雨上がりの午後
Chapter 188 真冬の夜の回想と夢想
written by Moonstone
「修学旅行っていえば、俺達は九州一周だったよなぁ。」
停滞していた空気を宏一が動かし始める。お調子者で頭を抱える行動が多いが、こういう時の切り替えは上手い。
「新幹線で博多まで行って、そこから長崎、熊本、鹿児島、大分と回って、博多から新幹線で帰り、っていう道のり。長崎のちゃんぽんが懐かしいぜ。」
「宏一、ちゃんぽん食いまくってたんだよな。『長崎っていったらこれだ』って豪語して。」
「おうよ。あのたっぷりの野菜と風味豊かな汁、そしてあの麺・・・。あれは最高だ。」
勝平も言ったとおり、宏一は長崎でひたすらちゃんぽんを食っていたらしい。
一泊するというスケジュールの関係もあって長崎では1日自由行動だったんだが、宏一が事前に調べたちゃんぽんの店を食い歩くもんだから同じ班の人は呆れて、
集合時間まで好きなだけ食ってろ、と言われて放り出されたらしい。だが、宏一はこれ幸いとばかりにちゃんぽんを食いまくって満足そうな顔で帰ってきたそうだ。
「俺は熊本が印象深いな。阿蘇山で乗馬が出来たのが良かった。」
「渉はいきなり乗りこなして、10分くらいガイドなしで牧場を走りまわったんだよな。戻って来た時には女子にきゃあきゃあ言われてさ。」
「歓声は俺が望んだわけじゃない。」
宏一がやっかみも含めて突付くが、この程度で渉は動じない。
阿蘇山の火口には広い草原があって、その中に乗馬体験が出来る牧場があるんだが、渉はその馬の一頭をいきなり乗りこなして、ガイドの確認と許可を得て
10分ほど牧場を馬に乗って走り回った。俺は偶然それを見たんだがとても初めてとは思えない、映画のワンシーンにでも出来そうなくらいさまになっていた。
戻って来た時は当然ガイドは目を丸くしていたし、見ていた女子が黄色い歓声を上げて渉を出迎えた。「今度は私を一緒に乗せて」と誰かが言い出したのを
きっかけに自分が一緒に乗せてもらう、いいや自分だ、と言い争いになったのを他所に、渉はガイドに礼を言ってから、ガイドから渡された人参を馬に与えた。
馬は渉を随分気に入っていたようで渉が顔を撫でたら顔を摺り寄せてきたし、別れる時は名残惜しそうにずっと見守っていた。
その後で聞いたが、やはり渉は今まで乗馬体験は本当にまったくなかった。だがその馬に跨った瞬間「この馬は自分と合う」という勘のようなものが働いたらしい。
後は身体が自然に動いて、馬が2人で一緒に走ろうと言っているように感じたとも言っていた。「フィーリングってのは意外にあるのかもしれないな」とは渉の弁。
「俺は鹿児島だな。噴煙を上げる桜島を生で見られたのは良かった。」
「アグレッシブな耕次に相応しい場所だよな。」
耕次は桜島が見たかったらしく、桜島を写した分だけで膨大な量の写真が出来上がった。
鹿児島でも宿泊した関係でほぼ1日自由行動だったんだが、耕次は桜島にこだわっていたらしい。そのことは後で現像された写真の束を見れば容易に分かった。
その中から耕次自ら厳選した1枚の写真が、俺達が2年の時の文化祭でコンサートに併せて販売したオリジナルアルバムのケースの写真になった。
活火山の桜島と活動を続ける俺達バンドを重ねる意図もあったそうだ。
「俺は大分だな。この町みたいに温泉を基盤にした観光産業の実情を詳しく把握出来たからな。」
「やっぱりお前は、次期社長の素質があるな。」
「修学旅行っていうくらいだから視察を兼ねる意識で行ってこい、って出発前に親父に言われたし。」
大分では別府温泉を巡った。
別府温泉といえば有名な温泉どころの1つだが、俺を含む他の面々が温泉をはしごしたり土産物を買い漁ったりする中で、勝平は何と温泉街の組合長などと
懇談して、共同体としての町の運営や広報活動といったものを聞いたり、幅広い年齢層を対象と出来る観光地として運営する方策について意見交換をしたという。
勿論それは勝平の単独行動だし、本来なら班単位での行動から逸脱するから許されないところだが、勝平の父親が中小企業の連合会を介する形で温泉街の
組合長らと交流があって、組合の方から、勝平が来た際は当方と懇談させてもらいたい、と高校に打診してきたから高校側も受け入れざるを得なかったと言える。
行っても泊まる場所がなければ話にならないのもあるだろうし。
勿論「見返り」がないわけがない。組合は勝平との懇談の機会を持たせてもらう代わりに、他の生徒は学生証を、教師は身分証明書を提示すれば一律100円で
どの温泉にも入れるようにするという豪華特典まで用意したから、高校側はむしろ受け入れたくなるだろう。
勝平は大学こそ俺と同じ工学系だが、勝平の父親は勝平を次期社長にすべく中学の頃から経営に触れる機会を持たせているし、勝平自身も次期社長という意識や
責任感をしっかり持ち合わせている。懇談の内容などは父親は勿論重役会議の場でも報告したそうだし、今はもう社長である父親の経営を手伝っている。
卒業したら即経営に関与しても良さそうなもんだが、「経営に本格的に携わるには現場の呼吸を経験しなければいけない」というのが父親の方針らしい。
勝平の父親は俺の父親と同じく脱サラして今の会社を起業したから、現場の苦労とかそういうものを体験しないで頭だけで経営を進めては現場との乖離を招くという
意識があるんだろう、と勝平が言っていた。
「俺は博多だな。あの界隈は小宮栄とはまた違う独特の雰囲気があったし。」
「この際だから晶子さんにも教えておこうか。」
「何をですか?」
「耕次。それは良いって。」
「祐司は博多で、ストリートミュージシャンの演奏に飛び入り参加して客を一気に増やした、っていう伝説を作ったんですよ。」
「あれは偶々、俺達がよく聞いてたミュージシャンの曲で、ギターの人が急に体調を悪くして困ってたから・・・。」
「学生服のまま飛び入り参加して拍手喝采を浴びたってのは、伝説になる以外にないだろ。」
耕次に反論出来ない。
・・・そう。俺は同じ班の人と博多の町を見物していた時、ストリートミュージシャンの演奏を目にした。そのまま通り過ぎようとしたら急に演奏が止まって、
どうしたのかと思ったら、ギターの人が腹を押さえて蹲っていた。
ギターの人は急な腹痛を起こして暫く休まざるを得なくなったんだが、客が居る前で演奏が途中で止まってしまったことに戸惑っていた。
そうしたら同じ班の人が助けてやれ、と俺を促したし−俺がバンドでギターを担当していることは当たり前のように知っていた−、曲は自分でも出来るものだったし、
このまま見てみぬふりをするのも気が引けたから、思い切ってそのバンドに代役を申し出た。
当然そのバンドの人は、見慣れない学生服姿の俺が代役を名乗り出たことを訝ったが、休んでいたギターの人が演奏を続けろと言ったのを受けて、駄目で元々、
という様子で俺にギターの代役を任せた。ギターを託された俺はその場で演奏に加わった。
そうしたらどういうわけか客が盛り上がって、その盛り上がりを目にした通りがかりの人が次から次へと集まり、1曲演奏が終わった頃には立派な人垣が出来ていた。
バンドの他の人も見方を完全に変えたらしく、そのまま俺に代役を続行させた。幸い知っていて演奏出来る曲ばかりだったから難なくこなせた。
集合時間が近づいてきたから、ということで引き上げようとした頃にはギターの人の腹痛も収まっていた。それに、観客からは歓声と共にシャッター音が幾つも
飛び交っていた。俺はギターの人とは勿論、飛び入りを認めてくれたバンドの人と握手を交わした。待っていた同じ班の人は通りがかった他の班を呼び止めて
人垣に混じっていて、俺は感嘆と拍手で出迎えられた。その経過が宮城とその友人達の耳に入って、驚嘆と冷やかしの嵐を受けたのは言うまでもない。
「そんなことがあったんですか。」
「晶子さんはご存知かもしれませんけど、博多はミュージシャンの町とも言われるような場所なんですよ。ですからプロを目指すストリートミュージシャンが
多いんですけど、祐司はそんな連中の本番中に飛び入りで客を集める実力を高校時代から持ってたんですよ。」
「俺達はその場に居なかったんですけど、話を聞いた時は驚くより、ああなるほどな、って思いが先に出ましたね。バンド仲間の俺達でも。」
「・・・褒めたって何も出ないぞ。」
耕次と勝平の補足を、俺はビールを飲みながら聞き流すようにする。
話を聞きつけた面子がさして驚くこともなく納得した様子だったのは事実だし、晶子に聞かれたくないわけじゃないが、自分の逸話が話されるのを聞くのは
どうにも照れくさい。
「私の修学旅行は奈良と京都、あと大阪と神戸だったんです。」
「ということは、晶子さんの出身高校は俺達とは地域が違うんですね。」
「はい。」
高校に限ったことじゃないが、修学旅行の行き先は日本全国共通じゃない。地域や学校によって行き先が違う。
俺と面子の出身高校では九州一周だったが、後で聞いた話では関東とかだと奈良や京都になったり、最近は日本を旅行するより安上がりということで韓国や香港、
ハワイといった有名な海外の観光地へ行く高校もあるそうだ。日本ってのは狭いようで広い。
「丁度紅葉の時期でしたので、特に奈良と京都は見て楽しめました。混雑は凄かったですけど。」
「京都は年中何処かが観光スポットのようなものですけど、紅葉の時期とかは一段と凄くなるらしいですからね。」
「はい。私もそれは知っていましたから、苦には思いませんでした。」
奈良と京都か・・・。俺は小学生の修学旅行で行ったっけ。
地図でも割と近場っていう印象があるんだが、九州や北海道とかが遠くに思えるように、関東以北や九州以南だと奈良や京都が遠くに思えるだろう。
「皆さんの高校の制服はどんなものだったんですか?」
「制服、ですか?」
「はい。学校によって色々でしょうから。」
晶子は、意外だが高校までに大抵付き纏う話題を向ける。耕次も少し意外に思ったのか思わず聞き返したが、直ぐになるほどといった表情を見せる。
「俺達の高校の制服は、男は何の変哲もない所謂学生服で、女は・・・ありゃ何て言うんだ?宏一。バトンタッチ。」
「色は黒で、ベストとブレザーをネクタイを組み合わせた感じの制服だったんですよ。女子の方は学校の性質の割に洒落てるってことで、結構有名でしたよ。」
「学生服ですか・・・。私の高校は男女共明るい青を基調にしたブレザーだったんですよ。皆さんと同じで、進学校の割にお洒落な制服って地域では有名でした。」
晶子の高校の制服はブレザーだったのか。俺は中学高校と学生服だったが、あの詰襟がどうにも鬱陶しくて仕方なかった。
だから一時的とは言えそれを着なくて済む−開襟シャツになる−夏場が好きだった。
だが不思議なことに女子は男子の学生服が好きだったようで、衣替えの時期の後になる文化祭や体育祭では誰かの学生服をウィンドブレーカー代わりに
羽織るという奇妙な伝統もあった。学生服を羽織ることは貸してもらった相手から告白されたか付き合っているという証明、ということだったらしい。
当然と言うべきか、1年から3年まで文化祭と体育祭で俺の学生服はずっと宮城が羽織っていた。その度に宮城の友人達に冷やかされるのが何とも照れくさかった。
「男性の学生服に憧れる女性は割と多いそうですけど、晶子さんはどうでしたか?」
「近隣の学校は学生服の方が少数派だったこともあったためだと思いますが、かなり憧れのようなものはあったようですね。私は服装とかをあまり気にしない方なので
特に意識はしなかったんですけど。」
「やっぱりそうですか・・・。男の側としてはあんな暑苦しくて首を絞められているような服の何処が良いのか、いまいち理解し難いんですがね。」
晶子に尋ねて回答を得た勝平がぼやく。
学生服は羽織る程度なら確かに冬にはコート代わりにもなるが、毎日着る分には経験者の立場から言えばかなり鬱陶しい。高校時代に戻ったとしてもあれをもう一度
着たいとはとても思えない。
そんなこともあって、俺は中学の頃に新設されて高校の通学途中にも目にした高校のブレザーの制服が良いな、と思っていたが、中学の頃から卒業した高校への
進学が期待されていた俺にはその選択肢はないに等しいものだった。とても「ブレザーの制服を着たいからあの高校へ行きたい」と言い出せる雰囲気じゃなかったし。
「祐司の服を着てみたいとか思ったことはありますか?」
宏一の問いかけに、俺は口に含んだビールを噴出しそうになる。どうにかむせるのを避けてビールを飲んだ俺は宏一に向き直る。
「宏一。何言い出すんだ、いきなり。」
「何言うも何も、自然な流れじゃねえか。逆は遠慮願うが、学生服に憧れる女子が結構多いのと同じで、晶子さんは祐司の服を着てみたいって思ってるんじゃないかって
思ったんだよ。」
「一度・・・着せてもらいたいですね。特にコートとかを。」
少し恥ずかしそうに、躊躇い気味に晶子は言う。頬が僅かに赤らんでいるのは両手に持っている缶ビールの成分だけが要因じゃないだろう。
「やっぱりそう思いますか。」
「一概にそうとは言えませんけど、男性用の服と女性用の服とでは見た目もそうですし、着心地とかも違うと思うんです。それを自分で確かめたいな、と・・・。」
「・・・祐司。その場で起立。」
「何でだよ。いきなり。」
「いいから起立。」
耕次の命令の意図が分からないまま、俺は缶ビールを置いて立ち上がる。
「晶子さんも起立をお願いします。」
「あ、はい。」
今度は晶子が耕次の依頼を受けて、缶ビールを置いて立ち上がる。
俺と晶子は隣り合って座っているから、立ち上がると通学時やバイト先との往復時と同じ立ち位置になる。
俺は170cmとやや低め。一方の晶子は割と身長があるから−163cmって言っていた−俺の目線は晶子の額あたりだ。
「ふむ・・・。こうして並んだところを見ると、そう極端な身長差があるわけじゃないな。」
「悪かったな。背が低くて。」
「違う違う。身長差があると祐司がコートを晶子さんに着せたら引き摺っちまうだろ。」
耕次のフォローで、一時むかっとした俺の感情は沈静化する。
面子の中で一番身長が低いのは分かってるし、この「やや低い」という身長が俺の最大のコンプレックスだ。せめてあと5cm欲しいんだが、身長の伸びは高校1年の
段階で止まっちまったからどうしようもない。
それは兎も角、こうしてみると俺のコートとかをそのまま晶子が着ても妙にブカブカになったりすることなく自然に着られそうなのは間違いなさそうだ。
「もう良いか?」
「ああ。一度着せてやれ。今この場でなくても良いから。」
「そうする。」
俺と晶子は座る。今までコートとかを着せる機会は何度もあったが、思いつかなかったからな・・・。
耕次が言ったように、面子が引き上げた後でコートを貸してみようかな。晶子がどんな顔をするか楽しみだが、どうせなら何の前触れもなく着せてみたかったな。
今更気づいても遅いが。
晶子の高校の制服はブレザーだったのか・・・。晶子は春や秋に長袖のブラウスとベストという組み合わせを好むけど、肌寒い時はブレザーじゃなくて
パーカーあたりを羽織るし、今までブレザーを着ているところを見たことはない。ざっと想像した程度でもブレザーは晶子に結構似合いそうな気がする。
それに、高校時代の制服を着られるだろう。写真でも良いけど、本人が実際に着ているところを見てみたい。
「祐司は、晶子さんに何か着てもらいたい服はあるか?」
「え?」
言葉で聞いた範囲内での制服姿を想像していたところに、渉の質問が「介入」してきた。俺は思わず聞き返してしまうが、どうにか「高校時代の制服」とは
口走らずに済んだ。
晶子は大学進学まで髪の色のせいであまり良い思いをしなかったから、高校時代の制服を要望することは、晶子にそんな過去を思い起こさせることになってしまうだろう。
「渉らしくない、安直な質問だな。」
「そうか?」
「祐司が晶子さんに着てもらいたい服の筆頭って言えば、ウェディングドレスに決まってるだろ。」
耕次の言葉を合図に、ウェディングドレス姿の晶子が脳裏に浮かぶ。
レースが使われた白のドレス。手に持つブーケ。やや俯き加減の顔を霧のようにうっすら隠すベール。・・・似合うよな、やっぱり。
ブライダル関係の店に入ったことがないから電車の中吊り広告で偶々見かけた写真を元に想像してるが、実際に着たのを見たらその場に突っ立つだろう。
「祐司も見てみたいだろ?」
「そりゃ勿論。だけどそれは、時が来るまでは想像するだけにしておこうと思ってる。」
「結婚式の時までってことか。」
「レンタルであるっていうからそれを使えば結婚式じゃなくても見られるけど、何となく味気ないし。」
前にバイト中に常連のOLの1人が、自分に合うウェディングドレスを探したいと思ってレンタルで色々試着したけど結局どれにも絞り込めなかったし、
ウェディングドレスへの憧れがちょっと冷めた、と言っていた。着たその時は喜び勇んで写真も撮ったし他にもっと良いのがあるかもしれないと思っていたけど、
全部着てしまって写真も出来てしまうと、自分も広告とかのそれと変わらないように思えたからだという。
レンタルなら買うよりは安上がりだろうけど、それで熱を上げて結局本来の目的である筈の「自分に合うウェディングドレスを探す」ことへの熱が冷めてしまっては
本末転倒だ。それを踏まえても、結婚式の時までは想像するに留めておいた方が良い。
「祐司の言うことにも一理あるな。他に晶子さんに着てもらいたいものはあるか?」
「そうだなぁ・・・。」
渉に改めて問われて考えるが、これ、と即挙げられるものがなかなか具体的に思い浮かんでこない。名称は知っていてもそれを晶子が着ているイメージに
繋げられない。大学は私服だし、バイトも晶子は私服の上に潤子さんとお揃いのエプロンを着けているし、高校卒業以来制服とは縁遠くなっているのもある。
「ピンとこないなぁ・・・。大学もそうだけどバイトでも制服じゃないし・・・。制服に関係する場所に行ったことが殆どないから、イメージが掴み難いんだよ。」
「そう深く考えなくても良いじゃねぇか。制服といって連想するものを出せば。」
「たとえば?」
「看護婦さんとかスチュワーデスとか、セーラー服とか巫女さんとか、制服といえばありとあらゆるものがあるじゃねえか。」
「・・・一部制服とは言えないものもある。それにそれは、宏一の趣味だろうが。」
「そういうものに興味が行くのが男の性ってもんだ。そうだろ?祐司。」
「俺に同意を求めるな。」
渉に突っ込まれた宏一の同意を求める言葉を、俺は門前払いにする。
渉の言うとおり、宏一が列挙したのは趣味の範囲だ。・・・でも、看護婦とかは似合いそうな気がする。
幸いにして病院とは縁遠いから看護婦の制服はありがちなものしか思い浮かばないが、それが好きな奴が晶子の看護婦姿を見たら、カメラを構えるのは間違いない。
「祐司がファッション雑誌を買うとは思えないし、元々ファッションとかには無頓着だからイメージが沸き難いのも致し方ないな。じゃあ、晶子さんの側から
祐司に見せたい制服とかはありますか?」
「制服ですか・・・。私も制服とは高校以来縁がないので、思いつかないですね。」
渉の質問に晶子が答える。そうだよな・・・。晶子も普段制服を着てないから、イメージし難いだろう。
季節に応じて変わるのは勿論だが、普段の服装が一番よく似合っていると思う。
「そうそう。肝心なものを忘れてた。」
「何だよ、それ。」
「制服にこだわり過ぎてた。制服とはまた違うが、男なら誰しも見たいと思うもの。・・・水着だ。」
妙に宏一が力説する。宏一って制服好きだったっけ?
それは兎も角、水着なら一昨年の夏、マスターと潤子さんに連れられて泊りがけの旅行に行った柳ヶ浦で見た。
白い肌に映える水着と、白昼で見る晶子の豊満な胸元や足に視線が釘付けになったのを憶えている。あれは確かにもう一度見たいとは思うが、この時期水着を
着るってのはモデルやグラビアアイドルくらいのものだろうし、暖房があるとはいえ晶子も寒いだろうから気が引ける。
「・・・何を力説してんだ、お前は。そんなに見たけりゃ本屋かCDショップに行け。その手の写真集やDVDとかがゴロゴロしてる。」
「水着を見たくないって言えば嘘になるけど、それは機会があったらだな。まあ、夏でもバイトはずっとしてるから、海とかプールとか水着が必要になる場所へ
行く機会も殆どないだろうけど。」
「1日くらい休めば良いんじゃないか?」
「それがそうもいかないんだよ。休むこと自体は不可能じゃないけど、店が一昨年あたりから連日大入りでな。マスターと奥さんだけじゃ手に負えないし、
俺と晶子が居てもギリギリってところなんだ。バイトでもらう収入が減るのも痛いし。」
まさに客が客を呼ぶってやつで、このところ店のテーブルが長時間空席になることはまずないと言って良いほどだ。客の循環の良さはそこそこだが、
兎に角料理の注文が多い。特に塾帰りの中高生とかは夕食も兼ねている場合が多いから−晶子から間接的に聞いた−、年齢的なものもあって兎に角よく食べる。
仕事帰りの社会人とかは、1日の終わりをゆったり寛ぐことで疲れを癒すためでもあるらしい。注文はコーヒーか紅茶だけというのが大半で、誰かがステージで
演奏するのを聞いてから帰るというパターンだ。
マスターも潤子さんも休むなら事前に連絡してくれれば良いとは言ってくれているが、客の多さを連日目にしていれば、とても休む気にはなれない。
レポートの多さと朝の速さが重なって体力的にちょっと厳しいと思うこともあるが、バイトも日課の1つとなっているから休むわけにはいかないし、休もうとは思わない。
バイトに行けば晶子と一緒に働けるし、今では往復も一緒だ。バイトに行くことはその時間を作ることでもあるから尚のこと休みたくない。
それに、バイトを休めばその分収入が減る。俺の時給は1500円とバイト、特に飲食店のそれとは思えないほどの額だが、そうなると休むことによる収入減は
余計に痛くなる。今の大学の講義は専門教科ばかりだから、それに使うテキストは専門書。専門書っていうのはやたらと高い−広告がないためらしい−。
1冊1000円で買えるものはないといって良い。2000円、3000円するのが当たり前で、中には4000円台に乗るものもある。
時給に換算すると約2時間分で1冊の専門書が買える。卒研がどんな形式で進められるかはまだよく分からないが、卒論作成のために必要なソフトウェアを
使えるようにするためにも複数の専門書を買う必要があると考えるのが妥当だ。それも考えるとやっぱり安易に休めない。
「祐司はバイト代を仕送りに補填して、それで生活費一切を賄うって条件で一人暮らしが出来てるんだから、遊びに行こうと思って簡単に休むわけにもいかないか・・・。」
「学費の高さが根本原因なんだが、それを話し出すと別の方向に向かうからそれはパスするとして・・・、日帰りでも無理なのか?」
「まったく無理ってことはないけど・・・、店の休みは月曜でその日は実験があるし、土日祝日でも月曜と年末年始以外は基本的に営業だから、往復の時間を含めると
殆ど行って帰って来るだけで終わっちまう。柳ヶ浦って海水浴場が割と近いんだけど、バイトが始まる時間を考えるとちょっとな・・・。」
元々朝は遅いし苦手な方だ。最近こそ晶子と一緒に通学している関係で平日は起きられるが、土日になると睡眠不足を解消せんとばかりに眠り込んでしまう。
今年の夏は平日は勿論だが、土日も卒研のために出て行く必要に迫られるかもしれない。化学関係の学科に比べればずっとましだが−特に有機化学関連の
実験では2日かかることもあるらしい−、総じて厳しいことで有名な新京大学の理系学科の1つ。カレンダーどおり休めるかどうかかなり怪しい。
今までのところ受講した講義の単位は全て取っている。選択科目については4年次への進級条件をほぼ満たす数に達しているし、必須科目も最低5つ単位を
取れば進級出来る計算だ。でも、油断は禁物。2月に入れば後期試験が直ぐ迫ってくる。そこで躓いたら話にならないから、進級後のことを考えるより進級のことに
専念するのが適切だ。
「晶子さんは、祐司と何処かに行きたいとか思いますか?」
「祐司さんとは一緒に通学していますし同じお店でバイトしてますから、それで満足です。今回の旅行で遠出することも十分満足出来ています。それ以上は
望みません。祐司さんには自分のことに集中してほしいですから。」
「本当に祐司のことを第一に考えてるんですね。」
「パートナーが色々なことに取り組んでいる時に自分の欲求を介入させて、更にそれを優先させようとするようでは、その人のパートナーを名乗る資格はないと
思っています。」
耕次が感心するまでもない。晶子が自分のことより俺のことを優先しているのは、俺自身が一番よく分かってるつもりだ。
あそこに連れて行け、これを買って、と強請ったことはない。強請ったと言えることを挙げるなら、俺と晶子の左手薬指に填まっている指輪をプレゼントした時、
自分は勿論俺にも左手薬指に填めることを譲らなかったことくらいだ。
「祐司。」
耕次の呼びかけに応えて顔を向ける。その表情は腹の底からの決意を迫るものだ。
「絶対、晶子さんを泣かせるんじゃないぞ。」
「分かった。」
そう。俺は絶対晶子を泣かせちゃいけない。
それが晶子の滅多にない鉄壁の要望に応えて指輪を左手薬指に填めた相手として、そして晶子の夫を名乗る男として絶対に守らなければならないことだ。
そのためには・・・何より俺がしっかりしないといけない。
俺が決めないことには晶子が動けない。自分で決めなかったら流されるがままになって、永遠に脱出出来ない滝壺に落ちてしまうかもしれない。
安易な妥協の末に流されて落ちてからその妥協を後悔しても手遅れだ。高校時代は宮城と、そして今此処に居る面子と共に乗り切った。今の大学進学で
仲間との約束を果たし、公約も実現した。今度は晶子と共に乗り切る。時には俺1人で、何としても・・・。
一頻り飲んでからこの地で最後の風呂に行き、それぞれの部屋に戻った。
電灯を消した部屋は真っ暗。音らしい音も聞こえない、本当に人が住んでいるのかと疑ってしまうような静けさとも今夜でお別れ。
明日の朝、朝食後に荷物をまとめて帰路に就く。一旦小宮栄に向かい、それぞれ帰る場所へ向かうために。
俺の隣、否、傍には晶子が居る。何時も2人で寝る時と同じく、晶子が俺の左の肩口を枕にして寄り添う形で。ちなみに浴衣は着ている。無論下着も。
今日は酒を飲んだし、静けさと闇の中という睦み時における絶好のシチュエーションが揃ってるわけだが、先に進もうとは思わない。それより、こうして晶子の頭を
抱き寄せて俺の胸の鼓動を聞かせる方が心安らぐし、心地良い。
「今日は・・・良いんですか?」
「今日はいい。こうしている方がいいから。」
「無理は・・・してないですか?」
「全然。」
「それならいいんですけど・・・。」
「万年発情期の男でも、その谷間はあるんだよ。出来るって言った方が正確かな。」
自分でも不思議だ。普段は1人だと文字どおり忙殺しているか自分で処理するかのどちらかで、晶子と一緒に居る時は儀式に向かうための条件は出揃ってるのに
そうならない。あれか?マラソン走者が苦しさの臨界値を突破すると達するっていうランナーズハイみたいなもんかな。マラソンというのか遠距離を走るのは
高校時代の体育の授業で冬場にあったが、そんな境地に達したことはなかった。だから想像の域を出ない。
「祐司さんは、私のウェディングドレス姿を見たいですか?」
少しの間を挟んで晶子が再び無声音で問いかけてくる。
「見たいけど、後の楽しみがなくなるからその時まで想像に留めておく。」
「私は・・・今すぐにでも着たいです。・・・祐司さんのために。」
晶子は身体の姿勢はそのままに、顔だけを俺に向ける。晶子の頭は肩口まで下がっているから自然と上目遣いになる。
「今祐司さんが住んでるアパートに私が持てるだけの荷物を運ぶだけで、私は生活の準備が完了します。着る服は元々多くないほうですから絞り込めば
少なくなります。祐司さんとの生活で良い服が買えなくても、遠くに遊びに出かけられなくても、豪華な外食が出来なくても、私は平気です。私の幸せは・・・
祐司さんと夫婦になって一緒に暮らすこと。そしてそこから生まれること。それで十分です。それ以上は望みません。望むつもりもありません。」
「・・・。」
「ウェディングドレスには憧れがありますし、祐司さんのために着たいとは思います。でも、それを着ないと結婚出来ないなんて思ってませんし、婚姻届とか
必要な書類を市役所に提出して、2人でショートケーキと紅茶でお祝いするだけでも良いんです。私が欲しいのは・・・祐司さんと名実とも夫婦になって一緒に
暮らすこと。・・・ただそれだけなんです。」
「晶子・・・。」
「安っぽい女と思うかもしれません。でも、私はそれで十分なんです。祐司さんとの絆と祐司さんを・・・手放したくない。絶対に。」
口調は静かで声は無声音だが、言葉には強い希望が込められているのを感じる。
事実上だけでなくて法律上でも俺と夫婦になること。そこから生じる幸せ。確かにそれは周囲から見れば安っぽいと思われるものだろう。「そんな生活で満足だなんて
信じられない」とか嘲笑さえする奴も居るだろう。
でも・・・俺もそういう安っぽい人間だ。他人がせせら笑うささやかな生活でも良い。晶子と突っ込みようがない夫婦関係になって一緒に暮らせれば、それで良い。
「俺も安っぽい人間だから、安っぽい者同士で良いんじゃないか?セレブを気取って豪華な暮らしが出来るような安定した収入を、俺に期待してないんだろ?」
「望んでません。それに、そういうのは望むんじゃなくて依存、・・・寄生と言った方が良いかもしれません。他の人がそれを望んでるから自分もそうなりたいとは
思いませんし、祐司さんにそうして欲しいとも思いません。他の人が貧乏だとかせせこましいとか思ったり言ったりしても、祐司さんと私の絆に介入しなければ、
聞き流せば済むことです。」
晶子は改めて、俺との結婚とその後の生活だけに希望と幸せを望んでいることを静かな口調で明言する。そして身体を起こし、俺の両脇に両手をついて
俺に乗りかかる形で俺を見つめる。長い髪の一部が清流のように晶子の両肩から流れ出して、天然のベールを作る。
「だから祐司さんは、収入がどうとか社会的地位とかそんなことは考えないで、自分が望む道を選んで進んでください。私は祐司さんと一緒に歩きますから。」
「・・・よろしくな。」
「こちらこそ。」
晶子の微笑が闇の中にうっすら浮かぶ。それにつられるように俺は微笑を返す。
晶子は暫く俺を見つめた後、ゆっくりと身体を沈めて俺にキスをする。唇と唇が触れ合うキスを暫し続けてから唇をそっと離し、更に身を沈めて俺の首に両手、
否、両腕を回す。俺は少し苦しいくらいに抱きつく晶子の背中に両腕を回して、しっかり抱きしめる。離れないように、離さない、と2つの願いを込めて。
抱き合ううちに眠くなってきた。今日も1日歩いたし、酒を飲んだことも重なって旅疲れが先んじて噴出してきたのかもしれない。
・・・まあ、理由は何でも良い。俺の左耳からは微かで規則的な呼吸音が聞こえてくる。抱きしめる強さはそのままに・・・。
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