雨上がりの午後
Chapter 114 憩いと寛ぎの時を行く
written by Moonstone
俺が再び目を開けた時、隣に晶子は居なかった。
まだ少しぼうっとする頭で腕時計を−昨日外すの忘れた−見ると、10時過ぎだ。大体6時間くらい寝た計算か・・・。
朝食には遅い、だけど昼食には早い、中途半端な時間に目が覚めてしまったようだ。
冷房のスイッチは入れられたままだ。晶子か潤子さんが気を利かせてそのままにしておいてくれたんだろう。
俺は上体を起こして一度欠伸をしてから目を擦る。
こんな時間に降りていっても迷惑になるだけだな。まだ少し眠気が残っているのを利用して二度寝と洒落込むか。
俺は再び横になって掛け布団を被り、目を閉じる。
トントントン・・・と階段を上ってくる−音が近付いてきてるから上がってきていると分かる−音が聞こえて来る。
そして廊下を歩いてくる音が近付いてくる。晶子か潤子さんが様子を見に来たんだろう。
俺は寝返りを打ってドアに背を向け、目を閉じたまま耳に意識を集中させる。
少しだけドアが開く音がする。まだ俺が寝ていると踏んでいるんだろう。
足音は板を踏む音から畳を踏む音に変わり、俺の枕元に近付いてくる。出来るだけ足音を立てないようにしているのが分かる。
寝たふりをしていることにちょっと罪悪感を感じる。
俺の頭上に人の気配を感じる。俺の顔を覆い被さる形で覗き込んでいるんだろう。
俺はひたすら寝たふりをする。だが、どうしても瞼がぴくぴくと動いてしまう。夢でも見ているんだろうと思ってくれるかな?
「やっぱり祐司さんは真面目な人ですね。」
俺の耳に晶子の囁きが注ぎ込まれる。
かなりの至近距離だということが、晶子の吐息が俺の耳にかかることで分かる。
「寝たふりをしても駄目ですよ。起きてるってことはばれてるんですから。」
そこまで見抜かれても俺は尚も寝たふりを決め込む。
すると俺の頬に柔らかくて温かいものが触れる。そのショックで俺は思わず目を開けてしまう。
「ふふふ。こうすればやっぱり起きますね。祐司さんは口でも身体でも嘘がつけない人だってことは分かってるんですから。」
「・・・参ったな・・・。」
俺は苦笑いしながら上体を起こして頭を掻く。
自分では上手くいってたと思っていたんだが・・・、晶子にしてみればバレバレだったらしい。
本当に俺は不器用な人間だ。
「私は9時に起きたんですよ。」
「9時?晶子にしちゃ遅いな。って、昨日寝たのが遅かったから無理もないか。」
「朝食の用意は出来てますから、食べます?」
「今からだと時間的に中途半端じゃないか?」
「マスターと潤子さんも私と同じで9時に起きたんですよ。だから昼食の時間も1時ごろにする、って言ってましたから。」
「そっか・・・。なら起きるかな。」
俺は布団から出て身体を軽く動かす。筋肉や骨が軋む音がする。寝ていて身体が縮こまっていたのを引き伸ばす、っていう感じだ。
そうするとすっかり眠気も取れる。時間としては長い方じゃないんだが、疲れていたせいもあってよく眠れた。
俺は手櫛で髪を整える。整えるといってもヘアスタイルがあるわけじゃないから、せいぜい寝ていて乱れた髪の体裁を整える程度だが。
「マスターと潤子さんは?」
「揃ってお買い物ですって。昼過ぎに戻る、ってマスターからの伝言です。」
揃って買い物?てことは今、この家に居るのは俺と晶子だけということになる・・・。
マスターと潤子さん、余程俺と晶子を信用しているのか、全然警戒心がないのかのどちらかだな。
片方はまだ寝てたっていうのに良いんだろうか?
「さ、朝御飯食べに行きましょう。」
「食べに行こうって・・・晶子は済ませたんじゃないのか?」
「まだですよ。私は祐司さんと一緒に食べたかったですから、用意だけしてもらったんです。」
「そうか・・・。」
晶子はとことん俺と生活のペースを合わせたいみたいだな。
こういうのを見ると、昼夜逆転の生活を送る桜井さん達のような道を選ぶことを躊躇してしまう。
晶子のことだ。帰って来るまで起きて待ってる、なんてことをやりかねない。そうなると晶子の生活リズムを狂わせてしまう。
兎も角今は朝飯を食べることに専念するかな。
俺は晶子の手を取って部屋を出る。俺の手をきゅっと握り返してくる柔らかい感触が伝わってくる。
俺は晶子の手を引いて階段を下りて行く。晶子がつんのめって転ばないようにスピードは控えめに、と。
階段を下りてキッチンに入ると、晶子が俺から離れて冷蔵庫を開ける。
そしてサンドイッチが乗った皿とベージュ色の液体が入ったコップを取り出して、テーブルの上に並べて置く。
サンドイッチは店で出す量より少し少なめだ。起きるのが遅いことを考慮してのものだろう。
「私も作ったんですよ。」
「どれを?」
「勿論、祐司さんの分のサンドイッチですよ。ミックスジュースは潤子さんのお手製ですけど、私も材料を覚えましたから味は再現出来ますよ。」
晶子の奴、相変わらず潤子さんにライバル意識を持ってるな。
別に潤子さんの方にフラフラ寄って行く、なんてことは無いから安心して良いのに・・・。
第一、そんなことをしたら晶子は勿論、マスターも黙っちゃいないだろうし。
そんなことを思いながら、俺は晶子と並んで座る。
向かい合わせでも良いのにあくまで俺と距離が近い方を選ぶんだな、晶子は・・・。そんなところが可愛らしい。
「「いただきます。」」
どちらかが合図したわけでもないのにぴったり息が合ったことに、言ってから俺と晶子は顔を見合わせてくすくす笑う。
そんな和やかな雰囲気の中遅い朝食を食べていく。
BGMなんてもんはないし、必要ない。晶子との会話がBGMでもあり、食欲増進剤でもある。
晶子は昨日の−日付上は今日だが−初セッションの興奮覚めやらぬ様子で、頻りに歌った時の気分を語り、俺の演奏を持ち上げてくれる。
誉められて悪い気はしないが、そんなに晶子の心を揺さぶるような演奏だったんだろうか、と疑問に思う。
確かに俺の演奏は好評だった。
桜井さんや国府さんは勿論のこと、「MORNING STAR」なんかで初めてEWIで俺とユニゾンした勝田さんも、そして終始クールだった青山さんも、
俺の演奏は十分プロとして通用するといってくれた。
だが、それは初対面の相手だしそれにアマだっていうことを踏まえてのお世辞だったんじゃないかと思えてならない。
その一方で、終始クールに演奏を続けていた青山さんが、酒が入ったら初めて笑顔を浮かべて、君の演奏は良かった、と言ってくれたことに
自信を持ったことも確かだ。
青山さんのようにクールで自分にも他人にも厳しいタイプの人は、そうそう自分を含めた人間を誉めることはしない。
そんな青山さんに認められるだけの腕が俺にはあると思って良いんだろうか?いまいち、否、まだ分からない。
食事はあっさり終了した。
最後にフルーツを凝縮したという表現が相応しいミックスジュースを飲み干してコップをテーブルの上に置く。
俺とほぼ同時に食べ終えた晶子が食器を重ねて流しに持っていく。洗い物をするんだろう。
何だか晶子にさせてばかりで申し訳なく思う。でも、晶子はこれは自分の役目だと思っているのか、月曜の夕食の後でも俺に洗い物をさせない。
食器が少ないので洗い物は直ぐに終わる。
晶子は備え付けのタオルで手を拭うと俺の背後に回り、何をするかと思えば両腕を俺の首に回して来た。
後ろから抱きすくめられた格好になったことで、俺の心拍数が急上昇する。
こんな程度でドキドキするんだから、俺も案外(?)照れ屋なようだ。
「な、何だよ。」
「祐司さんのギターが聞きたいなぁ、って思って。」
「つまりこれはおねだり、と。」
「ご名答。」
やれやれ・・・。まだあれだけ演奏してから半日も経ってないのにギターを演奏してくれとは・・・。
まあ、マスターと潤子さんが買い物から帰ってくるまで他にすることはないし、晶子が聞きたいって言うんだからその望みを叶えてやろうかな。
「分かった分かった。とりあえずこの腕を退けてくれ。」
「はい。」
晶子はすんなりと俺を腕から解放する。俺は席を立って店へ向かう。
カウンターを出て客席を抜け、ステージに上がる。晶子はステージに一番近いテーブル席の椅子に腰掛けている。
「何が良い?」
「『THE SUMMER OF '68』が聞きたいです。」
「THE SUMMER OF '68」か・・・。シンセ音とシンプルなリズム音の中、ひたすらアコギで演奏する曲だ。
この曲を演奏する時もかなり緊張したが、客には新鮮だったのかかなり好評だったのを覚えている。
「よし、分かった。それじゃ準備するからちょっと待っててくれ。」
「はい。」
俺はアコギのストラップに身体を通し、PCとシンセサイザーを起動してシーケンサの準備をする。
今回は一人だから、他のパートの演奏はシーケンサにお任せだ。
準備が整ったところで、俺は椅子を持ってステージ中央に置き、その足元にフットスイッチを持って来て、準備が整ったところで腰を下ろして
ギターの位置を決める。これが演奏準備の最終段階だ。
準備が整ったところで俺は晶子を見る。晶子は目を輝かせて俺を見ている。
たった一人の、だが最も大切な観客を前にして、俺はフットスイッチを押して演奏を始める・・・。
「ただいまー。」
勝手口のドアが開いて、買い物袋をぶら下げたマスターと潤子さんが入って来た。
随分な量だ。まあ、家で使う分だけじゃなくて店で使う分もあるから、多くなって当然か。
俺は晶子のリクエストを5曲ほど演奏した後、キッチンで話をしていた。
話は俺から切り出した。何故なら俺の将来に関することだからだ。
昨日−くどいようだが日付上は今日だ−の演奏で好評を得られたことを弾みにして音楽への道へ飛び込むべきか、それとも一般的な−世間的に言ってだが−
道へ進むのかかなり迷っていることを率直に打ち明けた。
晶子は、最終的には祐司さんが決めることですけど、と前置きした上で、俺の腕は恋人という条件を取り払っても十分人に聞かせるものになっていたこと、
それは客席からの反応が証明した筈だということ、そして俺が音楽の道に進むことに賛成はするけど反対はしないということを話した。
続いて俺が、晶子はどうするんだ、と尋ねたら、晶子は文学部では進路が事務職に限られてくるだろうから、会社や官庁に就職するよりも
この店で働けるものならそうしたいという気持ちがある、と言った。
初めて聞いた具体的な「進路」に俺はちょっと驚いたが、晶子はこの店に対して余程愛着があるらしい。
晶子はこの店が開くと同時に働きに出て、夜から俺と「合流」して俺はプロのミュージシャンとして客に演奏を聞かせるのはどうか、という
かなり突っ込んだことまで言った。そこまでは思いつかなかったからかなり参考になった。
その一連の話が終わったところでマスターと潤子さんが帰って来た、という格好だ。
マスターと潤子さんは手分けして買って来たものをキッチンの冷蔵庫と店へ持っていく分に小分けして収納した後、マスターは俺と晶子の向かい側に腰掛け、
潤子さんは髪を後ろで束ねてエプロンを着けて晶子に言う。
「晶子ちゃん。これからお昼ご飯作るから手伝ってくれない?」
「はい。分かりました。」
晶子は嫌な顔一つせずに席を立ち、潤子さんの後を追って店の方へ消える。
キッチンには俺とマスターが残された。会話しようにも話題がないから沈黙するしかない。
「昨日はお疲れさんだったな。で、どうだ?」
「どうだ、って何がですか?」
「ミュージシャンになる気になったかどうかだよ。」
そう来たか・・・。
やはりという感もあるが、俺の中ではまだ結論は出ていない。
俺がそのことを話すと、マスターは言う。
「君の演奏は、うちのバイトという条件を取り除いても、十分人に聞かせられるものになっていた。この道20年くらい自分の腕一本でミュージシャンやってる
連中に混じってあれだけの演奏が出来たんだ。君にはミュージシャンの素質があると俺は思う。」
「・・・。」
「勿論将来どうするかは君の判断だから強制はしないし、出来ないし、するつもりもない。ただ、君は自分の腕にもっと自信を持って良いことは確かだ。
ジャズバーとかを回るミュージシャンが嫌なら、何処かの事務所と契約してCDを出したり他のプロのレコーディングに参加するスタジオ・ミュージシャンへの
道もある。決してミュージシャンの道が昨日経験してもらったものだけじゃないことだけは覚えておいてくれ。」
「はい。」
「それはそうと・・・祐司君。」
マスターが唐突ににやける。
その髭面でにやけられると正直言って不気味だ。俺は思わず引いてしまう。
「な、何ですか?」
「俺達、良い女と巡り会えたよな。」
何だ、そういう話か・・・。
晶子との関係を深く聞かれるのかと警戒したんだが、どうやらその警戒は必要ないようだ。
「はい。そう思います。美人だし、料理は上手だし、良く気は利くし、人当たりは優しいし・・・・。」
「俺達を第一に考えてくれる。俺達の方を見続けてくれる。割れ鍋に閉じ蓋、っていうが、絢爛豪華な閉じ鍋だよな。」
「ええ、そうですね。俺は失恋した直後でささくれ立ってた時期がありましたけど、それでも晶子は俺へのアプローチを止めなかったし、
俺についてきてくれました・・・。俺がミュージシャンになる道を選んだとしても俺と一緒に居てくれることを約束してくれる。本当に恵まれてるな、って思います。」
「お互い、大切なパートナーを大事にしないとな。」
「そうですね。」
俺とマスターが互いのパートナー自慢大会をしていると、お待たせ、という快活な声と共に晶子と潤子さんが料理を運んでくる。
海老のチリソースやら焼き餃子やら唐揚げやら−これは晶子が俺の好みを考えてのことだろう−中華料理だが、それにしても量がかなり多いし種類も多い。
朝食が軽かったから良いものの、夕食並、或いはそれ以上に豪勢だ。
「随分作ったな。」
「ちょっと張り込んでみたのよ。沢山食べてね。」
エプロンを外して髪を解いた潤子さんが言う。その表情は何時も以上にご機嫌のようだ。
俺の隣に座った晶子も何か嬉しそうにしている。まさか・・・。
「・・・聞こえてたんですか?」
「何のこと?」
「さ、冷めちゃわないうちに食べましょうよ。」
潤子さんはしれっとかわし、晶子は明るい笑顔で料理を勧める。
やっぱり聞こえてたんだな。まあ、追求したところで白状するとは思えないし、追求したってしょうがないから、ここはテーブルいっぱいに並べられた
料理を味わうのが一番だろう。
何時ものように全員揃って唱和した後、料理を食べにかかる。
それにしても凄い量だな。今日買ってきた分を使い切ってしまったんじゃないかと思うくらいだ。
まあ、潤子さんもその辺は勘考しているだろうから心配要らないか。
俺は好物の唐揚げを中心に料理に舌鼓を打つ。
美味い。晶子のリクエストに応えて演奏したことに加えて長話をしたことで腹が減っていたところにこの量だ。俺は遠慮なく料理を食べていく。
昨日の−念のため言っておくが日付上は今日だ−演奏のことや俺と晶子のなれ初めが話題に上る中−マスターと潤子さんはそのことを聞いても
「昔のことだからねぇ」でかわしてしまう−、あれだけあった食事はあっさり片付いてしまった。
俺は満腹だ。昼食で満腹になるなんて初めてなんじゃないだろうか?
あ、以前試験勉強中のところに晶子が昼飯を作って持って来てくれたことがあったっけ。あの時も腹が膨れたが今日と同じ位かどうかまでは流石に分からない。
「「ご馳走様でした。」」
「綺麗に食べてくれたわね。作った甲斐があったわね?晶子ちゃん。」
「ええ。作ったものが綺麗に食べられていると嬉しいですね。」
「しかし、昼食とは思えん量だったな。やっぱり聞いてたのか?」
「何を?」
「何を、って潤子、お前なぁ・・・。」
やっぱり潤子さん、しれっとかわすなぁ。こりゃどう足掻いたところで実情を聞き出すのは無理みたいだ。
俺が晶子に聞いても多分、否、きっとはぐらかされるだろう。俺の追及力なんてたかが知れてるからな。
「私もお腹いっぱいだから、ちょっと休んでから片付けようかな。」
「あ、私も手伝いますから。」
「お願い出来る?嬉しいわ。」
「いえ・・・。」
晶子ははにかんだ笑みを浮かべる。満面の笑顔も勿論良いけど、こういう可愛らしい表情も良いな。
泣くところだけは嬉し泣き以外は絶対御免だ。あれは見ているだけで胸を引き裂かれそうなやりきれない気持ちと激しい罪悪感に苛まれるからな。
暫くゆったりとした時間が流れた後、潤子さんが席を立って食器を重ね始める。俺と晶子もマスターも目の前にある食器を適当に重ねる。
何等分かに食器が重ねられたところで晶子が席を立つ。洗い物を始めるんだろう。
「じゃあ晶子ちゃん、お願いね。」
「はい。」
「祐司君。俺達もせめて流しに食器を運ぶくらいはしよう。」
「そうですね。」
俺はマスターと一緒に席を立ち、目の前の食器の山を持ち上げる。
食べ終わった食器の山を持つことはバイトでやってることだから珍しくも何ともない。
それに折角美味い料理を沢山作ってくれたんだから、これくらいやっても罰はあたるまい。
食器の山が店の流しに運ばれたところで、俺とマスターはさっさと退散する。
ここからは晶子と潤子さんの出番だ。俺とマスターが居たところで邪魔になるだけだから、大人しく引き下がった方が良い。
「祐司君。井上さんと潤子、俺達の話聞いてたんじゃないか?」
椅子に腰を下ろしたマスターが、小声で尋ねてくる。俺も小声で答える。
「マスターもそう思いますか。」
「料理の音と料理に集中していて聞こえてないと思ってたんだが・・・、二人揃ってもの凄く耳が良いみたいだな。」
「迂闊なことは言えませんね。」
「まったくだ。まあ、言う材料も見当たらんがな。」
「ええ。」
俺とマスターは会話を止めて、ゆったりと食後の休憩をする。
その間にも店の方からは水の音と食器がぶつかり合う音が絶え間なく聞こえて来る。
晶子も潤子さんも普段店のキッチンを切り盛りしているから、勝手は心得ているだろう。本当に俺とマスターは恵まれているよな・・・。
思ったより早く、両手に若干水分を残して晶子と潤子さんが戻って来る。やはり普段からキッチンを切り盛りしているだけあって手際が良いな。
潤子さんは、店で使う銀色のトレイにオレンジジュースらしいものが入ったコップを4人分乗せている。
それなりに重みもあるにも関わらず、左手の指だけで支えているとは、潤子さんって腕力もあればバランス感覚も相当あるんだな。
「食後の飲み物よ。さ、どうぞ。」
潤子さんは左手の指だけでトレイを支えたまま、コップをそれぞれの席に置いていく。
本当に器用だ。伊達に俺と晶子がバイトするようになるまで二人で店を続けてきたわけじゃないってことが良く分かる。
俺と晶子は、いただきます、と言ってよく冷えたコップを手に取り、オレンジ色の液体を口に流し込む。
冷たさと程好い酸味が清涼感を感じさせてくれる。こってりしたものが多かった食事の後には最適の飲み物だな。
俺は一気にオレンジジュースを飲み干してコップをテーブルに置いて小さく溜息を吐く。
晶子はゆっくりしたペースで飲んでいる。品の違いが出たな。
晶子が飲み終えたところで、俺と晶子は顔を見合わせて小さく頷き、ほぼ同時に席を立つ。
まだジュースを飲んでいたマスターと潤子さんは、どうしたんんだ、という顔で俺と晶子を見る。
「じゃあ俺達、これで失礼します。」
「なんだ、もっとゆっくりしていって良いんだぞ。」
「そうよ。夕食を食べていってからでも良いじゃない?」
「これから私の家に行きますから。」
そう、月曜日は俺と晶子が二人きりの時間を満喫する曜日だ。
生憎今日はギターを持って来てないし、今日は泊まらずに帰るが−2日も下着を着替えないのはちょっと気が引けるからだ−、晶子の家で夕食を
共にすることには変わりない。
それにマスターと潤子さんだって、二人きりの時間を持ちたいところだろう。余計なお世話かもしれないが。
「そう。これから二人きりでゆっくりするわけね?」
「はい。月曜日は祐司さんと私の家で過ごす大切な日ですから。」
「おうおう、井上さんも随分はっきり言ってくれるねえ。で、祐司君は晶子ちゃんの手料理を食べて、その後は井上さん本人を食べるって・・・」
マスターがそこまで言ったところで、潤子さんの強烈な平手打ちがマスターの後頭部にヒットする。マスターの頭ががくんと前に折れる。
マスターは後頭部を擦りながらいかにも痛そうに顔を顰める。あれだけ強烈な一撃を食らったらさぞかし痛いだろうに。ちょっとマスターに同情する。
「痛いなぁ、潤子・・・。」
「晶子ちゃんが居るところではそういう表現は使わないで、ってあれほど言ったのに・・・。まったくもう。」
マスターの言いたいことは分かる。潤子さんはそれを察知して「実力行使」に出たんだろう。別に言わせても良いと思うんだが。
俺と晶子がそういう関係になってるってことは晶子本人がばらしてしまったし、俺だって女性専用マンションにある晶子の家で晶子とベッドイン、なんて
考えちゃいないし。・・・それは嘘になるな。
「それじゃ、失礼します。」
「また明日から宜しくね。」
「「はい。」」
俺と晶子は同時に返事をして勝手口から外に出る。
夏の陽射しが眩しく、肌をじりじりと焦がすように熱い。空気がたっぷり熱気と湿気を帯びている。
今年は梅雨明けから暫くは割と涼しい日が続いたんだが、今じゃしっかり夏らしくなっている。
じっとり肌に纏わりつくような湿気と肌に突き刺さるかのような強い陽射し。これこそ日本の夏だろう。夏が涼しいと後で大騒ぎすることになるし。
「暑いですねー。」
「ずっと涼しいところに居たから余計に暑く感じるんだろうな。」
「家、熱気が篭ってそう・・・。」
「多分、そうだろうな。幾らエアコンでもそう直ぐには熱気は取れないから、暫くは汗だくで過ごすことになりそうだ。」
「立ってるだけで汗が出てきましたよ。ほら。」
晶子はそう言って俺に右腕を見せる。確かに白い肌にじわりと汗が滲んでいる。
「早く晶子の家に行こう。こんなにきつい直射日光の下に居たら日射病になっちまう。」
「そうですね。熱気が篭っているといっても外よりは家の方がまだましですから。」
俺と晶子は並んで店を後にする。すっかり葉だけになったタンポポの丘の合間にある小道を抜けて通りに出る。
学生は夏休みだというのにこの通りは相変わらずひっそりとしている。何だかゴーストタウンに来たみたいだ。
まあ、こんな暑い日に外へ出る人間といえば、海水浴などの行楽客か営業の人か、或いは暇人かのどれかだろうが。
俺と晶子は何時の間にか手を繋いでいる。
夏場に手を繋いで熱くないか、と問われたら、そんなことはない、と俺は迷わず答える。
陽射しの熱さと人肌の温もりはまったくの別物だ。
それに晶子の手は割とひんやりしているから、むしろ晶子の方が熱い思いをしているんじゃないかと思う。
「コンサート、成功すると良いですね。」
不意に晶子が言う。
「・・・ああ、そうだな。」
「新京市の公会堂なんてどんな場所かよく知らないですけど、1000人収容出来るんですから、クリスマスコンサートとは比較にならない規模になるでしょうね。」
「それに今度は、演奏は機械任せじゃなくて全部人間でやるんだ。1000人っていったら下手な集会を上回る規模。そんな観客の前で合同の練習回数も
決して多いとは言えないプロの人達と共演出来るのか、っていう不安が消せない。」
「大丈夫ですよ。」
「よく言い切れるな。」
「だってクリスマスコンサートだって、去年は100人以上入ったじゃないですか。概算ですけれどもね。それが10倍になるだけですよ。」
その10倍ってのが問題なんだが・・・。晶子は心臓が強いな。
こんな時は俺の方がどっしり構えてなきゃいけないところなんだろうけど、それが出来ないのが何とも情けない。
「それに・・・ああいう会場って、演奏する側は照明で照らされて明るいですけど、お客さんの方は照明を落とすじゃないですか。だから人が居るかどうかなんて、
それこそ意識しなきゃ分からないと思いますよ。」
「あ、なるほど・・・。」
確かに晶子の言うとおりだ。クリスマスコンサートでは店の照明を点けたままにしているから、よく見れば何処にあの常連客が居るってことが分かる。
だが、今回のような大規模なコンサートをやる会場は映画館と同じで、舞台は照明で明るいが客席は照明が落とされるから暗い。
何処に誰が居るかなんて、赤外線暗視スコープでも着けなきゃ分からないだろう。
「それにステージに立つようになって2年にも満たない私と違って、祐司さんは高校時代にバンドに入ってて何度もステージに上ったんでしょ?
その時はどうでした?」
「大体学校の体育館や音楽室でやったから、客の顔は丸見えだったな。最初は客の顔が怪獣に見えたもんだ。」
「それを思えば、今度はわざわざお客さんの顔が見えないようにしてもらうんですから、演奏に専念すれば良いんじゃないですか?」
晶子の言うことに口を挟む余地はない。
俺はどうも客の顔を意識し過ぎているようだ。見える見えないに関わらず、自分が出来る最大限のことをすれば良い。
桜井さん達だって、決して大人数とは言えない、でも常連も混じっている客を前にして演奏して報酬を得ているんだ。
そんな人達と実際昨日一緒に演奏出来たし好評も得られたんだから、マスターの言葉じゃないけど、もっと自分に自信を持って良いんじゃないか?
「祐司さん、バンドやってた割には慎重派ですね。」
「内輪じゃロックバンドのギタリスとにあるまじき大人しさ、ってよく言われたよ。ロックバンドのギタリスとっていうと、ヴォーカルと同じくらい
客を煽っても珍しくないのに、お前は大人し過ぎる、ってな。」
「今度のコンサートでは、前面に出るところでは思い切ってアピールしましょうよ。祐司さんの腕ならきっとお客さんをあっと言わせることが出来ます。
現に昨日の初セッションでも大好評だったじゃないですか。」
「ん・・・。そうだな。ちょっと自分をアピールしてみるか。」
「その意気、その意気。」
晶子は俺から手を離して、俺の腕を抱きかかえるように腕を組む。
半袖のブラウスを通じて感じる独特の柔らかさが、暑さで少しぼんやりしていた頭を一気にしゃきっとさせる。
別に初めて感じるもんじゃないし、生でその感触を堪能したことだってあるっていうのに・・・。俺の中に二つの人格があるんだろうか?
俺と晶子は厳しい夏の陽射しの下、腕を組んで歩く。
男なら大抵誰でも憧れるであろうシチュエーションで、腕に感じる弾力ににやついてもおかしくないところだが、俺は安心感を感じる。
俺の直ぐ傍に大切な人が居るという、金では決して買えない至高の安心感を。
蝉の声が遠く聞こえる。
今年の夏は普通の大学生じゃ恐らく味わえない貴重な体験をすることになる。
耳に届く蝉の声のようにやがては消える泡沫(うたかた)のものではなく、将来を見据えた重要な機会でもある。
まだ見ても居ない客にビビってる暇があったら、貴重で重要な機会を自分のものにすることを考えた方が良いな・・・。
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