雨上がりの午後 アナザーストーリー Vol.3

Chapter 6 on January 2nd, a year

written by Moonstone

 1月2日

 カーテンから溶け込む光で目を覚ます。時刻は…7時。普段よりちょっと遅いけど、大学もお店もお休みだし、祐司さんも居ない。こんな時くらいは良いわよね。マスターと潤子さんは…まだ寝てるかな。二日酔いはないけど、お酒の影響かちょっと頭がぼんやりしてる。顔を洗ってスッキリしよう。着替えて部屋を出ると、全身を一気に冷気が包む。冬はこの温度差が厳しい。マスターと潤子さんの厚意でエアコンを使って寝て良いとは言われているけど、緩めにしておいて良かった。静かに階段を下りて、キッチンに差し掛かる。…え?音がする。

「…おはようございます。」
「あら、晶子ちゃん、おはよう。」

 潤子さんだった。疲れやお酒が残っている様子は微塵もない。料理の時、髪を後ろで束ねてエプロンを着けるのは私と同じだけど、何て言うか…風格というか貫禄というか、そういうものが全く違う。実家を勘当されてもマスターと結婚することを選んで、二人でお店を切り盛りして来た余裕なのかしら。

「おせちだけじゃ面白くないから、お吸い物を作ってるの。」
「そうだったんですか…。」
「主人はお疲れでぐっすりお休みだから、先に朝ご飯にしちゃいましょう。」
「はい。顔洗ってきます。」

 洗面所に行って顔を洗ってうがいをする。洗面所も冷える場所だけど、起きて時間が経ったからもう平気。キッチンに戻って、重箱に詰まったおせちを広げる。おせちは定番のものから唐揚げ、一口ハンバーグ、海老フライといった変わり種もある。おせちってどうも単調なイメージがあったけど、単調にしていたのは自分の既成概念だったと思い知らされた。
 おせちは正月3が日に竈の神様に休んでもらう間の料理の作り置き。昔は滅多に食べられないものだったり、縁起が良いものを保存食も兼ねて詰めていた。翻って現代は、冷蔵庫もあるし年中無休のスーパーもあるし、ちょっとしたものならコンビニという手もある。そもそも食材自体、旬という概念が品揃えから消えている。だったら、これまでの概念にとらわれずに食べたいものを詰めれば良い。-潤子さんはそう言っていた。そのとおりだと思うし、言われるまで気付かなかった私は、何だかんだ言ってまだまだ嫌っている筈の、実家や親兄弟親戚と似たような考え方から脱却しきれていないと痛感した。

「祐司君、何時帰ってくるの?」

 食べ始めて少しして、潤子さんが問いかけて来る。

「えっと…、今日が2日ですから…明後日だと思います。」
「何日って聞いてないの?」
「今回祐司さんが帰省するのは、高校時代のお友達との約束を果たすためですから、成人式がある明後日以降に帰って来るとしか知らないんです。」
「まあ、お店は来週の火曜から開けるから、このまま大学の冬休みギリギリまでご実家に居るとは考え難いけど…。その辺聞いても良かったわね。」
「帰ってくることは分かってますから、しつこくしない方が良いと思って。」

 それは勿論だけど、潤子さんの言うとおり、何時帰って来るか聞いておきたかった気持ちは否定できない。火曜日からお店があるから、それまでには帰って来る。それだけを希望にして独りの日々を過ごしている。潤子さんに言われて、心の奥に押し込んでいた不安や後悔が一気に噴き出してきた気がする。
 祐司さんは、仕送りは月10万、それ以外は全てバイトで補填するという条件でこの町で一人暮らしを出来るようになった。祐司さんのご実家の場所は正確には聞いてないけど、乗り換えを2回すれば大学に行けないことはない、って言っていた。その時間をご両親がどう見るか。今はまだ可能かもしれない。だけど、工学部は3年になると学生実験があると聞いてる。学生実験は「終わるまで終わらない」とも聞いてる。祐司さんだけなら問題ないだろうけど、学生実験は4人か5人でグループを作って、そのグループ内で取り組む意欲に極端な差が出やすいというから、祐司さんは結果的に夜遅くなるんじゃないかと危惧している。いくら学生実験で夜遅くなっても、翌日の講義は休講になったり遅刻しても問題ないとはなってくれない。祐司さんはあまり朝が強くないし、そんな状況で遠距離通学をするとなると、家には寝に帰るだけっていう生活になってしまうかもしれない。それは祐司さんにとって良いことじゃない。

「祐司君が帰ってくるのを家で待ってみるのも良いんじゃない?」
「…え?」
「祐司君の家の鍵、持ってるわよね?」
「…は、はい。」

 潤子さんの言葉の意味を理解するのにかなりのタイムラグが出来た。祐司さんが帰って来るんだから、私の家じゃなくて、祐司さんの家で待って居れば良い。合鍵は渡されてるんだから、何時でも出入りできる。それに…宛がわれただけのあの家に必要以上に居る理由はない。

「祐司君、あんまり掃除とか積極的にするタイプじゃない感じだし、掃除して迎えたら相当喜ぶんじゃない?」
「それは…そうですね。」
「折角自由に出入りできるんだから、晶子ちゃんから積極的にアピールした方が良いわよ。貴方の傍に居るのは私だ、って。」
「潤子さんのアドバイスが的確なものばかりで、何だか複雑な気分です…。」

 潤子さんから見ると、私はあまりにも鈍くてそのくせああだこうだ考えてるばかりで、やきもきするのかもしれない。…そうだ。私は妻だなんだと言っているけど、それらしいことを碌にしてない。年末私の家で寛いでもらったつもりだけど、どうして祐司さんの家にしなかったのかとさえ、今は思えてならない。祐司さんの家で過ごして、料理や掃除をしたりして、祐司さんを送り出せば、祐司さんは結婚生活の理想像と重なって少しでも早く帰ろうと思ったに違いない。私、肝心なところで選択を誤ったなぁ…。こういう口だけなところが隙になって付け入られたりするんだろうなぁ…。

「その調子だと、あんまり祐司君としてないんじゃない?」
「…!どうして分かるんですか?」
「何となく。」

 何となくで此処まで言い当てられると、隠し事なんて絶対出来そうにない。まずないと思うけど、マスターが浮気でもしたら即座に察するに違いない。どうして分かるんだろう?表情の微妙な違いとか?口調の微妙な変化とか?

「祐司君は、唯一の無断欠勤の原因になった前の彼女との破局の経験から、セックスもそうだし女の子との交際自体かなり慎重になってると思う。だけど、晶子ちゃんが慎重になる理由が分からないのよね。」
「慎重…ですか?私。」
「普通の交際だったら良い感じに思うくらいだけど、妻を公言して指輪も貰ってる状況では、何をしてるのかしら、って首を傾げたくなるくらい。」

 慎重かぁ…。祐司さんを「この人だ」と見定めて、私としては積極的にアプローチして早めに妻の座を確保して、指輪も貰ったんだけど、それだけじゃ妻には不足?…妻だから、か。潤子さんの言うとおり、妻を公言している割には普通の大学生あたりの付き合いの域を脱してない。祐司さんを送り出す前の生活なんて、その典型。指輪をもらって左手薬指に填めてもらって、それで妻の座が確保できたと思っていた。そのことに安住して隙を付け入られたのが、田畑先生の1件だった。妻だと言っておきながら妻らしいことを碌にしていない。これじゃ口先だけ、キープしてるんじゃないかと祐司さんに疑われても仕方ないわね…。

「晶子ちゃん。一応確認したいんだけど、祐司君との関係を大学時代の思い出の1ページとか、虫除け用に確保しておくとか、そんなつもりはないわよね?」
「それは勿論です。」
「だったら、もっと妻になって良いんじゃない?祐司君の家で迎えるのも含めて。」
「はい…。そのとおりですとしか言えないです。」

 まったくもって情けないと言うか…。潤子さんに言われてようやく、まだ妻の座に胡坐をかいていることを思い知った。妻を公言して指輪を貰って、祐司さんの誕生日に私自身を捧げて、それで安心しきってる。此処まですれば、祐司さんが他の女性に惹かれることはない、って。その観測は間違いないと思う。だけど、肝心の私がその観測を自ら覆しかねない状況にある。それが田畑先生との一件だった筈。セックスの回数は端的な例ではあるけど、全てじゃない。妻だ何だと言っておきながらまた裏切るんじゃないか。また試したり復縁を求めてきたりするんじゃないか。祐司さんが慎重になっているのは、背景にそんな疑念があるとしたら…、私はそれこそ何をしてるのか、と言われても仕方ない。

「大人になれば、愛情は感情だけじゃ成立しない、ってのが私の持論。それは結婚前でも結婚後でも変わらない、ってのもね。結婚したら尚更セックスレスは愛情の枯渇に繋がるものよ。」
「やっぱり、そうなんですか?」
「そりゃそうよ。男性からすれば、結婚っていう縛りでセックスが特定の女性としか出来ない状況下で、その特定の女性とセックスできないなら、結婚してる意味が分からないから。」
「それだけ重要な要素ってことなんですね…。」

 祐司さんとセックスをしたくないわけじゃないし、汚らしいとか思ってるわけじゃない。そうじゃなかったら、わざわざ祐司さんの誕生日に自分をプレゼントなんてことはしない。だけど、祐司さんが慎重であるあまりなかなか求めて来ないのを良いことに、能動的にセックスレスになっている。愛情の証明や確認の形としてセックスがあるのは分かる。だけど、男性にとっての重要性は漠然としたものだった。潤子さんに言われてみると、自分を妻の座に据えることで祐司さんを束縛しかしてないんじゃないかと思えてならない。束縛するなら相応のメリットを出さないと、妻を持つ意味がないって思うのは当然よね…。

「私と主人は子どもは持たないことにしてるけど、セックスは欠かさないわよ。昨日もそうだったし。」
「!マスターがお疲れってのは…。」
「そう。昨日の反動。もっとも昨日は私が好き放題されて、ノックアウトされちゃったけどねー。」

 何とも赤裸々な話…。でも、潤子さんが何となく満足そうな顔なのは、昨夜力の限り愛し合えたからだと知れば納得はいくわね。マスターを満足させて、自分も満足する。理想的な形。一方、私はどう?妻を公言して束縛して、することと言えばほぼ清い交際そのもの。祐司さんにとってメリットはある?翻って、マスターは潤子さんと結婚して多大なメリットがある。料理は凄く美味しいし、潤子さん目当てで来るお客さんも居るから店も潤う。夜は抜群の容貌とスタイルを堪能できる。これじゃマスターは浮気なんて思いもしないわね。潤子さんは「妻」をとことん実践してるなぁ…。

「…1つ、聞いて良いですか?」
「遠慮なく。」
「女性から積極的にいくと、男性に淫乱とか悪い印象を持たれませんか?」
「誰彼構わずだったら淫乱どころか売春婦扱いされるけど、夫だけならそんなことないわよ。受身でも夫に全てを委ねるつもりでいればOK。」

 私が能動的にセックスレスになっていた原因の1つは、私から迫ると祐司さんに淫乱扱いされるんじゃないかという危機感。祐司さんが迫って来てそれを受けるのが正しいと思ってた。だけど、結婚してると言うのなら、祐司さんの妻を言うなら、祐司さん限定で積極的になって良い。私にはカルチャーショックではある。だけど、それは結局、私が忌み嫌っている筈の私の実家、親や親戚、地域の考え方が根付いていることの裏返しとも言える。ああいったものを全て断絶してこの町に来た筈なのに、私はまだまだ決意が足りない…。だけど、まだ間に合う…筈。祐司さんの家の合鍵を唯一持つことが出来る、祐司さんの妻である私なら出来ることがある筈。

「あの、潤子さん。勝手なことを言いますけど、食事が済んだら帰って良いですか?」
「全然勝手じゃないわよ。主人には私から言っておくから。」
「ありがとうございます。」

 まだ時間はある。祐司さんが何時帰ってきても良いように、祐司さんの家で待とう。私しか出来ないことをする機会を逃しちゃ駄目。口先だけじゃなくて、本当の妻になるために。妻だと祐司さんに認めてもらえるように。そのためには、行動あるのみ。
 朝ご飯をいただいて片づけて、潤子さんにお礼を言って早速祐司さんの家に…と思ったけど、一旦私の家に向かう。食材を持っていくため。足りない分は買い足せば良いけど、折角あるものは使いたい。再び管理人さんに鍵を預けて、改めて祐司さんの家に向かう。
 祐司さんの家に到着。コートの奥のポケットに仕舞いこんでおいた、この家の鍵を取り出す。…考えてみると、私がこの合鍵を使うのって初めてじゃない?私…、何をやってるんだろう?合鍵を貰っておきながら、妻らしいことを碌に出来てない…。こんなことを潤子さんに言われるまで気付かないなんて…。後悔してるばかりじゃ始まらない。祐司さんが戻ってくるまでに、挽回できることはしておこう。合鍵を挿し込んで回す。鍵が外れる音がする。鍵を仕舞ってドアを開けて中に入る。薄暗い室内。祐司さんが帰って来た時、この家がこのままなのと灯りがともって私が居るのと、どっちが良い?その答えが私であるためには、色々することがある。
 ドアチェーンをかけて上がり込んでカーテンを開ける。失礼だけど、思ったより散らかってない。お店のクリスマスコンサートやその準備があったし、散らかるほど物の出し入れをする暇がなかったせいかしら。1週間ほど誰も居なかったせいか、ちょっと空気が淀んでるように感じる。まずは掃除からね。併せて、布団カバーを洗って交換しておこう。布団カバーを取り外して洗濯機へ。洗濯気をセットしたら掃除に着手。全自動だから並行作業が出来る。まずはゴミを拾ったり、散らかっているものを集める。これは今回、大して時間はかからない。脱衣場にあったバケツを借りて、そこにお風呂場でお湯を汲んで、ほんの少し洗剤を入れる。
 掃除のセオリーに従って、上側から拭き掃除をしていく。と言っても、祐司さんの家はあまり物がない。電子レンジや食器棚、冷蔵庫やテーブルを拭けば、拭き掃除は殆ど終わってしまう。祐司さんがレポートとかする時に使う机を拭くと、上側にもう拭き掃除をする場所はない。色々な曲のデータが生まれるシンセサイザとパソコンは、精密機器だから、勝手に拭き掃除出来ない。するとしたら…、乾いた雑巾ね。雑巾はまだあるし、時間はたっぷりある。出来ることは全部やっておきたい。シンセサイザを覆っている薄い布を取って、丁寧に拭き掃除する。
 ふう…。精密機器の掃除って思ったより大変ね。ボタンが多いし細かいし。万が一にも壊したりしちゃいけないから、慎重になるしその分時間もかかる。だけど、綺麗になったシンセサイザを見て満足感に浸る。さて、次は…水回りの掃除ね。水回りもざっと見たところ、それほど汚れてない。祐司さんは基本的に料理をしないし、お風呂とトイレは普段の使い方なら1週間程度じゃそうそう酷い汚れ方はしない。ましてや1週間無人状態だったし、悪戦苦闘というレベルには到底達していない。言い方は悪いけど、随分楽出来そう。
 まずはお風呂から。その前にセーターと靴下を脱いで、上下の袖を捲り上げる。洗剤を付けたスポンジで全体を擦る。ちょっと届かないところもあるけど、それは目を瞑る。更にタイルの隙間は古い歯ブラシに洗剤をつけて擦って、と。私も数回に1回しかしない徹底的なお風呂掃除だけど、流し終えた時にびっくりするのよね。  磨き終えたから、いざ流さん。水をシャワーから流すと、泡が流れて綺麗なタイルと十字路が現れる。上下にゆっくりシャワーヘッドを動かして、下水口に流れ込むように水流を誘導する。隅に残った泡を丁寧に流せば、ピカピカお風呂の出来あがり。後はトイレとキッチンを順番に掃除。トイレは床にちょっと埃が溜まってる。キッチンは多少吹き零れらしい痕跡がある程度。洗剤を付けてブラシやスポンジでこすったり、雑巾がけをすれば完了。あまり使われてないから掃除は楽。ちょっと複雑な気分。
 まだ洗濯は終わってない。じゃあ、掃除機をかけよう。全体的にゆっくり、何度もヘッドを往復させる。あまりゴミは落ちてないし、この程度の埃ならすんなり吸える。掃除は楽だけど、掃除をしたっていう充実感というか、そういうものが少ない。勝手な話だけどやっぱりちょっと複雑。あっさり終わるのもなんとなく癪だから、細かいところのも掃除機のヘッドを伸ばす。と言っても、祐司さんの家には掃除機のヘッドを挿し込むような隙間はあまりない。せいぜい机の下とベッドの下くらい。ベッドの下には…何もない。エッチな本の隠し場所の定番らしいけど…、考え過ぎか。そういう本が出て来ないことに、複雑な気分。それは私で満足しているとも取れるし、強引に欲求を抑え込んでいるだけとも取れる。後者だとしたら、潤子さんの指摘が此処でも丸々当てはまる。妻を公言しておきながら、祐司さんに散々我慢させているとしたら?それって…半ば拷問じゃない?
 本当に私は…何をしてるんだろう?祐司さんに力いっぱいアプローチして早々に指輪を填めてもらって、妻の座を貰って…、私がしてほしいことばっかりで、祐司さんの求めに何を応えてる?月曜の朝にご飯を作ってるくらいじゃない?潤子さんが言ってたこと、そのままだ…。情けなくてどうしようもない気分を、掃除機のヘッドを動かす手に向ける。この気分を根こそぎ吸い取って、妻らしい自分になるために。もう…迷ったり悩んだりする必要はない。私は、祐司さんの妻なんだから。至らなかったところを改めて、祐司さんの理想像に少しでも近づけていこう…。
 掃除完了。さっぱり綺麗になった。布団カバーを干して、新しいものと入れ換える。場所は探す必要があったけど、探す場所は限られてるから苦労の内に入らない。まだ真新しさが残る布団カバーをかけたベッドに腰掛ける。この布団で寝たことって、本当に少ないわよね…。時間は…まだ昼前。私の家と変わらないくらいの広さで、ものは私の家より少ないから、本当にあっさり終わっちゃった。こうなるともう手持無沙汰。外に出ても私独りだとつまらないし、この家で、祐司さんの家で、祐司さんが帰ってくるまでの退屈な時間を過ごそう。それが一番。
 家から持ってきた本を広げる。長い独りの時間を過ごすには、こういうハードカバーの本を読むのが安全で不要なお金もかからない。時間がたっぷりあるのは嬉しいけど、祐司さんが居ないと、時間の粘性が凄いと改めて感じる。祐司さんなしでは生きて行けないようなものなのに、私は祐司さんにあまりにも我慢を強いていたのよね…。
 少し早いけど…、お昼ご飯にしよう。!そういえば食材は…。私としたことが迂闊。祐司さんの家に食材があると思い込んでた…。元々自炊をしないし、1週間も家を空けてるんだから、十分な食材があることを期待する方がどうかしてる。本当に私、何やってるんだろう…。落胆してても食材は出て来ない。大人しく家に取りに行こう。二度手間なのは大した距離じゃないからどうでも良い。祐司さんの家に自由に出入りできる身でありながら、祐司さんの事情を碌に把握してないことが情けなくてならない。祐司さんに「妻としての自覚が足りない」と言われないのが不思議なくらい。
 2つの家を往復しながら、潤子さんに言われたことを反芻する。私は、祐司さんのことを全て理解していると思っていたけど、それは勝手な思い込みだった。ただ、妻の座を得て安泰と思い上がっていただけ。それどころか本当に、祐司さんから何時愛想を尽かされるか分からないくらいの状況かもしれない。祐司さんが出来ないこと、苦手なことは、私が出来ること、得意なこととほぼ一致する。だったら…、それをもっと積極的にしよう。祐司さんに頼まれるのを待つんじゃなくて、私から打って出よう。妻の座を得られたなら、それに座して待つだけじゃ座布団を没収されるだけなんだから。
 お昼ご飯は軽めにサンドイッチ。軽くトーストした食パンにマヨネーズを塗って、レタスやトマト、チーズを挟んで、塩を少し。これを対角線で切れば出来あがり。祐司さんは結構よく食べるし、もっと食べ応えのあるものにするけど、私独りなら適当で良い。飲み物は…、紅茶よね。祐司さんの家にはインスタントコーヒーがあるけど、何故かコーヒーはあまり舌に馴染まない。紅茶を嗜むようになったのはこの町に来てからだけど、コーヒーより安心して飲める飲み物があることが、私には嬉しかった。洋式の飲み物っていうと、大体何処もコーヒーなのよね。祐司さんが紅茶に馴染んでくれて安心したし、嬉しかった。食べ物や飲み物の嗜好はなかなか変わらないし、どちらかが譲歩するのもストレスになる。食の好みが共通しているってのは、交際のみならず結婚や夫婦生活を続けていく上で、意外と重要なことなんだって思う。
 音のない、静かな部屋で黙々とお昼ご飯。静かなのは良いけど、やっぱりつまらない。祐司さんが居るのと居ないのとでは、時間の流れ方も感じ方も違う。でも…、将来祐司さんが出張とか、場合によってはコンサートとかで何日か家を空けることになるから、独りの時間をやり過ごせないと祐司さんの足手纏いになる。それに、子どもが出来たら寂しいとか言ってられない。私独りならこうして家に籠って時間が過ぎて祐司さんが帰ってくるのを待てば良い。だけど、子どもはそうはいかない。小さければ尚更。そんな時、私が寂しい寂しいと言ってたら、祐司さんは気が気じゃないだろうし、子どもはどうすることも出来ない。
 …本当に私は、妻としての自覚が足りない。否、なさ過ぎる。潤子さんが一番言いたかったのはこのことなのかも…。ただ結婚すれば夫婦なんじゃなくて、弱点を補い合ったり助け合ったりすること。感謝したりされたりすること。私はそれがどうにも足りない。祐司さんからもらう安心感や満足感、幸福感に浸りきって、私からは何が出来ているか怪しいレベル。祐司さんが帰省して1週間ほど独りの生活をすることになって、ようやく私に足りないこと、私がすべきことが分かった気がする。祐司さんから見れば、何を今更だと思う。気付かないふりをしてくれていたことへのせめてものお詫びが、祐司さんが帰って来てから出来るようにしないとね…。
 時間は昼下がりから夕暮れ、そして夜へと流れていく。孤独な時間を独り過ごし続ける。晩御飯を少し遅めにしてみたけど、焼け石に水そのもの。祐司さんが帰ってくるのは…明日だと良いな。確か、明日が成人式だから、それが終わったらそのままこっちに…。勝手な期待だけど、そうせずにはいられない。この1LDKの空間は、今の私には広過ぎる。この時間は、今の私には長過ぎる。…横になってみよう。普段なら余程疲れてないと-バイトを始めた頃はそうだった-寝る前に横になることはないんだけど、何となくそうしていないとやり過ごせない気がしたから。
 ベッドの掛け布団を捲って、横になる。祐司さんが何時も寝ている場所。祐司さんが寝るまでの一時、何を考えてるんだろう?レポートのこと?お店のこと?私のこと?蛍光灯の横方向に溢れた光に照らされる天井は…、見たことがある。祐司さんに抱かれた時に。
 勿論、冷静にこんな天井なのかと眺めてたわけじゃない。絶えず襲い来る快楽とずっと続く幸福に浸って、祐司さんの下でシーツを握って喘いだ。祐司さんが絶頂に達した瞬間、お腹の中に温かいものが解き放たれて、私のお腹から頭に向かって電流のような強烈な快感が走り抜けて、私も絶頂に達した。私の上で動く祐司さんを、快感の荒波に耐えながら垣間見た。今見ている天井を背景にして、荒い呼吸と共に力強く動いていた。ただ自分が気持ちよくなりたいんじゃなくて、私も気持ち良くしたい。祐司さんの表情と動きから、そんな祐司さんの気持ちが読み取れた。
 祐司さんは絶頂に達した後、私に覆い被さって抱きしめてくれた。私の身体の外側からも、内側からも、祐司さんの温かさに満たされた。強い幸福感と満足感を覚えながら、私は祐司さんとキスをして、そのまま体勢を入れ替えて、私が祐司さんの上で動いた。自分が動くたびに、硬くて熱いものが下から突き上げて来た。祐司さんが上の時とはまた違う快楽が私を襲った。快楽と幸福で変な声を出しそうになるのを堪えようと、その都度祐司さんの両脇に手を突いて小休止した。その時見た祐司さんは、私を見つめて懸命に耐えているような顔をしていた。
 私が動いているうちに、祐司さんの手が私の身体を下から上へと移動した。腰からウエスト、腕、そして胸へ。胸を掴んだ手に力がじわじわ籠っていくのを感じて、祐司さんの絶頂が近いと察した。ひたすら動いていると、私の胸を掴んだ祐司さんの両手に急に力が入った瞬間、私のお腹の中に温かいものが迸った。下から勢いよく温かいものが迸ると同時に、強烈な快楽が下から上に走り抜けた。脳天を突きぬけた快楽と、お腹の中にじんわりと広がる温かいもの、そして全身を包む幸福に、私は祐司さんの上で浸った。快楽が長い余韻の後に消えると、私は祐司さんに覆い被さるように倒れ込んだ。
 祐司さんは、毎日この天井を見ている。あの夜、私が上になって動いている時、祐司さんはこの天井を背景にして動く私を見ていたのよね…。あれから祐司さんは、天井を見るたびに私が動く様子を思い浮かべていたのかしら…。抱こうにも抱けない悶々とした思いを抱きながら…。
 あと何日かで、祐司さんは帰って来る。その時、私がこの家で待っていたら…、喜んでくれるかしら?驚くのが先かしら?「帰って来て良かった」って思ってもらいたい。そのためには…、晩御飯も大事よね。祐司さんの好物と言うと…、鳥の唐揚げ。これに決まりね。
 …あっ!何時の間にか寝入ってしまってた!うっかりしてた…。こんなに気が緩んでてどうするの?時間は…、幸いにして9時前。寝過して電話をかけるのが遅くなった、なんて祐司さんに顔向けできない。その瞬間に愛想を尽かされるかもしれない。動悸が鎮まらない。折角の時間なのに・・・。水を軽く1杯飲んでみる。ゆっくりとだけど、動悸が鎮まっていく。動悸はかなり声に出る。電話越しに変な抑揚が出たりしたら、祐司さんは何があったと訝るだろう。自分が居ないところで何をしてるんだ、とさえ思われかねない。
 胸に手を当てて動悸が完全に消えたのを確認。ようやく電話の時間。祐司さんの家の電話は、食器棚の上にある。祐司さんのご実家に祐司さんの家から、私が電話をかける。ちょっとややこしいような、ちょっと嬉しいような。ダイアルする時に緊張が高まるのは変わらない。

「はい。安藤でございます。」
「夜分に申し訳ありません。私、井上晶子と申します。」

 3回目のコール音の後にお母様が出る。私が挨拶。此処まではどうにか慣れた…つもり。やっぱり緊張するなぁ…。お父様よりお母様の方が緊張する。これが声になって伝わってないと良いけど。

「あら、井上さん。こんばんは。祐司に代わりますね。」
「はい。お願いします。」

 声の調子が変わったお母様は、早速祐司さんに代わってくれる。祐司さんの彼女として認知されたとみて良いかな?

「もしもし。お電話代わりました。祐司です。」

 聞きたかった声が耳から流れ込んで来て全身を温かく満たす。同時に、申し訳ない気持ちが湧きあがって来る。妻と言いながらあまりにも至らない私を責めるでもなく、普段の穏やかな口調のまま語りかけてくれる。

「祐司さん。こんばんは。今日は親戚回りはしなかったですか?」
「ああ。今日は1日家に居た。二日酔いが酷くて昼頃まで頭が痛かったり気分が悪かったりしたけど。」
「昨日は酔っていて辛そうでしたよね。今はどうですか?」
「今はもう平気。俺はやっぱり酒があまり飲めない体質だ、って改めてよく分かった。」

 昨日の祐司さんは凄く辛そうだった。酔いは適度なら気持ちいいけど、度が過ぎると感覚はなくなるし身体の彼方此方がおかしくなる。昨日の祐司さんは、何とか意識を繋いで私の電話の相手をしてくれていたのよね…。本当に私は妻としてあまりにも至らないことばっかり…。飲み過ぎないように、なって偉そうなこと、今の私は口が裂けても言えない。

「晶子は、マスターと潤子さんの家に居るのか?」
「いえ、今日帰りました。長居するのは良くないと思って。」
「そうか。俺は、明日成人式が終わったら帰るから。」

 え?明日…帰って来る?成人式が終わったら直帰?私が聞きたかったことを、祐司さんが先に答えてくれた。

「明日、成人式が終わるのって、遅くなるんじゃないんですか?お友達とお食事に行ったりとかして。」
「否。元々俺はバンド仲間との約束を果たすために行くんだし、連中もそれで終わりってことは合意してる。だから、終わったら帰るよ。」
「そうなんですね。明日帰って来てくれるんですね。私、待ってますから。」

 自分でも声が弾むのが分かる。言ってから露骨だったって思うけどもう手遅れ。嬉しいのは間違いないんだし、下手に隠したり気取ったりしない方が良い。祐司さんには特に。

「そうしてくれ。胡桃町駅に着いたら電話するから。」
「はい。明日は楽しんでくださいね。そのお話を聞かせてくれるのを楽しみにしてます。」
「ああ。待っててくれ。」
「…あっ、つい長話に。御免なさい。お母様に代わっていただけますか?」
「分かった。ちょっと待って。」

 有頂天になってしまった。顔が綻ぶのが止まらない。直接お話したらあからさまに表情が変わった、って思われるかも…。こういう時だけ、声だけの電話で良かったと思ってしまう。

「お電話代わりました。毎日ご丁寧にありがとうございます。」
「今日はつい長電話になってしまいまして、申し訳ありません。」
「あー、いえいえ、気にしないでください。井上さんのような礼儀正しいきちんとしたお嬢さんなら、安心していられますわ。」
「ありがとうございます。」

 お母様の口調は明るいまま。どうやら悪い印象に転じてはいないみたい。祐司さんは明日帰って来る。帰って来てから好きなだけお話できる。それも顔を見て、触れることも出来る距離で。だから、今は我慢。最後の最後で悪い印象を持たれたら、祐司さんに迷惑がかかる。

「祐司は成人式に出たら帰るって前から言ってたんですよ。これからも仲良くしてやってください。」
「はい。勿論です。私は日頃祐司さんにお世話になっていますので。」
「祐司が迷惑をかけるようなら、電話して来てくださいね。じゃあ、祐司に戻しますので。」
「お願いします。」

 この毎日1回の電話の時間はもう直ぐ終わる。名残惜しいけど、明日になればもっと長く、楽しくて幸せな時間が戻って来る。その時までの我慢。

「祐司です。明日は何時頃家に居る?」
「出かける用事はないので、終日家に居ますよ。」
「そうか。それじゃ、胡桃町駅に着いたら電話する。」
「はい。待ってますね。…お休みなさい。」
「ああ、お休み。」

 気持ちゆっくり2つ数えて受話器を置く。毎日の楽しみは今日で終わり。だけど、明日からはもっと楽しくて幸せな時間が、もっと長く楽しめる。この家で、祐司さんの家で祐司さんの帰りを待つ。その時を迎えるためにも…。
 お風呂に入ってホットミルクを飲む。身体がホカホカ温まる。祐司さんの家で私独りで過ごす夜は、これが初めて。寝る場所は勿論祐司さんのベッド。祐司さんが1日の終わりを迎えて1日の疲れを癒す場所で、私が祐司さんに抱かれた場所。何だかドキドキする。明日は万全の態勢で迎えたいから、ホットミルクを飲みほしたら寝る時間。コップを洗って歯磨きをして、灯りを消してベッドに入る。身体を右に倒して、暗闇にうっすら浮かぶ祐司さんのデスクやシンセサイザを見る。祐司さんが日々を過ごす様子が見えて来るような気がする。暮らす人が不在の家で、独り過ごして寝ようとしている私。寝る場所はこの家で暮らす人が寝る場所。何となく順応しきれていないような感覚を覚えるのは、それだけこの家に来ていない証拠。普段どおり過ごして寝られるくらいこの家に出入りしないと、妻どころか彼女としての位置づけも消えてしまう。
 今日は…、私がいかに至らないかを何度も思い知らされた日だったな…。だけど、妻の座を手にして浮かれて胡坐をかいていた私には良い薬になった。そもそも、潤子さんに指摘されるまで、胡坐をかいていたことすら気付かなかったくらいだし、多めに処方されても足りないくらいかもしれない。薬に依存するわけにはいかない。指摘されるのが当たり前になってしまったら、それこそ祐司さんに愛想を尽かされる。この家で過ごすのが当たり前に感じるようになるまで、自分を見つめ直して精進しないとね…。祐司さんが「見違えたな」と思ってくれるくらい…。

おやすみなさい、祐司さん・・・。

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