雨上がりの午後
Chapter 220 君が傍に居ない時間−その3−
written by Moonstone
目覚める。まず見るのは自分の隣。次に身体を起こして台所の方。どちらにも晶子は居ない。寝ている間に戻ってきてることを少し期待したんだが、無駄だったか・・・。
「独り」を感じて溜息が出る。ベッドから出て着替えを済ませ、朝飯を作る。作るといっても、晶子が買って冷蔵庫に入れてあったハムとレタスを取り出して、レタスを
水洗いしてから適当な大きさに千切り、ハムと一緒に食パンに挟んで塩コショウをするだけ。それをオーブンに入れて2分ほど焼く。サンドイッチするだけより少し焼いた方が
美味くなる。合間に飲み物を作ることと併せて晶子に教わったことだ。
程なく出揃った、軽くトーストしたサンドイッチと紅茶を食べ始める。ふと前を見ても、晶子の姿はない。つい一昨日まで何処かに視線をやれば見えたのに、
今は何処にも見えない。食べている間に何度も溜息が出る。口に余裕が出来れば溜息が出ると言っても言い過ぎじゃない。
晶子と四六時中一緒に居たことに、窮屈さや圧迫感を感じたことはない。「たまには1人になりたい」と思ったこともない。晶子には負けるだろうが、俺も相当独占欲が
強い方だ。独占したい相手が絶えず自分の傍に居ることに安心感や独占の実感は感じても、その逆の感情を抱くことはない。
試験明けからは、後期試験前から殆ど出来ないで居たレパートリーの追加のためにデータ作りをしていた。だから買い物とバイト以外では殆ど外に出ていない。
その間晶子は暇を持て余していたわけじゃない。自分のレパートリーの練習をしたり、家から持ってきた本を読んだりしていた。それで十分だと晶子は言っていた。
年頃の男女、しかも両想いの間柄で密室に居れば、時に相手に手を伸ばすこともある。飛び掛って押し倒してことに及ぶっていうんじゃなくて、相手の後ろから抱き付いて
抱き締めたりキスしたりというレベルだ。これは俺からもしたし、晶子からもした。俺が手を伸ばすのは晶子の料理中が主で、晶子が手を伸ばすのはデータ作りや
ギターの練習がひと段落ついた頃。後ろから抱き付くのはどちらも同じ。
心に突然開いた大きな穴に、冷たい風が吹きぬける。俺が帰省した一昨年の年末年始の晶子は、やっぱりこんな気分だったんだろうか。あの時は今ほど緊密な
仲じゃなかった。それまでに寝たのは俺の20歳の誕生日と田畑助教授との1件の際の2回だけ。戻ってきたその日に寝たが、それまでのブランクで欲望が沸き上がった時は、
寝た時の晶子と様子を思い出して処理していた。
晶子と一緒に暮らすようになって、寝る回数は格段に多くなった。何曜日の夜と決めていないから正確には分からないが、週3、4回。「儀式」の時も同じくらいかそれ以上。
下手すると毎晩かもしれない。それだけ晶子と寝ても、晶子の感触と温もりに飽きては居ない。まさに身も心もどっぷり「晶子漬け」になってる。
セックスするだけの関係になりたくないと思っていたが、何時しかセックスが日課の1つになっていた。田中さんの昨日の問いじゃないが、晶子が居なくなって
生じたこの心の空虚感は、セックスする相手が居なくなったということと等価なんだろうか?
・・・違う。セックスしたいから一緒に居たい、じゃなかった。晶子を愛してる。愛してるからセックスしたい。そう思っていたし、思ってる。晶子以外の女とセックスしたいとは
思わない。それは愛してないからだ。愛がないセックスは第一次欲求を満たすためだけの行為だし、発情期という限定された期間がある動物より節操がないと思っている。
だから、晶子からのサインがなければ抱かない。
でも・・・、こうしてみると、結局はセックスするしない、出来る出来ないが問題の中心になってるように思う。愛してるから。夫婦を公言してる仲だから。一緒に暮らしてるから。
枕詞は色々あってもセックスに結びつくことには変わりない。やっぱりセックスだけの関係になってたんだろうか?
堂々巡りになりそうな思考を中断して、手早く朝飯を済ませる。食器とコーヒーメーカーを洗って洗い桶に入れて完了。することは・・・買い物か。土曜は多く買い物をする。
必要な食材が生じた時はその都度行くが、基本は土曜に済ませる。冷蔵庫を見ると、整然と収納された食材は結構なくなってる。此処で食べるのは月曜以外は朝と昼。
それだけでも結構使ってるんだな・・・。
今の俺ではまだ数ある食材を料理に変貌させることは出来ない。黒く焦げた物体になるか半生になるかのどちらかだか、まともに食えたものじゃなくなることはほぼ確かだ。
かと言って、コンビニの弁当に「戻る」つもりはない。晶子が居ない間に・・・多少なりとも作れるようにしておこう。晶子に任せっきりだった食事を、簡単なもので良いから
自分で出来るようにしておこう。
決めたら即実行。財布と携帯を持って家を出る。自転車で行こうかと思うが、俺だけが朝昼で使う分にはさほど量を必要としないだろうから、歩いて行く。
晶子と行く時も歩いているから歩くのは苦にならない。少し曇り気味だが、雨は降らないだろう。
人と車が多い大通りに出て、それに沿って暫く歩いていくと、スーパーが見えてくる。買い物は殆ど全て此処で済ませる。此処にない品−一部の調味料や食品は、
このスーパーより南に行ったところにある大型小売店に赴く。土曜の午前は割と空いているというのは、晶子と何度も買い物に出向いた経験で分かっている。
店内に入る。人はそこそこ居るが、混雑しているというほどじゃない。買い物籠を1つ取って出入り口に一番近いところにある野菜と果物のコーナーから順に回っていく。
野菜と果物はしっかり摂るように、というのが晶子の方針だ。肉類や脂っこいものを好む俺も晶子の影響で野菜を多く食べるようになった。果物は・・・冬の果物と思っていた
林檎が意外に多いな。値段も安いから買っておく。林檎くらい剥けないといけないし、練習には丁度良い。
野菜は・・・何が少なくなってたか、冷蔵庫を見て来なかったからはっきり分からない。とりあえず、キャベツとシメジ、ピーマン、人参、ジャガイモを買っておく。
玉ねぎはこの前買ったからまだあるのは覚えてる。晶子と一緒だともやしも買うんだが、独りだから使い切れないだろう。もやしはあまり日持ちしないからな。
「あ、ご主人。こんにちは。」
魚介類のコーナーで声をかけられる。晶子が買い物の時に利用する店−スーパーの中に入っているテナントとかいうやつ−の人だ。晶子は普段から主だった魚を
此処で買っている。俺がプレゼントした指輪を填めてからは必ず「奥さん」と呼ばれるようになった、と前に晶子が嬉しそうに話してたな・・・。
「こんにちは。」
「奥さんには何時もお世話になっております。今日は・・・奥さんは?」
「あ、ちょっと・・・体調を崩してまして。」
宮城の時にも使った誤魔化し。ありふれたものだが、大抵の場合に通用するものでもある。店の人は顔を曇らせる。お得意さんの1人が体調を崩したとあれば、
心配にもなるだろう。
「それはそれは・・・。」
「大事に至らないように安静にしてますので、今日は私が代わりに。」
「そうですか。じゃあ雑炊とか作られます?」
「食事は普通どおり出来ますので。」
誤魔化しと推測を織り交ぜた話の展開だが、通じているようだ。マスターと潤子さんの夕飯は晶子が作ったと昨日聞いたし、その時晶子も食べたそうだから、
身体は元気だろう。
「今日のお勧めは何ですか?」
「今日はね、このカレイ。このとおり身が分厚くて、焼いてレモン汁をちょっとかけて食べると最高ですよ!」
店の人は「営業」に戻る。差し出されたカレイはかなり大きいし、横−上からと言うべきか−から見ても分厚いと分かる。晶子が買うと焼くだけじゃなくて煮たりから
揚げになったりとバリエーション豊かに変化するんだが、俺だと焼くのが精一杯だ。挨拶代わりに買っておくか。
「じゃあ、これをください。」
「はい!毎度どうも。」
店の人はカレイを4匹ビニールで包んだ手で掴んで素早くくるみ、もう1枚ビニールを被せて値段が印刷されたシールで封をする。値段は1000円。値札は3匹で
1000円だから1匹はお得意さんの特権とも言えるおまけだ。晶子は何時もこうしてもらっている。
「奥さんのご回復を祈って、今日も勉強させてもらいました。」
「ありがとうございます。妻もきっと喜ぶと思います。」
「奥さんによろしくお伝えください。」
「ありがとうございます。次もよろしくお願いします。」
礼の繰り返しになるが、この場合仕方ない。他にご飯に使うしらすをもらって−ここでもまけてもらう−売り場を後にする。惣菜コーナーは普段使わないし、
買ったら晶子が居ない間に少しでも料理を出来るようにしておこうという、家を出る時の決意を台無しにすることになる。だから今日もパス。続いて肉関係のコーナー。
今日は・・・良いか。此処もパスして、卵とパンを買い物籠に入れてレジへ。
買ったものが少ないからレジは直ぐ終わる。金額2000円少々。3000円を出しておつりとレシートを貰い、収納するテーブルへ。レジ袋に詰めるが、手当たり次第という
感覚は否めない。重い林檎を一番下にして、形がひしゃげても平気なもの、ひしゃげると困るものの順に詰める。これで良しとする。レジ袋1つに収まった買い物を持って
店を出る。帰り道も普段だと晶子とこの食材ではこういう料理が出来るとか、そういう話をする。俺が聞いたり晶子が聞いたりするが、2人で話して盛り上がるのは確かだ。
今は独りだから、1人2役でも傍目から見れば危険か怪しいかのどちらかだろう。独りだと途端に成り立たなくなるシチュエーションって結構多いもんだな・・・。
帰宅。少し期待したが、晶子は戻っていない。食材を冷蔵庫に収納して一息吐く。何度目の溜息だから言葉どおり「一息」だ。買い物で鳴らなかった携帯を広げて見るが、
メールの新着や着信履歴の表示はない。ここでまた溜息が出る。試しに電話をかけてみるが、「この電話は電波の届かない地域に・・・」メッセージが聞こえてくる。
晶子がメールを読んだかどうかも分からない。電源は切り続けてるのかな・・・。
食事をする気になれないから、携帯を広げたままルーズリーフの楽譜ファイルをデスクに広げる。後期試験が終わってから少しずつ作っていた「Stay by my side」の
ギターソロバージョン。俺と晶子が持っている携帯は、音を目的別にランダムに鳴らせる機能がある。今まで電話は「Fly me to the moon」のギターソロバージョン、
メールは「明日に架ける橋」のイントロ部分で固定だったが、ランダム演奏機能を使おうと思って晶子に内緒で作ってきた。
2つの着信音に飽きては居ない。むしろ「馴染みのもの」「俺と晶子だけが持つもの」と認識が深く、強くなっている。バリエーションを増やしたくなっただけだ。
広げた譜面には、走り書きした音符が並んでいる。俺が使う分には苦労しない楽譜と携帯の液晶画面を交互に見ながら、「Stay by my side」ギターソロバージョンを
入力していく。
携帯がいきなり−合図がないのは分かってるが−コール音を鳴らし始める。「Fly me to the moon」じゃなくてオーソドックスな、少し甲高い電子音の単調な繰り返し。
晶子以外からの電話だと鳴るように設定してある。液晶画面に表示されている名前は「本田耕次」。そう言えば、耕次達とはこの前の旅行で携帯電話の番号を
交換したんだったな。フックオフのボタンを押して耳に当てる。
「はい。」
「やっぱり元気がないな。」
予想どおりと暗に言っている。耕次は事情を知ってるのか?だとしたらどうして?まだバンドの面子には言ってない−あんまりこういうことは言いたくないもんだ−筈だが。
「誰からかは、分かるよな?祐司。」
「ああ、分かる。耕次。番号を登録してあるから携帯に名前が表示される。」
「なら良い。優子ちゃんからのメールで事の成り行きを知った。メールアドレスは一昨年帰省した時に交換済みなんでな。」
「あ、そうか。でも、何で俺に電話を?」
「晶子さんは携帯の電源を切ってるそうだし、俺が相談相手になるよう優子ちゃんから依頼があった。心理を読んで対策を練るのは得意分野だろう、ってことでな。」
ありがたいような、ありがたくないような・・・。思いがけないところで交流はあったりする。携帯が普及してからは交流が束縛になってしまうことも多々あると聞く。
理由が喧嘩じゃないとは言え、話したくない事情ではあるからな。
「優子ちゃんからも推論とかは聞いてると思うが、事情を聞いた俺から改めて推論や祐司が取ったほうが望ましい対策を述べることにする。参考までに聞いておけ。」
「ああ。」
「晶子さんの今回の行動の理由は、簡潔に言えば『ないと見越していた事態に突如直面したことによる混乱と逃避』だな。」
やっぱり耕次も混乱と逃避と思うか・・・。それくらいしか理由が見当たらないよな。俺は当事者ということもあって、深く考えると自分が不安になるから避けているが、
当事者として晶子の態度の変貌を目の当たりにしたから推論の内容はほぼ一致する。
「自分が独占出来ると見越していた祐司を狙って、かなり有力な、しかも比較的身近なところから対抗者が現れた。入籍前から結婚を公言しているにも関わらずな。
そこで更に独占の度合いを強めるべく祐司との同居に踏み切った。しかし相手は撤退するどころか攻勢を強めてきた。これ以上の独占策を打ち出せなかった晶子さんは
混乱すると同時に、祐司と暮らすのが怖くなった。」
「怖く・・・なった?」
「そうだ。自分と一緒に暮らしてさえも居るのに、他の女性に乗り換えられることへの恐怖だ。その最悪の事態を見せ付けられる前に逃避行動に出た。祐司と一緒で
なければ、最悪の事態を目の当たりにしなくて済むからな。」
恐怖という見解は初めて聞いた。だが、分からないものじゃない。俺も宮城と付き合っていた時、この関係はずっと続くものだと思っていた。だが宮城の心は徐々に
揺らぎ始めて、やがて俺を試す目的があったとは言え最後通牒を突きつけ、俺が「撤退」したとなるや別の男に乗り換えた。
晶子は俺と付き合う前に結婚を強く意識した大恋愛をしたが、何らかの原因で破局した。どうもそれは相手の移り気に因るものじゃなく、第三者に引き裂かれた
ためらしいが、その破局で前の大学を辞め、実家からも事実上断絶して、今の大学に入り直して今の町に移り住んだ。その辛い過去が再現されるのを恐れている、と
考えることは出来る。
「もっとも、祐司には何のことかまったく身に覚えがないだろうし、祐司にしてみれば晶子さんの不安は取り越し苦労でしかないだろう。だが、晶子さんにとっては
せめて最悪の事態を目の当たりにしないための、精一杯の防衛策だ。一方で逃避先が祐司が直ぐ突き止めると分かるバイト先なのは、心の何処かで自分の不安が
杞憂に終わるよう望んでいることの表れでもある。」
「俺は・・・どうすりゃ良いんだ?」
「月並みな答えだが、待ってやれ。晶子さんが戻ってくるまで、な。」
やっぱりそう来るか・・・。それしかないと分かってるつもりだ。だが、俺からすれば勝手に混乱して勝手に逃げ出した晶子の「改心」を期待するしかないというのは
もどかしいし、怒りすら呼び起こす。
「晶子さんを待つにあたっては、祐司が特に意識すべきことはない。今までどおりで居れば良い。」
「今までどおり、か・・・。」
「恐らく祐司が会って、事情と併せて祐司の性格を知っている人はそう言っただろう。だが、それこそが晶子さんが最も望んでいることだ。祐司が自分から離れることが
ないと確信出来る最も重要な要素だからな。」
「結局、俺は試されるわけか・・・。」
「何だかんだ言っても、日本の恋愛では女性が受け手に回るもんだ。無意識を含めてな。」
同調するような耕次の言葉で溜息が出る。そうなんだよな・・・。今の晶子との関係にしても、アプローチを始めたのは晶子だが区切りとなる交際の申し込みは
俺からだったし−「好き」と最初に言ったのは晶子だったが−、プロポーズも晶子は俺のを待つという態度だ。今回も俺が心変わりしないかどうかが一方的に試されている。
混乱した理由も見覚えがなければ、気持ちを試される理由もない。それで泣きを見ることになったら、笑うに笑えない。
晶子を見限るつもりはない。だが、それにはどうしても「今のところは」という修飾句をつける必要が生じている。突然突きつけられた試練−と言うのかどうかも甚だ
怪しい−に理不尽さを感じずには居られない。そこから「もう知らない」と見限ろうかという気持ちが芽を出しかけている。
こういうのを「2人の女を前にして揺れ動く気持ち」と言うのかどうか・・・。選択するつもりはない・・・筈だし、それほどたいそうな身分じゃない。そもそも田中さんの真意も
はっきり掴めていない。好意云々は聞いたが、それが「好きだ」「愛してる」と等価かどうか判断するには不足している。惚気続ける晶子への頭脳的な嫌がらせじゃ
ないかとの推測は全否定出来ない。だから、2人の女から選択する立場とは思えない。だが、この先どうするかを選択する立場であることは確かだ。
マスターが言っていたとおり、晶子を見限るのも晶子を待ち続けるのも俺次第。厄介な立場になっちまったもんだ・・・。
「話を変えて問題の女性、優子ちゃんからの情報では祐司と同じ新京大で、晶子さんと同じ文学部のゼミの博士だそうだが、彼女についての見解などを言っておく。」
耕次は田中さんについて言及を始める。耕次の推測は色々な事態において事実や確信を鋭く指摘するから、一聴に値する。
「新京大の偏差値レベルでの高さは全国有数なのは勿論だが、俺が調べた限りでは男女の偏在は他の大学と類似してる。文学部は女子の比率が高くて男子の
比率が低い。受験勉強に伴う諸々の軋轢から解放されたところに、同じキャンパスで見てくれが多少でも良い異性を見かければそれなりに興味を抱くのはごく自然だ。
だが、それを本人がどう思うかはまた別の話だ。」
「・・・。」
「情報からするに、彼女−晶子さんじゃなくて今回の事態を喚起した博士の女性の方だが、そういう興味を基盤にした誘いに相当辟易していたんだろう。何処からが
美人で何処からがそうじゃないかは個人の価値観的命題だが、一般的に美人と称される部類が偏差値レベルで高い大学に入るのは受験に該当する絶対数が少ないから
少ない方だろうし、彼女目当てが集中して嫌気が差したんだろう。見てくれで初対面時点から露骨に格差をつける輩は男女問わず多いもんだから、その格差が嫌だと
尚更な。そうして男性全般を敬遠したまま博士に進学したところに、同じゼミの学部生の夫である祐司の存在を知った。」
「・・・。」
「祐司は見た目これといって特徴がない。だが、真面目さや誠実さは特筆すべきものがある。晶子さんと彼女は、見てくれ云々より内面を重要視するという点で
同じ傾向を持っていると推測出来る。祐司が携帯サイトからダウンロードすれば済む着信音を一音一音入力して手作りしたり、学業でも申し分ない成績を収めるなど、
真面目さや誠実さを見聞きして、今まで自分に近づいてきた男とは違う、と踏んだ。実際に数回対面して話をして、推測は確信に変わった。」
「それなんだけどさ・・・。話をした回数なんて数えるほどしかないし、そんな状態で恋愛感情−そうかどうかも怪しいけど、そこまで発展するもんなのか?」
「十分ありうる。」
耕次は即答する。即答出来るだけの材料が、耕次にとってはあるんだろう。
「さっきも言ったように、彼女は見てくれ云々で露骨に態度を変えて自分に近づく男の多さに辟易していたんだろう。そこに、見てくれ云々で態度を変えない
男性の存在を知れば『そういう男性は居るのか』と興味を持つに十分だし、実際に対面すれば『こういう男性は本当に居るんだ』とある種の感動すら伴って一気に
恋愛感情へと発展する可能性は十分ありうる。彼女の男性との交際経験がなしを含めて少ないなら尚更だ。」
「付き合ったことがあるかどうかは聞いてもないから知らないが、話の内容からはなさそうに感じた。」
「見てくれで恋愛勘定が発生する可能性は間違いなく高い。一目惚れってものがあって、その理由の大半は見てくれだからな。だが、人間誰しも見てくれで
恋愛対象とするかどうかを決定するわけじゃない。それは晶子さんが如実に証明している。交際を始めて1年未満で、早々と祐司からの誕生日プレゼントである
ペアリングを左手薬指に填めて填めさせたのは、その時点で少なくとも婚約という位置づけだったようだし、今じゃ祐司との結婚を積極的に公言してるし、
ほぼ同居状態にまで進展させた。そこまでの入れ込みようは『見た目良い男だからゲットしておこう』っていう意識が元じゃないことは間違いない。」
耕次の言うことには思い当たる節が多い。晶子からアプローチを始まったが、そのきっかけは俺が晶子の兄さんに似てるというだけであって、俳優やタレントの
誰それに似てるからというもんじゃない。その後も晶子からの熱いアプローチ−今だから言える−は続いて、誕生日プレゼントのペアリングは渡した時点で事実上
結婚指輪と化した。
「後は婚姻届を出すだけ」と、今までの状況を簡潔に総括出来る。単に俺が所謂「良い男」なら、女から言い寄って付き合うこともあり得るが、誕生日プレゼントを
結婚指輪と位置付けたり、周囲に結婚を公言したり、率先して同居に踏み切るところまではいかないだろう。兄さんに似てるからっていう理由も、そこまでの関係の
進展には直結しないだろう。晶子の入れ込みようが耕次の表現を借りれば「良い男だからゲットしておこう」というレベルの話じゃないことは、間違いないと思う。
「男性との交際経験が少ないというのも、入れ込みが深まる大きな要因となりうる。複数の男性と親密に接してないから、色々な男性のパターンを知らない。
男性遍歴が多ければ良いっていうもんじゃないが、男性の行動や思考のパターンを学習する機会は少なくなる。同じような男性との交際と別れを繰り返すっていう
パターンも勿論あるがな。彼女もそういった事情から、今まで自分に近づいてきた男と違うタイプの祐司と接したことで、思い入れが強まった。言い換えれば一挙に
恋愛感情へと発展した、ってわけだ。」
「まさか、実際に本人に会って面と向かって『俺のこと好きですか?』なんて確認出来ないしな・・・。」
「晶子さんとの関係に専念したいなら、それは止めておけ。祐司がそう尋ねたら、彼女は多分『好き』と答えるだろう。晶子さんが祐司の傍に居ない、今までの
緊密具合からすればノーガードと言える状況なんだから、祐司が自分に関心を持っていると踏んだら、一挙に強烈な攻勢に乗り出す可能性もある。」
「宮城も言ってたけど、それって俺が抱きたいから脱げって言ったら脱ぐこともありうるのか?」
「ありうる。むしろ、そうするだろう。彼女が祐司に関心を示す大きな要因である真面目さや誠実さからして、セックスすることが文字どおり一線を越える関係に
なることを意味して、軽々しくすることをタブー視していると判断するのは容易だし、祐司からその一線を自分と越えようと申し出があれば迷わず受けるだろう。」
俺にとってセックスは、将来の結婚−その後の共同生活も含む−を前提にしたものだ。婚約の儀式とも言える。だから宮城と破局した時は深く絶望したし、女性全般を
激しく憎悪するようになった。晶子とセックスするのを、俺が20歳という1つの節目を迎える時まで待ったのもけじめの1つだった。
晶子も知っている限りでは、男性との交際経験が少ない。俺と付き合う前に結婚を意識して付き合っていた相手くらいだろう。その過程でセックスがあったし、
破局が実家との断絶、以前通学していた大学の退学と今の大学への入り直し、今のマンションへの移住へと結びついたんだろう。俺と晶子は似た者同士だと思う。
「そのつもりはないよな?」
「ない。」
「それを聞いて安心した。」
俺が即答したことで、耕次は安堵したようだ。ここで迷ってるようじゃ、年末年始の旅行で晶子を妻と紹介したことも、その直後に向かった実家で俺の両親に
将来の結婚を宣言したこと全てが、前言撤回されちまう。晶子との関係はそんないい加減なもんじゃないつもりだ。
「携帯はどうだ?」
「さっきもかけてみたんだが、電源を切ってるらしくて繋がらない。」
「メールは?」
「昨日送った。」
「優子ちゃんからのメールにもあった。内容は流石に見てないそうだが。」
「内容は、晶子が居なくなったのを知ってバイト先で経緯を知ったこと、今の心境、何時電話やメールしてきても良いように俺の携帯の電源は入れておく、ってところだ。」
「それで良い。晶子さんが祐司に何より望んでるのは、他の女性が出現しても動じないことだ。この電話の後でメールを送っておけ。内容は気持ちが揺れてることを
感じさせなけりゃ何でも良い。これこれこういうことをした、っていう単調な日記で十分だ。」
「そうしておく。」
耕次との電話は終わる。もっと長くなるかと思ったが、耕次が配慮したんだろう。フックオンのボタンを押した携帯の画面をメール関係のものに切り替えて、
まず「メール新着確認」を選択。・・・何もなし、か。ずっと電源を入れてても新着メールが来なかったんだから、期待するだけ無駄だったか・・・。
新規メールを書くにはまだ時間が早いか・・・?買い物に行って晶子が居ないのを店の人に心配されたこと。着信音の新曲を作ってること。現在進行形のものを含めれば、
今日だけでも書くことは結構ある。メール1件あたりの最大送信文字数は5000文字だから、思いついたことを書いていくのも良いだろう。
バイトに行く前に書いて送るか。その時点での心境とかは、バイトが終わってから昨日みたいに階段の下から呼びかける形で話せば良い。独りになったこの時間で
新しい着信音候補の曲「Stay by my side」を作っておこう。「Stay by my side」か・・・。今の俺の心境そのものだな。晶子もそう思ってるんだろうか。
・・・1フレーズのメロディラインがほぼ出来た。試しに鳴らしてみる。ギターソロにアレンジした原曲と同じ短いイントロから、何度も聞いたメロディが、少し安っぽいように
聞こえるアコギの音色で奏でられる。何気なしに口ずさむ。歌詞が晶子との出逢いや心境を代弁しているように感じられてならない。歌詞で恋愛が最大のテーゼとして
君臨し続ける理由が分かるような気がする。
レパートリーの追加や練習の他にすることと言えば、着信音作りくらい。・・・あ、洗濯と掃除があるか。フレーズの繰り返しに差し掛かったところで携帯を止めて、
デスクに置いて浴室の方へ向かう。畳1畳ほどの空間が脱衣場兼洗濯機置き場。洗濯機の上に乗っている洗濯籠には、俺の服や下着しか入っていない。
晶子は家を出る時洗濯物も持っていったんだと分かると、寂しさややるせなさが増す。
突っ立っていても洗濯が進むわけじゃないから、洗濯をする。と言っても服と下着類を別々に洗濯機に入れて、洗濯機のボタンを押すだけ。洗剤や水の投入は洗濯機が
自動で行うから、完了を示す電子音が鳴るまで放っておけば良い。
その間に掃除。まず戸棚など上にあるものを乾拭きして、その後で全体に掃除機をかける。基本的に単身者向けだからさして掃除に時間はかからない。ものが多いから
乾拭きする場所が多くて、特にシンセサイザーやデスクあたりが込み入っているから面倒だが。
掃除機を仕舞ったところで、電子音が鳴る。洗濯が終わったという合図だ。洗濯機のある脱衣場兼洗濯機置き場に向かい、洗濯機から洗濯物を取り出す。
それをリビング−というほど広くないが−に持っていって、今度は下着類を洗濯。これも洗濯機にお任せだ。
リビングの中央で洗濯物を干す準備をする。衣類はハンガーにかけてタオルは洗濯バサミが集まったものにぶら下げる。かけたりぶら下げたりする前に何度か波打たせる。
こうすることで皺が少なくなる。晶子に教わったことだ。
マスターと潤子さんの家に居る晶子は、今頃何してるんだろう・・・。一昨年の年末年始に俺が帰省した時、晶子はこんな心境だったんだろうか。心に突然出来た大きな穴。
真っ暗で底が見えない穴。これを埋めるのは晶子が戻ることか、或いは・・・。
下着類の洗濯も終わり、室内に作った物干しに吊るして洗濯は完了。するのはまだ良いんだが取り込むのが面倒なんだよな。晶子はてきぱきと進めて「慣れてますから」と
言っていたが、俺はどうも慣れそうにない。元々生活関連はいい加減だからな。家のことをそつなくこなせる晶子の存在がどれだけ大きかったか、改めて分かる。
晶子におんぶに抱っこにならないように、俺も試験期間中から家のことを手がけては来た。だが、晶子が「まとめてした方が効率が良い」と言って、殆どこなしていた。
掃除はまだしも、洗濯の取り込みはかなりの部分を晶子に任せていたし、食事は完全に晶子に頼りっきりだった。洗濯はする際にも取り込む際にも互いの服は勿論下着も
見ることになるが、俺は照れたり変に興奮したりしなかったし・・・色とかにはそれなりに興味を持ったが、晶子も躊躇することはなかった。
任せっきりで本当に良いのか、と試験明け直後あたりに晶子に尋ねたことがある。晶子も現役学生だから当然試験はあったが、その間も家のことを続けて担ってくれていた。
男が女に任せっきりにするのは、と言ったところで晶子が笑みを浮かべながら言ったことを今でも思い出せる。
それぞれのカップルで決めることですから、気にしないことですよ。
私は家のことをするのが好きですし、したいからしてるんです。
私は、「男が」「女が」とか言ってあれこれ言う方が、実は一番男女はこうあるべきと価値観を押し付けたがってるように思うんです。
聞けば、晶子はゼミや学部学科の講義の合間とかで、俺との生活を聞かれて自分が家事の大半をしていると答えたことに対する男女平等の時代に逆行するといった
「批判」に、そう言って返したそうだ。「こんな調子だから浮いちゃうんでしょうね」と笑ってもいた。
俺は、晶子が居てくれてありがたいとか助かったとか思うことはあっても、便利だとか都合が良いとか思ったことはない。晶子は、1人だと今のマンション以外の場所では
住めないが俺が居ることで凄く安心するし、一緒に居られてありがたいし幸せだと言っていた。これを相互依存と片付けるのは簡単だ。でもどれだけ理屈や論理を並べても、
「好きだから」「愛してるから」という気持ちに基づく自発的な行動を妨害するには無力だと思う。
洗濯物を全て干して再びデスクに向かう。不思議と腹は減らない。携帯で時刻を見ると13:00近いが、それでも空腹を感じない。晶子が居る時は食事の時間になると
腹が減ってきたのを感じたし、それを受けて晶子が食事を作ってくれたんだよな・・・。晶子が居ると居ないとではこうも違うもんなんだな・・・。
徐に携帯を広げて、晶子に向けた新規メールをしたためる。この間に晶子からのメールや電話が来るのを期待して。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:独りの心境
今朝起きてまず確認したのは、晶子が居るかどうかだった。居ないのを確認して改めて今自分は独りなんだと実感した。何時も晶子と買い物に行くスーパーに買い物に行った。晶子が常連の魚屋で晶子が居ないことを指摘されて、少し体調を崩して静養していると答えておいた。店の人も心配していた。
帰宅した時、晶子が戻ってきてないかと期待した。期待が外れてがっかりした。その後掃除と洗濯をした。家を出る時に洗濯物も持っていったんだな。自分が居た痕跡まで徹底的に消した理由が知りたい。
魚屋で晶子が少し体調を崩していると答えたが、晶子は身体壊したりしてないか?姿も見られないし声も聞けないで居る今、それが一番心配だ。健康で居てくれれば良い。昨日バイトから引き上げる時に階段の下から話したけど、もし妊娠してるって分かったら、直接でなくても良いから知らせて欲しい。俺と晶子の子どもなんだから産んで欲しいし、一緒に名前を考えたい。
|
文面を一度確認してから送信。送信完了の画面は出るから、晶子の方でメールアドレスを変えたりはしてないようだ。メールを読んでいるか読んでいないかは分からないが、
送っておくことに意味があると思っておこう。
携帯の画面を切り替えて新しい着信音候補「Stay by my side」の制作を再開する。着信音は赤外線で送受信出来る他にメールに添付することも出来る。赤外線通信は
同じ機種メーカーの携帯でしか出来ないが、メール添付なら受信パケット制限に引っかからない限りどんな機種でも出来る。
試験が終わって時間が出来た分、早く出来そうな気がする。晶子に送るのは戻ってきてからにしたい。メール添付だと何となく味気ない気がするし、メールで近況とかを
書き綴っているのも本来なら直接面と向かって言うか、それが出来ないなら電話で言うかするところだしな・・・。
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