雨上がりの午後
Chapter 112 出会いとセッション−2−
written by Moonstone
カウンターの方を見ると、ママさんが満足げな笑みを浮かべている。どうやら俺のギターはそこそこ好評を得られたようだ。
初対面でいきなりセッションということでどうなることかと思ったが、終わってみれば割と呆気ない。
でも、成人式会場のスクランブルライブ以来約半年ぶりの、しかも初対面の人達とのセッションが一先ず上手くいったという充実感は格別だ。
「次は何にする?」
「今回ヴォーカルが入るだろ?となれば『Fly me to the moon』をしたい。」
桜井さんの問いかけに青山さんが応える。
「Fly me to the moon」となれば、当然晶子が加わる。
それに今までシーケンサ任せだったストリングスやピアノなんかも生演奏になる。
晶子にとってはまさに正念場になるだろう。
その晶子は何処に・・・居た。マスターの陰に隠れるように立っている。
「Fly me to the moon」という名詞が出たことで自分の出番が来たと察したらしく、その表情は何時になく真剣みと緊張感に溢れている。
「それじゃ折角だから俺はウッドベースにするか。賢一と大助はそのまま。潤子さんはストリングス、安藤君はギターよろしく。」
「はい。」
「了解。晶子ちゃん、皆さんに歌声を聞かせてあげて。」
「はい。」
晶子はマイクスタンドの前に立ち、電源スイッチをONにする。
後ろではベースやドラムやピアノやストリングスが適当にフレーズを奏でている。
俺はさっき演奏したばかりだし、今度は裏方だからあまり緊張していない。緊張感に慣れたと言った方が適当か。
それより晶子が大丈夫なのかが気がかりだ。
俺は一応高校時代にステージ経験と生演奏で人間だけのセッションの経験があるが、晶子はただでさえ生演奏とのセッションの経験に乏しい。
しかも今回は初対面の人達とのセッションだ。
緊張して声が出ない、とかなったら大変だが・・・今は晶子のステージ度胸に託すしかない。
「よし、潤子さんのイントロで開始。ヴォーカルが終わって16小節でフィニッシュということで。」
「はい。」
「私からね。分かったわ。」
潤子さんは真剣な表情でキーボードに向かう。他の人達も続々と演奏準備に入る。俺も前を向いてフレットに指を当てる。
晶子はマイクの上で両手を組んだ何時ものスタイルで身動き一つしない。大丈夫だろうか・・・。
柔らかい、しかし津波のような勢いを持つストリングスの音色が響き渡る。
潤子さんが両手を使って演奏しているんだろうが、音の厚みが凄い。それに実際にオーケストラが演奏しているような雰囲気を醸し出している。
流石は潤子さんだ。次は俺も入る。音をよく聞きながら入るタイミングを計る。
俺はストロークでボサノバのバッキングを刻む。ストリングスが控えめになった分、俺のギターがよく目立つ。
バッキングとは言え、気は抜けない。フレットの上を動く指を見ながら、丁寧にストロークを重ねる。
ドラムやベースが入ってくる。流石と言うかリズムの崩れはない。
ひと安心すると同時に不安が膨らんでくる。
晶子は何時ものスタイルのまま微動だにしない。緊張で固まってしまってるんじゃないだろうな?
だが、晶子が歌い始める地点は確実に近付いてきている。
透明感のある柔らかい歌声が朗々と店内に広がり始める。
・・・何だ。晶子は晶子なりに入るタイミングを窺ってたのか。これで安心して演奏に専念出来る。
晶子の声は何時ものように、否、何時も以上に通りが良くて、歌の雰囲気に合わせるかのように切なげに響く。
そこにストリングスとピアノがジャズっぽく絡んでくる。
ストリングスはダイナミクス(註:音量の差)を、ピアノはアタック(註:発音の立ち上がり)や細かいフィルを活かして、けれどヴォーカルの邪魔にならないように
自己主張している。
本当に潤子さんは一体何時練習したんだろう?
普段ピアノオンリーだからタッチが違うシンセサイザーには戸惑うと思ったんだが、余計な心配だったようだ。
晶子の歌が一旦終わると、ピアノソロが始まる。
アタックの違いを生かしたジャズの匂いの濃いソロで、俺はバッキングをしながら聞き入る。
流石にジャズバーで演奏しているだけあって、演奏がジャズの匂いを濃くするみたいだな。勿論、曲の雰囲気に合っているから良いんだが。
流れるような、歌うようなピアノソロが終わると、再び晶子の歌が入る。
透明感の中に張りのある、よく通る声は聞いていて気持ちが良い。普段以上に熱が篭っているのが分かる。
晶子もウィスパリングだけでなく、こういう見た目からはちょっと想像がつかないような張りのある声で歌うことも身につけたようだ。
晶子の歌が終わると、ストリングとピアノが複雑に絡み合うフレーズが始まる。
寄せては返す波のようにダイナミクスを生かしたストリングスと、ジャズの香りたっぷりのピアノの細かいフィルが見事な調和を聞かせる。
プロの国府さんは兎も角、潤子さんは凄いな・・・。本当に何時練習してるんだろう?
聞き入ってる場合じゃない。フィニッシュに向かって俺はカウントダウンを始める。
そして高音の響きを生かしたストリングスの白玉でフィニッシュする。
ドラムはクラッシュシンバルを軽く叩いただけ。俺もストロークを1回入れただけ。
ピアノもジャズみたいに細かいフィルを入れるかと思いきや、複雑なコードの白玉で静かに締めくくる。
音が消えると、割れんばかりの拍手と歓声が送られる。
俺は右腕で額の汗を拭う。晶子はマイクの電源を切って小さく溜息を吐く。もっと大きな溜息を吐くかと思ったんだが、それほど緊張していなかったってことか?
晶子もなかなかどうして、ステージ度胸が身についているじゃないか。普段客の前で歌っているせいか、それとも元々心臓が強いのか。
「良いね。理想の形だった。」
「そうだな。特に歌が綺麗だった。」
桜井さんと青山さんが短く評する。
青山さんが率直に、綺麗だった、と評価した晶子のヴォーカルは、プロの耳にも十分通用するものだったようだ。
その晶子は客席に向かって一礼すると、また歌うスタンバイに入る。何時でも来い、という意思表示だな。
「潤子さん。彼女、なかなか良いですね。」
「そりゃそうよ。うちの看板娘だもの。お陰でお店は連日大繁盛よ。」
「なるほど・・・。声も透明感がある一方で張りがあったし、通りも良かった。ヴォーカルとのセッションは初めてだけど、これは思わぬ収穫だ。」
「私も気持ち良く演奏出来ましたよ。彼女、ポップスだけじゃなくてジャズにも合う声を持ってますね。」
潤子さんと桜井さんの評価に、見事なピアノソロを聞かせた国府さんが評価を加える。
国府さんも自分の演奏をしながらしっかり晶子の「品定め」をしていたようだ。こういう余裕があるあたり、流石はプロだと思わせられる。
「それじゃ、そろそろ俺も混ぜてもらおうかな。」
それまで壁に凭れて演奏を聞いていたマスターが、アルトサックスを下げてステージに上がってくる。それだけで客席からどよめきが起こる。
かつてジャズバーを席巻したということは、言わば伝説となって店に残っているんだろうか?
マスターのサックスを聞く機会が多い俺は、実は本当に幸運なのかもしれない。
「文彦が上がってきたってことは何だ?『BIG CITY』をご希望か?」
「ご名答。そろそろ俺も演奏したくなってきたもんでね。」
「それじゃ井上さんは勝田君と一緒に一旦休憩ということで。」
「はい。」
歌うスタンバイに入っていた晶子は、別段不満そうな顔を見せることなく、さっさとステージを下りて行く。
俺は曲名を聞いて、急いでギターをアコギからエレキに切り替える。
この曲ではサックスとのユニゾンもあるし、長いバッキングもある。あまり目立たないけど油断ならない曲だ。
特にピアノとサックスにとっては非常に難度の高い曲だ。
俺は店で聞いたが、マスターのサックスは実に見事なものだった。
ピアノは潤子さんが担当したが、これまた見事だった。本当に何時練習してるんだろう?
それは兎も角、さっきジャズの香りたっぷりなソロを聞かせてくれた国府さんがどんな演奏を聞かせてくれるか、注目したい。
「それじゃ、流れは原曲と同じということで。」
「了解。」
「分かったわ。」
「分かった。」
「よし。」
「はい。」
桜井さんの提案を全員が承諾する。いよいよ「BIG CITY」の始まりだ。
目立たなくても聞かせるところはきっちり聞かせる。それがプロだということを、2曲の演奏を通じて教わった気がする。
この曲のスタートは決まっている。タムとスネアによるドラムの1拍分のフィルからだ。
俺はエフェクターがナチュラルトーンになっているのを足で−フットスイッチだから−確認して、演奏開始を待つ。
最初の8小節はナチュラルトーンによる単音バッキングだ。
ドラムが鳴る。いよいよ演奏開始だ。
潤子さんのフルートに似たシンセ音がイントロのリフを奏で、チョッパーベース(註:親指で弦を弾くベースの奏法)の低音が効いたベースの中、
俺は単音のバッキングを奏でる。
ぱっと効いただけでは目立たないが間違えると目立つという、なかなか厄介な個所だ。それほど難易度が高くないのが救いと言えば救いか。
イントロが終わりに近付くとマスターがサックスを構える。メロディの開始が近い。
メロディは軽くエフェクトを効かせてサックスとユニゾンする。俺はフットスイッチに足を伸ばし、切り替えのタイミングを計る。
シンセのベル音が最後の音を奏でたのを合図に、マスターと俺がメロディを奏で始める。
テンポはミディアムだが音が割と詰まっていて結構神経を使う。
マスターとのユニゾンはこれまでの冬のコンサートやリクエストタイムで経験してるから、変な緊張感は感じない。
それにしても、マスターのサックスは何時も以上にブロウが効いて艶っぽく聞こえる。
同じ楽器の筈なんだが・・・。奏法を微妙に変えているのか、それとも演奏している場所の雰囲気がそう聞こえさせるのかのどちらかだろう。
マスターのサックスの邪魔にならないように、音量を少し控えめにしてマスターとユニゾンする。
サビに突入する。ここでは俺がマスターの奏でるメロディより3度下げて演奏する。サックスに気を取られて演奏を間違えないようにしないと・・・。
しかし、何度聞いても良い響きだ。
この曲はサビの部分がその名のとおり都会的でロマンチックだ。ジャズバーという場所もあって、雰囲気が余計に盛り上がって聞こえる。
再びAメロに戻ってマスターとユニゾンし、前半のキメの部分を演奏する。
ここでは全員の息が揃うことが絶対条件だ。俺は全てのパートの音を聞いて、テンポを崩さないように演奏を続ける。
クラッシュシンバルを合図にしてベースソロが始まる。
この曲のベースソロは全部で32小節と長い。
低音を響かせ、同時に細かいフレーズを弾きこなさなければならないという、ベーシストにとっては歯応えのある場面だ。
しかし、桜井さんのベース音はハイハットのワークに乗って軽快に音を刻んでいく。
ベースソロにシンセ音が加わる。だが、ベースはシンセ音に飲み込まれることなく、逆にその存在感を際立たせて細かいフレーズを連ねる。圧巻だ。
これが終わると、いよいよピアノソロだ。俺はバッキングに専念する。
全員によるユニゾンが決まった後、直ちにピアノソロが始まる。
・・・違う。潤子さんの演奏とは明らかに演奏のタッチが異なる。
潤子さんがさらさらと流れる清流とするなら、国府さんは複雑な流れを見せる渓流といったところか。
アタックの強弱をより強調した感がある。しかし、それが耳障りに感じないところはやはり凄い。
都会の夜景を思わせる煌くようなフレーズが、すらすらと宙に書き連ねられる。
見事だ。高音部を中心にしたフレーズが耳に心地良い。
俺の背後で演奏されているからその様子は分からないが、ソロに隠れるように白玉のコード音が聞こえるところからして、片手で演奏しているんだろう。
これだけのフレーズを片手で演奏できるんだから、余程指が柔軟なのか練習を積んだのか・・・。何れにしても凄い。さあ、この次はマスターだ。
また全員で決めると、マスターが一段とブロウの効いたフレーズを奏でる。
音が伸びるところでは十分伸ばして、細かく切るところは切る。
そんなメリハリの効いた演奏と音域をフルに使ったフレーズが重なり合い、絶妙なハーモニーを聞かせる。これがかつてジャズバーを席巻した男の腕前か・・・。
ソロが終わりに近付くに連れて、マスターのサックスがより艶っぽさを増す。
リフを繰り返すような一見単純なフレーズだが、マスターは一音一音にまさに心を込めて、次に控えているサビに向かって着実に進んでいく。
雰囲気はどんどん盛り上がってくる。さあ、マスターとの変則ユニゾンだ。
マスターの艶っぽいサックスに控えめにギターを乗せる。本当に都会の夜景を見ているような気分にさせてくれる。
これだけのフレーズを生み出せる作曲能力もさることながら、それを現実のものにする奏者の能力も凄い。
普段コーヒーを沸かしたり洗い物をしている様子からは想像もつかない迫力だ。
再びAメロに戻ってマスターとユニゾンした後、ベースソロに入る前のフレーズに突入する。いよいよ最後だ。
十分にタメて・・・フィニッシュ!
・・・決まった。最高の形で決まった。会心の出来栄えだと自分でも思う。
それを証明するかのように、大きな拍手と歓声が津波になって押し寄せてくる。
マスターは汗を拭うことなく客席に向かって一礼する。俺もそれに倣って一礼する。脇役だったがこういうのは欠かさないに越したことはない。
「うん、良い感じだった。流石は文彦。サックスの腕はまだまだ衰えてないな。」
「一線を退いても、自分の店で毎日吹いてるんだ。そう簡単にご隠居出来るか。しかし、明と賢一の腕はさすが現役って感じだったな。」
「文彦に負けちゃ居られないさ。一応この腕で飯食ってるんだから。」
「明に同じく。プロとしての意地と誇りってもんがありますよ。」
「ははは。確かにそうだ。」
マスターが笑顔を見せる。髭面の笑顔が今は輝いて見える。
「しかし、初のセッションとは思えないほど上出来だな。そっちも相当練習してきたのか。勿論、個人の技量もあるんだろうけど。」
「大助。ギターとヴォーカルも合格点だろ?こっちもそっちに負けない面子が揃ってるんだ。セッションを崩すようなことはしないさ。」
「なるほどね。」
流れる汗を拭わず、青山さんがあくまでクールに感想を言う。
素っ気無く聞こえるが、どうやら俺と晶子の技量は、青山さんのような自分にも他人にも厳しい評価に耐えうるものだったようだ。
「それじゃ、次は何にする?」
「今まで脇役だった潤子さんのピアノが聞きたいですね。」
「賢一、それ名案。では潤子さんにお願いしましょうか。」
桜井さんと国府さんが潤子さんを指名する。その潤子さんはきょとんとしている。
潤子さーん。貴方が指名されたんですよ。分かってますかー?
「大助はどうだ?」
「異議なし。」
「光は?」
「是非聞きたいです。」
「というわけでこっちは全員賛成。そっちは?」
桜井さんがこっちには話を振ってくる。答えは・・・決まってるよな。
「俺は異議なし。」
「俺も異議はありません。」
「私も同じです。」
「というわけで本人を除いて全員賛成だ。潤子、出来るか?」
「あ、私?良いわよ。曲は何が良いかしら?」
潤子さんはマスターに言われて、ようやく話が自分中心になっていることに気付いたようだ。潤子さん、結構のんびりしたところがあるからな。
しかし、自分の出番と気付くやリクエストに応えようとするなんて、余程自信があるんだろう。
まあ、普段弾かないシンセサイザーを弾きこなしたくらいだから、俺が心配する必要なんてないか。
「やっぱり『energy flow』だな。知名度の面から言っても。」
「それじゃ『energy flow』で良い?」
「「「「「異議なし。」」」」」
「じゃあ、国府さん、ピアノお借りしますね。」
「あ、はい。どうぞ。」
国府さんが席を立ってステージから降りると、代わってシンセサイザーの前からピアノの前に潤子さんが移動する。
俺も含めて全員ステージから降りた。ステージでは潤子さんがピアノの鍵盤の上に手を翳すように構える。
さっきまでざわついていた客席が急速に静かになっていく。店に居る客の視線と意識が全て潤子さんに集中していくのが分かる。
ステージに一人取り残されて、俺達や桜井さん達、更に客の視線と意識を全て受けても、潤子さんの顔には緊張感に伴う強張りはまったく見られない。
何時もキッチンで見せるおっとりとした、それでいて真剣な眼差しで鍵盤を見詰めている。
弾き始める機会を計っているんだろうか?俺は次第に何だかじらされているような気分になってくる。
と思ったら、ピアノの音が響き始めた。高音部のメロディと低音部のアルペジオが絶妙に絡み合い、静かに、そして柔らかに歌う。
国府さんとはやっぱりタッチが違う。どっちが良いとかいう問題じゃない。潤子さんは潤子さんの持ち味をくっきり出しているということだ。
フレーズは柔らかい雰囲気の部分に入る。ここは潤子さんの持ち味が存分に発揮されているように聞こえる。
柔らかく、優しく、包み込むようなピアノの響きが店内にこだまする。
赤ん坊に戻って子守唄を耳元で囁かれて眠りの世界に入るような感じだ。
思わず目を閉じてしまう。耳に全神経を集中させようとする無意識の反応だろうか。
高音部で繰り返されるリフとアルペジオが耳に心地良い。
高音部だから甲高く聞こえても不思議じゃないのに、朝露が新緑から零れ落ちるような、新鮮で清涼な雰囲気が醸し出される。
マスターと結婚する前、単なる−と言っちゃ失礼だが−OLをやってたなんて信じられない。
引き続き高音部での演奏が続く。
こうして目を閉じていると、波一つない水面に雫が次々と落ち、真円の波紋を広げるようなイメージが湧いてくる。
潤子さんの腕は一段と冴え渡っているような気がする。凄い。本当に凄い。
そしてクライマックスに近い朗々とした華やかな印象のフレーズが展開される。今まで閉じていた蕾が一気に花開くようなイメージだ。
音の花が浮かんでは残響を残して消えていく。音の花火とはまさにこのことか。
ついにエンディングだ。先程とは一転して静かに、優しくフレーズが奏でられる。華麗な花火の後の静けさと言えば良いだろうか。
最後のゆっくり階段を上っていくようなフレーズの後、高音部と低音部を使った白玉が優しい響きを残して消えていく。
音が完全に消えた次の瞬間、大きな拍手と歓声と指笛の花束が潤子さんに手向けられる。俺も目を開けて限界いっぱいまで手を叩く。
潤子さんは席を立ち、深々と一礼してステージを下りる。額にじんわり汗が滲んでいるものの、表情は普段のおっとりとしたものと何ら変わらない。
たった一人での演奏なのに、緊張感に束縛されなかったんだろうか。
「やるわねぇ、潤子ちゃん。」
「ママさん、ありがとう。」
「文ちゃんも、良い奥さん捕まえたものねぇ。ピアノも出来て料理も出来るなんて、流石は元お嬢様よ。ホント、大したもんだわ。」
「『文ちゃん』は止めてくれって。でも、祐司君と井上さんがうちに来るまでは、潤子の料理とピアノで店がもっていたようなもんだからな。」
「あなたのコーヒーも、でしょ?」
「おやおや、相変わらずアツアツだねぇ。火傷しちゃいそうよ。」
ママさんの言葉で笑いが起こる。元お嬢様、か・・・。なるほど。
だとすれば、こう言っちゃ失礼だし、自分もそうなるかもしれないから大きな声じゃ言えないんだが、その日暮らしの流れ男と結婚させるわけにはいかない、という
親の心理が働いた可能性が考えられる。
潤子さんはそれでも勘当という選択肢を取って、マスターと結婚する道を選んだんだな・・・。
晶子も住んでいる所や立ち居振舞いがお嬢様っぽいが、果たして潤子さんから見たマスターと同じような「何か」を持ち合わせているんだろうか?
ただ「俺と一緒に来い」と言うだけじゃ、晶子の両親の束縛−これも失礼な言い方だが−を晶子が突破出来ないかもしれない。
この道を選ぶにしても何にしても、晶子を離さないだけの、晶子が離れなくないと思うだけのものを持たなければいけない。
「さあて、どんどんいきますか。」
桜井さんが軽快な声で言う。そうだ、まだセッションは終わったわけじゃない。恐らく全曲演奏するつもりなんだろう。
こんな深夜でー時計を見ると午前0時を過ぎている−、しかもバイトが終わった後という疲れが蓄積している状況だが、泣き言は言ってられない。
俺にとっては就職活動の一環でもあるんだからな。
「そうだな。次は何にする?」
「歌ものが珍しいから、『PACIFIC OCEAN PADRADISE』が良いな。」
「大助の提案でいくか。そう言えばその曲、ハーモニカはギターでやるんだろ?MD聞いたけど、なかなか興味深かったよ。あれも安藤君だろ?」
「はい。」
「君、なかなか器用だねぇ。このまま普通に就職させるのは惜しいな。」
桜井さんの賛辞に俺は戸惑ってしまう。はあ、なんて曖昧な返事をして頭を掻く。だが、プロの人から誉められて嬉しくない筈はない。
「明。祐司君はまだ将来を模索中なんだ。今回のセッションはプロのミュージシャンってものを経験する就職活動の一環でもあるんだよ。」
「そうか・・・。このままだと普通の道を進んじまうよな。それを聞いて尚更、普通の道を進んでもらうのは惜しいと思う。」
「そういうわけだから、プロのミュージシャンの生活実態なんてのも教えてやってくれ。祐司君の参考になる筈だから。」
「分かった。安藤君、何か聞きたいことはあるかい?」
聞きたいことは勿論ある。だが、果たしてそれをこの場で口にして良いものか・・・。
「率直な質問は歓迎するよ。少しでも君の参考になれば、こっちも嬉しいからね。」
躊躇している俺に桜井さんが言葉をかけてくる。ありがたい言葉だ。
まだ躊躇感は消えないが、ここは思い切って桜井さんの好意に甘えることにしよう。まずは・・・やっぱりこれだろう。
「普段の生活は何時もこんな風に夜主体なんですか?」
今はバイトが夜とは言え、主体は昼間の大学だ。それが生活がかかった日常が夜主体となると、これまた失礼な言い方だが家族との時間−特に晶子との時間−が
かなり限定されてくる。それが毎日となれば尚更だ。
「そうだね。この店は深夜3時までだし、他の店も夜主体だから、必然的に生活は夜行性になるね。だから昼間は殆ど寝てるよ。」
やっぱりそうか・・・。
晶子が仮に普通の仕事に−普通の基準なんて人それぞれだが、ごく一般的な基準を適用するとして−就いたとして、俺が昼間寝ていて、晶子が帰ってきたら
俺が出掛ける、というすれ違いが起こることになる。
出来るだけそういうことは避けたいんだが・・・この道を選んだとしたら避けられないと考えた方が良いだろう。晶子と十分話し合った方が良いな。
「あと・・・失礼を承知で言いますけど、生活は楽ですか?」
これはかなり核心に迫る質問だと思う。
自分一人での生活が成り立たないなら、必然的に晶子に頼るしかなくなる。そんな甲斐性のないことで晶子が納得してくれるだろうか?
「楽しいよ。」
桜井さんの答えは俺の質問からずれていると思う。生活は楽かどうか聞いたのに「楽しい」なんて答えられても困る。
そう思っている俺の心を見透かしたかのように、桜井さんは笑みを浮かべる。
「楽しければ貧乏やってても苦にならないし、楽しくなかったら金持ちでもつまらないさ。そういうもんだよ。」
「それは・・・そうですね・・・。」
「君の質問にストレートに答えるなら、あまり割に合わない仕事だと思う。深夜労働なのに割増でギャラが貰えるわけでもないからね。でも、俺は今の生活が楽しい。
好きなことやってて贅沢しなけりゃそこそこ生活していけるだけの金は入るんだから、ある意味最高の贅沢な生活とも言えるよ。」
桜井さんの答えは今のバイトとダブるところがある。接客に演奏にと終始駆け回らなければならない割に食事付きで時給1200円ってのはちょっと
安いんじゃないか、と連日忙しくなってきた最近は時々思うことがある。
でも、自分の好きなギターを人前で演奏出来て、それで生活費を十分補えるだけの金になるんだから恵まれているといえるだろう。
塾の講師でもない限り、時給が1000円単位になるアルバイトなんてまずないからな。
「次にプライベートに首突っ込むことになりますけど・・・良いですか?」
「余程のことでない限り、質問には答えるよ。」
「じゃあ聞きます。・・・結婚・・・してますか?」
これが一番聞きたかったことだ。夜行性の生活。あまり割に合わない仕事。それで結婚出来るのか。
晶子との将来を考えると、桜井さんの答え次第では再考を要することになるだろう。
そう思っている俺に、桜井さんは少し照れくさそうに頭を掻く。
「いやあ、まさかそんなことを聞かれるなんてなぁ・・・。」
「明。素直に吐け。」
「了解。してるよ、結婚は。子どもも居るよ。」
何だ。照れくさそうにしてたのは結婚しているかどうか聴かれるとは思わなかったからなのか。それに子どもも居るとは・・・ちょっと驚きだ。
「嫁さんも働いてるから、子どもは昼間保育園に預けて、寝起きの俺が迎えに行って、家族全員揃って一緒に夕食を食べて、まあ、嫁さんが残業で
遅くなる時もあるけど、それから俺が出勤、ってパターンだな。」
「そうなんですか・・・。」
「ちなみに収入は嫁さんの方が多いよ。嫁さんは会社勤めだから、定期的に給料が出るし、ボーナスもそれなりに出るし。」
そうだよなぁ。この手の仕事は一定のギャラしか出ないだろうし、来るなと言われたらそれまでだけど、会社勤めならそれなりに給料も出るし、
ボーナスも出るだろう。収入面での格差は明白だ。
晶子との生活を考えた場合、どうしてもその点が引っ掛かるんだよな・・・。
「でも、嫁さんは俺の仕事を理解してくれてるし、収入が違うからと言って卑屈になったり尊大になったりしないよ。何を買うかとかは夫婦で相談して
決めるし、保育園に子どもを迎えに行く時も恥ずかしいなんて思わない。俺達家族の生活なんだから、人様に迷惑かけない限りとやかく言われる筋合いは
ない、って構えてるよ。」
俺は頭を殴打されたようなショックを受ける。
そうだ。人様に迷惑をかけなければ、自分達家族がどんなスタイルの生活を送ろうが構わない筈だ。
収入の格差があるから支配従属の関係が出来るとか、そんなことはそれこそ旧態依然の考え方なんじゃないか?
それがプロのミュージシャンという職業にいまいち誇りを持てなかったり、晶子との関係をあれこれ考えてしまう所以じゃないのか?
「まあ、嫁さんの家族には猛反対されたけどね。そんな浮浪者暮らしの男と結婚なんて許さん、なんて。でも嫁さんは俺が言うのも何だけど毅然としてて、
職業に貴賎なしって言うじゃないか、収入なんかより誠実な人が良い、なんて説得してくれたなぁ。文彦もよく似たもんだろ?」
「ああ。潤子の両親には二度と家の敷居を跨ぐな、とまで言われた。でも潤子は俺と一緒に生きることを選んだんだよな。」
「だって結婚は二人の合意でするものでしょ?今時家と家の関係や、親の顔色を窺って結婚を決める方がどうかしてるわ。」
「という先輩の意見もある。参考になったかな?」
「はい。十分参考になりました。」
俺の中に漂っていた濃い霧が、ぱあっと晴れていくような気がする。
俺は気付かない間に今までの価値観に縛られていたんだ。
こういう生き方があっても良いじゃないか。俺は俺なりに、出来ることなら晶子と一緒に、それなりの生活をしていけば良いじゃないか。
「他に聞きたいことはあるかい?」
「いえ、もうありません。ありがとうございました。」
俺は桜井さんに一礼する。
プロのミュージシャンとして実際に生活している人からの貴重な話を幾つも聞けて本当に参考になったし、無意識に自分を縛り付けていた旧来の価値観の鎖を
断ち切ることが出来た。本当に今日は良い就職活動が出来たと思う。
「さあて、それじゃ演奏といきますか。『PACIFIC OCEAN PARADICE』からで良いかな?」
「「はい。」」
俺と晶子は同時に返答する。
晶子の表情も心なしかすっきりしたように見える。やはり気になっていたんだろうか?
「よーし、ドラムは大助でピアノは賢一。で、ハーモニカ代わりのギターが安藤君でヴォーカルが井上さんということで。」
「俺もソプラノで混ぜてくれ。」
「文彦?」
「いやな、CDを聞いてたらソプラノで吹いてみたくなって、実際吹いてみたら結構良い感じだったんだ。」
何だ何だ、マスターはソプラノサックスを吹ける態勢にしてあったのか。だったら俺の出番はなくても良いんじゃないか?
「あの・・・マスターがソプラノサックスが出来るなら、俺の出番はなくなっても良いんじゃないでしょうか?」
「おいおい。井上さんは君の担当だろ?忘れたとは言わせんぞ。」
「う・・・。」
担当、という単語を出されると弱い。
今までのステージや練習でハーモニカのパートを担当してきたのは他でもない俺だし、少なくとも店の常連客にはこの曲はギターが変わった音色で
演奏するものとして記憶に焼きついているだろう。
マスターが出来るからって選手交替、というわけにはいかないか、やっぱり。
「担当って、安藤君が井上さんを教えたわけ?」
桜井さんが興味深そうな顔でマスターに尋ねる。するとマスターはこっちをチラッと見てニヤッと笑う。
「そうそう。基礎からみっちりとな。今じゃ師弟の関係を通り越して恋人同士になっちゃってるぞ。」
「へえ・・・。どうりで井上さんが安藤君の方をじっと見てたわけだ。あの視線には何かある、とは思ってたけど。」
桜井さんが俺と晶子を交互に見てニヤッと笑う。
マスター、プライベートなことをこんな大勢の人が居る場所でばらさないでくれよ・・・。
俺は照れ隠しに頭を掻く。俺と晶子は付き合ってるんです、とはっきり言えない自分がもどかしい。
「明。追求は後にして、今は演奏だ。」
更に追及の手が伸びようとしたところで青山さんが言う。
ちょっと聞いただけでは救世主的な言葉だが、追求は後にして、という文句が入っているのが凄く引っ掛かる。
青山さんもクールな割にこの手の話は結構好きなんだろうか?渉は俺と宮城の付き合いにも一貫して我関せず、って感じだったんだが。
「そうだな。お話は後でゆっくりさせてもらうことにしよう。」
「桜井さん・・・。」
「さあてお二人さん、息の合ったところを見せてもらおうか。」
マスターが嗾(けしか)ける。頼むから炎を煽るようなことは止めてくれ。
俺はこの手の話で自分が俎上に上ることが苦手なんだから。まあ、相手は俺の都合なんざ欠片も考えちゃくれてないだろうが。
とりあえず、今は演奏に集中しよう。まだ演奏曲は幾つもある。疲れが溜まった身体に鞭打つことになるが、これも就職活動の一環だろう。
実際就職活動ってのがどんなものかは分からないが、厳しい状況を経験しておけば、その後の厳しい状況にある程度耐えうるだけのものは出来るだろう。
俺、桜井さん、国府さん、青山さん、そして晶子とマスターがステージに上る。
客席から拍手が起こる。どうやら演奏に少なからず期待が寄せられているようだ。そう思うと身が引き締まる。
俺は薄暗い証明の下でエフェクターの派メータを調整してこの曲で使う音色にする。
「それじゃ、最後のヴォーカルが終わってから16小節でフィニッシュということで。」
「了解。」
「分かった。」
「「分かりました。」」
「よし、それじゃいきますか。」
マスターがそう言って全員が演奏の心構えが出来たところで、青山さんのスネアドラムが鳴る。
程なくやって来たハーモニカのパートを俺のギターとマスターのソプラノサックスがユニゾンで奏でる。良い響きだ。
どちらか単独より音に厚みと豊かさが加わったような気がする。
晶子はリズムに合わせて軽快に身体を揺らしている。全然余計な緊張感が感じられない。今を楽しんでいることがよく分かる。
その前に俺とマスターのユニゾンがある。客に少しでも楽しんでもらえるように、俺自身楽しまないとな・・・。
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