雨上がりの午後

Chapter 187 過去の傷痕と向き合う時間

written by Moonstone


「じゃ、9時ごろそっちに行くから。」
「ああ。」

 夕食を終えた俺達は2階で時間を確認してから、一旦それぞれの部屋に戻る。
色々話し込んでいたら1時間以上過ぎていた。晶子との食事でもこんなに時間がかかることはない。
人数が多いし、久々にじっくり膝を交えて話し込むことが出来たこともあるだろう。
あと、俺と面子との高校時代を殆ど知らない晶子への解説にもかなり時間を割いたように思う。
 部屋に入って電灯を点す。並べて敷かれた布団から少し距離を置かれた机に、晶子と向かい合わせになって座る。
早速晶子が茶を入れ始める。こういう時は茶を入れて相手に振舞うように教えられているんだろうか。
そうでないと座って直ぐ迷わず行動、というレベルには達しないだろう。

「はい、どうぞ。」
「ありがとう。」

 晶子から湯気がほんのり立ち上る湯飲みを受け取る。
夕飯には湯飲みに入った茶があったし、時々従業員が汲みに来たから不自由はしなかった。だけど、話し込んだこともあってちょっと喉に、乾きという形での
疲れを感じる。茶を一口流し込むと、その渇きが少しの熱気と共に癒される。

「祐司さん、高校時代はお友達の皆さんと楽しく過ごしていたんですね。」

 両手で机に置いた湯飲みを包み込んだ晶子が、少し寂しげに言う。

「一ニを争う進学校で毎日がテストや宿題との闘いだったのに、そんな中で皆さんとバンドで結束して3年間ずっと過ごしてきて、今でもその人間関係が
続いている・・・。良いですね。」

 あまり詳しくは聞いていないが、晶子は今や店のトレードマークの1つと言うべき長い髪が茶色がかっているということで、高校まであまり良い思いを
してこなかったんだったな。どんなものだったのかは今までに聞いた話とそれを踏まえた想像の域を出ないが、持って生まれたものに言いがかりをつけられることの
悔しさは相当なもんだろう。
 俺と面子が通っていた高校でも、頭髪は校則問題の大きな不満の1つだった。
「男子は丸刈り、女子はおかっぱ」ではなくて長さは特に問題ではなかったが、染めることやその反対の脱色、パーマは禁止。女子のリボンも黒や茶色といった
良い言い方をすれば無難な、悪く言えば地味な色しか認められてなかった。
制服が明るい青色のブレザーだったから、特に女子はそれに映える色として例えば白やピンクといった色のリボンを着けたい、と頻繁に口にしていた。
 生徒会にもその手の意見は度々取り上げられたが、職員会議の段階で全て退けられた。「服装の乱れは心の乱れ」という、生活指導の教師達のような頭の固い
人間が使う常套文句で。
全校生徒が一堂に会する生徒総会でも改正を求める意見は出たが、生徒会の役員はその場で睨みを利かせる生活指導の教師達の目を恐れてか、
その場では否定するばかりだった。
 生徒会と生徒総会での態度の相反ぶりや生活指導の教師達に猛烈に食って掛かったのは、勿論耕次だ。
「学生自治の重要な要素である討論の場に教師が介入すること自体がおかしい」と生活指導の教師に退場を迫ることも度々だった。
耕次のような人間が議員になったら、耕次の口癖を借りれば「円滑な議会運営」とやらが大いに妨げられるのは間違いないだろう。

「・・・晶子は高校時代の友達とかと何かやり取りしてるのか?」
「・・・私の過去は、今の大学に入り直して引っ越したことで捨てました。ですから、何もやり取りはありません。」

 沈んだ口調での答えは、晶子が帰省しようとしない理由が髪の色にまつわるものだけじゃないことを示すものだ。
仲が良かった兄さんとの距離を引き離されたことに反発して新京大学に入り直し、1人今の街に移り住んで静かに過ごすつもりだったことは分かってる。

だけど・・・、それで良いんだろうか?

「・・・過去を捨てちまったら、今は偶発的に生じたってことになるんじゃないか?過去があるから今があるんだ。過去の辛い出来事は思い出したくも
ないだろうけど、だからってそれを全否定したら、今は降って沸いたか魔法みたいにある日ある時いきなり現れた、都合の良いことになっちまうんじゃないか?」
「祐司さん・・・。」
「晶子も知ってるように、俺は高校時代に付き合ってた宮城が、俺と自分の身近に居る俺にしてみれば何処の誰とも分からない男と天秤にかけられた挙句に、
ある日いきなり別れを通告された。これはまだ話してないと思うが、その前にも宮城が別れを仄めかしたことがあったんだ。その時の宮城の態度は今まで
見たこともない冷たいものだったさ。近寄らないで、という雰囲気を漂わせてたし、肘鉄まで食らったよ。俺にしてみればどうしていきなり、と思ったさ。
その時は必死に食い止めた。別れたくなかったからな。それで一件落着と思ったら今度は何時ものバイト帰りの電話で別れを通告された。もう無理なんだ、と
思って電話を切った。さよならを言われる前に自分から言って・・・。あの時は本当に辛かった。高校時代は少なくとも同じ学年では知らない奴は居ないと
自負出来るくらいの仲だったし、・・・結婚も真剣に考えてた。」
「・・・。」
「その後暫くはささくれ立ってた。晶子と出逢った頃はその真っ最中だった。忘れようにも忘れられない忌まわしい思い出に翻弄されるばかりで、
今だから言えるけど、晶子を鬱陶しく思ったよ。兄さんに似てるからってことで追い回してるけど、実際に交流を始めたら兄さんと違うって言うに
決まってる、と思ってな。」
「・・・。」
「だけど、晶子と付き合うようになってからは、過去の辛い思い出は徐々に触れるのも危険な劇物からほろ苦い菓子になっていった・・・。その路線を決定付けたのは、
去年マスターと潤子さんと一緒に海に行った時、偶然宮城とその友人と出くわして友人の要求を受け入れて関係を清算したからだよ。過去に真剣に付き合ってて
別れちまったけど、高校時代の同期ということには変わりない、って決めてな。」
「・・・。」
「俺の場合は晶子よりずっと楽な事例かもしれない。否、とても辛い思い出なんて言える代物じゃないかもしれない。でも、高校時代に宮城との付き合いがあって、
今住んでる町に引っ越して半月ほどで呆気なく切れちまったけど、それで自棄酒を飲み捲くって大学もバイトもサボっちまって、目を覚ました時間が遅かったから
コンビニに弁当を買いに出かけた。そこで・・・晶子と出逢った。あの時宮城との付き合いが続いていたら自棄酒飲んで潰れることもなかったし、何時ものとおり
バイトに出かけて真っ直ぐ帰ってたから、あの時の出逢いはなかったと思う。」
「・・・。」
「それは今じゃ選択しようもない過去の選択肢から想像した仮定の話だけど、そういった過去があるから今の晶子との付き合いがあるんだ。だから、辛くても
過去があるから今があるんだと思うし、過去を捨てるってことは今は突然生じた架空の産物みたいになっちまうんじゃないかな・・・。」
「そう・・・ですね・・・。」

 晶子が視線を下に落としたのを見て、俺は晶子の心情を踏まえなかったことを後悔する。
晶子は俺の目の前で実家からの電話を叩ききるほど実家と、そして過去との決別を望んでいる。その過去は忘れたいどころか、出来ることなら早急に
闇に放り込みたいものだろう。
自分がこうしたこう出来たからといって、他人がそう出来るとは限らない。普段口下手なのにこういう時に限ってやたら饒舌になっちまう自分が嫌になる。

「悪い。言いたい放題言っちまって・・・。過去を完全に断ち切りたい晶子のことを考えないで、自分が思ったことをだらだらと聞かせて・・・。
言ってからじゃ手遅れだけど、俺は晶子にこうしろと命令する立場でもないし、そんな権利もないことくらい分かってる。だから聞き流して・・・。」

 言い訳にしてはあまりにもお粗末なことを言うと、晶子は儚げな笑みを浮かべて首を横に振る。そして痛々しささえ感じさせる笑みを
そのままに、晶子は顔を上げて口を開く。

「祐司さんの言うとおりですよね・・・。私が親に反発して大学を入り直して今の町に引っ越してこなかったら、祐司さんとあの時出逢うなかったでしょうし、
その後出逢う可能性は物凄く低い確率に一存するしかなかったんですから・・・。あの時祐司さんと出逢ってなかったら、祐司さんを知らないまま
一生を終えていたでしょうね・・・。」
「・・・。」
「祐司さんが言いたいことは十分分かるんです。頭では。でも・・・、心がそれを受け入れることを拒むんです。過去は捨てろ、捨てたんだ、っていう意識が
硬くて分厚い障壁になって・・・。だから・・・どうしても・・・。」

 晶子の言葉はそれ以上続かない。再び俯いて口を右手で塞ぐ。俺は静かに立ち上がり、晶子の隣に腰を下ろしてその肩を抱く。
嗚咽を出すまいと口を押さえているが、身体が小刻みに震えている。今更遅いが言うべきじゃなかった、という後悔の念が強まる。

「・・・原因を作った俺が言っても説得力がないけど・・・、泣きたいなら泣いても良い。怒りたいなら怒って良い。晶子の心を受け止める覚悟は出来てるつもりだから。」

 泣かれるか平手打ちを食らうかの何れも甘んじて受けることを言うが、晶子は小さく首を横に振る。
無理をしてるんだろう。そう思うと余計に心が痛い。
晶子への思い遣りに欠けた自分が腹立たしい。俺はその腹立たしさを歯を噛み締めることで押し潰す。
 重い時間が流れていくと、晶子の身体の震えが緩やかに消えていく。
口を覆っていた手も離れ、気持ちを切り替えるつもりなのか、小さく溜息を吐いてから顔を上げて俺の方を向く。

「今はまだ、祐司さんの言葉を受け入れるだけの心の余裕がありません。でも、頭の中には留めておきます。何時になるかは分かりませんけど、少しずつでも
祐司さんの言葉を受け入れていくつもりです。」
「言っておいて無責任だけど・・・、俺の言ったことが全部正しいなんて思わなくて良いからな。」
「正しいかどうかより、祐司さんがひたすら過去を捨てようとしている私に進言してくれたことがずっと嬉しいです・・・。夫婦という関係も自分以外という意味では
他人との触れ合いの1つの形。だから価値観や見解に相違が生じるのは当たり前です。」
「・・・。」
「当たり障りのないことを並べてただ相手の機嫌や顔色を窺うだけの関係より、率直に心をぶつけ合える関係でありたい・・・。それは他の人とでもそうですし、
祐司さんとの関係でも同じです。馴れ合いで取り繕っただけの関係より、その方が・・・ずっと良いです。」

 俺の顔を、否、俺の瞳を真っ直ぐに見る晶子の表情は悲壮感さえ感じさせる。
晶子が背負ってる過去の重さと傷の深さは、俺のとは比較にならないほどなんだろう。
身体の傷は出血の量や傷の多さで程度が見た目でそれなりに分かる。だが、心の傷は目に見えない。そしてその痛みや深さといったものの本質は
本人にしか分からない。だから推し量ることしか出来ない。
 そうでなくても、人の心はそう簡単に分からないもんだ。
俺が味わった苦い過去でも、高校時代には少なくとも同じ学年なら知らない者は居ないと自負出来るほどの仲だった宮城と、呆気なく終わっちまった。
原因は色々あるだろうが、つい半月ほど前まで互いにこの相手が生涯の伴侶だと思っていた−少なくとも俺はそう思っていた−のに、宮城はあっさり
心変わりしちまった。俺を試す意図もあったにせよ、俺を切った宮城が他の男と付き合ったのは事実だ。これが心変わりじゃなかったら何て言うのか、
俺は知らない。
 「貴方はこういうタイプ」と分類する心理テストの類がある。色々な検証を経た医学的な「実績」のあるものでも「そういう傾向がある」としか
分からないという。ましてや、ファッション雑誌とかに載っているお気楽なものじゃ占いの範疇を出ない。自分に当てはまってるかなと少しでも心当たりがあれば
徐々に信じ込んでしまう刷り込みみたいなもんで、信じるというより信じさせられているんだ。
最も身近な他人である筈の親と子でも、行き違いが生じて時に家出や新聞沙汰になることがある。出逢って数年の他人と分かり合うなんて、そう簡単に
出来るもんじゃない。
 だから、知ろうとする。或いは知りたくないと自分から遠ざかる。
知ろうとするならその過程で衝突や行き違いといったものは大なり小なり起こり得る。一昨年には疑念と恐怖が膨れ上がっていた俺が晶子と田畑助教授の
場面の途中に出くわしたことで、関係の崩壊ギリギリのところまで進んだ。
あれは極端な事例かもしれないが、本当に相手を知ろうとするなら、傷つき傷つけられることは避けられない。
その覚悟が出来ないなら・・・恋愛はしない方が無難だ。

「過去があるから・・・、今があるんですよね。」

 暫しの沈黙の後、晶子が切なげにポツリと言う。

「祐司さんには祐司さんの過去があって、私には私の過去がある・・・。祐司さんは懸命に努力して第一志望だった今の大学に入って、私は過去を振り払おうと
今の大学に入り直した・・・。そして祐司さんと私は同じ町に住むようになった・・・。それからも色々な経緯があって祐司さんと私は出逢った・・・。過去があるから・・・、
今があるんですよね・・・。」

 最後の部分は最初と繰り返しになったが、俺もそう思う。だが、それを今でなくても晶子に押し付けない。押し付けたくない。
晶子自身が言ったように、頭では分かっていても心が拒絶してしまう今、自分の考えを一方的に押し付けたらその反動は関係の破壊に繋がる。
納得済みでの別れじゃない、喧嘩別れという最悪の別れの1つだ。自分からそんなことに踏み出したくはない。

「祐司さんの言ったことが何時受け入れられるかは分かりません。でも・・・、心には留めておきます。祐司さんともっと分かり合うための一歩として・・・。」

 俺は同意を込めて小さく頷き、晶子の顎に右手を伸ばして親指と人差し指の端で軽く摘む。目を閉じた晶子に俺はキスをする。
性欲を解消する目的も含んだ儀式とは違う、純粋な愛情表現としてのキス。自然と湧き上がってきた気持ちのままの口付けは、心なしか眠気を誘う。
 暫くキスの感触と幸福感に浸って、ゆっくり唇を離す。距離を置いたとは言え、視界に晶子しか映らない距離だ。
晶子がゆっくり目を開ける。唇から感触がなくなったことに気付いたのは勿論だろうが、瞳が何時もより潤んでいるように見えるのは、
俺の目にフィルターがかかっているからだろうか。

「どうして・・・止めちゃうんですか・・・?」
「・・・息継ぎってところかな。」
「もう1回・・・。」

 潤んでいる上に程よく酔ったようなとろんとした瞳が、俺の心を掴んで離さない。その誘惑は俺の心を捉えて、顔と共にゆっくり自分の方に引き寄せていく。
晶子は俺の心を掴んだのを確信してか、顔を近づけるのに併せて目をゆっくり閉じていく。唇が触れる瞬間まで確実に俺の心を捉えておくためだろうか。
もう完全に捕まっちまってるけど・・・。
 晶子の唇の感触を感じた次の瞬間、ドアがノックされる音がする。・・・あ、そうか。面子が来るんだったな。
晶子の誘惑に完全に拘束されていた意識が周囲に広げられるようになる。俺は晶子から唇を離して立ち上がり、ドアへ向かう。

「よう。来たぜ。・・・って祐司。顔赤いぞ。」

 ドアを開けてまず顔を見せた耕次が指摘する。鏡を見てないし、自分では分からないから、首を傾げるしかない。

「そうか?」
「ああ。それはそうと、入って良いか?」
「今、開ける。」

 ドアチェーンを外してから改めてドアを開ける。レジ袋をぶら下げた面子が入って来るが、俺の顔を見ては顔が赤い、と言う。

「晶子さん、お邪魔します。」
「あ、いえ。」
「ん?晶子さんも顔が赤いですよ。」

 晶子と耕次のやり取りが聞こえる。ドアを閉めて部屋の方を見ると、座ったまま身体の向きを変えた晶子が見える。
確かにその頬は赤い。晶子は色白だから尚のこと良く目立つ。

「もしかして・・・、お邪魔だったか?」
「耕次。そいつを聞くのは野暮ってもんだぜ?」
「そうだな。」

 耕次の針で突付くような突っ込みに宏一が同調する。
普段アンバランスな−宏一と渉ほどじゃないが−掛け合いなのに、こういう時になると要求してもないのに絶妙に歩調を合わせるのも変わってないな・・・。

「お邪魔虫は暫く酒飲んだら速やかに撤収しますんで晶子さん、ご容赦ください。」
「あ、はい。」

 冷やかしを含んだ耕次の謝罪−形式だけだが−に応じたものの、晶子の動揺ぶりは一目瞭然だ。
・・・無理もないよな。男と女が2人きり、しかも2人揃って顔が赤いとなれば、何があったか想像というか妄想というか、そういうものが生じる。
それに顔色は赤や青に変化させるのは一瞬でも可能だが、元に戻すのは不思議とそうはいかない。
 机を部屋の隅に退けてスペースを作り、そこに俺と晶子、そして面子が円を描く形で座る。俺を基点にして時計回りに晶子、渉、勝平、耕次、宏一、という並びだ。
円の内側にポテトチップやらするめやらそういったものが袋を破って広げられ、全員に缶ビールが配給される。全員がプルトップを開けたのを確認して、耕次が言う。

「じゃあ、奥濃戸の旅最後の夜を記念して、乾杯。」
「「「「「乾杯。」」」」」

 円の中央で全員が缶を合わせ、続いて隣や近くの相手と缶を合わせる。そして缶を口に持って行き、軽く傾ける。
程好い冷え具合のビールが心地良い。ビール特有の苦味はさることながら、今日は冷え具合が特に良い。
・・・これも身体が火照っていることの表れなんだろうか?自分じゃ確認出来ないから感覚を元に推測するしかない。

「1週間も泊りがけで旅行なんて高校の修学旅行の倍以上だから長いだろうなと思ってたんだけど、過ぎてみると本当にあっという間だよな。」
「まったくだ。修学旅行もそうだったが、楽しい時間はその過程でもそれを過ぎてからでも短く感じるもんだからな。」

 ふと口に出た俺の感慨に、耕次が同意する。
そうだよな。楽しい時はその時が来るまでがやたらと長く感じるけど、いざその時間に突入すると時間の流れが一気に速まって、終わりがけにふと振り返ってみると
その時間を過ごして来たことが一瞬だったように感じる。
 苦しい時は大抵訪れが不意打ちしてくるから、その時間は長くて厳しい。だけどこれも過ぎてしまえば「そんな時期もあったな」と思えてしまう。
・・・悲しい時もやっぱり奇襲攻撃を仕掛けてくるし、その性質上衝撃は大きい。それが続いている間は感覚や思考とかそういうのが狂うか麻痺するかの
どちらかだから、無限に続くように思える。だけど、それも過ぎてしまえば振り返ることが出来るようになる。
時の流れってのは不思議なもんだとつくづく思う。

「修学旅行でも全員揃えなかったもんな。昼間はクラスか班単位で観光地とかを回ってたし、夜もなかなか合わせられなかったし。」
「祐司が優子ちゃん最優先だったもんだから。」
「宏一。」
「・・・あ。」

 話題が勝平によって修学旅行に入った矢先に宏一から飛び出した人名に耕次が素早く反応して諌めるが、言ってしまってからではもう遅い。

「優子さんのことでしたら知ってますよ。祐司さんが高校時代に付き合っていた相手ですよね?」

 気まずい空気が垂れ込めたところで、最もその人名を聞きたくない筈の晶子が言う。その口調はいたって普通だ。

「・・・知ってるんですか?晶子さん。祐司が高校時代に付き合ってた彼女のこと。」
「はい。実際会ったこともあります。」

 腫れ物に触れるような耕次の問いに、晶子はさっぱりした口調で答える。もう何の迷いも疑問も警戒もなくなったんだろうか?

「会ったこともあるって・・・、どうしてそこまで?」
「祐司さんと正式に付き合い始めたのは3年前、言い換えますと大学1年のクリスマスからなんですけど、それより前に祐司さんから少しずつ話は聞いていました。
私と出会った時、皆さんから見れば祐司さんがささくれ立っていたのは、高校時代から付き合っていた優子さんにいきなり別れを通告されたショックが
あまりにも大きくて、女性を信じられなくなっていたことが原因だと。」
「「「「「・・・。」」」」」
「一昨年の夏、祐司さんと私が働かせてもらっているお店のマスターと奥さんに、海に連れて行ってもらったんです。そこで、優子さんと鉢合わせたんです。
優子さんは高校時代のお友達と一緒だったんですが、その場で祐司さんとの間で話し合いの場を設けることになって・・・。その一部始終は、
私も物陰からこっそり聞いていました。」
「聞いてたんですか?!祐司と前の彼女との話し合いを。」
「はい。」

 宏一が素っ頓狂な声で問い返す。そうしたくもなるだろう。
自分が今付き合っている相手が前に付き合っていた相手と話し合う場に、聞き耳を立てるという形ではあったにせよ乗り込んだんだから、何かのドラマでありそうな
愛憎ドロドロの修羅場が想像出来る。

「私が話し合いの一部始終を聞きに行ったのは、最初は当然と言うべきでしょうか・・・、祐司さんが優子さんと話し合いの場を設けたことが我慢ならなかったからです。
でも、お店のマスターの奥さんに祐司さんを信じるよう忠告を受けて、1つの人間関係の終わりを確かめようという思いが加わりました。結果、祐司さんが優子さんとの
関係を清算したことを確認出来て安心しました。」

 晶子が宮城との対面を挙げたのは、宮城との関係の清算の時だけだ。
それ以前にも晶子は宮城と何度か顔を合わせた。激しいやり取りもあったし、一時は殴り合い直前にまで進んだ。
それを出さないのは俺への配慮か、それとも晶子自身思い出したくないからか・・・。
両方かもしれないが、何れにせよ晶子が宮城と実際に対面したことがあって、しかも話し合いの場に出向いていたというのは、面子にとって驚愕するにあまりある
事実であることには違いない。

「・・・許容範囲が広いというか、度胸があるというか、何と言うか・・・。晶子さん、凄いですね。旦那の前の交際相手と会って、その上、旦那と前の交際相手の
話し合いの場に出向くなんて・・・。」
「普通、見たくもないし知りたくもないと思うもんじゃないですかね・・・。」
「・・・今だから思えることですが、祐司さんが私と出会って暫くの間ささくれ立っていた理由が優子さんにあった以上、祐司さんが私との関係に専念してもらうためには、
優子さんとの関係の清算が避けられなかったと思います。」

 耕次の感嘆と渉の疑問に、晶子が少し神妙な面持ちで答える。

「私も、祐司さんと優子さんが話し合いの場を設けたことは我慢出来ませんでした。場を設けることになったのは、優子さんのお友達の願いに祐司さんが
その場では返答しませんでしたが提示された場所に出向いたからです。・・・優子さんは祐司さんに復縁を求めていましたから、話し合いの場を設けることは、
優子さんに祐司さんへの謝罪だけでなくて一対一で復縁を求めることを許すことに繋がるんじゃないか。それで祐司さんが混乱するんじゃないか。・・・そう思うと、
話し合いの場が設けられたことは我慢出来ませんでした。」
「「「「「・・・。」」」」」
「でも、祐司さんは復縁の申し出をきっぱり断って、関係の清算を成立させてくれました。マスターの奥さんに祐司さんを信じるように忠告されては居ましたが、
信じて良かったと思うと同時に、もっと祐司さんを信じるべきだったと思いました。指輪を填めてもらった年のことですから尚更・・・。」

 宮城の友人達に話し合いの場を設けることを提案されたその日の夜のことを思い出す。
提案された場では、宮城の友人達は、一定時間だけ宮城を待たせることと話し合いの結果で俺を責めることはしないし、その時間内に俺が来なくても文句は
言わないし宮城にも言わせない、と俺に有利な条件を幾つも並べたが、俺は話し合いの場に行くとも行かないとも言わなかった。
 俺に話し合いの場に行くように背中を押したのは潤子さんだ。当然と言うべきか、晶子は目の色を変えて猛反対した。
晶子は絶対に宮城を許せないという気持ちを剥き出しにしていた。
帰って来てから潤子さんから聞いた話では、晶子は俺が出て行った後で何としても引き戻さんとばかりだったという。
それを物陰からの観測に変えたのは、信じてあげれば、という潤子さんの言葉だったそうだ。
 信じる信じろと言うのはそう難しいことじゃない。その場をやり過ごすための常套文句にする奴も居るくらいだ。
だが、それを実践するのは容易じゃない。ましてや恋愛ごととなると何かの拍子で疑惑へと変貌してしまう。
その端的な例が、晶子と田畑助教授の一件での俺だ。それを考えても、晶子は潤子さんに忠告されただけでよく堪えたと思う。
立場が逆だったら、鎖に縛り付けてでも行かせなかっただろう。

「・・・俺達は去年の成人式で揃った時に全員が事情を知ったんですけど、それまでに晶子さんが優子ちゃんと会ってたとまでは聞いてなかったんです。」

 耕次が言う。言葉を選んでいるのが何となくだが分かる。

「渉の言ったことの繰り返しになりますけど、普通なら、今付き合ってる相手の前の相手なんて見たくもないし知りたくもない、って思っても不思議じゃ
ないんですが・・・。祐司が前の相手と関係の清算を自分で確認したのは、愛のなせる業ですね。」
「恋愛は相手を信じることが何よりも大切だってことは、私もそれなりに分かっているつもりです。それに、あの時祐司さんの後を密かについて行ったのは、
心の何処かでまだ祐司さんを信じきれない部分があったからだと思います。100%信じているなら、祐司さんが私との関係を断ち切って裕子さんと復縁することはないと
信じ切れていれば、そんなことはしなかった筈です。」
「祐司があの場に出向くのを許しただけでも、十分ですよ。それすら出来ない方がむしろ普通と言って良いくらいです。」

 耕次の言うとおりだ。俺だったら何が何でも行かせなかっただろう。単に「久しぶり」と切り出して少し近況を話し合うだけでも良い気分はしないだろうし、
前の相手が自分の交際相手に復縁を迫ってきているという状況でその相手に会いに行くのを許せるなんて、少なくとも俺には出来ない。
信じるということを困難な条件で実践した晶子は心底俺を愛してるからこそそれが出来たんだろうし、晶子と田畑助教授の件で疑念や嫉妬を剥き出しにした俺は、
晶子には遠く及ばない。

「かと言って、祐司と前の彼女の話が飛び交うのを聞くのは心境穏やかではないでしょうから、その辺は控えますね。すみませんでした。」
「いえ。気にしないでください。」

 耕次の謝罪に晶子はすんなり応じる。
俺が宮城にふられた直後だったら絶対こうはいくまい。それどころか、立場が逆だったら関係の清算も済んだ今になっても機嫌を損ねたままだろう。
人間の出来の違いというのか・・・そういうのがもろに出るな。

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