雨上がりの午後

Chapter 113 未明に未来を思う

written by Moonstone


 結局サマーコンサートで演奏することになっている曲を全部演奏してしまった。
その後は音量の薄いジャズを背景に俺達一行と桜井さん一行が、ママさんや他の客とカクテルグラス片手に談笑した。
主要なテーマは二つ。今回の演奏の反省点、そして俺と晶子の関係だ。
特に後者は追及が厳しく、今までマスターと潤子さんにも秘密にしていた告白のシーンの詳細を白状させられる羽目になってしまった。
 閉店時間はあっという間にやって来た。
俺達はママさんに挨拶をしてから機材を片付けてマスターの車へ運ぶ。
疲れが極限近くまで溜まった身体には拷問に近いが、プロのステージみたいに専任のスタッフがやってくれるわけでもないから、自分達のことは
自分達でしなきゃならない。
 マスターと潤子さんがシートベルトを締めた後、マスターがエンジンをかけて車を通りに出す。
通りは閑散としていて、たまにサーキット場と勘違いしているらしい猛スピードの車が通り過ぎるだけだ。
「MORNING STAR」がBGMとして車内に流れる中、マスターは車を走らせる。

「約束どおり、バイト代は上乗せしておくからな。」
「はい。それにしても、疲れました・・・。」
「仕事は何でも体力勝負だぞ。ま、今日は初めてだから緊張感で疲れが倍増するのも無理はないがな。」
「二人共、今日は家に泊まっていきなさいよ。これから帰るのも防犯上あまり良くないし、早く休みたいでしょ?」
「はい。それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます。」

 俺は倦怠感に満ち溢れる身体を程好いクッションの座席に委ねる。そうすると余計に眠くなってきて、俺は腕組みをしたままうつらうつらしてしまう。
がくんとなったところで目が覚めて正面を向き、またうつらうつらする。その繰り返しだ。

「祐司さん、眠いんだったら寝て良いんですよ。」
「大丈夫。ちょっとうつらうつらしてただけだから。」
「祐司君、殆ど出ずっぱりだったから余計に疲れたんじゃない?時間はあるから寝ても構わないわよ。」
「殆ど出ずっぱりだったのは桜井さんや青山さんもそうですから・・・。」

 そうは言ってみるものの、この睡魔はかなり強烈だ。少しでも会話を止めたり思考を停止すると、あっという間に意識を飲み込まれてしまうそうだ。
眉間を親指と人差し指で強めに揉んで眠気を紛らわせようとするが、どうも思いどおりにそうなってはくれない。かなりしつこいな、この眠気は・・・。
 俺が眠気と格闘していると、不意に俺の頭に手が回り、左側に引き寄せられる。コツン、という軽い衝撃の続いて弾力感が伝わってくる。
俺は顔を上げようとするが、頭を押さえつけている手に阻まれてしまう。

「着いたら起こしますから、少し寝てください。」
「こ、これって・・・。」
「おっ、井上さんの肩枕か。祐司君、ありがたくその厚意を受け取っておきなさい。」
「・・・そうします。」

 ここでじたばたしても始まらないし、晶子の厚意を足蹴にするようなものだ。
俺は抗うのを止めて晶子の肩に全面的に頭を預ける。それを感じたのか、俺の頭を押さえていた手の感触が消える。
 急に睡魔が頭全体に広がってきた。俺はそれに抗しようとせず、すんなり睡魔の襲撃を受け入れる。
目の前の光景がどんどん暗くなっていく。耳に聞こえるBGMと車の走行音がどんどん遠くなっていく・・・。
駄目だ。もう限界・・・。

Fade out...


「・・・じさん、祐司さん。」

 何処からか優しい声が聞こえて来る。目の前がゆっくりと開けてくる。車のエンジン音がだんだんとはっきり聞こえて来る。
車の窓から見える景色は動いていない。どうやら店に到着したらしい。
俺は頭を晶子の肩から起こす。ちょっと首筋が痛いが、眠気は幾分和らいだ。

「悪い。すっかり寝てたな。」
「いいえ。それよりお店に着きましたから降りましょう。マスターと潤子さんは先に降りてますよ。」
「そうか。それじゃのんびりしてられないな。」

 俺は一度深呼吸をして眠気を一時的に追い払うと、ドアから車外に出て荷物の運搬に加わる。
機材はしっかり重めのものが残されている。
俺はシンセサイザーが入ったハードケースを両手に持って、開け放たれている勝手口から店内に入り、先にステージに上がってスタンドを組み立てていた
潤子さんの作業が終わったところで、シンセサイザーを取り出して所定の位置に置く。
 その足でギターを取りに戻ろうとしたが、晶子がソフトケースに収められたアコギとエレキ両方を持って来てくれた。
俺は晶子が手に持っているエレキを受け取ると−アコギの方は背負っているから大丈夫だと言って譲らなかった−、再びステージへ向かう。
 俺と晶子は、これも潤子さんが組み立てたと思う専用のスタンドにギターを並べて立てかける。
マスターは二つのサックスをとっくに搬入していたらしく、シンセサイザー周りの配線をしている。
マスターは潤子さんの協力を得て、手早く配線を元に戻していく。
機材の搬入やセッティングに慣れているあたり、年期の違いを感じさせられる。

「よし、完了だ。皆、お疲れさん。」

 配線を終えたマスターが言う。その一言で一時的に吹き飛ばした眠気がまた戻って来る。
だが、車中で晶子の肩を借りて寝たせいか、それほど強烈なものじゃない。黙っていればばれない程度のものだ。
一日を終えて、さあ寝るか、という状況とほぼ同じだ。

「お風呂の準備は出来てるから、祐司君と晶子ちゃん、先に入っちゃって。」
「はい。ありがとうございます。」
「何なら一緒に入っても良いのよ。」
「じゅ、潤子さん?!」
「あら、まだそこまで進んでないの?祐司君って結構奥手なのね。」
「いや、奥手とかそういう問題じゃなくて・・・。」
「じゃあ、どういう問題?」
「そ、それはその・・・。」

 言葉に詰まった俺の顎を、笑みを浮かべた潤子さんがさっと撫でる。
完全に子ども扱いだ。潤子さんには敵わないな・・・。俺は思わず苦笑いしてしまう。

「潤子さんって、男の人の扱いに慣れてますね。」
「祐司君みたいな実直なタイプは簡単よ。」
「おいおい。それじゃ俺が捻くれ者みたいじゃないか。」
「そうじゃない、って言い切れる?」
「勿論。健全健康な四十路男だ。」
「晶子ちゃん。こういう自称健全の男の人には注意した方が良いわよ。」
「潤子ー。」
「あら、怒っちゃった?」
「結構来るものがあったぞ。」

 そうは言うものの、マスターと潤子さんの顔には笑みが浮かんでいる。
流石は夫婦。冗談と本気を区別する余裕ってものがあるな。
俺と晶子がこの境地に到達するにはまだまだ時間がかかりそうだ。専ら俺の方が問題なんだが。

「さ、祐司君と晶子ちゃんはお風呂、お風呂。私達はその次入るから。」
「・・・マスターと潤子さんは眠くないんですか?」

 俺は聞きたかったことを尋ねる。
過去にジャズバーで夜行性生活を送っていたであろうマスターは兎も角、潤子さんはマスターと結婚する前は普通のOLだったという。
だから少なくともマスターほど夜行性じゃない筈だ。
なのに今日はこんな時間まで−さっき時計を見たら4時を過ぎていた−起きていて眠くないんだろうか?
そう思っていた俺に、潤子さんはけろっとした顔を向ける。

「私はどちらかと言えば夜行性だから。お店開ける時なんか、欠伸ばっかりしてるわよ。マスターは夜行性が根付いているし、私もそうだけど
今の生活リズムに慣れちゃったから多少夜遅くなっても平気よ。」
「そうですか・・・。俺もどっちかというと夜行性なんですけど、疲労感が・・・。」
「祐司君はバイトやってから機材の搬入に加えて、殆ど出ずっぱりで演奏したからよ。こんなこと初めてでしょ?」
「え、ええ。」
「慣れないことやって、それも肉体的にも精神的にも疲れることをずっとやったんだから疲れを感じて当然よ。今日はゆっくり休みなさい。」
「はい。そうさせてもらいます。」

 疑問が払拭された俺は、晶子と共に店の奥に向かう。
風呂に入る順番はじゃんけんでも何でも良い。
生憎というか、まだ一緒に入る勇気はない。ベッドの上と風呂場じゃ雰囲気的にも全然違うしな・・・。

「祐司さん、先に入ってください。」

 欠伸をしながら廊下を歩いていると晶子が言う。
そう言えば晶子はあまり眠そうな素振りを見せない。
ステージに上がった回数が全然違うとは言え、こんな夜遅くまで起きていて眠くないんだろうか?

「晶子は眠くないのか?」
「多少眠いですけど、少なくとも祐司さん程じゃないですよ。ステージに上がった回数そのものが違いますし、私は手ぶらですけど祐司さんはそれなりに
重みがあるものをぶら下げて演奏してたんですから、祐司さんの方が圧倒的に疲れてる筈ですよ。だから先に入ってくださいね。」
「・・・悪いな。」
「私、キッチンで待ってますから、上がったら呼びにきて下さい。」
「分かった。」

 キッチンに入ったところで、晶子は椅子に腰掛け、俺は風呂場へ向かう。
幾らステージに上がった回数が違うとは言え、晶子もこんな時間まで起きていたら眠くない方が不思議だ。さっさと汗を流して上がるのが賢明だな。
 俺は風呂場に隣接する脱衣所でさっさと服を脱いで風呂に入る。
身体を洗うスポンジも俺と晶子それぞれの分が用意されていたりする−クリスマスコンサート前の泊まり込みで風呂に入るからだ−。
最初に髪を洗って、次に汗でべたついた感のある身体を洗う。
手早く洗って湯で泡を洗い落としてさっぱりしたところで湯船に浸かる。そこで思わず溜息が出てしまうのはご愛嬌。
 まったく凄まじい一日だったな・・・。
これが大学のある日だったら風呂なんてどうでもいいから兎に角寝させてくれ、と言うところだろう。否、そこまでいく以前にぶっ倒れてるかもしれない。
俺ってあんまり体力ないよなぁ・・・。こういう状況でつくづくそれを実感する。
もっと体力つけないと、ジャズバーで演奏なんてやってられそうにないな、こりゃ。
 さて・・・。あまり晶子を待たせるわけにいかない。そろそろ上がるか。
烏の行水そのものだが、晶子のことが気になって仕方ない。
俺は風呂から上がるとこれまた予め用意されていたバスタオルでさっさと身体に残った水滴を拭い、服を着る。
服に汗が染み込んでいるのがちょっと嫌だが、泊まらせてもらう上に風呂まで用意してもらったんだから文句は言えない。
 水分を吸ってしっとりした髪を手櫛で適当に整えながらキッチンに入ると、晶子がマスターと潤子さんと談笑していた。
ほっとすると同時に、何を話していたのか気になる。

「祐司君、もう上がったの?相変わらず早いわね。」
「昔から烏の行水ですから。」
「ベッドの上で早いのは、彼女を満足させられんぞ。」

 何?!と思った次の瞬間、潤子さんがマスターの頭を引っ叩く。
こういうシーン、前にもあったような・・・。

「晶子ちゃんが居る前で妙なこと言うんじゃないの、って前にも言ったでしょ?!」
「痛・・・。相変わらず強烈なツッコミだな。」
「ゆ、祐司さんは早くないですよ。十分満足させてくれるんですから。」

 晶子の言葉でキッチンの時間が止まる。
・・・俺の身体の硬直が解けるのとほぼ同時に、マスターと潤子さんが目を輝かせて俺と晶子を交互に見る。
晶子の奴、自分で二人分の墓穴掘ってどうするんだよ・・・。俺は溜息を吐いて俯き、右手で顔を覆う。

「え?何々?晶子ちゃん、祐司君ともうそこまで進んじゃったわけ?」
「ほほう。祐司君も奥手な風で意外にやるねぇ。」
「・・・。」
「え、あ、あの、その、何て言うか・・・。」

 指の隙間から、晶子が頬を紅くしてうろたえているのが見える。今更うろたえたところでもう遅いよ・・・。
俺と晶子の関係の深さが完全にばれてしまった。それも墓穴を掘るという最悪の形で。
もう何をどう弁解しても通用しないのは火を見るより明らかだ。

「ちゃんと避妊してる?」
「・・・一応安全日にしてますから。それに・・・今までそういうことしたのは3回ですし。」
「3回?何だ、異常に少ないな。何か事情でもあるのか?」
「いや、別に事情があるわけじゃなくて、双方のタイミングが一致した時だけにしてたらそうなっただけですよ。」

 言い訳が通用しないと悟った俺は晶子に代わって説明する。
何か特別な状況になった時しかしてないこと。
俺の方から求めることはしてないこと−晶子の方に女特有の事情があるし−。
身体だけの関係にならないように注意していること。
 した時の状況やその時の回数−そこまでは覚えちゃいないが−以外は洗いざらい吐き出した。
どう誤魔化そうが通用しない以上、説明すべきことはきちんと説明しておいた方が良いだろう。

「まあ、二人共大学生だし、そこまで関係が深くなっても別に不思議じゃないけどね。ただ、前にも言ったと思うけど、子どもを出汁にした関係には
ならないでね。親は子どもを選べても、子どもや親を選べないんだから。」
「はい。分かってます。」
「それと、祐司君は節度があるみたいだからあんまり心配要らないと思うけど、やっぱり身体だけの関係にはならないでね。結婚してからならまだしも、
婚約もしてないのにただセックスするだけの関係になったら、もう動物と同じよ。ううん。動物は発情期しかしないから、動物以下かもしれない。」
「その辺は弁えてるつもりです。」
「祐司さんとそんな関係になりたくないですから。」
「ま、君達二人ならそんなに心配は要らんか。くれぐれも妊娠には注意するようにな。」
「「はい。」」
「じゃあ晶子ちゃん、お風呂入ってらっしゃい。」
「はい。」

 晶子が俺の横を小走りで駆け抜けていく。俺は晶子が座っていた席の隣の椅子に腰を下ろす。
潤子さんがコップに麦茶を注いで、氷を幾つか入れて俺の前に置いてくれる。
俺はいただきます、と言ってからコップの麦茶をくいと飲む。独特の香りと味が喉を通り抜けていく。風呂上りだけに爽快だ。

「祐司君。どうかな?ミュージシャンになるイメージは掴めたかい?」

 俺がコップを置いたところでマスターが話し掛けてくる。
今日は桜井さんの口から初対面にも関わらず突っ込んだ話が聞けた。そして家族としてのライフスタイルに固定概念は禁物だということも分かった。
とても有意義だったことには間違いない。
 ただ、自分が桜井さんのような立場になったらどうなるか、どうするか、まではまだいまいち実感が湧かない。
果たして晶子はミュージシャンの俺との生活をどう思うのか、幾ら自分自身夜行性とは言え、生活のために小宮栄まで殆ど毎日夜に出かけて朝に帰る生活が
出来るのか、まだよく分からない。

「桜井さんの話で生活の様子はよく分かりましたけど、自分がそうなったらどうなるか、どうするか、ってところまではいまいち実感が湧かないです。」
「まあ、明の家庭は子どもが居ても上手くやっていってるモデルケースだからな。それが必ずしも君と井上さんにぴったり当てはまるとは限らない。
ライフスタイルやそれに対する考え方なんて、それこそ十人十色だからな。」
「ええ・・・。」
「今日の連中みたいな、ジャズバーなんかを点々と回る、言い方は悪いが裏街道を歩くミュージシャンも居れば、CDを出してこれも表現としてはあまり
正しくないが、表街道を歩くミュージシャンも居る。そのどちらが良いか、ってことはどうかな?」

 難しい質問だな・・・。マスターの言う表街道を歩くミュージシャンは人に大なり小なり名前を知られる存在になる可能性があるが、事務所や
レコード会社との契約や何やらで束縛されるだろう。
逆に裏街道を歩くミュージシャンはある程度の自由と引き換えに、不安定な収入を余儀なくされるだろう。
どっちが良いとも言えないし、まだそこまで考えていないというのが正直なところだ。

「ああいうスタイルも良いかな、とは思うんですけど、CDを出すようなミュージシャンへの憧れもありますし・・・。まだどちらが良いか、てことは
断定出来ないです。」
「ふむ・・・。祐司君は随分慎重だな。それが井上さんとの付き合いにも表れてるみたいだが。」
「自分の将来のこととなれば当然よ。祐司君の親御さんだって、折角息子を4年間、しかも名立たる新京大学に通わせたのに、それとはまったく関係のない
道を進む、それも世間様で言うところのまともな職業に就かないって聞いたら、恐らく何らかの軋轢が生じるわよ。その点、貴方は恵まれてたけど。」

 潤子さんがマスターの前にあった空のコップに麦茶を注ぐ。

「まあな。高校出てからサックス一本で生きて行くんだ、って宣言して田舎を飛び出したからな。俺の場合。親も半ば説得を諦めてたし、説得したところで
俺が言うことを聞く人間じゃないって分かってただろうから。」

 へえ・・・。マスターは高校卒業してから直ぐに音楽の道に飛び込んだのか。どうりで玄人裸足の腕前なわけだ。
そう言えばあの店のママさんのミリンダさんがマスターとは20年来の付き合い、とか言ってたな。
でも、18歳かそこらで右も左も分からない世界に飛び込むなんて、勇気があるなぁ・・・。

「マスターは怖くなかったんですか?」
「何が?」
「自分の腕一本で未知の世界に飛び込んで生きていけるのか、って。」
「そりゃ不安もあったさ。でも、ミリンダさんと知り合って演奏場所と報酬を用意してもらったり、俺と同じように高卒で直ぐに音楽の道に飛び込んだ明とかと
知り合って一緒に演奏するようになって・・・。俺は恵まれてたな、本当に。それに、自分で決めたことだから必ず自分でやっていく、っていう意地もあったしな。」

 意地か・・・。俺に一番欠けているのはそれかもしれない。
自分がこう、と決めたことを貫き通すことがなかなか出来ない。
その典型が晶子との付き合いだ。まあ、あれは幸いにも上手くいったから良いんだが。

「腰を落ち着けることにしたのは、潤子と結婚してからだよ。ミュージシャンとして生き続けるのも一つだが、潤子と一緒に過ごせる時間を多く
持ちたい、っていう気持ちの方が強くなってね。それに音楽と親しめる喫茶店を持ちたい、っていう夢もあったし、潤子もそれに賛同してOL辞めて
調理師の免許取ったからな。明達には反対されたけど、結局は温かく見送ってくれた。」
「・・・良いですね。二人の意思がぴったり重なり合ってて。」
「祐司君も井上さんと将来について話し合う時間を持つべきね。今回のコンサートを一つの契機にして、そろそろ自分の進む道を絞った方が良いんじゃないかしら?
決めるまではいかなくても道を絞るのに早いに越したことはないわよ。」
「そうですね・・・。」

 俺は呟くように応えて、残りの麦茶に口を付ける。
確かに俺も気付けばもう3年生。研究室に仮配属になり、先生達の口からも「就職」の二文字がちらつくようになってきた。
決して遠い将来のことじゃない。日に日に現実味を帯びて生きている切実な問題だ。
 俺と晶子は時々将来について話し合う。だが、晶子はあくまで俺をサポートする形での選択をすると言う。
晶子の将来なんだから晶子はもっと自由に決めても良い筈だ。
俺がそう言うと、決まって晶子は「パートナーを支える形も一つの生き方ですよ」と言う。桜井さんが言っていたことが重なる。
 確かに今回のコンサートは一つの契機になるだろう。
言い方は悪いがこれで弾みをつけて音楽の道に飛び込むのか、あくまで堅実な−これも適切な言い方じゃないが−道を進むのかをそろそろ決めるべきだろう。
選択によっては親との軋轢が生じるだろう。
それを承知で音楽の道に進めるのか?
幾ら自分の人生だからといっても、大学にまで通わせて貰っているという負い目−これも表現が悪いが−もある。
俺の選択次第で晶子の将来まで決めてしまいかねない以上、俺が責任を持って自分の進む道を選択する必要があることに間違いはない。
 緩やかな沈黙の時間が流れていく。
マスターも潤子さんもあれこれ俺に言うことで混乱させたり急かしたりするつもりがないんだろう。俺としてもその方がありがたい。
ちょっと温(ぬる)くなってきた麦茶をちびちびと飲みながら、ぼんやりと将来を考える。
本当にどうしたら良いんだろう?あくまで自分中心でいくか、親や晶子のことを多少なりとも考えるべきか・・・。
難しい問題だな、なんて暢気に構えていられる時間も限られてきている。本気で考える時間を持った方が良さそうだ。
今日は多少覚めたとは言え眠気がかなり強いから、この辺で止めておいた方が良いだろう。眠気でボケた頭で考えたところで良い結論が出せるとは思えない。

「お待たせしました。」

 晶子がキッチンに戻って来る。茶色がかった髪がしっとりとして、光沢を帯びて一部が頬にくっ付いているのが何とも艶っぽい。
晶子が俺の隣に座ると、潤子さんが晶子の前に置いてあった空のコップに氷と麦茶を入れて再び晶子の前に置く。
晶子はいただきます、と言って麦茶の入ったコップを傾ける。

「遅くなってすみません。」
「祐司君とは正反対ね。晶子ちゃんは髪が長いから、洗ったり拭いたりするのに時間がかかるから余計そうなるんだろうけど。」
「髪が長いと色々出来るんですけど、手入れに時間がかかるのが難点なんですよね。」
「晶子ちゃんもやっぱりそう?私もそうなのよ。特に拭くのに時間がかかるのよね。」

 俄かに晶子と潤子さんが髪談義で盛り上がる。
二人共髪が長いのが特徴なんだが、それ故に抱える問題も同じだと分かると尚更親近感が湧くんだろう。
俺も髪を伸ばしてみようか、と以前思ったことがあるが、想像してみるとどうも似合いそうにないし、洗うのが鬱陶しそうで止めにしたことがある。
男のロングヘアーは一部の例外を除いて似合わないことが殆どだし。
 風呂に入って落ち着いたせいか、眠気がまた強くなってきた。
俺は麦茶を飲み干して氷を噛み砕いて紛らわせようとするが、氷を噛むこと自体がかったるくなってきた。
こうなるともう大人しく寝るのが一番だな。
俺はごちそうさまでした、と言って空になったコップを置いて席を立つ。

「眠いんで先に休ませてもらいます。」
「部屋は何時ものとおりね。布団は敷いてあるから。あと、冷房は付けっ放しで構わないわよ。」
「はい。それじゃお休みなさい。」
「お休み。」
「お休みなさい。ゆっくり休んで頂戴ね。」

 俺がキッチンを出たところで、背後でガタガタと音がしてなにやらやり取りが聞こえた後、晶子がやって来る。
俺が寝ると言ったことで、自分も行かないと、と思ったんだろう。

「何も俺に合わせることないんだぞ。」
「私も眠くなってきたからです。」

 晶子はそう言うが、さっきの物音ややり取りを聞けばそれが真っ赤な嘘だということは簡単に推測出来る。
勿論悪い気はしないし、可愛いところがあるな、と再認識させられる。
 背後からマスターと潤子さんの冷やかしは飛んでこない。
俺達が深い関係になっていることが分かった以上、今更冷やかしてもつまらない、とでも思っているんだろうか。
俺は晶子と手を取り合ってキッチンを出て廊下を歩き、階段を上っていく。
 2階に辿り着いたところで手を離そうとするが、晶子が手を離そうとしない。
何だ?・・・まさか今からしたい、なんて言い出さないだろうな?
物音を立ててしまう・・・否、それ以前に俺が眠くてまともに相手出来る状態じゃない、って、それより前に場所が悪い。

「・・・どうしたんだ?」
「一緒に寝ませんか?」

 晶子のストレートな誘い−と言うんだろうか−に、俺はドキッとする。
やや上目遣いの晶子を見ていると、拒否する気が失せてくる。というか、拒否すると悪い気がしてならない。この仕草は反則だよなぁ・・・。

「ん・・・良いよ。寝るのはあっちで良いか?」
「はい。」

 晶子が了解したことを受けて、俺は自分の寝る部屋−これまで泊まり込みの度に自分に割り当てられた部屋だ−に晶子の手を引いて向かう。
ドアを開けると多少熱を帯びた空気が漏れてくるが、思ったほど暑くない。
晶子がドアを閉めたところで、俺は枕元に置いてあるリモコンを手に取って電源ボタンを押す。
エアコンが微かな振動音を立てながら動き出し、次第に心地良い冷気を吐き出してくる。
 俺はベルトを緩めて−別に変な意味があるわけじゃない−掛け布団を捲る。
俺が右寄りの位置に横になると、晶子がその隣に入ってくる。
冷房が効き初めて来たかな、という空気を感じながら、俺は掛け布団をかけて横になる。その途端に晶子が擦り寄ってくる。本当に猫みたいだ。
俺は晶子の頭を抱き寄せて自分の肩口に乗せる。

「今日の祐司さん、凄くカッコ良かったです・・・。」

 晶子の囁きが耳に潜り込んでくる。眠りの世界に半ば吸い込まれていた俺は、急に現実世界に引き戻される。

「殆ど休まずにプロの人達に混じって遜色ない演奏をするから・・・。私、本当に凄いなぁ、って思いながら見てたんですよ。」
「そう聞こえたなら演奏した甲斐はあったかな・・・。緊張しっ放しだったけど。」
「ずっと緊張してたんですか?」
「だって相手はプロだぞ?自分の腕一本で生きてる人達に、大学の勉強の合間にギター弾いてるような俺がまともに太刀打ち出来るとはとても思えなくてさ・・・。」
「でも、祐司さんは立派に演奏を披露してましたよ。」
「緊張感があったからかえって良かったのかな・・・。何にせよ、こんなに疲れるとは思わなかった・・・。」

 そう呟いたところで意識が闇の淵に急降下していく。耳元で晶子が何か言ったような気がしたがよく分からない。
晶子には悪いが、今日はもう寝させてくれ・・・。
ん?何か頬に触れたような・・・。

Fade out...


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