3年の時に週1回は通っていた階段を上り、廊下を進むにつれて緊張が高まるのを感じる。本配属が決まった研究室−仮配属されて本配属を希望していた
久野尾研での第一歩は間近に迫っている。
4年進級初日に早速研究室への配属に直面した。必須講義でよく使う大講義室に4年生が全員集結。ざっと顔触れを見たところ、ストレートの進級は2/3
程度、残りは留年した人達だ。必須だけでなく、選択講義の単位数が足りなくて留年になった人も多い。最初に専攻長−工学部の大学院である工学
研究科の長でもある澤田先生から、配属の流れが説明された。次に全14の研究室の長である教授から研究室の紹介があり、その後本配属希望の研究室を
第3希望まで書いて提出して、金曜日に本配属研究室が掲示板に張り出されて告知された。
俺は無事久野尾研に本配属。智一も一緒だ。澤田先生の説明では、これまで聞いていたとおり希望が多い場合は成績順となる。俺は久野尾先生から
聞いた限りでは上々の成績だから全く問題なかったようだが、智一は確認するまで生きた心地がしなかったらしい。仮配属では学生数にかなり偏りがあったが
−希望が少ない研究室は事実上マンツーマンのところもあったそうだ−、本配属ではほぼ均等割りになる。1研究室あたりの学部4年は8人から10人。
久野尾研は10人で、名簿を見た限りでは8人がストレートの進級、2人が留年した人だ。
金曜の告知にあったとおり、本配属の研究室でのオリエンテーションがある。どんなことをするのかまでは書いてなかったから、どうしても緊張が高まる。
週1回のゼミだけじゃなく大学生活の集大成である卒論作成をどう進めるのか、全然分からないからな。
「…失礼します。」
集合場所に指定された会議室のドアをそっと開けて中を覗き見る。週1回のゼミを取り仕切っていた当時の学部4年、現在の修士1年の人達やオブザーバー
だった当時の修士、現在は修士2年か博士の人達が居て、一斉にこっちを見る。
「おーっ!安藤君だ!」
「久野尾研にようこそ!さ、入って入って!」
「失礼します。」
歓迎一色になった会議室に入る。会議室にはスクリーンが降ろされ、プロジェクターが青色の画面を投影している。研究の紹介をするんだろうか。俺と後に
続いて入った智一は、スクリーンの正面に案内される。
「安藤君がうちに本配属になったって情報は、先週の段階で久野尾先生から聞いてたんだ。安藤君が第1希望だったから迷うことなく確保したそうだよ。」
近くに居た修士2年の小山さんが言う。週1回のゼミではオブザーバーとしてテキストや質疑応答の補足をよくしていた人だ。
「成績も凄いんだってね。今年の学部4年では堂々の3位。久野尾研では文句なしのトップだよ。」
「そうなんですか。成績の順位とかまでは分からないので。」
3位か。自慢する以前に実感がない。試験結果の発表では合格不合格しか分からない。成績が優秀だということは学生実験の後の懇談とかで話には聞いて
いたが、確認する術はない。旅行から帰って直ぐに、実家から成績表が届いたという電話があった。滅多に褒めない父さんに「よくやった」と言われた。
成績表の記載には8未満の数値はなかったそうだ。これはこれまでの面談で聞いていたとおりだが、やはり順位やどのあたりなのかは分からない。
続々と新学部4年が入室してくる。全員揃うと修士1年の桐井さんが先生を呼びに行く。少しして久野尾先生と野志先生が入って来る。研究室を取り仕切る
2人の先生は、プロジェクターに接続されたPCの向かい側、スクリーンに一番近い席に揃って座る。
「それでは時間になりましたので、久野尾研オリエンテーションを始めます。」
司会は修士2年の大川さんが担当する。大川さんはゼミではあまり前面に出なかったものの、唐突に鋭い質問をぶつけてきてその時の学生を頻繁に立ち
往生させた人だ。俺も質疑応答で四苦八苦した憶えがある。今の修士2年のフラグシップ−久野尾研での同期の牽引的役割を果たす学生の呼称−が大川
さんだというのは頷ける。
「このオリエンテーションは次の順番で進めます。」
スクリーンで今日の段取りが箇条書きで紹介される。久野尾研の概要、研究テーマの紹介、1年のスケジュール、研究室の設備紹介、質疑応答とある。
「では、久野尾先生。お願いします。」
「はい。」
悠然と座していた久野尾先生が席を立ってPCの前に立つ。のんびりゆったりした印象が強い先生が、急に存在感を増して巨大な存在に見える。
「学部4年の皆さん、こんにちは。」
「「「「「こんにちは。」」」」」
「めでたく久野尾研に本配属になった皆さんに、手始めに久野尾研の概要を紹介しましょう。」
久野尾先生がPCを操作しながら久野尾研の概要を説明する。研究テーマは音響と通信の2本柱。人間の生活を快適にしたり基本的かつ重要な伝達手段
でもある音響と、ネットや携帯に代表される高速の伝達・転送手段である通信の探求を、ハードウェアとソフトウェアの両面で多角的視点から進めていること。
現在の所属は教授と助手各1名、博士が3年と1年に各1名、修士2年が4人で修士1年が5人、そして秘書が1名。人数からすると半数程度が院に進学している
わけか。
「−以上が久野尾研の概要です。続いて、研究テーマを院生から紹介してもらいます。」
久野尾先生から大川さんに進行が戻る。研究室生活で重要な研究テーマを改めてじっくり聞く。以前聞いた話では、ハードウェア寄りとソフトウェア寄りの
2つに大別できるが、どちらも出来るに越したことはないようだ。どちらかというとハードウェアの方が面白そうではある。ソフトウェアは学生実験でC言語が
難しくて相当悩んだ記憶がある。
院生によって研究テーマが順に紹介されていく。研究テーマは9。院生がほぼ1人1つずつ担当していて、やはりハードウェア寄りのものとソフトウェア寄りの
ものの2つに大別できるが、様々な知識と技術の習得と向上、更には発見を目指しているようだ。今までの方針で行き詰ったら別の方法を模索する場合も
多々ある。そんな場合に別の技術や知識があるとそこから切り込める。ない場合は自ら探す積極性や主体性が求められるな。
「−以上、研究テーマを紹介しました。9つのテーマは勿論先生と院生の指導のもとで進めますが、他のテーマ、ひいては別の専門分野に旺盛な好奇心を
発揮して、自ら新しい道を切り開くような意気込みを歓迎します。」
「「「「「…。」」」」」
「続いて、久野尾研の1年を紹介します。」
大川さんがPCを操作して1年間の流れを紹介する。4月、つまり今月は新入生歓迎会(花見)、6月に第1回発表会、9月に院試結果発表と研究室旅行、
10月に第2回発表、12月に忘年会、1月に新年会と第3回発表、3月に最終発表と追い出しコンパとある。平均して3カ月に1回の頻度で中間発表があるのか。
あと、結構な頻度で宴会がある。旅行もあるのか。イベントが色々あるな。
「発表ではこれまでの進捗状況や今後の展開といったものをまとめて、発表20分質疑10分で発表してもらいます。自分のテーマについて纏めることは勿論、
学生実験のレポートや口頭試験での姿勢の積み重ねが如実に出るでしょう。」
学部4年の席から苦笑いが幾つか上がる。学生実験はテキストどおりに進めればやがては目的の現象にたどりつけるし、レポートや口頭試験の問題は
あらかじめテキストに記載されているものが多い。ところが研究テーマは過去と現在と未来を把握して集約し、更に伝える必要がある。テキストに沿った学生
実験のまとめ作業を怠っていると、研究テーマに関する発表で行き詰るのは容易に想像出来るわけだ。
「脅かしはこの辺にしておいて、ご覧のとおり結構な頻度でイベントがあります。学部4年の皆さんには買い出しや準備を手伝ってもらいますが、和気藹藹と
楽しみましょう。」
スクリーンに過去のイベントの写真の一部が順次紹介される。花見や宴会では食事や飲み物を囲んでカメラ目線になっていたり、不思議なポーズを取って
いたりしている。研究室旅行は避暑地で少し早い秋の雄大な風景をバックに様々なポーズを取っていたりしている。院生の席からそれは見せるな、もっと
面白い写真がある、と応酬が起こり、他からは笑いが起こる。
「さて、一部過去の悪行を暴露するような写真がありましたが、この辺にしておいて、研究室の設備を紹介します。」
久野尾研所有の研究設備は予想以上に多彩で豊富だ。1人1台のPCとパーティションで区切られたデスク、1人分のロッカーが個人スペースとして配分
される。それとは別に各種開発用のPC、シミュレーションや複雑な設計に使うワークステーション(註:普通のPCよりメモリやHDD、グラフィックカードが潤沢に
搭載されたPCの総称)が数台、オシロスコープやロジックアナライザ、スペクトラムアナライザ(註:信号に含まれる周波数の分布を計測する測定器)など
測定器が多数、回路製作や実験をする作業台が6台あって、それぞれにはんだ付けの工具が完備されている。
翻って生活や日用品関係も豊富だ。電子レンジと冷蔵庫が学生居室にも完備していて、全室冷暖房完備。今居る会議室の他に共有スペースとして
休憩室があって、広々とした部屋にはソファや大画面TV、果てはマンガやゲームも揃っている。此処で寝泊まりするにも全く支障はないようだ。
「−これらの設備は研究室共通の財産でもあります。大切に、そして有効に活用してください。…では、質疑応答に移ります。気になった点や疑問点は何でも
質問してください。就職や進学に関するものでもOKです。」
幾つか手が上がり、大川さんが指名して質疑応答が行われる。就職を考えているがどんな就職先があるか、という問いには、通信関係の企業にとどまらず、
自動車など製造業、公務員など多彩な実績がグラフや表を使って説明される。音響はコンポやスピーカにとどまらず、携帯機器とリンクして高音質を
コンパクトに実現することが求められているから、電器関係や半導体関係にも結び付く。通信は言うに及ばずだ。就職が優先の俺としては興味深いところだ。
俺はもう1つの進路候補として浮上してきている院試について質問。院試の難易度はどんなものか、出題範囲はどうか、気になる点は幾つかある。これには
院生の他、久野尾先生と野志先生も回答する。院試は必須講義の分野から基礎的な問題が出題されること、3年までの勉強が出来ていれば簡単に合格
出来ること、公務員の専門分野の試験対策と並行すると効率が良いことなど、詳細に説明される。
併せて、院卒と学部卒ではどちらが就職に有利かも質問。研究開発を専門にする場合は院卒が必要だが学部卒でも幅広い就職実績があること、その時の
景気や企業の採用方針でどちらが有利とは一概には言えないことが説明される。企業は専門性を求める比率が高まっているが、研究開発に特化しなければ
学部卒でも支障はないようだ。
親には、成績表が届いたという電話があった際に院進学も考えていることを伝えた。親は揃って難色を示したが、俺はこれまでの貯金と晶子の協力で
仕送りがなくても修士2年分は可能と見込めること、院卒の方が就職の幅が広がることを話して、金銭面では面倒を見ないことを条件に院進学も視野に
入れて良いとの回答を引き出した。就職を引き合いに出したことが効果的だったようだ。
一方で、就職できるならしておいた方が良いとも言われている。院進学で就職先の拡大を見込んでも、2年後にそれが実現される保証はないというのが
理由だ。確かに景気の波があって2年後どころか数カ月後の予想も確実とは言えない。晶子との生活もある以上、院進学を最優先出来ない。良い就職先が
あれば決めた方が、卒研を進める精神衛生上も好ましいと思うし、晶子との生活の設計や準備もしやすい。
他には、コアタイムはあるのか、研究テーマと就職先との関連性はあるか、学会発表はあるのか、といった質問が出る。コアタイムは存在しないこと、研究
テーマと就職先にはさしたる関連性はないこと、学会発表は重要な知見があるとみなせば学部学生でもやってもらう方針であること、ときっちり回答される。
「−他に質問がないようですので、最後に久野尾先生、お願いします。」
「はい。」
久野尾先生が再び席を立つ。今度はその場で話をするようだ。
「この1年は就職や進学を決める重要な時期です。そこで大切な心構えは、自分に何をしてくれるかではなく、自分が何を出来るかです。今までの話の中で
積極性や主体性という言葉が何度か登場しましたが、それはこの1年を過ごしていくうちによく分かるでしょう。」
「「「「「…。」」」」」
「今年も研究室の志望倍率は高かったです。その倍率を突破して本配属になれたのですから、是非、この研究室での生活を有意義なものにしてください。」
久野尾研の仮配属人数は18名。人数調整をしたとは言え、本配属になった10人の1.8倍が居た。本配属は仮配属の研究室を問わないし、仮配属で漏れた
人が本配属で雪辱を果たそうとするから人気のある研究室の倍率は更に高くなる。どうも物性関係は実験が長引きやすいのと学生実験で苦しめられる課題が
多いせいで避けられやすいと聞いたことがある。
恐らく2倍は優に超えたであろう倍率で、仮配属に引き続き本配属されたんだから奇跡的だ。希望が叶ったんだからそれに安住することなく、卒研だからと
甘い気持ちでやり過ごすんじゃなく、充実したものにしないとな…。
オリエンテーションが終わり、学生居室の個人デスクに居る。久野尾先生と野志先生が退室した後、オリエンテーションでも紹介があった個人PCの
割り当てがあった。俺は窓側の1席。20インチ液晶CRTが中央に、ミニタワー型の本体が隅に鎮座している他は当然だが何もない。人1人分が通れる幅を
隔てて窓があって、工学部付近のキャンパスを一望できる。久野尾研の伝統としてPCの割り当ては前年度の学部4年、すなわち現在の修士1年が決めた。
俺はその年度のフラグシップの学生が割り当てられる席とPCだという。つまり、PCの割り当ての時点でフラグシップが指名されるわけだ。
この割り当てで大きな差はない。だが、以前聞いた話ではフラグシップのPCは学生居室の中で一番性能が良いそうだ。俺は良いPCを割り当てたんだから
その分しっかり卒研をするようにと言われているように思う。責任感で身が引き締まる思いだ。
PCを起動して、設定されたユーザー名とパスワードを入力。オフィスソフトと回路基板設計CAD−回路図と回路基板の両方−が入っている。卒研といえど
研究室の研究の一部を担う性質上、前年度までのファイルやデータは残っている。このPCから研究室のワークステーションやネットワークドライブにデータを
転送したりバックアップ出来るようになっている。
研究テーマは明日に希望を聞いて、先生と院生で相談して今週中に決める段取りだ。つまり、今週いっぱいはまだ研究室生活は前置きのレベル。今日の
オリエンテーションで全ての研究テーマを紹介されたが、どれにするか考えておかないといけないな。
「祐司。研究テーマ決めたか?」
智一がパーティションから身を乗り出して来る。智一は俺の左隣。個人デスクは3×2の塊と2×2の塊があって、俺は2×2の1席、智一はその左隣だ。
パーティション越しに来られると、隣が誰か分かっていてもちょっと驚く。
「今日の紹介を聞いて、いくつか絞りこんだけど、まだ決めてない。」
「うーん、そうか。ほぼ研究テーマ1つにつき1人みたいだから、祐司を頼れないのは痛いなぁ…。」
「頼るなよ。」
研究テーマは9で学部学生は10人。単純計算すれば、1つを除いて1テーマに1人の割合で割り当てられる。学生実験を大半1人でこなしてきた身としては、
引き続き誰かを引っ張りながら進めるなんて御免こうむりたくて仕方ない。
「出来るだけ楽そうなものを選ぶとして、晶子さんはどうしてるんだ?」
「晶子は今日卒研のテーマを決めて着手するって聞いてる。」
晶子も勿論大学があって、同じく4年に進級した。卒研があるのも同じだ。異なるのは、晶子は既にゼミに配属されているから研究室の希望提出や配属先
決定の告示、オリエンテーションといった、俺が4月になってから踏んできた段取りを既に済ませてきていることだ。
異なることと言えば、智一の晶子の呼称。今までは「晶子ちゃん」だったが、京都旅行の土産を渡しに行った−晶子はこの時初めて智一のマンションに
行った−時から「晶子さん」になった。「人の嫁さんをちゃん付けで呼ぶのは失礼だろ」というのが智一の語った理由だ。旅行の宿の手配でも思ったが、智一の
人間の広さや深さにはただただ感服するばかりだ。逆の立場だったら宿の手配どころか、土産の受け取りも拒否していただろう。土産を受け取った際、「俺も
祐司に続くぞ」とさえ宣言した智一は、たとえ強がっていたとしても強い。ただ親の金で適当に大学生をやって親の会社でのほほんと暮らすボンボンじゃない
ことも改めてよく分かった。
「文系は研究室−向こうじゃゼミっていうところが多いが、そこへの配属が早いんだってな。」
「文学部は3年で本配属だそうだ。」
「やっぱり、就職活動との絡みかね。」
「そうかもしれない。」
晶子の話からして慣習もあるようだが、就職活動の違いが大きな影響を与えているのもあるようだ。勤務か開業かの違いはあっても大半が大学での専門を
職業にする医学部と薬学部と歯学部−新京大学には医学部しかない−は別として、理系学部は研究室の影響が強い。企業によっては大学に求人を
出しても実質その研究室の学生のみ対象にするところもあるというほどだ。それは極端な事例だとしても、研究室推薦という理系学部での慣習は就職活動で
かなり大きい。公務員試験では通用しないが−筆記試験の1次試験を突破しないことには大学や研究室の影響力を発揮しようがない−、研究室に配属
されるところまでいけば就職が半自動で決まるところまで行くんだから。
一方、文系学部は一部の大企業と大学を除いて基本的に学生が自力で就職活動を進める。自由度は高いがその分時間も労力も掛かる。4年になってから
ゼミや研究室に配属されて、馴染みながら卒研をして、その上で就職活動をするのは厳しいと言わざるを得ない。
色々な要因が考えられるが、専門性を高めたり機会を待つための一種の就職浪人になるために大学院に進学することが選択肢の1つとして存在する理系
学部に対して文系では大学院進学が非常に少なく、大学院進学はほぼ研究者になるためというのもあるようだ。ある意味イレギュラーな院進学が選択肢で
ない以上、学部卒に続いて就職へと駒を進めないと行き詰ることになりかねない。
「今日は晶子さん待ちか。」
「否、俺が研究室のオリエンテーションや他の用事を済ませたら迎えに行くことにしてる。」
「てことは、これから迎えに行くわけか。」
「ああ。席も決まったし、研究テーマはこれからじっくり考える。」
研究テーマについては以前にも個別に説明を受けたから、今日のオリエンテーションで概要の理解は深まった。2、3に絞った候補の中から自分が一番
取り組みたいテーマはどれか、希望を伝える明日までよく考えよう。幸い今日は月曜でバイトが休みだし、今は昼前だから時間は十分ある。
「じゃ、俺は先に帰る。明日からよろしくな。」
「何をだよ。それは別としてお疲れさん。」
智一が鞄を持って部屋を出ていく。今までだったら一緒に帰るところなんだが、俺と晶子に遠慮してるんだろうか。少し申し訳なく思うが、それを罪と認識して
いたら晶子との付き合いは続けられないのも事実だ。
今の晶子との関係を以って、智一に勝った負けたと判断するつもりは毛頭ない。そもそも恋愛で勝った負けたという表現が出ること自体、強烈な違和感を
覚える。恋愛を駆け引きや勝負として捉えるならまだしも−それ自体妙な話だと思うが−、人間関係の1つである恋愛に勝ち負けがあるとは思えない。
さて…、晶子にメールを送るか。研究室初日が終わったら直接迎えに行くことになってるから不要かもしれないが、3年からの恒例だからな。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:研究室配属1日目終了
研究室のオリエンテーションが終わって、学生居室に居る。これから迎えに行こうと思う。
研究室の詳しい話とかは、メールだと書ききれないから(そんな長いメールを書くのも読むのも大変だ)後で話す。
…相変わらず形式ばった文面だと思うが、絵文字は使う気が起こらないし、不要なことをだらだら書くのも性に合わない。用件を伝えるのが第一だからと
納得して送信する。返信待ちを兼ねて帰る準備をするか。準備と言ってもロッカーにしまったコートを着て鞄を持って、PCの電源を切ることくらいだが。
個人のPCは基本的に個人管理になる。ソフトウェアのインストールや更新はその都度研究室で通達されたり、パッケージが配布されたりするそうだが、
実際の作業や導入済みのソフトやOSの更新については個人で実施することになっている。PCにはユーザー名とパスワードがあるし−パスワードは早速
変えた−、そこまで一括管理するのは手に負えないだろう。起動中のPCはサーバやワークステーションに接続されている。そこには今までのデータの他、
プログラムや資料も相当量あるそうだ。個人PCが起動したまま放置されていると、悪意のある第三者に操作されてサーバやワークステーションからデータを
盗られたり、破壊されたりする危険は十分ある。
大学の不審者管理はあるようでない。学生も多くの教職員も私服だから一見区別がつかない。各門には守衛が居るし建物の入り口には学生証を兼ねたID
カードでのセキュリティがあるが、守衛のチェックは学生証など身分証の確認は基本的にしない。建物の入り口も開放されているものがあるから、セキュリティの
効果が半減している。
一方で、大学の一般市民への開放が叫ばれている。実際、生協の食堂では明らかに学生でも教職員でもない人を目にすることがあるし、食事をしても問題
ないそうだ。だが、その中にどんな人間が紛れ込んでくるかはチェックを厳重にしないと分かりようがない。性善説だけで自由や開放を進めるのは無理が
生じている気がしてならない。
PCの電源を落としてコートを着たところで、デスクに置いていた携帯が振動する。オリエンテーションとかの合間に鳴って顰蹙を買わないよう、大学に居る
間は音を消してバイブレータだけONにすることを継続している。晶子は…音量を絞っても鳴らすことは止めないような気がする。
送信元:安藤晶子(Masako Andoh)
題名:お疲れ様です。
私は卒論のテーマが決まって、学生居室に居ます。お話楽しみにしています。
ちなみに、着信音は卒論の製作が始まったのを考えて音を消していますが、
私がメールを見ていることに気づいたので、メールとは別に聞いてもらいましたよ。
流石に卒研のためにPCに向かう人が多い中で着信音を鳴らしはしないか。だが、メールの内容からして着信音をせがまれたようだな。着信音は不変だし
何度も聴いている筈なんだが、物珍しさが受けているんだろうか。
鞄を持って、PCの電源が落ちていることを確認して部屋を出る。研究室は最上階の5階にあって、エレベータはあるにはあるが捕まらないことが多いから、
比較的楽な下りは歩くことにしている。まだ閑散としているキャンパスを横断して文系エリアに入る。こちらもまだ人が少ないように思う。入学式は確か来週
だから、大学全体が再び賑やかになるのはその頃からだ。俺も3年前は入学する立場だったんだよな…。なんだか随分昔のことのように感じる。
文学部の研究棟に入り、階段を上る。少し歩いて3階の戸野倉ゼミの学生居室前に到着。ドアをノックして応答を聞いてから入る。何度も出入りしているが、
いきなりドアを開けて入るのは気が引ける。
「こんにちは。」
「いらっしゃーい。」
学生居室の面々がこっちを見る。文学部は3年でゼミに本配属されるし、留年がまずないから顔触れはまったく変わらない。駆け寄ってきた晶子の席も
変わらない。
「お待たせ。」
「いえ。お疲れ様です。」
「旦那って、今日から研究室に配属なんだよね。しかも第1希望の。」
「ええ。何とか無事に。」
「凄いねー。ストレートで第1希望の研究室に配属って、工学部じゃ少数派なんでしょ?」
「そうでもないと思うけど。」
4年進級時にも1/3くらいが留年したし、3年進級時と合わせるとストレートで進級出来たのは実質半分くらいだ。100人程度の半分がストレートに進級
出来たと見ることも出来るから、それほど希少価値があるわけじゃない。
研究室の配属にしても、確かに久野尾研をはじめ幾つかの研究室の倍率は高いそうだが、それでも久野尾研で1.8倍くらいだ。おおむね上位20〜30位
くらいは第1希望の研究室に本配属されたようだから−その点から智一もなかなかの成績なんだろう−、その中の1人だとやっぱり希少価値は大してない。
「じゃあ、行こうか。」
「はい。」
学生居室の面々に見送られて、晶子を伴って部屋を出る。ふと入り口脇の所在告知用のホワイトボードを見ると、晶子の名前がある。「井上晶子」ではなく
「安藤晶子」として。
4年進級にあたって、晶子が改姓を申し出た。婚姻届は未提出だが自覚を高めるためにも安藤姓を使いたいという理由に、晶子の不便がなければという
条件付きで承諾した。もったいぶったり立場の上下を意識したわけじゃなく、井上姓から安藤姓への変更で晶子が色々手続きしたりするのは面倒じゃ
ないかと思ってのことだ。学生証の記載変更は本籍の変更、すなわち婚姻届の受理がないと出来ないそうだが、通称としての姓の変更と使用は問題ない
そうだ。早速各方面に問い合わせて回答を得てきた晶子の行動力には驚いたが、不便がないなら晶子の希望を断る理由はない。ホワイトボードの記載
変更は「安藤晶子」としての第一歩の1つだ。
安藤姓への変更はメールにも表れている。携帯の登録データにおける名称は「井上晶子」から「安藤晶子」になっている。データを修正しただけではあるが、
晶子とのメールに出る名前が「安藤晶子」になっていることに、感慨と不慣れによる若干の違和感を覚えている。
俺の家の表札−ネームプレートを大きくしたような簡素なものだが−は「安藤」のままだ。元々苗字しか記載してなかったし、姓が同じなら名前を2人分書く
必要は余計にない。これは晶子にも話して快諾を得ている。表札に名前を書くと訪問販売とかに家族構成を把握されて、狙い撃ちされる場合もあるという。
俺単独ならまだしも晶子を危険から遠ざけるには必要な自衛策だ。
「研究室はどうですか?」
「良い環境だ。個人用のPCも良いのを割り当ててもらったし。」
「研究テーマは決まったんですか?」
「明日希望を書いて提出して、金曜日に決まることになってる。卒研が本格的に始まるのは来週からだな。」
「今週いっぱいは小休止ってところですね。講義も来週からですし。」
「そうだな。少々手持ち無沙汰に感じるのは妙なもんだ。」
大学からの帰りでレポートを持ち帰ることが長く当たり前だった。出来るだけ詰め込んだ3年の講義も全部単位を取れたことで、4年は教員免許関連と国家
資格関連の若干の選択科目だけになった。教員免許関連は1科目だし、国家資格関連も3年でかなり単位を取ったから5つに満たない。卒研が入ることを
考えても圧倒的に楽になる。1年間限定だが、卒研や進路決定に注力出来る有効な貯金だ。
「晶子の卒研テーマは何だ?」
「『童話における英語表現の変遷』というテーマです。」
「英文学科らしいテーマだな。童話ってことはグリム童話とかアンデルセン童話とかが対象か?」
「ええ。それらの源泉から現代までの英語版に焦点を当てて、その表現の変遷を時代背景を交えて考察するんです。」
「ひたすら図書館に通って書籍を探して読み比べるのが基本か。読書アレルギーだとやってられないな。」
「読書が基本ですからね。祐司さんが専門書を探して読むのと同じようなものだと思いますよ。」
晶子の卒研テーマの概要は大体掴めた。文学部の英文学科らしい卒研テーマは、文学部の英文学科らしく膨大な読書量の蓄積の上に進めるものの
ようだ。戸野倉ゼミの書庫は以前見学したが、あそこに鮨詰めになった本の中からも探す必要があるだろう。根気も必要だな。
「今日はゼミの書庫で本を探して読んでたんです。借りても来ました。」
「晶子らしく、早速行動開始か。」
「来週から就職活動も始まりますから、出来ることから始めておこうと。」
「そっちも始まるのか。」
「ええ。・・・文学部は厳しいものになることを念頭に置くように言われてます。」
就職活動の違いが表面化してきたようだ。ニュースでも就職戦線の厳しさが言われているが、工学部、特に電気電子や機械は今日のオリエンテーションの
質疑応答でもさほど困ることはないらしい。就職先を探すよりしっかり勉強しておけというのが、様々な形での推薦による半自動の就職先決定に表れていると
言って良い。
理系と文系では入学してからの勉強量が違うし、それが就職の労苦に現れるのは当然とする向きもある。確かに夜遅くなることも珍しくない−化学合成を
扱う分子工学科は深夜に及ぶこともあるそうだ−実験やレポートの連続、進級条件の厳しさは明らかに理系学部の方が上回っている。だが専門が異なるし、
大学での労苦の差が専門の難易度の差とは一概には言えないと思う。
「事務職や一般職の採用枠が大幅に少なくなっているのが最大の要因だそうです。それらを派遣に切り替える向きにシフトしていて…。」
「派遣の方が企業としては都合が良いからな。その分正規採用の枠が少なくなるんだが。」
事務職を正規社員から派遣に置き換える動きが強いのは、店でも聞いている。新人が少なくなってその分派遣が増えたという話だ。派遣は3年以内に
契約を打ち切って入れ替えれば正規雇用しなくて良いし、人数調整も容易だ。企業、特に人件費削減に血道を上げる企業は、給料や社会保険を安く
上げられる派遣を使いたくなるだろう。
既存職員からすると、業務の彼方此方に3年以内に会社や部署の勝手を何も知らない別人と入れ替わる派遣とは仕事がし辛い。入れ替わるごとに一から
教えないといけないし、覚えたと思った頃には居なくなってしまってリセットされてしまう。この繰り返しになるから、じゃあ派遣の人には最初から簡単に教えて
覚えられる雑用だけにするか、となる。
派遣が増えた分正規職員が減るから、派遣に雑用を丸投げしても人が減った分の仕事が増える。そうなると、正規職員の側は「楽な仕事だけして定時で
さっさと帰っていく」と派遣を悪く見るし、派遣の側は「ろくに仕事もさせずに雑用ばかりさせてそのくせ見下す」と正規職員を悪く見る。企業としては労組の
弱体化や分断が図れるからより好都合だろう。こうした意図をエコノミストやら評論家やらが感じ取れているとは思えない。人件費を削減するならこの手の輩
から切るべきなんだが、そういうところに頭が回らないから人件費削減が出来るんだろう。
「でも、祐司さんは自分のことを考えてくださいね。私は祐司さんの重荷にも足枷にもならないようにしますから。」
「基本就職で進める。今日の話でも院進学で全てがバラ色になるとは限らないようだし、俺が決めないと晶子が動き辛いだろうからな。」
大学卒業が現実味を帯びてきて、順風満帆とはいかない事態が生じて来た。だが、順風満帆ばかりで進むとは思ってない。俺は情勢と状況を見極めて
最善の選択肢を選ぼう。晶子もおんぶに抱っこになるつもりはないし、俺にはその責任がある。