ピピピピピピピ、ピピピピピピピ。
鳥のさえずりのような音で、私は目を覚ます。部屋は真っ暗。カーテンを閉じているとは言え、夜なんじゃないかと思ってしまう。予め部屋に置いてあった目覚まし時計の音を止めて、明るい緑の蛍光色を発する針を見ると、時刻は4時。一応朝だけど、未明って言うべき時間ね。
寝た時間は短かったけど、不思議と眠気は感じない。暗闇に慣れた目で電灯の紐を引っ張って明るくする。一瞬目が眩むけど、これは仕方ない。早速服を着替える。暖房はつけっ放しで良い、って先にマスターと潤子さんから言われてるから、ありがたいことはありがたい。だけど、その厚意に甘えてばかりじゃいけない。早々に服を着替えてパジャマを畳んで枕元に置き、布団を整える。ハンガーにかけておいたコートを手にとって、財布をスカートのポケットに入れたら準備完了。リモコンを操作してエアコンを止める。
部屋を出ると、空気の張りが一気に強くなる。冬場特有の屋内の冷気。この方が冬らしいけど、温度変化に身体が反応してきゅっと縮こまる。寒さが頬に突き刺さるのを感じながら、急ぎ足で1階に向かう。マスターと潤子さん、もう起きてるのかしら?5時から月峰神社に初詣に出かけるとは聞いてるし、目覚ましも朝ご飯の余裕を見込んで4時にセットした。マスターと潤子さんを疑うつもりはないけど、私が昨日寝たのは23:30頃だった。寝過ごしてないのかな、と思う。マスターと潤子さんは昨日、それぞれの楽器の練習に加えて、マスターはデータ作り、潤子さんは夕食に加えておせち料理を作った。かなり忙しかったし体力も使った筈だから、寝過ごしてても不思議じゃない。正月でお店も休みだから、という、表現は悪いけど気の緩みもあると思う。
1階に下りると、引き戸の窓ガラスが明るい。・・・起きてるんだ。私は恐る恐るドアに手をかけて少しずつ開ける。遠慮は要らない、とは言われてるけど、どうしても緊張してしまう。
「おっ、井上さん。あけましておめでとう。」
ドアが開いたことに気付いたのか、マスターの声が聞こえてくる。その声に眠気は全く感じられない。私はドアを完全に開けて中に入る。「マスター。潤子さん。あけましておめでとうございます。」
「あけましておめでとう。晶子ちゃん。さ、座って。」
「はい。」
「今、お吸い物を作ってるから、もう少し待っててね。」
「あ、はい。ところでマスターと潤子さんは・・・何時起きたんですか?」
「ん?ずっと起きてたよ。」
「余計なお節介かもしれませんけど、眠くないんですか?」
「ああ、その辺は全然。年明けは毎年徹夜だからね。」
「朝早くから初詣に出かけるのは、冷たい空気に触れてしゃきっとするためでもあるのよ。」
考えてみればマスターと潤子さんにとってはむしろ、1回2回の徹夜なんて平気なのかもしれない。私がお店で働かせてもらうまで、ううん、それより前に祐司さんがお店で働くようになるまで、お店はマスターと潤子さんが2人で切り盛りしてきた。それまで料理や接客は勿論、掃除や店の開け閉め、食材の仕入れや会計なんかを全部こなしてきた。お店は喫茶店にしては珍しく、夜の10時まで営業している。朝は遅いとは言え、夜が遅くてすることも多いとなれば、どうしても睡眠時間を削ったり、場合によっては徹夜も覚悟しないといけないと思う。そんな暮らしをしてきたんだから、色々忙しかった日の徹夜でも1回くらいは平気なんだろう。
お店の営業だけでも大変なのは、最初の接客に加えて料理も任せてもらうようになった今では、一部だろうけどよく分かってるつもり。マスターと潤子さんは、祐司さんと私が働くようになるまでずっと2人でその大変な日々を過ごしてきた。かつてジャズバーを席巻したサックスプレイヤーと元OLの結婚、そしてこのお店の開店と営業。色々なことがあった筈。楽しいことも辛いことも。だけど、それを分かち合ったりすることで乗り越えてきたマスターと潤子さんに、私は夫婦の理想像を見ている。祐司さんが帰省のために高々1週間程度居なくなって2、3日で独りが耐えられなくなったり、今も何処かで未練がましいものを抱えている自分が恥ずかしい。こんなことじゃ本当に祐司さんに愛想をつかされちゃう。もっとしっかりしないと駄目ね。
「はい。お待たせ。」
潤子さんが味噌汁とかを入れる器を差し出す。湯気が立ち上るそれを、私は注意深く受け取る。仄かな醤油と出汁の匂い。小さいワカメと刻み葱が浮かぶ吸い物は、器を通して出来立ての朝の食事を前準備をしてくれる。続いて潤子さんが重箱の蓋を開けて、横に並べる。昨日作ったおせち料理は、豪華な朝ご飯。食べる前からどれにしようかと目移りしてしまう。「じゃあ、食べようか。」
マスターの音頭でいただきます、と言ってから食べ始める。私はまず吸い物から。・・・やっぱり美味しい。適度な味付けと良い匂い、出来立ての証拠である熱さが程好く絡み合う。おせち料理を取り皿にとって口に運ぶ。これも美味しい。本当に潤子さんは、料理が上手い。私もそれなりに出来るつもりだけど、潤子さんは私を凌駕する。 お店に居る時に私が傍で見ていても、潤子さんは手際良く幾つもの料理を作っていく。どれも味は格別。値段と比べると安いと思えるくらい。立地条件が決して良いとは言えないこのお店が繁盛しているのは、潤子さんの料理に因るところも大きい。料理が美味しくない飲食店に行く繰り返し行く人はまず居ない。少し歩いてでも行きたくなる、友人や同僚に教えたくなる、そんなお店にするには色々な特典も1つの手だけど、最終的には料理が鍵だと思う。幾らポイントを集めて安くなったり、値段が破格的に安くても、料理が美味しくなかったらやっぱりお客さんの足は遠のく。
美人なのは勿論、料理の腕も抜群の潤子さん。どうしてOLを辞めて、実家を勘当されてまでもマスターと結婚したのか、やっぱり不思議。子どもを勘当する、ってことは家がそれなりに格式があるという証拠。推測だけど潤子さんの実家はその地域では名家と称されるところなんだろう。そういう家の娘となると、結婚相手は有名企業の社員とか、所謂エリートという人が対称になると思う。
マスターはジャズバーを席巻した腕前を誇るとは言え、これも表現は悪いけど収入や社会的地位はどうしても見劣りすると思う。潤子さんがマスターとの結婚を報告しに来たら、両親は驚くだろうし、そんな男との結婚は認めない、と言うだろう。だけど潤子さんはマスターとの結婚を決して諦めなかった。それが両親の怒りを買って勘当されたんだと思う。
勘当となれば、引っ越したりこのお店を立てたりする時の資金援助なんて到底期待出来ない。マスターのそれまでの貯金がどれくらいあったのかにも拠るけど、職業柄決して余裕があるとは言えなかったと思うのが自然。自宅も兼ねたこのお店を建てたり、喫茶店を開くのに必要な食器や調理器具、テーブルや椅子といったものを揃えるには、相当の資金が必要な筈。借金もしただろうし、お店の経営も軌道に乗せないといけない。苦労は凄く多かったと思う。だけど、マスターと潤子さんは文字どおり二人三脚で今までこのお店を切り盛りしてきて、今では連日繁盛している。
夫婦に色々な形があるのは分かる。だけど、どちらかが相手に依存しっ放しだと、いざその相手が上手くいかなくなった時に大変なことになる。有名人と結婚したのに呆気なく離婚、というのはその一例。相手のステータスに依存して結婚して、いざ一緒に暮らし始めたら理想と違ってた、となれば離婚に直結するんだろう。いとも呆気なく。
夫婦に必要なことは何か、という疑問への回答の1つを、マスターと潤子さんは見せてくれている。今年の私の誕生日に祐司さんがペアリングをプレゼントしてくれると分かった時、私はその場で左手薬指に填めてもらおうと思った。祐司さんは私の我侭に顔を真っ赤にしながらも応えてくれた。
左手薬指に指輪を填める意味くらい知っている。私は自分の決意を固めると同時に過去ときっぱり決別するために、指輪を填めてもらった。決意は勿論大切。だけど、それだけじゃ足りないということを、田畑先生との一件で痛感させられた。祐司さんからの信頼を取り戻すべく、私はそれまで以上に毅然とした態度を執るようにしている。時々合コンに誘われるけど、バイトを理由に全部断っている。大学で今でも偶に男の人に声をかけられるけど、指輪を見せてきっぱり言う。
私は結婚していますから、お話を聞いたりするつもりはありません。
祐司さんからの信頼がどれだけ取り戻せたかは分からない。だけど、信頼してくれと言い続けるだけじゃ信頼は得られない。私が軽率な行動を執ったがために突き崩してしまった信頼。それをもう一度構築するのは決して容易じゃない。だけど、嘆いてる暇はない。そんな資格もない。信頼を取り戻してもっと高めるために、常に態度と行動で示さないといけない。それが私に課せられた罰だし、償いだと思っている。程好くお腹はいっぱいになった。締めくくりに潤子さんが入れてくれたばかりのお茶を啜る。マスターも潤子さんも食べるのを止めて、お茶を飲んでいる。
3人で食べたといっても、おせち料理は結構残ってる。あれだけ作れば残らない方が驚異的かもしれない。祐司さんはよく食べる方だから、祐司さんが居たらもっと減っていたかもしれない。
その祐司さんは今日1日親戚周りをする、って言ってたっけ。私の家に居る間も、親戚周りにあまり乗り気じゃなかったのを憶えている。元々知名度の高い新京大学、しかも難関で有名な理工系の工学部に合格したってことで、合格を知らせたら実家は勿論、近所も大騒ぎになって、親戚からお祝いの品が大量に舞い込んだって言っていた。進学して初めて帰省する上に、20歳になったからってことで親戚は大騒ぎになる、とも言ってた。
祐司さんの言うことは私もそれなりに想像出来る。私が祐司さんに指輪を填めてもらってから、旦那はどんな人かと尋ねられて工学部に居る男性(ひと)、と答えると大抵驚くし、感心する。新京大学の理工系学部は知名度もさることながら、厳しいことでも有名。進級にしても2年から3年、3年から4年で大きな関門があって、同期の人は 半分くらい1度は留年する、と高校時代に聞いたことがある。祐司さんはそんな学部に合格した上、今までずっと頑張ってる。レポートや試験は絶対手を抜かないし、その分成績もトップクラス。勉強だけじゃない。経済的な事情でこのお店で殆ど毎日バイトをして、その上演奏用のデータ作りも怠らない。自分のだけじゃなくて私の分も。 私じゃ到底やっていけないような、物凄くハードな生活をこなしている祐司さんは、凄いとしか言いようがない。
そんな生活を送っている祐司さんには、食事を作ってくれとか洗濯してくれとか、私に言いたいなら遠慮しないで言って欲しい。週末だけじゃなくて毎日でも構わない。言ってくれればお弁当だって作るつもり。元々朝早く起きてるから、作る余裕はある。今時女にそんなことをさせるのは、とかそんな遠慮はしないで欲しい。祐司さんと私には2人の理由がある。私は日々の勉強とバイト関連のことで忙しくて、身の回りのことまで手が回らないだろう祐司さんを支えたい。なのに「男女平等だから家事は分担」とか、「女性の地位を貶める」とか、ジェンダーフリーの論理を画一的に押し付けられるのは迷惑でしかない。
「祐司君はまだ寝てる頃かな?」
マスターが言う。時刻は5時前。寝ててもおかしくない。「多分そうだと思います。元々祐司さんは夜が遅いですし、朝はあまり強くないですから。」
「祐司君が帰省するのはこっちに来て今回が初めてだそうだから、親戚回りとか色々あるんでしょうね。」
「普段大学とバイトで忙しいから正月くらいゆっくりしたいでしょうけど、なかなか周囲がそうさせてくれないのよね。特に親戚とかが。」
「昨日の電話で、今日は親戚回りをすることになってる、って言ってました。」
「知名度と難易度の高さ、進級の厳しさでは指折りの新京大学の工学部。その現役学生が身内で、しかも進学以来始めて帰省するとなれば、親御さんは勿論、親戚が大騒ぎするだろうから、祐司君は今日、結構大変な目に遭うだろうな。」
「そうですよね・・・。」
祐司さんはとりわけお酒が強いとは言えない。その上、お酒が入ると寝起きがかなり鈍る。断るわけにも行かないし、親戚の数にも拠るけどそれなりに時間もかかるだろうし、祐司さんは今日1日休まる時がないんだろうな・・・。
初めての帰省だからご両親は喜ぶだろうけど、祐司さんは普段何かと忙しいんだから、帰省した時くらいゆっくりさせてあげて欲しい。私がとやかく言えることじゃないけど、祐司さんの今までの生活を見てきた私は、そう願わずには居られない。
朝ご飯が済んで後片付けも終わり-潤子さん1人でしたけど-、順番に歯を磨いていよいよ初詣に出発。潤子さんが家の電灯と暖房を消して、黒のハーフコートを着る。私も持ってきたベージュのハーフコートを着て、マフラーを巻く。マスターは車の準備をするために先に出ている。玄関のドア越しにエンジン音が微かに聞こえてくる。
ドアを開けて外に出ると、強烈な冷気が出迎える。部屋から廊下に出た時より更に強い。身を縮こまらせながら足早に車に向かう。私は後部座席に乗る。潤子さんは助手席に乗ってシートベルトを締める。車内は暖房が効き始めているから結構暖かい。私はコートとマフラーを脱いで脇に置く。こうしないと今度外に出た時寒くて仕方ない。
「じゃあ、行くか。」
マスターはライトを点けて車を動かし始める。東の空が僅かに明るくなってきたかな、という程度だから、夜と殆ど変わらない。車は徐行しながら坂を下りて車道に出る。街灯が点々と灯るだけの道路に人気はない。車が徐々に加速していく中、音楽が流れ始める。これは確か・・・「MORNING STAR」。潤子さんがCDケースを閉じてギア傍のボックスに仕舞おうとしている。夜明け、そして新しい年の幕開けを飾るに相応しいシンセブラスの旋律が流れる。私は心地良いBGMを聞きながら背凭れに身を委ねて新年の街を眺める。人気のない住宅街の通りから、駅に通じる車道に出る。此処も人気はない。車が1台、駅とは反対側の国道方向に走り去って行く。マスターはそれに続くように左折して車道を走らせる。車は加速していくけど、やっぱり人気はない。私が住んでいるマンションがある地域を抜けて、車は国道に差し掛かる。此処は割と車が多いけど、普段の週末ほどじゃない。マスターは信号が青になったところで走り出し、右折して国道に入る。そして更に加速する。
国道の流れは凄く良い。私がこの国道沿いに買い物に出かけると、ほぼ100%どちらか一方は渋滞している。だから自転車の方が早く店に着けることが多い。車は順調に加速して南に向かう。去年祐司さんと月峰神社に初詣に行った時は電車を使ったからよく分からないけど、国道を南に行けば着けるんだろう。
「晶子ちゃん。眠かったら寝ても良いからね。」
潤子さんが振り向いて言う。突然押しかけた私を気遣ってくれるのが申し訳ない。「いえ、大丈夫です。」
「暖房も暑かったら言ってね。」
「はい。ありがとうございます。」
「今まではずっと私とマスターの2人だったけど、今年は晶子ちゃんが居るから楽しくなりそうね。」
私の心を見透かしたかのように、潤子さんが言う。今度はマスターの方を向いている。「結婚して間もない頃はよく私が男性の集団に声をかけられて、私が指輪を見せてあなたが出て来ると、謝って一目散に逃げていったのよね。」
「ああ。俺は別に威圧したつもりはなかったんだけどなぁ。『俺の妻に何か用か?』って言ったくらいで。」
「黒のロングコートを着たあなたがそう言ったら、そのままだと拳銃を向けられるかと思って早々に逃げるのが自然よ。」
「人は見かけで判断するもんじゃない、って学校とかで教わらなかったのかな。」
「限度ってものがあるわよ。」
潤子さんは去年31歳になった。だけど言わなければ十分20代で通用する。そんな美人が1人で居ると見て声をかけたら、実は既婚で相手は威圧感たっぷり。身の危険を感じて逃げ出すのも無理はないわね。潤子さんも左手薬指に指輪を填めている。それが強烈な威力を持つことは私もよく知っている。大学でも偶にあるけど、大抵相手は1人。一昨日は数人だった。でも私が指輪を見せて夫は都合で居ないと言ったら、相手はすごすごと退散した。まさか結婚してるとは思わなかったんだろう。
指と一体になっているこの指輪。祐司さんからプレゼントされた、この世に2つとない私の大切な宝物。去年の田畑先生との一件で田畑先生が厳罰に処されたのは、左手薬指に指輪を填めている私にちょっかいを出したのが根本的間違い、というのが文学部での定説。
あの一件以来、少なくとも文学部では私に事務的な用件以外で話しかけてくる男性は教官学生問わず居なくなった。私に下手に声をかけたら同じ大学に居る旦那が激怒して乗り込んでくる、という話も聞いたことがある。確かに、私が田畑先生と話をしているところを見かけた時の祐司さんの怒り様は凄まじかった。私と伊東さんが止めなかったら、田畑先生に殴りかかっていた。祐司さんは普段こそ温厚だけど、一旦怒りに火がついたら一気に爆発に発展する。実力行使も辞さない構えさえ見せる。それを考えると、私があの一件で祐司さんに殴られなかったのは幸運だったと言うべきだろう。
祐司さんはある日いきなり、今まで交際していた優子さんから一方的に最後通牒を押し付けられた。それで深く傷ついた。あんな思いはもう二度と御免だと思っていることは、祐司さん自身があの一件で口にした。田畑先生への「NO」の返答をどう表現すべきか考えていたところに偶然出くわした祐司さんは、指輪とマフラーをその場に投げ捨てて絶縁を告げて走り去った。あの時のことを思うと今でも胸が痛む。どうして最初から毅然と出来なかったのか、って。
無理矢理引き裂かれた私でさえもあんなに泣いた。親とも断絶する形で今の大学に入り直して引っ越した。祐司さんは私よりずっと深く傷ついた。祐司さんには何の落ち度もないのに一方的に別れを通告されたんだから。そんな傷の痛手を乗り越えて、私の気持ちに向き合ってくれた。なのに私のあんな言動を見たら悪夢の再来を予感することくらい、分かる筈。でも、あの時は分からなかった。祐司さんが絶縁を告げるまで。自分でもあれだけ傷ついたのなら、それ以上に深く傷ついた人が裏切り行為を見せられて傷つくことさえ分からなかった。その行為を見せた相手が、よりによって自分が信じている筈の相手だったら尚のこと。なのに私は・・・。
あの時は潤子さんの仲介が得られた。だけど、次はないと考えた方が良い。ううん。ないと思わないといけない。祐司さんがその場に居なくても、常に行動と態度で示さないといけない。常に自分にそう言い聞かせている。今度あんなことになったら、私は祐司さんに骨を折られて血を吐くまで殴られても文句は言えない。言う資格もない。祐司さんの信頼を取り戻すには、それくらいの覚悟と決意がないと駄目。何の後ろめたさもなく祐司さんを出迎える。それが今の私に出来ること。
・・・祐司さん。今頃どうしてるかな・・・。
ようやく朝の光で夜の闇がかき消されたところで、月峰神社の近くに来た。近くに来ただけで、まだ月峰神社には着いていない。それどころか、車を降りていない。 理由は簡単。渋滞に巻き込まれたから。車が数珠繋ぎになっている、という表現がぴったり当てはまる光景。逆方向の道路で車が軽快に走っていくのを見ると、尚更ギャップを感じる。
進んでは止まり、止まっては進む、をずっと繰り返している。それも1m進んだかどうかさえ怪しいくらいで。私は乗っているだけだからまだしも、マスターは相当苛立ってるんじゃないかしら。バックミラーに少しだけ映る表情だけじゃ分からないけど。私は車の免許は持ってるけど車は持ってないから、運転や渋滞に関しては疎い。
「何時もどおりだな。」
「ええ。この分だと3時間・・・くらいかしらね。」
「そうか?4時間はかかると踏んでるが。」
「此処まででこのくらいだから、私は3時間と見てるの。」
「マスター。イライラしませんか?」
「ん?否、全然。」
「井上さんこそ退屈じゃないかい?」
「あ、いえ、私はこうして乗せていただいているので平気です。マスターは車を動かしたり止めたりするの繰り返しで、てっきりイライラしてるのかと・・・。」
「毎年のことだし、渋滞を承知でこうして車で来てるんだ。先に入った参拝客だって何時までも居るわけじゃないからそのうち出て行くし、後から来た客と入れ替わる。現に少しずつ車の列は前に動いてる。入れ替わるまでの時間がちょっと長いだけのことだよ。」
「CD、換える?」
「ああ。軽快なやつが良いな。」
「そうね。じゃあ・・・。」
「潤子さん。この曲って何ですか?」
「曲は『風の少年』。アルバムは『SPIRITS』っていうの。THE SQUAREのアルバムよ。」
「これって、お店のリクエスト曲には入ってませんよね?」
「そうよ。この曲もギターが欠かせないんだけど、祐司君にデータ作りと練習を頼むのは気が引けるから。」
レパートリーが増えた分、演奏出来るようにしておく曲数も増えている。リクエストに加えるためのデータ作りも必要。昨日のマスターと潤子さんの様子を見ていて、演奏用のデータ作りがどんなに大変か改めてよく分かった。祐司さんはほぼ毎日あると言って良い大学のレポートをこなしつつ、データ作りと練習をしている。本当に何時寝ているのかと心配になる。土日は昼まで寝てるから、って笑って言うけど、それだけじゃ足りないと思う。食事も朝に私がサンドイッチと紅茶を出しただけで驚いてたくらいだし。練習は音取りも兼ねてしてるからそんなに時間は食わない、とは言っていたけど、人前で聞かせるレベルにするにはやっぱり練習が必要な筈。
バイトの終わりが遅いのに、大学は朝の1コマ目からびっしり埋まってる。単位を取っておくことで自動的に筆記試験が免除になる資格があるから、というのが理由。実際に筆記試験から受けるとかなり合格率が低いらしい。その上、専念してもひととおり全体を作るのに1日は必要なデータ作り。分割しているとは言っても、お店で披露出来る形にして自分も演奏出来るようにするとなると大変な労力が必要なのは、私でも昨日見て改めて分かった。
本業の大学は普段のレポートも多いし難しいし-私には何が何だか分からない-、試験も厳しい。1、2割しかパス出来ない講義も珍しくないって言ってた。幾ら学生の本業が勉強だとは言っても、それ以外に経済的な事情で付加要素も必要なバイトをしなければならないとなると、身の回りのことに手が回らなくて普通。手に負えないと思ったら、本当に遠慮しないで私に言って欲しい。料理を作ってくれとか洗濯してくれとか、掃除してくれとか。他人がどう思おうが勝手だし、私は祐司さんと比べて-比べる方が間違いかもしれないけど-十分余裕がある。私の分までデータ作りをしてくれてるんだから、それで御礼になるなら喜んでする。
「お茶飲む?晶子ちゃんも。」
「おう、丁度良いな。」
「あ、はい。」
「じゃあ、ちょっと待っててね。」
「はい、あなた。」
「サンキュ。」
「はい、晶子ちゃん。」
「あ、どうもありがとうございます。」
「お菓子はどう?」
「んー。俺はパス。朝飯がまだしっかり腹に残ってる。」
「晶子ちゃんは?」
「私も結構です。お菓子もあるんですか?」
「ええ。あられとか煎餅(せんべい)とか、そういうタイプだけどね。チョコレートとかは車内の温度次第で溶けちゃうから生憎ないのよ。」
「団体が抜けたな。」
「そうね。やっぱり3時間が妥当な線よ。」
「いやいや。まだ分からんぞ?」
「負けず嫌いね。」