雨上がりの午後
Chapter 180 夜の小さな酒場にて−後編−
written by Moonstone
程なく焼きあがった焼き鳥が、皿に盛り付けられて差し出される。
醤油か何かは分からないが、事前にそういうものに漬け込んであったんだろう。焼き上がりの色はかなり濃い。同時に香ばしい香りが食欲をそそる。
「この鳥も地元産ですか?」
「ええ。一般の店に回すんは何処でも飼っとるようなもんですけど、これはこの地方しか出回らへんもんですよ。鶏舎やのうて放し飼いにしとりますから、
肉の締まりは一般の鶏肉とは比べ物になりませんよ。」
「放し飼い、ですか。」
「鶏舎で飼っている鶏は動こうにも動けなくて運動不足になりますから、病気になりやすいんですよ。ですから餌に抗生物質を混ぜているんです。」
「奥さんの言うとおりですよ。この肉はそういった心配が必要あらへんもんですから。さ、どうぞ。」
板前さんの勧めを受けて焼き鳥を食べる。
色からは意外とも言える控えめな、それでいてしっかり腰が据わった味と、板前さんの言うとおり締まった肉の歯ごたえが絶妙だ。これも噛めば噛むほど味わい深い。
一般に回さないというだけのことはある。
「これも美味しいですね。色の割に味はくどくなくて、肉は引き締まってますし。」
「本当に美味しいです。特に歯ごたえが良くある焼き鳥と全然違います。」
「良いでしょう?地元でしか食べられへんから、地元産っていう銘柄がつけられるんですよ。」
板前さんの言うとおりだ。その場所でしか見られない、食べられないからこそ本当に「地元」と言える。
幾ら写真や映像で見ても、直接空輸したりしても、地元から中継したり地元から運んだということには変わりない。「○○産の」と正直に銘打っているところはまだしも、
「産地直送」というのは地元でないことを覆い隠す誤魔化しだ。
焼き鳥も食べつつ、残り僅かとなった肉じゃがや牛ひれ肉の刺身を食べ、ビールを飲む。
偶々目にした町の小さな飲み屋での思わぬ大収穫。あえて「王道」を外れたからこそ発見出来たものだ。こういうことは今回に限ったことじゃないだろう。
「王道」を安易に選ばない、妥協せずに自分が信じた道を行けば、少なくとも後悔することはない筈だ。「自分はここまでやれたんだ」と自分なりに納得出来るから。
「鳥レバーの刺身をお願いします。」
「はいよ。」
今度は晶子が注文する。鳥レバー。あまり聞きなれないが、普通にレバーと言うと牛の肝臓。ということは鳥の肝臓か。
どんなものか食べてみたいという興味もあるが、どんな味か分からないという不安もある。後者の方がちょっと優勢か。
「祐司さんはレバーは大丈夫ですか?」
「ああ。基本的に何でも食べるから。焼き茄子以外は。」
「祐司さん、焼き茄子は苦手ですものね。」
「小さい頃あれで酷い目に遭ってトラウマになっちまったんだ。今でもまだ手がつけられない。それ以外なら大丈夫。」
晶子の料理はどれも美味いが、どうしても焼き茄子だけには手を出せない。
出されてから理由を言っても気分を悪くするだろうと思って、そのことは随分前に言っておいてある。だから、俺との食事の席には焼き茄子が出たことはない。
それにしても、レバーの刺身ってのは聞いたことがないな・・・。
焼肉店のメニューにはレバーがあるし、晶子と一緒に買い物に出かけた時にも肉コーナーで見かける。でも、焼肉店でも肉コーナーでもひっそりした存在に感じる。
焼いて食べるのは想像出来るし実際に食べたこともあるが、刺身ってどんな味がするんだろう?ましてや牛じゃなくて鳥だからな・・・。
「はい、こちら鳥レバーの刺身になります。醤油に浸けてどうぞ。」
板前さんが差し出した皿を受け取る。長方形の皿に、ピンク色の肉が均一の厚みで切り揃えられ、縦2列に下を少しずらして並べられている。
見たところ、マグロの刺身より色が濃いという感じにしか見えないな。
食べてみないことには美味いも不味いも言えない。兎に角食べてみるとしよう。一切れを箸で持って醤油に軽く浸してから口に・・・。
ふわりとした歯ごたえで、少し懸念していた妙な味に分類出来るようなものはない。マグロで言うと赤みよりトロだな。
「へえ・・・。これもなかなか美味いな。」
「美味しいですよね。これもやっぱり地元産ですか?」
「ええ、そうです。さっき食べていただいた焼き鳥用の鳥と同じで、放し飼いで飼ってるやつのレバーです。」
「一目見て、これは普通に売られてるものと違う、と分かりました。色の段階で全然違いますよね。」
「流石奥さん、お目が高い。そりゃあもう、鶏舎の鳥のレバーなんて刺身じゃとてもとても。」
「晶子。何でスーパーとかで売ってるレバーだと刺身は無理なんだ?」
「さっきの焼き鳥と同じです。一般に出回る鳥のレバーは鶏舎で飼っていますから、刺身で食べるのは無理と言うより危険と言った方が良いくらいです。」
焼き鳥の肉で、鶏舎で飼っている鳥は運動不足で病気になりやすいから餌に抗生物質−要するに薬−を混ぜてる、って話があったな。
人間でも運動している人とゴロゴロしてる人じゃ、肉の締まりが違ってくるのは想像出来るし、それは鳥でも同じだろう。
鶏舎の様子くらいは知ってる。
一定の場所にほぼ固定されて、流れてくる餌をひたすら食べ続けてる。あれじゃ運動不足になるのも当然というか、そうならない方がおかしい。
そう言えば確か、フォアグラは運動させないで餌だけ与えたアヒルの肝臓を使うんだったな。食べたことはないが。
「餌に抗生物質を混ぜていて、一般の鶏舎の環境ではそれが適切に排出されませんから、抗生物質が肝臓に蓄積されてるんですよ。つまり、レバーは肝臓と
言うよりむしろ抗生物質の塊なんです。」
「そうなのか?」
「奥さんの仰るとおりです。人間の薬なら良いとは言いませんがまだしも、鳥の薬ですから人間には毒そのものになるものの方が多いて考えて良いくらいです。
普通に売っとるやつは濃い紫色とかでしょ?あれがその証拠です。」
なるほど・・・。思い出してみれば、肉コーナーに並んでるレバーは色が濃い。
板前さんの言うように濃い紫色というか黒に近い紺色というのか、兎に角他の肉とは明らかに違う色をしている。一言で表現するなら毒々しい色だ。
あれが、抗生物質が蓄積された結果なら納得出来る。どう見ても、今目の前にある鳥のレバーとは色が全然違う。
それにしても、晶子は料理に関して滅法強いなぁ。それは店の看板メニューを潤子さんに任されて、実際に客から好評はあっても不評はないことにも表れてる。
店は生演奏が聞けることも魅力だが、繰り返し来たり客が客を呼ぶ状態になっているのは料理が美味いからに他ならない。
前にマスターが、飲食店の基本は料理の味、と言っていたが、そのとおりだと思う。
料理が不味い飲食店には、1回目は誰かに誘われたとかいう理由があるから来る可能性はあるが、それ以降は全く保証がない。
来る可能性は回数に反比例かそれ以上の下落率で減少していくのは、料理がてんで駄目な俺でも目に見える。
少なくとも俺は、飲み会とかの会場にならない限りはそんな店に2度も3度も行く気はない。出来ることなら1回でも御免蒙(こうむ)りたい。
「奥さん、随分お詳しいですね。失礼ですが、お若いのにかなり料理に慣れてらっしゃるようで。」
「一人暮らしをするまでに料理を教え込まれたんです。」
「それはそれは立派なもんですね。色々作られてるんで。」
「はい。バイト先と自宅と夫の自宅の3箇所で。バイト先が飲食店で、そこで料理を一部任せてもらってるんです。」
「あーなるほど、そうですか。それですとこう・・・鍛えられるっていうか、尚更実践的になりますね。ご主人は実際食べてみていかがですか?」
「文句を言うところが全然見当たらないですね。最初は実家の地域の違いで味加減に少し違和感があるところがあったんですけど、私の好みに合わせてくれまして。」
「そりゃあ、立派ですねぇ。」
俺もそう思う。
元々晶子は料理が上手かった。宮城に不意打ちで最後通牒を突きつけられたショックでささくれ立っていた時期でも、キャベツの千切りは綺麗に出来てると思ったし、
料理も上手いと思った。大小何度かの変遷を経て今の感情になっても、やっぱり上手いと思った。
料理そのものは問題ないが、当初は特に煮物の味が甘く感じた。
晶子にそれを話すと、何度かの「試験」期間を経て丁度良い位置に合わせてくれた。
食べてここがどうとかここをこうして欲しいとかあれば言って欲しい、と事前に言われていたからそのとおりにしたんだが、後で気を悪くしなかったかと思って
尋ねてみたら、「言ってくれて良かったです」と感謝されてしまった。
「良い奥さんですね。」
「ええ。本当にそう思います。私は料理が全く駄目な上に実験とかで夜遅くなるんですけど、毎回作ってくれますし。」
「実験と言うと、ご主人は理数系ですか?」
「はい。工学部の電子工学科なんです。毎週1回学生実験があるんですよ。それは担当の先生のOKが出るまで終わらないんで・・・。」
「あー、そう言えば新京大学の理数系学部は入ってからも厳しいて話、聞いたことあります。実験が終わるのは何時くらいなんです?」
「内容とかにも拠りますけど、夜の8時とか9時とかになることも珍しくないですね。日付が変わる30分前だったってこともありますし。」
「凄いですねぇー。」
俺が居る実験のグループは実質俺が智一を動かしてどうにか2人でやっている状態だから、遅くなる原因が内容だけと言えないのが馬鹿馬鹿しいが、
日が暮れるのが早いこの時期、外が明るい時間に終われたら奇跡と言っても良いくらいなのは事実だ。
早く終わらせようと思って前のグループの結果を真似て実験結果の体裁を整えても、教官の設問に全員が詰まって嘘がばれてやり直しとなって余計に時間がかかった、
なんて話もある。自業自得だが。
「実験ですと報告書て言うんですか?そういうものも提出せんといかんのでしょう?」
「はい。その実験がある日に概要を纏めたものを提出して、翌週に実験結果から得られる性質とか特徴とかを改めて纏めて、テキストの問題にも解答して
提出するんです。」
「となると、実験が終わってからも図書館とかで調べたり。」
「そうです。」
「大変ですねぇ。」
板前さんの感嘆の言葉に少し苦笑いがこぼれる。
実験中は実質1人と半分程度かそれ以下の人員で本来なら4人で進めてどうにか出来る筈のことをしなきゃならないから、兎に角終わらせようと前もって段取りを
決めたり、データを取ったり、智一に指示したりしている。
だから昼間に空腹を感じたら食事に出かけるとか、最近だと晶子に今日も遅くなるから待っててくれ、とメールを送ってその返事を見て今日も待っててくれるのか、と
安心するくらいだ。
担当教官からOKをもらって初めて、今日も忙しかったと思う。今更という気がしないでもないが、忙しいと思う余裕がないからだろう。
それが良いのか悪いのかは分からないが、今のところどうにか成績は優秀だと評価されているし、本配属を希望している研究室からも歓迎されている。
そして何より、晶子に夜遅くなっても待っていてもらって食事も作ってくれることが嬉しい。
ふと見てみると、ジョッキの中身は殆ど泡だけになっている。サイズが小さめだから普通の居酒屋感覚とかで飲んでいると、あっという間になくなってしまうんだろう。
ビールは何処でも買えば飲めるし、それだと何となく物足りない。何か飲むものは・・・。やっぱり地酒かな。晶子はどうだろう?
「晶子。次は日本酒を飲んでみないか?」
「あ、良いですね。」
「じゃあ、決まりだな。すみません。この辺の地酒ってどんなものがありますか?」
「この辺ですとね。甘口ですと鵬耀(ほうよう:架空の銘柄ですのであしからず)ちゅうのが一番お勧めです。辛口ですと歌座森(かざもり:これも架空の
銘柄ですので念のため)になりますね。」
「そうですか。晶子はどっちが好みだ?」
「私は・・・難しいですけど、甘口の方が良いです。」
「じゃあ甘口の方にするか。えっと・・・鵬耀ってやつを1合で2つお願いします。」
「冷酒にしますか?それとも燗(かん)にしますか?」
あ、これは重要だな。飲みやすさで言うと冷酒だろうけど、それで勢い良く飲んでしまいやすい。
明日朝起きるのが遅くなるくらいならまだ良いけど、飲み過ぎで倒れたりしたら良い笑い話になるから、燗の方が無難かな。
「燗にしてください。」
「はいよ。鵬耀の燗を1合、2人前。」
奥から、はい、という応答が返って来る。
燗にするなら冷蔵庫で冷やしておく冷酒より−この町でこの寒さなら外の倉庫でも良いかもしれないが−幾分時間がかかるだろう。
その間ビールを飲み干し、残りの料理を少しずつ食べていく。味わい深い料理はこの店の雰囲気に合っている。
少しして、前を失礼します、と声がかかる。店員が日本酒1合分の徳利(とっくり)と猪口(ちょこ)を俺と晶子の前に置く。
徳利を傾けると、湯気が立ち上る無色透明の液体が猪口を満たす。晶子と向かい合い、猪口を軽く合わせる。陶器ならではの澄んだ軽い音が静かな店内に一瞬浮かぶ。
鵬耀というその日本酒を一口飲む。砂糖のそれとは違う風味豊かな甘みが一瞬で口の中を満たす。
甘口と言うだけあって、舌を刺激する要素は一切ない。喉越しも滑らかそのものだ。冷酒だと間違いなく水のようにがぶがぶ飲んで、酷い目に遭うだろう。
「美味しいですね。まろやかで凄く飲みやすくて。」
「ああ。本当だな。全然引っ掛かりとかがない。」
「ありがとうございます。これも、この地方の店でしか売っとらへんもんです。蔵元もこの地方の酒屋にしか回さないんです。繁華街の居酒屋とか全国規模の
酒のチェーン店とかが買い付けに来るんですけど、絶対回さんのですよ。」
「こだわりの一品ってやつですね。飲みたいなら此処に来い、っていう。」
「そうですそうです。」
板前さんは大きく頷く。
晶子と買い物に行く大きなスーパーの一角に酒のコーナーがあって−未成年の飲酒問題との矛盾が気になる−、そこには酒メーカーの安価なものから新京市の
地酒が揃っている。新京市は市町村合併で出来た新市だから、合併以前の町村には伝統の蔵元があるらしい。
俺はビールはそこそこ飲むが、日本酒はあまり飲まない。特に甘口は飲みやすさにかまけて飲み過ぎることがあるからだ。
去年帰省した時に親戚回りに駆り出されたが、そこでも行く場所行く場所で日本酒を勧められた。
断るわけにも行かないから飲んだが、彼方此方で飲んだおかげで相当の量を飲んでしまって、帰宅した後は風呂にも入らずに寝てしまった。
翌朝起きたのは昼前だった。
「野菜の天ぷらをお願いします。」
「天ぷらですね。はいよ。」
晶子の注文を受けて、板前さんが天ぷらに取り掛かる。
芋とかごぼう、大根や白菜といったこの季節の野菜を溶き卵に浸し、小麦粉を軽くまぶして背中を向ける。向かい側に揚げ物用のコンロがあるんだろう。
その証拠に、その上に巨大な換気扇に通じると考えられる筒がある。店と同じだ。
少ししてジューッ、と甲高い揚げ物の音が始まる。それは最初こそ1つだけだったが、直ぐに複数のものに変わる。
揚げる様子を見られないのは少し残念だが、揚げ物だと時に熱い油が飛び散ることもあるから−晶子の受け売り−、客の安全を考えればこの方が良いだろう。
晶子と少しずつ味わいながら日本酒を飲んでいると揚げる音が止み、皿に盛り付けられた揚げたての天ぷらが差し出される。
「お待たせしました。こちら、野菜の天ぷらになります。揚げたてで熱いんで、気ぃつけてください。」
俺と晶子は皿を受け取ってカウンターに置く。値段の割に量はかなり多い。これもサービスの1つだろうか?
「そのままでもいけますけど、足りんかったらお手元の醤油を使てください。」
こういう場合はまず何もつけずに食べてみるに限る。普段どおりに醤油やソースにつけて食べると味が濃くなり過ぎることがあるからだ。
試しに馴染みの深い芋を食べることにする。熱いということで軽く何度か息を吹きかけてからひと齧りする。
確かに熱い。だが、食感は抜群だ。サクサクと歯応えが良くてそのまま一気に食べてしまう。
「揚げたてで美味しいです。食感が良いですね。」
「本当に食感が良いですよね。柔らか過ぎなくて芯が残ってるとかいうこともなくて、適度な歯応えで。」
「ありがとうございます。鵬耀と一緒に食べたってください。」
揚げたてというだけあって熱いのは間違いないが、事前に息を吹きかけてからなら問題はない。さくさくした食感が飲食を軽快にする。
鵬耀のほんのりした甘さと天ぷらの軽い塩加減が丁度対称的で、どちらが際立つとかどちらが消えるとか、そんなことは一切ない。
他の料理も食べていく。夕食を食べてさほど時間は経ってない筈だが、食の進みは軽快そのものだ。
「お二方は何時まで此処に居られるんですか?」
他の料理を完全に平らげ、天ぷらも鵬耀も残り少なくなったところで−酒の残り量は徳利の重さからの推測−、板前さんが尋ねる。
「明後日の朝、此処を出ます。ですから明日いっぱいは此処に居ます。」
「そうですか。町はだいぶ回られました?」
「大体は回ったつもりですけど・・・、地図も持ってませんし、その日その時の気分であっちに行ったりこっちに行ったりしてますから、回ってないところはあると思います。」
「お泊りの場所にも拠りますけど、あんまし南の方には行ってらっしゃらへんかもしれませんね。若い人が泊まる旅館は大体、町の北側に集まっとりますんで。」
「そうだと思います。」
「じゃあ、ええ場所お教えしますわ。地図、1番さんに。」
板前さんが言うと奥からはい、と返事がして、少しして店員さんが俺に四つ折の紙を手渡す。
広げてみると、それは街中にあるようなごく近隣の家や店などを名前入りで書いた地図だ。晶子にも見えるように左に寄せる。
「その地図の南の方に『黄金(こがね)の丘』っちゅうのがあるでしょう?」
「えっと・・・。あ、ありますね。」
地図で見ると収録範囲ギリギリという位置に「黄金の丘」という表記のある、近くの建物などと比較してかなり大きいらしい広い空間がある。
「そこに朝早う行ってみるとええですよ。この辺が一望出来ますし、日にも拠りますけど、日が昇るんがよう見えますんで。」
「へえ・・・。この季節だと朝日が昇るところが綺麗ですよね。」
「奥さん、朝早いんですか?」
「習慣になってますから。」
晶子は朝が早い。元々大学での昼食と店での夕食以外は全部自炊だし、晶子は「朝はご飯」派でしかも炊き立てを好むから、必然的に朝は早くなる。
その上、俺を迎えに来てくれるから、どうしても俺が1コマめの講義に余裕で間に合う電車に乗れるように早く行動しないといけない。
その上、俺の家で夕食と朝飯を作ってくれる月曜の夜に続く火曜の朝は、俺が実験で遅くなる関係で睡眠時間はかなり短くなってしまうが、少なくとも
大学の講義がある時期に今まで晶子が寝過ごしたことはない。
俺は偶に自然と目を覚ます時もあるが、大抵は目覚ましか晶子に起こしてもらうかのどちらかだ。
「奥さんが仰るとおり、この時期だと日が昇るんを見るだけでも綺麗でええですけど、お二人で見ると尚更ええですよ。」
「どうしてですか?」
「あそこは昔から、神(かみ)さんの丘て言われてましてね。特に婚約した者同士とかご夫婦とかは、そこで朝日を浴びると神さんにこれからずっと仲良う居れるように
してくれるっちゅう場所なんですわ。そういうこともあって、あそこだけは町の開発対象からも外されたんです。あの丘を崩したりしたら、神さんのお怒りが下る、言うて。」
去年の夏休みの終わりに、晶子と行った「別れずの展望台」を思い出す。
あそこでは2人の名前を書いた札を投げると一生結ばれる、っていうジンクスがあって、マスターと潤子さんはその「先輩」でもある。
意外に縁結びのジンクスがある場所ってのは多いな。その逆も多いが。
「明日は晴れ言うてますんで、よろしければ行ってみてください。その地図は差し上げますんで。」
「良いんですか?」
「ええ、どうぞどうぞ。」
折角の好意を断るのは気が引ける。俺はありがとうございます、と言って地図を畳む。
手前に置いておけば、帰る時に忘れることはない。俺だけだと忘れる可能性はなくもないが、晶子も居るから大丈夫だ。
俺と晶子は残りの料理と酒を飲み食いする。残りは少なかったからあっという間だ。
調子に乗って飲み過ぎるとこれから酷い目に遭うから、この辺に留めておいた方が無難だな。
「そろそろ戻ろうか。」
「はい。」
「じゃあ、お勘定をお願いします。」
「はい。1番さん、お愛想!」
ありがとうございます、という声と共に店員さんが駆け寄って来る。
その手には店でも使っているような、注文一覧を書いた紙とその台紙がある。板前さんのありがとうございます、という声に会釈で応えて、俺と晶子はレジに向かう。
「ありがとうございます。3580円になります。」
あれだけ飲み食いしたのに意外に安いような・・・。ま、良いか。
俺は晶子を制して財布から5000円札と600円分の硬貨を出す。晶子は後で自分の分を払うつもりだろうから、それは後で受け取れば良い。
お釣りを受け取って財布に仕舞い、ご馳走様でした、と言うと、ありがとうございました、という張りのある声が板前さんと店員さんから返って来る。
俺と晶子はコートを羽織って外に出る。寒い筈だが酒のおかげで血行が良くなっているのか、涼しくて気持ち良いと思える。
「・・・明日の朝、あの場所へ行くか?」
晶子が俺の左腕に手を回したところで話を持ちかける。
「明後日の朝は此処を出る準備とかで遠くまで出かけてる余裕はないだろうし、行くとすれば明日しかないし。どうだ?」
「私も行きたいです。」
「決まりだな。宿に戻ろう。」
オレンジ色の街灯で照らされるだけの、静かな雪道を晶子と2人で歩く。
話を聞いた時には長いように思えたこの町の滞在も、残すところほぼあと1日。丸々自由に行動出来るのはもう明日だけ。明日その「黄金の丘」で朝日を浴びれば、
これから進む道も透けて見えるかもしれない。
俺は神や仏なんてものは信じていない。初詣も1年における恒例行事の1つで、神話がどうとかそんなものは全く度外視している。
だけど他人の信仰を否定することはしない。信じる人にはそれが大切なものだろうし、心の拠りどころでもある筈。
自分が神や仏を信じないからと言って他人に信じるな、と押し付ける権利なんてないと思ってる。その逆も然り。
「別れずの展望台」にしても、信じない人にしてみればそこでの「実績」は単なる偶然の寄せ集めに過ぎないだろう。
だけど、それを信じる人が居て、そこで口コミで伝わっているジンクスに則って2人の名前を書いた札を投げる人が居る。
そしてそのとおりになっている人が居て、俺と晶子はその人達の実例を知っている。これもやっぱり逆もまた然り。
雪はまだやんでいる。明日は晴れそうだ、というあの板前さんの言っていたとおりになりそうだ。
朝日が昇るところを見るなんて、日の出が遅いこの時期でも見たことがない。
さっきの話だと晶子は見慣れているようだが、町を一望出来るという高さがあるところから見る日の出は、相当綺麗と期待して良いだろう。
この町に来た記念に、良い意味での曰くつきの朝日の光を浴びておこう。
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