雨上がりの午後

Chapter 275 京都旅行の終わり、2人の生活の始まりに向けて

written by Moonstone

「−おしまい。」

 俺は最後の分を読んで締めくくる。「浦島太郎」に始まり「わらしべ長者」「笠地蔵」と読んできて、さすがに喉が疲れて来た。食い入るように床に広げた本を
見つめていためぐみちゃんは、満足げな顔を上げる。

「お父さんとお母さん、本読むの上手だねー。」
「慣れの問題だと思うよ。お母さんも小さい頃はこういう絵本を読むのに随分時間がかかったから。」
「どうやったら上手くなれる?」
「めぐみちゃんのおばあちゃんも言ってるみたいだけど、たくさん本を読むことが大切。スラスラ読めるようになるには、やっぱり繰り返すことよ。」
「本を読むのは好きみたいだし、買ってもらった本を何度も読んでみると良い。出来れば、今日みたいに声を出して読むこともした方が良いかな。」

 「浦島太郎」で浦島太郎を熱演しためぐみちゃんは、続いて本棚から持ってきた「わらしべ長者」ではわらしべ長者、「笠地蔵」では地蔵に傘を被せる
おじいさんを担当した。口調はたどたどしかったし、途中何度も躓いたが、途中で投げ出さずに最後まで読み切ったのは大したもんだ。
 小学校入学で初めて文字を習うことになっているが、実際はそれまでに保育園や幼稚園で読むくらいは学んでいることが多い。小学校でも私立だと読み
書きが出来て当たり前とされる。付属以外の公立は中学までは入学に受験はないから学校の授業で初体験でも良いが、そこで周囲より一歩でも先を行く
ことに執念を燃やす親の影響で小学校の予行演習をさせられることもある。早い方が頭が柔軟で良いとは言っても、そこで苦痛に伴う苦手意識が出来て
しまっては元も子もない。
 親代わりをしていた時の話でも、めぐみちゃんは祖母の高島さんの影響で読書への苦手意識はなく、むしろ好んで読んでいるようだ。この部屋に絵本が
並ぶ本棚があるのもその証拠だろう。この興味を持続出来れば小学1年生くらいの国語は容易だ。

「本をたくさん読むと、お父さんみたいな物知りになれる?」
「十分なれるぞ。お父さんよりずっと物知りになることだって可能だ。」
「そっかぁ…。」

 めぐみちゃんは、俺がいろんな質問にたとえや身近な例を盛り込んで答えたことをよく憶えている。それが新鮮で強い憧憬の念にも繋がったようだ。
幼少時の経験は成長してからもかなり鮮明に憶えていることがある。強く心に焼きついた出来事ほどその傾向は強い。高々大学4年になる前の俺が言うのも
変だが、めぐみちゃんはたくさんの可能性がある。これから小学校に入学して勉強したり友達と遊んだりする中で、自分がなりたいもの、やりたいことが漠然と
でも見えて来るだろう。「これは」と思ったものに没頭することもあるだろう。そうなる可能性を探したり、その土壌を育むのは好奇心だと思う。つまらなければ
強制や義務でなければ取り組まないし、毎日が生きることで精いっぱいだと自分以外に関心を向ける余地がない。今までのめぐみちゃんは後者だった。
 あの一件を経て祖母の高島さんが本格的保護に乗り出したことで、めぐみちゃんは自分の身の振り方に専念しなくても良くなった。何か面白いことは
ないか、楽しそうなことはないかと模索できる余裕が出来た。そうなったのを考えると、あの一件は不幸なことばかりではなかったのかもしれない。
 ドアがノックされる。俺が応答するとドアが開き、事務員の女性−森崎さんがトレイを持って入って来る。

「失礼します。お茶とお菓子をお持ちしました。」
「ありがとー。」
「お気遣いなく。」

 森崎さんは、俺と晶子の前にコーヒーカップ、めぐみちゃんの前にオレンジジュースのコップを置く。続いてクッキーが詰まった器をめぐみちゃんの正面
あたりに置く。

「お父さんとお母さんに、絵本読んでもらってた。」
「めぐみちゃん、今朝からずっと言ってたもんね。絵本読んでもらう、って。」

 道理で他の玩具やぬいぐるみを差し置いて、目を輝かせて絵本を持ってきたわけだ。絵本は1人で読む分にもめぐみちゃんの年代なら十分楽しめる
だろうが、誰かに読んでもらうと関心が増大するらしい。好きな相手に読み聞かせてもらえるなら楽しさは更に増すだろう。

「3冊読んでもらった。めぐみも一緒に読んだ。」
「え?めぐみちゃんも?」
「私達が読むのを聞くのも良いですが、めぐみちゃんも一緒に読んだ方がより楽しめますし、字の勉強にもなると思いまして。」
「素晴らしいことですね。一体感も生まれますし、めぐみちゃんに良い勉強になります。」

 読めなかったらフォローを入れる準備をしていたが、めぐみちゃんは自分で決めた配役をやり遂げた。読み方そのものはこの年代の標準的なものだったと
思うが、躓きながらも考えて俺と晶子に聞いてやり直して読み切った。この粘り強さや集中力は大きく伸びる可能性を感じる。

「めぐみちゃん、前から絵本が好きだったんですけど、この家に引っ越してきて以来更に好きになったようで、この部屋で絵本を読んでいることが多いんです。」
「私達と居た時も、何をして遊ぼうかという話になって最初に出たのが、絵本を読んで欲しいってことだったんです。」
「きっと、安藤様の影響なんでしょうね。めぐみちゃんに良い影響を与えてくださって、ありがとうございます。」

 高島さんは、昼間のめぐみちゃんの面倒を見るのと安全かどうかを監視するのは自分と森崎さんがしていると言ってたな。話からしてめぐみちゃんの母親
代わりをしているようだ。母親代わりとしては、めぐみちゃんが小学校に入学するのは嬉しいと同時に不安もあるだろう。
 京都の小学校事情は全然知らないが、新京市だと小学校から序列がかなり形成されているようだ。「ようだ」というのはマスターと潤子さんや店の常連客から
聞いたことで自分や子どもが体験したわけじゃないからだが、上位の進学校により進学しやすい、成績もさることながら部活やその他課外活動−所謂
内申書で有利になる思惑が働く−が熱心な中学校に進学出来る小学校区に一時的に住民票を移動する、一種の学歴ロンダリングが行われる。どうも急行
停車駅−新京市だと胡桃町駅と新京市駅の2つ周辺の学区がその対象らしいが、小学校からそんな状況だから、結構息苦しいんじゃないかと思う。俺が
進学や成績向上のプレッシャーを感じたのは高校からで、それまでは少々の勉強で試験は十分対応出来た。
 これまで怯え続ける日々を過ごしてきてようやく安心して生活出来ると思ったら、学校で授業と試験に追われるとなると、理想と現実の落差に落胆する
危険もある。早い時期から学校生活にネガティブな印象を抱くと、学年を重ねるごとにそれが強まりやすい。俺はどうにも出来ないが、めぐみちゃんが
スムーズに学校生活に馴染めて今までの分も楽しく生活して欲しい。

「ご夕食はどうされますか?」

 夕飯、か。どうするかは全然決めてない。帰って早速晶子の料理を食べたいところだが、旅行から帰ってすぐに現実に引き戻すのはいくらなんでも気が
引ける。だが、このままずるずると居座り続けるのも良くない。俺と晶子は…めぐみちゃんの親代わりにはなれても、親にはなれないんだから。
 特に長く居続ける分だけ晶子がめぐみちゃんと離れ辛くなる。この前めぐみちゃんと離れる時にも、晶子は見るのが痛々しかった。情が移り過ぎないうちに
切り上げるのが賢明だ。

「いえ、夕飯まで御厄介になるわけにはいきません。もう少しししたら失礼させていただきます。」
「晶子?」

 森崎さんの進めを辞退したのは予想外にも晶子だった。

「あまり長くお邪魔していると…、離れるのが辛くなりますから。」
「お母さん…。」
「…承知しました。お帰りの際は応接間にお立ち寄りください。」

 森崎さんもめぐみちゃんの晶子への懐き具合と晶子のめぐみちゃんの可愛がりぶりは把握しているだろう。引き留めると晶子もそうだが、めぐみちゃんが
余計に悲しむと分かったようだ。
 森崎さんが退室した後、めぐみちゃんは沈んだ表情で俯いている。この時間がずっと続くわけではないことは分かってはいるだろうが、特に晶子と離れる
のは寂しいし悲しいだろう。だが、こればかりはどうしようもない。

「めぐみちゃん。」

 晶子は後ろからめぐみちゃんを抱き締める。俺が宿で晶子にしたのと同じ体勢だ。

「お父さんとお母さんは自分の家に帰るけど、これでめぐみちゃんとずっとお別れするわけじゃないよ…。」
「…。」
「めぐみちゃんがお父さんとお母さんを憶えていてくれる限り、お父さんとお母さんはずっとめぐみちゃんの心の中に居る…。同じ空の下に居る限り、
お父さんとお母さんはめぐみちゃんが元気に楽しく暮らしていくのを見守ってるよ…。」
「お母さん…。お父さん…。」

 めぐみちゃんは晶子の腕に手をかける。寂しい気持ち、もっと一緒に居て欲しい、遊んで欲しいと言いたいのを懸命に堪えているように見える。甘えたい
盛りの年頃なのに、今までは顔色を窺うことの連続。甘えられる相手が見つかったと思ったらごく短い期間だけ。めぐみちゃんが寂しさを募らせるのも無理は
ない。
 今ここで、小学校入学で友達と遊んだり幅広い年代の人達と交流したりすることで寂しくなくなる、とか希望的観測を言って励ますのは無意味か逆効果の
どちらかだろう。めぐみちゃんは俺と晶子に甘えたいし本を読んだりして欲しいのに、それとは違う、不確定の希望を並べても実感出来ないだろうから。

「…お父さん。」
「ん?どうした?」
「動物園に連れて行ってくれた時、写真撮ってくれたよね。ああやって、写真撮って欲しい。」
「写真か…。良いよ。」

 記念写真が欲しいんだな。動物園では偶々携帯のカメラで撮ったキリンのアップの写真がめぐみちゃんの大のお気に入りになって、京都駅の写真店まで
現像しに行った。携帯は持ってるから撮るのは簡単だが、現像が出来ない。どうしたものか…。

「写真はお父さんの携帯で撮るけど、それを後で現像−京都駅で印刷したのと同じことをしてめぐみちゃんに送るってことで良いか?」
「うん。写真撮ったら、見ることは出来るんだよね?」
「見ること?ああ、液晶の画面でなら撮ったその場で見られるぞ。」

 めぐみちゃんが少し元気を取り戻したところで、俺は携帯を取り出す。そう言えば、動物園で撮った写真の数々は現像こそしたがデータそのものは今でも
俺の携帯の中に保存されている。めぐみちゃんとの写真を撮れば俺と晶子にとっても記念写真になる。特に晶子は嬉しいだろう。同じ機種だからデータの
やり取りは容易だし。
 俺は晶子の肩を抱いて密着する。晶子がめぐみちゃんを後ろから抱き締めているから、俺が晶子と密着すると家族写真そのものになる。液晶を見ながら
アングルやフォーカスを確認することが出来ないのが難点だが、そこは携帯のカメラ。納得出来るまでやり直すのもありだ。

「こんな感じで撮るぞ。」
「うん!」
「お願いします。」

 俺は携帯のカメラを自分達の方に向けて、直感に頼ってシャッターボタンを押す。撮れた…か?携帯を自分の方に寄せて、写真を確認してみる。

「うーん、ちょっと遠いか。」
「そうですね。もう少し近い方が良いですね。」
「でも、綺麗に撮れてるねー。」

 画面に対して部屋の風景が少し多過ぎる。だが写真そのものは意外にブレもなく綺麗に撮れている。写真やカメラの知識や技術は皆無に等しいんだが、
これだけ撮れるのはカメラの性能だな。

「もう1回撮るぞ。寄って寄って。」
「めぐみちゃん。あのカメラに向かってスマイル、スマイル。」
「こ、こうかな…。」

 さっきより幾分カメラを手前に近付けて、このくらいだろうと思ったところで2度目の撮影。さて、今度は画面いっぱいに収まるように撮れるか…?
 俺と晶子は玄関を出て門に向かう。見送りには高島さんとめぐみちゃんが居る。森崎さんは仕事の都合で−めぐみちゃんの両親の監督も兼ねている
そうだ−応接間に伝えに行ったところでお別れとなったが、礼と次回の来訪を楽しみにしていると言われた。
 記念写真を撮った後、めぐみちゃんも参加しての絵本読み聞かせをした。「シンデレラ」「金の斧、銀の斧」「一寸法師」の3冊。配役はめぐみちゃんに
選ばせてからじゃんけんで順次選択。その結果俺が女役をしたり−シンデレラで義母役になったのには笑うしかなかった−晶子が一寸法師の鬼役に
なったりと奇妙な組み合わせになったが、めぐみちゃんが懸命に楽しく読んで満足した様子だった。

「安藤さん。本当にこのたびは色々とお世話になりました。」

 門を出たところで、高島さんが言う。俺と晶子が出発の挨拶をしに行った時は応接間でデスクワークの真っ最中だったが、仕事を中断して見送りに来て
くれている。

「めぐみの面倒を見ていただいたり遊んでいただいたりしたのは勿論、私と娘夫婦のあり方や自立の意味を根本から見つめ直す重要な機会を作って
いただいたことには、感謝する他ありません。」
「もう直ぐ小学生になるめぐみちゃんの学校生活が楽しいものになるよう、お願いします。私達の願いはめぐみちゃんが笑顔で元気に生活していけることだけ
です。」
「はい。それはお約束します。お2人が齎してくれたこの機会を大切に生かしてまいります。」

 俺と晶子がめぐみちゃんと出会って、育児放棄や児童虐待を食い止めることになった。でも、それは結果に過ぎない。この先めぐみちゃんがずっと安心して
暮らし続けられるかどうかは、めぐみちゃんの保護と両親の指導監督を引き受けた高島さんにかかっている。
 高島さんはこれから弁護士の本業を続けつつ、めぐみちゃんの実質的な親の1人として様々な不確定要因が混在するめぐみちゃんの学校生活の観察と
指導、そしてめぐみちゃんの両親を本当の自立に向かわせる指導監督の仕事が加わる。恐らく相当な負担になるだろうが、高島さんの力量を信じるしかない。

「お父さん、お母さん。いっぱい遊んでくれてありがとう。楽しかった。」

 めぐみちゃんが前に進み出る。その小さな腕には俺と晶子がプレゼントしたキリンのぬいぐるみが抱きかかえられている。めぐみちゃんと撮影した記念写真は
完成形が3枚ある。1枚は最初に撮った純粋な家族写真。もう1枚はめぐみちゃんがもう直ぐそれを使って通学するランドセルを背負ったもの。そしてもう1枚が
キリンのぬいぐるみを抱っこしたもの。
 両親からろくに欲しいものを買ってもらったことがなく、ひたすら我慢するしかなかった時代は終わった。ぬいぐるみをプレゼントした時の喜び溢れる笑顔が
ずっと続くこと。俺と晶子が願うのはそれだけだ。決して楽しかった短い時期の記念品じゃない。そうなってもらわないといけない。

「めぐみちゃん。元気でな。今日撮った写真は必ず送るから。」
「うん。」
「めぐみちゃん…。」
「お母さん…。」

 晶子はやはり別れが辛いのか言葉にならない。目に涙を溜めて近付いてきためぐみちゃんを、しゃがんで強く抱きしめる。泣きたいのを懸命に堪えている
のが、小刻みに震える身体から分かる。子ども好き故に情が移っためぐみちゃんの今後の不安もあるんだろう。だが…見てるのが辛い。

「今度来る時は…、めぐみちゃんに弟か妹が出来てるかもしれないよ。」

 晶子がめぐみちゃんと少し距離を置いて言ったことを、少しの間を挟んで理解する。別れの辛さを少しでも和らげるためか、本気の子作り宣言か。
…両方だろう。

「だから…、その時まで元気に暮らして、良いお姉ちゃんになれるようにしていてね。」
「うん。良いお姉ちゃんになる。約束する。」
「お2人のお子さんなら、きっと愛情をたくさん受けて健やかに育てられるでしょう。」

 めぐみちゃんに兄か姉が居れば年齢に似合わない処世術を身につけなくても良かったかもしれない。両親に甘えられない分、兄や姉に甘えられたかも
しれない。だが、年齢で生じる年上年下の違いはどうあがいても覆せない。
 俺と弟の修之の年齢差は3歳だから、物心ついた時には弟が出来ていて俺は兄という立場だった。めぐみちゃんの場合、もっとはっきりした形で弟や妹が
出来るのを認識出来るだろう。めぐみちゃんの辛く寂しい経験が弟や妹を可愛がって面倒を見る方向に働くと良いが。

「では…、高島さん。めぐみちゃんをよろしくお願いします。」
「はい。お2人に与えていただいた機会を必ず活かして、めぐみをきちんと育てます。…どうかお気をつけてお帰りください。」
「お父さん…、お母さん…、元気でね。」
「めぐみちゃんも元気でな。」
「元気で暮らしてね。」

 名残惜しいが、俺と晶子が出来るのはここまでだ。間もなく新しい生活が始まるめぐみちゃんの、今までの分を帳消しにする幸せと笑顔の日々を願って
別れるしかない。別れると言ってもこれで全て連絡も縁も切れてそれっきり、というわけじゃない。今日撮った記念写真は現像して送る。俺と晶子に子どもが
出来たらめぐみちゃんに会わせる。それ以外にも大なり小なり交流は続けられる。今は偶然が重なって生じた大きな転機と経験を経て、再会を約束して
それぞれの生活に戻るだけだ。
 俺と晶子は歩き始める。高島さんとめぐみちゃんが並んで手を振って見送ってくれる。西に傾き始めた日差しが逆光気味に高島さんとめぐみちゃんを
照らしているのが、物悲しく見える。俺と晶子は見えなくなるまで手を振り返す。元気でな、めぐみちゃん…。
 まだ肌寒い時期は、太陽が沈むまでの時間がやけに短く感じる。まだめぐみちゃんの家を後にしてそんなに時間は経ってない筈なのに、空は東の方で夜の
気配が漂い始めている。午後からかなり長い時間、めぐみちゃんの家に居たと言うべきかもしれない。
 京都駅の上り新幹線のホームは割と閑散としている。通勤時間でもないし、観光は間もなく迎える桜の時期を控えたつかの間のオフシーズン。更に平日の
中途半端な時間だとこんなものだろうか。
 京都駅で土産を購入。定番というのかお決まりというのかその手のものの1つ、生八つ橋だ。渡すのは今回の旅行の実現に不可欠だった、マスターと潤子
さん、そして智一。片や臨時ボーナスとして潤沢とも言える資金と長期休暇の提供、片や至れり尽くせりの高級旅館を破格で長期宿泊出来るように手配と、
生八つ橋だけでは割に合わないような気がするが、土産で数万もするものを持ってこられても困るだろう。その分しっかり感謝の気持ちを伝えれば良い。
 ホームに上り新幹線が入って来る。測ったかのようにホームの所定の位置に停車してドアが開く。降りる人が完全に出るのを待って乗り込む。普通車指定
席の山側2席を取ったから、チケットの番号と照合して座る。

「ちょっと…意外だった。」

 発車待ちの僅かな時間、俺は伏せておいた気持ちを表に出す。

「晶子が夕飯を断って帰るって言い出すのは、あまり考えてなかった。」
「別れ際の様子を見られていると、意外に思えて当然ですよ。」

 今まで抑えきれない寂しさを醸し出していた晶子が、苦笑いに近い笑みを浮かべる。

「もっとめぐみちゃんと遊んでいたかったのが正直な気持ちです。ですけど…、ずっとこのままで居られる筈がない以上、お別れするのは早い方が良いと
思って…。」
「…。」
「めぐみちゃんは小学校入学の直前に救われて、新しい生活を始めることが出来たんです。それに…めぐみちゃんにも私達にもそれぞれの生活があり
ます…。祐司さんが言ったように、どうしてもめぐみちゃんの親になれないんですから…、めぐみちゃんのためにも私のためにも、自分で踏ん切りをつけないと
いけない…。もう私の我儘で祐司さんを振り回してはいけない…。そのためにも、長居するのは良くない…。そう思ったんです。」
「辛かっただろうけど、良い判断だったな。」

 あれだけめぐみちゃんに懐かれて、めぐみちゃんを心底可愛がっていた晶子にとって、めぐみちゃんと別れるのは心を引き裂かれるような気持だっただろう。
だが、俺と晶子はめぐみちゃんの親にはなれない。それぞれ新しい生活が待っている。だとしたら何処かで区切りをつけなきゃならない。晶子が自らその
区切りをつける行動に出られたのは、重要なことだ。
 ホームが少しずつ後方に移動し始める。そのスピードは次第に早まっていく。5日間昼も夜も堪能した京都を離れ、新京市の小さな家に戻る。そこから
改めて俺と晶子の生活が始まる。

「母親になることへの意気込みは…満々のようだな。」
「はい。めぐみちゃんと遊んで、その気持ちはより確固たるものになりました。」

 電車の速度が安定したところでの俺の問いに、晶子は明瞭に応える。晶子の子ども好きは口だけじゃないこと、可能なら今すぐにでも子どもをもうけて
母親になって育てたいと強く願っていることが分かったのは、今回の旅行の収穫の1つだ。
 女性の子ども好きは本物の場合もあるが、嘘の場合もある。子ども好きをアピールすることで「家庭的」「良い母親になれる」という好印象を作りだす狙いが
あるそうだ。男性の側としては、子ども好きを信じて結婚したら実は子どもが嫌いで作る気もないというのは詐欺に近い。
 晶子の子ども好きは前々から知ってはいた。買い物で見かける子どもを見る目は優しいし、迷子に出くわしても泣き続ける子どもをあやして、出来る限りの
情報を聞き出してからお客様センターに引き継げる。それは子ども好きの面と面倒見の良さの両面があると思う。だから、子ども好きは限りなく本当だと思って
いたが、全てが子ども好きと確証は持てなかった。今回、一晩めぐみちゃんの親代わりをした。しかも普通の生活の中じゃなく、新婚旅行と銘打った貴重な
時間の丸1日を使って。そんなシチュエーションで我が子のように可愛がり続け、めぐみちゃんが凄く懐くほどの親密ぶりを展開したのは、子ども好きが本物
だと確信するのに十分だ。

「勿論、私1人で子どもが欲しいと連呼しても意味がないことくらい、分かってます。祐司さんの協力が不可欠ですし、子どもが笑顔で迎えられる環境を作って
からですよね。」
「ああ。」
「1人では出来ないことを協力して実現出来る異性の関係。それが夫婦なんだ、ってこの旅行でしみじみ感じました。」

 結婚の最大の目的は子どもを作って育てることだと思う。晶子が俺に完全に狙いを絞って指輪に始まる既成事実の積み重ねに邁進して来たのは、暴力や
ギャンブルや借金のリスクが低くて安心して子どもを産み育てられると踏んだからだ。明言はしていないが、これも今回の旅行で確信したことの1つだ。
 そして、子どもは男性だけでは出来ない。フェミニズムに染まった女性は勘違いしているようだが、女性だけでも出来ない。子どもを育てることも1人では
大変だ。晶子が言ったとおり、1人では出来ないことを協力して実現出来る異性の関係が夫婦なんだと思う。

「色々な人の協力で実現出来た今回の旅行…、良い思い出がたくさん出来ました。」

 晶子は俺の手に自分の手を重ねる。そして俺の肩に凭れかかる。

「祐司さんと色々なところを回って、たくさんお話して、たくさん愛し合って…。新婚旅行が思い出作りの場面とお互いをよく知って理解を深める場面だと
すると、両方で最高の結果と思い出が出来ました。」
「…。」
「そして、自分の立ち位置の認識とそれに応じた振る舞いの徹底…。私がこれから祐司さんの妻としてどうあるべきか、どうすべきかをじっくり見据える重要な
機会にもなりました。」
「晶子が自分の立ち位置を意識してることは、一緒に居て感じてた。一言で言うなら良妻賢母になろうとしてる、ってな。」

 晶子が今まで約2年半の時間をかけて俺の妻としての座を築き上げたのは、安心して子どもを産み育てるため。そのために自分がどうあるべきかを考えた
結果、夫を立てて子どもが甘えられる母親になること、すなわち良妻賢母であろうと決めるに至った。
 元々晶子は男性と対等に渡り合って男性を従えて颯爽と先頭を走る、ドラマとかで描かれるキャリアウーマンを目指してはいない。そういう生き方もありだが
自分は目指さないというスタンスだ。男性に取って代わろうとする−権利だけのような気がしてならないが−フェミニズムと相容れない要因でもある。
 元々の志向を徹底する意味合いと共に、それまでの反省と償いも兼ねていたように思う。自分の思い込みから俺の家を飛び出し、マスターと潤子さんの家に
立て篭もった。俺の最後通告に近いメールがなければ自分の思い込みに気付かなかったかもしれない。そして、その行為自体が俺の気持ちを試すものだと
気付かなかったかもしれない。自分の判断と女性特有とも言える「悲劇のヒロイン病」が、俺は勿論周囲も翻弄すると痛感した晶子は、その反省として自分の
判断で行動することを控えるようにした。それは結局俺を立てて俺の判断に従い、助力や補佐に専念する、良妻賢母の良妻の具現化でもある。
 俺自身、晶子のそうした判断や行動が悪いとは思わない。立ててもらうことに悪い気はしない。晶子を伴う分判断を下して先導する俺の責任は重いが、あれ
これ文句を言われてその意見を取り入れて行動したら、結局不満で文句を言われるよりずっとましだ。それを男女対等と勘違いしている向きも多いのもまた
事実だが。

「今回の旅行を原点にして、まず祐司さんの良い妻になります。やがて準備が整ったら子どもをもうけて良い母にもなります。」
「晶子は自分の生き方を明確に見定めたわけだな。」
「はい。」
「後は、俺が将来設計をより明確にすることか…。」

 晶子が目指すことを決めた良妻賢母は、妻の面に関しては基本的に補佐の役回りだ。良妻賢母そのものは俺が望んでいるものでもあるが、補佐が存在する
には主役が欠かせない。この場合主役は俺で、なすべきことは当然生活の基盤を構築することだ。
 晶子が俺におんぶに抱っこになることは望んでいないにしても、子どもを産んで特に目が離せない乳児から幼稚園入園のあたりまで子育てに専念する
場合、その分の金銭的保証が必要だ。子どもをもうけたら親は何もしなくて良いとなるほど恵まれた環境にはない。生活基盤の構築の源泉はやはり収入だ。
十分な額が安定して入ることがベストだが、それが簡単に実現できるなら苦労はない。企業が採用を絞り込んでいるという話はよく聞く。理系、特に機械と電気
電子は就職に困ることはないとも言われるが、楽観視は出来ない。4年進級を確定させた今、本格的に進路を決定する必要がある。就職するにしても業種と
勤務地は必ずしも両立しない。単純に給料の良さだけを見て決めると、車がないと通勤も買い物もままならない僻地に転勤になる可能性がある。
 それに、研究室に出入りするうちに学部卒より院卒の方が就職に有利なんじゃないかと思うようになってきている。殆どが院に進学する理学部より比率は
低いとはいえ、工学部も今は半分くらいが院に進学する。それは院卒の方が幅広い就職先があるという就職事情も関係している。幅広い就職先を目指して
院に進学するのは、現状ではかなり難しい。金銭的な面では実家からの仕送りはないと思った方が良い。元々大学4年できっかり卒業することが前提条件で、
一人暮らしも一定以上の水準の大学で自宅通学が難しい場合と細かい条件が付いている。大学卒業は必要だが大学院までは必要ないという観念で凝り
固まっている親を説得するのは、留年したからもう1年仕送りを続けてほしいと依頼するのと同じくらい困難だ。
 飲食店としては破格の待遇−ボーナスとして10万以上くれる店はそうそうない−と晶子と共にあまり金を使わない生活を続けていることで、貯蓄は結構な
額になっている。それを使えば院2年−さすが博士課程までは考えていない−の学費は十分払える。だが、学費の他に生活費が必要なのは変わらない
以上、いくら金をあまり使わない生活をしていると言っても大幅な目減りは避けられない。それに、院卒になれば確実に好条件の就職が出来るという保証も
ない。俺一人ならまだしも晶子が居る以上生活基盤が絡むことにギャンブル的な要素を持ち込むことは控えたい。2年先を目指して専門知識を深めるか、
最良の就職先を探して早々に決めるか、この二択は最低限決定しないといけない。

「祐司さんがこれから就職するのか進学するのか、何処に就職するのかは私が決めることじゃないですけど、祐司さんが十分納得して後悔のないように考えて
ください。私は祐司さんについていきますから。」
「…。」
「1人では出来ないことも2人でなら出来ることはたくさんあります。祐司さんの良い妻になることは、祐司さんの収入をあてにして優雅に暮らすことじゃないこと
くらい分かっているつもりです。」
「…仮に俺が院に進学する場合、バイトの時間が減って収入が減っても晶子が働くから大丈夫、ってことか?」
「はい。祐司さんにおんぶに抱っこになるつもりはありません。1人の手が塞がっていたらもう1人が手を動かせば良いんです。それが出来るのが夫婦なんです
から。」

 本配属を希望する久野尾研は学部生は楽だが院生はハードだと聞く。学士より修士の方が審査が厳しいのは当然だからそうなるのはやはり当然の成り行き
だが、今のように午後6時から4時間のバイトを週6日とはいかなくなると考えるべきだろう。仕送りがなく、バイトの日数や時間が激減すれば当然収入は格段に
少なくなる。正確に計算したことはないが、ひと月の生活費が家賃も全てひっくるめて約10万だとすると、年間約50万の学費と合わせた修士2年間の最低
必要費用は約340万。今の貯蓄額と比較して厳しいと言うしかない。
 晶子が何処で働くのかはこれまた不明だが、ひと月約15万程度の収入があるとするとかなり違ってくる。同じ家に住めば家賃は1軒分で済むし、食費や光熱
水費も単純に2倍じゃなくなる。現に晶子が住み着き始めてからの1人分の食費や光熱水費は1人で生活していた時より下がっている。ここ2、3か月ほど貯蓄
額が大幅に増額しているのは決して気のせいじゃない。

「私が祐司さんに結婚してもらったのは、祐司さんの収入で優雅に暮らしたいからじゃありません。祐司さんと一緒に暮らしたい、祐司さんとの子どもを産んで
育てたい、そのためです。その準備のためには私が働くことも当然含まれます。」
「優雅に暮らしたいなら、貧乏学生の俺に照準を絞るより中美林大学の男を手広く当たった方が効率が良いよな。」
「そうでしょうね。でも、私が望むのはそんな結婚生活じゃありません。今回の旅行を通して…祐司さんが夫になってくれて本当に良かったと思ってます。」

 晶子が夫の収入で優雅な暮らしを目論んでいる、言い換えれば玉の輿を目指している筈はないとは前々から分かってはいた。車は持っていないし、音楽
以外では殆ど金を使わない、その音楽でも今は定期的な弦の交換とギター本体のメンテナンスくらい−シンセサイザは1台が高価だし置くところもない−の
俺に享楽的要素は少ない。優雅に暮らせる要素は更に少ない。
 新京大学と同じ新京市には金持ちの子女が通う中美林大学がある。俺は行ったことがないから自分で確認してはいないが、駐車場には高級車がひしめき、
ブランド物で身を固めた学生がファッションショーのように闊歩しているという話はもはや定説になっている。優雅に暮らすなら中美林大学の学生を狙う方が
ずっと効率が良い。晶子の容姿と性格ならまさに選び放題になれる。にもかかわらずその中美林大学との合コンにも目もくれず、俺との結婚の既成事実
作りに邁進し続けて、ついには婚姻届を出す直前までこぎつけた。その執念とも取れる一途な情熱には、金持ちの男を捕まえて優雅に暮らす目論見は全く
感じられない。
 俺との付き合いの合間に−どちらが合間かは分からないが−中美林大学の学生と付き合うやり方もある。だが、晶子は俺との時間を増やして他の男が介在
する余地を減らし続けている。多分田畑助教授との一件の反省を踏まえてのことだろうが、十分使える可能性がある「保険」を使うどころかその余地をなくして
俺との距離を詰め続けるところに、俺との付き合いを遊びや気晴らしで終わらせるつもりがないことが窺える。
 今回の旅行で、晶子が真剣に妻や母親としての生き方を模索し、実践しようとしていることがよく分かった。この先どうなるかは勿論分からないが、晶子となら
やっていける、やっていこうと思う。2人力を合わせて、夫婦として生きていく見通しが出来たように思う。

「これからもよろしくな。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」

 まだ早いと言われるかもしれない。結婚生活を甘く見ていると言われるかもしれない。だが、「この人だ」と思った相手と一緒になる勢いとタイミングを
逃したら、次は何時になるか分からない。未熟かどうかは他人視点で考えれば何時までも未熟とも出来る。未熟なうちは結婚しない方が良いとなるなら、
20代で結婚が当たり前だった前の世代の言行不一致はどうなのかとなる。
 俺は相手が晶子であることに何の不満もない。唯一の欠点とも言える「悲劇のヒロイン病」からの脱却も真摯に進めている。晶子と一緒に暮らすことは重荷に
ならないと思えるから、結婚出来るなら今のうちにしておこう。逃がさないように…。
 旅行を終えて初めてのバイト。今週から大学も再開する。何だか久しぶりのような気がするバイト先の店Dandelion Hillは、俺と晶子が到着した頃にはほぼ
満席だった。春期講習の只中らしい中高生、仕事帰りの常連OLなど見慣れた顔も随分久しぶりに感じた。
 バイト開始と同時に俺は接客と料理や空いた食器の運搬、晶子はキッチンでの料理にてんてこ舞いになった。少々勘が鈍っているところもあったが、丸3年
続けてきた甲斐あってか、直ぐに何時もの調子に戻れた。
 たっぷり働いてあっという間に迎えたリクエストタイム。採用されるリクエストがマスターから決定されるたびに、満員御礼の客席からは歓声と溜息が上がった。
勿論晶子も加わる。晶子は2階に籠っていたがバイトは休んでいたから、ほぼひと月ぶりの復帰。それもあってか、リクエストは晶子が全5回中4回を占めるに
至った。

「−以上、5曲が決まりました。」

 ステージで採用リクエストを紹介し終えたマスターが締めくくりに入る。俺は「I'M IN YOU」がリクエストされたから全5回出ずっぱりになる。人前で演奏するのも
随分久しぶりに思えるな。

「曲の演奏に入る前に、井上さんから皆様にご挨拶があります。」

 客席からどよめきが上がる。晶子からの挨拶があるという話は聞いていないが、こうなる予想はあった。丸々1週間店を臨時休業した遠因は晶子にあるから、
何かしら言うのは当然と言えば当然だろう。俺はカウンター脇から見守る。マスターは晶子にマイクを渡すと、今日は特別に演奏のためにステージに上がる
潤子さんの隣に立つ。
 料理のため束ねていた髪を解いた晶子がステージに上がる。大きな拍手と歓声の中、ステージ中央に立って深々と一礼する。客席が鎮まったのを受けて、
やや緊張した面持ちで正面を向いてマイクに声を通し始める。

「…皆さん、お久しぶりです。…井上晶子です。」

 無難な第一声に客席は拍手と歓声で応える。

「3月は私の勝手で殆どお休みしてしまい、皆さんにもお店の人にも大変なご迷惑をおかけしました。深くお詫び申し上げます。」

 晶子は改めて深く一礼する。客席からヤジや批判は一切出ない。客の人の良さと晶子の人気の高さならではかな。

「私は4月から無事大学4年生になります。卒業論文の製作や就職活動が始まります。今までどおりとはいかないかもしれませんが、このお店の一員として
改めて精いっぱい頑張っていきます。…拙い言葉の連続でしたが、以上を以って御挨拶といたします。ご清聴ありがとうございました。」

 締めくくって深々と一礼した晶子に、万雷の拍手が送られる。即興とは思えない上手くまとまった挨拶だった。マスターと潤子さんから事前の申し合わせは
なかったが、ひと月ほど店に姿を見せなかった本人の口から挨拶とお詫びの向上を述べる機会に備えてシミュレーションしていたのかもしれない。
 今回、晶子の口から俺との結婚が語られることはなかった。十分本気なのは変わりないが、まだ婚姻届を出していないし、それぞれの就職を含めた進路も
明確に定まっていないから時期尚早だ。結婚の報告は婚姻届の提出を予定している10月11日以降でも良いだろう。そんな話を店に行く前にしている。
 拍手が鳴りやまない中、晶子はマイクをマイクスタンドに挿す。高い倍率で採用されたリクエストが発表された後だから、そのまま演奏に入るようだ。俺は脇を
抜けてステージに上がり、素早くギターを準備する。家で勘を取り戻すために晶子と軽く合わせたが、満席の客室が見渡せる位置に立っての演奏となると、
間が空いたことによる不安で増幅された緊張感がどうしても高まる。…大丈夫。弾き込んだ身体が覚えている筈だ。

「少しバタバタしてしまいましたが、復帰初日のリクエスト演奏を始めたいと思います。1曲目は『If I believe』です。」

 復帰1曲目としては意外な曲だ。曲データは作ってあったが、「Secret of my heart」や「Feel fine!」といった頻繁にリクエストされる曲と違って今まで殆ど出た
ことはない。だが、曲リストに入っている以上客にはリクエストする権利がある。それが採用されたら演奏するのが当然だ。
 準備は整った。椅子に腰かけた−バイトが始まってから初めて座る−俺は、ギターの弦に手を添えてフットスイッチを押す。無難にこなせたイントロの後、
晶子の声が店内に広がり始める。ブランクを感じさせない澄んだ声だ。拍手が手拍子に代わっている。指が覚えていたことで無難にこなせても何処となく
覚えていた違和感が消えていく。京都旅行で味わった非日常から日常に戻って来た。忙しい中にも充実感や高揚感に満たされる時間が戻って来た。
 晶子が挨拶で触れたように、4月からは卒業と次の進路に向けた動きが本格始動する。俺の場合、店にどれだけ来られるかかなり疑問だ。でも、時間を
やりくりしてこの店でバイトして演奏したい。バイトの収入もあるが、慣れ親しんだギターで奏でる音と客の手拍子が融合して1つの心地良い空間を作り出して
味わうために…。
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