近づいてくる動物園界隈の賑わいはやはり寺社仏閣のそれとは少しばかり異なる。小さい子どもを連れた家族連れが殆んどを占める。昨日回った金閣寺と
清水寺は年配層が中心だったから、客層の年齢は動物園の方がかなり若い。また、観光バスで来たらしい団体客も今のところ見当たらない。この時期に観光
バスで観光に繰り出す客層には、遠足など学校関連のものはないと言える。彼らでなくても京都に観光に来た人はほぼ間違いなく寺社仏閣に行くからな。
観光という観点からすれば動物園は穴場と言える。混雑は避けられないがめぐみちゃんが埋もれるよりめぐみちゃんと同じくらいの視線の高さだから、俺と
晶子で混雑を避けたり抱っこや肩車でめぐみちゃんの視線の高さを上げることも可能だ。更に、今回は混雑に伴う危険の閾値が低い。寺社仏閣だとめぐみ
ちゃんより身長が高い人が殆んどだから、他の人はめぐみちゃんに視線が及ばせ難い。その分不意に蹴ったり、その拍子で転んで更に踏まれたりして怪我を
重ねるといった危険がある。今回は人垣の高さが低いから、その多数を占める子どもの視線に他の子どもが入りやすい。それには当然めぐみちゃんも
含まれるから、上方から来る危険はかなり少なくなる。俺と晶子が気を配れば危険は更に減る。一時預かっている立場だから、めぐみちゃんにまつわる危険は
減るに越したことはない。
「行列というほど順番待ちはないようだな。」
「ええ。時間が早い方なのもありますね。」
「入園券を買うから、晶子はめぐみちゃんを頼む。」
「はい。」
チケット売り場の前でめぐみちゃんを晶子に任せて、列に並ぶ。列といっても朝夕のラッシュ時の最寄り駅の改札より少ない。少し待てばすぐに順番が回って
くる。その間に大人2枚と子ども1枚のチケットの合計額を把握しておく。・・・ん?大人は500円で小学生以下は無料か。1000円で十分とはちょっと拍子抜け
してしまう。
「大人2枚お願いします。」
「はい。1000円になります。」
俺は1000円札を出して2枚の入園券をもらう。併せて子ども連れであることを伝えると、入園の際に同行していれば問題ないと教えてもらう。財布をしまって
晶子とめぐみちゃんのところへ向かう。
「入園券を買ってきた。めぐみちゃんは小学生以下だから無料だそうだ。」
「小さい子どもが多い動物園らしいですね。」
入園券の1枚を晶子に渡す。めぐみちゃんを中央にした並びではこの先通れないし、子どもが多い園内でも邪魔になるな。
「入る時は、めぐみちゃんはお母さんに手を繋いでもらいなさい。」
「うん。」
俺が先頭になって、その後から晶子とめぐみちゃんが続けば子ども連れだと分かる。入園の際には住民票など本当の家族であることを証明する必要は
ない。それを言い出したら子ども料金がある施設−水族館や遊園地では本人確認で混雑が酷くなるだけだ。施設の管理運営側は入場者とその年齢層に
応じた料金が得られれば、入場者の家族関係を問う必要はないのは自然なことだ。
俺を先頭にして入場の列に並ぶ。やはり子ども連れが殆んどだから、列の前進速度は子どもの歩く速度になっている。昨日のようにめぐみちゃんを抱っこ
していないとめぐみちゃんが取り残されたり、視線が届かないがゆえの不慮の事故に巻き込まれる危険性はかなり少ない。子どもが多いことで人垣の高さが
全体的に低いから、混雑していても見通しは割と良いのもありがたい。
ゆったりした流れに乗って入園。目の前に広がる景色は一般的な動物園のイメージと変わらないが、ぼろげに残る動物園の景色よりずっと開けて見える。
それだけ身長が伸びたんだなと実感する。晶子から観光案内を受け取り、京都市動物園のページを開く。・・・主な動物が列挙されてはいるが、何処にどんな
動物が居るのかまでは書かれていない。この本を読む客層を考えれば有名どころの寺社仏閣を優先して、他の施設は概要程度に留まるのは必然か。
「この本だと何処にどんな動物が居るのかは分からないな。案内板みたいなものは・・・。」
「あそこにありますね。」
晶子が指さした方向に、動物の顔(?)イラスト表記の園内地図がある。場所が分かれば何を見るかに焦点が移る。
「めぐみちゃんは、見たい動物とかある?」
「んと・・・。キリンとクマが見たい。」
動物園で見られる動物の中で人気の上位を争うであろうキリンの人気は、めぐみちゃんにも共通するようだ。園内地図を見ると・・・、入り口に向かって右手
方向すぐ近くか。クマはキリンの場所から東に向かったところにある。
「じゃあ、まずはキリンから見ていこうか。」
「すぐ近くですね。」
「前に来た時、人がいっぱいで首の上の方しか見えなかった。」
分かりやすい位置に人気の動物があれば、入園者の多数を占める子どもが強く惹かれるのは必至。めぐみちゃんにとって幼児の人垣は俺と晶子では
大人が作る人垣と同じでかなり視界を遮られるもの。満足に見えなくても何ら不思議じゃない。
ぱっと見たところ、キリンの檻近くで混雑が発生している。入って正面にある池の周りと比べると対照的だ。この分だと早速抱っこや肩車の出番が来そうだ。
混雑が近いことを考えて、列の編成は変えないでおく。俺が観光案内を持って、めぐみちゃんと手を繋いだ晶子を誘導する小さい隊列だ。逆でも背丈の低い
この混雑なら対応出来そうだが、何となくこの方が無難に感じる。
「キリンさん、此処からでも少し見えるね。」
進み始めたところで晶子がめぐみちゃんに言う。まだ首の上1/3くらいだが、長い首に黄色と茶色の迷彩模様というキリンの特徴は十分分かる。
「え?!何処何処?!」
「あ、御免ね。今抱っこするから。」
本格的な混雑にさしかかる前に、晶子はめぐみちゃんを抱っこする。さすがに10kgの米袋や布団を持ち運び出来るだけのことはあって、めぐみちゃんを抱っこ
するのはスムーズだ。
「見える見える!キリンさんの首が見える!」
「これからお父さんに案内してもらって、近づけるところまで近づくからね。」
「もっと近くで大きく見えると思うぞ。」
前回来た時は殆んど見えなかったらしいキリンの首が早い段階からはっきり見えたことで、めぐみちゃんの興奮は一気に上昇している。抱っこしている
晶子が力と神経を使うところだ。俺は前を歩いて誘導するが、SOSが出たら晶子と代わる構えでいる。
やはり混雑はキリンの檻に集中している。子ども連れが多いことから、抱っこや肩車もかなり多い。その分これまでより人垣が高くなっているのは致し方ない。
子どもに動物を見せようとする親の意向は何処でも誰でもさほど変わらないもんだな。
「すごく大っきいんだねー!」
「この前来た時はこんなに近くまで来られなかったのかな?」
「うん。遠くの方から少し首の上が見えただけだった。」
「それだと、今日はキリンさんが凄く大きく見えると思うよ。」
人垣の交替速度はかなり鈍いから、蛇行して少しずつ檻に近付くしかない。それでも昨日の混雑より随分楽だ。足元に注意しながら−俺が他の子どもを
蹴ってしまったりする危険性がある−前に進んでいくにつれて、キリンの特徴がより鮮明に明確になってくる。久しぶりに実物を見るキリンは、大型動物の
一種と感じる大きさだ。見上げないと頭の上の方は見えないところまで来た。
「凄い・・・!こんなに大きくて首が長いんだ・・・!」
めぐみちゃんは驚きのあまり、興奮を通り越して言葉がうまく出ないようだ。キリンは下界の喧騒を余所に悠然とあたりを見回している。なかなかの迫力
だな・・・。「静」と「動」の違いというか、建物とはまた違った驚きや趣がある。
「こんなに首が長いと、遠くを見るのは凄く楽そう。」
「そうだね。高い所に登ったりしなくて良いからね。」
「でも、下を見るのは大変そう。」
「頭を下に向けて『どれどれ』ってすぐに見るっていうのは難しいでしょうね。」
首が長いことで有利な点もあれば不利な点もある。近くもすぐに見られて遠くも簡単に見渡せるように両立するのはレーダーやナビゲーションを使わないと
無理だろう。レーダーでもステルス戦闘機のように感知されにくくする対抗技術があるし、悪天候だと最悪使えなくなる。ナビゲーションもあらかじめ登録して
ある地名や地形でないと対応出来ない。高度な技術でも物事を完全に両立するのは困難だ。
「キリンさんって、寝る時は首をどうしてるのかな?」
キリンに関するありがちな質問と言えば「どうして首は長いのか」だが、寝る時の首の処置は予想出来なかった。予備知識や固定概念がないがための思い
がけない疑問は、本当に意外で回答に困ることにもなるもんだ。
「詳しくは知らないけど・・・、野生−動物園で飼われていないキリンさんは立って寝る、って聞いたことがあるわよ。」
「立って寝るって、そんなこと出来るの?」
「人間だと横になって寝るのが普通だけど、動物はそうでもない。たとえば・・・お魚はどうやって寝てると思う?」
「えと・・・。横になれない・・・よね?」
「それと同じ。布団やベッドに横になって寝るのは人間だけで、動物から見れば人間の方が変わってるんだ。」
岩陰に隠れたり底に潜ったりする種類もいるが、寝る時だけ水から出るなんてことが出来ない魚は水の中で寝る。マグロやカツオといった回遊魚は身を隠す
場所を探す方が難しいから、泳ぎながら寝るしかない。だがそれは、その魚にとっては餌を探して食べる、言い換えれば食事をするのと同じく生きていく上で
当たり前のことだ。
「それに、動物園で飼われてないと何時ライオンとかが襲ってくるか分からないだろ?」
「うん。」
「そんな状況で、人間みたいに布団やベッドに横になって寝てたら、すぐに逃げられない。だから、動物が立って寝るのは不思議なことじゃないんだ。」
「そうかー。そうだよねー。」
野生動物は常に食うか食われるか、言い換えれば生きるか死ぬかの選択を迫られている。草食動物だと自分を狩ろうとする肉食動物の接近を素早く察知
していち早く逃げることをしないと、自分が肉食動物の餌にされる。そんな状況下で布団やベッドに横になって寝るという方が奇特だし、命が惜しくないとしか
言いようのない行動だ。
では肉食動物は獲物とする草食動物を選り取り見取りかと言えば決してそんなことはない。草食動物は警戒心万端だから、獲物に出来る対象を十分
見極めないと簡単に借りに失敗する。獲物を狩れないことは食料を得られないことと同じだから、即座に飢えに繋がるし、最悪その肉食動物が群れごと餓死
することもある。
だから、よく食物連鎖を表現する際に肉食動物を頂点にするピラミッド構造が使われるが、間違いだと思う。草食動物がいなければ肉食動物は餓死を待つ
だけだし、肉食動物がいなければ草食動物は増えすぎて餌となる草を食べつくして、やがては餓死することになる。食料と種の存続にために相互に
不可欠な存在だから、上層の肉食が下層の草食を支配するという意味があるピラミッド構造を単純に当てはめることは出来ない。
「あのキリンさんも立って寝るのかー。」
「動物園で飼われている動物は、寝ている最中に襲われる心配がないから普通に身体を伏せたり横になったりして寝るぞ。」
「え?そうなの?」
「動物は人間がくれるし、すぐに逃げるために立って寝る必要がないと分かると、動物も安心するんだ。家で飼われてる犬や猫も人間みたいに寝たりする
ようにな。」
特に屋内で飼われている犬や猫は、自分は人間だとばかりに寝る時もある意味清々しい。横になるだけじゃなく、仰向けになったり、お気に入りの布団や
毛布を持っていたり、人間の邪魔になることなどお構いなしに寝入っていたりと様々だ。
寝るという動作は動物が一番無防備になる行動でもある。敵に襲われたり餌の心配をしたりする必要がないと理解すれば、動物も無防備になれる。キリンも
例外じゃないだろうから、時間になれば別の部屋に移動して伏したり−身体の構造上横になるのは難しい−してぐっすり寝られる。
「首が長くて遠くまで見られて便利ってだけじゃないんだね。」
「必要な時だけ伸ばすなんてことは出来ないし、普通は誰も守ってくれない状態で生きてるから、便利なことに伴う不便さは受け入れないといけないのよ。」
良いとこどりっていうのはそう簡単に出来ないと思った方が良い。特に身体的なことに関しては生まれ持ったものでどうにかするしかない。人間なら様々な
制度や機械や技術である程度改善出来る場合もあるが、動物はそうはいかない。野生となれば尚更だ。
「キリンさん、こっち向かないかなー。」
「少し待ってみようか。」
「うん。」
キリンは檻の周りの喧騒−子どもの歓声がかなり凄い−を余所に適当に歩き回りながら彼方此方見まわしている。かなり檻の近くに来たことで、キリンと
視線が合うには不利な状態になってはいる。だが今日のリミット、すなわちめぐみちゃんを京都府警本部に連れていく午後4時までは此処を離れるつもりは
ない。めぐみちゃんの希望を出来る限り叶えることを優先させよう。
飼われている犬や猫でも、色々な性格がある。飼い主から片時も離れないタイプもいれば、餌と散歩の時間だけ元気良く駆け寄ってくるのにそれ以外は
知らんぷりのタイプもいる。他の動物も色々な性格があって当然だし、動物園で飼われていれば人間への対応が様々になるのも不思議じゃない。この
キリンはどんな性格か分からないし、今までの様子からして観客の呼びかけに逐次応えるサービス精神旺盛のタイプではなさそうだ。サーカスじゃないから
そこまで期待するのは無理ってもんだが、気まぐれに期待して待ってみるのも面白い。
「あ!」
少し待っていると、それまで遠くを眺めていたキリンがふとこちらを見やる。餌をちらつかせたわけじゃないが−そんなもの持ち合わせてない−、気まぐれの
視線がたまたまこちらを向いたようだ。キリンは長い首を関節の多いロボットアームのように動かして、こちらに顔を近づけてくる。めぐみちゃんばかりでなく、
周囲に居る子ども達がそろって大歓声を上げる。今まで彼方此方から声がかかっていたが素知らぬ顔だったのに、急に自分の方に顔を近づけて
きたんだから、驚きと喜びが交錯してるんだろう。
「キリンさんがこっち来る!!」
「もっとこっち来て!!」
「写真撮って!!写真!!」
足元は大騒ぎどころかちょっとしたパニック状態だ。檻は結構高さがあるから近づける距離には限度はあるものの、これまでより急接近なことには違いない。
子ども連れの親は子どもを宥めたりカメラを構えたりと対応に大わらわだ。あいにくカメラは持ってきてない。だが、この珍しい瞬間を逃すのはもったいない。
俺は急いでコートの懐に手を突っ込んで携帯を取り出し、手早く広げてカメラモードにして構える。ピンボケするかもしれないが・・・!
「撮れた・・・かな?」
キリンが顔を再び遠ざけていく様子を横目に見ながら、携帯を操作してカメラ画像のフォルダを見る。・・・撮れてる!キリンの顔を正面やや右から画面
いっぱいに捉えている。
「ほら、めぐみちゃん。」
「あ!凄い!!キリンさんが大きく撮れてる!!」
「僅かなタイミングを逃さなかったんですね。」
「偶然にしては随分上手く撮れたな。」
俺やカメラや写真に関してはずぶの素人だ。良い写真の撮り方と言われても、せいぜいピンボケしないように撮ることと逆光にならないように撮ることくらい
しか知らない。携帯のカメラはあることくらいは知っているが使ったためしはないという体たらくだ。写真に興味がなくて興味がないことには基本的に見向きも
しないからだが、そんな有様で操作を知っている、否、記憶している携帯のカメラを起動してピントもろくに確認せずにシャッターボタンを押して撮った写真が、
素人目にも良い出来だと思えるくらいに撮れたんだから良く出来た話だ。
「これ、普通の写真に出来ないの?」
「普通の写真っていうのは、アルバムとかに入れられる紙の写真ってこと?」
「うん。」
「それだと・・・、どこか現像してくれる場所に行かないと駄目ね。」
「大型量販店だとあるかもしれない。ほら、俺と晶子が時々行く量販店にも入って直ぐのところにあるだろ?」
「あ、そういえば・・・。」
携帯にも何百万画素のものが標準で搭載されるようになったことに代表されるデジカメの普及は、その現像の店の範囲も大きく広げた。フィルム時代だと
写真専門店かよほどカメラに詳しい人でないと出来なかった現像が、普段買い物に行くような店の一部で出来るようにもなった。
紅茶専門店や大型書店が入っている、俺と晶子が時々行く大型量販店にもデジカメの現像を取り扱う店頭がある。そこには確か自分で原本であるメモリ
カードを持っていけばその場で現像出来るセルフサービスの機械もあった。実際に使ったことは殆んどないが、俺と晶子のそれぞれの定期入れに入っている
並んで写った写真を現像してもらったのがその店頭だ。新京市より大都市の京都なら、京都駅前あたりに繰り出せばその手の機械がある店は何処かにある
だろう。
「そういうお店なら現像出来そうですね。」
「じゃあ、めぐみちゃん。ここで少し考えよう。」
早速その店に行こうとなりそうなところで、俺はめぐみちゃんに2つの案を提示する。1つは早速動物園を出て現像出来る店を探す。もう1つは午前中
いっぱいくらい動物を見て回って撮るなら写真も撮って、昼飯時あたりとか適当な時間になったら動物園から現像出来る店に移動する。説明すると、早速
現像して手に取って見られると思っていたところにストップがかかって戸惑った様子だっためぐみちゃんは、納得した様子で何度も頷く。そのめぐみちゃんを
抱っこしている晶子は感心した様子だ。動物園に出たり入ったりする時間と金−それほど大した金額じゃないが−がもったいないと思って咄嗟に出した案
だったが、合理的で納得出来るものだったようだ。
「そうだね。何度も出たり入ったりすると他の動物を見る時間が少なくなるよね。」
「分かったみたいだな。どうする?」
「クマさんとか、他の動物も見てから普通の写真にしてほしい。」
「よし。この際だから、改めて何枚かキリンさんの写真を撮っておくか。」
「うん!」
その場の流れと思いつきで1枚撮っただけというのはこれまたもったいない話。めぐみちゃんの思い出を増やすためにも、写真を撮れるだけ撮っておくべき
だろう。幸いなことに、携帯で撮れる写真の枚数は大きさにもよるが数百枚の単位だ。メモリカードの容量がなくなるよりカメラ昨日の長時間駆動による
バッテリー切れの方を心配した方が良いくらいだ。携帯のバッテリーは操作を連続すると意外とすぐなくなっちまう。
キリンは何事もなかったように悠然とあたりを見回している。写真はその様子を檻に近い位置から首の向きが違うものを数枚、檻から離れて全体が見える
位置からやはり首の向きが違うものを数枚撮る。近いものと遠いものでは迫力や臨場感の違いがあって対比が面白い。
「ほら、たとえばこんな感じ。」
「わぁ!カッコ良い!」
「上手く撮れてますね。」
めぐみちゃんに見せたのは撮ったばかりの1枚。檻から離れた位置から撮った、俺から見るとやや左を向いているキリンの全容だ。携帯のカメラ画面が
縦長なことと人垣が平均的に低いことで、長い脚も適度に写せて長い首を上方に伸ばした雄大さを感じさせるスナップになった。
「まさか、携帯のカメラがこんな形で役に立つとはな・・・。」
「便利なものがあって良かったですね。」
携帯を弄るのは今でも使い続けている、アレンジと入力を自分でした着信音を入力する時が一番多かった。新作候補にしている「Stay by my side」のギター
ソロバージョンでも入力するために携帯を弄るが、ある着信音がレギュラーの地位を固く確保していて切迫感がないせいか、暇があったらボチボチ入力して
いくというスタンスだ。着信音を設定して以来、晶子と電話やメールのやり取りを何度もしているが、大学が休みの今はもっぱらアラーム専用になっている。
そんな有様だから標準装備のカメラには興味も持たずに完全に放置していた。それは携帯のカメラに必要性を感じなかった裏返しでもある。
もともとカメラや写真に興味がなかった上に、どうも携帯のカメラにはある種の敬遠意識があった。デジカメ以上に気軽に携帯して使用出来る性質に
なんだか犯罪の臭いを感じるからだ。犯罪とはいかないまでも、監視カメラのように他人のプライバシーをこっそり撮ったり、その写真がオンラインに故意か
不注意か何れかでばら撒かれるという事例も聞いたことがある。
これは刃物や趣味娯楽に共通することだが、使い方の問題であって道具そのものに問題があるわけじゃない。だが、携帯のカメラはどうも良い印象が
持てずに、使う機会もないままずっと放置されていた。それがキリンの気まぐれの接近に反射的に対応することでいきなり脚光を浴びた。カメラに意思が
あれば不満の1つでも言いたくなるだろうが、自分で撮った写真が素人目にも意外と良く撮れていて、見せた相手からも全面的な称賛が得られたことで、
カメラや写真を趣味にする人の気持ちが分かったような気がする。
「これくらいで良いかな。めぐみちゃんはどうだ?」
「うん。キリンはたくさん見たから良い。」
「次はクマだったな。」
「うん。」
俺は携帯を畳んで、懐ではなくコートのポケットに入れる。キリンの大接近では咄嗟の対応が偶然上手くいったが、以降の動物で2匹目のドジョウを期待する
のは欲が深すぎる。次に見るクマなど肉食動物で同じようなハプニングが起こったら、歓声より悲鳴が起きそうな気もするが。
「晶子。この辺で交替するか。」
「はい、お願いします。」
キリンを見ていた時間は結構長かったがその間晶子は立ちっ放しだったし、クマでもめぐみちゃんが長時間見入る可能性がある。休憩も兼ねて抱っこを
交替しておくのが無難だろう。
抱っこを交替するに併せて、晶子に携帯のカメラの操作を確認する。起動そのものはキーパッドの右上にあるカメラのマークが描かれたボタンを押すだけで
良い。だが、カメラが実際に使えるまで若干タイムラグがある。それを忘れてボタンを何度も押しても何時まで経っても起動しないということもある。
「これで良いんですね?」
「そうそう。確認するまでもなかったな。」
「いえ。いざ撮影って時にカメラが使えないってことがなくなったんですから、安心しました。」
確認が終わってみると余計なお世話だったかと思うが、晶子に感謝されて安堵する。晶子が携帯のカメラを使うところを見たことはない。メール添付で写真も
やり取り出来るが、晶子は携帯では着信音こそ強い愛着があっても待ち受けやカメラ機能など画像関係には無関心に等しい。
多分、以前に俺の代わりに音楽雑誌を生協の店舗に引き取りに行った時に、押し寄せた人達に携帯のカメラを向けられたことが、携帯のカメラにある種の
敬遠意識を生じさせて今も続いているんだろう。俺はその現場に居合わせていないが、その時の晶子の写真が結構出回ったという話を聞いたことはある。
プライバシーを切り売りするタイプの芸能人ならいざ知らず、いきなり自分の写真を撮られて、それが自分の及ばないところで好き勝手使われることに普通
良い気分はしない。晶子の場合、その写真が後に、今は和解した吉弘さんが晶子に敵対心を抱くトラブルの遠因になった可能性がある。
大学の全ての男を自分に跪かせるなんて意気込みなど微塵もないのに、自分を踏み越えてそれを狙う女と勝手に敵対心の対象にされたんだから良い迷惑
だし、晶子にとっては俺に危害が及ぶことを気に病むことの方がずっと強いストレスになった。俺が携帯のカメラを使わなかった原因もそこにあるのかも
しれない。