雨上がりの午後

Chapter 221 君が傍に居ない時間−その4−

written by Moonstone


 バイトの時間がやって来た。今日も晶子は出ていない。マスターと潤子さんの話では、昼間に店で使う食材の買出しに同行して手伝ったり、マスターと潤子さんの
昼飯と夕飯を作って自分もそのとき一緒に食べたそうだ。口数が少ないことを除けば健康らしい。安心したようながっかりしたような、何とも言えない複雑な気分だ。
潤子さん手製の夕飯を済ませて、早速バイト。今日も混んでいる。中高生の客が普段より多いのは週末の傾向だ。この手の客はよく食べるし注文も多い。
俺はコーヒー作りもするマスターと一緒にキッチンと客席を何度も行き来する。息つく間もないとはこのことだ。
 そんな中で、中高生の客から何度か晶子の欠勤の理由を問われた。昨日も今日もマスターがステージで発表したんだが、信じていないようだ。今までキッチンに
居る率が多いとは言え必ず店には出ていた晶子が体調を崩して静養している、と言われても信じ難いものあるんだろうが、男子の客の中には俺に原因がある、つまり
妊娠したからじゃないかとかなりしつこく繰り返す奴も居る。
相手は客だから「何度も聞くな」とか「信じろ」とか言えない。マスターのステージでの発表が事実です、と繰り返すしかない。晶子と同じ指輪を左手薬指に填めてるのが
気に入らないんだろうが、何だかなぁ・・・。料理屋食器を運んでいる時に足を引っ掛けられたりなどの嫌がらせがないだけましと思っておこう。
 晶子が出ないことにようやく諦めたのか、男子高校生の客が席を立とうとした時、来客を告げるカウベルの音に反応した1人が驚いたような顔をする。誰かと思って
ふと見る。・・・田中さん、だ。薄手の白のハーフコートを脱いで腕にかけたところで、俺と目が合う。笑みを浮かべて会釈したから俺も会釈を返す。
キッチンの近くに居たマスターが応対する。複数の客で混み合っている週末のこの時間帯に1人の客は難しい。待ってもらうことも多い。ざっと見たところ客席に1人だけで
座れる席はない。マスターは客席の動向を把握しているから、待つか諦めるかの判断をしてもらうだろう。夕飯を食べに来たのなら、8時を過ぎたこの時間に待つのは
ちょっと辛いかもしれない。
 接客をしながら田中さんの動向を見る。・・・諦めて帰る様子はない。マスターが小走りで客席に向かい、何やら聞いて回る。しつこく絡んできたせいでさっきまで応対に
苦慮していた男子高校生の集団客がやたらと元気の良い声を出す。そこは4人がけテーブルの1つで3人座っているから1人分余っている。どうやら相席の許可を聞いて
回っていたようだ。客の方はまだしも、田中さんは見ず知らずの客との相席をOKするんだろうか?
空いた食器を回収していると、田中さんがマスターに男子高校生の席に案内される。全面的に歓迎しているらしく男子高校生が歓声を上げる中、田中さんは律儀にも
一礼してから着席する。田中さん、よくあの客との相席を了承したな・・・。目がぎらついているように見えるんだが、気にならないんだろうか?

「あー、やっぱり喜んでる。」
「嫌よねー。露骨でさ。」

 俺が食器を回収していた席の、女子高校生が一様に眉をひそめる。彼女達はあの男子高校生と高校と塾が同じで、やはり此処で夕食を済ませていると聞いている。
これは晶子から間接的に聞いたんじゃなくて、俺が直接聞いたことだ。

「美人が店に来るようになった、って学校でも塾でも騒いでたよね。」
「鼻の下伸びてるってのはこういうのを言うんだ、って実感したよね。」

 女子高校生は口々に怒りを漏らす。話に聞いた限りでは、新京高校という高校がこの辺ではトップレベルの進学校で高校生の来客のかなりの比率を占めていて、
胡桃町だけでも3つある大手の塾のどれかに通っているのが当たり前らしい。高校では早い段階から文系理系の「区分け」がなされて授業も当然それに特化したものに
なっていること、文系と理系の比率はおよそ7:3で男子の比率は文系では低くて理系では高いことは、俺の高時代−と言ってもまだ4年前くらいだが、さして変わらないようだ。

「ねえ、安藤さん。あの女性(ひと)ってどう思う?」

 食器の回収がほぼ終わったところで、俺に話が向けられる。難しい話だな・・・。田中さんが来店するようになったのが晶子のいきなりの欠勤の原因だし、かと言って
俺は田中さんに悪い印象を持ってないし・・・。

「まあ、客観的に見て美人と言えると思いますけど、それ以上は。」

 他の客の話をする時だから、周囲に聞かれない程度に声量を絞る。そうしなくても店内は賑やかだから、さっきの男子高校生達のように歓声を上げなければまず
聞こえないと思うが、念のためというのもあるし、他の客を店員が話題にするのは極力控えるべきだと思う。

「安藤さんには井上さんが居るから、聞いても参考にならないかぁ。」
「その井上さんだけど、妊娠したから休んでるってホント?」
「否、それはありません。」

 マスターが昨日もステージ上で公式発表したし俺も尋ねられるたびに否定しているんだが、「晶子妊娠説」は異様なほど根強い。こういう場合は否定するだけ無駄な
もんだな。高校時代に宮城と付き合っていた時も、手を繋いだキスした云々が言わずとも−言う筈がないが−勝手に伝播して否定しても効果がないどころか逆効果だったし。

「熊さんもそう言ってたけど、いまいち信じられないんだよね。井上さん、つい一昨日まで元気そのものだったしさ。」

 熊さんとは言うまでもなくマスターのこと。この通り名は男性客は殆ど口にしないが、女性客は普通に口にする。年代が若いと更にその傾向が強まる。マスターも
言われて悪い気はしないらしい。マスターはそれでデレデレしたり鼻の下を伸ばしたりしないし、潤子さんも楽しそうだ。

「そうそう、元気そのものだったもんね。やっぱりぃ・・・。」

 嫌な予感を感じて食器を回収し終えて引き上げようとしたが、それより前に表情からして好奇心満載の女子高校生の視線が一斉に向けられる。

「「「「出来ちゃったんじゃないのー?」」」」
「違いますって。」

 声を揃えての、これまた好奇心たっぷりの冷やかし半分の問いかけを、俺は溜息混じりに否定する。この女子高校生の客も俺と晶子の関係を知っている。知らない方が
少ないだろうが、左手薬指の指輪を当時接客も多くしていた晶子から聞いて知っているのもあって、片割れの俺にも何かにつけて冷やかし半分に尋ねてくる。
普段なら照れながらもそこそこ応対するんだが、晶子が閉じこもって、しかもその原因となった田中さんが来店しているから、雰囲気に乗って応対する気になれない。
追加注文を聞いて−結構よく食べる−空いた食器を持ってキッチンに向かう。
 その途中で、田中さんが相席している男子高校席の席を見やる。あれは・・・問題集か?テーブルに広げられたそれに男子高校生が向かい、田中さんが指差しながら
話している。男子高校生はさっきまでとは違う意味で目を輝かせて、広げられた問題集か何かに向かっている。学校が塾かは分からないが、勉強を教えてもらっているようだ。
田中さんとの相席を歓迎したのは、新京大学の現役学生なら勉強を見てもらえるというしたたかな計算もあったんだな。
 食器をこの時間帯は一時的な荷物置き場になるカウンターに置いて、追加注文を潤子さんに伝えてキッチン上部に注文の覚書を貼ってから一旦キッチンに入る。
洗い物をするためだ。潤子さんはキッチンで手がいっぱい。マスターは店全体の把握−中高生が飲酒や喫煙をしていないかどうか目を光らせることも含む−の他に
コーヒーをはじめとする飲み物関係の準備があるから、俺が洗い物をしないと食器が追いつかなくなる。
自動食器洗い機なんてものはないから、使い終わった食器は直ぐ洗って乾かしておかないと、数に限りがある食器が底を突く。料理があっても食器がないと客に出せない。
まさかフライパンや鍋から直接どうぞ、と言うわけにもいかないし、それでも多数の注文があればアウトだ。料理器具もその都度洗わないといけなかったりする。

「ありがとう、祐司君。」
「いえ。さっさと済ませますね。」

 4つのコンロをフル稼働させて料理をする潤子さんのねぎらいを受ける。忙しさの中でこうして誰かをねぎらえるのは、潤子さんの懐の深さならではだろう。
マスターが入れたてのコーヒーをカップに入れて、複数個トレイに乗せてキッチンを出る。スポンジに洗剤をつけて食器洗いを開始。急いでいるといっても汚れはしっかり
落とさないといけない。前の汚れが残った食器で食べたくはないもんだ。

「来たわね、あの女性。」

 潤子さんの声がかかる。キッチンからは客席が一望出来る。それに入り口に一番近いところでもあるから、客の出入りを把握しやすい。

「はい。相席でも良かったみたいですね。」
「今日も大入りだし、1人の席はないから相席でも良いかってマスターが聞いて了承したのよ。で、マスターが聞いて回ったら、晶子ちゃんファンの高校生が大歓迎するって
言ったから、あの女性に高校生との相席でも良いか、ってマスターが聞いたら、意外なことにOKだったの。」
「本人がOKしたんですか・・・。」

 相席自体が敬遠されやすいし見知らぬ男性となれば尚更となりそうなんだが、どうも田中さんは普遍的な女性の行動パターンが当てはまらないようだ。晶子もそういう
タイプだから「こういう女性も居るんだな」とは思うが、晶子の送り迎えで文学部がある文系エリアに行くと、集団行動が普通とする女性が圧倒的多数だから、やっぱり
特異な部類なんだろう。

「キッチンに来る時チラッと見たんですけど、勉強を教えてるみたいです。」
「ああ、あの女性って、晶子ちゃんが居るゼミのD1なんだっけ。だとすると、文系教科は楽勝でしょうね。」

 潤子さんは納得した様子を見せる。この前晶子から聞いた話だと、文学部の入試は1次で国語、英語、数学、日本史、世界史の5教科、2次は国語と世界史、
そして英語の筆記とヒアリングだそうだ。偏屈に入試に必要な科目が多い新京大学の例に漏れない。英語が筆記とリスニングがあるのは英文学科だけかと思ってたんだが、
文学部共通だそうだ。それを突破したんだから相応の英語力はある。大学生のうちに退化することもあるが、翻訳業をしながら博士に在籍している田中さんなら
進化はしても退化はないだろう。
手を動かしながら見やると、臨時授業はまだ続いているようだ。面倒見が良いな。
 洗い物完了。手を拭いてマスターと入れ替わる格好でキッチンから出る。それと同時に潤子さんから注文の料理を受け取る。田中さんの居るテーブルのものじゃない。
何を頼んだか聞いてる暇はないし聞いても仕方ないから聞かない。料理を指定のテーブルへ運ぶ。これだけじゃ終わらない。空いた食器を回収してキッチンに向かう。

「祐司君。これ、8番テーブルへお願い。」

 何度目かの往復でキッチンから受け取る料理の行き先に、田中さんの居るテーブルが指定される。グラタンセットだ。俺は注文を取らなかったから知らなかったが、
この前もグラタンセットだったな。好きなのか?まあ、人の嗜好はさておき、早速運ぶ。

「お待たせしました。こちら、グラタンセットです。」
「ありがとう。」

 英語の問題集−テーブルに近づいたことでようやく分かった−を教えていた田中さんが礼を言う。昼会った時の不敵な笑みじゃなくて、自然で柔和な笑みだ。
少なくとも性格が歪んでいるとは思えない。まあ、性格が悪かったら晶子に分かりやすい嫌がらせをしてるだろう。
ついでに男子高校生の空いた食器を回収する。食べながら教えてもらっているせいか、回収するものはあまりない。追加注文の有無を聞くが、珍しくゼロ。何時もなら
あるんだが今は勉強の方、正確には教えてもらう方が重要で食べるのは後回し、といったところか。さっきまで晶子の欠勤の理由を執拗に問い質してきたのが嘘のようだ。
 暫く店内を駆け回るうちに客席に余裕が出来てきた。塾に行く中高生の客が一斉に店を出たのが大きい。フル稼働だったキッチンもひと段落。切り盛りしていた潤子さんも
ようやく一息吐けたようだ。晶子の欠勤の影響を一番受けてるのは潤子さんだよな・・・。他人事じゃないだけに申し訳なく思う。
俺もちょっと一息。キッチンからコップ1杯の水をもらって一気に飲み干す。キッチンと客席の往復に加えて複数になると結構な重さになる料理を運ぶから、肩やら
腕やらが痛い。肩を回したり腕を揉み解したりしながら客席を見る。田中さんはまだ居る。勉強を教わっていた高校生が惜しそうに先に店を出て行って−本当に
惜しそうだった−、悠然と食後のコーヒーを飲んでいる。男子高校生は終始感動と興奮だったのに対して、今もそうだが自分のペースを崩さずに落ち着いている。
このまま閉店まで居るんだろうか?
 コーヒー1杯で粘る客は俺と晶子がバイトに入る時間帯にはあまり見受けられない。塾通いの中高生が夕食を済ませる場所になっているのもあるし、塾通いだと行きは
塾の時間があるし、帰りは帰宅する必要があるから居続ける時間はおのずと限られる。そういう客は食べるものを食べて出て行くから、店の客の回転はかなり良い方だと思う。
・・・あ、コートを持って席を立った。リクエストタイム開始まであと10分ほどなんだが、それを待たずに店を出るようだ。俺はレジに向かう。レジも接客の一環だから、
店が連日大入りになってレジをこなす回数が増えた。田中さんからグラタンセットの代金として1000円札を受け取り、つり銭の200円とレシートを返す。この流れは
一昨日と殆ど同じだな。

「ごちそうさま。また来るわね。」
「ありがとうございました。」

 コートを羽織って店を出て行く田中さんを見送る。客の1人の範疇を出ない。やっぱり晶子が警戒し過ぎなんじゃないかと思うが、昨日の例があるからそうだと言いきれない。
これもまたもどかしい。
一旦手を洗って−意外とこういうところを見ている客は多い−客席回りに戻る。余裕が出来たといっても暇を持て余すには至らない。休めるのは今日も閉店後の掃除が
終わってからだな。

 リクエストタイムを終え、再び客席回りを続けてようやく閉店。遺された食器の回収の後掃除をして、本日のバイトは終了。何時もより長く感じたのは、明日が店の
定休日だからというのもある。だが、それだけじゃない。今までなら客席回りを続ける中でもふとキッチンを見ればそこにあった晶子の姿がなかったせいだ。
 BGMは「君との時間」。選曲したマスターの真意を疑う。皮肉じゃ・・・ないよな?晶子が居ないことで些細なことでも穿った見方をしてしまう。宮城と破局した後の自分自身を
思い出す。疲れた様子の潤子さんを見るのは辛いし、申し訳ない。キッチンはフル回転だったし、そんな中で律儀にも日曜限定のリクエストタイム出場をしたからな。

「今日も大入りだったわね・・・。流石に疲れたわ。」
「注文多かったですからね・・・。すみません、本当に・・・。」
「祐司君の責任じゃないし、店が繁盛するのは良いことよ。それに明日は休みだし。」

 笑みを浮かべる潤子さんが痛々しく見える。無理してると思う。それでも晶子への不満を口にしないのは、余程人間が出来ているが故だろう。俺だったらとても出来ない。
篭ってる部屋に強引にでも入って晶子を引きずり出して店に向かわせるだろう。

「今日も・・・階段の下から言って良いですか?」
「ああ、良いよ。」

 マスターの承諾を得て、俺はコーヒーの残りを飲み干してキッチンを通って階段の下に向かう。今日も真っ暗な階段の向こうに晶子は居る。こんなに近いのに
顔を見られなければ声も聞けないなんてな・・・。

「晶子・・・。メール見たかどうか分からないけど・・・、独りで何時ものスーパーに買い物に行って、晶子が常連の魚屋で晶子が居ないのを尋ねられた。少し体調を崩して
静養してる、って言い訳したら納得した様子だった・・・。本当に身体壊さないようにな・・・。」

 店で客に何度も尋ねられているが、晶子が体調を崩していないかどうか、妊娠してないかどうかが一番気がかりだ。今日のバイト前に聞いた最新情報では何ともない
そうだが、自分で確認出来ないから100%安心出来ない。

「今日もメール送っておいた・・・。読んでおいてくれ。携帯の電源は常時入れてるかし、返事はメールでも電話でも良いから。・・・こんなに晶子の顔や声を見ないで
過ごす時間って、初めてだよな。俺が一昨年の年末年始に帰省した時には1日1回電話で声が聞けたけど・・・。あの時の晶子の気分はこんな感じだったのかな、とか
想像してる。」

 戻って来いとか言うと晶子にプレッシャーになるだろうから言わない。だけどこのままだと言いそうになる。言いたいという気持ちを抑えるには、階段下からの呼びかけを
早めに切り上げるしかない。

「じゃあ・・・俺は帰るから・・・。おやすみ。」

 後ろ髪を惹かれる思いで階段下を後にする。マスターと潤子さんに挨拶して店を出る。明日は休みか・・・。何をして過ごそうか・・・。

「お疲れ様。」

 不意に声がかかる。辺りを見回すが、暗いのもあって声の主が何処に居るのか分からない。

「此処よ。」

 もう一度声がかかる。一度左を見て次に右を見ると、田中さんが立っている。何処に居たんだ?否、それより前に店を出てからずっと待ってたのか?

「田中さん・・・。」
「この際だから、貴方とゆっくり話す機会を持ちたくてね。」
「だから、待ってたんですか?」
「ええ。」

 しれっと言ってのけるが、田中さんが店を出てから閉店までそれなりに時間があった。にもかかわらず待っていたことにある種の執念を感じる。晶子と出逢った頃を
髣髴とさせる。ストーカーかと思うほど俺に付き纏ったよな・・・。あの時性別が逆だったら、家に引きこもるか警察に電話するかしただろう。
今も田中さんとの接触は極力避けたい。だけど、今此処で逃げ出すのはな・・・。田中さんも女性だから、1人放り出してはおけない。こういうところが甘いんだろうが。

「1人で行かないのね。」
「・・・何かと物騒ですからね。駅まで送りますよ。」
「お願いするわね。」

 まんまと田中さんの意向に嵌ったような気がするが、やっぱり放り出して「はいおやすみなさい」とは出来ない。晶子は・・・見てるんだろうか?渡辺夫妻の住居でもある
2階を見るが、どの部屋にも明かりは点いていない。小高い丘の上にポツンと立っている店の周辺には、丘を埋めるタンポポ−店の名の由来でもある−に紛れて、
通りから店への道を照らす電灯が埋め込まれている。だから、そこそこ明るい。
 暗い部屋は屋外からだと中の様子が窺い知れない。だが、屋内から暗い野外は結構見える。明るければ尚更だ。晶子が見ている可能性は否定出来ないが、
言ってしまった以上は・・・仕方ない。晶子が見ていると仮定して、「田中さんに乗り換える気はない」という意味を込めて首を横に振る。これで通じるとは思えないが、
何もしないよりはましだろう。

「見ているかもしれない井上さんへの合図?」

 歩き出そうとしたところで、田中さんの突込みが入る。本当にこの人は、読心術を体得してるんじゃないだろうか?こうも行動の目的や今考えていることをズバズバ
当てられると、驚きを通り越して恐怖さえ感じる。「貴方の考えてることなんて全部お見通し」と、その顔が言っているような気がしてならない。

「・・・ええ、そうです。」
「律儀ね。」
「・・・行きましょうか。」

 田中さんと一緒に丘を下りる。何を話すか・・・。田中さんに聞きたいことはある。どうしてわざわざ店に来たのか、どうして俺を待っていたのか、そして・・・一連の行動は
俺を陥落させるためのものなのか、ということ。3つめは聞きたいが口に出しちゃいけないと宮城や耕次から釘を刺されているから言わない。だが、気になる・・・。

「こうやって、普段は井上さんと一緒に帰ってるのね。」
「ええ・・・。このご時世、何かと物騒ですから。」

 言葉に迷っていると、田中さんから話し始める。相手からの話に応じるのは自分から話し始めるより楽だが、相手のペースに嵌ると脱出するのが難しいんだよな。
話題が豊富とはとても言えない俺は、相手から話し始める方がまだ楽というレベルだ。

「晶子から聞いてるんですか?バイトのことも。」
「ええ。色々と。貴方とは逆に、井上さんは自分の幸せの公開に積極的だから。」

 晶子が俺とバイトの往復を一緒にしていることも知っている様子だ。田中さんの言うとおり、晶子は自分の幸せを積極的に話したり知らせたりする方だから、直接聞かなくても
同じゼミの人から聞くなりして知るのは容易だろう。指輪にしても結婚にしても、晶子が言いだして俺が追認したからな。携帯を買う時もそうだったっけ・・・。

「今日は・・・大学休みですよね。」
「ええ。」

 しょうもない切り出し方だが、これ以外思い浮かばない。馬鹿にしたり鼻であしらったりしないから、聞くつもりなんだろう。

「どうして・・・今日、店に・・・?」
「貴方に会いに来たから、っていうのは答えにならない?」

 恐る恐る出した疑問に、強烈なストレートが返される。宮城や耕次の予想どおりだな・・・。普段は頭脳戦でかく乱しておいて、いざという時にストレートを投げ込む。
ストレートも頭脳戦の一環だろうけど・・・。で、でも、思い過ごしだよな?冗談・・・だよな?

「冗談と思ってるかもしれないけど、貴方に会うために店に行ったのは本当よ。」

 またも心の中を読まれたようなことを言われる。同時に、さっき俺に投げつけたストレートがボール球じゃなくてど真ん中だと証明する。俺に会うためってことは、
晶子や事情を知った他の人達が言うように本気で俺に接近しているのか?

「塾通いの中高生で店が混雑していることは井上さんから聞いていたから、今日は相席を覚悟で行ったの。幸い新京高校の男子学生の客が私との相席をOKしたから、
夕食がてら貴方を見ていた。勉強を見て欲しい、って相席の男子学生に頼まれて、それが英語だったから問題集の該当箇所を教えながら、ね。」
「見ていたって・・・、俺の何を?」
「井上さんが居ない状況でバイトをする様子。井上さんが行方をくらまして最も動揺しているはずの貴方が、私にも他のどの客にも普段どおりわけ隔てなく接客するのは
流石だったわ。雇用形態がバイトとは言え、貴方にはプロ意識を感じたわよ。」
「プロ意識ってほどのもんじゃ・・・。接客はどの客にも同等に、っていうのが基本ですから、たいしたことじゃないですよ。」
「それが出来ない人って、結構多いのよ。」

 田中さんは一呼吸置く。休日や平日の朝は自炊していると聞いた覚えがあるが、接客の様子を観察するほど外食に出かけてるんだろうか?

「私は翻訳業をしながら博士に在籍してるから、打ち合わせとかで出版社の人と外で食事をする機会がそこそこあるのよ。」
「打ち合わせって喫茶店とかそういうところでするんですね。話には聞いたことありますけど。」
「ええ。その時店員を観察するのよ。日常の生活は仕事の参考になることが多いから。その中で、結構居るのよ。横柄な態度の店員がね。店が混雑してるならまだ
分からなくもないけど、余裕があってもいい加減な対応をする店員が居てね・・・。どうやら、打ち合わせで長時間居座るのが気に入らないらしいんだけど。」
「寛ぐ目的で来てるのに『さっさと出て行け』みたいな態度をとられたら、気分悪いですよね。」
「そう。そういう店には二度と行きたくないんだけど、この辺はあまり昼間に営業してる飲食店がないし、出版社の人も経費とは言え必要以上に使えないし、打ち合わせが
主体だから店を選ぶのは二の次にするのもあって、そういう店に行かざるを得なくてね・・・。男性の店員は私と出版社の人−男性が多いんだけど、2人で居るのを興味津々な
様子で見たりするし・・・。」

 出版社の人がどのくらいの年齢かにもよるだろうが、出版の打ち合わせをしているところに「デートか」「不倫か」とか好奇の目で見られるのはかなり気分を害するだろう。
好奇の視線は意外に感じやすい。「目は口ほどのものを言う」なる格言があるが、あれは結構的を得ている。俺が接客をする際には、客から話さない限りは接客に必要なこと
以外で話しかけるないようにしている。晶子が俺と女性客との接点に今まで神経を尖らせることがなかったのも、その必要がなかったのも、俺の接客態度のせいだろう。

「今日の昼も打ち合わせだったのよ。そこでも同じような店に行ってね・・・。」

 そこまで言って、田中さんは再び溜息。同じような経験をしたんだろう。マスターと潤子さんが俺をバイトに採用したのは、ギター演奏が出来ることもそうだが
接客態度がしっかりしているからと前に聞いたことがある。中には客に説教する店もあるそうだが、接客態度がぞんざいな店にはあまり行きたくないもんだ。接客態度は
店の印象を決める大きな要因だということは、実家の手伝いで体験している。

「昼に行った店と貴方が働いている店は、混雑は同じくらいだったけど雰囲気は圧倒的に後者の方が良かった。」
「ありがとうございます。でも、面倒じゃありませんでした?相席の高校生の勉強を教えるのは。」
「教えた教科は英語の他に現代文と古文もあったけど、随分楽なものだったし、美味しい料理のおかげもあって寛げたわ。それに、貴方が真面目に働いてるのを見られたし。」

 田中さんは薄い笑みを浮かべる。昨日の昼にも見た考えが読めない不適とも言える笑みじゃなくて、心持ち穏やかに見える。

「貴方の真面目さや誠実さは井上さんやゼミの人達から聞いていたけど、今までの私への態度を見て、昨日今日と貴方と話して、話が本物だってことがよく分かったわ。」
「・・・。」
「これなら、井上さんが貴方との結婚を既成事実で推し進めるわけだ、ともね。貴方と一緒に居ると・・・安心出来る。」

 駄目だ。これ以上田中さんの顔を見てられない。宮城や耕次が言っていたところの直球だと分かる。晶子が不在で俺が駅まで送る今の状況を巧みに利用した、否、
作り出して組み合わせて投げ込んできた。硬軟織り交ぜた頭脳戦をあしらえる自信はない。

「貴方は半信半疑、或いは疑いの方が強いかもしれない。私から視線を逸らしたのも、誘導に乗らないようにとの自衛策かもしれない。」
「・・・。」
「誘導しているように感じるなら、それはからかいや遊びといった軽薄で人の心を弄ぶ性質のものじゃない。貴方もそんな付き合いは望んでないでしょうし、私も
そのつもりはない。その手の付き合いを好む何らの深みもない平面的思考の男は、話に聞いただけでもうんざりしているから、仕事の付き合いでもない限り関わりたくない。
それは貴方も対象の性別を変えれば同じだと思う。」
「・・・。」
「大学の新年度が始まるまでまだ時間はある。じっくり考えてみて。」

 暗に晶子を待つのを止めて自分に切り替えるよう促しているように思う。直球は1球だけじゃなくて、ここぞという時には何球でも投げ込んでくるんだな・・・。
晶子が戻ってくるまで出版社の人間を相手に仕事をしている豪腕から繰り出される直球が食い込んでくるかと思うと、明日が店の定休日で丁度良かった。
晶子が居なくなったことで生じた心の穴に直球や変化球が投げ込まれるたびに溜まっていくのを、こまめに取り出しておかないとな。
 次を警戒して身構えていたところで、駅が見えてくる。店から駅まではそれほど遠くない。午後10時を過ぎて・・・店を出る時に見た壁時計では確か10時半過ぎだったから、
11時前だろうか。ラッシュ時はごった返す駅前は閑散としている。線路の向こう側は繁華街だからこちら側より賑わいがあるだろうが、最近行ってないから分からない。
田中さんは切符を買う。大学最寄の駅が含まれる最短距離だ。何処で降りるのかは聞かない。それはプライベートの範疇だし、相手から言うか許可をもらわない限り
聞くもんじゃない。それに、聞けば田中さんの思う壺のような気もするし。

「何処まで乗るかも聞かないのね。」
「プライベートに属することですから。」
「あくまでも紳士的ね。」
「それほどのもんじゃないと思いますが。」
「ところが、他ではそうでもなかったりするのよ。」

 田中さんは少し呆れたような、仕方ないと言いたげな表情で溜息を吐く。打ち合わせで住所や携帯の番号を聞きだそうと迫る出版社の人が居るんだろうか。何となくだが、
居そうな気がする。「そろそろ良い歳なんだし」とか更に余計な枕詞をつけたり。店の常連OL集団が「今日の課長って酷くない?」と切り出して、仕事のミスを叱責された
ついでに「そろそろ良い歳なんだから」と前置きして身を固めろ云々と言った、と怒りながら愚痴りあっていたのを耳にしたこともあるし。
 仕事しながら大学に通うってことには凄さや華やかなイメージが先行するが、仕事であるが故に付きまとう問題も「学生だから」で回避出来なくて対処せざるを得ないことも
あるだろう。生計を立てながら通学ってことは、裏を返せば収入源がなくなったら休学若しくは退学を迫られるってことだからな。田中さんはそんなせめぎ合いの続く毎日から
食事の時くらいは現実逃避するために俺に接近してきたのかもしれない。だが、それだけじゃないとひしひし感じている。

「気をつけて帰ってください。」
「ええ。・・・またね。」

 田中さんは小さく手を振って改札を通る。ホームに向かったのを見届けて、俺は駅を後にする。晶子以外の誰かと歩きながら話をするのは、大学以外では随分久しぶりだな。
それだけ俺の生活が晶子一色に染まっていたということ。シャツの胸ポケットに入れてある携帯は未だ微動だにしない。溜息を吐いて帰路に着く。
 外から見ても窓が暗い俺の自宅。ドアを開けても真っ暗で誰も居ない。入ってドアを閉めても居るのは俺だけ。・・・金曜まで、つい一昨日まで隣には晶子が居たのに、
これだけ変わるもんなんだな・・・。溜息が出るが、電灯を点けてコートをデスクの椅子に引っ掛け、風呂の準備をする。店内はまだ緩めの暖房が効いている。その中で
動き回るとかなり汗をかく。
 携帯を取り出してメールチェック。・・・やっぱり「新着なし」か。だんだん期待が薄れていっているような気がする。「今度は来てる筈」が「来てないだろうな」に
代わっていってる・・・。気持ちが離れていくって、こういう状態か・・・?携帯をデスクに放り出して深く溜息。このまま俺と晶子は別れて・・・!
考えたくない予想が次から次へと浮かんでくる。考えないようにと思っても考えてしまう。このまま晶子が戻らなかったら・・・。晶子の気持ちまで離れてしまうんじゃないか・・・。
それより前に俺の気持ちが離れてしまうんじゃないか・・・。俺と晶子はこの先、どうなるんだ?未来が分かれば良いのにとこれほど思ったことはない。多分、否、きっと・・・。

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