雨上がりの午後
Chapter 343 夫婦の闘い、完全に終結す
written by Moonstone
めぐみちゃんにプレゼントしたものとめぐみちゃんがゲームで獲得したものを合わせたぬいぐるみは、めぐみちゃんの遊び部屋に大切に保管され、めぐみちゃんの新たな遊び相手に加わり。俺と晶子が送った写真のうち、大きなキティと3人で撮った写真が、めぐみちゃんの部屋の机に写真立てに入れられて飾られているそうだ。
めぐみちゃんから｢次会える時もいっぱい遊んでもらえるように、お父さんとお母さんを苦しめる悪い人達を徹底的にやっつけて｣と改めて厳命された高島さんは、毎日行われる晶子の引き渡し要求−この期に及んでまだ言うかと呆れる−や撤退・謝罪の要求、或いは示談や賠償金減額の申し出を全て突っぱね、淡々とカウントダウンを進めている。
やはり晶子の従兄から事態の収束と引き換えに賠償金の減額を求められているが、理不尽な要求が毎日続いていることを録音で証明して、現状が収束どころか激化しているのに収束を言われても信用するに値しない、せめて事態を収束してから出直して来い、とこれまた却下し、賠償金の支払いを準備しておけと突き放している。
まかり間違っても俺と晶子に直接間接問わず接触するな、接触したらその時点で600万上積みになることを忘れるな、最悪一族郎党身ぐるみはがれることになるぞ、と高島さんは釘をさすのも忘れない。高島さんが公正証書遵守の立場を崩さないことから、晶子の親族の混乱と対立はもはや泥沼を通り越して修羅場になっている。
｢変な表現ですけど…、私1人にそこまで構うだけの価値があるのかと思うばかりです…。｣
金曜日。明日土曜日が晶子も休みになったことで少しばかり夜更かしして語らう。晶子はホットミルクが入ったカップを両手で挟んで、溜息交じりに言う。｢ああいう地域ですから、親族が争えば内密にしているつもりでも何時の間にか知られてしまうでしょうし、余計にメンツが潰れるだけです。私のことは一族を裏切った放埓女とでも切り捨てれば済む話なのに…。｣
｢目的と手段が入れ替わって、それに気づかないんだろうな。もはや晶子を連れ戻すとかどうとかより、潰されたメンツをどう回復するかで頭がいっぱいなんだ。だから、何度却下されても同じことを繰り返す。｣
｢そう…なんでしょうね。外からしか分からない事情や矛盾があるものだと痛感しています…。｣
｢所謂田舎が嫌われるのはそういうところなんだが、当事者が理解できないばかりか、疑問を持つ方がおかしいとすら思ってるからな。そりゃあ逃げられるなら逃げだす。｣
たかが公正証書の条文に、と返すも、公正証書は公的な証明書であってその条文は絶対、条文違反は裁判所が強制的にでも代償を払わせる、それを妨害することはれっきとした犯罪、と高島さんが以前説明したことをそのまま返され、大慌てで弁護士などに問い合わせて事態がただ事ではなく、裁判に出ても勝てる見込みなどないことに気づくそうだ。
その結果、どっちつかずの親族で地域外の息子娘に諭されて気付いたものが続々と本家当主の姉、すなわち和解派につき、それを知った強硬派、すなわち本家当主の弟達がより激昂して和解派に着いた親族を裏切りもの、一族の恥と罵り、それに和解派が激しく反論する、というループが出来ているらしい。
何とも馬鹿げた空しい話だが、それで事態の収束は遠のき、カウントダウンが進む。期日に達したら嫌でも公正証書の条文どおり600万を支払う義務が生じる。払わなければ高島さんが強制執行の手続きを取る。強制執行を妨害したら犯罪となり、最悪の事態になる。俺と晶子は警戒しつつ傍観していれば良い。
金額は兎も角、この件が早く収束して欲しいというのが率直な気持ちだ。通勤で電車待ちや乗車中でも神経を使うと疲労が重なる。肉体的な疲労より精神的な疲労は取れ難いし、蓄積すると弊害が出やすいもんだ。和佐田さんなど職場にも話を通してあるし、会社と組合の顧問弁護士も引き続き高島さんと連携してくれているが、終わらない限り理不尽な緊張は強いられる。
晶子も距離は短いとはいえ嫌な緊張が続くのは同じ。否、距離が近い分、理不尽さが強いだろう。晶子の場合、突然拉致される危険もないとは言えない。しかも根本は自分の親族が引き起こしたこと。それらが晶子の疲労を蓄積させる要因となっている。
それでも折れないでいられるのは、高島さんをはじめとする心強い支援があること、職場の理解があること、そして揃って帰る家と時間が此処にあること。どんなに疲れても此処に帰れば、俺には晶子が、晶子には俺が居る。必ず揃って風呂に入って寝て−2つの意味を持つ−、起きて朝飯を食べる場所がある。
両方が仕事をしていても1日の1/3ほどは時間を共有出来る。休日が合えば丸1日顔を見て声を聞き、触れ合える。それが俺と晶子の活力となっている。これが法律に裏付けされた夫婦という関係の強さを増すなら、悪いばかりでもない。そう思うようにしている。
｢あと3カ月弱で1年になるんだな。俺と晶子が揃って大学を卒業して社会人になって。｣
｢振り返ってみると…、1年ってあっという間ですね。｣
就職から程なく提出した数々の書類の各種手当の申請で、通勤手当と住居手当の他、家族手当の項目に必要事項の記載と証明書類を添付した。婚姻届の提出以降で戸籍謄本の写しを取ったのは初めてだったが、家族手当の申請で事務から難癖をつけられたことはない。
手当の申請や継続で問題なのは記載や書類の正しさであって、開始の時期ではない。組合の顧問弁護士にこの件の話をした時、そう言われた。俺と晶子は学生結婚に含まれるが、傾向と前置きされた上での話では、会社でも研究員は学生結婚をちらほら見かけるし、学生時代からの交際を経て結婚という事例は珍しくも何ともないそうだ。
会社も何ら問題視していない。業務怠慢なら注意なりがいくが、一足早くOJTに入るなど業務は好調だそうだから、刑事事件でも起こさない限り会社が一社員のプライベートに干渉することはないし、そんな暇もない。これは会社の顧問弁護士も言っていたことだ。
この件に関わっていると、俺と晶子の感覚がおかしいんじゃないかという疑念がポツポツと顔を出すことがある。だが、地域のローカルルールへの執念がまき散らす種から生じるものであって、今時やや早めではあるが法的根拠のある夫婦との立ち位置や認識はまったく問題ない。それを確信していれば良い。
｢この家を拠点にして、最後まで戦っていこう。それが俺と晶子のこの家と生活を守る唯一の手段だ。｣
｢はい。私の居場所はこの家と祐司さんです。絶対に負けません。｣
それぞれ両親と断交の上、早い段階での結婚に踏み切った。学費は元より生活費の工面、新居探しから引っ越しに纏わる諸々の手配、そして婚姻届をはじめ夫婦としての公的な届け出を短期間で、しかも卒研の追い込みの時期に進めるのはなかなか大変だった。
だが、全部晶子と協力して進めて乗り切った。生活費も元々揃って散財するタイプじゃないから工面に頭を痛める必要はなかったし、渡辺夫妻のアドバイスや協力も得て色々な手続きや行動を進めた。今のように口は出すが金も人も出さない親族より、近隣の理解者の方がずっとありがたい。
今思うと、婚姻届の提出をあの時期に決行しなかったら、晶子は強制的にでも実家に送還されて面識すらないかもしれない地域の男性をあてがわれていたかもしれない。晶子はそれを察したからこそ、率先してでも婚姻届の提出をはじめとする法的に裏付けされた夫婦関係の構築を急いだのかもしれない。
何れにせよ、法的に俺と晶子の関係は何ら問題ないことは各方面から実証済み。ローカルルールとやらに毒されず、今の生活と時間と関係を堅持することだけ考えて、そのための行動を取れば良い。その結果流血沙汰の事態が起こっても、俺と晶子でなければ傍観するだけだ。
月が変わって2月になった。高島さんが通告した期限である1月31日になっても晶子の親族からの賠償金振り込みはなかったことを受け、高島さんは強制執行の手続きを開始した。
こういう時は反応が速いというか、高島さんに手続きを取りやめるよう要求−話を聞くに恫喝と言うべきか−が押し寄せるが、高島さんは意に介さず、期限を過ぎても支払われないからローカルルールではなく正式な法律に則って行う、せいぜい世間体の取り繕い方を考えておけと一蹴するだけ。
｢相手方は大混乱しています。｣
2月最初の日曜日。シフトの休みが重なった晶子を交えて、高島さんからの報告を聞く。｢お二人との和解−あちら側の表現ですが、それを志向する側からは、強制執行が公のものになるかなど、対外的なことの問い合わせが来ています。不動産、つまり家や土地を差し押さえる場合は執行官が来訪することを伝えたところ、何とか説得して和解させると狼狽した口調でした。｣
｢世間体が悪いことこの上ないから、さっさと金を払えと説得するつもりなんですね。｣
｢そのようです。何を差し押さえるのかも問い合わせられましたが、それは債権−取り立てる権利を有するこちら側が資産価値を調査して決めたことであり、そちらに話すことではない、と回答しています。｣
｢見知らぬ人が来ただけで噂が流れるくらいですから、裁判所から人が来たとなれば格好の標的にされるのは間違いないです。｣
まだ強制執行というものを甘く見ている節もあるようだが、公的機関は支給は色々条件をつけたりして動きを渋るが、取り立ては迅速かつ容赦ないと言われる。公正証書という公的証明がなされた文書があり−文書があると効力が一気に強くなるのも公的機関の特徴−、法律に従って行う以上、公的機関は冷徹に執行するだけだ。
給与や預金では債権回収が難しい場合、土地建物を差し押さえる。これらは給与などと違って隠すのが不可能だから、資産価値が分かれば差し押さえやすい。その際、執行官が派遣されてくる。その業務を妨害したら犯罪になる。
晶子の親族としては何としても執行官が来るのを止めさせたい、だが、そのためには一刻も早い600万の支払いが必要。それはメンツが丸潰れだから避けたい。じゃあどうする、となって晶子を連れ戻すとなれば、こちらは逮捕監禁や誘拐でやはり犯罪となる。
この点も高島さんは毎回通告している。俺と晶子に接触するな、まかり間違っても晶子を連れ戻そうとするな、その時点で直ちに警察に被害届を提出して捜査させる。S県警察の看板をつけたパトカーがそちらの地元に大挙して押し寄せることになる、と言うと真っ平御免と叫ぶらしい。
結局、早々に600万を払うしか解決の道はないんだが、メンツに拘る連中にはそのことが分からない。分かろうとしないと言うべきかもしれないが、自ら泥沼に溺れていっているのは変わらない。このまま資産を差し押さえられ、場合によっては公的機関からの来訪も受ける、破滅の道しか残されていない。
これでもこの先どう転ぶか100%確証が持てない。99.99%でも文字どおり万が一ということはある。完全に終了するまで気を抜かず、この家を拠点に対抗姿勢を崩さずにいくのみだ。回顧や総括は終わってから十分出来る。後悔にならないように進めていくことが肝要だ。
｢強制執行が始まるのは何時頃ですか？｣
｢差し押さえる対象によってかなり変わってきます。今からお話するのは配当、つまりお二人に金銭が支払われるまでの期間としますが、大まかに、不動産が対象の場合は半年程度、動産、主に機械設備や在庫商品など金銭以外の資産では1カ月程度、金銭が対象の場合は数週間です。｣
｢かなり幅がありますね。｣
｢不動産はその評価額や権利の調査を必要とするため、特に時間がかかります。今回は不動産、動産、金銭に分散させて強制執行の手続きを行いました。｣
｢失礼な話かもしれませんが、それだけ色々な資産をかき集めないと今回の賠償額に届かないということですか？｣
｢いえ、相手方を動揺させるためです。世間体や外聞が何より大切な地域性ですから、差押えが実際に行われれば相当動揺するのは間違いないでしょう。そこから相手方の早期の降伏へと誘導する考えです。圧倒的優位であるとはいえ、本案件が悪戯に長期化するのはお二人の精神衛生上望ましくありません。｣
｢どれも対外的に差押えの事実が告知されるものですから、世間体を殊更重視する相手方には重大なダメージになります。特に不動産は告知範囲が広くなるので、差押えから競売が決まると、もはやその土地では生活できなくなるでしょう。｣
｢告知の範囲が違うのはどうしてですか？｣
｢差し押さえた資産の売却候補などが大きく異なるからです。｣
市役所や裁判所の掲示板には、競売物件の所在地が掲示される。それ以外に、日刊の新聞や住宅情報誌などの広告、更にはFAXやインターネットでも告知される。執行官や評価人が決定した最低売却価格以上支払える金銭能力があれば、誰でも競売に参加できるためだ。
更には、競売物件を買い受け希望者に内覧させる機会も設けられる。つまり、競売物件に興味がある人のみならず、希望があると表明した人がその物件を直接見に来るわけだ。基本的に不動産の競売はある期間に限って行われる期間入札という方法が取られるが、その期間そのような事態が続く。
競売も業者が関わるのが普通。悪質な業者だと物件の価格が上昇しないように、現地調査と銘打って近隣に悪い情報を流したりする輩も居るそうだ。競売が決まるとその瞬間に全国、否、全世界に安価で−最低売却価格は相場よりかなり安くなる−売りに出されたと宣言されるようなものだ。
｢−ですので、不動産の差し押さえによる競売は、相手方にとってまさに致命的ダメージと言えます。｣
｢不動産はもの凄いことになるんですね。｣
｢はい。不動産自体が登記、すなわち土地建物の戸籍情報として厳格に管理されるものですから、手続きには時間がかかりますし、売買には十分な検討が必要です。金額も大きいですから。｣
｢競売が決まると売却が決まるまで取り下げは出来ないんですか？｣
｢いえ。債権者が取り下げることは可能です。今回は公正証書に記載された条文からの金額である600万の支払いがなされれば、当然取り下げます。あくまで競売は支払われない金銭−住宅ローンの滞納が大半ですが、その金銭の回収のために行われる手段であって、所定の金銭の支払いを受ければ取り下げるべきものです。｣
｢全世界に競売情報を告知されることになりたくないなら、さっさと600万払え、という、言葉は悪いですが脅しとしては十分ですね。｣
｢はい。十分な威力です。相手方には、現状が続けば不動産の競売に至るとは伝えてあります。競売が重大な事態であることくらいは知っているようで、非常に動揺しています。｣
だが、既に強制執行の手続きは始まっている。このままメンツに拘って内輪もめを続けていれば、執行官が差し押さえに出向く。差し押さえられたものは勝手に処分できない。更に土地建物は差し押さえられて競売にかけられると、彼方此方から人が集まって来る。当然近所どころか地域一帯に知れ渡る。もはや破滅の一言だ。
｢これまで、相手方から電話や手紙などは来ていませんか？直接の来訪も。｣
｢まったくありません。｣
｢そうですか。もし少しでも接触があれば直ちに連絡してください。その時点で更に600万上積みします。勿論、お二人の安全を最優先に確保した上でお願いします。｣
｢分かりました。引き続きお願いします。｣
｢お任せください。お二人の安心を取り戻すべくあらゆる手を尽くします。｣
2週間後の金曜日。会社で昼休みを過ごしていた俺に、晶子から携帯に連絡が入った。
｢祐司さん。高島さんから連絡があって、先方から賠償金の支払いをすると申し出があったそうです。｣
このまま強制執行から競売へと破滅の道を邁進すると思いきや、事態が急転した。いったい何があったんだ？｢急だな。｣
｢はい。支払いの確認が取れるまで強制執行は取り下げないと通告したところ、今回は支払うので差押えは待って欲しい、と。｣
｢…分かった。俺から高島さんに電話して詳細を聞いておく。晶子は仕事に戻って。｣
｢はい。お願いします。｣
｢ご主人ですね。ご連絡ありがとうございます。｣
携帯で高島さんの事務所に電話を入れると、高島さんが出る。｢妻から連絡を受けて、私が詳細を教えていただくためにお電話した次第です。｣
｢ご主人がお昼休みであることを考慮して奥様に一報を入れました。お手数をおかけします。｣
｢奥様から伺っていると思いますが、本日相手方から賠償金600万を支払う申し出がありました。公正証書に基づく支払いが先であり、支払いが確認できるまで強制執行は取り下げないと伝えたところ、支払いは近日中に必ず行うので差押えを一時的にでも停止して欲しいと。｣
｢いったい何があったんでしょう？強制執行の手続きを開始したとご連絡をいただいてから、相手の状況は何も変化がなかったようですが。｣
｢動産の差し押さえが執行されたためです。こちらが本気であり、一切譲歩も妥協もしない、公正証書に基づき600万の支払いが行われなければ強制執行からの差し押さえ、競売をしてでも支払わせるという姿勢が、ようやく相手方に伝わったようです。｣
高島さんは不動産、動産、金銭の3方向に強制執行の手続きを取ったが、それは早期の降伏を促すためだと言っていた。執行手続きから支払いまで最短の動産では1カ月程度、最長の不動産では半年程度とかなりの開きがある。その時間差を利用して相手方をじわじわ追い詰めていく戦略だ。
その思惑どおり、先行して動産の差押えが行われた。このままでは預金や給料は勿論、土地建物も差し押さえられる。その危機感が間近に迫ったことで、遅きに失したが世間体を優先して早期の支払いに向けて一気に舵を切ったんだろう。情けないというか脱力するというか…。
｢連絡して来たのは、奥様の従兄、つまり今回の騒動の元凶である本家当主の長男です。｣
｢説得できたんでしょうか？他人事ですが、よく支払いに応じる気になったな、と。｣
｢動産の差し押さえが行われたことで、このままでは先祖代々の土地建物まで差し押さえられる、奥様1人に固執することで一族全員のメンツも丸潰れになるどころか、一族全体がこの地に住めなくなる事態が迫っている、と奥様の従兄が強く主張して異論を抑え込んだそうです。あとは本家当主の処遇だ、とも。｣
｢本家当主の処遇？｣
｢今回の騒動は本家当主の強引で法律を無視した行為によるもので、一族の安寧を考えれば隠居させるしかない、とのことです。｣
本家当主が黙ってはいないだろうが、そもそも警察沙汰になった時点で本家当主のメンツは潰れている。一族に相談もなく独断行動して警察沙汰になって一族のメンツを潰したお前に発言権はない、と封じ込める策はあるにはあるが、通用するかどうかは信用に値しない。
｢強制執行の停止は、こちらからは出来ません。相手方が不服申し立てを行い、執行停止の行政処分を行わせる必要がありますが、公正証書をはじめとする一連の証拠はこちらの圧倒的優位かつ正当なものですから、それもまず不可能です。それを説明した上で、早々に支払うことしか強制執行を停止させる術はない、と伝えました。｣
｢作戦どおりですね。｣
｢はい。この流れを狙っていましたが、今のところ思いどおりに進んでいます。｣
｢動産の差し押さえで相当焦っているようですから、600万の支払いは近日中に行われると見ています。ですが、払い込みを確認出来るまでは警戒を続けてください。こちらは一切手を緩めません。｣
｢分かりました。払い込みの連絡が相手方から入りましたら、確認が取りやすい妻の方に連絡をお願いします。｣
｢了解しました。｣
急展開となった日の翌週の火曜日。昼休み中に晶子から携帯に電話が入った。
｢祐司さん。高島さんから連絡を受けて、先方からの賠償金の支払いが高島さん経由で口座に行われたことを確認しました。｣
｢そうか。随分早いな。｣
｢やっぱり差押えの事実が相当効いたのかと。高島さんからお仕事が終わってから連絡を入れて欲しい、と伝言を受けました。｣
｢分かった。晶子は今日早番だよな？｣
｢はい。｣
｢じゃあ、俺が家に帰ってから電話して、晶子も一緒に聞こう。｣
｢分かりました。気を付けて帰ってきてくださいね。｣
振込を確認したというから共通口座を確認したんだろう。その記載を確認してから、支払いへの経緯を高島さんに確認しよう。先週の金曜日から実質2日程度で600万をどうしたのかも気になるが、どう集めようが知ったことじゃないとするのが良いんだろうな。
終業後、まっしぐらに帰宅。と言っても電車が早まるわけでもなく、何時もの時刻。気持ちが逸る分遅く感じて仕方がなかった。
｢ただいま。｣
｢おかえりなさい。随分急いで来たんですね。｣
｢急いで早くなるところは、駅から家までしかないからな。早速だが通帳は？｣
｢これです。｣
｢高島です。御主人、御帰宅されましたか。｣
｢はい。早速ですが経緯などお聞かせください。｣
｢勿論です。順を追ってお伝えします。｣
随分早い手続きですね、と話を振ったところ、この地を出奔した1人にこだわるあまり先祖代々の土地を手放す気か、相手は裁判所、つまりは国であり、公正証書という公的手続きがなされて作成された証明書を基に手続きがなされたものを止めるのはまず不可能、さっさと金を払って手を引かないと手遅れになる、と説得して抑え込んだという。
それでは親族のメンツが立たない、と抵抗する向きもあったが、さっきの言葉を繰り返し、どの弁護士に相談しても支払いの猶予を求めるしか出来ないとしか回答されない、それだけ勝ち負けが明らか、否、既に勝ち負けが決まっている案件でわざわざ負けに行く弁護士はいない、と自分の経験を含めて反論した。
その上で、脅しではなく実際に差し押さえが始まったことを挙げ、メンツにこだわって警察沙汰を招いたのが自分の父、メンツにこだわることで身を滅ぼすこともある、このまま差押えが進めば先祖代々の土地が何処の馬の骨とも分からぬ輩に値踏みされて買い叩かれる、それで良いのか、とねじ伏せた。
金に関しては手持ちに加えて土地の一部を担保に銀行から借りたそうだ。高い利率のローンを使わざるを得なかったらしい。此処まで事態が悪化した責任として、表向き静養として自分の父を離れに押し込み、本家の実権を奪った。強制的に隠居させたわけだ。
つまり、晶子の従兄が以前高島さんとの交渉の材料としたことを実行したわけだ。それを早期に実行すれば傷はもっと浅くて済んだだろうが、公正証書の重みも分からず、メンツと晶子に拘り続けた親族の説得に手間取ったことで、差押えが始まるという切迫した事態になってようやく説き伏せる条件が揃った。
｢−このような流れです。｣
｢よく分かりました。解決を急いだようですね。｣
｢先祖代々の土地というのは命に等しい、もしくはそれ以上という観念があります。その観念からすれば、多額の勉強代と思って600万を支払うしか道はない、と説得すれば納得せざるを得ません。先祖代々の土地が競売にかけられるのを指をくわえて見ていたと知れれば、その地域で生きていけないでしょうから。｣
｢そこまで切迫しないと本気だと思わなかったんでしょうね…。｣
｢奥様には失礼な表現になりますが、たかが分家の小娘1人に何が出来る、と高を括っていたのは明らかです。公正証書の重みも知らず、執行官による差し押さえの事実でようやく事態を把握した。それでもお2人に支払うことを渋り続けた。メンツやローカルルールに拘った者の末路ですね。｣
｢親族の間に遺恨や軋轢は残るでしょうが、それはこちらの関係するところではありません。公正証書の条文が実行されれば良いですから。｣
｢そうですね。こちらの要求どおりに支払われましたし。｣
｢公正証書の効力は続くんでしょうか？｣
｢はい。現在の公正証書を無効にしない限りは有効です。失効させるには裁判所を使う必要があります。裁判官が無効の判決を下すことですね。もっとも、相手方がそれを知っているとは思えませんし、裁判に持ち込んでまで公正証書を無効にしようとは思わないでしょう。それよりお二人に接触しなければ済むことですから。｣
｢今後も公正証書と実印は厳重に保管します。｣
｢そうしてください。公正証書はこちらに原本がありますからまず問題ありませんが、実印は大変なことになります。銀行印も同じく取扱には注意してください。｣
｢はい。相手方から何か伝言などはありますか？｣
｢支払いをした本家当主の長男から、お二人に言伝があります。｣
｢親の言いなりになる時代は終わった。私はそれに気づくのが遅かった。先祖と土地にしがみつく、否、しがみつかれなければ生きていけない人間のことは無視して、2人で2人の理想の家庭を築いてください。…以上です。｣
｢分かりました。｣
｢念のため、公正証書は今回の支払いが済んだ後でも有効であることは、本家当主の長男−当主が隠居させられたので当主と言うべきかもしれませんが、彼に伝えておきました。彼は公正証書の重みについては重々承知しており、今後一切お二人に干渉することはしない、親族の動きは察知次第止めるし、それ以前に行動に移せば警察を呼んで構わないと答えました。｣
｢一応、こちらでも最低限の警戒は続けた方が良さそうですね。｣
｢本家分家の意識が強い地域性ですから、本家当主が宣言すれば大抵は抑えられますが、今回は100%の信用はしない方が良いでしょう。｣
俺は最も警戒すべきは晶子の両親と兄だと見ている。分家の立場で娘や妹が出奔し、あろうことか本家の財産を差し押さえてでも毟り取った恥知らず、と見ていて不思議じゃない。特に両親は完全にメンツ丸潰れだ。本家を立てるため、メンツを取り戻すため、晶子を拉致して連れ出そうと考えているとも考えられる。
特に、兄は定職に就いていない。前回仲間らしい輩を引き連れて押し掛けて来たように、暇は持て余している。強面のマスターが鎮座している店は多分来ないだろうが、以前興信所に依頼して素行調査をさせていたから行動は把握済み。単独での行き帰りは狙い時だ。
｢私の両親と兄への抑止力も、完全に信用しない方が良いでしょうか？｣
晶子が高島さんに尋ねる。当事者だから俺より考えが及ぶか。｢そうですね。むしろ、そちらの方面からの圧力は警戒しておいた方が良いでしょう。もっとも、公正証書が有効ですから、直接お二人に接触した時点で600万の支払い義務が生じます。念のため、その旨を警告する内容証明郵便を相手方全員に発送しておきました。｣
｢色々とありがとうございます。｣
｢めぐみの命の恩人でもあるお二方のお役に立てて良かったです。これでめぐみに説明責任が果たせます。｣
この先まだまだ油断はならないが、公正証書に加えて会社の組合の顧問弁護士や会社側の顧問弁護士も事情を理解しているし、晶子が働く店のスタッフもそうだ。そして高島さんとめぐみちゃんが居る。この家と生活と幸せを拠点にして戦い続けるのみだ。2人で独立した家庭を営んでいるんだから…。
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