雨上がりの午後
Chapter 202 予期せぬ台頭(前編)
written by Moonstone
久野尾先生直々の勧誘はようやく終わった。
学部学生用のPCに俺のアカウントを作っておこうかと言われたが、進級を確定させてから改めてお願いしに来ます、と応じた。遠慮のつもりだったんだが
それが試験に真剣に臨む姿勢と評価されたらしく、久野尾先生の居室を出る時は、久野尾先生と入室してきた院生の人達の見送りを受けた。恐縮恐縮。
晶子には階段を下りて研究室が見えなくなったところで、「今から迎えに行く」メールを送った。そうしたら程なく返信が届いた。内容は以下のとおりだ。
送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:お疲れ様でした。私の居場所を教えます。
メールありがとうございます。私は前のメールでお伝えしたとおり、文学部研究棟の3階にある戸野倉ゼミの部屋に居ます。同じ学年の人達の他に、学部4年の人や院生の人達も居ます。このメールは直ぐ返信出来るように事前に用意しておいたんですが、携帯と祐司さんの話題で持ちきりでしたよ。
場所ですが、何時も私を送り届けてくれている講義棟の東隣にある、赤いレンガ造りの4階建ての建物が文学部の研究棟で、建物の中央や両脇にある入り口から入ると直ぐ階段があります。それを3階まで上ってもらって、中央付近にある305号室が戸野倉ゼミの部屋です。待っていますので、慌てないで来てくださいね。
|
ゼミの部屋に居るというのは既に知ってるが、メールの内容からするに「外野」が相当数居そうだ。前に晶子の案内で講義室に誘導された時にも人が相当数居たっけ。
晶子との付き合いは勿論疚しいものじゃないけど、俺は自慢したり自分から積極的に話したりする方じゃないから、場に耐えられるかな・・・。
その辺は晶子に任せれば良いか。部外者の俺より上手く説明してくれるだろう。
転々と並ぶ街灯が照らす夜の闇−このところ少し広がり始める時間が遅くなってきているような気がするが−の中を歩いていく。俺が大学での日常を過ごす工学部の
場所と、晶子が過ごしている文学部とはかなり離れている。毎日送り迎えをしているから迷うことはないが、自転車が欲しいと思うことが時々ある。
えっと、研究棟は・・・、あ、こっちだ。似通った建物が多いから今でも時々間違える。近くにある入り口のスロットに学生証を通してドアのロックを外す。
大学内に不審者が侵入という事件が相次いでいるのを受けて、急遽設置された防犯システムだ。学生証は元々24時間出入り出来る図書館のゲートを通るために
必要なシステムが搭載されているから、学生証を新規発行するよりはずっと安上がりで済んだはずだ。
ドアを閉めて、メールにあったとおり間近にある階段を上る。3階に到着。殆ど変化のない風景なのは変わらない。工学部より若干綺麗に思う程度だ。
花が咲いているプランターが置いてあったりしたら、それはそれで面白いが。
プレートに書かれた部屋番号を確認しながら歩いていく。最初に見たのは325号。次は324号、その次は323号。逆順を辿っている。入ったドアを間違ったようだが、
今更入り直す気はない。307、306、305・・・あった。ドアを見ると「戸野倉ゼミ 学生居室」とある。此処に間違いないな。
ドアをノックすると、女性の声ではい、と応答が返って来る。晶子の声じゃないが、応答の直後から微かにドアの向こうからざわめきが聞こえてくる。
ある意味覚悟を決めて、俺はドアを開ける。
「失礼します。」
「あー!やっぱり晶子の旦那だー!」
一応挨拶をしてかしこまった俺に対し、歓声が出迎える。見たところ・・・20人くらい。男女比は・・・男1に対して女9くらいか。
晶子はその集団に包囲される形で、椅子に座って手を振っている。俺は手を振り返して晶子に歩み寄る。
「お待たせ。」
「いえ。それより来てくれて嬉しいです。」
急な連絡だったが、晶子は嫌な素振りを少しも見せない。逆に、俺をゼミの人に披露出来て嬉しいようだ。
「へぇー。井上さんの旦那って、本当に写真とはイメージとか雰囲気とかが全然違うわね。話には聞いてたけど。」
「命令して従わせたりするタイプには見えないよね。」
見覚えのない顔の女性が俺を評する。学部4年か院生か分からないが、晶子が先んじて写真を見せたり、見覚えのある顔の学部3年とかから話を聞いたりしているのは
確かなようだ。
「電話とメールの着信音を聞かせてもらったんだけど、貴方が作ったのよね?」
「はい。」
黒のショートのボブが似合う、見た目年上と感じさせる雰囲気の女性の問いに答える。
「凄く良かったわよ。特に『Fly me to the moon』のギターソロ。一般的な着信音の志向と違う洒落たアレンジと上品さが際立ってたわ。」
「ありがとうございます。」
素直に嬉しいから礼を言う。確かに「Fly me to the moon」自体が、どういうわけか賑やかなものが圧倒的に多い−手持ちの携帯に内蔵されているものや
今まで耳にしたものを総括して−、否、殆どがそうだと言っても良いくらいの中で、明らかに大人しい。
俺のアレンジは、俺が店で弾いているものに少し手を加えたものだ。音色はアコギだし、原曲のイメージを崩さない方針でアレンジしたから、大人しさはそのままだ。
賑やかだったり派手だったりする中で大人しいから目立つこともあるらしい。
「井上さんから聞いたんだけど、ギター弾けるんですってね。」
「はい。」
「その道のプロも注目するほどの腕前だとも。」
「それは贔屓目や社交辞令とかもあるんだと思います。」
「メジャーシーンで脚光を浴びてるプロと違って、客の間近で自分の音を聞かせることを生業としているプロが注目するんだから、その音が本物かどうかが
むしろよく分かるものよ。」
一応謙遜した俺に対し、その女性はたおやかな口調で鋭いことを言う。そういえば、冬の旅行で屋外ライブをやってたプロの演奏で、素人の俺やバンド仲間が
その音の出力の問題に気づいたな。案外そうなのかもしれない。
高校時代に行ったライブハウスは広くても詰め込んで100人入るかどうかという程度だったし、バンド仲間で演奏する前には自分達でチェックを繰り返したことも
あってか、別の角度からも結構耳を鍛えられたように思う。もっともその時は耳を鍛えるなんていう大それた目的意識なんてなくて、自分達しか音響設備を整える
人手が居ないから自分達でするしかなかっただけのことだが。
「今日はこれから井上さんと揃ってバイトに行くそうだから、今度来た時にでも聞かせてくれない?」
「ギターは普段持ち歩いていませんから・・・。」
「此処には去年の学部生が置いていったギターがあるから、道具の面は心配要らないわよ。」
「じゃあ、また機会がありましたら。」
「楽しみにしてるわね。」
女性は口元に笑みを浮かべる。綺麗と妖艶さが混じった笑みからは、ある意味年齢相応の大人の雰囲気が感じられる。
「晶子、行こうか。」
「はい。お先に失礼します。」
「じゃあねー。」
「また来週。」
退室の挨拶を言った晶子と共に、ゼミの人達の見送りを受けて部屋を出る。前に晶子に誘導されて同じ学科−だと思う−の人達の見送りより「大人しい」。
見覚えのある顔も居たし、話を聞いたりしているのもあるんだろう。
「普段、あの部屋に居るのか。」
「ええ。私は講義があまりありませんから、他の時間は大抵あそこに居ます。共有ですけどPCもありますから、レポートの調べ物をしたりしてるんです。」
「晶子が居るゼミの部屋ってどんなものかと思ってたんだけど、俺が仮配属中の研究室の学生の居室と大きな違いはないな。もっと整然としてて、花が飾ってあるとか
思ってたんだけど。」
「学生の居室ですから、置いてある専門書の内容が違ったりする程度ですよ。」
「俺の想像が乙女チック過ぎたか。」
「文学部=女性が多い」という現実を知っているから、学生居室も女性的な雰囲気になっているものかと想像していたんだが、俺の勝手な思い込みだったようだ。
久野尾研の学生居室のように雑然としてなかったのが目立った違いか。
「祐司さんが仮配属中の研究室の学生居室はどんな感じなんですか?」
「パーティションで区切られた空間に共用のPCがあって、各自勉強したり飲食したり出来る大きなテーブルがあって、専門書の他にどういうわけか漫画とかも入ってる
本棚が幾つか並んでる。だから、晶子が居た部屋とあまり変わらない。」
「仮配属中だと、居室の利用に制限はあるんですか?」
「否、PCが使えないこと以外は特に制限はない。今日先生と話してる時に入ってきた院生の人にPCのアカウント作っておこうか、って言われたけど、進級を確定させてから
お願いします、って辞退した。」
「今日用事があるってメールしてくれたのは、先生に呼ばれたからだったんですね。」
「ああ。他所の研究室に誘われてないか、とも聞かれた。何だか俺の知らないところで奪い合いになってるらしいんだ。そこまでする理由がいまいち良く分からないけど。」
「真面目に頑張る人が欲しいからですよ。」
「そう・・・なのかな。先生も院生の人達もそんなこと言ってたし。」
「そうですよ。」
晶子に笑顔で言われて、俺も自然と笑みが浮かぶ。
晶子が新たに泊まりに来るようになった日曜も、レポートや試験の準備で朝から出かける、なんてことが出来ないで居る。それでも晶子は何も不満を口にしない。
レポートや試験勉強をしているところに、紅茶を入れたりしてくれる。その気遣いだけでも嬉しい。
「部屋ではやっぱり、携帯の着信音について聞かれたりしてたみたいだな。」
「ええ。ゼミの人でも院生の人の中には始めて話を聞いたという人も居たので。」
「その中で・・・、あの女性(ひと)は院生かな・・・。黒のショートのボブの、ちょっと低めの声で『Fly me to the moon』のアレンジの詳細を褒めてくれた女性。」
俺を見て興味深そうに観察していたわけでもなく、その場に佇んでいた雰囲気はかなり独特のもので存在感が際立っていた。少し低めの声が印象強く残っている。
「あの女性もそう?」
「あ、田中さんのことですか。あの女性も今日初めて話を聞いた人の1人です。」
答えた晶子の顔が少し硬くなったような気がする。あの女性と何かあったんだろうか?
去年、智一の従妹でもある吉弘さんが晶子を敵視したことでトラブルに発展したことを思い出す。
「その田中って女性から、何か嫌がらせとかされたりしたのか?」
「いえ、それはまったくありません。田中さんに限らず、嫌がらせとかそういうことは何もされていませんよ。」
「なら良いんだけど・・・。」
「田中さんはゼミの中で唯一の博士課程の人なんです。今はD1です。」
「へぇ。ゼミで博士の院生が1人だけなんて、そういうこともあるんだな。」
俺が仮配属中の久野尾研では、院生は修士から博士まで全学年存在する。他の研究室でも院生の学年が空白のところはないらしい。文学部だとその辺の事情は
違ってくるんだろうか?
「工学部だと、俺が知ってる限りだけど、どの研究室にも修士1年から博士3年まで居るからな。博士が1人だけって珍しく思う。」
「ゼミと研究室とでは、規模が違うせいもあるかもしれませんね。工学部の研究室は、どのくらい人が居るんですか?」
「そうだなぁ・・・。大体、学部4年が10人〜15人、修士は全学年7、8人程度で、博士は3、4人ってところかな。」
工学部に限った話だが、どの研究室も基本的に大所帯だ。だから居室も学部学生用と院生用があって、俺が仮配属中の久野尾研だと他に実験室が大小合わせて
5部屋、週1階のゼミで大人数が入れる共用の部屋−今のところ此処に出入りしている−が1つ、そして教授と助手がそれぞれ個人で居室を持っている。
久野尾研には助教授が居ないから、そこが空いている。
「晶子が居るゼミの人数は、どのくらいなんだ?」
「私の学年、つまり学部の3年生が5名で、学部の4年生は4名ですね。」
「少ないな。」
「そうでしょうね。あと、修士課程の人が各学年に3名か2名居て、博士課程の人は、祐司さんが挙げた田中さん1人。ですから合計15、6名というところですね。
文学部だとこれくらいが普通なんですよ。」
「随分違うもんだな。研究棟が結構大きいからもっと居るのかと思ってたんだけど。」
「兎に角本が多いですからね。全学共通の図書館だと長期間借りられない、だけど長期間読みたい、っていう用途がありますから、各ゼミ単位で本を所有していて、
専用の読書室もあるんですよ。」
「文学部らしいと言えば、らしいな。本に囲まれての学生生活、ってわけか。」
「読書アレルギーの人だと、眩暈を起こすと思いますよ。」
俺と晶子は顔を見合わせて笑う。
各ゼミ単位で本を持ってるばかりか専用の読書室まであるなんて、読書嫌いには悪い冗談にもならない。久野尾研にも専門書とかが入ってる本棚があるが、
それは共用の部屋に3つほどあるだけだ。恐らく文学部の各ゼミが所有している本棚の数は、教授室や助手室くらいなら埋め尽くすくらいあるんだろう。
「人数や所有する本の数も全然違うけど、そんな中で1人だけ博士なん随分珍しいよな。」
仮配属中の学部3年に加え、研究室の本来のメンバーである学部4年から博士3年まで、人数に違いはあってもぎっしり埋まっている、晶子の表現を借りれば大所帯、
言い換えれば過密状態の工学部に対し、文学部のゼミは少人数で院生自体がごく少数。そんな中で1人博士というのはかなり目立つ存在なんじゃないだろうか?
「文学部も博士課程を終えれば博士号が取れるはずだけど、研究者を目指してるのかな。」
「・・・それもあります。」
「修士が2年、博士が3年だから全部で5年。浪人や留年とかなしで進級してきたとして、博士課程を終えると・・・27歳くらいか。研究者を目指すにしても就職しろとか
結婚しろとか、親が五月蝿いだろうなぁ。俺も似たようなもんだけど。」
俺の両親が、俺が進級を決めたら次は就職しろと有形無形の圧力をかけてくるのは目に見えている。仮に院に進学出来たとしても修士が限界だろう。
博士まで進学したいと言おうものなら、もう勉強は止めて就職しろ、と断固反対するに違いない。晶子を紹介したから結婚を迫られないだけましだが。
「その・・・田中さん、だっけ?」
「あ、はい。」
「田中さんは着信音について結構突っ込んだこと言ってたけど、晶子が直接話したのか?」
「ええ。田中さんは博士課程の学生ではあるんですけど、既に翻訳業を手がけていることもあって、さっき話したように各ゼミが所有する読書室に篭っていることが
多いんです。」
「翻訳業を手がけてるって・・・。仕事しながらってことか?」
工学部の博士課程にも、学部からストレートに階段を上ってきた人だけじゃなくて、一旦企業に就職して必要に駆られたりして−企業の研究開発職とか−休職して
博士課程に編入している人も結構居る。博士課程進学は何も修士を持ってないと駄目というわけじゃない。うろ覚えだが「修士課程卒業と同等の学力を持っていると
認められる」なら、学歴年齢性別不問で編入出来る筈だ。
久野尾研は学部は楽だが院は結構ハードだと、前に智一から聞いている。逆に言えば、バイトや仕事と並行しながら、というのはほぼ不可能ということだ。
なのに、博士課程に在籍しながら翻訳業をしているなんてな・・・。
「ええ。実用書の分野で翻訳者として記載されている既刊の書籍も出ています。」
「凄い人だな。その本はゼミに置いてあるのか?」
「ええ。田中さんは祐司さんの工学部における存在感とよく似ていて、学部時代からずば抜けて優秀な成績だったそうです。修士課程進学は必然の流れで、
先生−私が所属するゼミでは戸野倉先生ですけど、修士課程を修了した田中さんに博士課程に進学するよう直々に依頼されて、田中さんがそれに応じた、という
経緯があるんです。」
先生に頼まれて博士課程に進学したのか・・・。俺と似ている、と晶子は言うが所詮俺はもがいてあがいてようやく、というのが現実。田中さんは学部レベルなんか
余裕綽々(しゃくしゃく)で修士に進学したんだろう。で、翻訳業もしながら出来ると判断して博士課程に進学して、現に実行している。次元が違うというのはこのことだな。
「そんなこともあって、学生居室に田中さんが顔を出すことは滅多になくて、私も今まで数回しか顔を合わせたことがなかったんです。今日は翻訳の仕事を
1つ終えた気分転換ということで来室していて、携帯の話になって田中さんが聞いてきたので、答えたんです。」
「ふーん。だから、着信音に設定してそれなりにに日にちが経ってるのに初めて聞いたようなことを言ってたわけか。」
翻訳業と博士課程の両立。想像も出来ない世界だが、それを終えて気分転換に学生居室に来たら携帯の話になって、実際に曲を聞いたり曲を作ったのは
誰かなどを聞いたりしたんだろう。てっきり晶子のゼミでは、今の着信音は定着していて、むしろ飽きられているんじゃないかと思っていたんだが、まだ聞いてなかったと
いう人も居るようだ。人間関係って広いようで狭いところもある。
「俺とは初対面だから、挨拶代わりに感想を言っただけかと思ってたんだけど、そういう事情があったのか。納得。」
「・・・それだけ、ですよね?」
「それだけだけど、どうかしたか?」
「いえ・・・。」
何もないような素振りだが、晶子の口調はやや歯切れが悪いし、表情も幾分冴えない。
1ヶ月同じだったら珍しい、と前に智一にも言われたことがある着信音がまだ飽きられていなくて、今日初めて聞いたという人がまだ居たこと、その人がゼミでただ1人の
博士課程の院生だということ、など驚きの要素はあったが、その枠を出ない。
晶子も先に嫌がらせを受けたとかそういうことはない、と言っていた。最も懸念していたのはそれなんだが、それがないと分かって、田中さんが定着した筈の着信音の
感想を言ってきたことの背景が知りたくて聞いた。ただそれだけなんだが・・・。
胡桃町駅を降りてからそのままバイト先へ直行。俺が久野尾研に行っていた関係で一旦家に帰る時間的余裕がなくなったことで、少しでも時間短縮をと思って決断した。
晶子は俺からのメールを受けて、俺が研究室に呼び出された関係でバイトに遅れるかもしれない、と予め店に電話してマスターの了解を得ていると聞いている。
だが、店は連日大入り。早めに行くに越したことはない。
「こんばんはー。」
「いらっしゃいませ。あ、祐司君と晶子ちゃん。」
「すみません。遅くなりました。」
「良いのよ。先に晶子ちゃんから遅くなるかもしれない、って連絡もらってるから。さ、座って。夕ご飯出すから。」
キッチンで料理をしていた潤子さんが、手を止めて笑顔で迎える。忙しいのに、とかいった迷惑そうな素振りは様子は少しも見せない。この辺にプロ意識を感じる。
まずは潤子さんの好意に甘えて、バイト前の腹ごしらえをしよう。晶子とカウンターの何時もの席に座る。店の方を見ると今日も大入りだ。マスターが、水の入った
ポットを持って店内を歩き回っている。
少し待ってから、潤子さんからカウンター越しに夕食が差し出される。ビーフシチューをメインにご飯、ポテトサラダ、ほうれん草とちくわの和え物という
豪華なメニューだ。店の混雑を考えると、早めに食べた方が良いな。いただきます、と言ってから食べ始める。
「晶子ちゃん、何かあったの?」
潤子さんから声がかかる。潤子さんは器用にも、料理をしながら首を俺と晶子の方に向けている。
キッチンはカウンターから見ると右からの横顔を見せる形に据えられている。感のレベルと言うか身体が覚えているレベルと言うか、そんなものだから出来るんだろうが。
「何だか考え事でもしてるようだけど。」
「いえ、何でも・・・。」
「今までだと、そういう顔をするのはどちらかと言うと祐司君の方だったから。」
潤子さんの言うとおりだよな。宮城から最後通牒を突きつけられた翌々日もそうだったし。だけど、今の晶子は俺から見ても明らかに様子がおかしい。
ガツガツというわけでは決してないが普段なら軽快な食の進みも何となく鈍いし、横顔も何となく暗い。
「具合、悪いとか?」
「いえ、そんなことはありません。至って健康です。」
「そう・・・。」
潤子さんはそれ以上追及せず、顔を本来の方向に戻して料理を続ける。俺も勿論気になるが、ひとまず今日のバイトを終わらせるのが先だ。マスター1人じゃ
手に負えないだろうし。
今日も大忙しだったバイトは終わった。「仕事の後の一杯」を済ませた俺と晶子は、何時ものとおり手を繋いで帰路に着く。だが、ここでも晶子の様子はどうもおかしい。
普段なら真っ直ぐ前を向くか俺の視線に気づいたのか俺の方を向くかするんだが、そういうことなくやや俯き加減でさえもある。
バイトの間−俺は接客専門だから客席とキッチンを往復しているんだが、キッチンに居る晶子と潤子さんが何やら話していた時があった。店内はマスターが吹き鳴らす
サックスの音だったり俺が弾くギターだったり、BGMだったりするが終始音楽が流れているし、キッチン付近は炒め物をしたりする時の音が入り乱れているから
聞き取りようもなかったが、潤子さんが何か晶子に言っているような様子ではあった。
だが、潤子さんに何を言われたのかと晶子を追求したりする気にはなれない。思い返してみれば、晶子の様子がおかしくなったのは俺と大学から帰る時からだ。
思い当たるのは、俺が初対面の田中さんのことを聞いたことくらいだが、既に晶子のゼミでは定着していると思っていた着信音に関する感想が出されたことで、
学年は違うけど同じゼミではあるのにどうして今まで知らなかったのか疑問だったことや、晶子からの話でゼミ唯一の博士課程の学生ということを工学部と対比させて
珍しがったくらいなんだが・・・。
会話のないまま、話の切り出しようがないまま、表通りに出る。ここから左に折れて坂を上っていけば晶子が住むマンションに行ける。まずは晶子をそこまで送っていくのが
先決だ。一旦足を止めた俺が歩き出そうとすると、左手がきゅっと強く握られる。
「晶子・・・?」
問いかけるが、晶子は少し俯いたまま俺の手を強く握って動こうとしない。どうしたんだ?本当に。
「晶子。」
「・・・泊めてください。」
「え?」
「祐司さんの家に泊めてください。」
冬の闇に消え入りそうな声で、晶子は俺の家に泊まる意志を伝える。土曜の明日はバイトが終わってから、晶子が住むマンションじゃなくて俺の家へ連れて行って
泊まる、という流れだが、どうして今日の晩から泊まりたいなんて・・・。
「泊まるのは明日のバイトが終わってからじゃ・・・。」
「嫌なんですか?」
「嫌じゃない。」
「じゃあ・・・連れて行ってください。」
晶子の言葉の端々が微かに震えているに感じる。切羽詰った感さえ覚える晶子の頼みを断る理由はない。俺は足を向ける方向を普段の金曜とは逆の、何時もなら
明日に向ける方向へと切り替えて歩き出す。今度は晶子もついて来る。晶子の訴えの理由は・・・家で聞こう。
・・・。
身体の硬直が解けると同時に、前に崩れ落ちる。布団とはまったく異なる弾力が俺を受け止める。息が切れるのが分かる。身体を起こそうにもなかなか力が入らない。
どうにか上体を起こして身体を離し、その勢いに任せて隣に倒れこむ。
俺が動けない中、隣で白い身体がゆっくりと起き上がる。明かりを消してカーテンが閉じられた室内は、闇一色。その闇にほんのりと白さと凹凸が明確な稜線を
浮かべる身体は、肩の部分が速い調子で上下運動を繰り返している。カーテン越しに差し込む僅かな光を受けて、表面が少し煌いている。
その身体の主−晶子は、足元まで捲ってあった掛け布団と毛布を手にとって、後ろに倒れるに合わせて引っ張りあげる。これで見た目2人並んで寝ている形になる。
いまだ身体に満足に力が入らない俺に、晶子が首に腕を回して抱きついてくる。耳元で粗くて早い呼吸音が聞こえる。
「いったい・・・どうしたんだよ・・・。」
息も絶え絶え、と言うと大袈裟かもしれないが、実際そんな感じでしか言葉が出ない。
家に入って玄関の鍵を掛けるや否や、晶子が俺をベッドに引っ張って行った。そして「戦闘開始」。とは言っても随分一方的な展開で、俺は晶子の求めに応じて動き動かし、
晶子の中に想いの丈を解き放つことを繰り返した。・・・普段の倍近い回数を。
万年発情期と言われる男の性故、普段はどちらかと言うと俺が攻めて、満足した頃には晶子も満足してノックダウンという流れだ。しかし、今日は完全に晶子が
主導権を握っていた。晶子が満足するまで俺は解放してもらえない。まさにそんな流れだった。
「私で・・・満足・・・ですよね?」
「え?」
「私じゃ・・・満足・・・出来ませんか・・・?」
「そんな筈・・・ないじゃないか・・・。」
途切れ途切れでの問いかけは、答えが変わる筈のないものだ。愛情の確認と言ってしまえばそれまでだが、今日いきなり泊まりたいと言い出し、家に着くや否や
俺をベッドに引っ張っていって、言い方が多少悪いが精気を根こそぎ出させる必要があるんだろうか?晶子に不安を与えるようなことをした覚えはないんだが・・・。
「何か・・・あったのか?」
「・・・田中さん・・・。」
晶子の口から、俺にとっては今日が初対面の女性の名前が出る。俺が田中さんの事を聞いたことに嫉妬したのか?晶子らしくない・・・とは言えないな。
晶子もかなり独占欲が強い方だから。
「俺が田中さんのことを聞いたから・・・、移り気に釘を刺す意味合いを込めて・・・か?」
「それも・・・少しはあります・・・。」
「全部じゃ・・・ないのか?」
俺の問いかけに、俺の左頬にくっついている晶子の頭が小さく縦に動く。俺の予想は一部当たっていたがそれが全てじゃないと言う。じゃあいったい何があったんだ?
「実は・・・祐司さんが今日ゼミの部屋に来る前・・・、こんなやりとりがあったんです・・・。」
晶子は呼吸を整えながら、俺が晶子のゼミの学生居室を訪ねるまでの出来事を話し始める・・・。
このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
|
Chapter 201へ戻る
-Back to Chapter 201- |
|
Chapter 203へ進む
-Go to Chapter 203- |
|
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3- |
|
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall- |