雨上がりの午後

Chapter 203 予期せぬ台頭(裏事情その1)

written by Moonstone


 戸野倉ゼミの学生居室。携帯を広げた晶子の他の学生が囲んでいる。

「へえー。晶子の携帯の着メロって、やっぱり旦那が作ったやつのままなんだ。」
「どちらも凄く気に入ってるから。」
「そろそろ変えようか、って旦那は言わないの?」
「言わないし、仮に言ったとしてもこのままにしてもらうつもり。」
「携帯の着メロって、ダウンロードすれば一発だけど、自分で一から作るとなると凄く面倒だもんね。晶子の旦那って工学部だから、今は試験準備とかで
手がいっぱいなんでしょ?」
「うん。レポートは毎日あるし。」

 晶子と院生を含むゼミの学生が談笑していると、ドアが開く。

「こんにちは。」
「あ、田中さん。こんにちは。」
「「「こんにちは。」」」

 入ってきたのはゼミ唯一の博士課程の院生、田中めぐみ。晶子も何度か顔を合わせたことがあるが、客観的に間違いなく美人と言えるタイプだ。
高校生の延長線上という側面が幾分残る学生が殆どの中で、大人の女性と言うに相応しい雰囲気を放っている。自然と居室全体の空気がピンと張り詰めたものになる。

「田中さんが学生居室に来るなんて、珍しいですね。」
「翻訳の仕事が終わったから、気分転換を兼ねて久しぶりに学生居室を覗いてみようと思ってね。今まで読書室に篭ってて、違う空気を吸いたいっていう気持ちもあるし。」

 答えながら歩み寄ってきた田中は、晶子の携帯に目をやる。

「あら。井上さんの携帯が何か珍しいの?」
「そういえば、田中さんはまだよくご存じないんでしたっけ。井上さんのこと。」
「学生結婚した夫が工学部に居るって話は聞いてるわよ。」
「その夫手作りの着メロをまだ使ってるって話で盛り上がってたんです。」
「着メロを手作り、か。随分まめな性格のようね。キーの数が少ないから入力そのものが面倒でしょうに。」
「しかも、『Fly me to the moon』は夫自らアレンジを手がけた逸品なんですよ。」
「あら。アレンジが出来るってことは、音楽関係の知識や技術も持ち合わせてるってことね?」
「ええ。ほら、晶子。聞かせてみせなさいよ。」
「あ、ええ。」

 晶子は携帯を操作して、電話の着信音である「Fly me to the moon」ギターソロバージョンを鳴らす。田中は勿論、他の学生も耳を澄まして聞き入る。
今日初めて聞く田中は兎も角、他の学生は何度も聞いているが、何時聞いてもこの「Fly me to the moon」は聞き惚れる。ワンフレーズ鳴らして止める。

「へぇ・・・。『Fly me to the moon』は聞いたことがあるけど、ギターソロっていうのは初めて聞くわ。曲の雰囲気をより鮮明に彩る、絶妙なアレンジね。」
「ですよね?田中さんもそう思いますよね?」
「音楽のセンスは相当のものね。井上さん。貴方の夫は実際にギターを弾けるの?」
「はい。私と同じお店−喫茶店なんですけど、そこでもギターを弾いているんです。去年の夏にはジャズバーなどで演奏しているプロの人達と新京市公会堂で
共演しました。そのプロの人達も、夫のギターの腕に高い関心を示していました。」
「なるほど?その道のプロのお墨付きってわけなのね。」

 田中はそう言って笑みを浮かべる。意味ありげな雰囲気を漂わせるその笑みに、晶子は本能的な警戒心が生じたのを感じる。「この女性は祐司さんに
関心を抱いている」というものだ。本人は勿論そんなことを口にしてはいないが、そう思うという段階ならば、どちらが悪いとかいう性質のものではない。

「で、その旦那が今日も晶子を迎えに来るんですよ。」
「今日も、ってことは毎日そうなの?」
「はい。旦那が朝一から講義を受けてる関係であたし達は時々しか見ないんですけど、来る時も旦那が文学部の研究棟まで晶子を送ってくるんですよ。」
「それでですね。今日は晶子が旦那をこの部屋に来るようメールを送ったんですよ。」
「ということは、此処に居れば井上さんの夫をその目で見られるってわけね?」
「そうです。あ、写真見ますか?晶子が持ってますよ。」
「遠慮しておくわ。写真と本物とではイメージが違うことはよくあるし、それで余計な先入観を作りたくないから。」

 田中の言葉は、晶子の警戒心を更に強める。予め得られる情報をシャットアウトして本物を見たいと言うのは、自ら見て得る第一印象を今後の基盤に据えようという
意志の表れだ、と。勿論晶子は表面に出すことはしないが、客観的に見て美人と言える女性が関心を持って初対面に臨むことに、警戒心を募らせる。
 全員がドアに集中する時間がゆっくり流れ、ドアがノックされる。来た、という声を皮切りに歓声が沸き起こる。期待を込めてゼミの学生が応答するとドアが開き、
祐司が姿を現す。歓声が一段と強まる中、何時の間にか晶子の近くに立っていた田中が呟く。

「優しそうな男性ね。」


「−というわけなんです・・・。」

 俺の耳元での、晶子の事情説明が終わる。晶子は俺に抱きついて密着したまま、身体を動かさない。動かす力もないんだろうが。

「事情は分かった。田中さんが俺に関心を抱いてると感じて警戒していたところに、俺を見た田中さんが良い印象を口にしたから、警戒心が強まった。
・・・こんなところだろ?」
「はい・・・。」
「でも、俺には晶子から田中さんに乗り換えようなんて気は欠片もない。二股掛ける甲斐性なんてもんもない。おまけについこの前、親に晶子との結婚の意志を
伝えたんだぞ。そこまでしておいて今になって『やっぱり止めた』なんて言うつもりはさらさらない。」
「私もそう思ってます。」
「だったら・・・。」
「けど・・・、そのことを潤子さんに話したら、こう言われたんです・・・。」

 晶子はもう1つの根拠として、潤子さんから言われたことを話し始める・・・。

「そう。そんなことがあったの。」
「はい・・・。」

 何時ものバイト先での何時もの立ち位置。連日大盛況の喫茶店Dandelion Hillのキッチンで、注文の料理を作りながら晶子が潤子さんに今日のゼミの
学生居室での「異変」を話す。潤子さんは聞き流したり、忙しいから後で、と言ったりせずに、手を動かしつつも耳はしっかり晶子の話に向けていた。

「その田中って院生の人が祐司君に関心を示して、祐司君を見て開口一番『優しそうな男性ね』って言った・・・。それだけなら不安視しなくて良い、と言えなくも
ないけど、晶子ちゃんの話からするに、その田中って女性(ひと)は頭脳明晰タイプの美人だから、気が気でない。・・・そんなところかしら?」
「・・・はい。祐司さんが浮気するとは思ってませんし、思いたくもありません。けど・・・、今まで祐司さんを見た女性の中でああいう態度を見せたのは
初めてですから・・・。」
「不安になっても無理ないわね。祐司君は自分が晶子ちゃん以外の女性に興味を持たれるなんて想像もしてないようだけど、そういう動きが実際にあって、
当の晶子ちゃんがそれを直ぐ傍で見ちゃったんだから。」

 潤子さんは料理の仕上げをしながらひと呼吸置く。

「祐司君とは上手くいってるんでしょ?」
「はい。」
「休み明け最初のバイトでも聞いたけど、祐司君の高校時代のお友達との旅行にも同行させてもらって、その帰りには祐司君の実家に立ち寄って、ご両親に
紹介されて凄く歓迎されたのよね?」
「はい。祐司さんは私との結婚を宣言してくれて、ご両親も手放しで歓迎してくださいました。」
「そういう事実があったんだし、祐司君の性格からして他の女性の乗り換えなんてまずありえないと思うけど、当面の不安は解消しておいた方が良いわね。」

 潤子さんは仕上げた料理を皿に盛り付けながら続ける。

「祐司君とは、夜寝るところまで進んでるのよね?」
「え、あ、・・・はい。」
「晶子ちゃんの事情とも相談しないといけないけど、祐司君と寝てみたら?」

 潤子さんの口から思いがけない言葉が出て、晶子は驚き戸惑う。一方の潤子さんは何ら臆したり躊躇したりすることなく、手を動かしながら続ける。

「男性と女性とでは色々なところで価値観の相違があるもの。セックスもその1つよ。男性は強い欲求の1つでもあるし、恋愛感情が絡むと相手との連帯感や
相手への支配感を生じさせるものになる。」
「支配感・・・ですか?」
「一言で言ってしまえば、『今抱いている女は自分のものだ』っていう意識よ。自分の目の前であられもない姿で喘いでいる女を見れば、そういう意識が生じるものよ。
それは晶子ちゃんも、祐司君とのセックスで何となく感じる時があるんじゃない?」
「そう言えば・・・。」

 晶子は手を止めて、自身が抱かれる時を思い返す。最後の回の途中で、祐司が一旦動きを止めて自分の身体を指でゆっくりなぞることが「定着」している。
それをマンネリなどと不満に思ったことはないが、潤子さんの言う支配欲、具体的には「自分が抱いている女の身体を指先で堪能している」という意識の表れでは
ないか、と思える。

「そんなようなことが・・・。」
「心当たりはあるようね。役所に書類を出してないけど、晶子ちゃんは指輪をプレゼントされた時から存在感を示してるし、祐司君も回答を求められて公言したし、
ご両親にはついこの前に晶子ちゃんとの結婚の意思表示をした。表現を変えれば、役所に書類を出してないだけで、夫婦関係は成立していると言える。
今はお互いの家を行き来して、時に夜も共にすることで実生活面での下均(なら)しをしている、ってところね。」

 潤子さんは、話を聞きながら手の動きを再開して完成させた晶子の料理と併せてトレイに乗せ、カウンターに駆け寄ってきた祐司に向けて、カウンター越しに差し出す。

「祐司君、丁度良いところ。ミートスパゲティーセット1つととんかつセット2つを3番テーブルに、ミートスパゲティーセット1つとグラタンセット1つを
8番テーブルにお願いね。」
「はい。」

 祐司はトレイを片手で1つずつ持って、指定のテーブルに運んでいくことを繰り返す。毎日の訓練の成果と言うか、腕力が備わったために幾つもの皿が乗った
トレイを片手で持つことが出来るようになって久しい。そうしないと連日大入りの店の接客をやっていられないというのもあるのだろうが。

「話の続きだけど、そういう関係なんだからセックスも日常生活の1つと位置づけるべきね。今まで聞いた話とかからするに、祐司君から毎回積極的に求めてきて
晶子ちゃんが事情を考えて回避したりするんじゃなくて、晶子ちゃんがOKサインを出して開始、っていう様子みたいだから。」
「どうして分かるんですか?」
「夫婦生活では私とマスターの方がキャリアは長いんだから、大体分かるわよ。断片的な情報からでもね。」

 潤子さんはフライパンに水を張りながら、ウインクしてみせる。同性から見ても思わず見とれてしまうほど様になっている。

「私に言われたから早速、ってわけにもいかないと思うけど、夫婦生活の一環で愛情を確認しておいたら、当面の不安は解消出来るんじゃないかしら。」
「そう・・・ですね。」
「幸い此処は私と晶子ちゃんが仕切ってるし、今回みたいに祐司君には疚しいことじゃなくても直ぐには話せないことだってあるだろうから、これからも相談に乗るわよ。」
「ありがとうございます。」
「さ、次の料理に取り掛かりましょうか。今日も多いからねー。」

 潤子さんはカウンターの向かい側の端に貼り付けられた注文の一覧のうち1枚を剥がして、晶子にも見せて次の料理作りに取り掛かる・・・。

「なるほど・・・。今夜激しく求めてきたのは、俺の心が田中さんに向いてないかどうかを確かめるためだった、ってことか・・・。」
「はい・・・。」
「晶子はもう知ってると思うけど、俺には二股掛ける甲斐性なんてないし、そんなつもりもない。今日の帰りに田中さんのことを聞いたのは、あくまでも話の流れで
院生の数の違いや仕事と両立しながらの博士課程在籍に興味を持っただけだよ。」
「分かってた・・・つもりです。ですけど・・・。」
「俺に今までそんな態度を見せた女性が初めてで、その女性がゼミでは知らない者は居ないほどの超有名人だから、気になった・・・。そんなところか?」

 俺の問いかけに、晶子は小さく頷く。俺に抱きついたままだから、首の動きは左の頬で直接感じる。試しに右手に動かそうとする。・・・全体的に重いが
どうにか動かせる。さっきまではそれこそ指も動かせない状態だったんだが、まあ良い。俺は左手を動かして晶子の頭に乗せる。

「潤子さんの言葉を借りれば、俺と晶子は役所に書類を出してないだけの夫婦関係なんだし、俺はしつこい性格だから、俺の方から離れることはない。
大体、晶子を手放すなんてそんな勿体無いこと、出来る筈ない。」
「手放さないで・・・。」

 耳元だからようやく聞こえた声量での言葉に続いて、周期的な寝息が聞こえてくる。眠ったか・・・。そりゃそうだよな。普段だったらとっくにぐったりして
しまうところで更に求めて受けたんだから。かく言う俺も全身が気だるい。明日・・・起きられるかな・・・。ま、良いか。去年まで週末は昼頃まで寝てたんだから、
一時的に元に戻るようなもんだ・・・。
 それにしても、晶子が俺の心変わりをこんなに警戒するなんて・・・初めてじゃないか・・・?田中さんは単に自分が所属するゼミの後輩が既婚で、その夫が
今日自分達が居るゼミの学生居室に来ることに関心を示しただけだと思うんだが・・・。俺が晶子を手放すなんて、そんなことする筈ないって・・・。

Fade out...


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