written by Moonstone
「じゃ、9時ごろそっちに行くから。」
「ああ。」
「はい、どうぞ。」
「ありがとう。」
「祐司さん、高校時代はお友達の皆さんと楽しく過ごしていたんですね。」
両手で机に置いた湯飲みを包み込んだ晶子が、少し寂しげに言う。「一ニを争う進学校で毎日がテストや宿題との闘いだったのに、そんな中で皆さんとバンドで結束して3年間ずっと過ごしてきて、今でもその人間関係が
続いている・・・。良いですね。」
「・・・晶子は高校時代の友達とかと何かやり取りしてるのか?」
「・・・私の過去は、今の大学に入り直して引っ越したことで捨てました。ですから、何もやり取りはありません。」
だけど・・・、それで良いんだろうか?
「・・・過去を捨てちまったら、今は偶発的に生じたってことになるんじゃないか?過去があるから今があるんだ。過去の辛い出来事は思い出したくも
ないだろうけど、だからってそれを全否定したら、今は降って沸いたか魔法みたいにある日ある時いきなり現れた、都合の良いことになっちまうんじゃないか?」
「祐司さん・・・。」
「晶子も知ってるように、俺は高校時代に付き合ってた宮城が、俺と自分の身近に居る俺にしてみれば何処の誰とも分からない男と天秤にかけられた挙句に、
ある日いきなり別れを通告された。これはまだ話してないと思うが、その前にも宮城が別れを仄めかしたことがあったんだ。その時の宮城の態度は今まで
見たこともない冷たいものだったさ。近寄らないで、という雰囲気を漂わせてたし、肘鉄まで食らったよ。俺にしてみればどうしていきなり、と思ったさ。
その時は必死に食い止めた。別れたくなかったからな。それで一件落着と思ったら今度は何時ものバイト帰りの電話で別れを通告された。もう無理なんだ、と
思って電話を切った。さよならを言われる前に自分から言って・・・。あの時は本当に辛かった。高校時代は少なくとも同じ学年では知らない奴は居ないと
自負出来るくらいの仲だったし、・・・結婚も真剣に考えてた。」
「・・・。」
「その後暫くはささくれ立ってた。晶子と出逢った頃はその真っ最中だった。忘れようにも忘れられない忌まわしい思い出に翻弄されるばかりで、
今だから言えるけど、晶子を鬱陶しく思ったよ。兄さんに似てるからってことで追い回してるけど、実際に交流を始めたら兄さんと違うって言うに
決まってる、と思ってな。」
「・・・。」
「だけど、晶子と付き合うようになってからは、過去の辛い思い出は徐々に触れるのも危険な劇物からほろ苦い菓子になっていった・・・。その路線を決定付けたのは、
去年マスターと潤子さんと一緒に海に行った時、偶然宮城とその友人と出くわして友人の要求を受け入れて関係を清算したからだよ。過去に真剣に付き合ってて
別れちまったけど、高校時代の同期ということには変わりない、って決めてな。」
「・・・。」
「俺の場合は晶子よりずっと楽な事例かもしれない。否、とても辛い思い出なんて言える代物じゃないかもしれない。でも、高校時代に宮城との付き合いがあって、
今住んでる町に引っ越して半月ほどで呆気なく切れちまったけど、それで自棄酒を飲み捲くって大学もバイトもサボっちまって、目を覚ました時間が遅かったから
コンビニに弁当を買いに出かけた。そこで・・・晶子と出逢った。あの時宮城との付き合いが続いていたら自棄酒飲んで潰れることもなかったし、何時ものとおり
バイトに出かけて真っ直ぐ帰ってたから、あの時の出逢いはなかったと思う。」
「・・・。」
「それは今じゃ選択しようもない過去の選択肢から想像した仮定の話だけど、そういった過去があるから今の晶子との付き合いがあるんだ。だから、辛くても
過去があるから今があるんだと思うし、過去を捨てるってことは今は突然生じた架空の産物みたいになっちまうんじゃないかな・・・。」
「そう・・・ですね・・・。」
「悪い。言いたい放題言っちまって・・・。過去を完全に断ち切りたい晶子のことを考えないで、自分が思ったことをだらだらと聞かせて・・・。
言ってからじゃ手遅れだけど、俺は晶子にこうしろと命令する立場でもないし、そんな権利もないことくらい分かってる。だから聞き流して・・・。」
「祐司さんの言うとおりですよね・・・。私が親に反発して大学を入り直して今の町に引っ越してこなかったら、祐司さんとあの時出逢うなかったでしょうし、
その後出逢う可能性は物凄く低い確率に一存するしかなかったんですから・・・。あの時祐司さんと出逢ってなかったら、祐司さんを知らないまま
一生を終えていたでしょうね・・・。」
「・・・。」
「祐司さんが言いたいことは十分分かるんです。頭では。でも・・・、心がそれを受け入れることを拒むんです。過去は捨てろ、捨てたんだ、っていう意識が
硬くて分厚い障壁になって・・・。だから・・・どうしても・・・。」
「・・・原因を作った俺が言っても説得力がないけど・・・、泣きたいなら泣いても良い。怒りたいなら怒って良い。晶子の心を受け止める覚悟は出来てるつもりだから。」
泣かれるか平手打ちを食らうかの何れも甘んじて受けることを言うが、晶子は小さく首を横に振る。「今はまだ、祐司さんの言葉を受け入れるだけの心の余裕がありません。でも、頭の中には留めておきます。何時になるかは分かりませんけど、少しずつでも
祐司さんの言葉を受け入れていくつもりです。」
「言っておいて無責任だけど・・・、俺の言ったことが全部正しいなんて思わなくて良いからな。」
「正しいかどうかより、祐司さんがひたすら過去を捨てようとしている私に進言してくれたことがずっと嬉しいです・・・。夫婦という関係も自分以外という意味では
他人との触れ合いの1つの形。だから価値観や見解に相違が生じるのは当たり前です。」
「・・・。」
「当たり障りのないことを並べてただ相手の機嫌や顔色を窺うだけの関係より、率直に心をぶつけ合える関係でありたい・・・。それは他の人とでもそうですし、
祐司さんとの関係でも同じです。馴れ合いで取り繕っただけの関係より、その方が・・・ずっと良いです。」
「過去があるから・・・、今があるんですよね。」
暫しの沈黙の後、晶子が切なげにポツリと言う。「祐司さんには祐司さんの過去があって、私には私の過去がある・・・。祐司さんは懸命に努力して第一志望だった今の大学に入って、私は過去を振り払おうと
今の大学に入り直した・・・。そして祐司さんと私は同じ町に住むようになった・・・。それからも色々な経緯があって祐司さんと私は出逢った・・・。過去があるから・・・、
今があるんですよね・・・。」
「祐司さんの言ったことが何時受け入れられるかは分かりません。でも・・・、心には留めておきます。祐司さんともっと分かり合うための一歩として・・・。」
俺は同意を込めて小さく頷き、晶子の顎に右手を伸ばして親指と人差し指の端で軽く摘む。目を閉じた晶子に俺はキスをする。「どうして・・・止めちゃうんですか・・・?」
「・・・息継ぎってところかな。」
「もう1回・・・。」
「よう。来たぜ。・・・って祐司。顔赤いぞ。」
ドアを開けてまず顔を見せた耕次が指摘する。鏡を見てないし、自分では分からないから、首を傾げるしかない。「そうか?」
「ああ。それはそうと、入って良いか?」
「今、開ける。」
「晶子さん、お邪魔します。」
「あ、いえ。」
「ん?晶子さんも顔が赤いですよ。」
「もしかして・・・、お邪魔だったか?」
「耕次。そいつを聞くのは野暮ってもんだぜ?」
「そうだな。」
「お邪魔虫は暫く酒飲んだら速やかに撤収しますんで晶子さん、ご容赦ください。」
「あ、はい。」
「じゃあ、奥濃戸の旅最後の夜を記念して、乾杯。」
「「「「「乾杯。」」」」」
「1週間も泊りがけで旅行なんて高校の修学旅行の倍以上だから長いだろうなと思ってたんだけど、過ぎてみると本当にあっという間だよな。」
「まったくだ。修学旅行もそうだったが、楽しい時間はその過程でもそれを過ぎてからでも短く感じるもんだからな。」
「修学旅行でも全員揃えなかったもんな。昼間はクラスか班単位で観光地とかを回ってたし、夜もなかなか合わせられなかったし。」
「祐司が優子ちゃん最優先だったもんだから。」
「宏一。」
「・・・あ。」
「優子さんのことでしたら知ってますよ。祐司さんが高校時代に付き合っていた相手ですよね?」
気まずい空気が垂れ込めたところで、最もその人名を聞きたくない筈の晶子が言う。その口調はいたって普通だ。「・・・知ってるんですか?晶子さん。祐司が高校時代に付き合ってた彼女のこと。」
「はい。実際会ったこともあります。」
「会ったこともあるって・・・、どうしてそこまで?」
「祐司さんと正式に付き合い始めたのは3年前、言い換えますと大学1年のクリスマスからなんですけど、それより前に祐司さんから少しずつ話は聞いていました。
私と出会った時、皆さんから見れば祐司さんがささくれ立っていたのは、高校時代から付き合っていた優子さんにいきなり別れを通告されたショックが
あまりにも大きくて、女性を信じられなくなっていたことが原因だと。」
「「「「「・・・。」」」」」
「一昨年の夏、祐司さんと私が働かせてもらっているお店のマスターと奥さんに、海に連れて行ってもらったんです。そこで、優子さんと鉢合わせたんです。
優子さんは高校時代のお友達と一緒だったんですが、その場で祐司さんとの間で話し合いの場を設けることになって・・・。その一部始終は、
私も物陰からこっそり聞いていました。」
「聞いてたんですか?!祐司と前の彼女との話し合いを。」
「はい。」
「私が話し合いの一部始終を聞きに行ったのは、最初は当然と言うべきでしょうか・・・、祐司さんが優子さんと話し合いの場を設けたことが我慢ならなかったからです。
でも、お店のマスターの奥さんに祐司さんを信じるよう忠告を受けて、1つの人間関係の終わりを確かめようという思いが加わりました。結果、祐司さんが優子さんとの
関係を清算したことを確認出来て安心しました。」
「・・・許容範囲が広いというか、度胸があるというか、何と言うか・・・。晶子さん、凄いですね。旦那の前の交際相手と会って、その上、旦那と前の交際相手の
話し合いの場に出向くなんて・・・。」
「普通、見たくもないし知りたくもないと思うもんじゃないですかね・・・。」
「・・・今だから思えることですが、祐司さんが私と出会って暫くの間ささくれ立っていた理由が優子さんにあった以上、祐司さんが私との関係に専念してもらうためには、
優子さんとの関係の清算が避けられなかったと思います。」
「私も、祐司さんと優子さんが話し合いの場を設けたことは我慢出来ませんでした。場を設けることになったのは、優子さんのお友達の願いに祐司さんが
その場では返答しませんでしたが提示された場所に出向いたからです。・・・優子さんは祐司さんに復縁を求めていましたから、話し合いの場を設けることは、
優子さんに祐司さんへの謝罪だけでなくて一対一で復縁を求めることを許すことに繋がるんじゃないか。それで祐司さんが混乱するんじゃないか。・・・そう思うと、
話し合いの場が設けられたことは我慢出来ませんでした。」
「「「「「・・・。」」」」」
「でも、祐司さんは復縁の申し出をきっぱり断って、関係の清算を成立させてくれました。マスターの奥さんに祐司さんを信じるように忠告されては居ましたが、
信じて良かったと思うと同時に、もっと祐司さんを信じるべきだったと思いました。指輪を填めてもらった年のことですから尚更・・・。」
「・・・俺達は去年の成人式で揃った時に全員が事情を知ったんですけど、それまでに晶子さんが優子ちゃんと会ってたとまでは聞いてなかったんです。」
耕次が言う。言葉を選んでいるのが何となくだが分かる。「渉の言ったことの繰り返しになりますけど、普通なら、今付き合ってる相手の前の相手なんて見たくもないし知りたくもない、って思っても不思議じゃ
ないんですが・・・。祐司が前の相手と関係の清算を自分で確認したのは、愛のなせる業ですね。」
「恋愛は相手を信じることが何よりも大切だってことは、私もそれなりに分かっているつもりです。それに、あの時祐司さんの後を密かについて行ったのは、
心の何処かでまだ祐司さんを信じきれない部分があったからだと思います。100%信じているなら、祐司さんが私との関係を断ち切って裕子さんと復縁することはないと
信じ切れていれば、そんなことはしなかった筈です。」
「祐司があの場に出向くのを許しただけでも、十分ですよ。それすら出来ない方がむしろ普通と言って良いくらいです。」
「かと言って、祐司と前の彼女の話が飛び交うのを聞くのは心境穏やかではないでしょうから、その辺は控えますね。すみませんでした。」
「いえ。気にしないでください。」
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