雨上がりの午後 アナザーストーリー V会社員.3

Chapter 5 on January 1st, a year(Latter part)

written by Moonstone

 1月1日

 渋滞はずっと続いている。何処からこれだけの車が集結しているのか、と思うくらい。そんな中でも車内は至ってのんびり。何時かまだかとピリピリカリカリする様子は欠片もない。渋滞で最もイライラする筈の運転をマスターが続けてるけど、イライラの様子は全然ない。それどころか、車内に流すBGMに合わせて鼻歌を歌ったり、歌詞がある曲だと口ずさんだりする。助手席に居る潤子さんも同じ。渋滞を避けようとか別の角度から生じるイライラを1つも出さずに、マスターと同じくBGMに合わせて口ずさんだりしている。「余裕たっぷり」って表現はまさに、今のマスターと潤子さんを表現するために使うものだと思う。
 待っていればそのうち入れることは頭では分かるけど、そこまでの時間は長い。だから渋滞を嫌がる。運転する人も同乗する人も。だけど、マスターと潤子さんは渋滞をむしろ楽しんでさえ居る。渋滞の列が少しでも動くと、それぞれが提示した到着までに要する時間を双方譲らずに和気藹々と言い合っている。どうしてこんなに余裕で居られるのか理屈では分かるつもりだけど、それを自然体で実践出来るマスターと潤子さんはやっぱり凄い。

「去年、晶子ちゃんは祐司君と初詣に来たのよね?月峰神社に。」

 前方で談笑していたところで急に話を振られて、私は一瞬当惑する。

「は、はい。」
「その時は電車だったんでしょ?祐司君、確か車持ってないから。」
「はい。」

 去年の初詣は、祐司さんと一緒の初めてでもある年越しを祐司さんの家で過ごした夜、祐司さんと相談した結果、祐司さんの実家がある地域の神社に行かないことを前提にして、行き当たりばったりで月峰神社に行こうってことになった。あの時はまだ、優子さんに翻弄された祐司さんの心の傷が完全に-今でも疼くかもしれないけど-癒えてなかったから、実家近辺の神社へ出向くことで祐司さんが優子さんと別れた情報が錯綜している中に飛び込む形になることを避けようとしていた。
 失恋の痛みや悲しみは私も経験したんだから分かるつもり。だったら私が率先して祐司さんの実家近辺に行くことから話を逸らすべきだった。どうして私は後悔することが多いんだろう?後で悔やむから後悔なんだけど、実家とも親とも、今までの過去からも断絶したくて今の大学に入り直して、実家を出て一人暮らしを始めたことが失恋が最大の火種だった私なら、失恋の生傷に触れられることがどれほど嫌か分かるはずなのに・・・。

「電車って混んでる?」
「凄い混雑でした。最寄駅から神社まで人の波がずっと続いてて、それに流されていきました。」
「電車でも混むのよね。電車だと一旦乗ってしまえば寝ていても目的地に連れて行ってくれるし、渋滞が嫌なら尚更。」
「潤子さんは、電車で月峰神社に行ったことがあるんですか?」
「ええ。会社員だった時代にね。」

 潤子さんは、マスターと結婚する前は会社員だったという話は前にも聞いた。勘当と言わしめるほど実家が伝統や格式を持つ会社員が、ジャズバーを席巻していたサックスプレイヤーと結婚して、今の喫茶店を開店するに至ったのはやっぱり不思議。その会社員時代に、潤子さんは月峰神社に行ったことがあるのかぁ。同じ会社の人と行ってたのか、実家の人達と行ってたのか。マスターとの結婚と引き換えに勘当されたことから、年末年始の休暇で帰省した際に実家の人総出で出かけていた、と考えるのが自然かな。

「会社員時代は電車だったけど、マスターと出逢って交際するようになってからは、マスターの車でこうやって初詣に繰り出してたのよ。」

 聞きたいことを先取りされて回答されちゃった。潤子さんにとってマスターとの結婚は、その後の人生を大きく変える一大転機だったことがよく分かる。

「その頃が懐かしく思うのは、歳食った証拠だな。」
「20代に入ると時間の経過が早く感じるから、自然なことよ。」
「俺は、ずっと車だったからなぁ。」
「マスターはずっと車で来てたんですか?」
「そう。俺は高校卒業とほぼ同時期に車の免許取って、以降潤子と結婚して落ち着くまでジャズバーを回ってた時代は、ずっと移動の基本は車だったんだ。」

 高校卒業と同時に車を主な移動手段にしてたのか・・・。マスターは去年42歳になった。高校卒業時に18歳と仮定して、乗車歴24年。車で行動してる年数の方が多い計算。マスターが活動拠点としていたジャズバーがどの位置にあるのか知らないけど、複数だったと考えるのが自然。小宮栄は人が多いし、車も多い。私は今の町に来た時に電車を乗り継いできたし、生活の拠点にしているマンションに初めて出向いた時は駅から歩いた。今の通学路とほぼ同じ道を独り歩いた。だから、小宮栄の車での交通事情には疎いけど、複雑で混み合ってると考えるべき。その中を高校卒業後直ぐに車で移動してたなんて、活動的だなぁ。

「電車に乗ったのは・・・潤子の実家に行った時が最後か?」
「そうね。それ以降はずっと車で行動してたし。」

 潤子さんの実家近辺の交通事情は、何処にあるのかさえ分からないから尚更分からないけど、電車で行くのが基本っていう地域は、割と地方が多い。地方は最寄の電車の駅から徒歩とバスを組み合わせて目的地へ出向くっていう行動形式が多いから、潤子さんの実家はやっぱりその周辺では名家と称されるところだったんだろう。となれば、女性の結婚相手は所謂エリートと称される職業が必然的に要求されるもの。そんな環境で、ジャズバーやミュージシャン仲間では有名でも、言葉は悪くなるけど社会的認知度が低いミュージシャンを連れて来たとなれば結婚に猛反対するだろうし、押し切ろうとすれば勘当もされるだろう。それでも潤子さんは、マスターとの結婚を選んだ。そして、祐司さんと私が働かせてもらうまで2人で今の店を切り盛りしてきた。
 私は既成事実を強引に積み重ねることで、祐司さんとの関係を築いてきた。私の誕生日にプレゼントしてくれたペアリングを左手薬指に填めてもらったのは、私に一大決心をさせるに十分だったから。この男性と結婚する、この男性と生涯を共にしたい、という決意の証として、祐司さんに強請って填めてもらった。そして、祐司さんがけじめとして自分で設けた20歳の誕生日に、私自身をプレゼントした。祐司さんとセックスすることで、愛の誓いを交わしたつもりで居た。だけど、幾ら既成事実を積み重ねても、本物には遠く及ばない。田畑先生との一件でそれを痛感させられた。それで安心していた私の軽率な行動が、祐司さんとの関係と祐司さんの信頼を破綻させてしまった。
 潤子さんが仲裁してくれてどうにか関係は修復出来た。でも、信頼まで100%回復したとは思っていない。思う資格もない。祐司さんが帰省して独りになっている今だからこそ、祐司さんに少しでも疑われることをしないようにする。まずはそこから。
 行動や真相を上手く言葉で覆い隠したつもりでも、何かの拍子で判明してしまう。その時の人間関係や信頼に与える衝撃は、最初から真相を明かすよりずっと強くて人間関係や信頼を築くために要した時間や労力とは比較にならない短時間で、しかも簡単に破壊する威力を持つ。あの時の私には、そんな簡単なことさえ分からなかった。左手薬指に指輪を填めていれば安心と思い込んでいたために生じた慢心が生み出した盲信。今この時も祐司さんの信頼を回復させている、と思って行動には注意しないといけない。特にマスター以外の男性との接点は。見えないところで努力することが信頼獲得に繋がる。祐司さんが居ない今はまさにその時。祐司さんとの絆を本物にするために、今努力しよう。

「電車だと駅からどういうコースで神社の敷地に入るんだ?」
「確か・・・駅からは割と短距離なのよ。歩いてそんなに時間はかからなかった筈。」
「そうです。混雑は凄いですけど、神社の敷地までの時間は短かったです。」
「車だと駐車場から結構歩かされるからなぁ。」
「どの駐車場に停められるかにもよるわね。」
「月峰神社にも幾つか駐車場があるんですか?」
「あるよ。神社が所有するものは神社を取り囲む形で近いところにあるけど、年末年始とかはそれだけじゃ入りきらないから、近所の土地持ちが一斉に臨時駐車場を作って車を呼び込むんだ。駐車料金が神社のより割高だし、距離も場所によっては電車一駅とはいかないまでも結構あるけど、近隣は路上駐車禁止だし、この時期そんな余地もないから、神社の駐車場が空くのを延々と待つより臨時駐車場に車を入れる方が早いんだよ。」

 大きな神社、特に初詣客を呼び込む神社の駐車場事情は、月峰神社でも同じなのね。去年祐司さんと初詣に来た時は人の波に流されるままに進んで、気付いたら屋台が並ぶ通りまで来ていて、そこでモツ煮込みとフライを食べた。駅からそこまでの時間は、待ち時間を感じないほど短かった。一方車だと渋滞をようやく乗り切ったと思ったら、今度はそこから相当の距離を歩かされる。
 車は便利だと思っても意外と不自由することがある。駐車場は有限だから、空きがなかったら入れない。空くまで待つか撤退か、違反覚悟で路上駐車するかの選択を迫られる。私も車の免許を取ってるけど、今後車を買って乗ることは余程の必要性に迫られない限りないと思う。渋滞の他に、日頃から確保しておかないといけない駐車スペースの問題もあるし、何より維持費がかかる。持っているだけでも税金だ車検だでかなりの金額を要する。でも、一度自分で行動出来るようになると、その便利さにどっぷり浸って車以外使わなくなる。どんな近距離でも車で、と考える。それが車の麻薬的特質。
 マスターは徒歩では無理な距離を生活のために彼方此方行き来する必要があったんだろうから、そういう場合は車が必要だけど、徒歩や自転車で十分行ける距離でも車を使うことには首を傾げる。車の数を無闇に増やすだけだし、それが渋滞の悪化や無駄な道路を作らせる口実になってしまう。一緒に過ごしていた時にちょっと聞いてみたけど、祐司さんは車を持つつもりはないと言っていた。そんな金があるならギターや音源を買う、とも。私はそれに賛成。車であそこに連れて行ってとか言うつもりは毛頭ないし、祐司さんと一緒に暮らせればそれで良い。それが一番望むこと。

「さてさて、今年はどの駐車場に入れるかな。」
「この時間でこの位置だから、夜行バスで来た団体客が抜けて割と神社付近の駐車場に入れると見てる。」
「団体客が居れば尚更、遠くの駐車場じゃないと入れないと俺は見るな。団体客は初詣以外に神社全体の観光も兼ねてるから。」

 マスターと潤子さんは、新たにどの駐車場に入れるかの予想を始める。意見だけ見ると真っ向対立だけど、口調は明らかに楽しんでのもの。本当に余裕がある。困難な時期でもそれを楽しめる心の余裕がなかったら、実家からの金銭的援助や自分達の貯蓄だけではまかないきれなかったであろう店の創立や経営を軌道に乗せるまでの時期を2人で乗り越えてこられなかっただろう。「この人と一緒だから」が絶対的安心感として、心の基盤になっている。
 既成事実を重ねて祐司さんとの絆を構築して、構築したことに安心しきっていた私じゃまだまだ及ばない。夫婦の理想形の1つを間近で見せてくれている今、学べるものを学んで祐司さんの相手として、ううん、妻として祐司さんの心に確固たる基盤を築かないといけない。
 祐司さんは二股がけする男性(ひと)じゃない。私はそう確信出来る。でも祐司さんから見た私はそうなってないと思う。自分が帰省している間に自分の目が及ばないのを良いことに浮気してるんじゃないか、と疑念を抱かせる材料になることを、私はしてしまった。疚しいことをすれば、上手く隠したつもりでもふとした弾みに鍍金(めっき)が剥がれてしまう。今度はもう、完全な破局しか道はないと思ってる。日頃忙しい学業とバイトを両立させている祐司さん。高校時代のお友達との約束を果たすのを兼ねて帰省して、全体的にはゆっくり寛いでいると思う。祐司さんが戻ってきた時、私が待っていて良かったと思えるように少しでも自分を磨いておかないとね・・・。
 2時間後、私とマスターと潤子さんを乗せた車は、臨時駐車場の1つに入った。全員が車を降りてマスターがドアをロックする。広大とは言い切れない広さの臨時駐車場に、大小様々の車が鮨詰めになっている。途中通過した臨時駐車場は、車から見た限りでは表示どおり-看板が出ていた-車を停める余地は少しもなかった。車が数台抜けたのを敏感に察知したマスターが、前の車と一緒に空いた分の駐車スペースに入り込んだ格好。間に合わなかった車が駐車場から出ようとして、なかなか動かない車列に入る隙を窺っている。

「俺の予想どおりだな。」
「団体客がごっそり抜けると思ったんだけどねぇ。」

 少し得意げなマスターと、予想が外れてああ残念といった様子の潤子さんは、仲睦まじい。厳つい体格と風貌の、少しでもちょっかい出したら拳銃で撃たれそうなマスターと、モデルや女優として雑誌を飾っていてもおかしくない潤子さんの組み合わせは、一見しただけでは暴力団の幹部とその愛人。だけど、今までの会話と雰囲気を目の当たりにしてきた私は、心から信頼しあっている夫婦としか思えない。

「晶子ちゃん。私とマスターから離れないようにね。」
「は、はい。」
「人が多いからはぐれちゃうといけないし、晶子ちゃんに悪い虫がついたら、私とマスターは祐司君に成敗されないといけないから。」
「井上さんは大丈夫さ。」
「あら、どうして?」
「左手薬指に燦然と輝いてる印籠があるんだ。それを拠点にすれば悪い虫のつきようがない。」

 マスターが私の左手薬指の指輪を指摘する。何時でも見せられるように手袋を填めてない左手には、間違いなく祐司さんに填めてもらった指輪が光っている。この前独りで買い物に出かけた時に若い男性の集団から声をかけられたけど、指輪を見せて一言言ったら簡単に退散させられた。指輪の威力を改めて思い知った。今は傍に居ない祐司さんは、絶えず左手薬指のこの指輪を介して私を守ってくれている。その愛情と信頼に応えるのが、今の私が出来ること。

「そうね。あの指輪を見たら、おいそれと手を出せないわよね。だけど、晶子ちゃんくらいの美人が独りで居るとなると、目に付きやすいんじゃない?」
「それは確かに。どうも年末年始に発情期を迎える輩が多いからな。」

 年末年始はクリスマス、大晦日、そして今日を含む正月三箇日の初詣とイベントが多い。雑誌とかでその時に間に合うよう恋人を作れと頻りに扇動している。クリスマスはお店主催のライブがあった。その後祐司さんとプレゼントを交換した。今回はお揃いの十字架をあしらったペンダントをもらった。それ以外は何もしていない。プレゼントをもらったのも、クリスマスが過ぎて祐司さんが帰省するまでの間、私の家で過ごした時だった。
 指輪、イヤリング、ペンダント。祐司さんからプレゼントされた3つのアクセサリーと祐司さんで、私は十分。イヤリングは仕方ないけど、指輪とペンダントは祐司さんも同じものを身に着けている。その事実だけで十分だし、もうプレゼントに頭を悩まさないで欲しい。私は祐司さんが居てくれれば十分だから。私からは手編みのセーターを贈った。帰省するために私の家を出る際にも着ていってくれた。同じく私の手編みのマフラーも一緒に。
 雑誌とかの喧伝に乗じると、クリスマスは恋人とベッドインとなるところ。でも、祐司さんはその機会が十分あったけど私を求めてはこなかった。抱いて抱かれてだけの関係になることを、祐司さんは凄く恐れている。分かっているつもりだから、私から求めることもしなかった。既成事実の積み重ねでも、過去の痛みを乗り越えて私と真剣に向き合ってくれる祐司さん。その真摯な思いに応えられるだけの存在になったら、祐司さんは愛情表現の一環としてのセックスの相手として私を求めてくると思う。もうこの女とセックスをしても、セックスだけの関係になることはない、と安心して。

「こういう場所では多分、そういった輩が群れを成して獲物を探してるだろうから、一応晶子ちゃんは要注意、ね。」
「はい。」
「モデルガンでも持ってくれば良かったかもな。」
「あなた。それは警察沙汰になるから止めて。」
「私もそう思います。」
「おいおい。即座に一致団結するなよ。」

 無意識に意見を同じくして笑う私と潤子さん。苦笑いするマスター。マスターの今の風貌でモデルガンを出したら、本物の拳銃と間違われて警察が飛んできて大騒ぎになりかねないのは、割と簡単に予想出来てしまう。マスターが完全に否定しないのは、過去に「実績」があるせいかな?
 何れにせよマスターと潤子さんの言うとおり、初詣に便乗してその場限りでも良いから女性を連れて歩きたいと考えている男性は居ると思った方が自然。クリスマスが過ぎた昼下がりに、私が独りで店の品物を眺めていただけでも、同じような男性の集団が近寄ってきたし。あの時と同じように、毅然とした態度で指輪を見せる。こうすれば、祐司さんに疚しいと思えることにはならない。マスターと潤子さんからはぐれないようにしないのは勿論だけど、声をかけられた場合に即座に毅然とした態度で退けられるかが、今の私に課された試練だと思う。祐司さんが最大の信頼を置けるだけの存在になれるかどうかが、年初めの今日から早速試される。頑張っていかないとね・・・。
 神社に近づくにつれて、人の波が厚く大きくなっていった。電車で参拝しに来た人達が合わさって、凄い混雑。押し合いへし合いどころか、鮨詰めのまま少しずつ前に動く状態が延々と続いた。去年祐司さんと初詣に来た時も凄い混雑だったけど、此処まで凄くはなかったと思う。時間帯の違いかな・・・。どうにかマスターと潤子さんからはぐれることなく境内に入っても、四方八方から圧迫され続ける人の波は少しも和(やわ)らがなかった。
 やっとのことで神社本殿の前に到着したと思っても、人の壁で前がまともに見えなくて、自分の目で確認するどころじゃなかった。賽銭を出来るだけ遠くに投げて、祐司さんとの関係がずっと続くことを願うのがやっと。警察官の拡声器での案内どおりに少しずつ動く人の壁に挟まれて退かざるをえながった。参拝じゃなくて、人の壁に挟まれての非常にゆっくりとした境内巡回と言った方が良いと思う。

 どうにか参拝、ううん、境内巡回を終えて、境内にある大きな休憩所に入った。そこで無料で配られているお茶を飲んでほっと一息。今年の混雑は例年どおりだった、とマスターと潤子さんはは言っていた。時間帯の違いかな。
 休憩所を出て少ししたところで、私はトイレに行きたくなった。人の波から脱したことで急に冷気に晒されたのが原因だと思う。境内には公衆トイレがあるけど特に女性用が混雑するから休憩所のトイレを使った方が良い、との潤子さんの助言を受けて、私はそこで待ってもらうよう頼んで休憩所に戻った。混んではいたけど順番待ちの行列が出来るほどじゃなかったから、トイレは無事完了。
 そこで安心したのが油断を生んだんだろう。私はマスターと潤子さんが居る場所が何処だったか、分からなくなった。おおよその方角は分かるんだけど、参拝を終えた人達がたくさん休憩所があるエリアに雪崩れ込んできたから、正確な位置関係が分からない。マスターと潤子さんを見つけようにも、私の身長だと全体を上から展望して、なんてことは出来ない。この距離なら簡単に戻れると思い込んでいたせいか、目印らしいものを設けてこなかった。もっともこの混雑の中じゃ、目印になるものを記憶していたとしても見えなくて意味を成さなかったかもしれない。マスターと潤子さんを待たせるわけにはいかない。早く戻らないと・・・。でも、この混雑で独りじゃ、思うように動けない・・・。困ったなぁ・・・。

「ねえねえ彼女。どうしたの?」

 声に振り向くと、コートを着た若い男性の集団が巧みに人の波を避けて私に近づいてきた。数は10人ほど。マスターと潤子さんが言っていた「発情期を迎えた」人達だと直ぐ分かる。私を見る目が「絶好の獲物を見つけた」とばかりに嫌な輝きを放ってるから。

「1人なら、俺達が案内してあげるよ?」
「いえ、待ち合わせていますから。」
「この混雑の中じゃ、待ち合わせたって無駄だって。なあ?」
「そうそう。俺達と一緒の方が安全だって。」

 はっきり言って、貴方達と一緒に居る方が身の危険を感じる。声には出さないけど。

「ま、固いこと言わないでさぁ。」
「ちょ・・・!」

 肩にかかるくらいの長髪の男性が、私の肩に手をかけてくる。馴れ馴れしいその行動に、私は背中に悪寒を感じる。

「一緒に参拝しようよ?」
「お断りします!」
「そんな頑なにならなくたって。なあ?」
「そうそう。俺達がしっかり護衛差し上げますよ?お姫様。」

 本人は絶妙なエスコートの台詞を言えて満足のようだし、男性達は一様に賛同して笑う。その様子自体が嫌悪感を感じさせる。集団で「獲物」を物色して、見定めた「獲物」を強引にでも連れ出そうとする。こういう男性は私は一番嫌い!祐司さんは絶対、こんなことしない・・・!

「私は人妻です!」
「え?!」

 祐司さんを思い描いたことで連想した印籠、左手薬指の指輪を男性達に突きつけるように見せる。馴れ馴れしくて品のない笑みを浮かべていた-愛想笑いのつもりなんだろうけど-男性達は、指輪を見てまさか、という顔をして指輪を凝視する。

「結婚してるの?」
「そうです!だから男性からのお誘いは一切お断りします!」
「でも結婚してるのにさぁ。旦那が一緒に居ないのはおかしくない?」
「そんな冷たい旦那より、俺達が十分温めてあげるって。心も身体も。なあ?」
「そうそう。」

 また声を揃えて笑う。駄目だ。指輪だけじゃ効果がない。別角度からの攻めの材料を提供してしまったみたい。私が連れ出したら車に押し込んで、ホテルか誰かの家か何処かで私を思いのままに蹂躙するつもりだってことが、そう言わなくてもよく分かる。さっきの言い回しがその意志を如実に感じさせた。こういう男性は私が一番嫌悪するタイプ。祐司さんと全然違う。私は全部祐司さんのもの。祐司さん以外の人とセックスさせられるなら、祐司さん以外の人に今以上に肌を見られるなら・・・!

「さあさあ、こんな狭い場所で引っ張り合いっこするのも何だから、別の場所でゆっくりと・・・。」
「嫌です!これ以上私をどうこうするつもりなら、舌を噛んで死にます!」
「ちょ、ちょっと。何もそこまで。」

 男性達が初めて躊躇する。ここまで強く拒否するとは思わなかったんだろう。その隙に、私は肩にかかった手を振り払う。他の女性がどうだったかは知らないし、知るつもりもない。だけど、私は祐司さん以外に抱かれるつもりも、肌を見せるつもりもない。今こそ、祐司さんの妻としての真価を発揮すべき時。祐司さんのためにも、此処は絶対譲れない。

「夫以外の男性に服装から出る部分以外の肌を晒すつもりは毛頭ありません!そうさせられるくらいなら、舌を噛んで死にます!」
「今時こんな身持ちの固い女って居るか?」
「居ない居ない。初めて見た。」
「貴重品だぜ?こういう女って。」

 そうでしょうね。貴方達にとっては貴重品でしょうね。天然記念物ものでしょうね。でも、私は全部祐司さんのもの。何としても拒否する!

「あら、晶子ちゃん。こんなところに居たの?」
「潤子さん!」

 人の波の中から潤子さんが歩み寄ってくる。探していてくれたんだ・・・。涙が浮かびそうになるのをどうにか堪える。

「おやおや、美女2人が揃い踏みとは今年は縁起が良さそうだなぁ。」
「お生憎様ね。彼女も私もとっくの昔に人妻なの。それに神聖な境内でナンパなんて止めた方が賢明よ。此処の神様が縁結びの神様だからって、ナンパに加えて本人の同意のない連行っていう質(たち)の悪いものは、縁とは認めてくれないわよ。」
「う・・・。」
「それにね。この娘(こ)は私の義理の妹なの。早急に退散しないと今年1年どころか、一生涯分の幸運を使い切っちゃうことになるかもね。」
「え?」
「おぅ、此処に居たか。」

 男性達を威嚇するに十分な芯の太い低音が聞こえてくる。マスターだ!潤子さんの時と違って、人の波が自然と退いていく。旧約聖書の一節みたい。マスターは人の波の間に出来た通路を悠然と歩いてくる。その様子が威圧感を増幅する材料となる。退かないと殺されると思っちゃうわよね。

「あっ、あなた。晶子ちゃんは此処よ、此処。」
「悪いなぁ。今後の混雑を見越して一緒に行くべきだった。ところで・・・。」

 私と潤子さんに歩み寄ってきたマスターは、男性達を見据える。それだけで男性達は一斉に身をすくませる。

「この集団はいったい?」
「貴方の妹の晶子ちゃんを、無理矢理連れ出そうとしてたそうよ。」
「何だと?」
「ひっ・・・。」

 凄んだ口調になると、マスターから感じる威圧感や恐怖感が更に増す。

「義妹(いもうと)も人妻だって言ってるのに、どうにも理解してくれなかったらしくて。ねえ?」
「は、はい。」
「ふーん、随分とまあ物分りの悪い。・・・で、お前達。俺の妹に何をしようと?ん?」
「いえ・・・。その・・・。」

 さっきまでの勢いから一転して、青ざめた顔でたじろき始めた男性達を見据えながら、マスターはコートの懐に手を突っ込む。まさか、本当に拳銃を持ってる?!

「「「「「す、すみませんでしたーっ!!」」」」」

 恐怖に耐えられなくなった男性達は、悲鳴を上げて懐やズボンのポケットから財布を取り出して、マスターに向かって放り出してから一目散に逃走する。

「おいおい。賽銭箱は此処じゃないぞ・・・って、もう遅いか。」
「殺されると思ったみたいね。」
「大袈裟だな。」
「あの・・・、マスター。助けてもらってこう言うのは何ですけど、私もこの場で射殺するのかと。」
「別に何のこともない。コートの内側に入れてあるのは免許証だよ。」

 免許証、よね。びっくりしたぁ・・・。本当に拳銃を持ってたら銃刀法違反で本当に警察沙汰になっちゃう。でも、マスターの風貌を初めて見ることと、あの状況で懐に手を突っ込んだことを併せれば、取り出すものは拳銃と思っても不思議じゃないわよね。私も本当に持ってるのかと思いかけてたし。
 マスターと潤子さんは見逃してもらう代償として差し出された財布を拾う。すっかり姿は見えないし、名前も知らないから呼び出しようもない。・・・呼びたくもないけど。

「この財布は社務所に届けておくか。預かってくれるだろう。」
「そうね。晶子ちゃん、行きましょう。」
「はい。」

 マスター効果で自然に開いてくれる人の波の間を抜けて、割と近いところにある社務所に向かう。そこで落し物の財布を拾った、と潤子さんが言って届け出る。そのままお神酒が振舞われている場所に向かって、潤子さんと私はお神酒を飲む。マスターは杯はお神酒のものと同じだけど、本体は水というものを傾ける。去年祐司さんと一緒に初詣に来た時出くわした場所でもある。その時マスターが飲んでいたものは、今のと同じと言う。飲酒運転防止は勿論だけど、雰囲気を味わってもらいたいということで神社が考案したアイデアらしい。杯だけでも雰囲気は違ってくる。妙案だと思う。

「・・・すみませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって。」

 落ち着いたところで申し訳なさが前面に出て来る。マスターと潤子さんを探し回らせた上に余計な手間をかけさせてしまった。駄目ね、私・・・。

「晶子ちゃんは謝らなくて良いわよ。境内で強引な集団ナンパなんてことする罰当たりの方が悪いんだから。」
「そうそう。晶子ちゃんがしっかり連中を拒否してたみたいだから、その方がずっと良い。」
「何と言っても、新婚さんだもんねー。他の男性に使う色目なんてないわよねー。」
「あ・・・、はい・・・。そう・・・ですね・・・。」

 潤子さんに冷やかし口調で言われて、頬が熱くなるのを感じる。新婚・・・。そうよね。祐司さんに指輪を填めてもらったのが去年の私の誕生日。それからまだ1年も経ってない。色々あったけどまだ1年も経ってない。これから先ずっと祐司さんと一緒に居るなら、さっきくらいの身持ちの固さは必須。帰省している祐司さんを失望させないためにも、二度と今手にしている幸せを手放さないためにも、日頃の行動から脇を固めておかないといけない。
 あの時はとっさの判断で口走ったけど、私は祐司さんの妻なのよね。この世に2つとない指輪を填めてもらっているんだから、そう公言出来る。祐司さんは私との関係をあまり周囲に言わない。何でも伊東さんに指輪のことを説明したら半狂乱になったそうだし、女性の絶対数が少ない工学部で女性絡みで目立つようなことをするのはあまり良くないかとは思う。でもそれは、祐司さんが私を自分の妻と公言するだけの信頼を得ていないのが原因かもしれない。
 何分去年は田畑先生との一件があった。今はすっかり平静さを取り戻したけど、田畑先生が大学中にばら撒いたメールの悪影響は結構長く尾を引いた。そんな状況を招いた私を妻と言っても信用されなかっただろう。彼方此方で男とセックスしている淫乱女に引っかかった、と嘲笑われる可能性のほうが高い。嫌よね、そんなの。祐司さんが自信を持って私を「自分の妻だ」と公言してもらえるように、今から準備をしていかないとね。
 祐司さん、今頃どうしてるかな・・・。
 その後、偶然だけど去年も見た境内での新年弓道大会を観戦。お昼ご飯を月峰神社近くのうどん店でご馳走になって、日が沈んだ頃に帰宅。潤子さんと一緒に作ったお雑煮を、おせち料理を摘みながらの晩御飯。マスターと潤子さんの演奏練習に私も参加させてもらった。ゆったりした時の流れが心地良い。マスターが開けた日本酒を飲ませてもらっていると、電話をしたい衝動が強まってきた。時計を見たら午後9時を少し過ぎたところ。祐司さんの家に電話出来る時間。

「マスター。潤子さん。あの・・・。」
「祐司君に電話ね?」
「はい。」
「遠慮なく使って良いよ。」
「ありがとうございます。」

 潤子さんがマスターに事情を説明するのを後ろに聞きながら、祐司さんの実家の電話番号をダイアルして耳に当てる。胸を高鳴らせるコール音は3回目が始まったところで途切れる。今日は祐司さんかな・・・。

「はい、安藤でございます。」

 この声はお母様。一気に酔いが消える。新年最初だから尚更きちんと挨拶しないと・・・。

「夜分遅くに申し訳ありません。こんばんは。私、井上晶子と申します。」
「あら、井上さん。あけましておめでとうございます。」
「あけましておめでとうございます。」
「祐司に代わりますね。あの子、結構酔ってるんでまともに挨拶出来ないかもしれませんけど。」
「いえ、構いません。よろしくお願いします。」

 祐司さん、今日は親戚周りに連れ出されてるんだっけ・・・。結構酔ってるってお母様が言ってたけど、やっぱり祐司さんは彼方此方でお酒を振舞われたみたい。大丈夫かな、祐司さん・・・。声が聞ける期待感と同時に不安が増してくる。

「もしもし。お電話代わりました。祐司です。」

 聞こえてきた新年最初の祐司さんの声は、酔いに翻弄されそうな意識を辛うじて保ってることが分かる。

「祐司さん。晶子です。あけましておめでとうございます。」
「あけましておめでとう。んー。ちょっと声がしっかりしてないと思うけど、今日は勘弁。」
「気にしないでください。今日の親戚周りは大変でした?」
「かなりなー。行く先々で料理と酒が押し寄せてきてさー。折角電話くれたのに、悪いな。ろれつが回ってないかもしれない。」
「いえ。私の方は、マスターと潤子さんに月峰神社へ初詣に連れて行ってもらいました。」
「あー、月峰神社か。去年一緒に行ったよな。行きたかったなー。晶子と一緒に。」

 私も祐司さんと行きたかった、と言いそうなところをぐっと堪える。酔いで大変な祐司さんを困らせるようなことを言ったりしちゃいけない。

「今、眠いですか?」
「んー。眠いって言うか、頭が回るって言うか、そんな感じ。強い酒もあったからなー。」
「今日はゆっくり休んでくださいね。明日でもお話出来るんですから。」

 本当はもっとお話したいんだけど、祐司さんに早めに休んでもらいたい。妻たる者、夫の体調には敏感でないとね。間違っても祐司さんを不安にさせるようなことを言ってはいけない。今日、発情期の男性の集団に連れ出されそうになったってことは、心の中にしまっておく。

「悪い。今日は・・・。」
「いえ、私は構いません。ゆっくり休んでくださいね。」
「そうさせてもらう。おやすみ。母さんに代わるから。」
「はい。」

 今日は祐司さんからお母様への挨拶を勧められた。こういう時こそしっかりしないと。

「もしもし、お電話代わりました。祐司の母でございます。」
「井上です。今日はこの辺で失礼させていただきたいと思います。祐司さんにゆっくり休んでいただきたいので。」
「御免なさいね。折角電話で新年のご挨拶をしてくれたのに。」
「いえ、とんでもございません。夜分遅くに申し訳ありませんでした。日を改めてお電話させていただきたいと思いますので、その際はよろしくお願いいたします。」
「ええ、ええ。勿論ですよ。1日すれば酔いは醒めると思いますから。井上さんもゆっくりお休みくださいね。明日も祐司は居ますから電話くださいね。」
「ご丁寧にありがとうございます。・・・では、失礼いたします。お休みなさいませ。」
「あらあら、こちらこそどうもご丁寧に。失礼いたします。」

 気持ちゆっくり2つ数えて、そっと受話器を置く。祐司さん、大変だったのね・・・。明日二日酔いで酷い目に遭わなければ良いんだけど・・・。祐司さんとの時間は惜しいけど、今日が最後じゃない。祐司さんは成人式を終えたら帰ってくるんだから、それまでしっかり待っていれば・・・。

「ありがとうございました。」
「祐司君はどんな様子だった?確か今日は親戚周りに駆り出されたんだよな。」
「はい。かなり酔ってる様子でした。」
「祐司君も大変よね。ゆっくり正月休みを過ごしたいところなのに。」
「・・・約2年ぶりに新京大学に進学されたお子様が帰省されたんですから、仕方ありません。電話は明日も良いって、お母様も言ってくださいましたから。」
「うんうん。お母様って自然に言えるあたり、祐司君との将来を見据えた気構えが出来てるね。」

 自然に言えた、のかな。祐司さんに紹介してもらった際にきちんと挨拶出来ないと、祐司さんに迷惑がかかっちゃうから、今から練習しておかないと。まだ祐司さんとの電話に未練はあるけど、明日元気な声が聞ければ良い。
 気分を切り替えてマスターと潤子さんの酒の席に再び加えてもらう。来年は祐司さんと2人きりで、新年最初のお酒を酌み交わせたら良いな・・・。
 お酒が入ったせいか、何だか眠くなってきた。私は今日も一番風呂に入らせてもらう。潤子さんはその間に布団を敷いておいてくれた。世話になってばかりね。まだお酒を飲んでいるマスターと潤子さんに寝る前の挨拶をしてから、2階に向かう。私はまだまだこれからだと今日は何度も実感した。祐司さんが安心して帰ってこられるように、日々精進しないとね。布団に潜ると直ぐ眠気が頭を支配していく。

おやすみなさい、祐司さん・・・。

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