雨上がりの午後
Chapter 201 次なる時を見越して
written by Moonstone
のんびり過ごせる時間というものは、過ぎてしまうと余計に貴重に思えるもんだ。
大学の講義とバイトが時をほぼ同じくして再開。店は新年開始早々客が大入りだ。店の中を行き来している間に小耳に挟んだり、晶子から間接的に聞いた話では、
受験に向けた塾の追い込みが連日連夜続いているらしい。確かにこの時期は中学高校だと推薦や早い日程の私立校の入試があるし、大学だとセンター試験や
それに呼応した私立の受験もあるからな。
大学の講義は休みボケなど簡単に吹き飛ばしてくれる、内容も日程もハードなものの連続。欲張って講義のこまをぎっしり埋めている俺は、昼休みも昼飯を
そこそこに済ませて、図書館に通って調べ物をしたりレポートを纏めたりするほど、大学に居る時間を更に斑なく勉強に注ぎ込むようになった。
院生やクラブの先輩とかから過去問題が流れてきてるらしいが、それは当てにしない方針だ。当てが外れたら一巻の終わりだからだ。
慌しく日々が過ぎていく中、気分的に楽になったことがある。
1つは、弟の修之から、センター試験の自己採点が予想を大幅に上回る好成績だったと連絡が入ったことだ。何でも俺と晶子が教えた後から勉強したら、
今までとは違って面白いように問題が解けるようになって、センター試験の問題が簡単に思えたと言う。
自己採点だから断定は出来ないが、修之が受験する2つの大学はセンター試験レベルの問題が解ければ十分合格圏内に入れるはずだ。
センター試験で好感触を得られたなら、二次試験にも弾みがつくだろう。修之は電話で俺に礼を言うに続けて、未来の姉さんにもよろしく伝えて、と言って来た。
俺は伝えておく、と応えておいた。
もう1つは、晶子が土曜の夜から俺の家に居るようになったことだ。大学の講義が再開して2週間が過ぎようとしていた土曜の夜、バイトが終わって店から帰る途中で
晶子から持ち出された。俺に買い物に付き合うこと、部屋で自分のレポートとかをさせることを交換条件として提示したが、あまりにも不釣合いじゃないかと
俺が言ったくらいだ。
勿論俺は2つ返事でOK。「出来るだけ規則正しい生活を」という晶子の意向と買い物の都合もあって、今まで昼頃まで寝こけていたところを9時には起きるようになった。
平日は1コマ目に十分間に合う時間帯の電車に乗るし、晶子と一緒に行くから当然朝は早いが、バイトが終わるのが午後10時と遅く、それからレポートとかを
しているとどうしても夜遅くにずれ込む。その分の寝不足を土日で解消していたつもりだ。しかし、買い物は出来るだけ混雑を避けるため午前中に済ませたいという
晶子の意向を無視して、1人夢の中とはいかない。晶子の買い物に付き合うというのが交換条件だし、俺もそこそこ手伝うもののやっぱり料理を作ってくれる
晶子に家事は全てお任せ、とはしたくない。初めの頃は起きてから買い物に行く時も欠伸を繰り返していた。その分の埋め合わせなのか、晶子は帰宅してから
昼寝をさせてくれている。眠かったら、という前提があってのことだが、それだけで随分違う。今まで何処かぼやけた気分でレポートを仕上げていたりしたのが、
すっきりした気分で出来るようになった。
晶子が俺の家に泊まる曜日が日曜と月曜の2日になった。俺が兎に角嫌がらせのようにレポートが多いし、ギターの練習や新曲追加の準備とかも並行させているから、
昼間はのんびりショッピング、とはなかなかいかないが、晶子は一言も不満を言わない。俺と一緒に居ることそのものに満足や幸せを見出して感じていることが、
改めてよく分かった。
晶子が寝泊りする日が増えたことで、男の性と言うのか、夜の営みへの「意欲」は芽生える。当然ながら妊娠は避けるから「儀式」で止める日もあるが、
晶子は拒ばない。一度終わってから聞いてみたが、やっぱり他の女の裸やセックスを見て興奮されたくない、自分が居るんだから自分を見て興奮してほしい、と
いうことを言った。立派な独占欲ですよね、と晶子は言ったが、それはお互い様だ。
そんなこんなで、後期試験が目前に迫ってきた。試験前になると展開される光景の1つが、ノートや過去問題の共有や情報交換だ。もう十分認識しているが、
俺が居る電子工学科の試験は厳しい。必須科目でも一発でクリア出来る割合が2割とか3割とか、難しい国家試験のような講義もある。それに、進級に必要な単位は
必須科目だけじゃない。選択教科も相当数取らないといけない。それも、選択教科だからといって甘くなるとは限らないから始末が悪い。出席回数が足りないとか、
途中のレポートの提出がいい加減だとか、そういう理由で試験を受けることすら出来ないこともある。
進級条件が厳しいのは、今回の3年から4年に限ったことじゃない。その前の2年から3年への段階でもそうだ。それをギリギリでクリア出来たとかいう状態だと、
3年で取得すべき講義のコマに2年で取れなかった講義が重なって、出席しようにも出来なくて、試験を受ける条件に引っかかるという悪循環が生じる。
既に2年から3年の段階で、概算だが1/3が留年している。どうにか3年に進級出来てもそういった条件で必要な出席やレポートの提出がままならず、レポートの
代理提出や過去問題の受け取りで試験に臨もうというわけだ。
「なあ祐司。固体電気物性のノートあるか?」
そういう魂胆で居る1人が、智一だったりする。
「固体電気物性?智一も出席してるだろ?」
「ノート一部まともに取れてないところがあってさぁ。そこから試験問題が出される傾向が強いっていうし、俺がノート取れてないところは、ほぼ毎年出題される
ところだったりするんだ、これが。」
「そういうのはきっちり取っておけよ。」
智一は俺と違って交友範囲が広いから、その手の情報には敏感だ。なのに肝心の試験対策となると、情報と縁遠くてそれにも愚直に背を向けている
俺に頼ってくるというのが、今でも理解出来ない。
「な?頼む。」
「今日は講義がないから持って来てない。明日持ってくるからコピーしてその日のうちに返すと確約出来るか?」
「それは勿論。」
「じゃあ、明日持ってくる。」
「サンキュー、祐司!」
智一が走り去っていくのを見て呆れの篭った溜息を吐いた俺は、忘れないように携帯を取り出してメモしておく。手帳という立派なものを持っていない俺には、
携帯のメモ帳機能はこういう時役に立つ。ボタンを押して入力するのにも結構慣れて、文字入力で目的の文字を通り越して何度も同じボタンを押すことも殆どなくなった。
今は昼休み。智一と昼飯を食いに行って3コマ目の講義がある講義室の一角に陣取って一休み、といったところだ。試験が迫ってきたこともあって、
昼休みでも試験に向けたノートや過去問題のやり取りや情報交換は活発だ。休みだからこそ大っぴらに出来ると言うべきか。
義室はこの講義が必須教科の1つということもあってか、大きさに比例してかなり混み合っている。3年の段階で取り損ねた人達が再挑戦しているから
多くなるのも無理はない。卒業がかかってるとなれば尚更だろう。選択教科なら別の講義で回避という手段も取れなくもないが、必須教科はそうもいかないからな。
今のところ、俺は順調に受講した講義の単位を全て取っている。智一に言わせると「驚異的な取り方」だそうだが、そのおかげで、一般教養と専門の選択教科に
関しては、現時点で既に進級条件を満たしている。その点では確かに気が楽だ。次の試験で最低あと幾つ単位を取らないと、という焦りを感じないからな。
だからと言って試験結果が分かるまで油断ならない。4年の進級条件で最も厳しいのは必須教科だ。進級には全ての条件を満たさないといけない。
必須教科の条件に引っかかって留年、というパターンが一番多いらしい。その原因は講義のレポートの多さと、講義室を満員にするところから推測出来る。
あ、そうだ。晶子にメールを送っておこう。今日は金曜。晶子は3コマ目で講義が終わって所属のゼミに居る曜日だ。終わったら迎えに行く、という予告メール
−別に爆弾を仕掛けたとか物騒な意味はない−だ。
晶子は俺の講義日程を知ってるから、4コマ目の講義が終わってから「今講義が終わったから迎えに行く」メールを送ればそれで済むんだろうが、兎角事務的な
内容のメールしか書けない俺だから、せめて送る回数くらいは増やすことを心がけている。一旦仕舞った携帯を再び取り出して、メールをしたためる。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:講義が終わったら迎えに行く
今昼休みで、講義室に陣取って一息吐いているところ。今日も講義が4コマ目まであるから、終わったらメールを送って迎えに行く。何処に行けば良いか教えてくれれば、そこへ行く。事務的用件だけど、また後で。
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・・・書いておいて何だが、本当に事務的だな。
メールを送信する。この講義室はアンテナが3本立っているから、講義室から出なくても携帯が使える。場所によっては窓際でもアンテナが3本立たなかったり、
メール送信に失敗したりする。これは電波と建物の構造上の問題だから文句は言えない。
さっきはセーターの内側のシャツの胸ポケットに仕舞った携帯を、今度は机の片隅に置く。人1人分のスペースには、テキストとノート、筆記用具、
そして携帯が置かれている。俺は講義単位でノートを作っているから、結構かさばる。だが、俺のずぼらな性格からすると、ルーズリーフだと絶対バラバラになって
探すのに1日かかるって羽目になるのは目に見えている。
携帯のLEDが点滅して、「明日に掛ける橋」を鳴らす。メール着信を知らせる携帯の合図で、俺は携帯を広げて新着メールを開く。
送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:今日もお疲れ様
メールありがとうございます。私も講義室に居ます。メール着信音が鳴った瞬間に同じゼミの子を中心に人が集まってきて、このメールは大勢に囲まれながら書いています。4コマ目はゼミの部屋に居ますので、今日はそこに迎えに来てもらいたいと思います。部屋の場所は文学部研究棟の3階、戸野倉ゼミの部屋です。祐司さんが4コマ目の講義が終わった時にメールをくれた時に、場所の詳細を教えますね。
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・・・また囲まれて書いてるのか。大学に居る時晶子から届くメールに必ず入っているこの一節に、苦笑いとも愉快から生じる笑みとも言えるものが浮かぶ。
晶子と俺が携帯を持つようになって3ヶ月ほど経つから、周知期間は十分過ぎたはずなんだが。
俺の方は交友関係が少ないし、まだ研究室に仮配属の上にクラスっていうのがあってないような大学に居るから取り出したり使ったりしても殆ど注目されない。
ないと言って良いくらいだ。でも、晶子の場合は今でも大きな注目と関心を呼ぶ位置づけらしい。
着信音は、電話の方が「Fly me to the moon」のギターソロバージョン、メールの方が「明日に掛ける橋」の一部。どちらも俺が作ったもので完成形としているから、
変更していない。新曲にしようという気もない。つくるのにかなり時間がかかるし、少なくとも現状では不可能だ。
携帯の機種も変更していない。1年一昔どころか半年一昔というほど、PCや携帯の機種更新の頻度は早い。3ヶ月程度経って何気なしに今契約している
携帯の会社のWebページを見たら、俺と晶子が持っている機種の機能を上回る機種が大々的に宣伝されていた。TVもラジオも視聴可能で、しかもワンセグや地上波
デジタル放送対応っていうんだから、そこまで必要なのかと思う。携帯を電話とメールとメモ帳にしか使わない俺が疎いだけかもしれないが。
そういう流れの速さに抗して−耕次のように反主流・反体制という思想の根源があるわけじゃないが−、機種変更もしなければ着信音も変えないでいる
俺と晶子の携帯。晶子が携帯を使うたびに人を集めて取り囲まれるのは、そういう背景もあるんだろう。気に入っている曲でも、毎日耳にしていれば別のものにしたいと
思うのも不思議じゃない。なのに機種も着信音も変えずに使っているんだから。
実のところ、着信音の新曲も構想はあったりする。1曲は「Stay by my side」にしようと思っている。晶子がレパートリーとする倉木麻衣の曲の中でも俺自身
好きな曲の1つだし、晶子も好んで聞く。初期の曲の方が好きな曲が多いと言っていた。「Stay by my side」も初期の1曲だからな。まあ、作るとしても
後期試験を切り抜けてからだ。試験は丸2週間続く。俺は講義を大量に受講している関係で、1コマから4コマまで殆どが埋め尽くされている。留年の瀬戸際よりは
距離があるからまだましとも言えるが、結果を見届けるまで油断は出来ない。学生生活の締めくくりをすっきり迎えたいから、頑張らないとな。
4コマ目の講義が終わった。ノートもきっちり取った。この講義は試験に出題される問題を例示してくれるという、珍しく親切な部類に属する。
その範囲から試験問題を出題していると言うし、それを解けるようにしておけば満点も夢じゃないとも言う。受講者が多いのも頷ける。
取りやすい講義は出来るだけ押さえて、「上積み」しておきたいところだ。
ノートとテキストと筆記用具を鞄に仕舞う。さて、晶子に「迎えに行く」メールを送るか。携帯をセーターの内側から取り出す。
「あ、安藤君。」
携帯を広げようとしたところで声がかかる。声の方向を見て少し驚く。
声をかけたのは他ならぬ先生。しかも俺が現在仮配属中で4年進級後の本配属を希望している音響・通信工学研究室を取り仕切る久野尾先生だ。
俺も受講していたこの講義は、久野尾先生の講義の1つ「通信工学」。携帯電話や衛星通信に代表される高周波無線通信の基礎理論工学の1つだ。
無線通信というと古めかしく聞こえるが、携帯電話や衛星通信は立派な無線通信だということは、その形態が証明している。
久野尾研への本配属を希望している俺は、選択教科の1つのこの講義を迷わず受講することにした。俺がこれまで単位を取ってきたり現在受講している講義は、
工学らしくない理論中心から工学らしい実用的なものまで、物理や化学に近い物性関係から電子工学らしいものまで様々だ。そんな中で本配属を希望している
研究室の頂点に君臨する教授から直接話しかけられた。何だろう・・・?
「ちょっと君に話があるんですが、時間は良いですか?」
「あ、はい。バイト先に少し遅れると連絡しておきます。」
「悪いですね。進級が間近に迫った今、折り入って君と話をする機会を持ちたかったのでね。準備が済んだら私の居室に来てください。」
「はい。直ぐに窺います。」
事態が急変したことを受けて、晶子にメールを送る。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:迎えに行くのに少し遅れるから待っていてくれ
4コマ目の講義が終わった直後に、本配属を希望している研究室の教授から話があると呼び出された。何時終わるかちょっと分からないから、迎えに行くのは話が済んでからにする。念のため店には俺の事情を話して遅れる可能性があることを伝えておいて。急な話で悪いけど、よろしく頼む。
|
急な話だから尚更事務的な内容になってしまったが、あまり待たせるわけにはいかない。メールを送信して話の途中で携帯が鳴らないように電源を切ってから、
鞄を持って久野尾先生の居室に向かう。話って何だろう。時期が時期だけにかなり気になる・・・。
久野尾研の一角にある教授室。「在室中」の位置に行き先表示があるのを確認して、ドアをノックする。応答が帰ってきたところでドアを開ける。
久野尾先生はデスクに向かってキーボードを操作していたのを止めて、俺に向き直る。その表情はいたって穏やかだ。どうも悪い話ではないらしい。
「お待たせしました。失礼します。」
「ああ、それは構いませんよ。ま、そこのソファに座ってください。」
「では、失礼します。」
部屋の中央にある、来客用のソファに腰掛ける。その向かい側に久野尾先生が腰掛ける。話って何だろう。不安が選考して膨らむ一方だ。
「講義の方は、後期試験で抑えられそうですか?」
「あ、はい。何とか頑張って、全教科で単位取得を目指します。」
「良い心構えですね。仮配属中の研究室の院生とかクラブやサークルの先輩からの情報や過去問で当座を凌ごうとしている学生が目に付く分、君の学業に対する
真摯な姿勢には素直に敬服しますよ。」
「ありがとうございます。」
「話の本題なんですが、君がこのまま順調に4年に進級することを前提にした内容になるんです。先走る感は否めませんが、是非ともこの機会に君には
聞いてほしいんですよ。」
久野尾先生はひと呼吸置く。
「君のこれまでの成績は、私も増井先生から渡されて知っていますよ。これまで受講した講義を全て単位取得、しかも最低でも8、他は9か10で取得しているというのは
実に驚異的な成績ですね。」
「自分自身、そうだと知ってびっくりしました。単位が取れたことは知ってましたけど、どのくらいの成績だったかということまでは知らなかったので。」
「君の成績は、今私の研究室に居る院生の学部時代の成績と比較しても何ら遜色ないですし、上回ることも珍しくないですよ。他の研究室の院生の学部時代の
成績と比較しても同様なんです。実に素晴らしい学業生活を送っていますね。」
「ありがとうございます。必要単位を取得すれば筆記試験が免除になる国家試験の講義も受講しているので、欲張りな印象は否めないんですが・・・。」
「否、そのチャレンジ精神は実に素晴らしいですよ。このような気構えで学業に勤しむ学生は珍しい。君が私の研究室で仮配属になっている間も週1回のゼミを
きっちりこなすなど、野志先生や院生も絶賛していますよ。これは、君の成績を知っている他の研究室の先生方も同じなんです。学業に取り組み真摯な姿勢は、
実に望ましいですね。是非とも君には、4年に進級したらこの研究室に入ってもらって卒業研究に臨んでほしいですね。」
「ありがとうございます。」
久野尾先生直々の勧誘に、俺は率直に礼を言う。このまましっかり単位を取れば、久野尾研入りの扉が大きく開ける。希望していた研究室で卒研をしたい。
学生生活の締めくくりだからな。
「今君はこの研究室に仮配属中だけど、雰囲気とかはどうですかね?」
「雰囲気は凄く気に入っています。ゼミで、基礎工業数学で出てきたフーリエ変換の論理が実際にディジタル音声の生成にこういうふうに使用されていると
分かって、どうしてああいう公式が出てきて必須科目の1つになっているのか納得出来ました。」
「それは良いことですね。ゼミでは数式と音響通信工学との関係を理解させるのを兼ねて、仮配属の学生に英語のテキストを輪読させているんですが、
時々しか出席していない私でも、君の応答は実にしっかりしているね。野志先生も非常によく勉強している、としきりに感心していますよ。」
「本配属になったら、学部4年がゼミで解説を主導する立場になるので、自分の中で理解するようにしておかないといけないと思って。」
「そういう姿勢は実に素晴らしいし、望ましいですね。君の言うとおり、学部4年にはゼミを主導してもらいますし、それも卒業研究の一部と位置づけているんですよ。
そのためにはまず、自分で理解しようと取り組む姿勢が必要なんです。君はそれを十二分に持ち合わせていますね。野志先生もそうですし、各テーマで
研究している院生も、こういう学部学生に是非とも来てほしい、と言っていますよ。」
「ありがとうございます。」
褒められるのはやっぱり嬉しい。自分が本配属を希望する研究室の教授に後押しされる形となれば尚更だ。普段夜遅くまで、今では昼休みも図書館に出向いて
懸命にしていることがこうして評価されると、やってて良かったと思う。
「今、どの研究テーマが良さそうとか、希望はありますかね?」
久野尾先生は更に突っ込んだ質問を投げかけてくる。最初に言ったとおり、俺が4年に進級することを前提に、そして俺が久野尾研に本配属を希望することを
前提にした質問だ。
「順位付けは出来ないので羅列になりますけど、良いですか?」
「それは勿論構いませんよ。」
「今のところは・・・、ディジタル音声のより効率的な圧縮と復号、カクテルパーティー効果の検証、簡易な立体音声再生システムの研究。・・・この3つが
特に気になっています。」
「なるほど。どれも院生が長年試行錯誤してきているものだから、君が希望すれば間違いなく決定でしょうし、君が挙げた3つ以外のテーマに取り組んでいる
院生も、君を勧誘しますよ。」
「そうでしょうか。」
「そりゃあ勿論ですよ。毎週のゼミは院生も今の学部4年の学生全員が出席しているから、そこでの仮配属中の学生の様子はよく見ていますし、何より君は
よくやっていますし、更には結果も出しているんですから文句の言いようがありません。欲しがらない方がおかしいですよ。研究テーマを決める時には、
院生が君の奪い合いをするでしょうね。水面下ではもうしてるんじゃないでしょうかね。」
久野尾先生はそれが当然という様子で言う。
他の研究室でもよく似ているが、研究室では複数の研究テーマを持っていて、学部4年は本配属間もなく研究テーマを選択する。研究テーマ毎に人気が違うから、
あるテーマには希望者が集中することも起こりうる。
そういう時、久野尾研では研究を主導する院生が目ぼしい学生を勧誘して、折衝の末決まるというのが慣例だそうだ。院生は研究色が当然濃いからそっちに
集中したい。だが、学部4年の指導もする必要がある。そうなると当然、「出来る」学生を欲しがる。
「君がバイトで生計を補いながら学生生活を続けているというのは勿論知っていますし、それを邪魔するようなことはしませんから、安心して
研究テーマを選ぶと良いですよ。」
「はい。ありがとうございます。」
俺が久野尾研への配属を希望しているのは今の大学に入ることを目指すことにした動機の1つだし、今のバイトをしながらでも卒研が出来ることが
判明しているからだ。他の研究室はその辺がはっきりしないし、バイトを続けないことには、修之の大学進学を金銭面から間接的に支援するための、
「4年度の学費を自分で払う」ことで、貯金を取り崩しながらの生活になる。何があるか分からないから、それは避けたい。
「他の研究室から誘われていませんかね?」
「あ、はい。」
「増井先生からは、君が実家の経済事情で院には進学しないと聞いているし、院生が全員優秀かと言えばそうではないですからね・・・。」
久野尾先生は少し難しい表情をして小さい溜息を吐く。
「学部での成績は大して良くないのに、院の試験をどうにかかいくぐった学生も進学してくる学生も居ますから、実際問題として院生のレベルはバラバラなんですよ。
学部段階で留年してでもきっちり基礎学力をつけておいてほしいところなんですが、試験の結果取得した単位の数だけで進級の可否が決まりますからね・・・。」
「・・・。」
「卒論なら、と言うと表現が悪くなるけど、まだ許容出来る部分はあります。だけど、院はより専門色を強めて深める場所ですし、その集大成として修論
(註:修士論文の略称)や博士論文があるわけですから、そう簡単には認められないんですよ。かと言って学部レベルの知識を教える場はないんです。
学部レベルの学力を持っているというのが前提条件にあるわけですからね。」
「・・・。」
「その観点からしても君は非常に優秀な学生ですから、他の研究室も欲しがっていますよ。前の教授会議が終わった後の雑談で今の学部3年の話が出て、
どの先生も君が私の研究室への本配属を希望しているのを頻りに羨んでいたんですよ。」
「そうなんですか?」
俺の問いかけに、久野尾先生は笑顔で頷く。
そういえば1月最初にあった電力関係の最後の実験で、担当の教官が今までどおり俺に数問実験内容について質問して俺が答えた後智一を含む他の面々を
退室させてから、電力制御は今やモータを回すだけじゃない、と切り出して、プログラミングや計測など電気電子工学の融合分野だから学生生活の総括には
この研究室が相応しいよ、と持ちかけてきたな。今のバイトを続けられるかどうか不安で、とはぐらかしたら、その辺は俺のバイトに支障を来たさないよう
格段の配慮をするよう堀田先生にも頼むし、院生にも強く言っておく、と研究室に入る条件「整備」まで約束した。よく考えておきます、と言ってどうにか解放されたが、
堀田研が狙っているのは間違いなさそうだ。
ドアがノックされる。久野尾先生が応答するとドアが開いて、失礼しますと言って人が数人入ってくる。久野尾研の院生で、D1とD2(註:博士課程の学年単位の
略称。博士課程は3年なのでD3まである)の人達だ。
「先生。今度の経過発表の件なんですけど・・・、って、安藤君?」
「こんにちは。お邪魔してます。」
「先生。ついに先生直々に安藤君を久野尾研に勧誘ですか?」
「そのとおりですよ。君達も安藤君に他所の研究室に逃げられちゃ困るでしょう?」
「勿論困ります!うちの来年度のゼミを主導してもらう学生なんですから!」
久野尾先生の確認の問いかけに、院生の1人が真顔で言う。冗談の意思はひとかけらも感じられない。
「俺が知ってる限りでは、堀田研と澤村研と北岡研が安藤君獲得に本腰を挙げてるそうです。」
「杉浦研もだぞ。物性関係は何処も欲しがってる。あっちは実験に根気が必要だからな。」
「物性関係は特にそうでしょうね。あと、堀田先生のところも学生に高いレベルを要求しますから。」
電力制御の堀田研。電気材料関係の澤村研。計算機工学の北岡研。どうも俺の「争奪戦」は多方面で進んでいるようだ。
そう言えばこの前の計算機工学の実験でも、担当する助手が「うちの研究室はLSIの設計からソフトウェアのアルゴリズム(註:ソフトウェアでの処理手順)研究まで
選り取り緑だよ」とか、研究室の内容を紹介してたな・・・。
「先生、逃がさないでくださいよ?」
「大丈夫ですよ。安藤君はもう、自分が取り組むのを希望する研究テーマを具体的に挙げたほどですから。」
「え?!どれですか?!」
「それを言うと君達が研究どころじゃなくなるでしょうから、言わないでおきますよ。」
院生の人達が色めき立ったのを久野尾先生がやんわり制する。院生の人達、冗談で言ってるようには見えないな・・・。
最近、ゼミを主導する4年の人達もそうだが、オブザーバーで出席している院生の人達も、ゼミの途中で俺に補足説明を求めることが多い。
それも、俺の学力を確認する一環なんだろうか?
「安藤君。うちの研究室は良いよ〜。今のバイトも問題なく続けられるよ〜。」
「研究テーマは色々あるよ〜。君なら選びたい放題だよ〜。」
「は、はあ・・・。」
院生の人達の表現どおりの甘い勧誘に、俺は曖昧な返事しか返せない。その甘い勧誘の裏に、他所の研究室の誘いに乗るな、という念押しが感じられるのは
気のせいじゃないだろう。
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