雨上がりの午後

Chapter 277 卒研始動、穏やかな昼のひと時

written by Moonstone

 時間は流れて金曜日。研究室の会議室に学部4年と院生が集合して研究テーマの割り当てが発表された。俺は「簡易な立体音声再生システムの研究」。
第1希望のテーマだ。研究室の本配属と同じく第3希望まで書いたが、第1希望になってひと安心だ。

「−というわけで、今年度の学部4年の研究テーマが決まりました。」

 司会を務めるのは今回も大川さん。奇しくも、俺が割り当てられた研究テーマを担当している人でもある。つまり、俺はこの1年、大川さんの指導で卒研を
進めるわけだ。修士2年のフラグシップと事実上の学部4年のフラグシップ指名を受けた俺の組み合わせは、他の人から見て納得や必然のものらしく、発表
された時の雰囲気が端的に証明していた。

「以降は基本的に担当する院生と協力して進めてもらいます。先日のオリエンテーションで紹介したように、研究室全体で何度か発表会がありますから、
まずは6月の第1回発表会が目標になるでしょう。各々自主性を発揮して卒研に取り組んでください。」
「「「「「はい。」」」」」
「また、来週から1年前の皆さんと同様、仮配属された3年を加えたゼミが始まります。進行役はホワイトボードに記載したとおりです。学部4年がメインで進める
ことになっていますので、極力欠席しないようにしてください。…では、これから担当の院生と対面がてら打ち合わせをしてください。この会合はこれで終了と
します。」

 研究テーマと割り当てられた学部4年を列挙したホワイトボードの前に居た大川さんが散会を宣言する。学部4年は席を立って、担当の院生の元に行く。俺も
大川さんのところに行く。大川さんはこれまでのゼミで総監督に近い立場に居た。何人もの3年、つまり1年前の俺達を立ち往生させ、俺もかなり苦しめられた
だけに、希望した結果とはいえ少々不安がある。

「改めてはじめまして、安藤です。」
「こちらこそはじめまして、だね。大川です。」

 最初の挨拶は、予想に反してにこやかに返される。ゼミやこれまでの司会での仏頂面とも言える冷静さとはギャップがある。

「この1年、よろしく頼むよ。」
「よろしくお願いします。」
「早速だけど、この前のオリエンテーションよりもっと詳しく研究テーマとかを紹介するよ。時間は良い?」
「はい、大丈夫です。」

 晶子には何時頃終わるか分からないと昨日伝えてある。晶子は、自分の卒研がスタートしたことを理由に弁当を作ってくれている。昼飯の心配はないから、
終わったら「帰るコール」ならぬ「迎えに行くメール」を送れば良い。自分が携わる研究テーマをよく知っておきたいから、大川さんの誘いを断る理由はない。
 大川さんに案内されて実験室の1つに入る。そのスペースの奥1/3ほど、作業台と複数の測定器や電源、アンプが収納されたラック、そして複数のマイクと
無骨なスピーカが置かれた場所。此処が研究テーマに取り組む場所のようだ。

「此処が僕達の研究スペース。研究室共通の作業台とは別に、専用の作業台があって、関連する測定器や電源は作業台かラックに収納されてる。ハード
ウェアの設計や製作のウェイトが高いし、頻繁にカットアンドトライをするから、共通の作業台に行かなくても簡単なことは此処で出来るようになってる。」
「ハードウェアの設計や製作は、どんなICや回路を対象にしているんですか?」
「ディジタル信号の高速処理が多いから、CPLD(Complex Programmable Logic Device:回路動作を自由に設計できるディジタルIC。小〜中規模向き。
起動時に外部ROM(Read Only Memory)を必要としない)やFPGA(Field Programmable Gate Array:CPLDと同じく回路動作を自由に設計できるディジタルIC。
大規模向き。起動時に外部ROMを必要とする)をVHDLでよく使うね。学生実験ではどうだった?」
「結構苦労しました。作りたい回路と違う回路が出来て、その原因がイメージし辛くて…。」
「あれはCとかのプログラミング言語と同じ感覚ですると失敗しやすいんだ。あくまでハードウェアを言語の形で構築するイメージだね。それも慣れれば
分かって来るよ。」

 マイコンや話題に上がったVHDLといったプログラミングは、学生実験では割と楽な方だった。複数の測定器の値を読んだり、現象を見過ごしたり条件を
跳び越したりしたら場合によっては最初からやり直しということが少なくて、あったとしてもやり直しの手間は少ない。だが、PCのディスプレイ表示や接続した
マイコンなり基板なりロジックアナライザなどの測定器が無言で提示する内容を読み解かないといけないから、プログラミングに抵抗感があるとかなり厄介だ。
 プログラミングの素養は若干ある。シンセサイザの音色やMIDIデータの作成は、数値を入力して結果を聞いて調整することの繰り返しだ。条件分岐や
ループはないが、ディスプレイの表示や結果−主に音声になる−から完了か調整かを判断するのはプログラミングと同じ感覚と言って良い。

「VHDL関連の書籍はありますか?」
「研究室の書棚に何冊かあるよ。最初は簡単な回路を作って動作を見ることからやってもらうから、心配要らない。ソフトウェアの使い方とかも教えるから。」

 いきなりコアの一部を改良なり新規なり作ることになるかと思っていたが、そうでもないようだ。とは言え、卒研を進める以上は自分で勉強しておくに限る。

「今までの回路やVHDLソースとかのデータ一式は、安藤君のPCに一括転送しておくよ。暇な時にどんなものか眺めておいてくれると良い。」
「回路基板の製作もするんですよね?その場合、全て此処で自作ですか?」
「試作段階では評価基板やキットを使う。CPLDやFPGAはピッチ(ICのピン間隔のこと。0.1インチ=2.54mmを標準として、1/2の1.27mm、1/4の0.64mm、mm
単位の0.5mmなどもある)が狭いSMD(Surface Mount Device:表面実装部品の略。基板を貫通出来る金属リードがなく、基板表面に直接実装する)だから、
それらが最初から実装されている評価基板やキットを使った方が効率が良いからね。テスト用の付加回路を作ることはよくある。試作と評価で十分なものが
出来るとなったら、工学部の工作室に製作を依頼する。はんだ付けはどう?」
「何とか出来るといったところです。」
「はんだ付けも慣れの要素が大きいからね。最初は2.54mmピッチのはんだ付けしやすい部品の実装をやってもらうよ。はんだ付けは此処の作業台なり共通
作業台なりを使ってもらえば良い。」
「部品は何処から持ってくれば良いんですか?買う場合の手続きとかも教えてほしいんですが。」
「部品は汎用的なものなら研究室に揃えてあるよ。後で案内する共通作業台の近くに部品ケースがあるから、そこから持っていけば良い。買う場合は僕が
手続きするから、必要な部品を言ってもらえば良い。とは言え、学部の段階でほぼ未経験から自分で回路部品を選定するところまで行けたら化け物レベル
だよ。」

 研究テーマはハードウェア寄りだからはんだ付けは必須だ。これも教えてもらうのを待つより出来る範囲で自分で練習しておく方が良い。部品が使えるなら
回路図を読む練習も兼ねて練習しておこうと思う。

「VHDLの練習と併せてテスト回路の回路図を読んで、自作してみると良い。この際だから、共通作業台関連も案内しておこうか。」
「お願いします。」

 はんだ付けもする以上、テーマ専用の作業台以外に研究室共通の作業台も知っておくべきだろう。大川さんに同行して共通作業台を案内してもらう。共通
作業台は2×3の配置で6台設置されている。オリエンテーションで紹介されたとおり、全てにはんだ付け関連の装置と工作器具が完備されている。その場で
動作を確認出来るように電源もある。
 作業台の近く、窓側に小さな引き出しが上下左右に連なったものがある。これが部品ケースだ。主だった値の抵抗やコンデンサ、LED、コネクタ、OPアンプ
(註:入力電圧を増幅する専用IC)、電源レギュレータ(所定の直流電圧を生成する専用IC)が揃っている。

「部品は此処からで、基板は隣の棚から取り出してもらえば良い。出庫記録はそこのPCで出来るから取り出す時にしておいて。」
「部品がなくなったら誰に知らせれば良いですか?」
「僕に知らせてくれれば良い。抵抗とコンデンサがよくなくなるから、残量に注意して欲しい。10個を切るのが目安かな。」

 学生実験でははんだ付けを伴うものはあまりなかった。学生実験は実験の進め方やまとめ方、理論や概念中心の講義では分からないイレギュラーな事態
への対処法を体得する機会だし、はんだ付けまでこなすのは時間的余裕がないだろうから−半日かかったこともある−そこまで組み込めないだろう。殆ど
未経験とは言え、卒研を進める上で必須となれば、自分で練習しておいた方が良い。

「随分やる気だね。」
「不慣れなものが多いですし、それでも卒研で必要ですから、自分で練習や勉強が出来るものはしていこうと思って。」
「良いことだよ。卒研は自主性が大事だからね。バイトに支障がない範囲でどんどん進めてもらえば良い。その方が研究の話もしやすいし。」
「お…、私がバイトしてることは知ってるんですか?」
「勿論知ってるよ。久野尾先生や野志先生からは、君のバイトにくれぐれも支障をきたさないようにとのお達しが出てる。バイトの時間はどうなってる?」
「月曜休みで午後6時から10時までとなってます。卒研とかの事情によっては時間や曜日を減らしたりしますが。」
「朝普通に来れば時間や曜日を減らさなくても十分進められるよ。僕もバイトしてたし、今でもちょこちょこやってるから。」
「バイトしながらでも院で研究は出来るんですか?此処は卒研は楽だけど院はハードって聞いてるので。」
「進め方次第だと思うよ。院がハードってのは卒論と比べれば、だからね。修論の審査はそう簡単にOK出すわけにはいかないから、卒研よりシビアになるのは
当然だし、卒論でも修論でもデータを取って正当なものか検証することが基本だから、出鱈目に違うことはないよ。」
「なるほど…。」
「そう言えば、安藤君はオリエンテーションでも院進学について熱心に質問してたね。院希望にシフトした?」
「基本は就職希望ですけど、院卒の方が有利なら、とか考えてます。」
「院卒の方が幅が広がるのは事実だよ。研究開発だと院の方が採用枠の数からして有利だし。その時の景気や採用数にもよるから、絶対に院進学が有利とは
言えないのも事実だけどね。」
「判断が難しいところですね。」
「あの時は言いそびれたけど、安藤君は学年3位の極めて優秀な成績だから院試は免除だよ。面接だけで合格出来る。だから、院試を保証枠にして就職
活動を進める方式が良いんじゃないかな。筆記試験に備えて院試レベルの勉強をしておくと効率が良いね。」
「院試の過去問はありますか?」
「工学部の事務室に言えば無料でコピーさせてもらえる。あれがこなせれば大抵の筆記試験は十分だよ。安藤君なら全問正解も楽勝じゃないかな。」
「それは無理じゃないかと…。」
「否、十分可能だと思うよ。過去問を見れば分かると思うけど講義のテキストにある演習問題や演習問題集のレベルだし、安藤君なら簡単過ぎると思う。
院試は学部レベルの基礎が十分出来てるかを見るのが目的だからね。」

 今までの成績が学年3位と言われても、全然実感がないのが正直なところだ。その成績にしても、がむしゃらに演習問題を解いたりレポートを提出したりして
ようやく取れたもの。決してスマートじゃないこの手法で成績優秀というのは無理があるように思う。院試が今までのテキストの演習問題とかのレベルだと
すると、演習問題を最初から全部やり直すくらいの意気込みじゃないと足元を掬われるだろう。

「研究の進め方だけど、当面はVHDLとはんだ付けの練習をしてもらいながら、関連論文や書籍の読み合わせをしていこうと思う。関連のデータやファイルは
安藤君のPCに転送しておくし、その中に進め方やマニュアルとかもあるから、それを読みながら進めてもらえば良い。分からないことがあったら遠慮なく
聞いてOK。6月の中間発表はそのまとめになるかな。」
「分かりました。」
「それにしても、安藤君がこのテーマを選んでくれて良かったよ。院生の注目は安藤君がどれを選ぶかだったからね。」
「買い被りじゃないかと思うんですが…。」
「それは過小評価だよ。仮配属中のゼミで僕の質問にも立ち往生しなかったし、あれだけきっちり勉強してる学生には何としてもうちに来てほしい、って
久野尾先生や野志先生は勿論、研究室の面々は全員言ってたんだ。来週からのゼミでもよろしく頼むよ。」
「頑張ります。」

 どうも実力以上の評価が定着しているような気がしてならないが、期待されたり高評価を受けたりすることに決して悪い気はしない。期待や評価に安穏として
いたくはないし、卒研だからと呑気にやり過ごすつもりもない。事実上のフラグシップの指名を受けた以上、その名に恥じないようにしたい。折角希望の
研究室に本配属になったんだ。有意義にするには自分から進み出ることが必要なのが大学なんだということくらい、今までの生活で分かっているつもりだ…。
 大川さんの案内は終わり、個人PCの前に居る。大川さんから早速関連データやファイルが送られてきている。主だったフォルダだけでも「回路図」「基板
CAD」「VHDL」「資料」「発表関連」とある。中には回路別若しくはIC別のフォルダがあって、大きな変更や追加が行われる前にフォルダごと圧縮されて保管
されているとある。今までの蓄積を継承しているという実感が湧いてくるし、責任感も感じる。
 「発表関連」フォルダの中には、今までの発表で使われたプレゼン用資料やドキュメントファイルが収納されている。大川さんと前任の学部4年らしい人、
久野尾先生と野志先生の名前が記載されたタイトルに始まり、図やグラフをふんだんに使って分かりやすく記載されている。卒研で必要な技術や知識を身に
つけながら、現状のまとめを分かりやすくすることも必要なわけか。家のPCもフル活用して進めないと追いつかないかもしれない。
 「回路図」フォルダを見ると、「練習用サンプル」と銘打って多くのファイルがある。幾つか見てみると、CPLDに抵抗やLED、スイッチを接続した回路図がある。
回路図の注釈には、VHDLフォルダの○○と組み合わせることとある。回路図は拍子抜けするくらい簡素なものだが、CPLDやFPGAは動作をプログラム
しないとうんともすんとも言わない。所定の動作をさせる、たとえばLEDを順番に点灯させるだけでも適切にプログラミングしてやらないといけない。VHDL
ソースと併せて1組と認識して取り組む練習だな。
 手始めに「練習用サンプル01」の回路図とVHDLソースを印刷する。すぐ近くにある学生居室のプリンタが稼働して印刷された紙を吐き出す。まずはこれから
始めよう。VHDLソースにも注釈−コメントと言うべきか−がある。全部英語だが、これはソフトウェアの都合だ。この手のソフトウェアは基本CPLDやFPGAの
製造元である海外の企業が提供しているものだ。割と頻繁に更新されるのもあって、逐次和訳するのは追いつかない。海外企業である以上、日本語には対応
していない場合が多い。分かるようにと日本語を使って思わぬトラブルを引き起こすより最初から英語で記述した方が無難だ。
 このVHDLソースは、スイッチのONOFFを繰り返すごとに接続されたLEDが色々な組み合わせで点灯・消灯するものらしい。回路機能ブロックごとに注釈が
記載されているし、添付のドキュメントには更に詳しく書いてある。ソフトウェアの使い方の習得も兼ねて勉強していこう。
 時刻を見ようと携帯を取り出す。…メール着信だ。晶子からメールが来るのはあまり多くない。俺がメールを出すことで俺の都合が分かるし−実験の最中で
直ぐ返信しようにも出来ないことがしょっちゅうだった−、加入しているプランではどちらから送信しても構わないから、慣習としてそうなってるだけだが、
どうしたんだろう?
送信元:安藤晶子(Masako Andoh)
題名:お昼ご飯
卒業研究のテーマは決まったでしょうか?祐司さんが希望していたテーマになっていると嬉しいです。
題名の件ですが、一緒にお弁当を食べられたらと思ってメールしました。
都合が良ければで構いませんので、お返事ください。可能な場合、待ち合わせ場所は祐司さんにお任せします。
 晶子のメールも絵文字や顔文字がなくて事務的なんだが、俺のより温かみを感じるのは気のせいだろうか。時間は…11時過ぎ。昼飯にはまだ少し早いが、
弁当を一緒に食べることは今までなかった。良い機会だからOKしよう。場所は…あそこが良いかな。理系エリアと文系エリアのほぼ中間地点だし。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:弁当、一緒に食べよう
研究テーマは第1希望のものに決まった。指導役の院生に研究テーマや設備の使い方について説明して
もらった。説明の後で、卒研を進めるために必要な技術を自分で習得するために回路図やプログラムを印刷
したりしていた。
弁当、一緒に食べよう。場所は図書館前の池(?)があるところにしよう。ベンチもあるし、そこがいっぱいでも芝生が
あるから、場所には困らないと思う。
今から少しプログラムの勉強をするから、12時頃に現地集合ということで。
 俺にしては、かなり文章量が多いメールになった。弁当を食べながら話すにしても、メールで「今こんなことをしてる」くらいは伝えても良いだろう。メールを
送信して携帯をデスク脇に置いて、VHDLソースを含むプロジェクトを開く。学生実験でも使ったソフトウェアが起動して、印刷したものと同じソースが開く。
続いてドキュメントを開いて、コンパイルからCPLD書き込みまでの手順を見る。この過程をドキュメントなしでさっさと出来るようになることが最初の目標かな。
 時間になったことで、実験を中断して晶子との待ち合わせ場所に向かう。PCのロックを確認…、よし、OK。大学で生協の食堂以外で昼飯を食べるのは
初めてだ。ましてや弁当を持っていくなんて想像もしなかった。
 晶子を迎えに行く時とほぼ同じルートを辿っていく。晶子は…居た。池の傍のベンチに座っている。俺に気付いたのか、俺の方に小さく手を振っている。
俺は手を振り返しながら足を速める。見えているのに歩くペースがそのままなのは、何だか勿体ぶっているような気がする。

「お待たせ。」
「いえ。こういう場合、待つのも楽しみですから。」

 俺は晶子の隣に腰を下ろして弁当を広げる。ハマチの照り焼きをメインに厚焼き卵やミニサラダ、ベーコンと春雨の炒め物など彩り豊かなおかずが詰まって
いる。かなり温かい日差しの下で晶子手作りの弁当を食べるのは良い気分だ。何かと苦労が絶えなかった学生実験を乗り越えられたのは、晶子の弁当が
あったからと言っても過言じゃない。

「祐司さんの研究テーマはどんなことをするんですか?」
「『簡易な立体音声再生システムの研究』ってやつで、幾つもスピーカを並べたりしなくても、たとえばステージでの配置のとおりに音声を再生するシステムを
研究するんだ。」
「それだと、ヘッドフォンでも奥行きが感じられたり、円を描くような音が聞けたりするんですか?」
「今はスピーカが必要だけど、いずれはヘッドフォンも対象にすると思う。」
「面白そうな研究テーマですね。今までその関連の勉強をしてたんですよね?」
「サンプルのプログラムを印刷して読むくらいだけどな。色々覚えないといけないことがある。」
「祐司さんなら大丈夫ですよ。」

 こうした明るい励ましも、やり直しや人手不足で殺伐としがちな心を鎮めて癒してくれる。色々な角度で晶子が俺を支えてくれている。弁当を作るのだって
決して楽じゃない筈なのに、自分も食べるからと作ってくれる。本当にありがたい。

「晶子のゼミは、卒研の指導体制ってどうなってるんだ?」
「全部先生に見てもらいます。戸野倉先生だけですから10人くらいを1人で見る計算です。」
「俺の研究室は研究テーマごとに院生が居て、基本は院生の指導を受ける形で進む。院生が居る居ないの違いかな。」
「そうだと思います。文学部では院生が学部で10人居るか居ないかですから。」

 文系学部は総じて院生が少ない。以前晶子に聞いた話だと、文学部だと5人も居ないらしい。文系だと院進学は研究者になることが前提になるし、企業では
あまり需要がない。舶来品のMBAが最近になって舶来かぶれの経営者あたりにもてはやされるくらいだ。
 晶子との会話で院生を話題に上げることには若干抵抗があった。言うまでもなく田中さんのことがあるからだ。記憶に間違いがなければ田中さんは今年博士
2年だから、退学していない限りまだ晶子が居るゼミに居る。単に同じゼミの、文学部では希少な院生の存在だけなら気に留める必要はないだろうが、晶子が
混乱して一時俺の元から逃げ出した原因でもある。
 正直、田中さんが晶子から俺を略奪しようとしていたとは思っていない。早くから俺との結婚を公言し、話し振りからするに結構惚気ていたらしい晶子に
呆れるか怒るかして−他人のその手の話を聞きたくない人も少なからず居る−、晶子を挑発するために俺に接近したと考えている。競争率が低い俺を独占
出来ると確信して安心しきっていた晶子は、俺が田中さんに迫られることに驚き、やがて俺を取られるんじゃないかと不安になり、その不安から逃れるために
俺の元から逃げ出したと考えると話がすっきりする。
 俺が取った策、すなわち法的には婚姻届を提出する直前の状態にして、新婚旅行と銘打った2人きりの旅行に出て晶子に俺を独占させることは、晶子のみ
ならず俺も十分満足させた。晶子が申し出た追加の策である、晶子が安藤姓を名乗ることも承諾した。それらが奏功したのか、旅行からの帰還後田中さんの
接近の兆候はない。一時は晶子を俺から引き離すことに成功したが、その反動で晶子が姓を変えるに至ったとなれば、もはやこれ以上の挑発は無意味と
判断したんだろう。田中さんが無駄足を踏むとは思えない。だが、晶子にとって田中さんを連想させる院生の話はかなりクリティカルなものであることには
変わりない。わざわざ晶子を挑発するような真似をして、喧嘩をするような趣味は俺にはない。必要以上に院生の話を持ち出すべきじゃないだろう。

「中間発表とかあるんですか?」
「年間スケジュールでは3回ある。最初は6月にあるけど、研究テーマに関する勉強のまとめくらいだろうな。」
「私の方は9月まで各自で進めて、10月に中間発表をすることになってるんです。」
「期間が長いと、その分しっかり進めておかないと赤っ恥をかくことになりかねないな。」
「はい。どうしてもぬるま湯気分になりがちですから、気を抜かないようにします。」

 就職が厳しいものになると言われている文学部でも、晶子のゼミには緊張感や悲壮感といったものはまったく感じられない。まだ就職活動が始まっていない
からそれらが生じないのは当然とも言えるが、スケジュールの緩さは否めない。ゼミやスケジュールの緩さに安住していると、就職や卒研で取り残されてしまう
だろう。大学では高校までのようにきめ細かい−今だからそう思えるが−フォローはない。
 もっとも、晶子が緩い雰囲気やスケジュールに甘えて怠惰な生活に浸るとは考えられない。今日のように早々と弁当を作ってくれたり、家では朝飯を
作ったり掃除や洗濯をする傍ら、ゼミから借りてきた卒研関連の書籍を読んで−やはりというか全編英語−ノートに要点を抽出したりしている。安藤姓を
名乗り、俺の家により住み込むようになっても生活態度の悪化は兆候すら感じられない。これだけ働き者だと逆に無理をしていないか心配になるし、俺も任せ
きりにはせずに出来ることは自分でする。2人で生活するにはやや手狭な俺の家での実質的な夫婦生活は、1人の時より間違いなく快適に保たれている。
俺もその一員として共同生活を営む。男女平等だのジェンダーフリーだの持ち出さなくても、その夫婦やカップルが納得と合意の上で生活出来れば良い。
わざわざ平等や差別を持ち込んで力関係を意識させるからおかしなことになる。

「午後も研究室に行くんですよね。バイトはどうですか?」
「それは大丈夫。卒研自体も基本的にバイトを続けながら出来るみたいだ。進捗によっては遅れたり休んだりしないといけない場合もあるかもしれないが。」
「私もゼミで卒研を進めますね。」
「終わったら迎えに行く。」
「はい。」

 あまり実感が湧かないが、卒研は始まっている。大川さんには6月にある最初の中間発表では研究テーマについての勉強のまとめだろうと言われているが、
それに安住するつもりはない。何せ学生実験で梃子摺った−梃子摺らなかったものがあるのかと言われると厳しいが−VHDLでの回路構築や半田付けが
メインの研究テーマだ。第1希望のものとは言え、学生実験の感覚ではろくに進まない可能性もある。
 俺が居る学科の就職ガイダンスは来週開催される。更に来週からは仮配属の3年を迎えたゼミも始まる。色々なことが連続して迫ってくるから、出来ること
から少しずつでも着手することが、僅かでも貯金につながる。卒研や就職活動が追い込みに入ったりして忙しくなった時に、その貯金が幾ばくかでも役に立つ
だろう。後で自分が少しでも楽を出来るかどうかは、日ごろの行いの積み重ね次第だと思う。
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