渋滞はずっと続いている。何処からこれだけの車が集結しているのか、と思うくらい。そんな中でも車内は至ってのんびり。何時かまだかとピリピリカリカリする様子は欠片もない。渋滞で最もイライラする筈の運転をマスターが続けてるけど、イライラの様子は全然ない。それどころか、車内に流すBGMに合わせて鼻歌を歌ったり、歌詞がある曲だと口ずさんだりする。助手席に居る潤子さんも同じ。渋滞を避けようとか別の角度から生じるイライラを1つも出さずに、マスターと同じくBGMに合わせて口ずさんだりしている。「余裕たっぷり」って表現はまさに、今のマスターと潤子さんを表現するために使うものだと思う。
待っていればそのうち入れることは頭では分かるけど、そこまでの時間は長い。だから渋滞を嫌がる。運転する人も同乗する人も。だけど、マスターと潤子さんは渋滞をむしろ楽しんでさえ居る。渋滞の列が少しでも動くと、それぞれが提示した到着までに要する時間を双方譲らずに和気藹々と言い合っている。どうしてこんなに余裕で居られるのか理屈では分かるつもりだけど、それを自然体で実践出来るマスターと潤子さんはやっぱり凄い。
「去年、晶子ちゃんは祐司君と初詣に来たのよね?月峰神社に。」
前方で談笑していたところで急に話を振られて、私は一瞬当惑する。「は、はい。」
「その時は電車だったんでしょ?祐司君、確か車持ってないから。」
「はい。」
失恋の痛みや悲しみは私も経験したんだから分かるつもり。だったら私が率先して祐司さんの実家近辺に行くことから話を逸らすべきだった。どうして私は後悔することが多いんだろう?後で悔やむから後悔なんだけど、実家とも親とも、今までの過去からも断絶したくて今の大学に入り直して、実家を出て一人暮らしを始めたことが失恋が最大の火種だった私なら、失恋の生傷に触れられることがどれほど嫌か分かるはずなのに・・・。
「電車って混んでる?」
「凄い混雑でした。最寄駅から神社まで人の波がずっと続いてて、それに流されていきました。」
「電車でも混むのよね。電車だと一旦乗ってしまえば寝ていても目的地に連れて行ってくれるし、渋滞が嫌なら尚更。」
「潤子さんは、電車で月峰神社に行ったことがあるんですか?」
「ええ。会社員だった時代にね。」
「会社員時代は電車だったけど、マスターと出逢って交際するようになってからは、マスターの車でこうやって初詣に繰り出してたのよ。」
聞きたいことを先取りされて回答されちゃった。潤子さんにとってマスターとの結婚は、その後の人生を大きく変える一大転機だったことがよく分かる。「その頃が懐かしく思うのは、歳食った証拠だな。」
「20代に入ると時間の経過が早く感じるから、自然なことよ。」
「俺は、ずっと車だったからなぁ。」
「マスターはずっと車で来てたんですか?」
「そう。俺は高校卒業とほぼ同時期に車の免許取って、以降潤子と結婚して落ち着くまでジャズバーを回ってた時代は、ずっと移動の基本は車だったんだ。」
「電車に乗ったのは・・・潤子の実家に行った時が最後か?」
「そうね。それ以降はずっと車で行動してたし。」
私は既成事実を強引に積み重ねることで、祐司さんとの関係を築いてきた。私の誕生日にプレゼントしてくれたペアリングを左手薬指に填めてもらったのは、私に一大決心をさせるに十分だったから。この男性と結婚する、この男性と生涯を共にしたい、という決意の証として、祐司さんに強請って填めてもらった。そして、祐司さんがけじめとして自分で設けた20歳の誕生日に、私自身をプレゼントした。祐司さんとセックスすることで、愛の誓いを交わしたつもりで居た。だけど、幾ら既成事実を積み重ねても、本物には遠く及ばない。田畑先生との一件でそれを痛感させられた。それで安心していた私の軽率な行動が、祐司さんとの関係と祐司さんの信頼を破綻させてしまった。
潤子さんが仲裁してくれてどうにか関係は修復出来た。でも、信頼まで100%回復したとは思っていない。思う資格もない。祐司さんが帰省して独りになっている今だからこそ、祐司さんに少しでも疑われることをしないようにする。まずはそこから。
行動や真相を上手く言葉で覆い隠したつもりでも、何かの拍子で判明してしまう。その時の人間関係や信頼に与える衝撃は、最初から真相を明かすよりずっと強くて人間関係や信頼を築くために要した時間や労力とは比較にならない短時間で、しかも簡単に破壊する威力を持つ。あの時の私には、そんな簡単なことさえ分からなかった。左手薬指に指輪を填めていれば安心と思い込んでいたために生じた慢心が生み出した盲信。今この時も祐司さんの信頼を回復させている、と思って行動には注意しないといけない。特にマスター以外の男性との接点は。見えないところで努力することが信頼獲得に繋がる。祐司さんが居ない今はまさにその時。祐司さんとの絆を本物にするために、今努力しよう。
「電車だと駅からどういうコースで神社の敷地に入るんだ?」
「確か・・・駅からは割と短距離なのよ。歩いてそんなに時間はかからなかった筈。」
「そうです。混雑は凄いですけど、神社の敷地までの時間は短かったです。」
「車だと駐車場から結構歩かされるからなぁ。」
「どの駐車場に停められるかにもよるわね。」
「月峰神社にも幾つか駐車場があるんですか?」
「あるよ。神社が所有するものは神社を取り囲む形で近いところにあるけど、年末年始とかはそれだけじゃ入りきらないから、近所の土地持ちが一斉に臨時駐車場を作って車を呼び込むんだ。駐車料金が神社のより割高だし、距離も場所によっては電車一駅とはいかないまでも結構あるけど、近隣は路上駐車禁止だし、この時期そんな余地もないから、神社の駐車場が空くのを延々と待つより臨時駐車場に車を入れる方が早いんだよ。」
車は便利だと思っても意外と不自由することがある。駐車場は有限だから、空きがなかったら入れない。空くまで待つか撤退か、違反覚悟で路上駐車するかの選択を迫られる。私も車の免許を取ってるけど、今後車を買って乗ることは余程の必要性に迫られない限りないと思う。渋滞の他に、日頃から確保しておかないといけない駐車スペースの問題もあるし、何より維持費がかかる。持っているだけでも税金だ車検だでかなりの金額を要する。でも、一度自分で行動出来るようになると、その便利さにどっぷり浸って車以外使わなくなる。どんな近距離でも車で、と考える。それが車の麻薬的特質。
マスターは徒歩では無理な距離を生活のために彼方此方行き来する必要があったんだろうから、そういう場合は車が必要だけど、徒歩や自転車で十分行ける距離でも車を使うことには首を傾げる。車の数を無闇に増やすだけだし、それが渋滞の悪化や無駄な道路を作らせる口実になってしまう。一緒に過ごしていた時にちょっと聞いてみたけど、祐司さんは車を持つつもりはないと言っていた。そんな金があるならギターや音源を買う、とも。私はそれに賛成。車であそこに連れて行ってとか言うつもりは毛頭ないし、祐司さんと一緒に暮らせればそれで良い。それが一番望むこと。
「さてさて、今年はどの駐車場に入れるかな。」
「この時間でこの位置だから、夜行バスで来た団体客が抜けて割と神社付近の駐車場に入れると見てる。」
「団体客が居れば尚更、遠くの駐車場じゃないと入れないと俺は見るな。団体客は初詣以外に神社全体の観光も兼ねてるから。」
既成事実を重ねて祐司さんとの絆を構築して、構築したことに安心しきっていた私じゃまだまだ及ばない。夫婦の理想形の1つを間近で見せてくれている今、学べるものを学んで祐司さんの相手として、ううん、妻として祐司さんの心に確固たる基盤を築かないといけない。
祐司さんは二股がけする男性(ひと)じゃない。私はそう確信出来る。でも祐司さんから見た私はそうなってないと思う。自分が帰省している間に自分の目が及ばないのを良いことに浮気してるんじゃないか、と疑念を抱かせる材料になることを、私はしてしまった。疚しいことをすれば、上手く隠したつもりでもふとした弾みに鍍金(めっき)が剥がれてしまう。今度はもう、完全な破局しか道はないと思ってる。日頃忙しい学業とバイトを両立させている祐司さん。高校時代のお友達との約束を果たすのを兼ねて帰省して、全体的にはゆっくり寛いでいると思う。祐司さんが戻ってきた時、私が待っていて良かったと思えるように少しでも自分を磨いておかないとね・・・。
2時間後、私とマスターと潤子さんを乗せた車は、臨時駐車場の1つに入った。全員が車を降りてマスターがドアをロックする。広大とは言い切れない広さの臨時駐車場に、大小様々の車が鮨詰めになっている。途中通過した臨時駐車場は、車から見た限りでは表示どおり-看板が出ていた-車を停める余地は少しもなかった。車が数台抜けたのを敏感に察知したマスターが、前の車と一緒に空いた分の駐車スペースに入り込んだ格好。間に合わなかった車が駐車場から出ようとして、なかなか動かない車列に入る隙を窺っている。
「俺の予想どおりだな。」
「団体客がごっそり抜けると思ったんだけどねぇ。」
「晶子ちゃん。私とマスターから離れないようにね。」
「は、はい。」
「人が多いからはぐれちゃうといけないし、晶子ちゃんに悪い虫がついたら、私とマスターは祐司君に成敗されないといけないから。」
「井上さんは大丈夫さ。」
「あら、どうして?」
「左手薬指に燦然と輝いてる印籠があるんだ。それを拠点にすれば悪い虫のつきようがない。」
「そうね。あの指輪を見たら、おいそれと手を出せないわよね。だけど、晶子ちゃんくらいの美人が独りで居るとなると、目に付きやすいんじゃない?」
「それは確かに。どうも年末年始に発情期を迎える輩が多いからな。」
指輪、イヤリング、ペンダント。祐司さんからプレゼントされた3つのアクセサリーと祐司さんで、私は十分。イヤリングは仕方ないけど、指輪とペンダントは祐司さんも同じものを身に着けている。その事実だけで十分だし、もうプレゼントに頭を悩まさないで欲しい。私は祐司さんが居てくれれば十分だから。私からは手編みのセーターを贈った。帰省するために私の家を出る際にも着ていってくれた。同じく私の手編みのマフラーも一緒に。
雑誌とかの喧伝に乗じると、クリスマスは恋人とベッドインとなるところ。でも、祐司さんはその機会が十分あったけど私を求めてはこなかった。抱いて抱かれてだけの関係になることを、祐司さんは凄く恐れている。分かっているつもりだから、私から求めることもしなかった。既成事実の積み重ねでも、過去の痛みを乗り越えて私と真剣に向き合ってくれる祐司さん。その真摯な思いに応えられるだけの存在になったら、祐司さんは愛情表現の一環としてのセックスの相手として私を求めてくると思う。もうこの女とセックスをしても、セックスだけの関係になることはない、と安心して。
「こういう場所では多分、そういった輩が群れを成して獲物を探してるだろうから、一応晶子ちゃんは要注意、ね。」
「はい。」
「モデルガンでも持ってくれば良かったかもな。」
「あなた。それは警察沙汰になるから止めて。」
「私もそう思います。」
「おいおい。即座に一致団結するなよ。」
何れにせよマスターと潤子さんの言うとおり、初詣に便乗してその場限りでも良いから女性を連れて歩きたいと考えている男性は居ると思った方が自然。クリスマスが過ぎた昼下がりに、私が独りで店の品物を眺めていただけでも、同じような男性の集団が近寄ってきたし。あの時と同じように、毅然とした態度で指輪を見せる。こうすれば、祐司さんに疚しいと思えることにはならない。マスターと潤子さんからはぐれないようにしないのは勿論だけど、声をかけられた場合に即座に毅然とした態度で退けられるかが、今の私に課された試練だと思う。祐司さんが最大の信頼を置けるだけの存在になれるかどうかが、年初めの今日から早速試される。頑張っていかないとね・・・。
神社に近づくにつれて、人の波が厚く大きくなっていった。電車で参拝しに来た人達が合わさって、凄い混雑。押し合いへし合いどころか、鮨詰めのまま少しずつ前に動く状態が延々と続いた。去年祐司さんと初詣に来た時も凄い混雑だったけど、此処まで凄くはなかったと思う。時間帯の違いかな・・・。どうにかマスターと潤子さんからはぐれることなく境内に入っても、四方八方から圧迫され続ける人の波は少しも和(やわ)らがなかった。
やっとのことで神社本殿の前に到着したと思っても、人の壁で前がまともに見えなくて、自分の目で確認するどころじゃなかった。賽銭を出来るだけ遠くに投げて、祐司さんとの関係がずっと続くことを願うのがやっと。警察官の拡声器での案内どおりに少しずつ動く人の壁に挟まれて退かざるをえながった。参拝じゃなくて、人の壁に挟まれての非常にゆっくりとした境内巡回と言った方が良いと思う。
どうにか参拝、ううん、境内巡回を終えて、境内にある大きな休憩所に入った。そこで無料で配られているお茶を飲んでほっと一息。今年の混雑は例年どおりだった、とマスターと潤子さんはは言っていた。時間帯の違いかな。
休憩所を出て少ししたところで、私はトイレに行きたくなった。人の波から脱したことで急に冷気に晒されたのが原因だと思う。境内には公衆トイレがあるけど特に女性用が混雑するから休憩所のトイレを使った方が良い、との潤子さんの助言を受けて、私はそこで待ってもらうよう頼んで休憩所に戻った。混んではいたけど順番待ちの行列が出来るほどじゃなかったから、トイレは無事完了。
そこで安心したのが油断を生んだんだろう。私はマスターと潤子さんが居る場所が何処だったか、分からなくなった。おおよその方角は分かるんだけど、参拝を終えた人達がたくさん休憩所があるエリアに雪崩れ込んできたから、正確な位置関係が分からない。マスターと潤子さんを見つけようにも、私の身長だと全体を上から展望して、なんてことは出来ない。この距離なら簡単に戻れると思い込んでいたせいか、目印らしいものを設けてこなかった。もっともこの混雑の中じゃ、目印になるものを記憶していたとしても見えなくて意味を成さなかったかもしれない。マスターと潤子さんを待たせるわけにはいかない。早く戻らないと・・・。でも、この混雑で独りじゃ、思うように動けない・・・。困ったなぁ・・・。
「ねえねえ彼女。どうしたの?」
声に振り向くと、コートを着た若い男性の集団が巧みに人の波を避けて私に近づいてきた。数は10人ほど。マスターと潤子さんが言っていた「発情期を迎えた」人達だと直ぐ分かる。私を見る目が「絶好の獲物を見つけた」とばかりに嫌な輝きを放ってるから。「1人なら、俺達が案内してあげるよ?」
「いえ、待ち合わせていますから。」
「この混雑の中じゃ、待ち合わせたって無駄だって。なあ?」
「そうそう。俺達と一緒の方が安全だって。」
「ま、固いこと言わないでさぁ。」
「ちょ・・・!」
「一緒に参拝しようよ?」
「お断りします!」
「そんな頑なにならなくたって。なあ?」
「そうそう。俺達がしっかり護衛差し上げますよ?お姫様。」
「私は人妻です!」
「え?!」
「結婚してるの?」
「そうです!だから男性からのお誘いは一切お断りします!」
「でも結婚してるのにさぁ。旦那が一緒に居ないのはおかしくない?」
「そんな冷たい旦那より、俺達が十分温めてあげるって。心も身体も。なあ?」
「そうそう。」
「さあさあ、こんな狭い場所で引っ張り合いっこするのも何だから、別の場所でゆっくりと・・・。」
「嫌です!これ以上私をどうこうするつもりなら、舌を噛んで死にます!」
「ちょ、ちょっと。何もそこまで。」
「夫以外の男性に服装から出る部分以外の肌を晒すつもりは毛頭ありません!そうさせられるくらいなら、舌を噛んで死にます!」
「今時こんな身持ちの固い女って居るか?」
「居ない居ない。初めて見た。」
「貴重品だぜ?こういう女って。」
「あら、晶子ちゃん。こんなところに居たの?」
「潤子さん!」
「おやおや、美女2人が揃い踏みとは今年は縁起が良さそうだなぁ。」
「お生憎様ね。彼女も私もとっくの昔に人妻なの。それに神聖な境内でナンパなんて止めた方が賢明よ。此処の神様が縁結びの神様だからって、ナンパに加えて本人の同意のない連行っていう質(たち)の悪いものは、縁とは認めてくれないわよ。」
「う・・・。」
「それにね。この娘(こ)は私の義理の妹なの。早急に退散しないと今年1年どころか、一生涯分の幸運を使い切っちゃうことになるかもね。」
「え?」
「おぅ、此処に居たか。」
「あっ、あなた。晶子ちゃんは此処よ、此処。」
「悪いなぁ。今後の混雑を見越して一緒に行くべきだった。ところで・・・。」
「この集団はいったい?」
「貴方の妹の晶子ちゃんを、無理矢理連れ出そうとしてたそうよ。」
「何だと?」
「ひっ・・・。」
「義妹(いもうと)も人妻だって言ってるのに、どうにも理解してくれなかったらしくて。ねえ?」
「は、はい。」
「ふーん、随分とまあ物分りの悪い。・・・で、お前達。俺の妹に何をしようと?ん?」
「いえ・・・。その・・・。」
「「「「「す、すみませんでしたーっ!!」」」」」
恐怖に耐えられなくなった男性達は、悲鳴を上げて懐やズボンのポケットから財布を取り出して、マスターに向かって放り出してから一目散に逃走する。「おいおい。賽銭箱は此処じゃないぞ・・・って、もう遅いか。」
「殺されると思ったみたいね。」
「大袈裟だな。」
「あの・・・、マスター。助けてもらってこう言うのは何ですけど、私もこの場で射殺するのかと。」
「別に何のこともない。コートの内側に入れてあるのは免許証だよ。」
マスターと潤子さんは見逃してもらう代償として差し出された財布を拾う。すっかり姿は見えないし、名前も知らないから呼び出しようもない。・・・呼びたくもないけど。
「この財布は社務所に届けておくか。預かってくれるだろう。」
「そうね。晶子ちゃん、行きましょう。」
「はい。」
「・・・すみませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって。」
落ち着いたところで申し訳なさが前面に出て来る。マスターと潤子さんを探し回らせた上に余計な手間をかけさせてしまった。駄目ね、私・・・。「晶子ちゃんは謝らなくて良いわよ。境内で強引な集団ナンパなんてことする罰当たりの方が悪いんだから。」
「そうそう。晶子ちゃんがしっかり連中を拒否してたみたいだから、その方がずっと良い。」
「何と言っても、新婚さんだもんねー。他の男性に使う色目なんてないわよねー。」
「あ・・・、はい・・・。そう・・・ですね・・・。」
あの時はとっさの判断で口走ったけど、私は祐司さんの妻なのよね。この世に2つとない指輪を填めてもらっているんだから、そう公言出来る。祐司さんは私との関係をあまり周囲に言わない。何でも伊東さんに指輪のことを説明したら半狂乱になったそうだし、女性の絶対数が少ない工学部で女性絡みで目立つようなことをするのはあまり良くないかとは思う。でもそれは、祐司さんが私を自分の妻と公言するだけの信頼を得ていないのが原因かもしれない。
何分去年は田畑先生との一件があった。今はすっかり平静さを取り戻したけど、田畑先生が大学中にばら撒いたメールの悪影響は結構長く尾を引いた。そんな状況を招いた私を妻と言っても信用されなかっただろう。彼方此方で男とセックスしている淫乱女に引っかかった、と嘲笑われる可能性のほうが高い。嫌よね、そんなの。祐司さんが自信を持って私を「自分の妻だ」と公言してもらえるように、今から準備をしていかないとね。
祐司さん、今頃どうしてるかな・・・。
その後、偶然だけど去年も見た境内での新年弓道大会を観戦。お昼ご飯を月峰神社近くのうどん店でご馳走になって、日が沈んだ頃に帰宅。潤子さんと一緒に作ったお雑煮を、おせち料理を摘みながらの晩御飯。マスターと潤子さんの演奏練習に私も参加させてもらった。ゆったりした時の流れが心地良い。マスターが開けた日本酒を飲ませてもらっていると、電話をしたい衝動が強まってきた。時計を見たら午後9時を少し過ぎたところ。祐司さんの家に電話出来る時間。
「マスター。潤子さん。あの・・・。」
「祐司君に電話ね?」
「はい。」
「遠慮なく使って良いよ。」
「ありがとうございます。」
「はい、安藤でございます。」
この声はお母様。一気に酔いが消える。新年最初だから尚更きちんと挨拶しないと・・・。「夜分遅くに申し訳ありません。こんばんは。私、井上晶子と申します。」
「あら、井上さん。あけましておめでとうございます。」
「あけましておめでとうございます。」
「祐司に代わりますね。あの子、結構酔ってるんでまともに挨拶出来ないかもしれませんけど。」
「いえ、構いません。よろしくお願いします。」
「もしもし。お電話代わりました。祐司です。」
聞こえてきた新年最初の祐司さんの声は、酔いに翻弄されそうな意識を辛うじて保ってることが分かる。「祐司さん。晶子です。あけましておめでとうございます。」
「あけましておめでとう。んー。ちょっと声がしっかりしてないと思うけど、今日は勘弁。」
「気にしないでください。今日の親戚周りは大変でした?」
「かなりなー。行く先々で料理と酒が押し寄せてきてさー。折角電話くれたのに、悪いな。ろれつが回ってないかもしれない。」
「いえ。私の方は、マスターと潤子さんに月峰神社へ初詣に連れて行ってもらいました。」
「あー、月峰神社か。去年一緒に行ったよな。行きたかったなー。晶子と一緒に。」
「今、眠いですか?」
「んー。眠いって言うか、頭が回るって言うか、そんな感じ。強い酒もあったからなー。」
「今日はゆっくり休んでくださいね。明日でもお話出来るんですから。」
「悪い。今日は・・・。」
「いえ、私は構いません。ゆっくり休んでくださいね。」
「そうさせてもらう。おやすみ。母さんに代わるから。」
「はい。」
「もしもし、お電話代わりました。祐司の母でございます。」
「井上です。今日はこの辺で失礼させていただきたいと思います。祐司さんにゆっくり休んでいただきたいので。」
「御免なさいね。折角電話で新年のご挨拶をしてくれたのに。」
「いえ、とんでもございません。夜分遅くに申し訳ありませんでした。日を改めてお電話させていただきたいと思いますので、その際はよろしくお願いいたします。」
「ええ、ええ。勿論ですよ。1日すれば酔いは醒めると思いますから。井上さんもゆっくりお休みくださいね。明日も祐司は居ますから電話くださいね。」
「ご丁寧にありがとうございます。・・・では、失礼いたします。お休みなさいませ。」
「あらあら、こちらこそどうもご丁寧に。失礼いたします。」
「ありがとうございました。」
「祐司君はどんな様子だった?確か今日は親戚周りに駆り出されたんだよな。」
「はい。かなり酔ってる様子でした。」
「祐司君も大変よね。ゆっくり正月休みを過ごしたいところなのに。」
「・・・約2年ぶりに新京大学に進学されたお子様が帰省されたんですから、仕方ありません。電話は明日も良いって、お母様も言ってくださいましたから。」
「うんうん。お母様って自然に言えるあたり、祐司君との将来を見据えた気構えが出来てるね。」
気分を切り替えてマスターと潤子さんの酒の席に再び加えてもらう。来年は祐司さんと2人きりで、新年最初のお酒を酌み交わせたら良いな・・・。
お酒が入ったせいか、何だか眠くなってきた。私は今日も一番風呂に入らせてもらう。潤子さんはその間に布団を敷いておいてくれた。世話になってばかりね。まだお酒を飲んでいるマスターと潤子さんに寝る前の挨拶をしてから、2階に向かう。私はまだまだこれからだと今日は何度も実感した。祐司さんが安心して帰ってこられるように、日々精進しないとね。布団に潜ると直ぐ眠気が頭を支配していく。
おやすみなさい、祐司さん・・・。
Fade out...