雨上がりの午後

Chapter 167 大切な現在(いま)と、見果てぬ未来

written by Moonstone


 場における「住み分け」が、時を経てより鮮明になって来た。
女4人と宏一、耕次は大盛り上がり、それに適度に順応しているのが勝平。
俺と晶子はその盛り上がりとはほぼ完全に隔絶して、暫くして戻って来た渉とゆっくりしたペースで飲み食いしながら話をする。

「耕次から祐司に今回の旅行の電話をよこした時、面子との情報交換で知ったですけど、結婚指輪は晶子さんが、左手薬指に填めてくれって譲らなかった
そうですね。」
「はい。祐司さんからプレゼントされることが分かった時点で、左手薬指に填めてもらおう、と思ったんです。」
「後は祐司からのプロポーズを受けて挙式して入籍、で、同居を本格化させる、ってところですか。」
「順序はどうなるかは分かりませんけど。」
「祐司。決める時は決めろよ。二次会とかでネタになるんだからな。」
「するな。」

 渉の宣告を拒否する。プロポーズは俺からするつもりだ。晶子もそれを望んでいる。だが、何処でするか、何時にするか、何て言うか、なんて全然纏まらない。
同じ時間を俺と二人で過ごしたいという気持ちはあっても、イベントは必須とか、雰囲気はこうでないと嫌だとか、プレゼントはこういうものとか、晶子はそんなことを
全然気にしない。それこそこの場で「結婚しよう」と言えば良いのかもしれない。
 だけど、やっぱり渉の言葉じゃないが、決める時は決めたい。
バツ一の履歴欲しさに結婚するわけじゃないんだから、結婚の意志に加えて同居を始めたい、という意思表示をしっかりしたい。
 俺は、好きだとか愛してるとかいう言葉もそうだが、愛情を表現する言葉を軽々しく口にしたくない。
決まり文句のように口にしていると、言葉の意味が軽くなってしまうような気がするからだ。
だから、普段言わない、言えないようなことを面と向かって言いたい。・・・その時になったら、頭の中が真っ白になってしまいそうな気がしないでもないが。

「まあ、ファッションとかにはてんで無頓着で有名だった祐司は、晶子さんに結婚指輪填めさせたんだから、もう指輪の交換は必要ないだろう。俺がどうこう
指図出来る立場じゃないことを前提にして言うが、式だけして気軽に食事、って流れが良いかもな。」
「ああ。結婚は俺と晶子の合意の上でするもんだから、式は記念になるだろうからするけど、長々したスピーチとかを要求するつもりはない。式が済んだら
俺も晶子も着替えて、立食パーティーでも出来るようなイメージを持ってる。」
「親に報告はするのか?」
「報告はする。だけど、承諾を求めはしない。耕次に言われたが、結婚は自分のためにするものであって、親のためにするもんじゃないからな。ましてや
20歳超えて就職決めたら、一応けじめとしてこの人と結婚する、とは報告しに行くけど、それ以上のことはしないつもりだ。反対されようが勘当されようが、
晶子と二人でやっていくつもりで居る。」
「そうか・・・。その心意気を忘れなきゃ、お前と晶子さんは二人の幸せを見出せる筈だ。他人が何と言おうが、自分達のライフスタイルを模索して、それを
推し進めれば良い。」
「そのつもりだ。・・・じゃ、俺と晶子は先に宿に帰る。」
「そうか。金は宏一に出させる。宿でゆっくり過ごせ。俺は適当に飲み食いしながら、目の前の馬鹿騒ぎを眺めてる。結構楽しいんでな。」
「ああ。じゃあ、お先に。」
「お先に失礼します。」
「道中お気をつけて。」

 渉の見送りを受けて、俺と晶子は盛り上がる一方の席を尻目に店を出る。レジの従業員には、テーブル番号を告げてそいつらに金を請求してくれ、と言っておく。
俺は晶子と一緒に外へ出る。細かい雪が静かに降っている。生憎傘は持ってないが、この程度なら宿に着いてから払えば良いだろう。
 通りは賑わっている。だが、その光景は日本家屋が軒を連ねる光景にはあまり似合わないと思う。
まず、闇に滲む程度の建物と派手な看板とのギャップが目に付く。そして、若い数人の男のみか女のみのグループか、それら同士の混在。
建物を別にすれば、1年の前期に智一と飲みに出かけた繁華街と殆ど変わらない光景だ。年齢層が違うくらいで。
 人波を掻い潜るように、俺と晶子は界隈を抜ける。はぐれないように、離さないためにしっかり手を繋いで。
どうにか一息吐けるところまで来て、改めて周囲を見る。賑わっている通りと静まり返っている通りが、空間的には隣接していても明らかに隔絶しているように思う。
 賑わう通りを出ると、そこは完全に雪が降る夜の田舎町、だ。
家々の窓が灯りで浮かび上がる他は、静かに雪が降っているだけ。人通りは殆どない。
若い奴は昼間スキーで夜遊ぶ、と昼間出会った子ども達が言っていたが、その子ども達らしい姿もない。
俺と晶子が住んでいる町は一応住宅街だが、少し行ったところにコンビニがあって本屋があって、そこには誰かが居る。年齢は大抵若い。
今まで当たり前と思っていた夜の光景が当たり前でない。この町はそうだ。
 俺は、晶子と手を繋いだまま、宿に戻る。宿の中も静かだ。
夕食の時見た限りでは、満員御礼とまではいかないものの結構な数の客が居た筈だが、少なくとも此処で見た限りでは、客で賑わっているという雰囲気はない。
他の客も、あの建物と内装が別世界の飲み屋が立ち並ぶ通りに遊びに出かけているんだろうか。肩や頭に乗った雪を払って部屋に戻る。

「お茶、入れますね。」
「あ、悪いな。」

 部屋に戻ってコートを箪笥に仕舞うと、晶子が早速茶を入れる。
二人分の急須と湯のみ、そして和菓子が置いてある机の隣に、布団が並べて敷かれてある。
夕食が終わってから直ぐにあの居酒屋に出かけたから、その間に敷かれたんだろう。布団の距離がないのは・・・気を利かせてのことか?
 俺と晶子は向かい合う形で座り、茶を啜る。
居酒屋で飲んだのはビール大ジョッキ1杯だけ。食べ物はそれなりに食べたが、「飲んだ」というレベルじゃない。
俺自身アルコールに特別強い方じゃないが、あの程度なら浅めのほろ酔いで済む。入れたての茶を飲むと、冷えていた身体が内側から温められていく。

「・・・晶子。居酒屋で中座した電話の件なんだけど。」

 前置きした上で俺は事情を包み隠さず説明する。
電話の主は、自分が連絡用に、と電話番号を教えた渉だったこと。
渉から飲み会の席を揃って退席しても構わない、と言われたこと。
渉が女4人組の主張で気分を害して退席し、俺も同じことを思っていたが我慢していたこと、など。

「−こんなところ。」
「そうですか。渉さんが随分長いこと戻らなかったのはどうしてかな、と思ってたんですけど、場を壊さないための渉さんなりの配慮だったんですね。」
「ああ。渉があれだけ自分の考えとかを話すことはなかったんだけどな。」
「祐司さんに話したかったんだと思いますよ。渉さんが言ったとおり、祐司さんが無理をしてその場に居ると思って、心境を吐露してもらうために。」
「そうだろうな・・・。」

 渉は口調こそ普段どおりだったが、話した内容は明らかに怒りを含んでいた。
同時に、こんな奴等に言いたい放題言われて黙ってるつもりか、とも言いたかったのかもしれない。
俺とてそんなつもりは毛頭なかったし、渡るの言葉がきっかけで晶子を連れて退席することに踏み切れたんだから、むしろありがたいくらいだ。

「・・・祐司さんと別れろ、と暗に言われたのには、正直頭に来ました。」

 湯飲みを置いて両手で包み込んだ状態で晶子が言う。

「私は、人生において勝敗はないと思います。あるとするなら、その人の人生がどれだけ充実していたかで決まることで、それは個人の問題で他人と比較して
評価する性質のものではないと思います。あの女性(ひと)達には、絶えず自分と他人と比較して、自分より劣る、とみなした対象を見下す思考が身について
いるんだな、と思いました。それは個人の価値観の問題ですからまだ良いです。けど、祐司さんと別れろ、と暗に言われたのには・・・。」
「・・・勝手なこと言うな、と怒鳴りつけたかったんだけど、それはちょっとな・・・。だから黙ってた。渉から途中退席は構わない、って言われたから、
頃合を見て出ることにしたんだ。遅い、って言われればそれまでだけど。」

 我慢していた結果とは言え、俺の行動は遅かった。晶子が躊躇したり、面子が止めようとしても振り切って、それこそ晶子に「俺について来い」と言ってでも
早々に店を出るべきだった。そういう主導的な行動が執れないのは、未だもって進路を決められずにいることにも表れていると思う。
 晶子は首を横に振る。

「いきなり祐司さんが席を立ったら、その後の場が乱れたと思います。勿論、祐司さんが出て行くなら私も出て行くつもりでしたけど、あの場の雰囲気を
保ったまま離れたんですから、あれで良かったんですよ。」
「・・・そうだな。」

 途中退席した以上、今更ああだこうだ言っても仕方ない。少なくとも見た目は円満に退席出来たんだから、それでよしとしよう。
先に2人で戻った温泉宿。温泉と言えばやっぱり・・・あれだよな。

「温泉に行くか。」
「はい。」

 風呂はこの部屋にはない。今時の旅館やホテルは、大浴場はあっても大抵それぞれの部屋に浴室がある。その面からも、この宿は珍しい部類に入ると思う。
温泉宿、と銘打つくらいだからそれなりに大きいんだろうが、どんなものかは行ってみないことには分からない。
 俺と晶子は茶を飲んでから立ち上がり、浴衣と羽織、下着とタオルを持って部屋を出る。部屋の鍵は俺が持つことにする。
風呂の時間は晶子の方が長いから、俺が部屋を開けて待っている、ということも出来ないことはない。だが、晶子に1人で帰って来い、とは言いたくない。
 階段を下りて長い廊下を進んでいくと、偶に他の客とすれ違う。誰もが俺と晶子が持っている浴衣と羽織を着ている。客層は中高年ばかりだ。
昼間出会ったあの子ども達が言っていたように、今は若い奴が遊んでいる時間帯なんだろう。
 風呂は、かなり奥まったところにあった。混浴・・・じゃない。残念なような、ホッとしたような・・・複雑な気分。
晶子が風呂に入ってるところは見たことがないし、興味がないと言えば嘘になる。けど、他の男に見せたくない。ある意味男らしい立派な独占欲だな。

「それじゃ、此処で待ち合わせしよう。」
「はい。待ってますね。」

 晶子と小さく手を振って、男湯と女湯に別れる。
中は・・・空いてる。3人居るが何れも服を着ているかタオルで身体を拭いているかのどちらかだ。
此処に来るまでにも何度かすれ違ったが、時間帯としてはもう湯上りなんだろうか。
 少々違和感を感じつつ、近くのプレートを見る。そこには温泉の歴史や効能が書いてある。
・・・ふーん。500年以上の伝統か。スキー場のついで温泉宿が作られたんじゃなくて、温泉宿だけでは特に若い客を呼べないってことでスキー場が出来た、って
流れかな。効能は・・・関節痛、筋肉痛、美肌。スキーで筋肉痛になった、とかいう話はチラッと聞いたことがあるから、丁度良いだろう。美肌は俺には関係ないが。
 服を脱いで脱衣籠に仕舞ってから−鍵はゴムバンドで左手首にくくりつけてある−、今時珍しい木製の引き戸を開ける。
予想以上に広い。湯船だけで俺の自宅くらいはありそうだ。
周囲は日本庭園そのもので、ライトアップもされている。積もった雪がオレンジ色の光を受けて輝いている。
身体や髪を洗うところと湯船は、殆ど枠のないガラス戸で仕切られているからよく見える。
 洗うところには10人、否、それ以上の腰掛があるが、座っているのは2人だけ。しかも、見たところこれから出ようとしているようだ。
やっぱり、この年齢層から見ると入浴時間帯がずれているらしい。
近くの木製の腰掛けに座って身体を洗う。身体を洗うのは石鹸じゃなくてポンプ式のボディソープ、シャンプーもポンプ式というのは目を瞑るべきところか。
 身体と髪を洗った後、ガラス戸を開ける。
寒い!雪が積もっているくらいだから当たり前だが、急いで湯に入る。
今度は熱く感じるが、これは一時的なもの。落ち着いたところで思わず溜息が出るのはご愛嬌。湯船に浸かっているのはざっと見て10人そこそこ。やっぱり少ない。
湯船が余計に広く感じられる。
 ふと横を見ると、竹で作られた柵というより壁がある。この向こうが女湯なんだろう。晶子は多分まだ身体か髪を洗ってるところだろうな。
「烏の行水」を地で行く俺に対して、晶子は結構長風呂だ。長い髪を洗う分時間がかかるらしい。前に潤子さんもそんなことを言ってたし。

「お兄さん、何処から来なさった?」

 のんびり浸かっていたら、初老の男性が声をかけてきた。
普段客商売のバイトをしているせいか、こういう場面でも動揺しないで居られるのはありがたい。

「新京市からです。」
「ほう、随分遠くから来なさったねぇ。見たところかなり若いけど、学生さん?」
「はい。大学生です。」
「私は高校の地区の同窓会で来たんですよ。飲んでたんで、入るのが他より遅れちゃったんですけどね。お兄さんは?」
「私は高校時代の友人と・・・妻と来ました。」
「え?お兄さん、結婚してるの?」
「はい。」

 他人に対して言い慣れてないからちょっと躊躇してしまったが、確認の問いには迷わず答える。
話からするにこの男性は、かなりの人数で来ているらしい。風呂から出た後で女湯に居るかもしれない同期の人とその話になって、話が矛盾したら大変なことになる。
俺は湯に浸けていた左手を出して見せる。薬指の指輪を見て、男性は納得した様子で何度も頷く。
 その時、壁の向こう側から何やら声が聞こえる。
悲鳴ではない。歓声と言うのか、そんな声だ。何かあったんだろうか?
耳を澄ましてみるが、色々な声が交じり合っている上に多少残響があるせいもあって、よく分からない。

「ねえねえー!そっちに若い男の子居なーい?」

 壁の向こうから一際大きな声が聞こえて来た。・・・もしかして・・・。

「おー!居る居るー!新京市から来たっていう若い兄さんがなー!」
「こっちにねー!新京市から来たって言う、髪の長い色白の綺麗な女の子が居るのよー!」

 ・・・やっぱり。晶子も俺と同じように話しかけられたようだ。
無理もない。男湯でも居る年齢層は明らかに俺より高い。それに、晶子は俺と同じく20代で客観的に見ても美人だ。人目を惹くには余りある。

「その女の子、結婚指輪填めててねー!聞いてみたら、旦那と一緒に風呂入りに来たんだってー!」
「こっちでも指輪見たぞー!」
「凄い綺麗な女の子でねー!旦那の高校時代の友人との一足早い卒業旅行に同席させてもらったんだってさー!」
「兄さんもそう言ってたー!・・・さ、お兄さん。奥さんに声かけてやりなさい。」

 照れくさいが、こういう展開で無下に断るわけには行かない。覚悟を決めて、壁の向こうに居る晶子に呼びかける。

「晶子ー。聞こえるかー?」
「はい。聞こえますよー。」
「指輪、見せたのかー?俺も見せたけどー。」
「はい。見せましたー。」

 やり取りに続いて拍手が起こる。こちら側は元より、壁の向こう側からも聞こえる。
嬉しいのは勿論だが、照れくささが先に出る。こういうのに慣れてないからな・・・。

「そう言えば、兄さんの連れは?」

 拍手が止んだ後、最初に話しかけて来た男性が再び話し掛けて来る。これも何かの縁だ。答えられるだけ答えておくか。

「今、居酒屋で呑んでます。俺達だけ先に帰って来たんです。で、風呂に行こうか、ってことになって。」
「スキーは?」
「いえ、してないです。」
「あらま、珍しいね。若い人が此処へ来るのはスキーするためだ、っていうくらいなのに。」
「スキーはしたことないですし、最初から観光目的ですので。」

 他の男性も加わって来る。
やっぱり、この年齢の中で1人だけ若い俺は目立つらしい。それに、スキーをせずに観光に来たというのも異色のようだ。
俺に誘いの電話をかけて来た耕次もスキーに行くことを最初に言っていたし、飲み屋の通りに居た年齢層も考えると、俺と晶子の行動は浮いて見えるようだ。

「んじゃ、そろそろ上がるかー。」
「そうだな。これから飲み会だし。じゃ、兄さん。お先に。」
「あ、どうも。」

 男性達は連れ立って風呂から上がっていく。飲み会とか言ってたな。
あの飲み屋の通りには行かないで、この宿でするんだろうか。俺と晶子が加わるわけでもないから、聞かないでおこう。
 見回すと、湯船には俺しか居ない。さっきまで浸かっていた男性達は全員、高校の地区の同窓会とやらのメンバーらしい。
女湯の方にどれくらい居るのかは分からないが、団体客であることには違いない。
俺達の部屋は3つとも2人部屋で、どれも2人には十分な広さだが、団体客用のものもあるんだろうか?
 さっきまでの会話が嘘のように静かになった。柵の向こうからも声は聞こえない。
向こうはもっと会話が長引きそうなもんだが、飲み会の時間に遅れないように早めに出るとか、予め決めておいたんだろうか。・・・もしかして、向こうは晶子だけか?

「晶子ー。聞こえるかー?」
「聞こえますよー。」
「・・・今、そっちは1人かー?」
「はいー。さっき一斉に出て行かれましたー。」
「こっちもだよー。」

 柵1枚隔てた向こうは晶子1人だけか・・・。この広い湯船を柵を隔ててだが、俺と晶子が占有していることになる。
湯気に霞むガラス戸の向こうには誰も居ない。完全に2人きり・・・か。
かと言ってどうすることも出来ないんだが。何だかのぼせて来たように思う。多分、温泉の熱さと浸かっている時間だけが原因じゃない。

「先、出るからー。」
「分かりましたー。」

 元々風呂に入る時間が短い俺がこのままこうしていると、本当にのぼせてしまいそうな気がする。笑いの種になる前にさっさと出よう。
湯船から出て急いでガラス戸を開けて中に入り、かけ湯をしてから脱衣場に向かう。
本当に人気がない。時計を見ると9:00過ぎ。早いと言えば早いが、誰も来ないというのは何だか妙な気がする。
 身体を拭いて浴衣を着て、その上に羽織を着て、服やタオルを一抱えにして風呂場から出る。人気はまったくないし、晶子もまだだ。
髪を拭くのに時間がかかるって前に言ってたし、俺が出たからと行って必ず出てくるってわけでもないから、約束どおり待つ。
 温泉の熱の余韻と暖房が重なってか汗が染み出して来た。
入るまでは丁度良いくらいだったんだが、出てからだとかなり暑く感じる。
まさか暖房を止めろ、って言うわけにもいかないし、そんな子どもじみたことを言うつもりもないから、汗を拭って凌ぐ。

「お待たせしました。」

 晶子が出て来る。髪は後ろで結わえられてポニーテールにしている。
風呂上りの浴衣姿を見るのは去年の夏以来だが、やっぱり色っぽいな・・・。仄かに上気した頬と白いうなじのコントラストが魅惑的だ。

「どうしたんですか?ぼうっとして。」
「あ、いや、色っぽいなって思って・・・。」

 思ったことそのままを言うと、晶子は嬉しそうに微笑む。悪い気はしないらしい。
「可愛い」とか「綺麗」とか言うのは良いが、「色っぽい」とか所謂性的関心を惹く褒め言葉は良くない、って聞いたことがあるからな。

「じゃあ・・・行こうか。」
「はい。」

 早々と会話に詰まった俺は、部屋に戻ることを選択する。
俺が様子を窺うように手を出すと、晶子がすっと手を出して握る。柔らかくて滑らかな感触を感じて、それをよりしっかり感じ取るために痛くならない程度に握る。
 来た道を戻る形で通路を歩いて行く。往路では何人かとすれ違ったが、復路では誰ともすれ違わない。
年齢層によって行動パターンや時間帯のずれが明確になっているのは分かったけど、ここまで極端というのは初めて見る。
旅行とかそういうのには無縁の生活を送っていて、その辺の変化に疎い俺が知らなかっただけなのかもしれないが。

「人、居ませんね。」

 隣に居る晶子が呟くように言う。

「人の行動が、年齢を主な要因として分断されているようですね。この時間でも、私と祐司さんくらいの若い人が温泉に入りに行ったり、お風呂で一緒になった
年代の人達が夜の街に繰り出していても良いように思うんですけど・・・。」
「推測だけど、俺と晶子も居たあの繁華街は若者向けに作られてた。此処に来る高い年齢層の客はそれを知ってるから、夜は宿で温泉に浸かって飲み会か寝るかで、
俺や晶子くらいの年齢層だと、昼間出会った子ども達も言ってたように、昼はスキーで夜はあの繁華街で遊ぶ、っていうように二極化されてるのかもしれない。」
「年齢で行動範囲や時間帯が制限されるのはある程度まではやむを得ないかもしれませんけど、こういう観光地ではちょっと寂しいですね。」
「そうだな・・・。」

 寂しい。そう言われればそうだ。
温泉では見ず知らずの人達、しかも年齢層が違う人達と結構盛り上がった。
自分達を話題にするのにはあまり慣れてないから相手の思惑どおりとは行かなかっただろうが、俺はそれなりに楽しかった。
 バイトでは色々な客が来る。塾帰りの中高生から仕事帰りのOL、音楽好きだという会社員−この店でCASIOPEAの曲が聞きたかったと言った客でもある−まで色々。
マスターと潤子さんの話では、昼間は主婦層や年配の人も来ると言う。
顔馴染みの客とは短いが話をしたりする。「今日は同僚を誘ってきたのよ」とか「君のギターは今日聞けるかな」とか言われて、その場その時の状況で受け答えしている。
 年齢が違う人との付き合いは難しい面もないとは言えない。けど、サマーコンサートのように、見知らぬ人との出会いが新鮮な出来事や楽しい思い出を
作ることもあると思う。
年齢層による客の行動の断絶が良いのか悪いのか・・・。この宿だけじゃなくてこの町全体の問題でもあるだろうから、それを考えると何とも言えないが、
何か大切なものが欠けているように思う。

「お風呂では、凄く注目されましたよ。」

 やや沈んだ調子だった晶子の声が、一転して明るくなる。

「身体と髪を洗っていたら、『あら、若い娘(こ)が1人でなんて珍しい』って話しかけられて、そのまま温泉に向かったんです。何でも、高校の地区単位の
同窓会で此処に来たそうで。」
「ああ、俺の方でもそう聞いた。」
「温泉に居たのは偶然、その同窓会の参加者だけだったみたいで、色々話をしてたんですよ。皆さんが『私達もこんな時代があったのよね』とか言っているうちに
私に話が向けられて、私が新京市から来た大学生で、同じ大学に通う夫と、夫の高校時代のお友達との一足早い年越し旅行に混ぜてもらった、って答えたら
凄く驚かれて・・・。『学生結婚なの?』とか『旦那は今何処に居るの?』とか一斉に尋ねられたので、まずこれを見せたんです。」

 晶子は服とかを包んだバスタオルを抱えた状態で、左手の指を見せる。
その薬指に輝くのは、俺のと同じ指輪。関係を示すにはそれを見せれば事足りる、と言っても過言でないものだ。

「それで、柵越しのあの会話になったわけか。」
「ええ。『夫と一緒に温泉に入りに来た』って答えたら直ぐ・・・。」
「あの人達は、ある程度の集団で一斉に風呂に入りに来たんだろうな。だから、晶子の答えを聞いて、早速柵の向こうに居る筈の男友達に真偽のほどを確かめた。
・・・こんなところか。」
「そうです。あと・・・、『お幸せにね。』って、皆さんが出て行く時に言われました。それが一番、嬉しかったです。」

 そう言って微笑む晶子は、本当に嬉しそうだ。
何より俺との絆や時間を求める晶子にとっては、自分の幸せを実感出来るその瞬間こそ喜びの共鳴に浸れる至福の時なんだろう。
宏一が引っ掛けた女4人組が、宝石が付いていて当たり前と遠回しに揶揄された指輪は、晶子にとって、今の自分の幸せを示す何物にも代えられない
大きな証なんだと改めて実感する。
 渉も言っていたが、その幸せと今の笑顔を壊すことだけは絶対にしちゃいけない。
指輪を左手薬指に填めてくれとせがまれた時は、照れくささで頭が沸騰しそうだった。だけど日が経つに連れて、指輪に込めた想いとそれを確固たるものに
しようという思いが照れくささを上回った。
見せびらかすとまではいかないが、ここぞという時にはその思いを示す。そうすることで、現実の濁流に飲み込まれそうになるのを防いでいる。最近は特にそうだ。

 現実という波は確実に俺にも迫っている。自分の進路は言うまでもないが、別方向からも迫っている。弟のことだ。
入学した時には次は就職、と決まっていた筈の弟は、今年3年になるとほぼ同時に大学進学に進路変更した。そうせざるを得ない事情があった。
弟は俺と同じく−学校は違う−普通科に進学したが、そこからでは就職が殆どないという現実を見たからだ。
 工業高校とかの実業系でも何社も面接を受けてようやく1社合格、そしてその結果だけが「過去の卒業生の進路状況」として掲載される、という生臭い現実に
突き当たった。「即戦力」の筈の実業系でその有様だ。普通科の進路状況となれば言われなくても分かる。
 大学進学に切り替えたは良いものの、厄介な問題に突き当たった。・・・金だ。
俺が一人暮らしをするのにも、今の大学で4年で卒業、仕送りは月10万きっかり、足りない分は自分でバイトして補填する、という条件があった。
そもそも私立に行かせる金は家にはない、と前置きされたくらいだ。
その「実績」と実家の経済状況に変化がないということを踏まえれば、自ずと条件は絞られて来る。
簡潔に言えば「自宅から通える国公立大学」と。そして、その条件を満たす大学を数えるには、片手で十分だったりする。
 俺は進学校で、幸か不幸かは兎も角1年からテストのない日はなかったといって良いくらいの状態だったから、受験に対して鍛えられてきた。
一方、3年生から受験態勢に転じた弟はその分ブランクがある。プレッシャーは相当のものだろう。
だから俺は、自分の貯金を確かめた上で、4年生の学費は自分で出す、と親に言った。
そうすれば1年間だけの気休めだが、入学金を含めれば100万近い金が浮くのは間違いない。
高校までは喧嘩ばかりしていたが、去年の年末年始に帰省した時には冬休みの宿題を見てやったし、近況を話したりもした弟の、息が詰まる受験勉強の、
それこそ気休めにでもなれば良い。

 俺は今の大学に進学したことを少しも後悔してない。
合格率は五分五分、と進路指導で言われていた大学を目指して懸命に取り組んで、その上合格出来たんだから。
でも、大学進学で人生の残り全てが決まったわけじゃないという現実がじわじわと迫って来た今、大学進学よりずっと難しい選択をしなきゃならない。
 公務員なら将来安泰ってのは幻想に過ぎない。
それを目指して、否、目指させている子どもを持っている時は散々羨んでおきながら、自分と関係がなくなると1つの些細な−良いとは言わないが−不祥事で
陰口を叩いて、人員削減をマスコミやその辺の議員と一緒になって強いる有様だ。
首を切られるのは一般の職員で幹部クラスや議員の首はそのままだから、何も変わらない。そんな状況で仕事にやりがいを持てるとは思えない。
 かと言って、企業では過労死とかただ働きとかが、それこそ就職志望上位の常連から出て来る始末だ。花形の裏に累々と横たわる死体を横目で見ながら仕事、
なんて俺には出来そうにない。
 俺は、今のバイトが気に入っている。
勿論忙しいし−サマーコンサート以降は尚更−、妙な客ともきちんと対応しなきゃならないという問題はある。
だけど、気の良いマスターと潤子さん、そして晶子と一緒に一つの店を動かしている、という、手応えと言うのか充実感と言うのか、そういうものがある。
それを追い求めたいとも思う。むしろ、今はどちらかと言えば、そっちの方に気が向いている。
 だが、そうなると親との衝突は避けられないだろう。「折角今の大学に進学しておきながら」という接頭語が付くのは、簡単に想像出来る。
それでも、ネームバリューとか求人広告の記載につられて、理想と現実とのギャップに悩むよりはましだと思う。
 俺が進路を決めないことには、俺と一緒に暮らす、否、俺と結婚することを前提にしている晶子が身動きが取れない。大学卒業と同時におしまい、なんて真っ平だ。
自然消滅ならまだしも、俺と晶子は今進むところまで進んだ。それに、晶子はその意味を知った上で指輪を左手薬指に填めてと譲らなかったし、俺もそれに応えた。
そこまで築き上げた俺と晶子の共通の夢を「なかったことにする」なんて出来ないし、したくない。
 押し寄せる現実という波に晶子との絆がこのまま揺られ続けていたら、この先どうなるか分からない。
自分の人生だけでもこの先なんて見えないんだから、分かる筈もない。分かるようなら占い師は全員失業だ。

「どうしたんですか?」

 晶子の呼び声で我に帰る。見渡せる景色は何時の間にやら廊下をとうに過ぎて階段の前のもの。俯いて考えながら歩いていたらしい。器用なもんだ。

「・・・いや、何でもない。」

 俺は笑みを作って首を横に振る。そして、晶子の手を握る左手の力を少し強める。

「ずっと・・・、一緒に居てくれよな。」
「はい。」

 晶子は不安そうだった顔を微笑みに変える。俺について来い、と言えないのが我ながら情けなく思うが・・・。

「その先は、プロポーズしてくれる時まで仕舞っておいてくださいね。」
「・・・ああ。」

 やっぱり晶子は特別な時や瞬間を大切にしている。
晶子の求愛への返事の時もそうだったし、晶子を初めて抱いた時も、「出逢って何年目」という節目の時も・・・。
 あまりにも安っぽいと言ってしまえばそれまでだ。少なくとも、指輪に宝石が付いていて当たり前と仄めかしていた女4人組には分からないだろう。
だが、それを大切にしている相手が今時分の傍に居るんだから、その気持ちに応えたい。現実というものは厳しい時もあれば、心地良い時もあるものなんだな・・・。

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