雨上がりの午後 アナザーストーリー Vol.3

Chapter 3 on December 31th, a year

written by Moonstone

 12月31日

 ピピピッ、ピピピッ。
目覚まし時計の音につられて眠りから覚めた私は、目覚まし時計を手に取ってスイッチを切る。時間は機能と同じく8時。大学は冬休みだし、誰かと遊びに出かける予定もないからこれで良い。
 上半身を起こして部屋を見回す。私以外人の存在が感じられない空虚な空間は、今までと何ら変わりはないのに、そう思えてならない。
模様替えのために家具を移動するほど力はない。このマンションの1室に居を構えてから家具の配置は何1つ変わっていない。変わったものといえば本棚の本の量と、CDの数。本は前々から本屋を巡って興味を引かれたものを買っている。CDは祐司さんと同じバイトを始めて、ヴォーカルとしてステージに立つようになったから、それに関連したミュージシャンのCDが一挙に増えた。その代表格が倉木麻衣さん。この女性(ひと)の澄んだ歌声を目指して、同時に単なる真似事で終わらないように、練習を重ねて来た。1曲完全に歌えるようになるにはそれなりに時間がかかる。でも、ステージで歌って拍手を浴びると、時間や労力といったものは全部充実感に代わる。
 人前で歌を歌うのは高校の音楽の授業以来。ステージデビューの曲になった「Fly me to the moon」を歌う前は本当に緊張した。でも、祐司さんが付きっ切りで教えてくれたことで結果拍手喝采を受けて、それ以降曲のジャンルを広げて数を増やしていった。この曲を歌いたい、と言って後は祐司さんにお任せ、となっていることが、申し訳なく思えてならない。
 裕司さんは、厳しい大学生活の傍ら自分が演奏する曲と私が歌いたいと言った曲のアレンジとデータ作りを、並行して手がけている。高校時代からして来たから、と祐司さんは言う。だけど、前にシーケンサのデータを見せてもらったら、サックス1つ取ってもボリュームの細かい設定が1音1音施されていた。自分がすることに妥協は許さないという祐司さんの姿勢が、此処でも垣間見えた。毎日幾つものレポートをこなしつつ、それこそお客さんにはさして注目されないような細かいところも作りこむ祐司さん。お友達との約束を守るために帰省したことで、少しの間でもそんな厳しい生活から解放されてのんびり出来ていれば良いんだけど・・・。
 着替えてから朝食を作って独りで食べる。今日はフレンチトーストにアールグレイの組み合わせ。
 今日で今年もおしまい。去年は祐司さんと出逢い、祐司さんと一緒に年を越した。今年は、祐司さんは帰省中。私は帰省するつもりなんてさらさらないから、この町で独り過ごすだけ。祐司さんの分だけ家事が少なくなった、という喜びや解放感は全然感じない。逆に、もっと祐司さんに色々食べて欲しかったと思う。祐司さん、今頃どんな生活をしてるのかな・・・。ギターを持って行ったから、お友達との約束に備えて練習してるのかな・・・。
 そう言えば、弟さんの冬休みの宿題を見てやってる、って言ってったっけ。弟さんの学力のレベルは知らないけど、祐司さんなら大丈夫。普段、あんなに難しいレポートを幾つもこなしてるんだし、その学力と努力の基盤になっている高校時代の内容を教えるのは、祐司さんには容易だと思う。
 祐司さんは、今年実家でどうやって年を越すのかな・・・。
 去年は私と祐司さんは一緒に年越しをして、月峰神社に初詣に出かけた。屋台でモツ煮込みやフライを食べたり、初詣には欠かせないお参りをしたり、御神酒を飲んだりした。そしてマスターと潤子さんと出くわし、祐司さんが付き合っていることを話してくれた。
 あの時は本当に嬉しかった。祐司さんは、私との付き合いに後ろめたさとかそんなものは感じてないことは分かっていた。だけど、誰かに堂々と付き合いを紹介したことはなかった。祐司さんが最初の頃は、優子さんの気紛れで至福の時間を強制終了させられたショックで女性との付き合いにかなりナーバスになっていた。やがて硬く閉ざしていた心の扉をゆっくり広げて私を受け入れてくれたけど、異性との交際をおおっぴらに宣言するのは祐司さんの性に合わないみたい。
 それは仕方がないと思う。私も気紛れな優子さんに怒ったし、そんな気紛れに翻弄された祐司さんの心の痛手は深刻なものだったに違いない。だから、私との付き合いも出来るだけ公表しない方針でいたんだと思う。私と付き合っているのに別れたら-考えたくないけど仮定で-、どうして別れたとか色々煩いだろうから、そうならないように言わないでいた、言わば予防措置を取っていたんだと思う。
 でも、マスターと潤子さんには私との付き合いを公言してくれた。私が祐司さんと同じバイトを出来るようになったのは、マスターと潤子さんのおかげ。その点でも私はマスターと潤子さんに感謝している。祐司さんは優子さんに一方的に捨てられたショックで、私の指導に乗り気じゃなかった。だけど、「それはそれ、これはこれ」と割り切って教えてくれた。あんな割り切り方はそう簡単に出来ないことだと思う。教える相手は自分の心を奈落の底に突き落とした存在と同種。そして祐司さん技術や知識と 比較すると、祐司さんにはあまりにも初歩的過ぎて面倒どころか煩わしかったと思う。私の執念深さも一因とは言えるけど、ショックのあまり頑なだった祐司さんの心が確実に解れているのが分かって本当に嬉しかった。

 祐司さんが私と向かい合ってくれたのなら、私はその誠意にきちんと応えないといけない。間違っても祐司さんに浮気と思われるようなことはしない。田畑先生との一件以来、よりそれの実践を心がけるようにしている。
 同じ学科の娘(こ)から時々コンパに誘われる。でも、バイトを理由に全部断っている。コンパだと他の男性との同席は避けられないだろう。それが祐司さんの知るところとなったら、祐司さんは激昂して関係断絶を告げるだろう。もう二度とあんな思いは御免だ、と心の傷が癒えた今でも祐司さんは思っている。それは田畑先生のアプローチに対する返事をしようとした私の様子を見ていた祐司さんの言動ではっきり分かった。
 私も、祐司さんが他の女性と親しく話をするのを見たいとはあまり思わない。それなら私に話して欲しいと思う。祐司さんは店で接客をしているけど、特定のお客さんと話し込んだりしない。祐司さん目当てのOLさんともそれこそ雑談のレベルを超えない。自分が出来ないことは他人に命令しないけど、自分が出来るなら相手も出来る筈だ、と祐司さんは思っているんだろう。逆だったら完全に相手への依存、ううん、癒着になるけど、祐司さんは自分がまず実践して不可能じゃないことを証明して相手に促す。 私は祐司さんのそんな無言の促しに応えるようにしている。元々八方美人じゃないつもりだけど、祐司さんの視点からすると私は幾分軽いと思われているみたい。祐司さんが帰省してこの町に居ないことを良いことに、なんて欠片も思わない。むしろ祐司さんが帰って来たら何ら後ろめたくない状況で出迎えたい。
 今日で祐司さんが帰省してから3日目。まだ半分も過ぎてない。バイトを始めるまでは、正確には祐司さんと出逢うまでは当たり前だった独りの生活が、今はとてつもなく退屈で寂しい。だからと言って、祐司さんの実家に毎日何度も電話したり祐司さんに帰って来て欲しいと言ったりはしない。昨日までの2日間で、お父様とお母様にはある程度好印象を持ってもらえたと思う。でも、執拗な電話攻勢でそれが悪い印象に逆転する危険性は高い。それに、祐司さんは高校時代のお友達との約束を果たすために帰省した。それを足蹴にしてくれ、なんて言える筈がない。今はただ時が過ぎるのを待つしかない。独りの重みに耐えながら・・・。
 後片付けを済ませ、私は薄めのBGMを背景に昨日買った本の続きを読む。BGMは倉木麻衣さんのアルバム「delicious way」。このアルバムには、店でほぼ毎回リクエストを受ける「Secret of my heart」の他私が好きな「Stay by my side」もある。本の内容が今までの流れと違って恋愛を前面に出したものということもあってか、耳に溶け込んで来る曲が何時もよりずっと切なく感じる。
 去年は祐司さんの家で年を明かした。普段よりずっとのんびりした生活の中で、月峰神社に初詣に出かけた。その祐司さんは実家に居る。大学ではそこそこの付き合いはあるけど、一緒に食べたり遊んだりといった仲じゃない。私がバイトを始めたのも理由の1つだけど、元々私は親子という鎖を断ち切るために今の大学に入り直したということもある。それに至る過程は祐司さんには話したけど、ごく断片的でしかない。全てを言ったら祐司さんが私を見る目は変わってしまう。幸せを引き裂かれた反発で今の大学に入り直して、同時に親元を離れた私は、祐司さんにだけは嫌われたくない。だから・・・今まで少ししか言っていない。

 私は卑怯な女だと思う。祐司さんには優子さんと破局に至った経緯を聞いて、女の人全てがそうじゃない、現に私は最初の動機こそ違ったけど、安藤祐司という一人の男性を愛するようになったと言ったし。今でも愛してる。祐司さんは私を愛して信用してくれている。だから、田畑先生との付き合いを知って浮気だと思ってしまい、田畑先生の誘いを私がすっぱり断らなかった一部始終を見て激怒したんだと思う。優子さんとの破局に至った原因とかを聞きだしておきながら、自分は漏らす程度しか話さない。 祐司さんは疑問に思っていると思う。でも、私への態度がそれを契機に変わったことは一度もない。・・・私は本当に卑怯だと思う。
 私が全てを明かした時、祐司さんは受け入れてくれると思う。だけど、肝心の私が全てを明かす勇気を完成させられないで居る。どうにか完成したか、と思ったら些細な拍子で崩れたり、作ったことを忘れてしまって気付いたら崩壊していた、というパターンの繰り返し。本当に祐司さんと全てを分かち合うには、何より今尚過去の傷跡を庇い続けている私がしっかりしないといけない。傍に居て、一緒に居て、と一方的に言うだけなら誰でも出来る。本当にそれが出来るかどうかは、本人の心構えにかかっている。祐司さんが帰省している間、私は祐司さんに少しも疚しいことをしないようにする。まずは此処から始めないといけない。毎日会えるのが当たり前だったのが当たり前でなくなった今、当たり前の日々が戻って来た時にそれをありがたく思えるように。
 何となく空腹を感じたので時計を見たら、12時半を超えていた。本は読んでいたつもりだったけど、考えごとに大きな比重を向けていたせいか、栞を挟んでおいたところから数ページしか進んでない。祐司さんも一度考え始めると自ら深みに填まっていくところがあるけど、私も祐司さんのことを言えたものじゃないわね。
 私は台所に向かう。・・・さて、今日は何にしようかな。祐司さんが此処に居た時は、食堂の定食ものに負けないものを作っていた。「普段朝昼兼用だからな」と祐司さんは笑っていた。祐司さんが居たから、色々作って食べてもらおう、そして褒めてもらおうという気力が沸いた。だけど私独りの今はそういう気力は殆ど沸かない。冷蔵庫を見ると野菜が少々とうどん。・・・煮込みうどんで良いか。
 残っていた野菜を取り出して一口サイズに切る。葱は小さく刻む。その間、コンロに水を張った土鍋を乗せて火にかける。出汁は何時もなら昆布と鰹節から取るんだけど、私独りだからそこまでする必要性を感じられない。スティックタイプの出汁を使う。煮込みに時間がかかる白菜、特に白い部分を先に入れる。ある程度時間を置いてから青い部分を入れる。ぐつぐつ音を立てるようになったところで、うどんを入れる。冷凍じゃない生のうどんだから、火を通す時間は割と短い。泡立ちが激しくなってきたら、コンロの火を弱めて吹き零れがないようにする。そして適度にかき混ぜて煮込み具合を均一にする。塩で味付けをしてから試しに少し食べてみる。・・・うん、丁度良いくらいね。
 私は盆に乗せておいた鍋敷きに土鍋を乗せて、刻んだ葱を振りかける。これで完成。リビングに持っていって、独りの昼食を始める。美味しく出来たけど、何か物足りない。付け合わせに何か作れば良かった、とかそういう気持ちじゃない。・・・そこに居ない人の姿を求めて隣を見ている自分に気付く。祐司さんが居たら、同じうどん料理でも焼きうどんとかもっと手が込んだ料理にする。見栄を張るんじゃなくて、祐司さんに食べて欲しいから。

 自分が食べるためだけに料理を作るのと、誰かに食べて欲しくて料理を作るのとでは、やる気の段階で格段の差がある。出来たものは同じでも、前者は自分だけの満足感しか得られないけど、後者は「美味しい」と言ってもらえると充実感や向上心が沸いてくる。作って良かった、次はもっと美味しいものを作ってみせる、そんな思いが技術の取得を早めて、知識の蓄積を促すという好循環が出来る。
 祐司さんは大抵私の料理を褒めてくれるし、美味しそうに食べてくれるけど、偶にもっとこうして欲しいとか要望を言う。それを文句とは思わず、私は祐司さんの要望に応えられるように味付けとかを工夫する。その典型例が煮物。私が習得した煮物の味付けと祐司さんが長年親しんで来た味とでは、最初かなりの差があった。食文化のギャップをどうするかはそのカップル次第。両方の中間の味で妥協するか、いっそ作らないという手段もある。
 私は祐司さんの要望に応えられるように、味付けを変えてみた。醤油の量を変えたり煮込み時間を変えたり。まだ甘かったりちょっと辛過ぎたりと紆余曲折はあったけど、今では祐司さんから満点をもらえる。そうなると人間は貪欲だから、もっと喜んでもらおうとする。祐司さんが好む料理も把握したし、味付けの加減も憶えた。
 ・・・祐司さんも今頃お昼ご飯を食べてるのかな。何をしてるのかな・・・。ふと脳裏を過ぎった想像が、心の中で急速に膨らむ。同時に寂しさが募る。せめて電話で声を聞きたいけど、1日1回午後9時頃、という約束を破るわけにはいかない。折角お父様とお母様に好印象を持ってもらえたのに、それをむざむざ自分で破壊するようなことはしたくない。
 だけど・・・急速に募ってきた寂しさは食事の手を止め、溜息だけを出させる。それに拍車をかけるのは、連続再生している「delicious way」。奇しくも曲は「君との時間」。聞いていると、祐司さんに会いたい、という気持ちがだんだん抑えきれなくなって来る。高々1週間程度のことじゃない。こんなことで寂しがっててどうするの?自分を叱咤してみても、心に満ちた寂寥感は消える気配がない。

独りはもう・・・耐えられない。

 私は残りのお昼ご飯を手早く済ませて、食器を台所に運んで片付ける。お昼ご飯は手抜きだから、片付けは呆気なく終わってしまう。安堵より強い焦燥感を感じながら、私はリビングに戻る。向かった先は電話機。受話器を手にとってダイアルする。勿論、祐司さんの実家じゃない。コール音は3回目で切れる。

「はい、渡辺です。」
「あ、こんにちは、潤子さん。井上です。」
「あら、晶子ちゃん。」

 電話をかけたのは、マスターと潤子さんの家でもあるお店。今は休みだからマスターと何処かに出かけているのかもと思っていたけど。

「突然電話してすみません。」
「そんなこと良いのよ、気にしなくても。ところでどうしたの?」
「・・・いきなりですけど・・・、マスターと潤子さんのお宅にお邪魔して良いですか?」

 独りに耐えられなくなった私は、今年のバイトが終わる前に言ってくれた厚意に縋ることにした。でも、マスターと潤子さんだって、久々の休日を夫婦水入らずで過ごしたいんじゃないか。そう思うと勝手なことを申し出た、と罪悪感が生じる。

「ええ、勿論良いわよ。」

 潤子さんの明るい声は、私の懸念を払拭してくれる。

「お泊り希望?」
「よろしければ・・・。」
「じゃあ、泊まる分の着替えとその他晶子ちゃんが必要なものを持って来てくれれば良いわ。布団は敷いておくから。」
「すみません。」
「謝らなくて良いのよ。此処は晶子ちゃんの実家だと思ってくれれば良いから。」
「ありがとうございます。これから準備して伺いますので、よろしくお願いします。」
「ええ。待ってるわね。」

 気持ち2つ数えてそっと受話器を置く。そして早速泊り込む準備をする。下着は必須として、服はこの時期厚手だからかさばるし重いし、遠い場所に長期間出かけるわけでもないから、着ていくコートを除いて数着あれば良い。あとは洗面用具とパジャマとバスタオルくらいね。必要なものが分かったら、あとは集めて畳んで大きめのボストンバッグに詰めるだけ。
 大きめのボストンバッグ1つで収まった。コートとマフラーは別途持って、マンションを出る前に着れば良い。部屋中の電源を切って、ガスの元栓を閉じたことを確認する。こういう場所での火事がとんでもない事態になることくらい分かってる。そして電話機を留守番電話機能にセットする。電話がかかってきたとしてもせいぜい実家からくらいだし、まともに応対する気はさらさらないし、このマンションはセキュリティがしっかりしてるからそのままにしておいても良いんだけど、家を長期間空ける時は一応こうしている。
 財布と家の鍵を持って出発。エレベーターに乗って1階に降り、管理人さんに鍵を預ける。こうすれば万一の紛失も防げる。

「はい。確かにお預かりしました。」
「よろしくお願いします。」

 管理人さんに礼を言ってから、私はコートを着てマフラーを巻いて外に出る。冷え込みはさほど厳しくないけど、頬に感じる空気の感触は冬独特の鋭さを持っている。 私はボストンバッグをぶら下げてマスターと潤子さんの家に向かう。寂しさを少しでも紛らわせるために・・・。
 住宅街を少し歩いていくと、小高い丘に立つ白い建物が見えて来た。私のバイト先でもあり、祐司さんと毎日会える場所。店の出入り口には「CLOSED」と書かれたプレートと、年末年始の休業日が書かれた紙が張ってある。その両脇には大きな門松。店の概観が洋風だから、どうしても違和感を覚える。
 私は裏側に回る。表の出入り口はマスターと潤子さんの働く場へ、裏の出入り口は渡辺夫妻の家に通じる玄関。少し緊張を感じながら、私はインターホンを押す。

「はい。どちら様ですか?」
「こんにちは。先程お電話した井上です。」
「晶子ちゃんね。ドアを開けるからちょっと待っててね。」

 インターホンが切れて程なく、足音が近付いて来てドアの鍵が外され、ドアが少し開く。

「こんにちは。」
「晶子ちゃん。此処に来る時は『ただいま』で良いのよ?さ、中に入って。寒かったでしょ。」

 潤子さんがドアを大きく開けてくれる。私は素早く中に入る。

「先に荷物を置いてらっしゃい。部屋は祐司君が使ってたところよ。」
「分かりました。」

 私は階段で2階に上がる。クリスマスコンサートの前に止まりこんでいた際に祐司さんが使っていた部屋に入る。既に布団が敷かれている部屋は、掃除が行き届いている。潤子さん、本当にまめだな・・・。私はボストンバッグを部屋の隅に置いて、マフラーを外してコートを脱いで、やっぱり用意されていたハンガーにかける。そして部屋を出て1階に降り、台所に入る。

「おう、井上さん。お帰り。」
「あ、こ・・・た、ただいま。」
「そうそう。それで良いのよ。」

 新聞を読んでいたマスターとしどろもどろに挨拶を交わした私に、潤子さんは満足げな笑みを浮かべる。

「お茶入れるから、座って。」
「あ、はい。」

 私はマスターの向かいに腰を下ろす。隣は・・・祐司さんが居るように思えるから空けておく。

「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」

 潤子さんが入れてくれたお茶を啜る。熱いお茶が喉を通って身体を内側から温めてくれる。

「祐司君が帰省して3日目だね。」

 新聞を脇に置いて湯飲みを手にしたマスターが言う。

「祐司君と付き合うようになって初めて独りになった気分はどうかな?」
「・・・昨日一昨日は外出したりして凌げたんですけど、今日はお昼ご飯を食べていたら、急に寂しさに耐えられなくなって・・・。」
「一緒に居るのが当たり前だったのが当たり前でなくなると、それで出来た心の穴は大きいものだからね。」
「すみません。突然お邪魔してしまって・・・。」
「謝らなくて良いよ。祐司君が帰って来るまで此処に泊まっていきなさい。それで少しでも寂しさが紛れるなら、その方が良い。」
「晶子ちゃんは、祐司君と電話とかしてないの?」
「1日1回、午後9時頃にかけることになっています。祐司さんの実家は自営業ですから、私が休みだからといって電話をかけると、お店や祐司さんのご両親、それに何より祐司さんに迷惑がかかりますから・・・。」
「ああ、そう言えば祐司君の実家は自営業だったな。店の電話が長時間使えないと営業に差し支えるし、ご両親の井上さんに対する心象を悪くするから、選択としては適切だね。だけど、今までずっと一緒に居た分、1日のごく限られた時間、それも声だけしか聞けないというのは寂しいだろう?」
「はい・・・。」
「俺と潤子の2人に割って入ったとか、そんな負い目を感じる必要は全然ないよ。むしろ、気晴らしになるなら気軽に来てくれた方が良い。」
「そうそう。晶子ちゃんは此処を実家だと思って良いからね。」

 マスターと潤子さんの優しさが胸に染みる。事前に了解を得ているとは言え、突然ボストンバッグをぶら下げて押しかけてきた私を快く迎えてくれる。孤独に押し潰されそうだった心に優しさと労りが染み込んで、一気に盛り返していく。

「あ、晶子ちゃん。悪いけど晩御飯とおせち料理作るのを手伝ってくれる?」
「はい。喜んで。」

 料理の手伝いくらい喜んでする。それで私を迎えてくれた恩返しが出来るなら。
 私は大学を入り直してこの町に移り住んだことで、事実上実家とは絶縁している。そのことで寂しいとか思ったことは一度もない。だけど、祐司さんと出逢って以来、祐司さんが私の心の中に占める割合が日に日に増して、祐司さんが帰省して居なくなったことで心に大きな穴が出来た。その穴をどうにも埋められなくて、私はマスターと潤子さんの厚意に縋ってこの家に転がり込んだ。マスターと潤子さんは温かく迎えてくれた。こういう家族なら大切にしたい。押し付けだけの家族なんて要らない。マスターと潤子さんを前にして、改めてそう思う・・・。
 晩御飯はブリの煮付けをメインに、ほうれん草のおひたし、漬物、味噌汁、ご飯という純和風メニュー。お店は喫茶店だからメニューの中に煮付けとかはない。だけど、祐司さんと私がバイトを始める前に出される夕食には、時々こういう料理が出る。煮付けは切り身全体に味を染み込ませるために結構時間がかかる。逆に言えば、それだけ祐司さんと私を単なる一時期のバイトとは思っていないということ。談笑しながらの夕食は、祐司さんと2人で暮らしている時とはまた違う感慨を与えてくれる。
 それより前に驚くことがあった。マスターと潤子さんが、お店のステージで交互に練習したこと。今までマスターと潤子さんが練習するところは、クリスマスコンサート前の泊り込みの時しか見たことがない。その時は祐司さんや私を交えてのものだった。今回はそれぞれのレパートリーを交互に演奏した。マスターは「WHEN I THINK OF YOU」「STILL I LOVE YOU」など。潤子さんは「energy flow」「EL TORO」など。どれも人気が高い曲で、それをお店の賑わいなしで直接聞けるとは思わなかった。
 聞けば、年末年始の長いお休みは休養と共に、それぞれのレパートリーを確立するためでもあり、新曲を迷うことなく演奏出来るようにする準備期間でもあるという。マスターと潤子さんは何時練習してるんだろうと不思議に思ってたけど、やっぱり練習していた。それも1回1回を大切に。
 祐司さんも作っているシーケンサのデータも、主にこの時期に集中して作っていることが分かった。マスターのみならず潤子さんも手がけている。主にこの時期に習得した曲を小出しにしていっているとのこと。データは祐司さんにおんぶに抱っこの私は、祐司さんに申し訳なく思った。データを作るには最低でも半日、普通は丸1日かかると言う。祐司さんも同じようなことを言っていた。聞く分には何気ない音でも細かいコントロールデータが含まれていたりするのを見せてもらって、歌う以外何も出来ないでいることが余計に申し訳なくなった。
 「アレンジやデータ作りは祐司君に任せて、晶子ちゃんはそれをしっかり歌えば良いのよ」と潤子さんは言った。補足として「これは必ずこうでなければならないっていう固定概念にこだわり過ぎるのは良くないわ。相互補完も1つの選択肢よ」とも言った。データは寝る時間を削ってでも祐司さんが作ってくれる。私がそのデータを無駄にしないようにしっかり歌うことで、祐司さんの苦労は報われるのかもしれない。考え方一つでものの見方は随分変わるものだと思った。

 夕食が済んで後片付けをして、潤子さんと手分けしておせち料理を作る。マスターはお店のステージでデータを作っている。栗きんとん、出し巻き、煮豆、カボチャの煮物など、おせち料理の定番メニューからちょっと意外なものまで様々。流石にお店のキッチンを取り仕切ってきただけのことはあって、潤子さんの作る料理はどれも美味しいの一言。私はまだまだね・・・。

「潤子さんは毎年おせち料理を作ってるんですか?」
「そうよ。正月3ヶ日は食事の準備をしなくて済むように、っていうのがおせち料理の原点だし。」
「1人だと大変ですね。」
「それでも3日朝昼晩の3食を作ることを考えたら、結構楽なものよ。」

 しれっと言う潤子さん。本当に余裕があるな・・・。私も見習わないと。
おせち料理を作り終えて時計を見ると、9時を少し過ぎたところ。もうこんな時間なんだ。電話しないと・・・。

「あの・・・、潤子さん。電話貸してもらえますか?」
「祐司君の実家に電話するのね?」
「はい。」
「遠慮なく使って。」
「ありがとうございます。」

 潤子さんに礼を言って、私は台所の片隅にある電話機に向かう。俄かに緊張感が高まるのを感じながら、受話器を取ってダイアルする。・・・成功。耳にコール音が流れ込んで来る。3回目に差し掛かったところでコール音が切れる。今日は誰かな・・・。

「はい。安藤でございます。」

 お母様だ。一昨日ほど緊張はしないけど、まずは挨拶から・・・。

「夜分遅く申し訳ありません。こんばんは。私、井上晶子と申します。」
「あら、井上さんですか。どうもこんばんは。」

 お母様の声が明るくなる。どうやら警戒を解いてくれたみたい。

「祐司に代わりますね。」
「よろしくお願いします。」

 お母様は前回と違って早速祐司さんに代わってくれる。受話器の向こうでくぐもった音ややり取りが聞こえる。私の胸の鼓動が強く早くなる。

「もしもし。祐司です。」

 聞きたかったこの声・・・。顔が綻ぶのを感じながら応答する。

「こんばんは、祐司さん。今、何をしてたんですか?」
「昨日に引き続いて弟の宿題を見てやってたんだ。あとはギターの練習かな。晶子は?」
「私は普段どおり起きてお昼ご飯を食べた後で、マスターと潤子さんの家にお邪魔してるんです。」
「そうか・・・。悪いな。寂しい思いさせちまって。」
「いえ。祐司さんにはお友達との約束があるんですから、私のことは心配しないでください。」

 祐司さんを不安にさせるわけにはいかない。私はマスターと潤子さんに温かく迎えられて、穏やかな年越しを迎えられるんだから。・・・出来ることなら去年と同じように祐司さんと2人で年を越したいんだけど、まさか祐司さんに帰って来てくれなんて言えない。それほど子どもじゃない。

「今日で今年も終わりですね。」
「ああ。あっという間に思えるよ。もう少ししたら年越し蕎麦を食べるんだ。晶子は?」
「私はマスターと潤子さんの家でご馳走になります。祐司さんは正月に何処かに出かけるんですか?」
「俺は朝から親戚回りに連れ出されることになってるよ。」
「身体には注意してくださいね。」
「ああ、ありがとう。」
「・・・長電話になると迷惑になりますから、このくらいにしますね。お母様に代わっていただけますか?」
「分かった。ちょっと待って。」

 受話器の向こうでやっぱりくぐもったやり取りが聞こえる。今回はちょっと聞き取れない。

「もしもし、お電話代わりました。」
「今日もありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。お父様にもよろしくお伝えくださますようお願いいたします。」
「あらあら、わざわざご丁寧にどうも。井上さんも良いお年をお迎えくださいね。祐司に戻しますから。」

 通話が途切れる。今度は連れて来なさいよ、と受話器の向こうからお母様の声が聞こえる。・・・連れて行ってもらえば良かったな、とまた後悔。

「もしもし、祐司です。」
「祐司さん。今年もお世話になりました。良いお年をお迎えくださいね。」
「ありがとう。晶子も良い年を迎えてくれよな。」
「はい。・・・じゃあ、今日はこの辺で。おやすみなさい。」
「おやすみ。」

 気持ちゆっくり2つ数えて受話器をそっと置く。今年の電話はこれで最後なのよね・・・。でも、これで終わったわけじゃない。あと3時間足らずで年が明けたら新しい1年が始まる。電話はこれまでどおりこの時間にすれば良い。離れている今こそ、私の心に占める祐司さんの大きさと大切さを噛み締めないとね。

「もう終わったの?随分短かったわね。」
「長電話だと祐司さんとご両親もそうですし、潤子さんにも迷惑になりますから。」
「将来のお父さんとお母さんだから、今のうちから良い印象を作っておかないとね。」

 潤子さんの冷やかしに私は照れ笑いで誤魔化す。でも、祐司さんと結婚したら、義理だけどお父様とお母様になるのよね。今はまだ電話越しだけど、何時か祐司さんに連れて行ってもらってご挨拶する時には歓迎されたい。そのためにも安易なことは出来ない。せがんで左手薬指に指輪を填めてもらった者として、それに恥じない存在にならないとね・・・。
 23:00過ぎに、3人揃って年越し蕎麦を食した。かき揚げを乗せた掛け蕎麦は、出汁が効いて美味しかった。その後入浴。私が最初に入らせてもらった。風呂から上がってパジャマを着た後、台所に顔を出す。明日は朝5時から月峰神社に初詣に出かけることになっている。朝は割と得意な方だけど、早く寝るに越したことはない。

「お風呂ありがとうございました。良いお年をお迎えください。」
「井上さんも良いお年を。」
「良いお年を迎えましょうね。」

 挨拶を交わして階段を上り、部屋に入る。目覚まし時計を朝4時にセットしたのを確認して布団に入る。
 去年は祐司さんと2人で出かけて、途中マスターと潤子さんに出くわした。今年は私はマスターと潤子さんと行動を共にして、祐司さんは親戚回り。振り返ってみればあっという間だった1年の疲れに意識がゆっくり埋もれていく。来年はどんな年になるんだろう・・・。祐司さんと早く会いたい。祐司さんに早く帰って来て欲しい・・・。

おやすみなさい、祐司さん・・・。

Fade out...