雨上がりの午後

Chapter 342 「娘」との時間5−夢が詰まった場所へ3−

written by Moonstone

 料理が出そろう。俺の向かいに座るめぐみちゃんは、待ってましたとばかりにキッズ・スターセットのエビフライをぱくつく。食べる時も元気いっぱいのめぐみちゃんを見ながら、俺と晶子は粗引きジューシーハンバーグセットを食べ始める。
 キティ関係のショップでも、めぐみちゃんは真剣に選んで1つの商品を選んだ。選んだのは濃いめのピンクのリボン。キティのトレードマークみたいなアイテムは、無事めぐみちゃんのものとなって、晶子の鞄に収納された。
 めぐみちゃんが買ってもらう商品を厳選したため、時間は自ずとかかった。結果、店を出て最寄りでゆったり食事が出来そうな店として俺が選んだこの店−ハリウッド・エリアのスタジオ・スターズ・レストランに到着した頃には1時近くになっていた。
 この頃になると昼飯のピークは過ぎて、待たずとも席に座れた。めぐみちゃんは目いっぱい遊んで楽しんで、更に気に入った商品を買ってもらえたせいなのか、疲れた様子を微塵も見せない。今も元気に、行儀良く食べている。めぐみちゃんが頼んだキッズ・スターセットは料理の品数が多いが、それをものともしない。

「めぐみちゃん。次行きたいところってある?」
「見て回って決めたい。」
「場所が分からない?」
「ううん。お父さんとお母さんと行きたいところは全部行った。途中、色んな場所があって面白かった。だから、お父さんとお母さんと見て回って面白そうなところに行きたい。」

 ジュラシック・パークとユニバーサル・ワンダーランドに行けたことで、めぐみちゃんの最大の目標あるいは願望は成就出来たのか。遠足で来た時には自由行動はなかったようだし、歩き回って関心を持ったエリアやアトラクションに行ってみたいという気持ちは良く分かる。
 此処まででも、歩いて行くうちに風景がガラリと変わったり、建物の形や色までキャラクターやその世界観で統一されている様を目の当たりにした。普段だと見られないことだし、アトラクションを片っ端から楽しむのも、現実から離れた世界を見て楽しむのもありだ。

「丁度この店があるエリアは出入り口に一番近いところだから、最初から見て回るみたいで良いな。」
「通常の場所以外に、屋外で特定の時間帯だけイベントをしている可能性もありますよね。」
「いっぱい見て回りたい。」
「全部歩いて回るくらいの気分で頑張ってみよっか。」
「うん!」

 行き先の制限がなく、唯一の制限である時間も遠足に比べれば相当緩い今回のユニバーサルスタジオ巡りは、まだまだめぐみちゃんの心を掴んで離さない。こういう非日常に浸れる機会はそうそうないことだし、俺と晶子も便乗して楽しむに限る。
 それにしても、めぐみちゃんは随分綺麗に食べるようになったな。夏に家に来た時もそうだったが、美味しそうに元気良く食べるのは変わらないが、食べこぼしが殆どなくなった。初めて逢った京都での昼飯とかは食べこぼしがちょくちょくあって、晶子がフォローしていたもんだが。
 めぐみちゃんの成長もあるのは間違いない。幼稚園ならまだ目を瞑れる面はあるが、小学校になると周囲の目が途端に強くなる。多数が普通に出来ることが出来ないと排除の対象にされる。それが絶対に良いとは言えないが、学校に行けば給食という形で必ずある「食べる」ことと美意識がリンクして、綺麗に食べることに目が行くようになったんだろう。
 あとは、やっぱり高島さんの躾だろう。自宅にめぐみちゃんの両親と共に引き取って目が行き届くようになった、と以前言っていたし、事実上の世話役でもある森崎さんの目も行き届く。食事や勉強など今後の基礎となることを、高島さんと森崎さんが改めてしっかり躾けたんだろう。
 実は今もそうだが、店内は騒々しい。混雑している店内で人の会話が入り乱れる分には自然なことだし、賑わっていると思うだけだ。今の騒々しさは、めぐみちゃんとさほど変わらないであろう年代の子どもが発する奇声と言うべき甲高い声の合唱だ。
 調和が取れた合唱ならまだ良いが、今の合唱はリズムは滅茶苦茶で不協和音の連続で、とても聞くに堪えないものだ。食べているより騒いでいる方が多いと思わざるを得ない騒々しさだし、親は見る限りまったく止めないばかりか、スマートフォンを弄ってばかりで見向きもしない。
 食事を与えておけば満足すると思っているのか知らないが、到底そうなってない。出逢った頃のめぐみちゃんの両親を思い起こさせる。ただ食べ物を与えるだけなら動物と変わらない。躾がなされていない子どもは野生の猿と変わらない。
 店員も注意しているが、親が「子どもだから騒ぐのは当たり前」と居直っている。「子どもだから」で迷惑行為が免罪されると思い込んでいる親の思考回路が理解できない。このまま野生の猿状態で成長したら、まるで周囲の迷惑を考えない大人が出来上がってしまうだろう。その頃には「子どもだから」は通用しない。
 だが、そういう輩が妙な知恵だけ付けて、やれ人権だやれ裁判だと脅して、時には議員や役所を言葉巧みに抱き込んで自分の言い分を通したりする。モンスターなんて可愛いもんじゃなくて悪霊とか貧乏神とか言うべきだが、それを恐れて諌めようにも二の足を踏む場合が多い。
 俺だけならまだしも、今は晶子とめぐみちゃんが居る。特にめぐみちゃんは高島さんの全幅の信頼を背景に預かっている状況だ。トラブルになっても最悪高島さんの手を借りることは可能だろうが、決して好ましいことじゃない。残念だが、関わり合いにならないことも選択肢の1つと割り切るしかない。

「改めて見てみると、エリアごとに明確に色分けされてますね。」

 食事と休憩を済ませて−結局例の親子の集団の騒々しさと無責任さは変わらなかった−、ハリウッド・エリアから歩いて回ることにした。ハリウッド・エリアは出入り口に一番近いせいか、マップを見てもアトラクションもショップも潤沢だ。特にショップは一種の商店街を形成しているほどだ。

「色や形が統一されているのは、その地域やエリアのカラーがはっきり出るもんだな。」
「外国の町を歩いてるみたいで面白い。」

 めぐみちゃんは頻りにあたりを見回している。混雑が凄くなって来たから、不意の事故を避けるために晶子が抱っこしている。視界がぐっと高くなって見晴らしが良くなった上に、晶子に抱っこしてもらえることで、めぐみちゃんはご満悦の様子。
 アトラクションは全般的に屋内が多いらしく、此処ハリウッド・エリアは屋外で展開されているアトラクションはない。遊園地と違うのはこういうところだろうか。雰囲気の違いを見て回って楽しめるのは、遊園地では難しい楽しみ方だろう。遊園地はアトラクションを楽しむためにあるようなもんだし。

「お父さんとお母さんが居るところの学校は、何処に遠足に行くの?」

 唐突な上に予想外な質問をしてくるところは、まだまだ健在だ。子どもが居ないし学校関係者との関わりがないし、俺は答えようがない。

「小学校だと、低学年−めぐみちゃんも2年生だからそうだけど、隣の町の大きな公園に行くそうよ。バスで少し離れたところに行くのは、3年生からみたい。」
「公園だと、何時もと変わらないみたい。」
「遠足で行く公園は、近くの公園よりずっと大きくて、木で出来たブランコとか遊び道具がいっぱいあるんだって。」
「そっかぁ…。そんな公園なら1日遊べるね。」
「よく知ってるな、晶子。」
「ほら、お店には塾の先生も来るじゃないですか。昼だと近隣の奥さん達も。そういう人達から学校に関する情報は色々入って来るんですよ。」
「そう言えばそうだったな。」

 引退してまだ1年経ってないが、店のスタッフじゃなくなるとその手の情報にはとんと疎くなっている。確かに、店の立地と口コミによって、近隣の主婦がお茶会の場に使ったり、塾講師が昼飯を食べる場にもなっている。
 店のスタッフとしてはオーナーである渡辺夫妻を除いて最も職歴が長い晶子は、顔馴染みの客も多い。顔馴染みくらいになると色々な情報が入って来る。それは客の側からの比率が高い。近隣の主婦は殆ど子どもを学区内の学校に通わせているし、塾には学区の子どもが多く来る。必然的に学校の情報も色々入って来る。
 新京市は学区で将来−と言っても大学進学までだが−に差が出ると言われている。前に俺が住んでいた胡桃が丘、今住んでいる鷹田入は中学校まで同じ学区で、「良い学区」と言われている方だ。まだ子どもが居ないから分からないが、教育熱が高いのは店で働いていた頃つぶさに感じたことだ。
 晶子が新京市の学校の方針を説明する。それによると、小学校の遠足は体力づくりを念頭に置いているそうだ。公園に行くのも、運動場よりずっと広い場所で自由に遊ぶことが目的で、遊具はアスレチックのものだから、遊んでいるうちに体力も増す、という算段らしい。
 親の意図は何だか他人任せというか、学校任せのような気がする。所謂モンスターペアレント−俺に言わせれば馬鹿親で十分−の問題も、学校に任せておけば勉強も健康も躾も完ぺきに行われるかと思いきや、そうはいかなかった、つまり目論見が外れたことで激昂するのが1つと言われるのも納得だ。
 恐らく近い将来子どもが出来て、当然学校に通わせることになるが、今の学区で良いものかと疑問がある。晶子が出産・育児を経て今の仕事を続けるか、そうなら通勤をどうするか、俺の通勤をどうするか、といった課題はあるが、進学実績や成績の競争に駆り立てるよりのんびりおおらかに育てる環境を探す方が良いんじゃないだろうか?

「遠足は、子どもの立場だと小遣いの額の方が気になるな。」
「それはありますね。」
「めぐみの遠足もお小遣いの額は決まってる。此処に来た時は1000円だった。」
「1000円だと、キティのエリアには行かない方が良いだろうな。」
「遠足だからってことで行けなかったそうですけど、お小遣いの額を考えれば妥当な判断ですね。」

 遠足には小遣いの額が付いて回る。ちょっとした菓子なら買えるが、ぬいぐるみとかは無理だ。小遣いの額に制限を設けないのは、経済事情が様々な公立の学校だと如実に出る。買える買えないは羨望や嫉妬、ひいてはいじめの原因になる。まだ自分と他人の違いを客観視できない年代では、自分の小遣いの額に納得するのは難しい。
 それを考えると、菓子か飲み物くらいしか買えない場所である公園とかに行く方が無難と言える。めぐみちゃんの話からして遠足で来た時もショップを見ただろうが、買おうにも買えないのは、年代を考えるとそれこそ生き地獄だ。我慢を教える場と考えてのことかもしれないが、何かピントがずれているような気がする。

「大人になると、遠足には行かないの?」
「高校まではあるな。大学は基本自由行動だから、学年でまとまって何処かに行くってことはない。」
「中学高校と進むにつれて、行く場所は遠くなるし、行動も自由になっていくと思うよ。」
「大きくなるにつれて世界が広がるんだね。」

 今のめぐみちゃんは、学校や学年の単位か身近な大人と行動するしかない。京都の複雑なバス路線を理解するのは難しいだろうし、自転車で−問題なく乗れるそうだ−移動できる範囲は限られる。成長するにつれてバス路線の使い方を覚えて電車や飛行機を組み合わせて、遠いところに行くようになるだろう。
 周囲の風景が一気に変わる。ハリウッド・エリアからニューヨーク・エリアに入ったようだ。ジュラシック・パークに行く際に通ったから初めて見た景色じゃないんだが、日ごろ目にしないせいか今回も新鮮に感じる。

「このエリアのショップはどんなものかな。」

 マップを広げて見る。ニューヨーク絡みかどうかは分からないが、映画関係のショップが多いようだ。

「この、シネマギャラリーって面白そうですね。」

 晶子がマップを覗きこんで来る。突然の行動に内心驚く。

「しねまぎゃらりーって何?」
「映画に関係するもの、例えばパンフレットとかフィルムの一部とかが展示されているところよ。」
「お店じゃないの?」
「博物館っていう展示専門の場所だと買えないけど、此処にあるのはお店だから、売ってるものは買えるよ。」
「お母さん、映画好きなんだ。」
「うん。好きよ。お父さんとも何度か行ったし。」

 最近はご無沙汰だが、以前は晶子と映画に行った。映画好きと明言した記憶はないが、DVDとかで済まそうとしないあたり、映画が好きなんだろう。読書もそうだが、晶子は1つのことを長時間することが好きなようだ。根気強いタイプだな。

「行ってみるか。めぐみちゃんは良いか?」
「映画はよく知らないけど、お母さんが好きなものを見たい。」
「よし、行こう。」

 これまで行ったショップとはちょっと乖離したタイプだが、特徴的で面白そうだ。恐らく昔の映画に関するアイテムや、今はもう手に入らないアイテムもあるだろう。此処に来たからこそ見たりしたり出来ることがあると分かれば、楽しまない手はない。
 ショップを出る。価格的にショップと言うより博物館だった。予想どおり昔の映画に関するアイテムや、今は絶版などで入手できないアイテムが紹介され、実際に売られても居た。ちょっと手を出せる価格帯じゃない。博物館と見れば十分楽しめる内容だったからこれで十分だ。

「あんな古いものって、誰が取っておくのかな。」
「切手とかパンフレットとかを集めること自体を趣味にする人は多いのよ。そういう人から譲り受けたり買い取ったりしたものが、さっきのお店に並んでいたってわけ。」

 晶子と一緒に興味深そうにアイテムを見ていためぐみちゃんだが、切手やパンフレットのコレクションは理解の範疇外のようだ。集めるというのは人間の行動原理に基づくものなのか、趣味の源泉になりやすい。集めるものが変わるだけで、コレクションが趣味になっている人は多いだろう。

「取っておくのって、大変なのかな。」
「お店にあったように、綺麗な状態で保管しておくのは大変だと思うよ。掃除しないと埃を被って来るし、虫が付いたりするし。乱暴に扱って壊したりすると、それでもう商品としての価値がなくなっちゃうし。」
「ものにもよるが、保管には場所を取るのも大きいだろうな。保管場所の確保と定期的な掃除や点検、必要なら修理とかもしないといけない。」
「だから、小さいものでも高かったんだね。」
「そうだな。今まで綺麗な状態で保管して来た分のお金が、アイテムの値段に反映されていると思って良い。」

 ものの価値に絶対的な基準はない。興味がなければ極端な話、古ければ無価値と見ることも出来る。映画に関心がなければ、単なる昔の切手だったり古びたパンフレットだったりする。フィルムカットなんて、実際に上映できないガラクタでしかない。同じ趣味や関心を持つ場合のみ価値あるものになるわけだ。

「めぐみちゃんだと、ぬいぐるみを集めるのと同じかな。」
「ぬいぐるみを集めてる子は、クラスの友達にも居るよ。」
「ぬいぐるみを集めるのでも、兎に角色んなものを集める人−めぐみちゃんはこれに近いかな、ある特定のキャラや動物だけ集める人、特定の大きさのものだけ集める人、色々居るの。集めるって趣味も色んなスタイルがあるのよ。」
「集める人の考え方や好きなことが出るんだね。」
「そう。」

 めぐみちゃんは、ぬいぐるみを集めることが趣味っていう感覚がまだないのか。趣味という概念がまだ出来ていないのかもしれない。とは言え、好きで集めていればコレクションだし趣味と言えるものだ。どう称するかは個人の自由だ。

「お母さんは、本を集めるのが好きだよね。夏に泊まりに行った時、いっぱい本があった。」
「読むのも好きだけど、集めるのも好きかな。続きものだと読んでいくうちに集めることになるから。」
「集めた本をもう一度読む?」
「うん。長いお話だと、最初の頃の話はこうだったな、とか振り返ったり、この登場人物の考え方は結構変わったな、とか比べてみたりするよ。」

 晶子が愛読している「Saint Guardians」は、1冊が厚いしそれが数冊ある。謎も複雑だし−戦略や策略が前面に出ている不思議な小説−、話だけ追っていると謎の筋が見えなくなって来るらしい。そこで、晶子は1冊読破するごとに最初の方から全体を流し読むすることで、謎や話の筋を整理するようにしている。
 意図したのか、背表紙は大きな区切り−○○王国編となっている−毎に変わっている。区切り毎に何処まで謎が解かれたのか、どんな謎が浮上して来たのか、登場人物の人間関係はどう変化したか、などを総括するようにすると分かりやすいらしい。

「凄く分厚い本があったよね。あれって、お母さんの本?」
「よく覚えてるね。そうよ。」
「あの本を全部読むのは、めぐみだと凄く時間がかかりそう…。」
「冬休みの宿題をきちんと終わらせたように、めぐみちゃんが地道に漢字を覚えていけば、問題なく読めるようになるよ。」

 あの小説は兎に角文章が多いから−挿絵が全くないのはあのジャンルでは相当珍しいと思う−、小学生では少々厳しいかもしれない。だが、根気強くて文章にアレルギーがないなら、挿絵のイメージに縛られないあの小説は読み応えがあるだろう。晶子を慕うめぐみちゃんが、近い将来あの小説に手を伸ばす可能性は十分ある。
 めぐみちゃんが自分の集めた本を読むようになった時、晶子はどう思うだろう?成長を喜ぶのは勿論だろうが、甘えてくれなくなって寂しく思うのもあるだろう。その頃には…自分の子どもが出来ているから、めぐみちゃんと一緒に面倒を見るかもしれない。俺としてはそれがベストだが。

「ただいまー!」

 玄関のドアを開けて直ぐ、めぐみちゃんが元気な第一声を発する。

「おかえり。たっぷり遊んでもらったみたいね。」
「うん!いっぱい遊んでいっぱい歩いた!凄っごく楽しかった!」

 元気と満足感に溢れるめぐみちゃんの声に、迎えに出て来た高島さんと森崎さんも満足そうだ。冬真っ盛りのこの時期、戻った頃にはすっかり日は暮れて寒さは倍増している。
 ユニバーサルスタジオはほぼ一回りした。アトラクションに乗ったのは2,3で、大半は歩いてショップを見て回った。見るもの全てが新鮮で楽しいのか、めぐみちゃんは終始元気で興味深々だった。遠足が消化不良だった分を完全に解消できただろう。

「これ!おばあちゃんと、森崎小母さんにお土産!」

 靴を脱いで上がったところで、めぐみちゃんは思い出したように持っていた袋を差しだす。大人の掌サイズの袋は、もう一度ユニバーサル・ワンダーランドに行った際に、めぐみちゃんが選んで買ったキティのキーボルダーだ。高島さんと森崎さんのものはそれぞれ色も形も違う。

「あらまぁ…。ありがとう。」
「可愛いですね。ありがとう、めぐみちゃん。」
「連絡を貰ってご飯を用意していたところ。さ、安藤さんご夫妻も上がってください。本当にお疲れさまでした。」
「ありがとうございます。」

 俺と晶子も家に上がり、荷物を置いた後ダイニングへ向かう。キッチンでは高島さんと森崎さんが料理中。めぐみちゃんは晶子の膝の上に座っている。日が暮れるに従って混雑が増してきて、晶子に抱っこされている時間が長かったが、それでもまだ晶子に甘え足りないようだ。
 終始元気いっぱいだっためぐみちゃんもさることながら−ユニバーサル・ワンダーランド2回目での元気ぶりは正直驚いた−、混雑の事故を避けるために後半の多くでめぐみちゃんを抱っこしていた晶子の体力も相当なものだ。今年小学校3年になるめぐみちゃんは、最初よりずっと大きくなっているんだが。
 「家事はきちんとすれば体力を使うし、良い運動にもなるんですよ」−晶子は以前こんなことを言っていた。2LDKになった我が家は2人には十分な広さだが、その分掃除は時間がかかる。掃除機があるとは言え、隈なくかけて隙間の埃やゴミを吸い取るには屈んだりする。一種の屈伸運動だ。
 一番体力を使うのは、やっぱり料理だと思う。フライパンや鍋はそれなりに重いし、ただその場に置くだけじゃなくて煽ったり動かしたり、場合によっては大きく傾けたりする。皿も重なれば重くなるし、料理が乗れば重みは増すのは店で働いていた経験で分かる。
 晶子は家でも店でも料理をしている。趣味と実益を兼ねているというし、家や店での研究成果をフィードバックすることで、腕もレパートリーも向上の一途だ。それは出産・育児の費用を出来る限り自分でも稼ぐためではあるが、晶子の生き甲斐になっている面もあるように思う。
 結婚したら女性は家庭に入るべきとは一概には言えない。どう考えても家事は不向きだが仕事は出来るという人も居るし、その逆も然り。働くことが半ば義務の男性とは当然違うし、出産・育児ではどうしても専念する時期が必要になる。出産はどう逆立ちしても女性にしか出来ないんだから。
 家に籠る方が好きなタイプは居る。俺もそうだし晶子もそうだ。しかし、四六時中同じ人間の相手をしていれば、息が詰まるのは目に見える。ましてや、意思の疎通が困難な乳児となれば、焦りや苛立ちが募るだろう。そういう時、何かしら気晴らしや気分転換になるものが必要だ。
 晶子の場合は、まず料理だろう。その間、俺が子どもの面倒をみるのがやはり理想だし必要だろう。子どもを背負った状態で料理は難しいだろうし、乳児でそれは乳児の害になり得る。俺も風呂の入れ方やおしめの替え方といった基本かつ重要なことと、洗濯や掃除といった時間がかかるものをスムーズにこなせるようにしておかないといけないな。
 ハンバーグを中心にした豪華な夕飯が終わって、俺は応接室で高島さんと向き合う。晶子はめぐみちゃんの遊び部屋でめぐみちゃんの遊び相手をしている。内容がめぐみちゃんには難しいしめぐみちゃんは晶子に甘えたいから、晶子はめぐみちゃんの相手に専念してもらっている。

「今日、年末年始の相手方−奥様の親族の状況がまとまりました。端的に言って、ただただ崖っぷちに追い詰められている一方です。」

 高島さんは淡々と話す。年末年始などお構いなしに、晶子の親族の対立は鮮明化し、収拾の見込みがないまま泥沼化の一途を辿っている。本家当主は完全に雲隠れしていて、代わりに矢面に立たされた格好の本家当主の長男、すなわち晶子の従兄は憔悴しきっている。
 親族のメンツを最優先する本家当主の弟2人の一族と、対抗は不可能であり早急に和解や示談に踏み出すべきとする本家当主の姉1人の一族が対立するという構図が固定化し、他の親族がどっちつかずなのは変わらない。口は出すが金は出さないという親族の悪い傾向は、こういう時に露骨に出る。

「此処へ来て、本家当主の長男、つまり奥様の従兄から、秘密裏に私に連絡が入りました。」
「…どういう内容ですか?」
「今後一切お二人の関係や生活には干渉しないことを誓約する代わりに、賠償金の幾ばくかの減額を求めたいというものです。」
「…誓約になる保証はないですね。」
「鋭い見方ですね。それは私も同意見です。それに対して奥様の従兄は、現在の本家当主を隠居させる、つまり強制的に代替わりすることで実権を掌握し、この問題を収束させることを親族に宣言すると提案しました。」

 戦国時代かと思うような話だが、雲隠れした当主が現在のままでは期限切れになり、600万の大金を搾り取られるのはほほ確実。そうなる前に当主の座を剥奪して事態の収束を宣言し、代わりにこちらには賠償金の減額を求めるというシナリオ自体は理解できる。それを承諾するかどうかは別の話だ。

「それも誓約の保証はないですね…。」
「私も同意見です。当主を強制的に代替わりして事態の収束を宣言したところで、親族が納得するとはとても思えません。そもそも先の公正証書の条項に違反したのは奥様の親族の側であり、何らの確実性もないままに代償の軽減を求めるのは筋が通りません。私はその旨を率直に伝えました。」
「先方は何と?」
「当方が妥協しない姿勢を崩さないことに愕然とした様子で、改めて納得できる対策を提案するので今しばらく待ってほしい、と返答して終わりました。今後お二人の関係と生活に干渉しないという確証を得るだけの対策があの一族の意識から出るとは、奥様には失礼ですが全く考えていません。」

 流石に高島さんは、仕事で情に絆されることはない。こうしている間にも着実にカウントダウンは進んでいる。本家当主が警察沙汰になった時点で当主の座を剥奪、言い換えれば当主の首とメンツと引き換えにして事態の収拾を図ればまだ傷は浅くて済んだだろう。しかし、もう手遅れだ。

「お二人の弁護活動は、引き続き滞りなく進めます。一切の手加減も妥協もしないことは、めぐみからも厳命されていますし。」
「ありがとうございます。」
「失礼ですが、奥様にはこの状況の詳細をお伝えするのは伏せて、私からの連絡や報告などは全てご主人を通すことを徹底していただきたいと思います。」
「…知っているんですね?晶子のことについて。」
「はい。相手方からの接触の過程で概要を把握し、調査させていただきました。本件で唯一の弱点はこのことです。」

 やっぱり高島さんは晶子の過去を知っていた。執拗に晶子に帰還を迫る過程で、恐らく晶子の親族の側から過去のことを持ち出すか含ませるかして、二度も一族の恥を晒すことは許さん、とでも迫ったんだろう。それで高島さんが何かあると察しない筈はない。

「決して、奥様を信用していないわけではありません。ですが、奥様のお優しい性格はこのような場合、逆手に取られる事態を招くものでもあります。今回、問題の人物である奥様の従兄が秘密裏とは言え直接当方に接触してきたことから、奥様の心情を利用して事態の収拾あるいは逆転を図っていることも考えられます。」
「十分考えられることですね。」
「ですので、奥様と相手方との接触は完全に断つ必要があります。それは私からお伝えするより、ご主人からお伝えいただく方が説得力があると思います。」
「分かりました。妻には私から伝えておきます。」
「ありがとうございます。奥様を疑うようなことになるのは心苦しいですが、油断や仏心は最も危険な爆薬になりかねませんので。」

 圧倒的優位の筈がふとしたきっかけで一気に形勢逆転となることは、歴史でも枚挙に暇がない。歴史に残らないような個人にまつわる出来事なら、それこそ星の数ほどあるだろう。最後まで油断ならないのは、今回も同じことだ。
 高島さんも言ったように、晶子の従兄が接触してきたということは、少なからず晶子の従兄も情に訴えて賠償金の減額ひいては公正証書の無力化を画策していると考えるのが無難だ。晶子にとっては信じられないことかもしれないが、そういう予想は簡単に覆されるのもまた世の常だ。
 予想されるこちらの不利になる事態やその要因は確実に排除しておく。そのためには関係者でも事実を伏せる。これも場合によっては必要なことだ。もしかすると…晶子も勘づいているかもしれない。自分が今回の件におけるこちら側の唯一の弱点であることを…。

「今日、お父さんとお母さんと一緒に寝ても良い?」

 風呂から上がり、パジャマを着たところでめぐみちゃんが言う。

「勿論良いわよ。今日はお布団も持ってくる?」
「ううん。枕だけ持ってく。」

 めぐみちゃんは、寝るところまで考えていたんだろう。昨日も布団を持っていけるかどうか考えて、結果枕だけ持っていけば良いだろうと判断してのことだったと考えるのが自然だ。起きてから寝るまで晶子に甘えることを計画していたところを台無しにされかけたんだから、そりゃ怒って当然だ。
 一旦めぐみちゃんは自分の部屋に入り、枕だけ抱えて出て来る。俺と晶子は部屋の鍵を開けてめぐみちゃんを入れる。昨日と同じく、晶子は自分の布団にめぐみちゃんを招き入れ、めぐみちゃんは嬉々として枕を置いて横になる。

「お父さん、お母さん、ありがとう。今日は凄く楽しかった。」

 俺が布団に横になったところで、めぐみちゃんが言う。

「めぐみが行きたかったところに全部行けた。乗り物もいっぱい乗れた。写真もいっぱい撮ってもらった。ぬいぐるみもいっぱい買ってもらった。凄く凄く楽しかった。ありがとう。」
「めぐみちゃんが楽しかったから何よりだ。」
「お父さんとお母さんも楽しかったよ。」
「お父さんとお母さんにはあんまり会えないけど、いっぱい勉強していっぱい本を読んで、お父さんとお母さんにいっぱい褒めてもらえるように頑張る。だから、今度会える時もまたいっぱい遊んでね。」
「ああ、約束する。」
「今度もいっぱい遊ぼうね。」

 めぐみちゃんは俺と晶子を交互に見て、静かに眠りに落ちる。めぐみちゃんの心地良い眠りの邪魔にならないように明りを消す。丸1日目いっぱい遊んだこの日は、めぐみちゃんのかけがえのない思い出となって残ることだろう。そんな貴重な思い出を作れる力になれて良かった。

「今日を本当に楽しみにしてたんですね…。一緒にユニバーサルスタジオに行くことを…。」
「めぐみちゃんにとって、3カ月4か月ってのは凄く長い時間だろうから、その分期待が膨らむんだろうな。」
「今日のために、めぐみちゃんは高島さんに強力な弁護を頼んでくれた…。めぐみちゃんの気持ちを無駄にしないように、特に私がしっかりしないといけませんね…。」

 やっぱり…分かってるな。自分自身が今回の件で唯一懸念される弱点であると。晶子とて馬鹿じゃないから、現在の状況や自分の評価を理解できない筈はないんだが、自分が問題視されていると分かって良い気分はしないだろう。それでも率直に自分の評価を認められるなら、警戒はしても恐れる必要はない。

「私の全ては…、祐司さんのものです。迷いも未練も…何もありません。」

 晶子の視線がめぐみちゃんから俺に移る。

「言葉だけでは信頼されないのは分かっています。ですから…、言葉と行動を一致させることで証明します。」
「俺が敢えて高島さんからの注意事項を伝える必要はなさそうだな…。」
「めぐみちゃんが高島さんに頼んでくれて、今の時間を作ってくれた…。祐司さんは私を信頼してくれている…。祐司さんとめぐみちゃんの気持ちを無駄にするわけにはいきません…。」

 高島さんからの注意事項は念押しくらいのもので良いだろう。俺と晶子の方向性が揺るぎないものだと分かれば、弁護や手続きは高島さんに一任して、身辺に注意しながら暮らす。つまり今までの生活を続ければ良い。それが、めぐみちゃんの気持ちに応える方法だ…。
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