雨上がりの午後

Chapter 179 夜の小さな酒場にて−前編−

written by Moonstone


 風呂から上がって晶子を待ち、面子とはそれぞれの部屋に分かれた。
昨日の疲れか酔いか分からないがそういうものと今日の疲れが混ざって眠いから部屋には行かない、と言われた。
半分は本当で半分は嘘だろう。俺が晶子と旅行後の分岐について話し合う時間を邪魔しないために。
 晶子が入れてくれた茶を一口飲んで、話を持ちかけるための心の準備を整える。
時間は実質今日と明日を残すのみ。耕次や勝平が言ったように今後のことを考えるなら、あえて進路の話が出る土俵の上に乗ることになるのを覚悟の上で
実家に寄るのが望ましい。
・・・って、思ってばかりじゃ話が進まない。晶子を真っ直ぐ見据える。
晶子は視線に気付いたのか、少し驚いた様子を見せた後、湯飲みを置いて真剣だがやや不安げに俺を見る。

「・・・晶子。話があるんだ。」
「・・・何ですか?」
「・・・この旅行後の話なんだけど・・・。」

 心なしか晶子の表情が強張ったような気がする。
緊張と言うには少し硬すぎる。別れ話を持ちかけられるんじゃないかと思ってるんだろうか。だとしたら先にその不安を取り除いておいた方が良いな。

「間違っても別れ話とかそっち方面の話じゃないから。前もって言っておく。」
「はい。」

 晶子の表情が幾分和らぐ。やっぱり不安だったようだ。
そりゃあいきなり2人きりの時に正面で向かい合って「話がある」とか言い出せば、別れ話なんじゃ、とか不安に思っても無理はないよな。

「話ってのは・・・旅行の帰りに俺の実家に寄るかどうかなんだ。」

 まず本題を言う。経緯をああだこうだ言ってからだと結論が見えなくて、下手すると話がこじれることがある。
高校時代に受験対策の1つとして小論文の書き方があったんだが、それの応用だ。

「此処へ来る途中とかにも何度か話が出たかもしれないけど、小宮栄から俺と晶子が住む新京市へも行けるけど、電車を乗り継いでいけば俺の実家がある
麻生市ってところにも行けるんだ。帰りの時間にも依るけど・・・この機会に一度晶子を両親に紹介しようかと思ってるんだ。」
「私を・・・ですか?」
「ああ。晶子も聞いてると思うけど、俺の両親は晶子に会いたがってるんだ。去年俺が帰省した時晶子の評価が急上昇したのもあって、今度は連れて来いって
頻りに言われてるのもある。それに・・・何れ紹介するなら早めの方が良いんじゃないかとも思うんだ。」

 俺にしては随分ストレートな物言いだ。言ってから思うが、結婚前の顔見せのリハーサルとも受け止められる。
晶子にしてみれば、俺がこんなストレートなことを言うなんて意外に映るだろう。

「かと言ってすんなり一緒に行こう、とは言い切れないところもあるんだ。知ってると思うけど俺はまだ進路を決めてない。親は公務員を頻りに勧めてるから、
顔見せ程度で引き返そうと思っても夕食でも食べていけ、ってなったらその席上で進路の話を持ち出される可能性が高い。そうなると防戦一方になって俺が
耐え切れるかどうか・・・情けない話だけどちょっと自信がないんだ。」
「・・・。」
「進路を早く決めないといけないってこと自体は俺だって分かってる。動き始めるための時間の猶予もそんなにないことも分かってる。だけど、自分で納得いく、
多少辛くても後悔しない道を選びたいんだ。その途中でごり押しされて、結果自分と合わないものだったら苦痛なだけだろうし、心身を壊すなんてことになったら
洒落にならない。晶子も一緒に居るから尚のこと慎重に決めたいんだ。」
「・・・。」
「あ、ちょっと話が逸れちゃったけど、晶子を紹介したいっていう気持ちはあるけど、そのドサクサ紛れに進路をごり押しされるのは避けたいっていう気持ちが
あるのは分かってくれたか?」
「はい。分かったつもりです。」

 晶子の表情には疑念とかそういったものはない。言ってみるもんだな。
言うまで言ったらどうなるかとかあれこれ考えてしまうのは、慎重とも言えるが決断力がないとも言える。この辺のバランス感覚が俺には必要だろう。

「今までのお話の席でも言ったと思いますけど、祐司さんが帰省した去年は歓迎されると分かっていれば連れて行ってもらいたかったですし、祐司さんのご両親とは
電話でしかお話したことがありませんから、一度直接お会いしたいという気持ちはあります。」

 晶子は静かな口調で言う。

「ですけど、祐司さんが進路の問題を出されるのを避けてじっくり考えるために今年帰省しなかったことは知ってますし、無理に会わせて欲しいと頼むつもりも
ありません。」
「そうか・・・。」

 空気が重くなって来るのを感じる。話題が切実だから当然だが、晶子を巻き込んでしまっているのは申し訳なく思う。

「・・・私が意見するのは本来不適切ですから、参考程度にして欲しいんですが・・・。」

 俺が少し冷め始めた茶を啜った後、晶子から話が切り出される。

「当初の予定どおり祐司さんの今の自宅でじっくり考えたいのでしたら、あえて実家に立ち寄らずにそのまま新京市に帰って、ご両親には高校時代のお友達と
旅行に行っていたと言うのが1つです。その際は私を含めない方が良いと思います。皆さんが言っていたように、私と一緒だったらどうして途中で寄らなかったのか、と
問われる可能性が高いと思いますから。」
「そうだな。」
「もう1つは祐司さんの背中だけ無責任に押すことになりかねないんですが・・・、途中で私と一緒に実家に立ち寄るということです。」

 晶子のもう1つの案は、俺も迷っている候補の1つでもある。先の提案より責任と決断を強く迫られるのは確実だから、晶子も積極的に勧められない気持ちのようだ。
・・・俺の決断力の不足や、今まで進路の問題を引き摺って来たのが根本的な原因なんだが。

「祐司さんのご両親は私にお会いしたいようですし、私も出来ることなら一度お会いしてきちんと挨拶をしたいんです。けど、立ち寄って挨拶だけしたら
新京市に帰るとすんなり進むかは、私がこう言うのも何ですがかなり不透明です。時刻にも拠りますが、食事をしながら話をしようとかになると、
祐司さんのご両親が進路の話を持ち出されるでしょうし、ご両親と距離を置いて考えるために帰省を取り止めたんですから、その意味がなくなってしまいます。」
「そうだよな・・・。」

 やっぱり俺が決めるしかない。
晶子が提示した案はそれぞれ長所と短所を持ち合わせている。しかもそれは片方では長所で片方では短所になるという、厄介な性質のものだ。
 悩みどころだが、考える時間は限られている。どちらにするか迷うだけで選択の手を伸ばせない。
前者の案を採用して親との距離を置いて考えるという帰省を避けた当初の目的を優先するか、後者の案を採用して何れ直面することになる晶子の紹介も兼ねて
思い切って挑むか。2つに1つだが、俺にとっては究極の選択だ。

「散歩に行きませんか?」

 晶子の声で我に帰る。
どのくらい考え込んでいたのか分からないが、思いがけない晶子の誘いに、俺は言葉を失う。

「門限も随分遅いですし、明日帰り支度をしないといけないわけじゃありませんし、祐司さんと私は昼間皆さんと別行動を執ってますから朝遅くなっても大丈夫です。
気の向くまま歩いてみませんか?静かな通りを歩くのも良いですし、繁華街でも居酒屋じゃなくて落ち着いた雰囲気の店もあるかもしれませんから、そこで2人で
お酒を飲むのも良いと思いますよ。」
「晶子・・・。」
「祐司さんの問題は勿論大切ですし、帰りの分岐点でどちらに向かうか決める必要はあります。でも、此処には観光目的で来たんです。今日は夜、明日は
丸1日あります。考える時間は十分ありますよ。」

 正面から取り組むばかりじゃなくて少し間を空けてみては、という晶子の言葉は、兎角考え込み始めると泥沼に沈んでいく傾向がある、最近はいっそう強まった
その傾向がある俺には戸惑いもあるし水を差された感もなくはないが、新鮮だし十分納得出来る。
 確かに此処でひたすら頭を抱えてうんうん唸ってるだけじゃ、気がついたら夜が明けてたり、何時の間にやら机に突っ伏してた、ということにもなりかねない。
それに晶子の言うとおり、この町に来た本来の目的は観光だ。今日を含めて4日間昼間彼方此方歩いたが、それでも毎日が平穏で寛げる。
町の人達の暮らしそのものが普段の時間に終われる生活とはかけ離れているのもあるし、今日はまずあっちに行って次はあそこに行って、と行動を束縛されない
こともある。
そっちに行ってみようかとどちらかが思って言えばそっちに行ってみて、今度はこっちに行こうとどちらかが言えばそっちにいく。そういう気ままな時間が確かにある。
それを生かさない手はない。

「それも良いな。夜の街に出たのは初日だけだし、繁華街にも色々あるかもしれないし。・・・行こうか。」
「はい。」

 表面上は俺が晶子の提案を承認して先導する形だが、実質は晶子の誘いを受けたことには違いない。
雪が降り積もる町の夜は想像以上に冷えることは、風呂に入る時にこれでもかと言うほど感じている。だが、考えてばかりでぐちゃぐちゃになって、更には
煮詰まって黒焦げになった頭を冷やすには丁度良いだろう。

 服を昼間着ていたものに着替えて、俺と晶子は財布だけ持って宿を出る。
携帯には俺なら晶子の、晶子なら俺の携帯と自宅の電話番号とメールアドレス程度しか入ってないし、連絡先を教えてあるマスターと潤子さんからは何も
連絡などはない。
恐らく例年どおり月峰神社に初詣に出かけてるんだろう。
去年俺は帰省していたから晶子を介してしか知らないが、車や参拝客の渋滞に苛立つどころか、車内で色々音楽をかけたり駐車場に入ってからも飲んだり
食ったりして楽しんでいたという。きっと今年もそうなんだろう。
 それに、時間やスケジュールとかいったものに追い立てられないことを求めてるんだから、登録してある相手がごく限定されていて、ふと気付いたら見たことがない
電話番号の着信履歴が残っていたという程度だから、尚更携帯を持つ必要はない。
貴重品なのには違いないから、カウンターに部屋の鍵と一緒に預けた。お気をつけて、と見送ってくれた小母さんの顔はやっぱり穏やかだった。
 雪こそ降ってないが、冷え込みは厳しい。コートとマフラーは勿論、セーターやワイシャツを着込んでいるのに、内側から凍りつくような気分を感じる。
人通りは殆どない道には、灯篭に見立てた街灯が転々とオレンジ色の淡い光を放っている。
街灯と言えば蛍光灯のイメージだったが、こうして改めて見ると町の雰囲気を残そうという思いが感じられる。これで普通に電信柱と街灯が林立しているだけだったら、
予算不足の映画か何かと思われかねない。

 まずは極端に賑わっている繁華街を避けて、昼間歩いた道を歩く。
様々な土産や特産品を並べていた店は全て閉まっている。店を閉めるにしても、一般にあるような金属のシャッターじゃなくて、木で作った雨戸を引いて閉めるように
統一している。こういうのも町の雰囲気を壊さないための工夫だろう。
こんな中で一軒でも眩しい看板と照明があるコンビニとかがあると、それだけで雰囲気ぶち壊しになるところだ。
 散歩をしている年配層を偶に見るくらいで、通りは昼間の賑わいが嘘のように静まっている。「眠りに就いた町」という表現がぴったりだ。
夕暮れまで断続的に降っていた雪が道を軽く覆っているが、スキー場のように膝を大きく上げ下げしないと前に進めないということはない。
靴の底を形成するゴムの部分が埋まる程度の厚みだ。そのことを照明するように、人が歩いたことを示す痕跡が幾つか残されている。
 冷え込みが厳しい分、晶子の密着は増している。昼間は俺の腕を手で取ってぴったりくっつくくらいだったが、今は腕に抱きついている。
これだけ寒いとそうしたくもなるだろう。
吐いた息が深い霧を作って長く残る。息が凍るとはまさにこのこと。浴衣に半纏を羽織って、なんて考えを宿を出る前に起こさなくて正解だった。
 街灯が点々と照らす静かな通りを歩いていくと、街灯のオレンジ色とは違う淡い赤色が浮かんで来た。
その部分だけ他と違って木の引き戸で閉じられていなくて、格子の縞模様を含んだやや白色の割合が高い、だが温かくて大きめの明かりがある。店だ。
 引き寄せられるように向かっていくと、淡い赤色の中に「呑み所 御用」という毛筆タッチの看板が見えて来る。更に近づいていくと、微かに人の話し声が
幾つか聞こえてくる。「騒いでいる」という性質のものじゃないことは確かだ。
大きな縞模様の光の源である入口の傍には「お品書き」とあって、肉じゃがやきんぴらごぼうといった、一品料理が並んでいる。それも結構お手頃な値段だ。
 その上、酒の瓶を並べた棚−勿論中は空だろうが−には、色々な種類の酒がある。純米大吟醸から焼酎、ビールまで様々だ。
酒は米もさることながら水も重要な要素と聞いたことがある。雪解け水に恵まれるこの町は酒を特産品の1つとしていることは、昼間の観光で分かっている。
そこでは飲まなかったが、此処に来た記念に味わってみるのも乙と言うものだろう。
晶子を見ると、晶子は笑みを浮かべて頷く。俺は暖簾(のれん)をくぐってドアを−自動ドアじゃなくて引き戸というのがまた粋だ−開ける。

「いらっしゃいませ。」

 張りのある声が最初に出迎える。続いて着物姿の女性数名がいらっしゃいませ、と歓迎の挨拶をする。
店は小ぢんまりとしているが、落ち着いた雰囲気の中に座敷とカウンターがあり、数名の年配の客が静かに語らいながら酒を傾けたり料理と口に運んだりしている。
見た目にも雰囲気の良さが感じられる。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「2人です。」
「カウンターと座敷とありますが、どちらをご希望ですか?」
「カウンターが空いてるならカウンターを。」
「じゃあカウンターにご案内します。どうぞこちらへ。」

 2番さんに2名様ご案内です、と、はいよ、というやり取りが交わされる中、俺と晶子は案内されたカウンターの席に並んで座る。
丁度カウンターの中央付近の位置で、ガラスのケースには牛肉らしい塊や下ごしらえを施された野菜、枝豆、刺身に使うらしいブロック状の魚肉といったものが
すらりと並んでいる。
 最初に出迎ええくれた白い作業着姿の板前さんの後ろには、品物の原産地が手書きで書かれている。
お勧めとして大根の煮付けや小さな牛鍋セットというのもある。呑むだけじゃなく、食べる方も楽しめそうだ。
 直ぐにお絞りと茶と割り箸が運ばれてくる。メニューを見て注文する品を決める。
まずは無難にビールと肉じゃがに枝豆といこうかな。

「何になさいます?」

 俺が注文を言う前に板前さんが尋ねて来る。少し戸惑ったが、俺は注文の品を伝える。店長は品を従業員に伝えて来る。
初めての客だから店の側、板前さんからアプローチした方が楽だと思うんだが、そういう取り決めなんだろう。これは客からああだこうだ言う性質のものじゃない。
 先に中程度の大きさのジョッキに入ったビールと、枝豆が割と多めに盛られた直系15cmほどの皿、そして枝豆の殻入れが運ばれて来る。
これでまず呑む準備は出来た。俺はジョッキを手にとって、同じくジョッキを手に取った晶子と向き合う。

「じゃあ改めて、今年もよろしく。・・・乾杯。」
「乾杯。」

 俺と晶子のジョッキが軽くぶつかり、澄んだ音を立てる。
一口飲んだビールは喉越しが良くて味も良い。暖房が効いている中でよく冷えたビールを飲むのは美味いもんだ。まあ、生温いビールなんて飲めたもんじゃないが。
 次に枝豆をつまむ。茹でてさほど時間が経っていないのか、少し温もりが残っている。
こういう場合は先に大量に茹でておいて冷蔵庫に保存しておき、注文に応じて出す、という形式が殆どなんだが、どうやらこの店は違うようだ。
 店にはBGMは流れていない。CDやラジオは勿論、有線放送もない。他の客の話し声や調理の音がBGM代わりだ。でも、それが逆に寛げる時間を演出している。
初日の飲み会会場となった居酒屋はBGMも大音量なら客の声も大きくて、意識して聞かないと相手の声が満足に聞き取れなかった。
大勢で呑んで食べる分にはそれで良いだろうが、寛ぎや酒や料理と雰囲気を味わいたいと思う客には最適の条件だろう。

「お待たせしました、こちら肉じゃがでございます。」

 店員が肉じゃがを2人分運んで来る。
小鉢と言うには小さい、味噌汁の器の底を少し薄くしてその分幅を広げたような割と大きめの器に、親指と人差し指で半円を描いたくらいの大きさの煮込まれた
ジャガイモが数個、肉と共に入っている。値段の割に量はそこそこある。

「美味しいですね。この肉じゃが。」

 晶子は感心と満足感を浮かべている。料理を作れて、そのレパートリーの1つに肉じゃががある晶子は、俺以上に出来栄えが気になるところだったんだろう。
俺も肉じゃがを箸で割って食べるが、十分煮込まれていてふわっと口の中で溶けて、味わい深い適度な濃さの醤油の風味が口の中を満たす。

「ああ。これは美味いな。中が硬いとかいうのもないし、味も全体に良く染み込んでる。肉じゃがに限ったことじゃないけど、煮物って作るのに時間かかるよな。」
「ええ。煮込むこと自体が料理の手順の中では時間がかかる方ですし、煮込むことを考えて煮込み汁を作らないといけないですから。」

 肉じゃがと枝豆を挟んでビールを飲む。
店内は相変わらず賑わってはいるが、騒々しいとかいうことはない。鳥の鳴き声や町の雑踏といった普段の生活にある耳慣れた音というレベルだ。
落ち着いた気分で呑んだり食べたり出来る。

「2人でお酒飲むのって、久しぶりですね。」
「そうだな。2人で呑んだのは・・・去年の1月にまで遡らないと駄目か?」

 俺は酒が入ると翌日かなり目覚めが悪くなるというのもあって、普段は昼過ぎまで寝ていても構わない土日にしか呑まない。
レポートの数が多くて提出期限が揃いも揃って迫っているとかいう事態になると、睡眠時間が惜しいから酒は呑まない。
 月曜に俺の自宅で料理を作ってくれる晶子も俺のそういうところを知ってるから、お酒呑みませんか、とは言わないし缶ビールを冷蔵庫から持って来ると
いうようなことはしない。明日起きる時間を気にする必要がないというのは格別の思いだ。
逆に普段の生活に戻ったら適応出来るだろうか、という不安がなくもないが、一人暮らしや進級して多忙さを増すばかりの大学生活にもどうにか馴染んでこられたから、
多分大丈夫だろう。休みボケは多少あるかもしれないが。

「お客さん、お2人共お若いですが、何処から来なさったんです?」

 板前さんが話しかけてくる。年配層の中で俺と晶子のような若い2人が居るのは、やっぱり目立つようだ。別に隠す理由もないから答えようか。

「新京市からです。」
「新京市っていうと・・・、あの新京大学があるところですか?」
「はい、そうです。」

 市の名前はいまいちぴんと来なくても大学の名前と同じだから分かる、というのは結構ある。
実際新京市は市町村合併で出来た新市で、名前が新しい都市ということで新京市にしたという、俺から見れば安易としか思えない理由だったりするが
−バイトを始めて程ない頃にマスターから聞いた−、同時にその前からあった新京大学の名前にもあやかろうと目論んだ、という話もある−これもマスターから聞いた−。

「見たところかなりお若いようですけど、お歳は?」
「2人共21歳です。」
「ということは学生さんですか?」
「そうです。」
「今時期学生さんは冬休みですからね。若い人はこの時期、この町にぎょうさんスキーしに来られるんですよ。お2人もそうですか?」
「いえ。私達は私の高校時代の友人との一足早い卒業旅行を兼ねて、観光に来たんです。29日から来てるんですけど、スキーは一度もしてないんです。」
「ほう。随分珍しいですね。若い方がスキーやなくて観光に来られたんもそうですけど、この時間に若い方が来られるいうんも随分珍しいんですよ。」
「そうみたいですね。この町にある若い人向けの繁華街は結構賑わってるみたいですけど。」

 板前さんの表情が少し曇る。そして少しの沈黙を挟んで寂しげな笑みを浮かべて言う。

「このご時世、伝統的な町並を残すだけじゃ町の財政は成り立たないから若者向けに整備すべきだ、って町長とかが言い出しましてね。確かに、此処最近観光客が
減ってきてるってことは客商売やってて分かってましたよ。んでも、山削ってスキー場作るんはまだしも、県の重要文化財にも指定されとるこの町並とかをどうするんか、
いう話になって、町長とかは店の外観だけ他の家と同じようにしてまえばええ言うたんですよ。逆にそのまんま残っとる山を削ったりしたら土砂崩れ招くことにも
なりかねへんし、スキーやれへん夏とかはどうするんや、って反対する人も出て来ましてね。町が賛成反対で真っ二つに分かれたんですよ。」

 板前さんの話は雪合戦の後でぜんざいをご馳走になった家で、小母さんから聞いた話と重複する。
やっぱりこれまでの町を変えることや、スキーが出来ない時期をどうするのかといった不安や疑問はあったんだな。
夏スキーっていうのもあるらしいが、冬ほど客は見込めないだろうし。

「結局スキー場は予定どおり山削って作って、若い人向けの繁華街は外観を他の建物と統一して新規に設けた別枠に集中させることになりましてね・・・。
確かにお客さんの数は増えて、特に若い人は冬場にぎょうさん来るようになりましたよ。んでも、繁華街の営業時間はその店に委任すべき、っちゅう賛成派の
主張どおりになったもんで夜遅うまで店開けて・・・。夜もスキー出来るようにっちゅうことでスキー場をそのように整備したもんで、夜遅う帰って来ても
繁華街で飲んだり出来るように、っちゅう考えなんでしょうね。」
「「・・・。」」
「賑わうようにはなったんですけど、夜は下手に繁華街に近づけんようになってもうたんですよ。酔った若い人が集団になってまうとね・・・。まあ、酔うと滅茶苦茶するんは
若い人に限ったことやないですけど、あの繁華街は外観こそ他の建物と同じですけど、中身は若い人向けになってるもんで、どうしても若い人ばっかりが集まるんですよ。
酔った勢いで家の戸を蹴ったりするんで、繁華街近くの人はえらい迷惑しとるんですよ。特にスキーする関係で若い人がぎょうさん来る冬場はね。」
「「・・・。」」
「今までは夜でも鍵かけんで良かったくらいなんですけど、今は特に子どもや若い女の子に夜は外に出やんように、って言うて聞かせてるんですよ。町長とかは、
こんな事態になるとは思うてなかったとか最近の若い奴はとか色々言い訳したりしてますけど、誰がこんな環境作ったんや、て思てますよ。」
「・・・でも、それを言い出すとまた町を二分する言い争いに発展しかねないから、黙認するしかない・・・。この前ぜんざいをご馳走になった家で、小母さんが
そう仰ってました。」
「ええ、そのとおりですわ。」

 板前さんは小さい溜息を吐いた後、俺と晶子に2つの皿を差し出す。
ツマの上に・・・恐らく地元産の牛肉だろう。それが薄めに切り揃えられて刺身のように綺麗に並べられていて、端に山葵が小さな山を作っている。

「牛ひれ肉の刺身です。どうぞ食べてください。サービスしますんで。」
「良いんですか?」
「此処にお二人が来られたんも何かの縁。繁華街に行かんとこんな小さい店に来てくれたお礼ですわ。さ、どうぞ。醤油はかけないで山葵を少し乗せて一緒に食べてみてください。」
「じゃあ、いただきます。」
「ご馳走になります。」

 折角見ず知らずの俺と晶子に町の話をしてくれて、更に見た目にも美味そうな牛ひれ肉の刺身のサービスだ。ありがたくいただこう。
板前さんに言われたとおり、ひれ肉のスライスの1枚に、山の頂点を取る形で少し取った山葵を乗せて、そのまま口に運ぶ。
口の中で肉が自然にとろけて旨みを広げ、山葵の甘さを含む辛さと融合して見事な味わいを創り出す。噛むごとにそれが拡大されていく。

「美味しいですね。」
「とても美味しいです。」
「そうでしょ?この肉は地元の店でしか手に入らないもんなんですから。」

 単純だが料理をする側にとっては何より嬉しい筈の感想に、板前さんは嬉しさと良い意味での誇らしさを交えた笑顔で語る。

「地元の店だけ、っていうと、繁華街にある店じゃ食べられないんですか?」
「あの手の店はチェーン店が多いもんで、農家も普通の肉は回してもこういう部分は回さないんですわ。」
「そうですか。肉は勿論ですけど、山葵が不思議と
あまり辛くないてこれも美味しいですね。辛いって言うより甘いって言うかそんな味がします。」
「山葵は綺麗な水があるところじゃないと栽培出来ないんですよ。」

 山葵の味に感心しつつも疑問を感じた俺に、晶子が解説する。

「それに、きちんと摩り下ろした天然の山葵は、辛さだけじゃなくて甘みも含むんです。甘みと言っても砂糖とかの甘いとは違う、味わい深さと言うか、
そんな甘みですけどね。同じ塩でも一般に安く手に入る食卓用の塩と、にがり入りの塩とでは味が違うのと同じなんです。」
「へえ・・・。」
「よくご存知ですねぇ。料理されるんですか?」
「はい。ひととおりのことは出来ます。」

 あれも出来ますこれも出来ます、と自分から言わないのは晶子らしいな。
実際は和洋中、俺が思いつくものは何でも作れて、自分で魚を捌いて刺身を作れる腕前を持っているんだが。

「包丁はご自分で研ぎなさるんですか?」
「はい。普通の料理用は定期的に、刺身包丁は三枚下ろしの過程で太い骨を切った時には後日必ず研ぎますね。新品はまだしも、何度か使っているものはどうしても
頻繁に手入れしないと綺麗に捌けませんから。」
「なかなか大したもんですねぇ。料理してる人でもなかなか包丁の手入れまではせぇへんもんですのに。」
「包丁もそうですけど、料理器具も料理の1つ、と教わってきましたので。」
「ご実家・・・は、料理屋さんですか?」
「いえ。一般の勤労世帯です。」

 板前さんとの会話で、晶子の実家の様子が少し垣間見えた。
晶子が包丁を研ぐところは2、3度見たことがあるが、事前に砥石をじっくり水に浸すなど、かなり念密だ。
もしかして高級料亭の主人の娘か、と思ったこともあるが、どうやらそうでもないらしい。
 途中別の客からの注文が入ったり、勘定をして店を出て行く客に挨拶したりする間に、俺と晶子は出された料理を食べつつ、ビールを飲む。
新鮮な牛ひれ肉の刺身の旨みとじっくり煮込まれた肉じゃがは、ビールと相性が良い。メニューを見て、地鶏串焼きを2人分、板前さんに注文する。
板前さんは屈んで串に刺さった肉を取り出して焼き始める。

「失礼ですが・・・、お二方はどういったご関係で?」
「夫婦です。」

 串の焼き具合を見ながらの板前さんの問いに、晶子より先に俺が答える。普段こういったことは晶子が先行してるから、たまには俺も言わないとな。
晶子を見ると、少し驚いた様子だったものが喜びいっぱいになっている。

「ほう・・・。所謂学生結婚ってやつですか。」
「はい。まだ双方収入は実家からの仕送りとかで、それぞれが最初から住んでる家がありますから、通い婚の状態ですけど。」
「大学は、お二方とも同じで?」
「はい。私は工学部で、隣の妻は文学部です。」
「ということは、今回此処に来られたのは、新婚旅行を兼ねてのことですか?」
「そういう位置づけです。私が高校時代の友人から此処への旅行に誘われたんです。予約した旅館の1部屋が1人だけなんでどうしようかって思っていたところだったんで、
友人が連れて来て良いって言ったんで今回一緒に。」
「それはそれは、おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」

 祝福してくれた板前さんは串をひっくり返して焼き加減を見てから、裏返した状態で焼きを再開する。

「指輪とかは?」
「これです。」

 俺は答えるのと同時に左手を差し出す。隣を見ると晶子も出している。双方の左手薬指に据えられた指輪が、店の柔らかい照明で白くて暖かい輝きを放っている。
板前さんは俺と晶子の手を交互に見て、感心と納得の両方で何度も小さく頷く。

「スッキリした感じの指輪ですね。光り方がちょっと・・・普通の指輪と違って、柔らかく見えますわ。ご主人が贈られたもんですか?」
「はい。選ぶのに苦労しました。生憎ファッションとかそういうのにはてんで無頓着で、流行のデザインとかは全然知らなかったもんで・・・。」
「でも、なかなか良い指輪じゃないですか。苦労して選ばれた甲斐がありましたね。奥さんも嬉しかったでしょ?」
「はい。最初はびっくりしましたけど、凄く嬉しくて・・・。」

 晶子は喜びと幸せに満ちた笑顔を浮かべる。俺は晶子にこの指輪を贈った時のことを思い出す。
誕生日プレゼントに、って前置きしてから専用のジュエリーボックスに入った2人分の指輪を差し出したら、晶子は一瞬驚いたが、それは直ぐ満面の笑顔に変わった。
そして俺が想定していた左手中指に填めようとした時、晶子は自分が差し出した左手の薬指を指差して、此処に填めてください、と言って譲らなかった。
俺が全身が火照る思いでそのとおりにして、自分は左手中指に填めようとしたら晶子に、同じ指に填めてください、と言ってこれまた譲らなかった。
幾ら俺とて左手薬指に指輪を填めることの意味くらいは知ってるから、照れくささでオーバーヒートした頭は、その日いっぱい収まることはなかった。
 そういうこともあって、晶子の誕生日は事実上、俺と晶子の結婚記念日でもある。
かといって1周年の去年は俺がイヤリングを贈って、晶子が買ってきたケーキと紅茶で祝う、というささやかなものだった。
それでも晶子は本当に嬉しそうだったし、幸せそうだった。晶子はプレゼントの見た目の豪華さや値段で値打ちを決めないということが改めて良く分かった時間でもあった。

「今は結婚する年齢が高い傾向にあるのに、学生さんの時期に結婚されるというのはなかなか珍しいですね。」
「何て言うんでしょうか・・・。タイミングというのか・・・、そういうのは今だ、と思ったので。」
「結婚っちゅうもんは縁があってのもんですからね。今が時期やと思ったんやったら、しといた方が良いですよ。就職とかの問題もあるでしょうけど、
2人一緒やったらやっていけますよ。」
「そう思ってます。」

 本当にそう思う。大きく、しかも間近に迫った課題に直面している俺には晶子の協力が不可欠だ。
2人一緒に暮らすだけが結婚や夫婦じゃない。信じ合って助け合うことが肝要だ。俺が直面している課題は、それが試される最初の時と言って良いだろう。

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