雨上がりの午後
Chapter 177 元旦の散策、思わぬ遭遇
written by Moonstone
目の前がぼんやりだが少しずつ明るくなって来る。
一定の間隔を置いた溝が平行に・・・天井か。首だけ明るい方に向けると、カーテンが後光を放っているように見える。朝か・・・。
「ん・・・。」
直ぐ傍でくぐもった声がする。晶子が俺の左肩を枕にして、ややうつ伏せ気味に、言い方を変えれば俺に抱きつく態勢で寝息を立てている。
酒を飲んだ翌日に俺が先に目を覚ますのは初めてなんじゃないか?
晶子を起こさないように注意しながら右腕を布団から出して、頭の後ろを弄る。・・・あった。掴んだ目覚まし時計をそのまま顔の正面に持っていく。
時間は・・・8時半を・・・過ぎてる?!それどころか、9時まであと10分くらい。完全に寝入ってたようだ。
だけど、今日は慌てて飛び起きて着替えて朝飯、という考えは全然起こらない。
朝1食抜いたくらいで死にはしないし、此処まで遅れたならもう良いや、っていう開き直りから生じるものだろう。
別にこの宿で食べなくても町に出れば飲食店はそれなりにあるし、今はさほど空腹を感じない。
首だけ動かして晶子を見る。こちらはまったく起きる気配がない。
昨日−日付では今日だが−寝たのは・・・何時だったっけ?済んでから布団を被って寝たせいで目覚まし時計を見なかったから、憶えてるわけがないか。
2人きりの暗闇。両方酒が入ってそれなりに酔っている。儀式を始めるには十分過ぎる条件だ。
勿論、浴衣も下着も布団の外。儀式を本格化させまいと堪えるのに随分苦労した。こういう時男ってのは厄介なんだよな。
それにしても晶子、よく寝てるな。普段は必ずと言って良いほど俺より先に起きてるのに・・・。
酒が入っていたのもあるだろうけど、眠りを深くさせた原因は俺にもあるから何も言いようがない。
面子に・・・聞かれたかな。晶子、抑えていたとは言えちょっと声出してたし。
面子と本格的に酒を飲んだのは昨日が2回目だから、誰がどれだけ酒に強いとか、酒を飲んだ翌日の寝起きが悪いとか知らない。
仮に起きていたとしたら・・・聞かれた可能性はある。部屋と部屋を仕切る壁がどのくらいの厚みを持ってるのかにも依るが。
えっと・・・確かチェックアウトは10時だったっけ・・・。とりあえず9時半頃まで様子を見るか。
晶子がそれでも起きなかったら、悪い気はするけど起こすしかない。着替えもあるし。
それにしても、のんびりした時間だな。
普段だと平日は起きて支度済ませて大学に行って、講義を受けて帰ってから直ぐバイト。帰宅してから演奏用データとレポートを作る。
土日祝日は昼前まで寝て朝昼兼用の食事を済ませてから、これまた演奏用データとレポートを作る。で、バイトという生活だからな。
1年の正月は晶子と2人で過ごしたが、まだその頃は今ほど大学関係が忙しくなかった。
2年の正月は面子との約束を果たすために帰省したが、朝から親戚回りで彼方此方引っ張りまわされて、のんびりという表現とは程遠いものだった。
3年の今年は普段の忙しさとのギャップがある分、のんびり感じるんだろう。
天井に向けていた視線を晶子に向ける。本当によく寝ていて起きる気配がまったくない。
珍しいな。此処に来た初日にも宏一が引っ掛けた女連中との飲み会でも何ら躊躇うことなく大ジョッキのビールを飲んでいたし、サマーコンサートの打ち上げでも
普通に飲み食いしていた。酒が入ると寝起きが悪くなるタイプじゃない筈なんだが。
視線を天井に戻す。
晶子は見た感じでは智一が最初の頃言ってたような「深窓のお嬢様」と言えるが、当の本人にはそんな意識はないようだ。勿論マナーやTPOといったものは
しっかり弁えてるが。
「おはようございます。」
ややくぐもった声が傍から聞こえる。
意識をその方に向けると左肩に乗っていた重みが消えて、晶子が茶色がかった髪を白い肩から流し落としつつ身体を起こしている。瞼にはまだ重みが残っている。
「おはよう。眠そうだな。」
「ええ。少し。今、何時ですか?」
「えっと・・・。」
俺は目覚まし時計を手に取って見る。
「9時を少し過ぎたところ。」
「ということは・・・朝ご飯の時間は過ぎちゃいましたね。・・・御免なさい。」
「謝らなくて良いよ。それより、具合が悪いとかそういうのはないか?」
「それは大丈夫です。ちょっと眠気が残ってるだけですから。」
晶子は肘を立てた状態で目を擦る。やっぱり眠そうだが、その仕草が子猫みたいで可愛い。
何度か目を瞬かせた後、晶子は布団から手を出して服−晶子の方の隣に並べて置いておいた−と下着を引き寄せる。
晶子が服を着る準備に入ったのを受けて、俺も身体を起こして布団を出て服を着る。寝る前に出しておいて良かったと今更ながら思う。
晶子がセーターに袖を通している頃に俺の支度は完了。目覚まし時計より奥、壁際にやはり並べて置いてある携帯を手に取る。
・・・「着信あり 2件」。誰からかと思って携帯を操作して着信履歴を見る。7:40と8:10の2回。相手は渉。
起こそうと思ったのかどうしてるのかと窺うつもりだったのかは分からないが、2回かけて反応がなかったから諦めたようだ。・・・後で何か言われるな。絶対。
携帯はアラームこそ解除してあるが、音はなるようにしている。
晶子以外からの相手からはデフォルトの、それこそ携帯電話を象徴するようなコール音で、音量は普通とはいえそれなりにある。
なのに2回とも気付かずに寝入っていたとなれば、話のネタにはこの上ないものだろう。
ま、面子も俺と晶子が出て来るのが遅ければ「何かした」と思うのが自然だろう。ある意味分かりきったことを今からあれこれ予想していても何もならない。
自分の携帯をセーターの内側にあるシャツの胸ポケットに入れて、もう1つの携帯を服を晶子に手渡す。晶子は服を着終えて俺の方を向いていた。
「祐司さんの携帯に電話が入ってたんですか?」
「ああ。渉からな。しかも2回。」
「2回、ですか。」
「音は鳴るようにしてあるのに、俺は全然気付かなかった。晶子は気付いたか?」
「いえ、全然。さっき目が覚めるまで完全に寝入ってました。」
晶子は否定した後、はにかみを含んだ苦笑いを浮かべる。
晶子も昨日までで3日間面子と接して来たから人となりは大方把握してるだろうし、この手の話となれば、ましてや冷やかす側に立てるとなれば、大抵は尾鰭も
手足も付かせ放題の話が展開するだろう。
「朝飯は外で食べるとして、ひとまず出よう。」
「はい。」
俺と晶子はそれぞれ財布を持ってコートを脇に抱えて部屋を出る。俺が鍵を閉めて、これまたセーターに隠れているシャツの胸ポケットに仕舞う。
意外にズボンのポケットっていうのは入れたものを落としやすい。胸ポケットだと座ったり立ったりしても落とすことはまずないし、前屈みになって落としたら
前に落ちるから直ぐ分かる。今は冬で上にセーターという厚手の服を着ているから、見た目にも分からない。
チェックアウトが近い時間ということもあってか、廊下に人影は殆ど見当たらない。
階段を下りてロビーに出ても、目にするのは従業員。宿の人には、土日祝日や年末年始は忙しさの度合いの変化を別の角度から示す指標に過ぎないだろう。
俺はカウンターに部屋の鍵を預けて、晶子と共に宿を出る。
雪景色は今日も同じだ。あえて違うところと言えば、雪が降っていないことと通りを行き交う人の数が若干多く感じる程度。
雪が降っていないことは別として、人数の多さは感じる程度だからさして変化はないんだろう。
神社はこの3が日初詣客で大賑わいだろうが、この町の時間の流れに変化はないようだ。
昼飯を12時頃にするとして、朝食から2時間くらいしかないからあまり本格的に食べようという気にはならない。
それこそ俺の普段の朝飯のように、トーストとコーヒーでも放り込んでおけば事足りるだろう。
「お昼まであまり時間の間隔がありませんから、軽めに済ませておいた方が良いでしょうね。」
晶子も同じことを考えていたようだ。
晶子は人前だから、とか男の前だから、とかいう理由で食を故意に細くするようなことはしない。だけど、スタイルはきっちり維持している。
「女は好きな人が居れば自然と綺麗になるんですよ」と前に晶子は言っていた。
「そうだな。肉まんとかを1個食べておけば十分かもしれない。」
「確か・・・この通りをもう暫く歩いたところに、休憩所みたいなところがありましたよね。」
「ああ、あそこか。あそこは確か、茶とか菓子とか売ってたっけ。そこにしようか。」
「はい。」
早々に場所が決まったことで、俺と晶子はそこへ向かう。
知らない土地とはいえ、徒歩で移動出来る範囲は限られたものだし、3日も歩き回ればある程度目立った場所とかは把握出来る。
その休憩所らしきところは、主に高齢の人が観光の途中に利用しているらしくて、高さを抑えた木の長椅子が縦横に並べられ、外を見ながらまったり出来る。
休憩がてら、と気を利かせてか茶菓子を売っていたりする。
歩いてたどり着いたその場所には、そこそこ人が居た。背丈や身なりは色々だが年齢層が高めなのは間違いない。逆に言えば、俺と晶子は飛び抜けて若い。
だから何だと他の客も俺と晶子も訝ることなく中に入る。中央に鎮座する年季の入ったストーブには、湯気を噴くやかんが置かれている。
茶や菓子の他、肉まんやあんまんといった割と若年層向けとも言えるものも売っている。
俺は肉まん、晶子はあんまんをそれぞれ1個、併せてペットボトルの−この辺は今時らしいと言えるか−茶を買う。
金を払って空いている席に腰掛けたところで、俺の胸からややくぐもった電子音が放たれる。
俺は肉まんと茶を晶子の隣に置いてから通りに出て、セーターに手を突っ込んで携帯を取り出す。発信元が渉と確認してからフックオフのボタンを押す。
「はい、祐司です。」
「渉だ。3回目にしてようやく通じたか。」
思わず苦笑いしてしまう。
前の2回どのくらい待ったのかは知らないが、悪戯電話じゃないから1回や2回で切るわけないだろうし、30分の間隔でかけても応答がなかったんだから当たり前か。
「もうチェックアウトの時間は過ぎた筈だが、今何処に居る?」
「宿を出て暫く歩いたところにある休憩所みたいなところだ。渉はスキー場か?」
「ああ。祐司の携帯の番号を登録してあるのは俺だけだから、とりあえずスキーを中断して電話した。」
俺と晶子は観光のために来たけど、面子はスキーが目的だから聞くまでもなかったか。聞いてからじゃ遅いが。
「他の奴も起きたのは結構バラバラだったんだが、8時には全員揃った。俺は1回目に様子見も兼ねて電話したが、出なかったから全員揃って食堂へ行ったところで
2回目の電話をかけた。だけどこれまた出なかった。2回電話をかけても出ないし全員が食事を済ませても来ないから、待つのを諦めて宿を出てスキー場に向かった。
こんな流れだ。」
「・・・他の奴ら、何か言ってたか?」
「想像出来るだろう。」
「・・・まあな。」
「声は聞こえなかったことは付け加えておく。」
俺は内心安堵の溜息を吐く。
本格化しなかったとはいえ晶子が少し声を出してたから、もしかすると聞かれたかと思ってたんだが、部屋と部屋を仕切る壁の厚みは少なくとも日常会話レベルの
音量くらいを遮るくらいはあるようだ。
「仲居が来る前には出たのか?」
「ああ。」
「仲居の話のネタにならなくて良かったな。」
「そう思う。」
「俺達は昨日までと同じく6時に宿に戻るから、晶子さんにも伝えておいてくれ。」
「分かった。じゃあ宿で。」
「了解。」
俺はフックオフのボタンを押して通話を切り、携帯を仕舞って戻る。晶子はあんまんにも茶にも一口も手をつけずに待っていた。俺は晶子の隣に座る。
「電話、渉さんからだったんですか?」
「ああ。半分呆れてた。」
「ですよね。」
晶子は苦笑いする。俺だけならまだしも、晶子は普段きっちり朝起きられるのに、間近で鳴り続ける音を2回も無視して寝入ってたから、尚更だろう。
「面子は6時に宿に帰るって。」
「そうですか。じゃあ今までと変わりないんですね。」
「え?どういうことだ?」
「今日は元旦ですから、スキー場で何かそれに関係するイベントをしてて、皆さんはそれに寄るかもしれないと思って。」
「ああ、そうか。今日は元旦だっけ・・・。全然実感がないんだよな。」
昨日面子と一緒にカウントダウンして新年を祝い、酒を飲みながら歓談したことはしっかり憶えている。だが、年が変わったのは名目に過ぎないという
ある種ののんびり感が支配していて、元旦だからこうだああだという思考の展開がない。
言い換えれば、晶子と面子と酒を酌み交わして夜が明けた、というくらいの感覚しかなかったりする。
これまでの生活と比べて時間経過のギャップが大き過ぎて、その辺の感覚が麻痺してしまってるんだろう。
普段も今も平日と土日の差があまりないが、激しくうねる普段と、流れがあるのかさえ疑わしく思う今とでは全然違う。
神話とかで、妖精の世界とかに何かの拍子で入った人間−逆の場合もある−は限られた時間しか居られないというのは、あながち空想と一言で片付けられない
信憑性を持っているように思う。
晶子と肉まんをぱくつき、茶を飲む。左右に流れていく人の動きも、普段とは全然違い、それぞれのペースを維持しつつも全般的に緩やかだ。
誰かが急かすわけでもない、それぞれの時間を保てる世界が確かに此処にある。
「去年は帰省して親戚回りに駆り出されたからその意味では元旦らしかったけど、俺はこういう時間の方が良いな。」
「私もです・・・。」
左肩に軽い衝撃を感じ、少し重みが加わる。俺は茶と息を合わせて飲む。夜だと肌に直接触れたりしてるのに、昼間はなかなか・・・。
「去年、私はマスターと潤子さんに月峰神社への初詣に連れて行ってもらって、それも元旦らしい光景ですけど、やっぱりこういう時間の方が良いです。」
「晶子・・・。」
「何もしないで時間の流れに浸るだけ・・・。そういう時間は必要だと思うんです。特に・・・日頃精一杯生活している祐司さんには・・・。」
「晶子も毎日頑張ってる。此処に来て良かったよな・・・。俺にとっても、晶子にとっても・・・。」
「ええ・・・。」
予想外の形で面子のスキー旅行に誘われた。面子とは別行動を執っている。
端から見れば、高校時代の友人との一足早い卒業旅行なのに1人だけ彼女を連れて別行動なんて変に見えるだろう。
だけど、他人がどう思おうが構わない。面子は俺が晶子を連れて観光に繰り出すことを前提に誘ったんだし、俺と晶子は現にそうしている。
これで良いんだ、これで・・・。
人々が左右に行き交う光景の中に、上から白いものが降り注ぎ始める。音もなく、勢いを増すこともなく。
そんな御伽噺のような光景を見ていると、1つの考えが頭を擡(もた)げて来る。この旅行の帰りに、晶子を俺の実家に連れて行こうかという考えが。
親、特に母さんは余程晶子と会いたいらしく、一度連れて来るように言っている。
29日から家を空けているから電話はどうなってるか知らないが−携帯を買ったことは伝えていない−、旅行から帰って電話をかけたら、どうして途中で家(うち)に
寄らなかったの、と詰め寄ってくる可能性は高い。小宮栄から別の路線を乗れば俺の実家に行けるし、「目当て」の晶子が居たとなれば尚更だ。
俺の気持ちは複雑というか半々だ。
晶子を連れて行って「彼女が今付き合ってる井上晶子」と紹介したいとは思う。父さんも母さんも去年晶子からの電話を受けたのを境に評価が「どんな娘(こ)なんだ」と
訝るものから「凄く良い娘だ」と一変して、俺が写真を持ち合わせていないことを随分残念がっていた。写真を送るのも良いが、旅行の帰りに立ち寄って顔見せする方が
ずっとインパクトがあるだろう。
だが、あまり実家に近づきたくないという俺の個人的事情もある。
進路を明確にしていないから、晶子の顔見せが終わったら進路を話し合うと称して公務員路線をごり押ししてくる可能性は高い。
公務員が悪いとは思わない。ただ、公務員の仕事で俺がやりたいと思うものが見出せないだけだ。
仕事と趣味とは別、と割り切れば良いんだろうが、趣味と金が密接に関係する今のバイトを3年近く続けてきて、そんな割り切りがいざ就職となったら
直ぐ出来るとは考え難い。生憎俺の思考回路にはそういう見切りの良さがない。
じゃあミュージシャンや今のバイトをそのまま続けると表明すれば、晶子との対面で和んでいた席が一気に騒然としたものに変貌するのは簡単に想像出来る。
どうやって生活していくのか、そんな生活が長続きする筈がない、今の大学に入った意味がない、とか言われるだろう。
価値観の多様化とか多彩なライフスタイルとか言うが、結局のところ「有名大学→有名企業か公務員」という概念が親の世代で支配的な以上、そう簡単に
話は進まない。
元はと言えば、俺が今に至っても進路を明確に決めていないことにあることくらいは承知している。
所謂有名どころの企業に就職しようと思ったら大卒で当たり前、院卒が望ましい、という新たな学歴重視社会の到来の中、実家の経済事情で大学卒業までしか
学費の保証がないとなれば、一歩二歩先手を打つことが必要だ。そういう意味では、俺は場当たり的と言える。
だからと言って更に学費と仕送りを2年分追加、と出前の注文みたいに簡単に追加出来ないことくらいは百も承知だ。
弟が大学進学に大きく方針転換した、否、せざるを得なくなったことを知って、俺は自分の貯金残高を確認してから4年の学費は自分で払う、と伝えた。
国公立大学しか入れないとは言え、年百万近い金が浮くのは間違いない。やっぱり今の時代必要だから、と前置きして前言撤回、なんていい加減なことはしたくない。
猶予期間は今日を含めてあと3日。否、3日には此処を出るから実質2日と考えた方が良い。
晶子を連れて実家に立ち寄るべきか、実家は乗り継ぎ時間とかがあったからとか誤魔化して新京市に戻るべきか、決断の時は着々と迫って来ている。
思考の泥沼に嵌りそうになった俺は、雪景色に意識を戻す。
雪の量は増して来ている。雪は降るけど風がない分、人々を凍えさせる寒冷地というより情緒豊かな雪国という表現が相応しい。
別世界に長くは居られないという御伽噺のよくある設定は俺にもぴたりと当てはまる。どうしたら良いのか・・・。
雪景色に尋ねても答えが返って来る筈はないが、そうしてみたくなるのは別世界に理想を求める人間の性なんだろうか?
俺と晶子は今までとは違って、宿に近づく方向に歩いている。
勿論まだ宿に戻るわけじゃない。スキー場に足を運ぶためだ。事の発端は昼飯時に遡る。
「一度、スキー場に行ってみませんか?」
晶子はこう切り出した。
元旦ということでスキー場で何かイベントをしているかもしれないから、スキーはしなくてもそのイベントを見られるなら見ておくのも良いだろうし、
してなくてもスキー場はこんなもの、とその目で見ておくのも一興だ。
そう思った俺は中座して−店の中で携帯電話を使うのは気が引ける−渉に電話をした。
同じく昼飯時だから携帯を持っているだろう、と推測してのものだが、そのとおりだった。
渉に聞いたところ、スキー場で元旦だけのイベントをしていること、それはスキー場への入場料を払えばスキーをするしないに関わらず見ることが出来る、と
回答があった。
確認が取れたことで、俺は席に戻って晶子にそのことを伝え、昼飯の後はスキー場に行くことにした。
雪は相変わらず上から下へとゆっくり舞い降りている。その量は生活に困ることはあっても、スキー場にとって困ることはないだろう。
スキー場が雪不足で開けないという話は偶に聞くが、雪が多過ぎて開けないという話は聞いたことがない。
電話した時に渉からスキー場への経路を聞いておいた。
俺達が泊まっている宿から北方面に大通りを歩けば、あとは案内標識に従っていけば簡単にたどり着ける、ということだった。
現に宿を左手に通り過ぎて大通りを北に進んでいくと、「奥平スキー場」という案内標識が見えてきた。案内標識は交差点毎に設置されているから、これで
迷う方が難しい。
20分くらい歩いただろうか。スキー場の入口にたどり着いた。
入場券を買って入る形式か。1日で2000円。飲食物の持ち込みは不可だが、これはスキー場に限ったことじゃない。
俺と晶子は入場券売り場に向かい、それぞれ2000円を出して−言うより先に晶子が出した−チケットを買う。そして入場口でチケットを一部もぎってもらって中に入る。
・・・広い。ただ白い野原が広がっている。
そこにスキー板を履くか、スノーボードに乗った−したことはないが「もの」は知ってる−厚手の服を着た人達が右方向から勢い良く滑り降りて来ては、右手方向にある
リフトへ向かう。何だが繰り返し映像を見ているような気がしないでもないが、それは俺がスキーをしたことがないからそう思うだけだろう。
「ねえ、祐司さん。イベントってあれじゃないですか?」
晶子が指差したほうを見ると−右手は俺の左腕にある−、かなり大きなステージがあって、そこにやっぱり厚手の服を着た人々が集まって、何やら大騒ぎして
いるように見える。照明も結構派手だ。見たところライブっぽい。
此処からだと遠過ぎてよく分からないが、ステージ上でギターらしきものを持っている人も居る。スキーをしている人がいることを考慮しているからか、
かなり遠いところにある。
「あれ・・・しかないよな。行ってみるか。」
斜面−ゲレンデというのか−を見てもイベントらしいものはしてないから、候補は必然的に絞られてくる。俺と晶子はステージの方へ向かう。
向かう、といっても雪が深いから、歩くだけでも結構苦労する。町では道が除雪されていたから思いもしなかったが、スキー場で除雪するなんて自分の首を
締めるようなことをする筈がない。
一歩一歩それこそ踏みしめるように歩いていくと、音が大きく鮮明になってくる。ロックか。ステージ周辺、否、前は客が分厚い層を作っているから近づくに
しても限度がある。後ろから見た感じでは、女の比率が高そうだ。バンドのメンバーが男ばかりだからどうしてもそうなるか。
ステージにかかっている看板−正式名称は忘れた−を見ると「BURST HEART in OKUHIRA」とCDのジャケットとかでも使えそうなデザインで書かれてある。
このバンドはBURST HEARTっていうのか。元旦に、しかもこんな寒い中屋外でライブ活動ってこと、か。・・・大変だな。
作家とかもそうだけど、自由業ってのは休みなんて何時あるか分からないし、カレンダーなんて曜日を知るためだけにあるようなもので、休みが多ければ
生活が苦しいし、休みが少なければ文字どおり「休む間もない」ということでもあると聞いたことがある。自由っていう名前に誤魔化されると手痛い目に遭う、ってことだ。
あんな生活をしていて・・・俺は晶子と一緒に暮らしていけるんだろうか?
「私を食べさせていかなきゃならないとか、そんなことは思わないでくださいね?」
俺の心を見透かしたかのような晶子の言葉に、俺は晶子の方を向いたが良いが、次に続ける言葉を思いつかない。
「夏休みには海外旅行に連れて行け、とか、クリスマスや誕生日には豪華なディナーを、とか、そんなことを求めてません。私が求めているのはそんな飾りの
イベントじゃありません。祐司さんと結婚して一緒に暮らすこと。それだけなんですから。」
「・・・。」
「結婚に先立ってもらうものはもう十分もらいました。披露宴なんて必要ないと思ってます。お金がかかるだけですし、そんなお金があるくらいならこれからの
生活に使った方が有効です。式もウェディングドレスには憧れはありますけど、なければないで構いません。結婚は式を挙げてじゃなくて、書類を役所に届け出て
成立するものなんですから。今でも気持ちはもう結婚したものだ、って思ってます。」
「・・・。」
「だから祐司さんは、自分のことだけ考えてくれれば良いんです。自分が続けられる職業は何か、十分見極めた上で結論を出してください。祐司さんが後悔することの
ないように。世間の目にどう映ろうが、私は一切気にしませんから。」
「・・・ありがとう、晶子。」
今の俺には礼を言うことくらいしか出来ない。それが何とももどかしいし情けない。
だけど晶子がそんな俺を許してくれる間に、晶子の願いを叶える道を探ろう。それが晶子への礼になるはずだ。
所謂「黄色い歓声」ってやつが雪の高原に広がる。観客の女の比率が高いから、歓声の全体的な周波数成分も上方向が大きくなる。
甲高い声は意外に低音量でも良く響く。イコライザー(註:ある周波数成分の音量を高める(若しくは低める)機能や機器。Windows Media Player(TM)にもある
グラフィックイコライザーはある周波数毎に区切って変動させるタイプ)を使ったり、そこまで凝らなくても市販の音楽プレイヤーで低音を増強することを
商品の目玉にすることはあっても、高音ではあまり目玉にされないことにも象徴される。金切り声とかガラスを引っかく音とか、想像するだけでも悪寒がする
音の類は高音が圧倒的に多いこともまた然り。
MCをしているようだが、歓声が大きいのに対してスピーカーの出力バランスが良くないのか、くぐもった感じになっている。
音が反響する屋内と音が拡散する屋外ではスピーカーの出力バランスを帰る必要があるんだが、そのことをあまり考慮していないような気がする。
客はお目当てのバンドないしはメンバーが見られればそれで良いのかもしれないが。
「・・・町に戻ろうか。」
「はい。」
どうもステージとそれを取り巻く観客との間に違和感を覚えた俺は、この場を立ち去ることを提案する。
晶子もすんなり了承したから迷うことはない。俺は身体の向きを反転させる。
「あ!祐司じゃない?!」
断続的に沸き起こる黄色い歓声の合間を縫うように、後ろから声がかかる。
・・・もしかして、と思って振り返ると、茶色のハーフコートに長靴を履いた肩口で切り揃えた髪を揺らして近づいて来る女。・・・紛れもなく宮城だ。
俺が認識した瞬間、左腕の圧迫感が急に増す。見ると、晶子が俺により密着して、左腕を持つ手に力を込めている。警戒してるんだろう。
「何で此処に?」
「それはこっちの台詞よ。・・・あー、えっと・・・。」
「井上晶子です。」
「御免なさい、ちょっとど忘れしちゃって。祐司を奪うつもりは全然ないから安心して。」
一応晶子の警戒を解こうとしたつもりなんだろうが、顔が笑っていてはあまり説得力がない。
「俺は耕次達と5泊6日の日程で此処に一足早い卒業旅行に来たんだ。旅館が2人部屋3つ予約ってことと面子も誘ったのもあって、晶子も一緒に来たんだ。」
「あれ?じゃあ本田君達は?」
「面子はスキーしてる。俺と晶子はスキーじゃなくて観光に来たから、昼間は完全に別行動。渉から此処で元旦だけのイベントをやってるって聞いたから、
来てみたんだ。そういう宮城は?」
「私は今ステージに居るバンドのマネージャーだから、同行してるのよ。」
「バンドのマネージャーってことはお前の就職先って・・・。」
「そう。芸能プロダクション。もっともマネージャーって言ってもまだ見習い段階だから、後をついて回ってるだけのようなもんよ。」
芸能プロダクションだったのか・・・。意外なところに就職したもんだな。
確かこの前の電話で、職場は小宮栄のオフィス街のど真ん中で、自宅も直ぐ傍とか言ってたな。
大都市の中心部に職場があるのはまだしも、自宅が直ぐ傍ってことやカレンダーの表示は無意味とか言ってた理由がようやく分かった。
「祐司さん。」
左腕の圧迫感が強まる。見ると、晶子が目で強く訴えている。もう話を切り上げてくれ、と。
距離も更に詰めているし−厚着のせいで特有の柔らかさは曖昧にされている−、きゅっと結んだ唇が微かに震えている。
俺自身独占欲が強い方だから気持ちは分かる。退散するか。
「じゃあ、俺と晶子は町に戻るよ。」
「聞いていかないの?」
「何となく客の輪に入り難い。」
「理由はそれだけじゃないんでしょ?」
「・・・分かってるなら言わなくて良いからな。」
からかい調子の笑みを浮かべる宮城に釘を刺して踵を返す。
・・・あのことだけは言っておくか。大きなお世話だろうが、聞いてて気になったから。俺は顔だけ宮城の方に向ける。
「音がくぐもってる。ミキサーに高音と低音を上げるように言った方が良い。高音は少しで良いけど低音は強めに。」
「流石に耳が良いわね。私もステージ脇から聞いててちょっと気になってたのよ。」
「?」
「ミキサーが風邪で今朝から完全にダウンしちゃってね。急遽アシスタントを代役にしてるのよ。私でも何となくだけど分かるんだから、祐司なら簡単に
分かっちゃうか・・・。」
見習いとはいえ、宮城も研究とかしているようだ。
単について回るだけで終わらないようにするあたりは、俺も社会人になるんだから純粋に見習わないといけないな。
「忠告ありがとう。ミキサーに伝えておくわ。あ、それから井上さん。祐司と仲良くね。」
「あ、はい。」
「それじゃ。」
短い挨拶の後、宮城は雪深い中足早に去っていく。一度も振り返ることなく。まだ諦めてないかも、とか未練があるかも、とか思ってたのは俺だけか。
俺と宮城は去年の夏に関係を清算したんだ。宮城は短大を卒業して就職して、現に今も働いてる。一方の俺が過去を窺っててどうするんだ?我ながら情けない話だ。
左腕の圧迫感が和らぐ。どうやら晶子は警戒を解いたようだ。
さっきの表情を見る限り完全に、とはいってないだろうが、とりあえず俺と宮城が話し込むことで自分が置き去りにされるような気分は軽減されただろう。
「・・・悪かったな、晶子。話し込んじまって。」
「いえ・・・。」
そうは言うものの歯切れはあまり良くないし、表情も曇っている。
今更ながら、自分の軽率な行動が悔やまれる。自分だって高校時代、宮城が他の男と話しているのを見て無性に腹が立って割って入ったこともあったのに。
「祐司さんはあの女性(ひと)と関係を清算して、その様子を間近で聞いて確認したのに何を警戒してたのかって思うと、自分が情けなくて・・・。」
意外な言葉が晶子の口から出る。
・・・確かに去年の夏、マスターと潤子さんに連れられて海に行った時に宮城とその友人達に偶然出くわした。
復縁を迫る素振りを見せていた宮城を振り切ろうとしたが、友人達の頼みに応じて約束の場所に出向いた。心苦しいところはあったが宮城からの、そして俺の心の
何処かにもあったかもしれない未練を断ち切って関係を清算した。
俺が約束の場所に赴くことに猛反対したのは他ならぬ晶子だ。潤子さんが俺に勧めた次の瞬間、普段だったらまず目に出来ないほど猛烈に反論した。
俺は後で晶子に殴られる覚悟で出向いたが、晶子はしっかり後をつけてきていた。しかも潤子さんから後に聞いたところ、俺が部屋を出た直後は今にも飛び出して
引き戻そうとせんばかりで、潤子さんの説得でどうにか抑えたという。
祐司君を信じてあげたら?
晶子の激情を抑えた最大の一言はこの言葉だった、と晶子が言っていた。
好きな人と一緒に居るにはね、何より信じることが大切なのよ。
晶子と田畑助教授の間柄が問題になり、俺が疑念を膨らませていた時に、今思えば潤子さんの言うとおり「タイミングが悪かった」としか言いようのない場面に
出くわしたことで俺が激怒してその場で関係断絶を告げて、潤子さんの仲裁でどうにか関係修復が出来たその日、潤子さんの忠告で一番心に響いたのは
この言葉だった。
信じること。一言で片付ければ簡単だが、実践するのは意外に難しい。関係を左右する重大な局面になればなるほど、それが重要になると同時に難しくなる。
あの深刻な事態でそれを思い知らされた筈だった。晶子は俺が関係を清算した過去の交際相手と話しているところを見て、信じることに曇りが生じたことを恥じている。
「晶子は何も悪くない・・・。直ぐ傍に自分が居るのに付き合ってる相手が過去の交際相手と話してるのを見て、良い気分がするわけないよな・・・。
俺自身そうだったのに、否、今でもそうなのに、それを考えてなかった・・・。自分がされて嫌なことを他人にするな、って小さい頃からくどいほど言われて来た
筈なのに・・・。悪かった。御免。」
口では言えても晶子の顔をまともに見られない。
晶子には本当に悪いことをしたと思う。だから余計に見られないんだろうが、これじゃ謝罪にならない。
そうは思っていても独り言のように言うしか出来ない。泥沼に嵌り込んだかのような気分に襲われる。
何時もは信じているつもりでも、ちょっとしたきっかけで揺らでしまう。
信じられていると思い込むと、それが当然と思い上がって軽率な、だが人間関係に致命的なダメージを齎す行動を執ってしまう。
俺は去年、晶子と田畑助教授との件であれほど信じることの大切さ、信じてもらうのにどれだけの時間と労力を必要とするか、そのくせ突き崩すのはどれだけ
容易いかを痛感させられた筈なのに・・・。
「・・・まだまだこれからですね。祐司さんと私は。」
重苦しい沈黙の中雪に埋もれそうな思いで歩いていると、晶子の声が耳に流れ込んで来る。その声はさっきとは一転して明るい。その顔も明るい。
「もっともっと時間と経験を積み重ねて、揺るがない関係にしていきましょうね。」
「・・・ああ。そうしよう。一歩ずつでもな。」
反省するのは大切だ。だが、それを次に反映させないと反省は単なる行動の停止で終わってしまう。
立ち止まって考え、また歩き出す。その繰り返しを重ねていけば、ゆっくりとでも前に進める。
本当に好きで、本当に一緒に居たいのなら、そうしていかないと駄目だよな。
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