶されている。どうやって生活しているのか考えてしまう。
 暫く走っていると、何だか久しぶりに見るような気がする瓦屋根が見えてくる。道から見てやや下方、蛇行する川の近くに佇むのが厳生寺。シャルの情報どおり、駐車場らしい場所に車が2台止まっている。修行でもなければ、車でないと行く気がしない。そう思うくらい山奥にある。
 次第に下り坂になって、蛇行しながら寺に近づいていく。本当に難儀な道だ。シャルのリアルタイムサポートがあるからさほど揺れもなく安定して運転できるけど、運転しているから酔わないだけと言えるほど蛇行が酷い。歩くのも修行と言えばそうだろうけど、今の時代には合わない。
 駐車場に到着。といっても、砂利を敷き詰めた広場に、車の幅程度の縄を張っただけの、ごく簡単なもの。縄が見えなくても、空いているところに適当に止めれば良いって感じだ。郊外ならではの潤沢な土地の使い方ではある。他の車から距離を置いて、正門から少し離れたところにシャル本体を止める。

「かなり大きい寺だね。」
「はい。先にサンプルを採取します。寺はその後で。」

 シャルはジャバラ川の方へ歩いていく。河原は大きめの石が多い。中には岩と言って差し支えないサイズのものもある。その代わりというのか、水は凄く綺麗で、川底の苔まで鮮明に見える。シャルは川縁(かわべり)にしゃがみ込んで、手を軽く川に浸す。これでサンプル採取は完了だ。

「寺も行く?」
「はい、勿論です。」

 やっぱり寺もサンプル採取ポイントに含まれるようだ。手配犯が本尊を持ち込んだことが考えられるから、当然と言えるか。何だか不気味というか、妙な雰囲気を感じる。正門から入ると、意外と建物が密集した境内が広がる。境内は不気味な沈黙が支配している。何か妙な気分だな…。
 順に建物を見ていく。六角堂や導師堂-新道宗の開祖の彫像が安置されている-といった建物は、特に不審なところはない。導師堂の奥に見える旅館のような、本堂より目立つ大きな建物が、修行としての巡礼者の命綱と言える宿坊だろう。静寂もあってか不気味さが増すばかりだ。

「あれが本堂かな。」
『シャル。本尊は奪われたものと識別できる?』
『可能です。』

 傍から見れば普通の参拝でしかないけど、シャルがある程度接近すると精密で多種多様な非接触非破壊の分析がなされる。賽銭を入れて合掌。それにしても不気味だ。静かなだけだとこうは感じない。境内だけじゃなくて寺全体から何か底知れぬ不気味さを感じる。

『検証が完了しました。この本尊は、この本堂に安置されているもの、妙な言い方ですが本物です。』
『ということは、ヒヒイロカネのスペクトルもないんだね?』
『はい。この寺からはヒヒイロカネのスペクトルは検出されません。』

 法勝寺の本尊が実はヒヒイロカネで、手配犯が奪った理由はそれだと思っていたけど、流石に飛躍しすぎていたか。本尊は本物だというし、仮に手配犯がこの寺に本尊を持ち込んだとしても、置き場所がない。まさか倉庫にしまっておくわけでもあるまいし。
 それにしても、本当に不気味だ。静かなだけならこうは感じない。何かが狙っているような、そんな感じさえする。そういえば…、シャル本体の他に2台の車が止まっていたけど、その主は何処にいるんだろう?それなりに広いとはいえ、境内で行ける場所は限られているんだから、出くわしても良いはずだ。

『オクラシブ町を彷彿とさせますね。』
『!そういえば…。他の車は放置されている?』
『1台は1週間ほど、もう1台は2,3日止まっていると思われます。ナンバーがO県ではないので、寺の所有ではありません。』
『1週間は長いな…。宿坊に何かある?』
『ざっとスキャンしたところ、20人ほどいます。』
『多い…かな。』
『外道は1人でも多いです。』
『え?』

 ふと背後に気配を感じて振り向くと、作務衣姿の男性2人が縄や棒を手に佇んでいる。否、動きを封じられている。工事中のところはない。まさか、この連中!

「物陰から参拝中の人の背後に忍び寄って、その獲物で何をするつもりだったんでしょうかねー。」
「う…。」
「シャル。こいつら、何処にいたの?」
「ヒロキさんと私の出現を知って、宿坊から出て来ました。導師堂などに隠れて接近してきましたが、私相手ではかくれんぼにもなりません。」
「ぐ…。」
「案内してもらいましょうかー。親玉のところへー。」

 シャルの声のトーンが2オクターブくらい下がった。しかもこの語尾を伸ばした抑揚のない発声。シャルが怒った証拠だ。男達は急激に回れ右して、ぎこちない動きで歩き始める。尋問しなくても、シャルが脳にヒヒイロカネを侵入させれば、親玉とやらの居場所を引き出すことくらい造作もない。そしてそこへ案内させることも。
 やけに不気味に感じたのは、参拝客を捕らえようと虎視眈々と狙う剥き出しの欲望が渦巻いていたからだろう。シャルが言ったとおり、オクラシブ町と同じようにこの寺は人狩り人攫いの屯する場になり果てたんだろうか。だとしたら、親玉こと住職や手配犯は?

「おっ、戻ってきたか。首尾は?」
「パッと見た感じ凄え良い女だったよな。?どうした?!」
「とことん腐った連中ですねー。お釈迦様や導師様がご覧になったら、何と申されるやら。」

 玄関らしいところでいきなり地面に吸い付くように突っ伏した男達の背後から、シャルが言う。物凄く冷たい、背筋が寒くなる声だ。

「!な、何だお前は!」
「雑魚に用はありません。住職を出しなさい。」
「何を無礼な…ぐふぁっ!」

 玄関の前にいた2人の男が、いきなり地面に突っ伏す。必死にもがくけど、見えない何かに強烈に引っ張られているらしく、辛うじて動かせる臀部を震わせるだけだ。

「見苦しい雑魚の始末は後で出来るので、住職のところへ行きましょう。」

 シャルがそう言うや否や、玄関が爆音を立てて破壊される。ノックもインターホンもあったもんじゃない。鍵がかかっていようがいまいが入る。強烈な意思と激しい怒りの表れだ。シャルは地面に突っ伏す男4人を一瞥もせず、滅茶苦茶になった玄関から平然と足を踏み入れる。土足のまま上がり込んでいく。僕は慌てて後を追う。一応靴は脱ぐ。
 シャルが廊下を進む途中、爆音で何事かと思ったのか、何人か作務衣姿の男が出てくる。途端にシャルに向かって目を血走らせて襲い掛かる。だけどシャルに手が届くより先に、床に叩きつけられる。さっきからこのパターンだけど、光学迷彩を施したヒヒイロカネが宿坊を侵食しているんだろう。
 シャルは廊下を埋める男達を一瞥もせずに踏みつけて超えていく。僕は何とか飛び越えてシャルの後を追う。引き戸が見えてくる。シャルが一定距離まで近づいたところで、これまた派手に吹っ飛ぶ。渡り廊下を歩いて再び引き戸を吹っ飛ばし、シャルは別棟の建物に土足のまま乗り込む。

「何事だ?!騒々しい!」
「腐れ外道の分際でよく言えたものですねー。」
「お、女?何者だ?!」

 シャルは住職らしい男の問いに、壁に叩きつけることで返す。強い衝撃に、住職は絶叫を上げる。

「宿坊とこの本坊、いえ、この寺全体は私が掌握済みですよー。私次第でほら、こーんなことも。」

 シャルの背後から悲鳴が近づいてくる。悲鳴の主である男達は僕とシャルの頭上を越えて、床や壁や天井に叩きつけられる。それだけじゃ済まず、天井から逆さに吊るされる。叩きつけられた際に鼻や口から出血しているから、床には瞬く間に大小の血だまりが出来る。

「な、ど、どうなってるんだ?!」
「折角ですから、見せて差し上げましょうかー。」

 それまで光学迷彩を施していたヒヒイロカネが一斉に姿を現す。触手だ。天井から男達を逆さに吊るすもの、住職を壁に縛り付けるもの、床や壁や天井から無数に伸びるもの、シャルの言うとおり、この寺全体にシャルのヒヒイロカネが侵食して、寺全体がシャルの一部になったようなものだ。

「な、な、何だ?!これは!」
「知らない筈がないでしょうー?これと同じものを持っているか使うかする人物が、この寺に来たはずー。」
「!あ、あの男の関係者か?!」
「腐れ外道の質問に答える義務はありませーん。こちらの尋問には答えていただきまーす。」

 普通だとかなり一方的な物言いだ。と思ったら、無数に伸びる触手が住職と男達の横っ面を殴打する。すぐさまもう片方を殴打。見た感じ往復ビンタだけど、首が限界まで左右に振れて、横っ面が大きく歪む。間髪入れずに左右のフックを食らわせたという方がしっくり来る。

「ぐふ…。」
「お…ご…。」
「尋問。この寺に来た男は、何時此処に来ましたかー?何をしていきましたかー?何処に行きましたかー?」
「い、何時だったか…。」

 住職が記憶を探る様子を見せた時、触手が住職の左右の横っ面を何度も連続で殴打する。速くて強い一撃が連続で繰り出されるから、住職は首が千切れるんじゃないかと思う勢いで首が左右に振れる。まったく容赦がない。

「前振りは必要ありませーん。必要事項だけ答えなさーい。他の餓鬼共も同様ですよー。」

 シャルが望まない答えを言う度、容赦ない拷問が繰り広げられる。触手が顔面を殴打し、腹にめり込み、時には床や壁や天井に叩きつける。痛みや気絶でシャルの尋問に即答しないと、文字どおり叩き起こす。床は勿論、壁や天井に血や嘔吐物がぶちまけられる。地獄絵図そのものだ。

「-さっさと吐いていれば、ここまで痛い目に遭わなくて済んだでしょうねー。」

 男こと手配犯の情報や住職達の動向などをすべて引き出した時には、住職や男達は集団リンチの後でトラックに轢かれたのかと思うほど、ボロボロになって床に突っ伏していた。床には血と嘔吐物の池が出来て、壁や天井には人型の血糊が無数に飛び散っている。この世の地獄とはこういうことを言うんだろうか。
 手配犯はやはりこの寺に来ていた。そして、住職以外の男達は、O県の隣のH県から流れてきた半グレこと脱法ヤクザだった。手配犯がこの寺に来たのは半年ほど前。布にくるまれた本尊を持ち込んだ。手配犯は住職に、新道宗の世俗派-原点回帰派の対外協調派への蔑称-が原点回帰派に攻勢を仕掛けようとしている。自分は法勝寺で修行していたが住職は狂い、本尊を売り飛ばそうとした。何とか本尊を持ち出して逃げ延びてきたと言った。
 事実と全く逆の話を、原点回帰派の有力寺院であるこの寺、厳生寺の住職はあっさりと信じた。そして手配犯から本尊を託され、同時に本尊を奪い返しに来るであろう世俗派の攻撃に備えるためとして、手配犯が雇ったという半グレ集団を寺で受け入れたという。
 繁華街なら「縄張り」にある飲食店などからの場所代の徴収や、ぼったくりありの飲食店や風俗店、更にカジノの経営とかで多額の収入を得て豪遊できるだろう。だけど、此処は周囲に民家すらない。しかも蛇行する県道でしか周辺と行き来できない陸の孤島。金と酒と遊びが出来ないから鬱憤が溜まる。
 そこで目を付けたのが、巡礼者。前の札所から次の札所への移動は、徒歩だと実質この寺に泊まるしかない。巡礼者は年配で、団体の巡礼ツアー以外はほぼ1人。格好の獲物だ。巡礼者の金銭をくすね、気づいた巡礼者には集団リンチを加えて口止めした。集団での暴力は、暴力団や半グレの得意分野だし、躊躇うことがない。
 住職は諫めるどころか、半グレから分け前をもらうことで事実上黙認していた。賽銭や宿坊の利用料金で得られる金以外に、巡礼者が道中の資金として割と多めに持っている金銭が労せず手に入ることで、感覚が麻痺したんだろう。原点回帰派というけど、開祖が見たら何と言うか考えたことがあるんだろうか。

「仏作って魂入れずとはこういうことを言うんでしょうねー。外道が住職として祀る本尊が気の毒ですー。さて…。」

 床に突っ伏していた住職が、いきなり顔を上げる。否、上げさせられる。触手に首根っこを掴まれて強引に立たされ、僕とシャルの手前2メートルほど前まで引きずられてくる。鼻と口は勿論、全身の彼方此方から血が滴り、作務衣はズタズタ。目の焦点が合っていない。

「本堂と宝物庫を開けてもらいましょうかー。」
「そ、それは…。」

 流石に躊躇した住職に、別の触手が往復ビンタならぬ往復フックを食らわせる。本当に容赦ない。

「まだ逆らいますかー?自分の立場分かってますかー?」
「ご、ご本尊は…。」

 何か言いかけた住職に、またしても触手が苛烈な往復フックを浴びせる。しかも連続で何度も。ぐったり首を垂れた住職を、触手が強引に顔を上げさせる。住職の顔は血と嘔吐物に塗れ、ひしゃげてもいる。

「前振りは聞いてませーん。開ける?開けない?どっちですかー?」
「あ…開けま…ふ。」

 息も絶え絶えに住職が言うと、触手が勢いよく住職を奥に引っ張っていく。奥の部屋で激しい物音がした後、住職が触手によって本坊から引きずり出される。シャルにとって、住職への二者択一は、住職を操って鍵を取り出させるか、住職の脳に直接触手を突っ込んで場所を聞き出すかの選択肢でしかなかったとよく分かる。

「ご本尊の搬出と、監禁されている人達の救出は、警察に任せましょう。」
「そ、そうだね。」

 やはりと言うか、半グレ集団によって宿坊に監禁されている人達が居ることが分かった。シャルが既に調査隊を派遣して、全員男性であること、負傷して衰弱しているが意識はあることも確認済み。オクラシブ町やヒョウシ市を彷彿とさせる。この手の連中の考えや行動は似たり寄ったりだ。
 彼らは金を盗まれたことに気づき、取り返そうとして集団リンチを受け、尚もこの寺で受けた仕打ちを暴露すると言ったことで、地下の物置に監禁された。することが完全にヤクザだけど、半グレという名の脱法ヤクザだからすることがヤクザと似通るのは自然というべきか。

「シャル様。準備が完了しました。」

 本坊に武装した集団が雪崩れ込んでくる。SMSAを召喚していたのか。この凄惨な地獄絵図の収拾を図るには、SMSAが関係者の記憶を操作したり、僕とシャルが関与した痕跡を消去することが必要だ。それには専門部隊であるSMSAが最適だ。

「ご苦労様。連中の止血処理と関係者の記憶消去と改竄、あと、ヒロキさんと私の痕跡の消去をお願いします。」
「了解しました。」

 SMSAは敬礼して、血や嘔吐物の池に突っ伏す連中の元へ走る。シャルのことだから、死なない程度に痛めつけたのは間違いないけど、見た目ピクリとも動かずに血や嘔吐物の池に突っ伏したままだから、死んでいるようにしか見えない。むしろ、あれだけ手酷い拷問を受けて死なずに済んでいるのが奇跡的なのか。