雨上がりの午後
Chapter 200 2人で料理し、互いを想う
written by Moonstone
「これから野菜を炒めるんですけど、均等に火を通すには順番があるんですよ。」
「順番?分けておいたのも確かそのためだったよな?」
「ええ。基本は硬いもの、厚みがあるものが先です。今回だと人参がそうです。祐司さんが切ってくれたと言っても、1つ1つが玉ねぎやピーマンと違って、
厚みがありますよね?」
「ああ、そうだな。」
試しに、自分が切った不揃いの人参と玉ねぎの1かけらを手にとって見る。人参の方が明らかに硬い。厚みがあるのも勿論だが、元々人参の方が硬い。
これは切っている時にも何となく感じたことだ。
「ですから、厚みのあるものから火にかけていくことが基本になるんです。厚みがある分、火を中まで通すには時間がかかりますから。」
「なるほど。」
「じゃあ、見ていてくださいね。」
ここからは、晶子の料理を見学だ。晶子は換気扇を回してから、フライパンをコンロに乗せて火をつける。そのままじっと待つ。長く火にかけないといけないなら、
もう入れても良さそうなもんだが・・・。あ、無理か。直接焼くならまだしも、フライパンの中で間接的に火にかけるんだから、フライパンが十分熱くなってない
意味がないな。
フライパンから煙か湯気が分からないが、白いものが立ち始める。晶子はそれを待っていたかのようにサラダ油を入れて、フライパンを動かす。
ゴトゴトと揺れながら、フライパンは前後左右に円を描くように傾く。
「炒め物をする時は、先に油をフライパンを十分熱しておいて、そこにサラダ油を入れて全体に馴染ませるんです。油が足りないと焦げ付く原因になりますから。」
「大きく動かすんだな。店でもそうだけど、晶子も潤子さんもフライパンをそうやって動かしてるのは見たことがある。」
「店で作る料理は量が多いですから、フライパンとかも必然的に大きくなりますけど、することは変わりませんからね。」
サマーコンサートを契機に店が連日大入り大盛況になったせいで、接客と料理&食べ終わった食器運搬の俺もそうだが、キッチンはフル稼働している。
塾へ行く前若しくは塾帰りの中高生が夕食代わりにしていることもあって−晶子から間接的に聞いた−よく食う。
例えば店の看板メニューの1つ、ミートスパゲティ。元々若者や女性向けの洒落た店より量がずっと多いらしいし−注文時に言えば量を増減出来る−、
サラダとデザート−これは季節やその日の入荷状況によって異なる−、更には飲み物もつくから、その分キッチンでは大量に、しかも品質を保った料理を作る
必要がある。となると、今晶子が使ってるような、一般家庭で使うフライパンとかでは間に合わない。スパゲティを茹でる鍋も専用の大型のものだ。
それにコンロも違う。前と後ろに正面から見て交互に並ぶ形で各2つずつ、計4つあって、火力も強い。火力の違いは料理の味にも影響するという話を
晶子と潤子さんがしているのを、チラッと聞いたことがある。大型のフライパンを素早く熱するだけの火力がなかったら追いつかないのは言うまでもない。
「まず、人参を入れます。」
晶子は皿に置いてあった、俺が切った人参をフライパンに投入する。ザアッと夕立のような甲高い音が上がり、晶子は菜箸を使いつつフライパンも動かして
全体的に火を通す。その動きに何ら躊躇や迷いはない。
「次はピーマン、玉ねぎ、と続きます。」
料理番組みたいに解説しながら、晶子は野菜を入れて、菜箸でかき混ぜつつフライパンを煽る。ザッザッと軽快な音がして、時々野菜が軽く宙を舞う。
炒め料理で見られるテクニックの1つだが、間近で見ると圧巻だ。煽られて宙に待った野菜は、1かけらもフライパンからはみ出ることがない。
「次はいよいよ、スパゲティの投入です。」
晶子はサラダ油をまぶしておいたスパゲティを入れる。少し弱まっていたフライパンの音が活気を取り戻す。菜箸の動きが早くなる。スパゲティを長時間
同じ位置で火にかけていると、焦げたり茹でたまま残ったりとアンバランスになるからだろう。
フライパンを煽りつつ、晶子は塩と胡椒を入れる。胡椒をやや多めに入れる。スパイシーな味を目指すようだ。そして次は・・・、醤油の小さなビンを取って、
フライパン全体に1つの大きな円を書く形でかける。スパゲティに醤油?
「晶子。醤油を入れるのか?」
「味に塩コショウだけじゃ出ないアクセントが出来るんですよ。少し加えるのがコツなんです。」
スパゲティの炒め料理で醤油はないだろう、という俺の固定観念の1つがまたしても覆される。料理を覚えるには、今までの感覚や考え方じゃ通用しない部分が
多々ありそうだ。頭を柔軟にしないと駄目だな。
晶子は菜箸でスパゲティを1本と野菜少々を小皿に取って、少し口に運ぶ。何度か噛んでOKという首を縦に振るジェスチャーをする。続いて俺に差し出す。
俺にも味見をしてくれ、ということか。お言葉に甘えて、小皿の料理を指を使って口に運んで何度か噛む。・・・うん。スパイスが効いていて美味い。
ほのかに醤油の香りがしているのも良い。
「うん。美味い。」
「じゃあ、OKですね。」
晶子はコンロの火を止めて、別に用意してあった広めの皿2つに出来立てのスパゲティを入れる。量は俺が少し多め。食べる量は俺の方が多いから、
気を遣ってくれてるんだろう。
俺はスパゲティが入った皿を持って、晶子はフォークと2人分のコップを持って、食事場所である机へ向かう。皿とコップが置かれ、晶子が新たに持ってきた、
冷やした水の入ったペットボトルを持ってくる。緑茶はミスマッチだし、紅茶も何となく感覚的にしっくり来ない。やっぱり水が一番だろう。
「「いただきます。」」
向かい合って座って、挨拶を済ませて食べ始める。自分も少しだが参加しての料理を食すのは、結構充実感がある。不揃いの人参や玉ねぎが不器用で、
何処となく人間くさくて味があるように思う。
「スパゲティって、こういう料理の仕方もあるんだな。」
「お店ではイタリアンとミートの2種類ですから、スパゲティ専門店とかに行ったことがないと珍しいかもしれませんね。」
「俺は高校時代にバンド仲間と小宮栄に何度か行ってたけど、食事で立ち寄るのは喫茶店かファミレスだったからな。スパゲティ専門店なんてところには縁がない。」
「私もそういうお店に入ったことがないんですけど、これは家で教わった料理方法の1つで、結構馴染みがあるんですよ。」
家で教わった料理の1つなのか。魚を捌くことや煮物といった和風料理の技術やメニューの豊富さに目が行きがちだが、晶子は和風だけじゃなくて、
ハンバーグ−勿論挽肉をこねることから始まる−などの洋食、チンジャオロースなどの中華料理もこなす。スパゲティを和風に料理したという感じのこの料理も、
料理に関する幅広い知識や技術を持つ晶子ならでは、と言えるな。
「野菜は今回、人参と玉ねぎとピーマンにしましたけど、好みやその日の冷蔵庫の中身によって変えることは勿論OKですから、ちょっと手早く野菜も食べられる
料理の1つとして覚えておくと良いですよ。」
「もやしやキャベツなんかも使えそうだな。あれも炒め物に使うし。」
「ええ。もやしやキャベツを加えると食感が変わって、また違った味が楽しめますよ。」
晶子の賛同を得られて嬉しい。話し振りからして、晶子も試したことがあるようだ。言ってはみたものの、実際に思い浮かべられる味が、単純な野菜炒めの
それを脱しきれないところに、自分の料理音痴ぶりが計り知れる。
「祐司さん、きちんと野菜を切れてましたね。」
晶子が言う。
「初めて切る時に包丁が動かなくて祐司さん自身も固まってましたし、正直大丈夫かな、と思ったんですけど、初めてでこれだけ切れていれば立派ですよ。」
「最初はな・・・。本当に此処を切れば良いのかとか、怪我したりしないかとか、色々余計なこと考えてたから。」
やっぱり最初に包丁を入れる様子は、晶子から見ていても明らかに緊張を通り越して固まっていたらしい。呼ばれて肩に力が入っていると指摘されるまで、
それしか頭になかったし。
「祐司さんは、左手が大切ですものね。色々な表情の音を紡ぎ出すギターを使うための大切な左手が怪我しないかどうか、心配になりますよね。」
「あ、まあ、俺の場合は神経質になり過ぎてただけだよ。」
「料理をするには食材を目的の形にする、つまり切るということが大切且つ基本ですからまずはそこから、と思ってのことだったんですけど、今思うと
そういったところへの配慮が足りなかったですね。」
晶子の口調と表情が次第に沈んでいく。あの緊張感でガチガチになった状態で包丁を使ってたら左手に傷が出来ても不思議じゃなかったが、晶子の助言で
回避出来て、しかもそれなりに綺麗に切ることが出来た。晶子が負い目を感じる必要性なんてない。
「良いって。あの時それこそ俎板ごと切ろうとしてた俺にブレーキをかけて仕切り直しさせてくれたのは晶子なんだし、包丁の使い方もろくに知らない俺は、
料理を覚えようとするなら一度は通らなきゃならない関門だったんだから。」
「・・・私じゃ至らない点があると思いますけど、少しずつでも十分ですから、料理を覚えていってくださいね。」
「ああ。後片付けも覚えておかないとな。掃除もそうだけど、どうもその辺がいい加減になりがちだから。」
「じゃあ、食べ終わったら一緒に後片付けもしましょうね。」
「ああ。」
沈んでいた晶子の表情と口調が元に戻る。晶子が責任を感じる必要なんてない。むしろ、あのまま包丁を使って変な角度で人参に包丁を入れて左手に
怪我をする危険を未然に回避させてくれたんだ。感謝こそすれど責める理由はない。
食べたら後片付け。料理の作り方を覚えるのも大切だが、掃除がいい加減で晶子とは比べられたくないのは、部屋だけでなく、恐らく台所事情も一緒。
誰かが何をしてくれることに慣れてしまうと、その誰か、今回では晶子が病気で寝込んだりしたらアウトだ。そういった苦手なことも併せて覚えていこう・・・。
野菜切りで加わった昼飯が済んだ後、俺も後片付けにとりかかった。数が少ないから、ということもあって、全部俺がすると申し出た時には晶子も少し驚いた
様子だったが、晶子が可否を言う前に洗剤とスポンジを手に取った。
洗うものはスパゲティを入れた皿と食べるのに使ったフォークが2組、スパゲティを茹でた鍋と炒める際に使ったフライパンが各1つずつ。そして、俎板と包丁が
1つずつにざるが3つ。このくらい俺1人で十分出来る。晶子はこれよりずっと数の多い後片付けを毎日こなしてるんだ。これくらい俺1人で出来ないようじゃ、
先が思いやられる。
「まず、皿とフォークを水洗いしてください。」
流石に観念したのか脇に退いた晶子が、スポンジに洗剤をかけようとしたところで言う。何で水洗いする必要があるんだ?これから洗剤をつけたスポンジで
洗うんだから必要ないんじゃ?
「洗剤を少量で済ませるためですよ。」
またしても俺の心の中を見透かしたかのようなことを言う。心眼って言うのか、晶子はそういうのを持ってるんじゃないだろうか。
「洗剤をたくさん使えば良いっていうものじゃないんです。少ない洗剤で効果的に汚れを落とすには、目立つ汚れを洗い落としてからの方が良いんですよ。」
「なるほど。そう言えば・・・、これって合成洗剤だから、あんまり大量に使うのは環境面でも良くないよな。」
「そうですね。手の汚れとかは洗えば落ちますし、落ちない汚れも普段の生活で何時の間にか落ちてなくなりますけど、川や海が受ける合成洗剤は
そうもいきませんからね。」
高校時代の化学の授業で叩き込まれたから未だに覚えているが、石鹸は弱酸である高級脂肪酸(註:C(炭素)原子数が多い脂肪酸の総称)のナトリウムか
カリウムの塩なのに対し、合成洗剤はスルホン酸(註:ベンゼン環を構成するC原子にSO3分子が結合した有機化合物)という強酸とナトリウム、正確には
水酸化ナトリウム、つまり強塩基の塩だ。石鹸はバクテリアに分解されるが合成洗剤はそういうわけにはいかず、長期間泡立ちが消えないという性質を持つ。
環境団体とかが合成洗剤を止めて石鹸を使えと言ったり、廃油から−油といっても使用済みのサラダ油とかだが、それから石鹸を作るというのが環境問題と
リンクして語られるのは、そういう背景がある。晶子が普通の石鹸と合成石鹸の組成を知って言ったのかどうかは分からないが、環境に負荷を与えるものを
使う以上は出来るだけ控えるのがせめてもの礼儀、というところだろう。
「水の量は緩めで良いですから、流水中で擦って目立つ汚れを落としてください。」
「分かった。」
俺は蛇口を捻って水を出す。晶子に言われたとおり、控えめに。その中に手始めにフォークを1本差し込んで、洗剤をつけていないスポンジで擦る。
この時期だけあって水が冷たいが、店ではスパゲティを茹でるとかのために湯を沸かすが、洗い物は年中水だ。光熱水費の関係もあるのかもしれないが、
それは此処でも変わらない。むしろ、自分の懐に直接影響するから、使わずに済ませられるものなら水で済ませたい。
緩やかな流水の中でフォークを水洗いする。全体を擦ってから少し水だけで洗って、流水から出す。ぱっと見ただけでもかなり汚れは減っているのが分かる。
「こんなもんで良いか?」
「ええ、十分です。その調子で進めてください。」
晶子のOKを得て、食器の他、包丁や俎板、鍋やフライパンも流水とスポンジだけで主だった汚れを落とす。少し見ただけでは汚れが見当たらないほどになった。
確かにこれなら洗剤も少量で済む。俺は水を止めてからスポンジに少量の洗剤をつけて何度か揉んで泡立て、本格的な洗いを始める。
全部の洗い物をスポンジで隈なく擦って泡で覆った後、スポンジを置いて水を出し、泡を落としながら同時に軽く全体を指で擦る。こうすれば残った汚れも
泡と流水と摩擦力で確実に落ちるだろう。洗ったものは軽く水を切ってから洗い桶に。順番は食器類、俎板や包丁、鍋やフライパン。大きいものが上側になるように
積み重ねていく。
「これで完了、かな。」
「ええ。文句なし、完璧です。」
晶子から手放しの称賛が寄せられる。片付けといったことが苦手な俺も、綺麗になった洗い物が洗い桶に収まったのを見ると、結構気分が良い。
「私が隣で見たり教えたりする必要はなかったみたいですね。」
「いえ、洗うには先に水だけで大まかに落としてからの方が洗剤の量が少なくて済むとか、料理にしたって野菜の切り方とかスパゲティの茹で方とか、
晶子に教えてもらったから分かったんだ。今まで全然知らなかったし、勉強になった。」
「祐司さん、飲み込みが早いですね。この分だと、此処で一緒に暮らしている間に普段の朝ご飯くらいは簡単に出来るようになりますよ。」
「そんな簡単なもんじゃないだろ?」
「ところが実際見て覚えてしまうと、一見手が込んでいそうなものでも簡単に揃えられたりするんですよ。」
「晶子が作ってくれる朝飯とか見てると、そうは思えないんだけどな・・・。」
大学がある時だと火曜の朝、そして今のように一緒に住んでいる時には、晶子が必ず朝飯を作ってくれる。夜の営みがあっても、起きる時間が前後することを
除けば、晶子が寝坊して朝飯抜きで大学へ、と相成ったことは一度もない。
パンで作るものといえばトーストくらいしか思いつかない俺と違って、晶子はサンドイッチやフレンチトーストといったパン料理も十分こなせるが、
どちらかというとご飯を好むようだ。パンの時はスープ−今日の買い物で材料を買った野菜スープや手製のポタージュスープなど色々−と紅茶という組み合わせで、
ご飯の時は鮭の切り身や鯵の開きを焼いたものの他、目玉焼き、味噌汁、晶子が塩もみという方法で作った手製の漬物といった具合に、メニューの数が多い。
そのせいか、腹持ちが良い。
そういった朝飯のメニューは勿論、晶子がご飯を炊いている最中に頃合を見計らって作っていって、炊き立てのご飯と十分温められた味噌汁と共に机に並ぶ。
何時見ても手際が良いと思うし、それが簡単に出来ると言われても、晶子が嘘をつくとは思わないが信じ難いものがある。
「今日からご飯の炊き方とか少しずつ教えていきますから、大学が始まる頃には十分出来るようになると思いますね。」
「後片付けの効率的な仕方も教えてくれよな。どうもそっちの方で行き詰っちまいそうな気がするから。」
「はい。後片付けをしないと、流離器具も食器も直ぐなくなっちゃいますからね。」
掃除は勿論、洗濯も億劫に感じる俺としては、後片付けを覚えることも重要な要素だ。料理をすることだけ覚えても後片付けをしないことには、晶子の言うとおり
直ぐ食器とかがなくなっちまうし、後片付けをしに来てくれ、と晶子を呼びつけるわけにはいかないからな。
「効率的な後片付けの基本は、さっき私が言って祐司さんが実践した、大まかな汚れを流水中で擦って落として、次に洗剤をつけて洗う、というものですから、
殆ど覚えてしまったも同然ですよ。」
「もっとあるんだろ?晶子が作ってくれる朝飯みたいに食器が増えた時とか、洗濯とか他にすることがある時とか。」
「それは勿論ありますから、一緒に住んでいる間に責任を持って教えます。」
晶子はそう言うと徐に歩み寄ってきて、俺に後ろから抱きつく。俺の胸に回った両腕は愛しげに俺を抱き締め、背中には厚着のせいで薄らいではいるが、
女性が持つ独特の柔らかさを感じる。洗い物は終わってるし、水道も止めたけど・・・、どうしたんだ?
「晶子・・・?」
「このまま祐司さんが料理も後片付けも覚えちゃうと、私の出る幕がなくなっちゃいそうで・・・。」
「・・・何言ってるんだよ。覚えたって言っても野菜を切ることと後片付けの基本だけ。まだまだ晶子には遠く及ばないさ。」
「祐司さんが私より美味しい料理を作って後片付けもきちんとこなすようになったら、私は・・・。」
「馬鹿なこと言うなよ。」
俺は晶子に抱きしめられたまま、身体の向きを180度捻って晶子と向き合う。
「俺が作る料理と晶子が作る料理とでは、根本的に違うところがあるんだ。それは俺と晶子の関係が続く限り絶対に変わらないし、変えられない。」
「それって・・・何ですか?」
「俺が自分で作って自分で食べるか、晶子が作ってくれてそれを食べるか。それが絶対的に違う。」
「・・・。」
「晶子は俺と同じ現役の大学生で自分のレポートやバイトもあるのに、俺が実験のある月曜の夜には夕飯を作って待っててくれるし、翌朝は立派な朝飯を
作ってくれる。こうして一緒に暮らしてる時も。」
自分で他人も食べられるだけの料理を作れるようになったとしても、誰が作ったかということは絶対に変えられない。だから、自分で作った料理を食べるのと、
晶子が作ってくれた料理を食べるのとでは、食べる時の気持ちが違う。
「晶子が作ってくれる。それ自体が違うし、それ自体が俺には嬉しいんだ。晶子が作ってくれるってことそのものがな。自分で料理を覚えてからも、
俺は晶子の料理が食べたい。」
「祐司さん・・・。」
「だから、自分の出る幕がなくなるとか、そんなこと思わなくて良い。思う必要もない。これからも料理・・・作ってくれよな。」
「はい。」
晶子が俺をより強く抱きしめる。晶子の顔は俺の左肩に埋もれていて見えない。だけど、俺の存在を確かめて実感していることは、腕が俺の背中をさすり、
頭の額の辺りが俺の肩口をゆっくりと左右に動いていることで分かる。
俺も晶子を抱きしめて、自分の方に寄せる。鼻の側でほのかな甘い香りを漂わせる、光沢のある髪。セーターを通しても胸に感じる独特の弾力。五感全てで
感じる晶子の存在が愛しくて仕方ない。
実験のある日の夜、晶子が先に俺の家に向かって夕飯を作って待っていてくれた日のことを思い出す。俺の指示を受けて動くのがやっとの智一と、端にも棒にも
かからない役立たずなことこの上ない残り2人を引きずって実験を終わらせ、ようやく解放と相成った。その後詫びがてら近くのファミレスへ案内すると言った
智一に、晶子が家で待ってると言って電話をかけた。晶子は待っていると言ってくれた。
智一に家まで送ってもらい、抜け目ないと言おうか、先行して進み出た智一を押し退けて「ただいま」と言った俺を、晶子は「お帰りなさい」と出迎えてくれた。
ある程度予想が出来るまでに慣れた生協の食堂とは違う、温かくて俺好みの味に仕立ててくれた美味い料理で、その日の疲れも不満も吹き飛んだ。
それ以来、晶子には実験のある日の夜に此処、俺の家で夕飯を作ってもらって一緒に食べて、時に夜の営みを挟んで迎える翌朝、トーストとインスタント、
コーヒーというそれまで当たり前だったはずの朝飯がわびしく感じられるほど立派な朝飯を作ってくれるようになった。それを一緒に食べて一緒に大学へ
行くようになった。他にも要因はあるが、俺の理想形の1つが出来上がった。
だけど、俺だけ満足していても仕方ない。晶子は俺に料理を振舞って美味いと言われるだけで満足していると言うが、それだけで満足させたくない。
晶子には多くの満足と幸せをもらっている。俺もせめてそれだけの分は晶子に満足や幸せを感じてもらいたい。そういう関係でありたい・・・。
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