雨上がりの午後
Chapter 224 今始まる2人の旅路〜そして春の京都へ〜
written by Moonstone
ようやく泣き止んだ晶子と一緒に帰宅。帰宅先は俺の家。随分遅くなったから昼飯と兼ねた朝飯を済ませてから、マスターと潤子さんに署名押捺してもらった婚姻届に
必要事項を記入していく。封筒の中を改めて確認したら、マスターと潤子さんが書いたらしい、赤インキによる書き方アドバイスを施されたもう1枚の婚姻届が入っていた。
それを見ながら書いていく。
まずは俺から。氏名と住所−今俺と晶子が居る場所−を書く。住所は書き方を略しちゃ駄目なのか。本籍もそうらしい。これは戸籍謄本を取り寄せて確認しないと、
マスターと潤子さんの署名押捺を無駄にしてしまうことになる可能性があるから、とりあえず空欄にしておく。
「新しい戸籍は新居の住所、か。・・・此処で良いよな?」
「はい。」
晶子の家があるマンションは女性専用だから新居の住所には出来ない。一緒に暮らす場所が此処なんだから、此処にしておくのが自然だろう。俺が今のところ
書けるのはここまでだな。あ、初婚と再婚の別がある。勿論初婚だから「初婚」にチェック。これで良いか。晶子にペンと婚姻届、マスターと潤子さんが作ってくれた
見本を渡す。
晶子が記入を始める。まず書いていくのは氏名とマンションの住所。距離は近いんだが町というのか区切りというのか、それが異なる。何れにせよ新京市であることには
変わりない。並べて見ると俺と晶子の筆跡の違いが鮮明だ。晶子の方が綺麗なのは言うまでもない。
俺があえて空けておいた「姓の選択」欄。夫の姓か妻の姓かどちらかを選べる。晶子は迷わず「夫の姓」にチェックをする。年末年始の旅行で改姓の話が出た時、
晶子は今直ぐにでも「安藤」に変えたい、と言っていたが、本当にそうらしい。晶子も「初婚」にチェックする。・・・ちょっと安心。見本と照らし合わせて、本籍以外の
項目を記入していく。
「同居を始めた時ってのがあるな。これは・・・何時だ?」
晶子が俺の家に住み着くようになったのは2月から。3月は昨日までの3日間を除いて完全に住み着いていた。押しかけ女房そのものだったから、何月何日からという
明確な区切りがない。
「此処、2月1日からにしておくか。」
「はい。それで良いです。」
晶子は住み着くようになった日を憶えてるかと思ったんだが、流石に無理だった。2月からほぼ一緒に暮らし始めたのは間違いないし、これは結婚記念日にならないから、
切の良い2月1日で良いだろう。俺が記入する。最後は・・・届出日。「ここに記載した日が結婚記念日になる」と見本にもある。此処は今年の10月11日を記載しておく。
・・・これでよし。これでひととおり書き終えた。あとは本籍地から戸籍謄本を取り寄せて、10月11日が結婚記念日になるように届ければ良い。
「出来た、な。」
「はい。」
「これは提出する日まで保管しておくとして・・・、突然だけど、旅行に行かないか?」
当たり前かもしれないが、晶子は驚いた顔をする。だが、それは一時。次第に表情が嬉しさで満たされていく。プロポーズの後、婚姻届を書いた直後に旅行の話を
切り出せば、思いつくのは「新婚旅行」だよな。俺もそれをイメージして持ちかけた。
「行きたいです。」
「何処が良い?」
「祐司さんとなら、何処でも良いです。」
予想出来た答えが予想したとおりに返ってくる。俺と一緒に居られることそのものに幸せや生き甲斐を見出すんだから、場所は問わないと予想出来た。
だが、この答えは一方で行先を決め難いという欠点も抱えている。宛てのない旅っていうのは、場合が場合だから流石に避けたい。
「此処に行きたい、ってところはあるか?」
「ん・・・。強いて挙げるなら・・・京都、ですね。」
具体的な地名が挙がる。京都、か。俺は中学校の修学旅行で行った1度だけ。確か晶子は高校の修学旅行で行ったんだったな。紅葉の季節だったそうだから、
混雑で満足に見られなかったところとかをゆっくり見たいんだろうか。
「祐司さんはどうですか?」
「京都か。良いな。」
「宿、取れるでしょうか・・・?」
「宿は伝(つて)があるから、今から電話する。」
旅行で最も懸念される事項は宿。京都だと尚のこと難しい。それに関しては宛があるから、旅行の話を持ちかけた。宿の手配先に電話をかける。携帯じゃなくて
固定の方でかけるのは久しぶりだ。コール音は4回目が終わったところで切れる。
「はい、伊東です。」
「あ・・・、安藤ですけど、そちらは・・・。」
「安藤君かぁ。分かる?智一の従妹、吉弘よ。」
女性の声が聞こえてきたから電話番号を間違ったかと思ったが、誤解は向こうから解かれる。休みに家に押しかける、って智一が前に言ってたから、大学が休みの今は
頻繁に出入りしてるんだろう。この前の年末年始に耕次達と旅行に行った際、耕次からの電話を晶子が受けて、晶子が少し当惑するような応対が見られた。その時の
耕次の心境が今の俺の心境なのかもしれないな。「俺は男友達の家に電話をかけたはずなのに、何で女が出るんだ」と。
「吉弘さんですか。間違えたかと。」
「驚かして御免ねぇ。智一に代わるから、ちょっと待って。」
電話越しに聞く久しぶりの吉弘さんの声は明るい。智一が呼ばれ、足音が近づいてくる。
「来たか、祐司。宿の手配だろ?」
「分かるのか。」
「祐司から電話してくることって言ったら、今は宿のことしか思いつかねぇからな。で、場所は?」
「京都にしたいんだ。宿、取れるか?」
「勿論だ。ロケーションも色々ある。どの辺が良い?」
「どの辺って?」
「主要な観光スポットに近い場所とか、景色の良いところとか、そういうことだ。」
話が宿の手配の可否をすっ飛ばして場所の選択にまで進行したのはありがたいが、場所まで選べるとは思いもしなかった。それにどの辺が良いのか選択肢が
ありすぎて困る。嬉しい悲鳴とはこういうことを言うんだろうか。
「ちょっと待ってくれるか?晶子に聞いてみるから。」
「勿論OKだ。」
智一の了承を得て、受話器を押さえて晶子に向き直る。
「晶子。場所を選べるらしいんだけど、この当たりが良いとか希望はあるか?」
「選べるんですか。じゃあ・・・あればの話ですけど、鴨川のほとりとか。」
「鴨川のほとりか。良い場所らしいけど、どうかな・・・。とりあえず聞いてみる。」
顔を受話器に戻して智一との通話を再会する。俺も鴨川のほとりが京都観光の名所の1つで、宿も多いことは知っている。だが、そんな場所が体よく空いているとは
思えない。まだ若干時期尚早とは言えそろそろ桜の季節。それを見越した客の予約が入ってるだろうし。
「待たせた。鴨川のほとりが良いかなってことで俺と晶子の意見は一致してるんだけど、どうだ?」
「ちょっと待て。検索してみる。」
「検索?」
「俺の家はLAN完備だって。電話はコードレスだからこのまま待ってろ。」
足音に続いて、PCのキーボードを叩く音が少し聞こえる。智一と吉弘さんが住んでるマンションはLAN完備だから、PCがあればネット接続し放題だ。
日頃ネットが使用出来ないことに不便は感じない。便利だろうとは思っていたが、旅行代理店に問い合わせた旅館を手当たり次第にあたるよりずっと早いだろう。
そういえば、年末年始の旅行の宿の手配でも勝平がネットで済ませたな。あると何かと便利だろう。大学の共用PCを使っていてもそう思うことがある。結婚指輪になった
晶子とのペアリングもネットで調べて存在を知ったものだし。
「おー、あるある。」
「あるのか?」
「俺の親父と順子の父さんが経営してる会社のグループ傘下の旅館だから、会社の関係者以外基本的に使えないからな。で、和室洋室どちらが良い?」
「和室か洋室か、か・・・。」
晶子にも分かるように言ってから晶子を見る。晶子は無言で小さく頷く。俺が決めてくれという意志表示だと受け止める。京都に行くんだからやっぱり・・・。
「和室を頼む。」
「あいよ。で、何時から何泊する予定だ?」
「1泊幾らだ?そっちの兼ね合いもあるからな。」
「そりゃもっともだな。えっと、朝晩の食事つきで1人1泊5000円でどうだ?」
「5000円?!随分安いな。」
「役員割引っていう奥の手を使うとこういうことが簡単に出来る。フロントに身分証を提示するのが条件だ。晶子ちゃんもな。泊まるのが祐司と晶子ちゃんだと
分かるものなら、身分証は免許証でも大学の学生証でも何でも良い。先にフロントに言っておく。」
「悪いな、智一。」
「俺とて、言ったことはそれなりに実行するつもりだぜ?で、何泊する?」
「今日から来週の日曜まで、ってのは可能か?」
「OKだ。和室を来週の日曜まで1室確保、で良いか?」
手配の条件が改めて提示されたところで、晶子の方を向く。晶子はここでも無言で頷く。委任の意思と受け取った俺は決断する。
「それで頼む。」
「OK。じゃあ、手配しておく。・・・よし、完了。アクセス方法と場所を言うからメモしておけ。」
「分かった。ちょっと待ってくれ。」
智一から宿へのアクセス方法と場所を教わり、晶子から手渡されたメモ用紙に書きとめて復唱し、確認する。呆気なく宿の確保は出来た。しかも今日の晩から。
準備はあるが構わない。着替えと金と身分証を適当に詰め込んで出発すれば良い。
「ありがとう、智一。」
「なぁに。約束を果たさなきゃ男が廃るってもんだ。言っておくが、キャンセルするなら晶子ちゃんはもらうからな。」
「それはさせない。」
「その意気込み、忘れるなよ?晶子ちゃんに代わってくれ。」
「分かった。」
智一の求めに応じて、晶子に受話器を渡す。電話に出た晶子はしきりに礼を言う。俺に言ったようなことは言われていないようだ。
何度目かの礼の後、晶子は受話器を静かに置く。そして、俺に幸せ溢れる微笑みを向ける。余程嬉しくなることを言われたんだろうか。
「祐司さんからプロポーズされたのか、って伊東さんに聞かれたんです。はい、って答えたら『おめでとう』って。」
「そうか・・・。」
「祐司さん。」
晶子は身体も俺に向ける。向き合ったところで晶子は表情を引き締め、直ぐに満面の笑みを浮かべる。
「幸せになりましょうね。」
「・・・ああ。幸せになろう。」
俺は晶子を最初は優しく、寄せてからは強く抱き締める。晶子の両腕が俺を強く抱き締める。「幸せにして」じゃなくて「幸せになろう」と言うのは晶子らしい。
依存じゃなくて協同。既成事実の蓄積とは言え、自分の幸せを自分で作って来た晶子。その幸せを構成要素であり根源でもある俺も、依存じゃなくて協同で幸せを
作っていこう。これからも・・・。
一頻り抱き合った後、荷物を纏めて出発。「駆け落ちみたいですね」と玄関の鍵をかけたところで晶子が一言。かなり極端なたとえだが、約1週間分の着替えその他を
詰め込んだ鞄をそれぞれ持って出るところは、ドラマか何かの駆け落ちシーンを髣髴とさせる部分があるように思う。ちなみに、殆どの項目を書き終えた婚姻届も
「同行」している。持っているのは俺。晶子の要望に応えてのものだ。
駅で小宮栄までの切符を買って、一番早く着ける快速急行に乗車。ラッシュの時間帯でない電車は意外と混んでいるが、座れないほどじゃない。学生は春休みだから、
繁華街の塊みたいな小宮栄に繰り出す人が居るんだろう。その中で大きな鞄をそれぞれ持った俺と晶子は明らかに浮いている。視線も感じる。だけど、それを
気にしているようじゃ、この先やっていけない。視線の集中は大学でも弁当を広げた時にあるからな。
視線を感じながら終点の小宮栄に到着。電車を降りて改札を通り、長い通路を歩いて新幹線の駅に向かう。屋内で地続きだが結構歩かされる。視線も此処まで
来ると感じなくなる。繁華街に出る出口と新幹線の駅がある場所は途中で分岐するから、そこで視線を向ける人達が離れたんだろう。視線以外は何もなかったが、
視線もない方が良い。何だか鬱陶しいし、監視されているようで妙に腹が立ってくる。
少しこみ上げていた腹立たしさも、京都行きの新幹線の切符を買った時点であっさり消滅。晶子も煙草を吸わないから禁煙は勿論だが、並んだ指定席を買った。
ちょっと奮発してみた。この程度で奮発と言える金銭感覚を保ちたい。改札を通ってホームに向かう。
「並んだ席を取れて、良かったです。」
晶子の声は弾んでいる。此処まで来るまでにチラチラと見ていたが、明らかに嬉しさ溢れる顔をしている。視線を感じているかどうかは分からないが、晶子の
今までの行動からして、視線を感じたとしても「見たいならどうぞ見てください」と逆に見せたい心境だろうか。
「今からもう、ドキドキしてます。」
「何でまた。」
「祐司さんと一緒に旅行に行けることが、もうそれだけで嬉しくて。」
嬉しそうに言う晶子を見ていると、こっちも嬉しさが増す。相乗効果ってこういうのを言うんだろうか。昨日の夜に大泣きして、今日も声を殺して泣いて、
と思ったら今は嬉しさいっぱい。晶子は表情が豊かだと改めて実感する。
ホームに電車が入るアナウンスが流れる。転落防止用の柵はあるが一応確認。鳥のくちばしのようなフォルムの先頭車両がゆっくり近づいてくる。次第に速くなって
やがて遅くなって停車する。ドアが開いてそれなりの人数の人が降りる。スーツ姿の男性が多いが、家族連れらしいグループも見える。指定席だし慌てる必要はない。
降りる人が全員降りたのを確認してからで十分間に合う。
グリーン車じゃないが、指定席はさっき降りたせいもあってか結構空いている。特急券に印刷された番号と座席の番号を見比べて座席を探す。・・・あ、此処だ。
博多方面に向かって左側の並んだ2つの座席。晶子は窓側で俺は通路側。鞄を足元に置いて座る。
軽い衝撃の後、窓の景色がゆっくり動き始める。ホームは加速して遠ざかっていき、小宮栄の繁華街が一望出来る風景に変わる。次の停車駅と主な駅の到着予定時刻を
告げる車内アナウンスが流れ、車内は走行音だけが少し響く静けさに落ち着く。
「祐司さん。」
晶子が尋ねて来る。
「祐司さんは京都に行ったことありますか?」
「中学の修学旅行で1度行っただけなんだ。あんまりよく憶えてない。晶子は確か、高校の修学旅行で行ったんだよな?」
「ええ。私もその1度だけで、修学旅行ですからクラス単位か班単位の行動でしたし、何処もかしこも凄い混雑でしたから、じっくり見て回れなかったんです。」
「じゃあ、2人で行動出来る今回はじっくり見て回れるな。」
「はい。」
本当に嬉しそうだ。京都の混雑は凄いらしいから、混雑の時期に修学旅行に行ったらまともに回れるのを期待する方が無理かもしれない。混雑する時に修学旅行の
日程を組むこと自体が問題なんだが、修学旅行もテストやら何やら他の学校行事の1つだし、夏休みとかは夏期講習があるし、オフシーズンを狙うのは不可能だろう。
俺はほぼ憶えていないに等しい。晶子も満足に見て回れてない。その京都に2人で向かっている。何処をどの順番で見て回るかまで完全に自由。朝晩宿で出される
食事と寝る時以外は何処に行こうと居ようと自由。自由度が高い分考えて行動しないと後悔が募ることになる。折角の旅行−新婚旅行でそれは避けたい。
さて、何処から行こうか・・・。色々な場所や建造物が思い浮かぶが、宿との位置関係がまったく分からない。地図やガイドブックの類は売ってるだろうから、
それを現地調達するのが近道かな。
京都駅到着が近いことを告げるアナウンスが流れる。窓から見える風景が、徐々に目ではっきり捉えられるようになってくる。混雑しているとまではいかないまでも
結構詰まっている座席から、人が立ち上がる。到着前に席を立って出入り口に向かう人は多い。俺と晶子は停まる直前まで座っているタイプだ。もっとも、大学との
往復は殆ど立ってるし、こんなゆったりした気分で座れることはない。
ホームに並ぶ人がはっきり見えるまで減速したところで、俺と晶子は席を立って鞄を持ち、早くも混雑している出入り口へ向かう。停車して程なく出入り口付近の
動きが大きくなる。俺と晶子はその流れに乗って降りる。京都駅到着を告げるアナウンスが響くホームから、大きな切妻屋根が点在する風景が見える。
「着いた、な。」
「ええ。」
高層ビルが乱立する小宮栄とは違う、遠くの建物の屋根が見通せる平たい風景。思ったより冷たい、でも透き通っているように感じる空気。穏やかに見える人の流れ。
日本の数ある観光地の中で知名度の高さは随一と言える京都に到着したことを、晶子と確認しあう。
ホームに突っ立っていても仕方ないから、案内に従って改札に向かう。新幹線の切符とは此処でお別れ。続いて地下鉄に向かう。宿は地下鉄で北上して最寄り駅から徒歩だ。
チェックインは15:00からとあったから、もう入れる。
地下鉄に乗り込む。人はそこそこ居る。通勤時間帯からはずれているが、京都は一方通行は多いし道も狭いから、車での移動はかなり難しいと聞いたことがある。
こういう時は公共交通機関を使うのが便利だし、駐車場の心配をする必要がないから何かと都合が良い。
地下鉄を降りて外に出る。地下鉄の車内で出しておいた略地図を広げる。西に向かって少し歩いて、宿を選ぶポイントとなった鴨川を渡って、そこで少し北上すると
見えるらしい。道は真っ直ぐだから方角さえ間違えなければ迷うことはない。
西に歩いていくと、大きな川が見えてくる。これが鴨川か。中学の修学旅行では神社仏閣を見て回るばかりで、河川敷はコースに入ってなかった。ゆるりと流れる
水面(みなも)が、薄曇りの日の光を受けて宝石をちりばめたように鮮やかに煌いている。
「これが・・・鴨川か・・・。」
感嘆が思わず口を吐いて出る。単なる川と言ってしまえばそうだ。でも、そうと片付けられないものを感じる。雑然としていなくて、それでいて人の手が入りすぎた
人工的な雰囲気のない、町と一体となった川の姿が此処にある。
川沿いに散歩している人が居る。犬を連れている人も居る。バドミントンをしている人達も居る。年末年始に行った奥濃戸のように、観光用とそこに住む人達の生活が
分離されていない。観光が人々の生活の一部として存在している。その証拠に、「部外者」である俺達を見ても注目されたりしない。
暫し佇んだ後、鴨川を渡って交差点を北上。鉄筋コンクリート造りの建物と切妻屋根の和風建築が混在しているが、高層の建物はない。・・・あ、宿の看板が見えてきた。
これは他の看板も同じだが、くすみのない真新しい白地に黒の筆で書いたような書体のシンプルなものだ。ネオンでまばゆいことはない。
「此処、か。」
「立派ですね。」
略地図と看板の文字と照らし合わせて確認した宿は、白壁が嫌味にならない程度に栄える純日本風の3階建ての屋敷。旅館ともホテルとも表現出来ない格式を感じる。
突っ立ってても仕方ない。看板の文字と略地図が合っていることを再確認して、宿に入る。玄関は自動ドアだが、その奥に広がる風景は時代劇か何かであるような
純日本風の屋敷のものだ。
「おこしやす。」
着物姿の女性達が出迎える。豪華さもそうだが格式を感じる場所には慣れてない。だけど、冷やかしに来たわけじゃないから、此処は落ち着いて・・・。
「あ、今日から1週間ほどこちらでお世話になる、安藤祐司と言います。」
俺は直ぐ出せるようにと、コートのポケットに入れておいた身分証を取り出して見せる。晶子もそれに続く。歩み寄ってきた女性が俺と晶子の身分証を確認して、
納得した様子で何度か小さく頷く。
「安藤様でいらっしゃいますね。智一様からお話を伺っております。」
「よろしくお願いします。」
「ようこそお越しくださいました。お部屋へご案内いたします。」
出されたスリッパのような履物を履いて、周囲に居た他の女性に「ようこそおこしやす」と出迎えを受けながら、進み出て身分証を確認した女性に案内される。
木の香りが微かに漂っている。廊下も踏むのが憚られるほど綺麗に磨かれている。
案内された部屋は「松の間」。ホテルか高級料亭みたいなネーミングの部屋は、優に10畳を超える広さの和室。床の間や欄間も揃っている。明らかに俺の家より広い
此処に2人で泊まるのが勿体無いような気がする。
辺りを見回しながら、座布団に晶子と並んで座る。女性は宿帳を広げて、ペン−筆かと思った−と共に差し出す。
「恐れ入りますが、こちらにご住所とお名前をお書き添えくださいませ。」
「あ、はい。」
俺はペンを取って、自分の住所と氏名を書く。書き終えた宿帳をスライドさせるように晶子に渡し、ペンは直接手渡す。晶子は俺の隣に住所と氏名を書く。
住所は俺と同じ。氏名は・・・姓が「井上」じゃなくて「安藤」になっている。結婚という事実に現実味が更に増す。住所と氏名を書き終えた晶子は、宿帳をスライドさせて
俺に戻す。ペンも併せて俺に差し出す。・・・俺が返すべきってことか。立ててくれるなぁ。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます。では、改めまして・・・。」
女性は独特のアクセントを保って礼を言ったのに続いて、ペンを宿帳に挟んで脇に置き、俺と晶子に静かに深々と頭を下げる。
「ようこそ、おこしやす。」
「あ、どうも。」
「お世話になります。」
格式を感じさせる旅館の雰囲気らしい挨拶に、少し戸惑う。
「こちらは、京都名所の1つであります鴨川を何時でもご堪能いただけます。月夜は特に見栄えが素晴らしいです。」
「水面に浮かぶ月、ですか。良さそうですね。」
「新婚旅行で京都を選ばれるとは、随分風流でございますね。」
新婚旅行、という単語に一瞬驚く。だけど、そのとおりなんだよな・・・。晶子と付き合い始めて丸2年が経ったのに、晶子との関係を言ったり言われたりする時に
感じる照れくささは消えない。新鮮さという観点からすればその方が良いんだろうが、対外的にちょっと困るな。
「妻と・・・相談して京都にしようって決めたんです。」
「最近は新婚旅行で海外を選ばれる方が多いんですが、まだ日本にも色々な場所があることを知っていただきたいものです。新婚旅行でお越しいただいた安藤様
ご夫妻には、このたびお選びいただきましたこちらを拠点にして、じっくり古都の味わいや趣を堪能していただきたいと思います。」
新婚旅行に限らず、かかる費用は国内より国外の方が安い場合が多い。修学旅行で韓国や香港といった近場の海外に行く学校が増えているのも、そういった事情が
あるんだろう。思い出作りだから極端な話何処でも良いことだが、「行って良かった」と思えるものにしたい。
宿の基本的な説明を受ける。チェックインとチェックアウトの時間は智一から事前に聞いていたとおり。朝飯は7時で晩飯は19時で、それぞれ部屋に運ばれて
くるとのこと。風呂は1階にある大浴場か部屋の風呂かを自由に選べて、大浴場は朝の6時から夜の12時まで入れる。
「何かご不明な点などございましたら、ご遠慮なくお近くの仲居にお尋ねくださいませ。」
「分かりました。」
「それでは、ごゆっくりどうぞ。」
改めて女性は深々と一礼し、立ち上がって静かに退室していく。ドア−ふすまを模した木の引き戸−が閉まった後、俺の左手に柔らかい感触を感じる。隣を見ると、
晶子の右手が重ねられている。
「晶子・・・。」
「嬉しかったです・・・。祐司さんと同じ姓を書けて・・・。それに・・・、祐司さんに妻と言ってもらえて・・・。」
「何て言えば良いか一瞬考えたんだけどな・・・。晶子って言おうかとも思ったけど、新婚旅行って言われたこともあるのか・・・、気付いたら妻って言ってた・・・。
良かった・・・か?」
「はい、勿論です。」
言うのは何とかなった。だが、実態のあるものにしていくには、婚姻届の提出以外に俺と晶子の自覚が必要だ。「仮面夫婦」なんて言葉があるように、法律上では
夫婦でも夫婦生活がなかったら無意味。俺と晶子の場合は事実が先行していたから、さながら仮免許ならぬ「仮夫婦」ってところか。
「外に出るか?」
「はい。」
俺は立って晶子に手を差し出す。晶子は本当に嬉しそうに俺の手を取る。軽く引き寄せると晶子が立ち上がる。先に部屋の隅に置いた鞄から貴重品に属するもの、
現金の一部と保険証を取り出して金庫に入れておく。ダイアルと鍵が付いているから厳重さが分かる。鍵は俺が持つ。その他、財布と携帯は持っているから、
このまま出られる。
部屋を出て鍵をかけ、廊下を歩いていく。途中出会った仲居に「ようこそ」とか「いってらっしゃいまし」とか言われる。他に客が居るのかどうか分からないが、
智一の父さんが経営する会社の関係者しか泊まれないそうだから少ないと思って良いだろう。学校は休みでも職場は休みじゃない場合は結構多いもんだ。
フロント−受付と言うべきか−で観光案内をもらう。買うのかと思ったが宿泊客に無料で提供しているそうだ。数人の仲居に見送られて外に出る。
さて、何処から行くか・・・。もらったばかりの観光案内を広げる。
「宿は此処だから・・・、平安神宮が割と近いところにあるな。」
「そうですね。他は・・・京都御苑とか下鴨神社が手頃な位置にありますね。」
晶子は俺の広げた観光案内を覗き込むように見て言う。見辛かったか?観光案内は2人で見るように広げたつもりなんだが。まあ良い。宿の現在位置からすると、
俺が挙げた平安神宮と晶子が挙げた京都御苑と下鴨神社が近場にある。他にも寺や神社が密集している場所がそれほど遠くない場所にある。
「色々あるから、逆に迷うな。今は・・・3時過ぎか。」
携帯を取り出して現在時刻を知る。携帯を使うようになってから腕時計を填める機会がめっきり減った。メールや電話を使うついでに時刻を見られる便利さも
あるんだろう。夕飯は19時、つまり7時だから4時間くらいある。近場なら幾つか回れるだろう。
「何処から行きたい?」
「迷っちゃいますね・・・。祐司さん、決めてください。」
「じゃあ・・・京都御苑から回るか。」
晶子の意向も汲んで最初の行先は京都御苑にする。平安神宮は修学旅行で行った憶えがあるが、京都御苑は行った記憶がないから興味がある。地図だと東に
真っ直ぐ進んで鴨川を渡れば良いようだ。
「そう言えば、京都御苑って一般の立ち入りは大丈夫なのか?」
「確か、中にある京都御所以外は自由に出入り出来る筈です。」
御苑っていうたいそうなネーミングだから、事前申告制かもしれない。だとすると二度手間になるから観光案内で確認。・・・どうやら大丈夫のようだ。
晶子が言った京都御所の他、大宮御所は事前の許可が必要とある。京都迎賓館も・・・見る限り一般の見学OKのようだ。
「一部以外は一般の入場OKってある。ほら。」
「あ、そうですね。」
広げた観光案内を見せると、晶子が覗き込んでくる。身長差があまりないから、晶子が乗り出すと髪がかなり近い位置に来る。ほんのりと柑橘系の匂いが漂う髪が
陽光を受けて煌いている。
「祐司さん?」
晶子の呼びかけで我に帰る。晶子の髪に見入ってしまっていた。間近で見るのはこれが初めてじゃないのに、どうしてだろう?年末年始の旅行ではなかった・・・筈。
新婚旅行ってことがそうさせるのか?
「何でもない。」
「何見てたんですか?」
晶子が悪戯っぽい笑みを浮かべて少し上目遣いで見上げる。参ったな・・・。こんな顔で見詰められると・・・照れる。照れくささを和らげるべく視線を逸らそうと思うが、
晶子の大きな2つの瞳に釘付けになってしまっている。
「ねっ。何見てたんですか?」
「晶子の・・・髪を見てたんだよ。それだけ。」
尚も答えるよう迫る晶子にどうにか応えて、ようやく晶子の瞳から視線を逸らす。晶子は至って嬉しそうだ。昨日の夜戻って来た時大泣きしていた人物と本当に
同一人物なのか、と思ってしまうほど表情に幅があるんだよな。
「昨日もきちんと洗いましたからね。まだ匂いしますか?」
「ああ。少しだけどな。」
晶子が俺の家に住み込むようになってから、シャンプーも晶子が使うものに変えた。だから、俺の髪も晶子と同じ匂いがするんだろうが、晶子の方がずっと
印象強くて、それで居て臭いとか鼻を突く嫌な感じがしないのは不思議だ。一番よく匂うのは何と言っても風呂上り。昨日は俺も風呂に入って寝る直前だったのもあって、
殆ど匂いをかいだりしないで寝てしまった。
晶子の髪に手を通す。少しも引っかかりのない滑らかさは「絹のような」という表現がぴったり当てはまる。根元から先まですっと指を通せる。指を通した部分の髪が
さらさらと流れ落ちる。その時虹色の煌きを残していく。日頃からよく手入れしているのが分かる。
「綺麗だな。」
「祐司さんにそう言ってもらえるのが嬉しいです。」
晶子は俺が髪に触れるのを喜ぶ。風呂上りの時もそうだ。定期的に切り揃える以外はずっと伸ばしている髪は、晶子のトレードマークの1つ。女性が髪に触れさせるのは
相当気を許した相手だけと聞いたことがある。これも広義のスキンシップだろう。
「また後で、な。」
「はい。」
もう少し堪能していたいところだが、此処だと人目につきやすい。もうついてるだろうから−チラッと見ただけでも数人俺と晶子の方を見ていた−今更遅いだろうが、
あまり人前でベタベタしているところを見せるのは良くない。晶子もその辺は分かっているようだ。
鴨川を渡って降りた地下鉄の駅の方へ直進する。宿に向かう時は略地図と現在位置の照合で頭がいっぱいだったのか気付かなかったが、京都御苑は宿への往路に
面している。門が見えてくる。これは・・・堺町御門というところらしい。何処が正面入り口なんだ?観光案内を見るが、正面入り口と明記されている場所はない。
何処から入っても良さそうだ。
「あそこに見えるのが、堺町御門ってところらしい。他にも入り口はあるけど、此処からじゃないと駄目とかいうのはないらしいから、あそこから入るか。」
「はい。」
晶子は素直に了承する。京都御苑を選んだ時もそうだが、晶子は普段こうじゃないと嫌だとか妙な我が侭を言わない。俺との関係を進める時は例外が多々あるが、
不快感とかに属するものじゃない。
古いと言うより格式がある門を潜ると、高低様々な木が並ぶ広大な庭園が俺と晶子を迎える。木々はただ雑然と生い茂っているんじゃなくて、「日本庭園」のイメージを
表現した、整然としているが作り物臭くないように配置されている。
「大きな池ですね。」
入って直ぐ左手の方向に池がある。こじんまりとしたものじゃなくて、日本邸宅の広大な池だ。池の中央に南北に橋が架かっていて、向こう側には建物が見える。
・・・えっと、あれは・・・。
「厳島神社?」
「え?」
「ほら、これに書いてある。」
俺も不思議に思った端の向こうに見える建物の名称を、晶子も意外に思ったらしい。俺が広げた観光案内を覗き込む。印刷ミスがあるとは思えないから合ってるだろうが、
厳島神社ってうろ覚えだが広島にある観光名所と同じ名前だよな。何か関連があるんだろうか?
「祭ってある神様が同じかもしれないな。」
「そうですね。そういうのを辿っていくと、日本にはまだいっぱい行くところがあるでしょうね。」
晶子の言葉は、旅館−宿とは言えないものを感じる−で俺と晶子を部屋に案内した女性の言葉と共通するものがある。
料金が安いのもあって結婚式の場所や新婚旅行の行先を海外にする例は確実に増えている。大学でも一般教養の時に休み時間や移動時間に「結婚式は○○でしたい」と
話し合っている女性が居たし、店でも「ウェディングドレスを着てハワイの教会で結婚式」と話している女性客が居ることがある。
「日本人たる者」云々と仰々しいことは言わない。何処で結婚式をするかとか新婚旅行を何処にするか、そんなことはそれぞれのカップルで決めることだし、
その範疇を出る性質のもんじゃない。ただ、世界地図で見ると狭い日本にも、知らない場所や知ってはいても実情を知らない場所はたくさんある。今居る京都御苑にしても、
名前からして一般人が自由に出入り出来そうにない場所だと思っていたが、実際は一部を除いて違った。知ったり見たりする余地のある場所やものはたくさんある。
日本人だから日本のことは言われるまでもなく隅から隅まで知り尽くしているというのは思い込みでしかない。
「晶子は、ウェディングドレスに憧れてるんだよな。」
「ええ。でも、こだわりはありませんよ。」
「そうじゃなかったら、新婚旅行の行先に京都を選んだりしないか。」
「はい。そういうタイプだったら新婚旅行だけじゃ満足しませんよ。プラスアルファで豪華な披露宴をしたりとかになりますよ。」
晶子が結婚にあたって欲しいことと言えば、プロポーズは俺からしてほしいということと、ウェディングドレスに憧れていることくらいだ。
プロポーズは俺から昨日したばかり。ウェディングドレスは結婚式や披露宴で着る機会があるが、何百万円もかけて体裁を整えるより今後の生活に充てたい。
「でも、晶子のウェディングドレスは見たいな。」
「着る機会があれば、その時見てもらいますね。」
「ああ。」
電車にある結婚式場の広告には、大抵女性モデルがウェディングドレスを着た様子が入っている。それを見て、晶子が着た様子を想像することがある。
きっと、否、絶対似合うと思うのは贔屓目も多分にあるだろうが、見られる機会を作って実際に着たところを見てみたい。その時までのお楽しみ、だな。
観光案内を所々で見ながら池を観覧する。池は九条池という名前だそうだ。この池の周辺は木々に囲まれて単独の庭園のように見える。名前を見て少し驚いた
厳島神社は、神棚を大きくしたような飾り物じゃなくて、しっかりした造りだ。奥には拾翠亭っていう建物もある。ここだけでも大きな家の庭になりそうだ。
「この・・・拾翠亭って建物がある景色、何処かで見たような気がしませんか?」
「そういえば・・・、そうだな。」
池のほとりから見た拾翠亭がある景色は、確かに何処かで見た覚えがある気がする。何処だったっけ・・・。掠れている中学校の修学旅行の記憶を辿る。
・・・古い上に記憶自体が曖昧だから、此処からじゃ無理だ。でも、修学旅行以外の何かでも見たような気がする。何だっけな・・・。
「・・・何か・・・割とよく見る構図のようなんですけどね・・・。」
「・・・金閣寺。」
「!あ、そういえばそうですね。パンフレットとかに掲載される金閣寺の写真とよく似てますね。」
ふと思いついたイメージは、晶子にも共有出来るものだったようだ。口に出してからイメージが急速に鮮明になってくる。この構図は修学旅行でも見た覚えがある。
拾翠亭を臨むこの構図は、金閣寺の周辺を模して造られたものなのかもしれない。
「晶子は修学旅行のコースで金閣寺はあったか?」
「ええ。割と近くまで行きました。中には入れなかったですけど。」
「俺も近くまで行った。遠くから見ると金一色なんだけど、近づくと割と剥離してたな。」
「四六時中風雪に晒されてますから、仕方ないですよ。」
「そうだよな。」
遠くから見る限りでは「これぞ金閣寺」という風景なんだが、近づいて見るとちょっとがっかりする。晶子の言うとおり、24時間365日風雨に晒されてるし、
金箔もそうそう厚みがあるわけじゃないだろうし、頻繁に補修していないと剥離が目立ってくるだろう。
「化粧みたいなもんだな。」
「装飾品ですからね。」
顔を見合わせて微笑み合った晶子は、まったく化粧っ気がない。晶子の家に居る時もそうだったし、晶子が俺の家に住み着くようになってからもそうだが、
晶子は風呂上りに乳液をつけるくらいで他に化粧らしい化粧をしない。今もそうだ。
晶子と買い物に行く時に日用品を買いに行く途中で化粧品売り場を通るが、晶子は殆ど使わない。ずっと使っているという乳液と冬場の肌荒れ対策用のハンドクリームを
買う時くらいだ。爪もマニキュアやネイルアートをしない。口紅もつけない。する必要がないと思うのはこれも贔屓目が過ぎるだろうか。
「装飾品って言えば・・・。」
「結婚指輪はもう貰ってますから、考えないでくださいね。」
先取りされてしまった。晶子の左手薬指に輝く俺とペアの指輪は、本来晶子の誕生日プレゼントとして贈ったもの。結婚の事実がより本格的になったから改めて
結婚指輪を用意すべきかと思って、さり気ないつもりで話を振ってみたんだが、勘付かれるか。
「祐司さんにこの指輪を填めてもらった時のこと、今でもはっきり思い出せます。この結婚指輪に代えられる指輪はありません。」
「誕生日プレゼントがそのまま結婚指輪になってるけど、良いのか?」
「これだから良いんです。これ以外にしたくありません。」
晶子は胸の前で、先に出した左手を右手で包むように握る。指輪は外さないという意志表示だろう。俺が手を取って填めて以来、軽く磨く時以外は朝から晩まで
填め続けている。傷が愛着を感じるという理由で磨くこと自体殆どないそうだ。元々手入れや金属アレルギーの問題をクリアするものとして選んだ経緯があるし、
指輪の肌馴染みがすこぶる良いから意識しないと指に異物感を感じない。
「私との結婚にあたっては、もう祐司さんに用意してもらうものは何もありませんよ。もらえるものは十分貰いましたから。」
「満足してるんなら、あえて上積みする必要はないな。」
「これから2人で生活していくんですから、2人で頑張りましょうね。」
「ああ。2人でな。」
智一に宿を手配してもらった時もそうだったが、晶子は自分の幸せを相手である俺に依存しているようで、実は共に構築していこうという意識が強く存在する。
誕生日プレゼントのペアリングを結婚指輪に代えたり早くから俺の妻を自称したりと自分の理想像を推し進める一方で、大学が行く時は毎日俺の弁当を作って
くれるようになったり、自分の荷物もそこそこに俺の家に住み込んで家事一切を手がけてくれている。俺との時間で幸せを貰ってるからという意識の表れだ。
俺は弁当を作ってくれとか頼んだ覚えはない。晶子も現役の大学生。講義もあればレポートもある。進級の条件とかからすると、俺は家のことをサボっても
「大学関係で忙しいから」と責任転嫁出来るが、晶子はし難い。だが、俺の環境がこうだからお前もこうしろという論理の飛躍やこじつけはしたくない。それに家事を
本格的に手がけると結構大変だったりする。俺が自炊のさじを投げたのはそれが理由の1つだ。
晶子は朝から晩まで最多で3食、見た目にも美味そうなものを作ってくれる。面倒じゃないか、と聞いたら、手順を覚えれば要領良くなる、と晶子は応えた。
良い意味で手抜きが出来るんだから、凄いと思う。ルーチンワークをそつなく、しかも楽しくこなすんだから、素直にありがたいと思う。そんな気持ちを常に感じるから
頑張れるし一緒に居たいと思う、と晶子は以前言った。口にしなくても伝わることってあるもんだ。
だが、「以心伝心」に慢心するのは良くない。「言わなくても分かる」のがありがたい状況だと思わないといけない。「言わなくても分かる」と思って日々過ごしていると、
何れ行き違いやずれが生じる。気付いた頃には修復不能という最悪の事態も十分あり得る。
言葉を交わすこと。人と人との交流における「はじめの一歩」は常に続いているし、続けていく必要がある。それが「初心を忘れない」ことに繋がるんだと思う。
「祐司さん?」
だから・・・、普段空気のように思えることでも・・・。
「晶子・・・。」
「・・・はい。」
「愛してる。」
新婚旅行で2人きりで居るこの時間、この瞬間に言う。・・・今でも照れるな。家に居る時、特に夜の営みの最中には割りと言うんだが。夜の最中に言うから昼間、
しかも屋外で言うのは憚られると無意識に思ってしまうのかもしれない。
少し不安そうに−自分を見て黙っていたら自然だろうが−俺を見ていた晶子が、急速に頬を紅潮させて俯く。俯いたままで、右手が俺のコートの袖を掴む。
腕ごと掴まれてないが、皺の寄り具合からかなり強く掴んでいるのが分かる。
「晶子・・・。もしかして・・・嫌だったか?」
黙って俯き、俺のコートの袖を掴んだまま固まっているのが不安になって問いかけると、晶子は小さく、しかし速く首を何度も横に振る。
「嫌なわけ・・・ないですよ・・・。」
何か言ったみたいだが、声は小さいし俯いたままだから余計に聞こえ難い。嫌とは思ってなさそうだが、晶子は一向に顔を上げない。暫く待っているとようやく
徐々に顔を上げ始める。白い頬は真っ赤そのもので、大きな2つの瞳は間違いなく潤んでいる。
「昼間・・・外で・・・祐司さんが・・・言ってくれて・・・、びっくりして・・・。嬉しくて・・・。」
「・・・。」
「どう・・・返して良いか・・・分からなくて・・・。」
途切れ途切れに言って晶子は再び俯き、俺のコートの袖を掴んだまま身体を寄せてくる。こんな仕草を見てると、俺までドキドキしてくる。言い慣れないことを
言うもんじゃないか・・・。
「凄く・・・嬉しいです・・・。」
再び暫しの時間が流れた後、晶子がゆっくり顔を上げて言う。多少戻りつつあるがまだ頬は赤い。こんなに頬を紅くして照れる晶子を見るのはあの時・・・以来だな。
今年まだ晶子が俺の家に住み着く前、バイトが終わって晶子の家に立ち寄った日の夜・・・。あの時電灯に照らされた晶子の顔は、本当に真っ赤だった。
「今此処で・・・言ってもらえるなんて・・・思わなかったです・・・。」
「あまり言わない方だし・・・、夫婦になると余計に・・・『愛してるのが当たり前』って思い込んでしまいかねないからな・・・。言うのにまだ・・・慣れてないけど・・・。」
「言ってもらえれば・・・良いんです・・・。」
晶子に笑顔が戻る。言われるのはやっぱり嬉しいようだ。TPOを考えると今回のは幾分まずかったかもしれないが、言う時は言うってところを見せられたことは
良かったかな。「好き」や「愛してる」は、俺にとっては乱発すると価値が落ちるものだ。でも、そうと思った相手には「言う時には言う」べき言葉の1つでもある。
「私も・・・愛してます。」
「ん・・・。」
頬の赤みが随分取れた晶子から返答される。言う時と同じで面と向かって言われると胸が急に高鳴る。顔が火照るのが分かる。「愛してる」の言葉と気持ちは
まだ新鮮なままだという証左だ。
付き合い始めて2年を過ぎて、何度も寝ている。一般の夫婦と同じく、或いはそれ以上に「週○回」というレベルだ。それでも「好きだ」「愛してる」を言って言われることが
新鮮なのは、良いことだろう。
好きでいることを続けて居るうちに、2人の関係が空気のようになることはままある。「空気のよう」とは本来「普段ないように感じるがいざなくなると大変なことになる」と
いう意味のはずだが、「あってもなくても困らない」に置き換わる場合が多々ある。そうならないように、長く「好き」で「愛している」関係で居られるように、
日々努力していかないとな・・・。
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