雨上がりの午後 アナザーストーリー Vol.3

Chapter 2 on December 30th, a year

written by Moonstone

 12月30日

 ピピピッ、ピピピッ。ピピッ。
 目覚まし時計のアラームを止めて身体を起こす。時間は8時。大学は冬休みだし、バイトもお休みだから、このくらいの時間で良い。
 祐司さんが居た昨日まで、やっぱりこの時間に起きていた。祐司さんと一緒に目を覚まして私が朝ご飯を作って、一緒に食べた。祐司さんは普段の朝ご飯はトーストとインスタントのブラックコーヒーで済ませてる、って言ってたから、此処に居る時くらいはゆっくり美味しいものを食べて欲しい、と思って、前夜に砥いで水に浸しておいたお米を炊いて、その間に味噌汁や焼き魚、ハムエッグを作ったりした。普段はこんな立派な朝飯食えないんだよな、って祐司さんは苦笑いしながら食べていた。一緒に暮らせるなら、私が毎日でも用意するのに・・・。
 その祐司さんは昨日から帰省している。どんな朝ご飯食べてるのかな・・・。
 私は溜息一つ吐いてから着替えて台所に向かう。何時になく台所ががらんとしているように思う。私一人しか居ないから、朝ご飯はトーストと紅茶で良いか。まず湯を沸かす準備をする。1人分のカップに水を汲んで、片手鍋に入れてガスコンロにかける。1人分、しかもカップ一杯の水なんて直ぐに沸騰する。鍋の側面が細かい泡を立てたところで火を止めて、先に紅茶の葉を入れておいた紅茶ポットに入れる。今日の紅茶はミント。すっとする香りが気に入っていて、持っている紅茶の中で一番よく使う。
 蒸らす間にパンを2つに切って、オーブンに入れてタイマーをセットする。蒸らす時間は量によって違うけど大体2分か3分。パンが焼ける頃に紅茶が出来上がる。
 オーブンがチン、と音を立てる。私は狐色になったパンを取り出して皿に乗せ、冷蔵庫からブルーベリーのジャムを取り出して、先にリビングに運ぶ。もう一度台所に戻って、カップと紅茶ポットを持ってリビングに戻る。カップをテーブルに置いて、そこに紅茶ポットから紅茶を注ぐ。朝ご飯の始まり。

 一人の朝ご飯そのものは珍しいことじゃない。大学の講義がある時や土日は、私一人でこうして食べている。だけど、同じ一人でも、普段は月曜以外は夕方お店に行けば祐司さんと会えた。月曜でも、明日は会える、っていう期待があった。
 今日は違う。祐司さんは帰省中だから、食材を持ってお邪魔しても、祐司さんの家には誰も居ない。祐司さんとは電話を介してしかお話出来ない。電話は毎日1回、午後9時頃と決めてある。長電話をすると祐司さんのご両親に迷惑がかかるし、印象を悪くしてしまう。今まで祐司さんが近くに居るのが当たり前だった。当たり前のことが当たり前でなくなると、そのありがたみを痛感させられる。
 4年になると卒業研究がある。私は勿論だけど、祐司さんは大変だろうと思う。理系学部は概して厳しいって聞いている。祐司さんが連日レポートと夜遅くまで格闘していることは知っている。単位を取らないと進級出来ないのは私も同じ。だけど、祐司さんの方が圧倒的に厳しいと思う。2年から3年になる時にも、3年から4年になる時にも 必要な単位数や必須科目の単位数があって、その条件を満たせずに留年する人が結構多い、って祐司さんは前に言っていた。3年から4年になる時の条件が特に厳しいらしい。今以上に忙しくなるのか、と思うと、祐司さんが健康管理出来るのかが気がかり。
 祐司さんは自分をずぼらって言うけれど、私はそれで良いと思う。あれだけ難しいレポートを毎日幾つもこなして、その上お店で使う曲のアレンジや練習もして、更に食事や洗濯とかもするとなるととても身体が持たないんじゃないか、と思う。ましてや卒業研究ともなると、実験や測定なんかで朝早くから夜遅くまで大学に居ないといけないんじゃないか、と思う。そうなると、祐司さんが今住んでいる家の管理は勿論、疲れて帰って来た後では家事をする気になれないと思う。だから、本当は私が一緒に暮らして、食事や洗濯、掃除といった祐司さんが苦手なことを私がして、祐司さんがレポートと音楽に専念出来るようにしたい。

 大学の講義ではジェンダー問題が時々取り上げられる。ジェンダーっていうのは生まれ持った性差じゃなくて、社会や体制が作り上げた意図的な性差のこと。「男性は仕事、女性は家庭」というのが端的な例。
 ジェンダーを一律に押し付けるのは間違いだと思う。だけど、そのアンチテーゼであるジェンダーフリーを一律に適用するのも間違いだと思う。その家庭にはそれぞれの事情がある。共働きもあれば、夫の収入で豪遊する女性も居る。共働きでも夫婦の職種で事情が違ってくる。社会全体が男性を働かせて女性を働く現場から排除しようとしている限り、どうにもならないこともある。そういう現実を変えようとしたり、直視したりしないで、「男性が女性に家事を任せるのはおかしい」「男性も家事をしろ」とか言うのは一方的だと思う。
 私が居る文学部は女性の比率が圧倒的に高いこともあって、ジェンダーフリーは結構共感を呼んでいるみたい。共感するのは構わない。だけど、それぞれの夫婦の事情もあるんだから、一方的にジェンダーフリーを押し付けられることには反対。祐司さんがレポートや曲のアレンジや練習で忙しくてとても家事に手が回らないなら、祐司さんと比較すればずっと余裕がある私がそれを担当して、祐司さんが自分のすべきことに専念出来るようにするのも、夫婦のあり方の一つの筈。「多様な生き方」を言うなら、そういう生き方もあって良い筈。なのに、祐司さんと私の現状でジェンダーフリーなんてものを押し付けられたら、祐司さんは身体を壊してしまう。それだけは絶対嫌。
 私がお店で歌う曲のデータは祐司さんが作ってくれている。フェードアウトだと締め方が難しいから、ってことでアレンジもしてくれている。言い換えれば、祐司さんは私の分まで仕事をしている。ただでさえ祐司さんは自分のことで大変なのに、家事もして、なんてとても言えない。言いたくない。祐司さんには家のことはずぼらなままで構わない。祐司さんにはレポートや音楽に十分時間を使ってもらって、私に食事や洗濯とかを任せて欲しい。
 祐司さんが言ってくれれば、私はその直後からでも実行に移すつもりで居る。祐司さんが言わないのは、私を気遣ってのことだと思う。私のことを気遣ってくれるのは勿論嬉しい。だけど、私を気遣うあまり自分にこれ以上負担をかけないで欲しい。
 朝ご飯は呆気なく終わる。私は食器と紅茶ポットを台所に運んで洗う。食器の数は少ないから、5分もあれば終わる。私はリビングに戻って、コンポにCD「WAVE」をセットして、薄めに流す。
 独りだともてあます時間は、ゆっくりと流れていく。そんな中で思い浮かぶのは祐司さんのこと。
 祐司さんは進路を迷ってる。私に遠慮してのことだと思うけど、きっかけがないと自分から進んで話そうとはしない。一昔前みたいに、妻や子どもを食べさせていかないといけない、なんてそれこそジェンダー的なことは思わないで欲しい。私も働くし、収入がどうとか、世間の目がどうとか、そんなことは私は全然気にしない。他人がどう思おうが勝手だから。
 私が願うことは祐司さんと一緒に暮らすこと。既成事実の延長線上じゃない、本当の夫婦として一緒に暮らすこと。レジャーや旅行に連れて行け、とか、時には豪華なディナーを、とか、結婚記念日にはダイヤの指輪を、とか言うつもりはさらさらない。そんなことを夫に求めるために結婚したいわけじゃないから。ただ・・・愛する男性(ひと)と一緒に暮らしたい。それだけ。

 私からプレゼントしたものは、手編みのマフラーとセーター、そして私自身。
 祐司さんが此処に居る間、祐司さんが私を求めてくることはなかった。祐司さんは、私を抱くことにかなり慎重になっている。多分、前に付き合っていた優子さんとの破局で、セックスが必ずしも愛を続けることにはならないと思い知らされたから、私を抱くことで同じことの繰り返しになるのを恐れているんだと思う。
 祐司さんは、私から見れば気まぐれでしかない優子さんに翻弄されて深く傷ついた。祐司さんにとっては至福だった時間が、女性の一方的な宣告で強制終了させられた。
 私はまだましだった。どちらから別れを切り出したのでもない。無理矢理引き裂かれたから、引き裂いた人間を責めて恨めば良い。祐司さんはそれが出来ない。祐司さんには何の落ち度もないのに一方的にふられて、しかもそれは祐司さんが優子さんを引き止めてくれるかどうかを試すためであって、祐司さんが引き止めてくれなかったことで、別の男性と軽い付き合いを始めて、やっぱり祐司さん、とばかりに復縁を迫って来た。心底誠実で真面目な祐司さんが当惑したり怒ったりするのは当然だと思う。優子さんのあまりにも身勝手な言動に私も怒った。
 この夏に海に行った時、祐司さんは優子さんと偶然出くわした。祐司さんは優子さんの友人の懇願に応じて、話し合いと関係の清算の時間を作った。私は、祐司さんは優子さんを徹底的に突き放して、今更何を言うか、とかなじるぐらいしても良かった、と今でも思っている。
 祐司さんは真面目なあまり深く傷ついた。誠実なあまり、一方的に非がある相手に反省の機会を与えた。私は、祐司さんの真面目さや誠実さに特に惹かれた。こんな男性に出逢えるとは思わなかった。そんな祐司さんの真面目さや誠実さに異議を唱えるつもりはない。祐司さんには今のままで居て欲しい。だけど、その真面目さや誠実さを他人の良いように利用されないかが心配。またそれで祐司さんが傷つき、悩むことにもなりかねない。祐司さんのような人が正当に評価されて、報われる社会であって欲しい。

 祐司さんが私を抱かないのは過去の二の舞になることを恐れているのもあるんだろうけど、此処が女性専用マンションだということもあると思う。女性専用マンションには当然だけど、女性しか入居出来ない。だけど、入居者が招き入れるには何の制約もない。入るには入居者でも厳重なセキュリティを解除しないといけないし、郵便屋さんや宅配便業者の人でも、予め登録した人でないと入れないし、登録されていても入り口直ぐ傍にある郵便受けより奥には踏み込めない。祐司さんが来る時には、予め電話をもらって管理人さんにその旨を伝えている。だから、祐司さんは此処をもう一つの自分の家と思ってもらって良い。私を此処で抱くことを躊躇わないで欲しい。
 きっと祐司さんは、内心激しい葛藤を続けているんだと思う。自分の家でも今まで私を2回しか抱いていない。その時も全部私から求めた。男の人は苦しい、って聞いたことがある。祐司さんは懸命に我慢しているか、自分で処理しているかのどちらかだと思う。妊娠の可能性があるから、私も流石に何時でも、とはいかない。でも、処理を手伝うことなら出来る。アダルトビデオで私以外の女性を見て処理しないで-祐司さんの家にはビデオデッキはないから無理だろうけど-、私を見て処理して欲しい。祐司さんには、他の女性の裸やセックスを見て興奮して欲しくない。・・・こういうのも独占欲、って言うのかしら。
 私は外に出た。場所は、何時も買い物に行っているところより自転車で10分ほど走ったところにある大型小売店。家に居てもつまらないから、退屈凌ぎにウィンドウショッピングでもしよう、と思っただけ。ただそれだけの理由。
 この店には幾つもの専門店が入っている。駐車場はほぼいっぱいだけど、駐輪場には割と余裕がある。今は近いところに行くにしても車を使う時代。荷物があるかないかは別。だからどうしても駐車場は広くなるし、それでも追いつかない。車で運ぶほどの荷物があるなら兎も角、近くなら自転車を使うなり歩くなりした方が良いと思うんだけど・・・。
 中は人でいっぱい。入って直ぐのところにある食料品売り場は大混雑どころの話じゃない。私はそこを通り過ぎて、近くのエスカレーターに乗って2階に向かう。私がこの店を知ったのはつい最近のこと。何やらのぼりが林立していて道が大渋滞を起こしていたから、何があるんだろうと思って行ってみただけ。だから店の中にどんな店があるのかは殆ど知らない。見物がてら歩き回ろうと思う。
 食料品は何時も買っている店の方が安いし、見た目にも新鮮と分かるものが揃っていることは把握している。2階は衣料品関係がまず近くにあって、エスカレーターを境界にして専門店が並んでいる。此処も人が多いけど、1階の食料品売り場ほどじゃない。どんな店があるのか、歩きながら見て回る。カジュアルショップが多いわね。品物を見てみると、嗜好を絞り込んでいるのが分かる。同じ品揃えだと客足を引き付けられない、というのもあるんだと思う。大きな衣料品売り場が近くにあるし・・・。
 近くの女性服専門店に入って見て回る。・・・高い。ブラウスでも5、6000円はする。コートやセーターになると軽く万の桁に乗る。それ以外の物を探す方が難しい。その割にはお客さんは結構多い。私と同じくらいの女性や高校生くらいのグループが、品評会をしたり隣の男性に強請ったりしている。私が暮らす世界じゃない。そう思った私はさっさと退散する。

 祐司さんは服装に関心がない。着られるものを着ていれば良い。そんな感覚。そんなところをずぼら、って祐司さんは言うけれど、私はそれで良いと思ってる。そんなことまで気を配っていたら、祐司さんは生活出来ない。
 祐司さんは大学進学と一人暮らしの条件として、4年で卒業することと、生活費の補填をバイトですることを受け入れた、って言っていた。あれだけのレポートをこなして、曲のアレンジやデータ作りをして、その上週1回休みがあるとは言っても、毎日午後6時から午後10時までバイト。本当に身体を壊してしまうんじゃないか、と心配になる。土日に家に来てご飯作って洗濯とかしてくれ、って言えるなら言って欲しい。
 女にそんなことをさせるのは、なんて思わないで欲しい。他人がどう思おうが勝手だし、私と祐司さんには、私と祐司さんの事情がある。そこにジェンダーフリーとかを持ち出されて画一的に押し付けられるのは、はっきり言って良い迷惑でしかない。
ジェンダーフリーは大いに結構。だけど、祐司さんが、私の愛する男性(ひと)が何もかも背負って身体を壊して欲しくない。私はその防止策を執る構えで居るだけ。女性は、女性が、と前面に出るばかりが女性の生き方だとは私は思わない。

 ゆっくり歩きながら、他にどんな店があるかを見て回る。やっぱりカジュアルショップが多いわね・・・。そのせいか、見た感じでは年齢層は若い。

「彼女ぉ。一人ぃ?」

 別の店の店頭に飾られていた商品を眺めていたら、声をかけられた。振り向くと、皮のジャンパーとジーンズという服装で揃えた男性3名。声をかけられても無理はない。他の女性客は大抵2人以上で居るから、一人で彷徨っているように見える私は目立つんだろう。

「今は一人で居ますけど、一人じゃありません。」
「え?」
「こういうことです。」

 私は左手を突き出す。男性は一様に顔を強張らせる。左手薬指に輝くのは、祐司さんと私の絆を示すこの世に二つとない大切な指輪。私のお守りでもある。

「結婚・・・してるの?」
「はい。」
「で、でも、旦那居ないじゃん。」
「夫は都合で不在なんです。これ以上は私のプライベートですから、貴方方にお話しする理由はありません。」

 食い下がろうとした男性に私は言う。祐司さんが帰省で不在なのは事実。そこまでこの人達に説明する必要はない。
 男性達は諦めたのか、逃げるように立ち去る。また・・・祐司さんに護ってもらったな。私は左手を見る。薬指の指輪が白銀の輝きを放っている。手入れの時-祐司さんから専用のクリーナーを併せてもらった-以外はずっと填めたままで居る指輪。裏側には、「from Yuhji to Masako」と刻印されている。祐司さんが填めている方には「from Masako to Yuhji」と刻印されている。左手薬指に填めることで、指輪も填めている人も特別な意味を持つ。左手薬指を「ring finger」と言うように。
 祐司さんに指輪を填めてもらって以来、声をかけられる回数は激減した。偶に声をかけられても、さっきのように左手を見せて一言言えば退散する。たとえその時傍に居なくても、祐司さんは何時も私と繋がっている。そんな証が欲しくて、私はここに填めてくれ、と譲らなかった。その後何度か祐司さんとの絆は揺らいだけれど、祐司さんから貰ったこの指輪が、祐司さんが幾度となく私を護ってくれていることには変わりない。戸籍上では祐司さんと私はまだ夫婦になっていない。だけど、祐司さんと結婚したい。ずっと一緒に居たい。そんな想いと指輪が重なっている。
 祐司さんは、辛い過去を乗り越えて私の想いに向き合ってくれた。私の我が侭に応えてこの指に指輪を填めてくれた。一方的で気まぐれな行動に振り回されて深く傷ついた祐司さんに、二度と同じ思いをさせてはならない。田畑先生との一件でそれを痛感させられた。私の軽率な行動が祐司さんを苦しめてしまった。左手薬指に指輪を填めていれば絶対安全じゃない、常に行動で示さないといけないと思い知らされた。
 あの一件では、祐司さんには何の落ち度もない。左手薬指に指輪を填めていることに安心しきって軽率な行動を執った私が火種。もう二度とあんなことにならないよう、祐司さんが少しでも疑わしいと思うようなことはしない、と誓った。その一環として、薬指に指輪が輝く左手を意識的に見せるようにしている。声をかけられても左手を見せて、夫が居る、と断言するようにしている。 祐司さんの妻として、私自身が毅然としてなきゃ駄目よね。ふらふらしていたら、真面目な祐司さんに愛想を尽かされちゃう。
 ・・・ありがとう、祐司さん。また私を護ってくれて。私は祐司さんが居ない間も貴方だけの存在であり続けますからね。
 指輪を通じて祐司さんに心の中で語りかけて、私はその場を後にする。
 お昼ご飯を1階の喫茶店で済ませた私は、今度は3階に上った。3階は大きな電気店に隣接して、アクセサリー店や雑貨店、書店やCDショップなど色々なお店が混在している。此処も賑やかだけど、心なしか、カジュアルショップが殆どだった2階より居心地が良く感じる。
 アクセサリーは祐司さんから貰った指輪と、今年のクリスマスに貰ったペンダントがあるから興味はない。指輪とペンダントは手入れの時以外は常に身に着けている。常時身に着けていても大丈夫だ、って祐司さんから聞いてるし、実際大丈夫。手入れも傷が目立つかな、と思ったくらいに専用のクリーナーで磨けば良い。ものの2、3分で済んでしまう。
 指輪は最近手入れしていない。こう言うと雑に扱ってる、って思われるけど、指輪を磨くことでそれまでの祐司さんとの記憶を消してしまうような気がして嫌だから、あえて填め続けている。大学に居る時も、バイトをしている時も、こうして一人で居る時も。

 書店に入る。かなり大きな書店ね。普通に一軒独立で存在していても不思議じゃない。ファンタジー小説が好きな私は、売り場の通路側にある雑誌類のコーナーを通り過ぎて、その関係のコーナーに向かう。
 えっと・・・、あの小説の新刊は出てるかな・・・。あ、あった。私は帯のついたハードカバーの本を手に取る。タイトルは「Saint Guardians」。剣や魔法やモンスターが出て来るファンタジーの要素はあるんだけど、推理小説みたいな色合いが濃いっていう、変わった小説。インターネットで公開している「お試し版」を見て、それで気に入ったら買ってくれ、という体裁の、販売方法も変わってる小説。何でも、書店で販売されているものは「お試し版」に加筆修正を施したものらしい。
 私は「お試し版」を見たことがない。偶々別の書店で読んでみて、巻末付録の登場人物紹介で、赤い髪の男の子のCV-Character Voiceの略らしい-イメージとして、祐司さんと同じ名前の人が記載されていたから買ってみた。
 改めて読んだ最初の印象は、「随分設定が細かいな」ということ。度量衡-重さや長さの単位-も10進数を基本としたものに決まっていて、最初の方は論文か何かのように文末脚注の数字が大量にあって、それらは巻末付録の用語解説と照らし合わせないといけないようになっている。こんなに用語解説と照らし合わせながら読まないといけない小説って、恐らくそうそうないと思う。
 そんなこともあって、かなり取っ付き難い印象があったけど、読み進めるうちに推理小説のような色合いが強まって来て面白くなって来た。この前の新刊では、パーティーが宗教の内紛の影響で分断されて、秘法を流出させようとする一派とそれを阻止しようとする一派のせめぎ合いが展開された。これも、赤い髪の男の子のお父さんが攫われたこと、そしてその男の子のお父さんを攫った男が所有権を主張する剣に関係していることが分かって、謎が明らかになるどころか益々深まった。
 この小説の作者は、小説の内容や販売方法と同じく相当変わった人らしくて、「お試し版」が公開されているWebサイトにある作品制作の状況を見ると、大量に書いた日があると思ったらまったく書かない日もあったりと、かなり斑(むら)があるらしい。だから、何時新刊が出るかはWebサイトを逐次チェックしていないと分からないらしい。奥付にそういった作者の言葉と、作者のWebサイトのURLが記載されている。今回の新刊の帯には「愛のため、剣士が一人の男になる」って大書されている。何のことだろう。家でゆっくり読もうっと。
 レジに持っていく。お客さんは多いけどレジは待つほど並んでいない。特に雑誌の立ち読みが多いせいだと思う。1500円を払って紙袋に入れてもらって、ありがとうございました、の声に送られて店を出る。他に買い物はないから・・・帰ろう。また声をかけられるのも嫌だし。
 帰宅してから、紅茶を飲みつつ、途中夕食の準備と夕食-今日は野菜と海老の天ぷら-を挟んで読みふけった。今までパーティーを牽引してきた男性に生き別れになった婚約者が居ることが分かって、話はその男性を中心に進んでいく。3年間生き別れになっていても何時か再会出来ることを信じて、その女性のためにひたむきになる男性・・・。 高々1週間程度の「独り」を寂しがっているようじゃ、まだまだ及ばない。もっとしっかりしないとね・・・。
 一区切りついたところで、時計を見る。あ、もう9時だ。祐司さんに電話出来る、祐司さんの声が聞ける貴重な時間。本にしおりを挟んで、デスクにある電話機に向かう。受話器を手にとって祐司さんの実家の電話番号をダイアルする。
 今度は1回で成功。コール音が聞こえる。今日は誰が出るのかな・・・。祐司さんかな・・・。3回目に差し掛かったところでコール音が途切れる。

「はい。」

 低い声。今日はお父様だ!き、きちんと挨拶しないと・・・。

「安藤さんのお宅でしょうか?」
「はい。」
「夜分遅く申し訳ありません。はじめまして。私、井上晶子と申します。」

 昨日と同じく、私は特に自分の名前をゆっくりはっきり言う。

「あー、井上さんっていうと、今祐司と付き合ってる、井上さんですか?」
「はい。改めてご挨拶いたします。はじめまして。私、井上晶子と申します。」
「あー、いやいや、どうもどうも。祐司の父です。」

 声の調子が一転明るくなる。どうやら第一関門突破ね・・・。
祐司さんが私と付き合ってるってことはご両親に話してあるって聞いてるけど、やっぱり緊張するなぁ・・・。

「祐司から、このくらいの時間に貴方から電話がかかって来るってことは私も聞いてます。昨日は家内が出たんですけど、今時珍しく礼儀正しい娘(こ)だ、って話してたんですよ。」
「いえ、とんでもないです。」
「祐司と同じ新京大の文学部だそうで。」
「はい、そうです。」
「あー、すみませんね。祐司に代わりますんで。」
「お願いします。」

 くぐもった声でやり取りが聞こえる。祐司さんの声が聞こえる。胸が高鳴る。

「もしもし、祐司です。」
「こんばんは、祐司さん。」

 聞きたかったこの声・・・。顔が綻ぶのが自分でも分かる。

「今日、俺は父さんとスーツを合わせに行ったんだ。成人式用ってことで。」
「どんな色なんですか?」
「紺だよ。別に何か狙ってるわけでもないから、ごく一般的なタイプ。」
「私は、大型小売店に行って小説の新刊を買って来たんです。途中男性に声をかけられたんですけど、指輪を見せたら逃げちゃいました。」
「そうか。役立ってるんだな。」
「ええ。凄く。・・・祐司さんのスーツ姿、見て見たいです。」
「期待するほど大したもんじゃないよ。まだネクタイが上手く締められないから、そっちの方も何とかしないと。」
「大丈夫ですよ。練習すれば。」

 スーツを合わせに行ったんだ・・・。一度見てみたいな。

「私は買って来た小説を読んでたんです。祐司さんは?」
「俺は昨日に引き続いて、弟の冬休みの宿題を見てやってたんだ。」
「そうですか。弟さんを教えてあげてくださいね。」
「ああ、分かった。」
「・・・長電話になると迷惑になりますから、このくらいにしますね。あ、お父様に代わっていただけませんか?ご挨拶しておきたいので。」
「分かった。ちょっと待って。」

 通話が途切れる。電話の向こうでくぐもったやり取りが聞こえる。随分丁寧な娘だな、ってお父様、驚いてるみたい。

「もしもし、お電話代わりました。」
「今日はありがとうございました。明日もこのくらいの時間にお電話させていただきますので、その際は祐司さんに取り次いでくださいますよう、よろしくお願いいたします。」
「えー、勿論勿論。貴方のことは聞いてますから、言ってもらえば祐司に代わりますんで。じゃあ、祐司に戻しますね。」
「お願いします。」

 再び通話が途切れる。今度は連れて来い、ってお父様の声が聞こえる。・・・歓迎されるなら祐司さんに連れて行ってもらえば良かったな・・・。後悔しても仕方ないけど。

「もしもし、祐司です。父さんと母さんには話してあるから、大丈夫なんだぞ?」
「お父様とは今日が初対面ですから、一度はきちんとご挨拶しておかないといけない、と思って。」
「明日も居るから。出かける用事もないし。」
「分かりました。・・・それじゃ、この辺にしますね。おやすみなさい。」
「おやすみ。」

 気持ち2つ数えてから、受話器をそっと置く。高々1週間程度だ、って分かってはいるけど・・・、祐司さんの声を聞くと、逢いたい、っていう気持ちが抱えきれなくなるほど膨らむ。今まで当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなった今、当たり前の大切さを改めて実感する。早く帰って来て欲しいな・・・。
 小説を読み進めてお風呂に入って、パジャマを着た私はリビングに戻る。時刻は・・・11時を過ぎたところ、か。寝る以外思いつかない。日記を書く頃からBGMとして薄く流しておいたのは、倉木麻衣さんのアルバム「PERFECT CRIME」。曲は「always」の途中。この曲は特に好きな曲の1つ。愛と勇気を前向きに歌った歌詞が、私に力を与えてくれる。今は、ともすれば祐司さんと会えない寂しさの海に沈み込んでしまいそうになるところを、引き上げてくれる。祐司さんは帰って来る。その時はおかえりなさい、と言って出迎えよう。いってらっしゃい、と言って見送ったように・・・。
 「always」がフェードアウトしたところで、私はCDを止めてコンポの電源を切る。そして部屋の照明を消してベッドに入る。昨日は夢を見なかったけど、今日は夢を見られるかな・・・。祐司さんと会えると良いな・・・。2日目の「独り」の日はこれで終わり。明日で今年も終わりなんだな・・・。あっという間に感じる・・・。

おやすみなさい、祐司さん・・・。

Fade out...