雨上がりの午後

Chapter 254 臨時親子の旅日記(22)−動物園めぐり−

written by Moonstone

「−はい、おしまい。」

 晶子が締めくくる。絵本読み聞かせの最後もトラブルもなく無事に終わった。めぐみちゃんは歓喜で目を見開き、両脇に居る俺と晶子を交互に見やる。

「凄い凄い!やっぱりお父さんとお母さん、読むの上手だねー!」
「音読するなんて久しぶりだったけど、意外と上手く読めてたみたいだな。」

 高校までは国語と英語で教科書を音読する機会が時々あった。国語は現代文古文と形式は違うがどちらも日本語だから読めば何とかなった。問題は
英語で、そのまま読むと所謂「ジャパニーズイングリッシュ」になって、発音にうるさい先生だと指摘の嵐を受けるから厄介だった。今でもあまり英語の発音は
得意とは言えない。
 音読も演劇の経験があればもっと臨場感を出せたかもしれないが、俺が通っていた高校は演劇が盛んな換わりに部活動が忙しいことで有名だったから、
仮に入部していたらバンド活動は出来なかっただろうし、今更言っても無いものねだりでしかない。

「お茶でも飲みながら、これからのことを考えましょうか。」

 晶子が立ち上がって机に向かい、茶の一式を持ってくる。食膳を引き取りに来た時に茶の葉を新しいものに入れ替えてくれたから、出がらしの茶を飲む
ことはない。朝起きて食事を済ませたら速やかに出るものという認識が大小問わず宿にはあったから、こうして茶を飲んでゆっくり出来ること自体が新鮮だ。

「何処か行きたい所ってあるか?」
「んと・・・、何処でも良い?」
「何処でも良いよ。」
「えっとね・・・。動物園。」
「動物園?・・・京都にあるの・・・か?」

 これも固定概念や思い込みの1つかもしれないが、京都と動物園が素直に頭の中で結びつかない。そもそも京都に動物園があるのかすら断言出来ない。

「めぐみちゃんは行ったことあるの?」
「うん。去年の幼稚園の遠足で行ったよ。あんまり見られなかった。人がいっぱい居て。」

 嘘は言っていないと思う。幼稚園の遠足だから公共交通機関を使うとしても貸し切りバスだろうから、京都市内の何処かにはあるんだろう。

「お父さんもお母さんは何処にあるか分からないから、調べてみるね。」

 晶子は再び立ち上がって、床の間付近においてある荷物から観光案内を持ってくる。再び定位置であるめぐみちゃんの左隣に座り、観光案内を捲って目次
から調べていく。ページが何度か左右に捲られる。この観光案内に載ってないかもしれないな・・・。まず神社仏閣が思いつくだろうし・・・。

「ありますね。此処からだと割と近いですよ。」

 晶子が観光案内の該当ページを広げて見せる。神社仏閣、特に昨日見て回った金閣寺や清水寺といった有名どころのように複数ページにわたるものじゃ
ないが、きちんと見開きを使ってカラー写真を交えて紹介されている。固定概念や思い込みってものは知らず知らずのうちに出来てるんだな。
 地図からすると、道のりはどうだろう・・・京都御所までと同じくらいか少し近いくらいのところにあるようだ。これだと昨日の感覚からだと十分歩いていける。
これまた意外だし、思い込みの一種だろう。

「今日は開いてるか?こういう施設は平日休みが多いから大丈夫だと思うが。」
「ええ、大丈夫です。今日は開園していますよ。」
「よし、それじゃあ今日は動物園に行こうか。」
「うん!」

 京都御苑までの道のりとさほど変わらないとなれば、交通手段の把握が不十分だから歩いて行った方が早いかもしれない。それに俺と晶子はまだ滞在
2日目だし目的地もその日その時の気分で決められるような曖昧さや自由度の高さがあるが、めぐみちゃんはおばあちゃんが両親と併せて引き取りに来る
ため京都府警本部に今日の午後4時に出向くことが厳然たるリミットとして存在する。となれば、めぐみちゃんの希望を最優先するのが当然だ。
 同時に、京都の動物園がどんなものかという興味もある。寺社仏閣揃いの中でやや場違いな気もするが、よく考えてみれば日本の大都市である政令指定
都市−住所表記で市の名称に続いて○○区という名称がある都市の多くには動物園がある。新京市の近くだと小宮栄市がそれだが、小宮栄にも割と大きな
市営の動物園がある。東京にも−あそこは厳密には特別区だが−上野動物園がある。日本有数の大都市という視点からすると、動物園があるのは驚くべき
ことじゃない。どんな規模かどんな動物が居るのか興味の対象は色々ある。

「京都の動物園は歴史の長い場所だそうですよ。」

 晶子が観光案内の一部を指し示す。何々・・・「明治36(1903)年開園」・・・?!約100年の歴史があるのか。「全国2番目の歴史」・・・か。1位は多分上野動物園
だろうが、並居る寺社仏閣には及ばないにしても「長い」「伝統ある」と言える歴史ある施設なんだな。自分の思い込みや固定概念の誤りを率直に認めないと
いけない。

「どんな動物が居るかは、行って見てのお楽しみだな。」
「今日はお父さんとお母さんが抱っこするから、よく見えると思うよ。」
「うん!凄く楽しみ!」

 めぐみちゃんの純粋な意志から始まった動物園行きは、寺社仏閣で見落としがちな観光の穴場かもしれない。日頃動物を見る機会と言えばせいぜい
散歩で歩いている犬や物陰に素早く隠れる猫、雀と烏くらいだから、動物園でしか見られないような動物も見られるだろう。
 幸い今日も青空が広がっている。絶好の行楽日和でめぐみちゃんの夢を最後まで良いものにしてやりたい。

「行ってらっしゃいませ。」
「「「行ってきます。」」」

 茶を飲み終えた俺と晶子とめぐみちゃんは、仲居数名に見送られて宿を出る。並びは昨日と同じでめぐみちゃんを真ん中にして、俺が右側、晶子が左側に
立ってめぐみちゃんの両手を繋いで歩くというものだ。めぐみちゃんは勿論だが、この並びは晶子もお気に入りらしい。外へ出て直ぐにめぐみちゃんの左隣に
立って、率先してめぐみちゃんと手を繋いだくらいだ。
 動物園へは歩いていくことにした。観光案内では最寄のバス停など複数の公共交通機関によるアクセスが記載してあるが、仲居に確認したところ、今は
ピーク時からずれているが、大都市の宿命というべき道路交通事情はバスの遅延を頻繁なものにすると確認出来た。俺と晶子くらいの年齢なら、昨日と同じく
大通りを基準にして歩いて、昨日とは逆に南東方向へ向かうように意識して歩いた方が早いだろうしバスの混雑も避けられるだろうとも助言を受けている。
観光案内の地図で見たところ、まず鴨川に沿って南下した後丸田町通りを熊野神社前まで真っ直ぐ東に進めば良い。仮に通り過ぎても車と違って急な
180度方向転換も簡単だ。
 鴨川沿いはそれほど人は多くない。朝の散歩らしい年配層や犬を連れた人が散見される程度だ。鴨川沿いにある下鴨神社の祭りの時期になると、この
あたりも余波で相当な混雑になるそうだが、オフシーズンだから混雑の心配はそれほど必要ない。
 丸田町通りに出る。これを熊野神社前交差点まで東に直進か。これだけ分かりやすいと迷う方が難しい。通りの混雑はまだ加速していない。普段の生活から
するとこの時間の行動開始は遅い方だが、俺達の出足は早い方だと仲居が言っていたな。前にめぐみちゃんが動物園に行った時は身長もさることながら
混雑でよく見えなかったそうだし、混雑していない方が行動しやすいのは俺と晶子も変わらない。

「お父さんとお母さんは、動物園に行ったことある?」
「めぐみちゃんと同じくらいの歳に行った憶えがあるな。学校に通うようになってからは行ってないと思う。」
「お母さんも同じよ。」
「大きくなると動物園に行かなくなるのかな。」
「学校に通うようになると行動範囲や興味の対象がぐんと広がって、動物を見るのは図鑑とかで済ませるようになるからだと思うよ。」

 幼稚園や小学校低学年くらいだと動物園は憧れの対象だが、以降は急に疎遠になる。晶子も言うように、学校生活が始まると行動範囲が大きく広がるし、
何より学校がらみで学校以外でも拘束されることが多くなる。宿題やテストといったものだが、それらが加わると対処に時間を費やすし、動物の生態などは
理科や生物として学校で習う範囲に組み込まれるから、「教科書や資料集で見るから良いや」となるのかもしれない。
 中学以降だと家庭の範疇からある程度脱却する代わりに−干渉という形で束縛がなおも続く場合もある−学校における集団への同調圧力が強まる。
スクールカーストと呼ばれる序列もそこから生じるものだが、格段に成績が良いことや運動が出来ることの他に容姿が抜きん出て良かったり多数が同調しない
ものへの率先した排撃が出来る、つまりはボス的な行動を取ることが序列の上位階層に位置づけられる大きな要因となる。そんな価値観が支配する中では、
動物園で動物を観察することは蔑視や嘲笑の対象にはなっても尊敬の対象にはならない。授業は勿論クラブ活動などで学校における人間関係が大きな
比重を占める中学高校では、多数への同調圧力に与しないことは相当の勇気や存在感がないと不可能だ。だから動物園からより急速に疎遠になる。
 俺は中学では「成績は良いがさほど目立たない」存在だったからスクールカーストでは中層クラスだった。高校では「成績が良くてバンド活動で有名」な存在
という、スクールカーストから意図的に距離を置けた。そんな中でもスクールカーストを構成する多数への同調圧力と、その上層が排撃の対象とする下層クラス
への排撃ぶり−所謂いじめというものはなかなか凄まじかったのを憶えている。
 いじめは高校への進学を境に構内で話を聞く機会自体がなくなった。高校進学の段階で成績に基づく細かい選別が施される。スクールカースト上層もこの
選別である入学試験から完全に逃れることは出来ないから、上層もかなり分散してしまう。事実、俺もスクールカースト上層のうちの何名かと入学したが、顔を
合わせる機会も殆どなかった。
 分散されたところに他の中学から同様に選別された生徒と多数出くわす。その中で新たな序列であるスクールカーストが出来る下地はあるが、進学校だと
自分の成績を少しでも向上させることが最優先だから、学校でサルの群れのようなことをしてる暇は無くなる。それに熱を上げていても大半の生徒には
見向きもされないし、成績が悪ければ没落していく。
 スクールカーストと言うが、インドのカースト制度とは違って階層間はきわめて流動的だ。下層から上層への移動もあればその逆もある。進学校だと成績の
良し悪しが序列形成の最大要因だから、中学で上層だったことはせいぜい過去の栄光でしかない。俺と同じ高校に進学した中学でのスクールカースト上層も
殆ど全てが没落していったようだ。
 めぐみちゃんもスクールカーストに組み込まれる事態に直面するかもしれない。だが、もしそうなったとしても中学高校の6年、成績や進学先次第では中学か
高校の3年で消滅する、通用する世界の範囲もごく限られたものでしかないことに気づいて欲しい。気づかせられるのはやっぱり・・・両親だろう。

「じゃあ、お父さんとお母さんは久しぶりに動物園に行くんだね。」
「そうよ。めぐみちゃんが動物園に行きたいって言った時は京都に動物園があるのかってびっくりしたけど、今は楽しみにしてる。」
「お父さんも?」
「お母さんやめぐみちゃんと同じだ。」

 動物園に行くのは正味約10年ぶり、もしかしたらそれ以上の空白期間があるかもしれない。晶子も動物園行きの提案には驚いたようだが、今となっては
楽しみの方が多い。しかも一時の保護や代役とは言え、こうして子どもを連れて親子で行くなんて構図に自分が当事者として関わることになるとは・・・。
不思議だが、陳腐でも幸せな親子像の当事者であることは良いことだ。
 熊野神社前の交差点が見えてきた。観光案内のイラスト地図では車で来た場合の目印の1つになっていたくらいだから大きいのは予想していたが、丁度
俺と晶子とめぐみちゃんが向かう方向の信号が赤で、停車している車の数はざっと見ても週末に買い物に行く際に目にする混雑より幅が広くて長い。これだと
ある間隔で停車するバスがスムーズに動けないし、バスがスムーズに走れないことで後続の車が数珠繋ぎになる。渋滞が出来る構図が出来てしまっている。
 公共交通機関が充実している都市部でも渋滞が慢性的になっているのは、一方通行で流れを固定するだけでは回避や緩和が出来ない領域に達している
ように思う。都市の性質−繁華街と住宅街が混在している下町と再開発事業で繁華街と住宅街が分離・整理された町とでは勝手が違うが、渋滞解決の
究極は個人の車での移動を制限することだろう。
 車を所有するのは個人の自由だし、一律に制限や禁止とするのは大きな圧力や軋轢が考えられる。だが、都市部の機能を停滞させたり、最悪麻痺させる
−消防車や救急車が渋滞で現地到着が遅れるという話はそれほど突拍子もないことじゃない−ような渋滞なら、車の使用を公共交通機関や貨物関係に
限定して、その分公共交通機関を充実させることも視野に入れるべきだと思う。更には、地方から都市部、郊外より中心部という企業や官庁の立地志向にも
切り込まないといけないだろう。公共交通機関を充実させるだけで万事解決とは行かない。公共交通機関で運べる容量にも限度があるから、そこから溢れた
分はすし詰め状態や別の渋滞となって現れる。
 その典型例が、東京都心だ。見聞きする朝夕のラッシュは尋常じゃない。同時にそれが公共交通機関、とりわけ地下鉄が網の目のように張り巡らされた東京
都心で日常的且つ慢性的に発生していることに目を向ける必要がある。あの電車に人間を限界まで詰め込むラッシュや、そこまで酷くはないにしても新京市
から小宮栄方面への電車の朝夕の混雑も、バスよりずっと大量且つ高速輸送が可能な電車で発生して表面化している容量オーバーだ。
 電車の朝夕のラッシュを突き詰めていくと、人が混雑に遭ってでも行く必要がある場所−企業や官庁の立地場所に行き着く。学校も含めることが可能だが、
夏と冬に長い休みがある学生より社会人の方で考えた方が良い。企業や官庁の立地場所は規模が大きいほど大都市の駅近郊になりやすい。地価より
利便性を優先した結果だろうが、それが何の制御も無いまま集中し続けたることで立地の集中とそこで働く社会人の集中を齎す。渋滞やラッシュもそうだし、
都市部の過密と地方の過疎が並行して今尚進む現状でもある。第1次産業で生計が十分維持できない或いは企業や官庁で働く方が高収入なら、それらが
ある場所に人が集まるのは自明の理だ。
 立地の制御は企業や官庁任せでは不可能だ。どうしても「自分だけは」と利己主義に走ってしまうし、金にものを言わせることも可能だ。その制御を可能に
するのが都市計画だ。何処に何を設置するか計画して整備することで渋滞やラッシュを緩和したり、住環境の悪化も緩和できる。ところが、都市計画も機能
しているとはとても言えない。新京市でもそうだが、郊外に大型量販店が次々設置されることで、渋滞やそれに伴う住環境の悪化は変わらないし、それを制御
する様子は見られない。どうしたもんだか分からない。
 交差点を渡って南側に移動して、そのまま南進。次は確か・・・。

「『東山二条』っていう交差点で東に曲がるからね。」

 観光案内を持っている晶子が先に解説する。うろ覚えだが、俺と晶子とめぐみちゃんが歩いている道はバス通りにそったものでもある。東山二条交差点を
経由する路線バスに乗れば京都市動物園に到着出来るところを歩いているだけだ。
 東山二条か。東山は京都市の行政区の1つに同じ名称があるから、それと同じだろう。二条は・・・東山や九条っていう通りがあるから、北から順に数えた東西
方向の大通りの1つだろう。そう言えば確か二条と言うと・・・。

「二条っていう名前は、『にじょーじょー』と関係あるの?」

 俺の中で浮上してきた疑問は、今度はめぐみちゃんが先に口にする。京都の観光スポットや修学旅行での定番には二条城がある。名前と漢字からして、
二条通に隣接か近くにあると考えて良さそうだ。

「関係あるよ。二条城は二条通の直ぐ近くにあるから。」

 晶子が器用に左手1つで観光案内を捲り、京都市全体のイラストマップを広げて見せる。字が小さいから少し見づらいが、二条通を西にずっと進んでいくと
二条城の広大な敷地にぶつかる。これまた広大な敷地だな。

「この地図の左側の大きな場所を見てご覧。」
「えっと・・・、あ、『にじょうじょう』って書いてある。」
「その『にじょう』っていう漢字は、次に曲がる交差点の『にじょう』っていう名前の一部と同じなのよ。」

 観光案内の地図は、地図記号が使われて観光スポットなどの場所が名称のみという「地図」らしいものと、観光スポットの外観がイラストで描かれているものの
2種類がある。正確さを求めるなら前者、建物の雰囲気や連想を楽しむなら後者が良い。晶子が見せているのは後者だ。それには建物などの外観が
イラストで描かれている代わりに通りは代表的なものや目印になる有名な観光場所に隣接しているもの限定されている。
 建物などには外観のイラストの他、名称に振り仮名がつけられているものがある。京都だと振り仮名をつけるつけないの境界、つまり何処まで有名とか
代表的かといったことの線引きがおり難しいが、修学旅行の行き先になるような場所がおおよその目安になっているようだ。二条城は俺も小学校の修学
旅行で行って、歩くとキュッキュッとなる廊下−名前は失念−が名前のとおりだと少し感激した憶えがある。

「地名から建物の名前がつくんだね。」
「それは昔の有名な建物に限ったことじゃない。今でも・・・たとえばめぐみちゃんが通う幼稚園や、近くのアパートやマンションの名前は、それが建っている
場所の地名が含まれてると思うけど、どうだ?」
「んと・・・。あ、そうなってる。」

 二条城のように有名な場所や建物が特殊なように思えるが、実はそうでもない。俺と晶子の身近な例だと、住まいであるデイライト胡桃が丘の「胡桃が丘」は
住所「新京市胡桃町」から取られたもので、周辺住宅街−ちなみに所謂学歴ロンダリングにおける小中学生の一時転入先の1つらしくて高級住宅街の1つ
らしい−の総称でもある。新京大学も同じく住所の「新京市」と同一のもの。「新京」なる地名はずっと前からあって、新京市もずっと前からある。市町村合併時
でも「新京」の名を継承することは既定路線だったと聞いている。
 他にもアパートやマンションはその住所や地名の一部を連ねたものが多い。アパートもマンションも大家や建設業者にしてみれば大量生産品の1つだから
1つ1つに特有の名前を考える手間は掛けられないんだろう。一方借りるか買うかして入居する側はその建物の名称の特異性より間取りや利便性の方が
ずっと優先度が高い。住所や地名の一部を名称に加えることは、有名な建物だと高尚に感じるが実は「多数の建物の1つ」に使われる簡易な方法だと推測
出来る。

「昔の人や偉い人も、よく似たこと考えてたんだね。」
「名前をつけるってのはなかなか大変だからな。建物は建ったりなくなったりするから、それ専用の名前をつけるとネタがなくなっちゃうものあるんだろう。」

 名前の付け方は色々ある。姓名判断という名の占いに頼ったり願いを込めたり、単純に順番だったり、誰かの名前の全てや一部を引き継がせたり、その時の
流行の読みに漢字を当てはめたり。二条をはじめとする東西の通りは北から数えて1から順に当てはめていった単純な命名方式と言える。
 誰かの名前を引き継がせることは、海外では割と良くある。息子に○○Jrとつけたりするのは−俳優やスポーツ選手でよく見かける−代表例だ。日本では
主に父親の名前の一部を使うが、母親の名前を引き継ぐ事例は聞いたことがないし、祖父母の名前を引き継ぐことは祖父母が鬼籍に入っていればまずない。
理由は色々考えられるが、母親の名前、すなわち女性の名前がバリエーション豊かになってきたのは最近のことだというのもある。晶子のように○○子と
つけることが主流の時代が長く続いたし、もっと遡れば植物などの名前単体だったりして引き継ぐ候補となる漢字が少なかった。引き継がせようにもせいぜい
「子」くらいしか選択肢が無かったわけだ。
 祖父母の名前を引き継ぐのは、死者の名前を引き継ぐ可能性が高い。高齢化社会と言われる前は早婚早産だったから一律に孫が生まれる段階での
祖父母の生存確率が低かったとは言えないが、孫が生まれる前に死んでいる可能性は祖父の場合だと今でもそれほど珍しくない。祖父、両親のどちらかに
とっては実の父とは言え死者の名前をつけたり使ったりするのは縁起が悪いという連想が想像出来る。
 今だと、読みに該当する漢字を当てはめたのと流行の読みを混同した、人目では何と読んで良いか分からない名前が増えているそうだ。晶子がゼミの学生
居室から借りてきた育児雑誌の命名特集を読んで唖然とした。振り仮名がないと読めないものから、それは男(女)の名前には相応しくないだろうというもの、
果ては「何を考えてるんだ?」と疑わざるを得ないものまでバリエーション豊富だった。その雑誌の読者が結構多いというから更に唖然とした。
 「個人の自由」「カップルの自由」と「自由」を印籠にすれば異論反論を退けられる。だが、それで肝心の子どもはどうなるのか考えたことがあるんだろうか?
幼少期は些細なことがいじめのきっかけになる。名前もその1つだ。変わった名前はいじめの対象にされやすいことくらい、同じように幼少期を過ごした経験
から推測出来るはずなのに。
 読みにくい名前はそれだけ読み間違いを増やす。読めないとなればその都度説明する必要に駆られる。読みの説明は乳児くらいなら親がすれば良いが
学校に通うようになれば子ども自身がしなければならない。自分の名前が読まれないことの大変さや気苦労はそれこそ、結婚によって女性の姓が変わる
ことを差別として夫婦別姓を説く材料にする男女平等意識が浸透していれば容易に分かりそうなもんだが、どうも晶子の話などからして、女性にとって
耳障りが良い男女平等というものは、大切なはずの子どもの権利や人格といったものは女性の「自分らしさ」の前には呆気なく二の次に出来るもののようだ。

「お父さんとお母さんの名前って、どうしてそういう名前なの?」
「どうしてって・・・。」
「お父さんとお母さんの名前がどうやってつけられたのかってことね?」
「うん。」

 なるほど、そういうことか。めぐみちゃんの問いを額面どおりに受け取ると「そんな名前じゃなくても良かったんじゃないか」とある種見下したものになる。どう
応えれば良いか分からなかったところに晶子が上手く補足を兼ねたフォローをしてくれた。
 めぐみちゃんの語彙はそれほど多くない。俺も自慢出来るほど多くないが、めぐみちゃんは簡単に誤解を生む言い回しを何気なしに使ってしまうような
容量だ。意志の疎通には会話が必要なのは言うまでもないが、語彙も重要でそのレベルを相手に合わせて調整することもやはり重要だ。

「お父さんの名前の意味か。言われてみると・・・、何なんだろうなぁ。」
「ご両親から聞いたことはないんですか?」
「あるかもしれないけど、憶えがないんだ。それほどインパクトのある答えがなかったからだろう。」

 「ゆうじ」という名前は読みも響きも無難で、漢字の「祐司」も読みやすい部類に属する。特徴がない無難な名前だから、命名の理由は意外と後付けで
事足りるようなものなのかもしれない。
 特徴がないことが逆に特徴になることはままある。今まで面接−高校と大学でそれぞれ1回滑り止めの私立受験で経験した−など学校をはじめとする
日頃の生活で読まれないことや読み間違いをされることもなく、テストで自分の名前の漢字のややこしさにイライラさせられることも無く、無難に過ごせている。
親がどういう意図で「ゆうじ」という読みの名前「祐司」という漢字を当てたのかはやっぱり思い出せないが、少なくとも恨むことにはなっていない。

「でも、お父さんの名前は分かりやすい。」
「ありがとう。『分かりにくい』より『分かりやすい』方が良いもんな。」
「お母さんは?」
「お母さんは『水晶のように透き通った人間であるように』っていう願いを込めたものだ、って聞いたことがあるよ。」

 なるほど。だから水晶の漢字の1つである『晶』を使ってるわけか。願いを1文字に集約したとも言える。響きも良いし良い名前だ。

「『すいしょう』って、ガラスみたいな透明な宝石のことだよね?」
「よく知ってるね。お母さんの名前の漢字は、水晶の漢字の1文字が使われてるよ。」
「お母さんと同じで、綺麗な名前だね。」

 意図してのことではないだろうが、めぐみちゃんはなかなか上手いことを言う。名前の話題に入った時は「そんな名前に意味はあるのか」と半ば見下したよう
にも解釈出来たし、実際そう思いかけていた。今回はストレートな褒め言葉で晶子を喜ばせている−顔にはあまり出していないが雰囲気で分かる−。語彙の
不足から思わぬ方向に行き着く危険性もあるが、率直な表現で上手くいくこともある。言葉やコミュニケーションってもんは難しいな。

「お母さんは、名前の由来になった『すいしょう』っていう宝石、知ってる?」
「ええ、知ってるわよ。実物も見たことあるけど買ったことや持ったことはないわね。」
「どうして?」
「んー。欲しいと思わないから。それだけ。」

 晶子の宝石への興味は不思議なほど低い。宝石店は週末の買い物で行く先のスーパーの一角にもあるし、紅茶専門店もある大型量販店には確認した
だけで2店舗ある。店名が違う以外に何が違うのかよく分からないが、恐らく同じ建物の中で最も高価な品物を扱っている店の種類なのは間違いないだろう。
紅茶専門店の他に書店もあって、時々そこで晶子が本を買う。生協の店舗にはないものもあるからというのが理由。そこへの経路に宝石店の1店が隣接して
いるが、最初に見た時に晶子は歩きながら一瞥しただけで俺の方が戸惑うくらい呆気なく通り過ぎて、今は見ることすらしない。
 宝石店に足を向けない理由は簡単且つ明快。「宝石は欲しいと思わない」「欲しいものはもらった」。この2つだ。前者は付き合いが浅い頃から感じてはいた。
「見るだけでも良いから」まで達せず、俺の方が「見ないのか?」と問いかけるほど宝石に対する興味や関心は低い。後者は俺がプレゼントしたペアリング
−いまや結婚指輪になった指輪をプレゼントした頃から何度も感じているし、晶子本人が名言もしている。プレゼントしてから2年が経とうとしている今でも終日
填め続けるばかりか、料理をしている最中にふと見入ったりするなど、愛着は並々ならないものがある。これだけ気に入られるなら、指輪も十分満足だろう。
 以前−1年くらい前だろうが時期ははっきり憶えていない−、晶子は大学の講義の合間に、ふと見知らぬ女子学生2、3人から話しかけられたことがあると
聞いた。その女子学生達は晶子の指輪の話を聞きつけて、本人に直接確認しようと探したそうだ。女子学生から話しかけてくることに珍しさを感じながら
晶子の話を聞いていた。しかし、聞いているうちに嫌な気分になってきた。晶子の惚気話じゃなくて−嫌になる前に何度も聞いている−女子学生の言葉に。
指輪に宝石がないことを確認して値段を推測して晶子に問いただし、晶子が知らないし聞いても居ないと答え続けると、「宝石がついてないから相当安物」
「安物で釣られた」などと嘲笑気味に晶子と指輪を酷評し始めたそうだ。
 指輪の値段を聞く時点でどうかと思うが、自分のお気に入りの品を酷評されて気分を害さない方がおかしい。俺が晶子の立場だったら怒りを露にしていた
だろう。腹が立ったのは晶子も同じだったが、その対応を聞いて胸がすく思いがした。晶子はその女子学生達に一言こう言ったそうだ。

「貴方たちは、この安物に見える指輪を貰える立場の女性なんですか?」

 それは言い換えれば「真剣な付き合いの一環で指輪をもらえるような彼氏が居るのか?」ということだし、深読みするなら「貴方たちが貰う指輪は1回から
数回のセックスと引き換えの料金に過ぎない」という強烈な皮肉だ。
 俺の想像どおりその女子学生たちは凍りついて言葉を失い、晶子は軽く鼻で笑ってその場を後にしたそうだ。

「『すいしょう』って何で出来てるの?」
「うーん・・・。お母さんは知らない。お父さんはどう?」
「水晶は窓ガラスとかに使われてるガラスや、コンピュータの脳みそに相当する部品と同じもので出来てる。」

 晶子とめぐみちゃんは揃って驚く。無理もないよな。宝石の一種とその辺にあるものが同じもので出来てるなんて・・・。言ってしまって良いものかどうか少し
悩んだが、未知の材料で出来てるなんてSFみたいなことを言ってもめぐみちゃんを納得させられないだろうし、適切なたとえが見当たらないから事実を
率直に言うしかない。
 水晶はSi−珪素を主成分にしている。珪素はガラスの原料でもあるし、土や砂に大量に含まれている。エレクトロニクスの根幹を成す半導体もSi半導体と
言われるように珪素が不可欠だ。Siが半導体の材料として大量に存在することもエレクトロニクスの隆盛を語る上では欠かせない。いかに高機能な材料でも
高価だと手が出せない。大量生産による安価な工業製品にならないと、それを使っての製品開発は原資が回収出来ないから文字どおりの「夢」に過ぎない。
 「ガラスと同じ」だけではあまりにも呆気ないから、知っている限りの補足説明をする。ガラスは珪素が酸素と結びついた状態のもの−SiO2−で、安く大量に
使うために純粋さをさほど必要としないものを使っていること。一般に水晶といわれるものはSiO2が結びついた状態の中で結晶が大きくて純粋なものが掘り
出された時に宝飾品として使われることもある−ガラスとして使う場合は石英ガラスという特殊なガラスになる−こと。
 コンピュータの部品、正確には半導体といわれる材料にはSiを出来るだけ純粋な状態にする必要があって−その製造過程で異物が混じらないように
クリーンルームという特別な空間が設けられる−、その純粋なSiにごく微量の材料を加えることでプラスとマイナス−正確にはp型とn型の2種類の半導体が
出来ること、この2種類を基礎に様々な機能を持つ電子部品が作られ、それを出来るだけ小さい面積に多量の機能を封じ込んだものがコンピュータの
脳みそに相当するCPUや、高機能な家電製品の脳みそや手足になるマイコンと呼ばれる部品になること。

「−こんなところ。かなり端折ったけど。」
「凄ーい!窓ガラスと同じものから、そんなものが出来るんだー!」

 めぐみちゃんの驚きが別の種類に変わる。身近にあるものがある処理や工程を行うことでまったく異なるものに変貌して、それが便利で快適な生活を形成
するものに不可欠だったと分かれば、驚きは水晶=ガラスと知った時のものとは違ったものになるだろう。

「お父さんは、そういうものを作れるの?」
「作り方の基本は知ってるけど、実際に作るには昨日の仏像−仏様を象ったものを作る時のような特別な場所や技術が必要になるから、直接は作れない。」
「そうなんだ。でも、必要なものが揃えば作れるって凄いよね!」

 半導体の作り方である半導体工学は物理学にかなり近い理論工学の一種だ。大学の講義では選択科目の1つだったが、最低限燃料と言う意味ではない
エネルギーの概念と量子力学の一部くらいは知っていないと理解のしようがない内容で、試験でも随分梃子摺らされた。
 理論工学に割と近い分野は材料物性だ。LEDや有機EL(註:有機ELとLCD(所謂「液晶」の大まかな違いは素子自身の強い発光があるかどうかで、LCDは
発光が弱いのでバックライトで文字どおり背後から照らす)の新規材料の開発や電気的特性の測定を行う分野で、学生実験では実験が単調且つ面倒で、
しかもやり直しとなると事実上最初からになることが多く、嫌がられる分野でもある。
 一方で、研究室は大掛かりな実験設備を揃えているところが多い。学生実験の口述試験の後で見かけて研究室の学部4年の人に解説してもらった真空
チャンバーやポンプ(註:真空チャンバー内部の空気を吸い取って真空を作るために必要で通常複数台使う)、数百Vの高電圧や数μAの小電流が出せる
電源、抵抗値やコンデンサの容量を測るマルチメータや、果てはレーザーや小型クリーンルーム、電子顕微鏡まで色々あるそうだ。
 どれも1台数十万が最低価格で、数百万数千万という額に達することも珍しくないこれらの機器は、合成や実験・測定で当たり前のように使う。新規半導体
材料の設計までしている研究室もあるから、何処かで見た覚えがあるクリーンルームに入る時には異星人のような服装に身を包む。勿論取り扱いには注意が
必要だが、そういった大掛かりな研究・実験装置を扱いたいとか新しい電子材料を創りたいとかなら材料物性関係は良いと思う。

「あそこに見えてきた交差点で左に曲がるからね。」

 晶子が観光案内で指し示す東山二条の交差点には、南北方向の通りが信号待ちだ。その車列の中にはバスも混じっている。観光案内にあった動物園の
アクセスでは東西方向、つまり二条通りを走るバスを使うとあった。あのバスは昨日行った清水寺へ向かう方向だな。
 交差点を渡って東へ進む。次第に人が多くなってきた。オフシーズンで他に有名どころが幾つもあるとはいえ大きな動物園だから、小さな子ども連れだと
こちらを選ぶだろう。・・・他人事のようだが俺と晶子も今の状態はまぎれもなく子ども連れなんだよな。

「たくさん人がいると、遠くが見えなくなるね・・・。」
「それなら大丈夫。お父さんかお母さんが抱っこしたり肩車したりするから。」

 以前十分見られなかった残念な思い出が蘇ってきたんだろう。今は身長がずっと高い俺と晶子が居るから、抱っこでもかなり視線が高く出来る。肩車だと
さらに高くなるが、俺はしたことがないからちょっと不安だ。

「場所を変えて見やすいところを探すってことも簡単に出来るから、心配しなくて良いよ。」
「うん!」

 動物園に来て動物が見られないのはやっぱり寂しい。めぐみちゃんは次に何時来られるか分からないから尚更だろう。時間制限があるとは言え、できる限り
色々な動物を見せてやりたい。たいして高くない俺の身長も少しばかりは役に立てる筈だ。
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