雨上がりの午後

Chapter 223 節目の言葉

written by Moonstone


 朝、か・・・。昨日までの疲れが一気に出たのか、目は覚めたがまだ頭にかなり深い霧が垂れ込めている。・・・!そういえば、晶子は?!
隣を見ると、晶子が同じ布団でこっちを見ている。うつ伏せで両肘を立てた俺を見詰めるその顔は、長い髪がベールのように少し隠している。

「居た、な・・・。」
「もう逃げない、って約束しましたから・・・。」

 思わず漏れた安堵の溜息に晶子が微笑みを浮かべて応える。いきなり俺の家から出て行った朝も、夜の営みを終えた後からずっと起きていて俺を見詰めていた、って
潤子さんから聞いた。あの時は忽然と消え失せた姿が今は間違いなく目の前にある。

「隣で寝ている祐司さんの顔を見ていて、私はどうして祐司さんを、私の夫を放り出して家出したんだろう、って後悔してました・・・。」
「起きてたのか?昨日も。」
「はい。今度祐司さんが目を覚ましたら、隣に私が居るのを確認してもらうのも兼ねて・・・。」
「この家に居れば5分かからずに確認出来るんだから・・・。」
「御免なさい。でも、祐司さんを3日間不安にさせておいて、のうのうと寝ている気にはなれなくて・・・。」

 時には不要なほど律儀になるんだよな、晶子は・・・。今度吐いた溜息は呆れ混じりの溜息。まあ、この前みたいに忽然と姿を消したんじゃないからよしとするか。

「朝ご飯、作りますね。何が良いですか?」
「ご飯が良い。」
「はい。」

 晶子が居ない間はずっとパンだったから、ご飯をリクエスト。晶子は一つ返事で受けてベッドから出る。
前に流れ落ちた髪をかき上げてから、掛け布団に広げてあった上着を羽織ってキッチンへ向かう。朝飯が出来るまでもう一眠りとはせずに、俺もベッドから出る。
上着を羽織ってからカーテンを開ける。南向きの部屋の窓から差し込む光の量はあまり多くないが、何時もよりずっと明るく感じる。

「祐司さん。」

 晶子の声で振り向く。エプロンを着けた晶子がキッチンから来る。

「昨日戻る前に、マスターから渡されたものがあるんです。」
「何だ?」
「翌朝祐司さんに私が居ることを確認してもらってから開けるように、って言われたので、私も中身は知らないんです。ご飯を炊く準備はしましたから、こちらを開けますね。」

 晶子はボストンバッグから封筒を取り出す。かなり厚みがある。俺が手渡したカッターナイフで晶子が封を切る。晶子が驚いた様子で目を見開く。切った封の中身を
見られる晶子は中身によっては驚くかもしれないが、俺は見えないから分からない。

「どうした?」
「祐司さん、これ・・・。」

 晶子が封筒の中身を見せる。まさかと思いながら封筒の中身を取り出す。2種類ある中身。1つは見れば直ぐ分かるもの。これに驚いた。もう1つは折り畳まれている。
俺は広げて見る。・・・驚きのあまり何と言って良いか分からない。晶子に広げた「それ」を見せる。晶子も封を切った時より驚いた様子だ。

「・・・晶子。朝飯の準備ってどのくらい出来てる?」
「・・・あ、ご飯を炊飯器に仕掛けたところで、それ以外はこれからしようかと・・・。」
「・・・じゃあ、行くぞ。マスターと潤子さんの家に。」

 俺は封筒に中身を仕舞い、急いで着替えてコートの内側に仕舞う。落とさないように仕舞ったポケットのボタンを填める。晶子も着替えてコートを羽織る。
顔を洗って髪を梳いて、鏡で見繕いを確認してから揃って家を出る。向かうはマスターと潤子さんの家、渡辺夫妻の家だ。封筒の中身、特に折り畳まれて入っていた方の
真意を尋ねるために。
 通勤ラッシュのせいか−時刻を見てないから知らない−車や人通りが多い中、俺と晶子はそれと逆らう方向に歩く。否、走る。やがて見えてきた小高い丘に佇む
洋風の白い建物。普段出入りする店とは正反対の位置にある、渡辺夫妻の家の玄関に回りこむ。逸る呼吸を抑えながらインターホンを押す。

「はい。」
「おはようございます。祐司と晶子です。」
「早速来たのね。今開けるからちょっと待ってて。」

 潤子さんは俺と晶子が来るのを見込んでいたようだ。程なくドアの鍵が外され、ドアが開いて潤子さんとマスターが顔を出す。

「おはよう。お二人さん。」
「おはようございます。」
「おはようございます、マスター。昨日晶子が渡されたっていう封筒を開けたんですけど・・・。これって・・・。」

 俺はコートの内側から封筒を取り出し、折り畳まれていた方を封筒から取り出して広げる。封筒に入っていたものは、片方が封筒の厚みを形成していた1万円札の束。
もう1つ、否、もう1枚は・・・婚姻届だ。しかも証人の欄にはマスターと潤子さんの本籍・住所・氏名の記入と押捺がなされている。

「片方は祐司君が今手に取っている婚姻届。もう1つは結婚の事実発生に向けた、俺と潤子からの祝儀だよ。」
「祝儀って、こんなに・・・。これだけ厚みがあるってことは相当な・・・。」

 マスターが祝儀と言った札束の厚みは優に1cm以上ある。10万以上あることは間違いない。
祝儀の相場は知らないが、高校時代に従兄が結婚した時に父さんが5万包んだ。甥の、しかも本家の長男の結婚だったからそれなりの額にしたのかもしれないし、
祝儀にしてはあまりにも多い。

「2人共、試験期間中も休まず存分に働いてくれたからな。おかげで店の経営は順風満帆そのものだし、オーブンや紅茶の元も十分取れたんだ。特に祐司君は
厳しい条件下で受講した講義を1つも落とさずに進級を決めたんだから、これくらいしないと罰が当たる。」
「そうそう。大学の春休みの間、2人で旅行にでも行ってらっしゃい。お店は3月いっぱいお休みにしたから。」
「え?!日曜にそんな告示は見た憶えはないですよ。」
「経営者がお休みにしちゃえばお休みに出来るのが、自営業よ。お店のドアにはちゃんと張り紙しておいたし。」

 張り紙すれば良いってもんじゃないと思うが・・・。良いのか?いきなり休みにして。
2人の署名と押捺がなされた婚姻届を同封した札束は、さっきの潤子さんの言葉と合わせれば3月までに2人で新婚旅行をして来いという意図だと俺でも分かる。
そう、婚姻届だ。証人2名の署名と押捺があるから−夫婦でも問題ないと聞いたことがある−、後は俺と晶子がそれぞれの欄を記入して判を押して役所に提出すれば、
法律上でも結婚したことになる。出せって・・・ことだよな?

「2人は本籍まで新京市に移してないだろうから、婚姻届の提出には戸籍謄本が必要だ。それぞれの本籍地の役所に申し込めば郵送で取り寄せ可能だから、わざわざ
本籍地に出向く必要はない。」
「・・・マスターと潤子さんが署名と押捺をして、このお金に同封したってことは・・・。」

 俺は俄かに高鳴りだした胸の鼓動を感じながら、少しでも落ち着かせるために一呼吸置く。

「・・・晶子と結婚しなさい、ってことです・・・か?」
「私は、祐司君と晶子ちゃん以外のために書いて印鑑を押した憶えはないわよ。ね?あなた。」
「ああ。」

 直接肯定はしないが、俺と晶子を名指ししての答えは、残りの欄に俺と晶子がそれぞれの事項を書いて役所に提出するために婚姻届を用意した、と言っているのと同じだ。

「双方の親に承諾を得ないといけない、なんて思う必要はないわよ。」

 婚姻届に見入っていたところに潤子さんが言う。

「前にも一部は少し話したかもしれないけど・・・、私とマスターが結婚した時に一応それぞれの実家に挨拶に行ったんだけど、私の実家は結婚に猛反対してね。
結婚は双方の合意のみで成立するものだ、って言い張ったら私とマスターは追い出されて、私は実家を勘当された。ついでに戸籍からも除かれたのよ。」
「戸籍も・・・ですか?」
「ええ。お前は家(うち)の子どもでも何でもない、って補足されてね。」

 OLをしていた潤子さんは、ジャズバーを席巻していたマスターと結婚した際、実家を勘当されたとは前にも聞いたことがある。だが、戸籍まで除かれたというのは
初めて聞いた。勘当の意味が「二度と実家に来るな」どころか「お前は○○家の人間じゃない」と法律上でも突き放されたことなんて、今の時代にあるのか・・・。
 それでも潤子さんはマスターと結婚することを選択した。そしてこの地に店を構えてやりくりして来た。俺と晶子がバイトするようになるまで、バイトを募集するだけの
余裕が生じるまで経営を軌道に乗せるに至った。文字どおりの二人三脚で結婚生活を続けてきた。
確かに、俺も頭の何処かで結婚の際には双方の実家に出向いて承諾を得る必要がある、と思っていた。結婚は双方の合意によってのみ成立する。中学高校の公民や
倫理の授業で出た民法の条文は、こういうところで自分達の課題として直面するもんなんだな。

「結婚記念日は、法律では婚姻届が受理された日になる。俺と潤子は先に役所に婚姻届と戸籍関係の書類を提出して、後で会費制の結婚式を挙げた。双方の仕事仲間や
友人が集まった質素なものだったが、双方の家や親戚の顔色伺いや探り合いとは無縁の和やかなものになった。」

 当時を思い出したのか、しんみりした口調でマスターが話す。
マスターの実家は2人の結婚をどう思ったのかは分からないが、少なくともホテルで盛大に披露宴、とはならなかっただろう。だけど、マスターは潤子さんと、
潤子さんはマスターと結婚出来たことそのものが幸せで、今も夫婦生活を続けている。二人三脚で。マスターと潤子さんは俺と晶子が見習うべき先輩であり、その人生は
生きた教材であり模範でもある。

「・・・直ぐ提出は出来ません。戸籍謄本の取り寄せもありますし、何より・・・。」
「「「・・・。」」」
「・・・晶子へのプロポーズがまだ済んでませんから。」

 婚姻届の提出が法律上での結婚、夫婦関係を構築するものだが、法律の裏づけがあるかないかに絞れば定型書類1枚に纏わる形式的なものだ。
晶子が先行して既成事実化を進めてきた俺と晶子の関係に限定して言うなら、プロポーズは婚姻届の提出より形式的だ。それこそ、プロポーズせずに婚姻届に必要事項を
書いて提出すれば完了と相成る。
 だが、婚姻届の提出はプロポーズをしてからにしたい。晶子が望んでいるのもあるが、今まで既成事実の積み重ねで出来てきた俺と晶子の結婚、夫婦関係を法律的に
裏付ける前のけじめとして、しておきたい。戸籍謄本の取り寄せにどれくらい時間がかかるか分からないから、婚姻届の提出時期は今のところ未定だ。
だが、プロポーズは何時でも出来る。・・・今からでも。

「何時提出するかとかはそれこそ2人の問題だから、2人で相談しなさいね。晶子ちゃんは昨日も言ったとおり、自分の気持ちに自信を持ちなさいね。祐司君はちゃんと
決心してくれてる。間違わないか大丈夫かと必要以上に考えちゃうこともあるけど、答えを出すまで待っていれば大丈夫だから。」
「はい。」
「晶子が迷惑をかけて、すみませんでした。それと・・・ありがとうござます。」
「どういたしまして。」
「済んだら、改めて報告してくれ。」
「「はい。」」

 マスターと潤子さんの厚意はありがたく受け取っておく。晶子絡みであれだけ迷惑を被ったのに嫌な顔さえしないマスターと潤子さんは、俺と晶子が最大の手本と
すべき存在。その2人が証人になってくれた婚姻届は、役所に提出する日まで大切に保管しておこう。提出より先にすべきことがある。

 マスターと潤子さんに改めて礼を言った後、俺は晶子を連れて小宮栄方面の普通電車に乗った。偶々直ぐ来たのが普通電車だったからで、普通電車でなければ
いけなかった理由はない。降りた駅は柳ヶ浦。夏になると海水浴客で賑わう界隈は、オフシーズンということもあって静まり返っている。
 俺は通りを真っ直ぐ進んで、海岸に出る。潮風がまだ冷たく感じる海岸には誰も居ない。隣を見る。晶子は風になびく髪を軽く押さえながら、俺を見ている。
どうして俺が「行きたいところがある」と言って駅に向かったのか、どうして柳ヶ浦で下りたのか、どうして此処に来たのか、知りたいことはたくさんあるだろう。
それにはこれから答える。

「晶子・・・。憶えてるか?付き合い始めて間もない頃、此処に来たこと・・・。」
「あ・・・。ええ。憶えてます。」

 少し間があったが、憶えてはいたようだ。最初に2人で遠出−というほどでもない距離だが−して来た場所が冬の海岸だったのは、ロマンの欠片もない俺らしいと
いえば俺らしい。

「あの時何を話したかまでは憶えてない。けど、今日まで・・・色んなことがあったよな・・・。」
「はい・・・。」
「付き合い始めて最初に来た場所が此処だったから・・・、区切りには丁度良いかと思って・・・、晶子を此処に連れてきたんだ・・・。」

 俺は晶子の肩を両方掴んで、身体の向きを90度右に回して俺の方を向かせる。少し驚いた様子の晶子と向かい合う。気付かれないように控えめに深呼吸する。

「晶子・・・。」
「・・・はい。」

 じっと俺を見詰める晶子の瞳を見ていると吸い込まれそうだ。締めの一言を言おうと思うが、晶子を目の前にして緊張が高まる。硬直した喉を強引に動かして言葉を紡ぐ。

「・・・結婚・・・しよう。」

 口にした瞬間全身が熱く火照るのを感じる。
晶子の既成事実積み重ねによる結婚関係を法的に裏付ける第一歩でもあり、けじめの一言でもあるプロポーズを先にしておきたかった。田中さんの行動に翻弄されて
雲隠れした晶子に自信を与えるには、これが一番だと思った。深く考えるより先に身体が動いた。
 晶子の瞳が一気に潤み、涙が零れ始める。俺を見詰めたまま涙を流す晶子の心が分からないから、反応を待つ。

「まさか・・・、こんなに早く・・・言ってもらえるなんて・・・思わなかった・・・。」
「返事は・・・?」
「よろしくお願いします。」

 晶子はゆっくりと、はっきりと返答してから口を押さえて一礼し、俺の肩に額を乗せて嗚咽を続ける。泣き声を出すと大声になってしまうと感じたから、
口を押さえたんだろう。
晶子は俺の肩で泣き続ける。俺はその場に突っ立つ。抱き締めたり出来れば良いんだろうが、まだ全身の強い火照りと喉の硬直が消えないから、こうするしかない。

「婚姻届の・・・提出だけどさ・・・。」

 晶子の嗚咽が続く中、ようやく全身の火照りと喉の硬直が収まってきた。俺は突っ立ったまま顔だけ晶子の方に向けて−さっきまでそれすら出来なかった−
法的根拠を確定させる段取りを持ちかける。

「戸籍謄本の取り寄せにある程度時間がかかるから・・・、3月いっぱいはちょっと難しいと思う。だから・・・、4月に入ってからにしようと思う・・・。」

 晶子は嗚咽を続けながら頷く。泣いていて話が聞こえてないかと思ったんだが、独り言にならずに済むようだ。

「提出した日が・・・結婚記念日になるって言ってたから・・・、5月4日にするか?晶子の誕生日の。」

 俺の提案に、晶子は意外にも首を横に振る。続いて顔を上げる。涙に濡れた頬が光を受けて輝く。綺麗でもあり見ているのが辛くもある。

「私の誕生日だと・・・私に特化された日になってしまう・・・。2人の記念日には・・・相応しくないです・・・。」
「じゃあ・・・どうする?」
「10月11日・・・。祐司さんと私が出逢った日・・・。その日にしてほしいです・・・。」
「10月だと半年も先になるぞ。」
「そうさせて・・・ください・・・。」

 女の誕生日を結婚記念日にするのが多いと随分前に聞いたことがあるから、晶子の誕生日を婚姻届の提出日、すなわち結婚記念日にするかと思って言ったんだが、
共通の日の方が良いよな、やっぱり。俺と晶子が出逢った日である忘れもしない10月11日が、結婚記念日に一番相応しいだろう。

「じゃあ、10月11日にしよう。それまで待てるか?」
「提出は・・・待ちます。」
「提出は、って・・・?」
「一緒に・・・居させてください・・・。」

 事実婚状態を続けさせてくれ、ということか。
俺は晶子が居て困ることはない。一緒に住んでいて1人になりたいと思うことはなかったし、晶子が居ない間に独りを持て余すことが分かった。晶子も俺が帰省して
居ない間が長かったと言っていた。独占欲が強い者同士、出来る限り一緒に居る方が丁度良いのかもしれない。

「晶子の家は、どうする?今の状態だと、倉庫か物置みたいな感じになるが・・・。」
「良いです・・・。今のままで・・・。祐司さんと・・・一緒に暮らしたい・・・。」
「・・・。」
「それだけなんです・・・。」

 晶子はそれだけ言うと、再び口を押さえて俺の肩に顔をうずめて嗚咽を漏らす。
晶子の言葉には訴えと言うか何と言うか、そんな切実なものを感じた。晶子が俺と一緒に暮らして何か得すること、メリットなるものがあるか?
・・・考えるだけ損だな。メリットや損得勘定で考えるなら、俺よりもっと金持ってる奴の方が良いだろう。日々あくせく働く必要もないし、物欲を満たせる。
自分のステータスにもなる。
 宏一が言ってたな。晶子はメリットや損得勘定といった計算から俺を追い続けているんじゃない、って。どうしてここまで俺との結婚や一緒に暮らすことを
切実に望むのか分からない。独占欲が強いということくらいしか分からない。だけど、「好きだから一緒に居たい」のは同じだ。
 恋愛や結婚に「好きだから」「愛してるから」以外の要因を持ち込むと、ろくなことにならない。「好きだから」「愛してるから」。それで良いじゃないか・・・。
十分じゃないか・・・。

結婚して、一緒に暮らす理由は・・・。


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