雨上がりの午後
Chapter 115 大舞台に向けての前哨戦
written by Moonstone
サマーコンサートまで残り1週間となった日曜日。
俺と晶子はマスターの運転する車の中に居る。勿論潤子さんも乗っているし、機材は車のトランクに詰め込められている。
だが、今は昼間。そして向かう場所はこれまでの小宮栄のジャズバー「TEMPO DE SER FELIZ」ではなくて新京市公会堂、そう、サマーコンサートの会場だ。
店を臨時休業にして機材と人間を詰め込んで新京市公会堂に向かう理由はただ一つ、コンサートの最初で最後の本会場でのリハーサルのためだ。
公会堂のスタッフの人と照明などに関する打ち合わせも含まれている。
桜井さん達も各々か一緒に会場へ向かっているだろう。
俺と晶子は乗車して以来一度も口を開いていない。「BIG CITY」が車中に流れる中、自分の顔が緊張感で強張っているのが分かる。
会場までは俺と晶子が通学に利用している駅から定期バスが運行されているとのこと−チケットの裏面に略地図と交通案内が印刷されていたらしい−。
今まで全然気がつかなかった。
まあ、普段は大学まで徒歩だからバスの時刻表を見たり乗り場へいく必要性がないんだから仕方ないんだが。
今日は機材運搬の関係もあって、マスターの運転する車で新京市公会堂に近い大通りを走っているわけだ。
最初で最後の本会場でのリハーサル。照明などの打ち合わせを含めると、実際に演奏出来る時間は自ずと限られてくる。
同じ曲を二度も三度も演奏出来るとは考えない方が良いだろう。それだけに余計に緊張感が増す。
果たして新京市公会堂とはどんな場所なんだろう?それが一番気になるところだ。
車が大通りから左折して、片側一車線のやや狭い−これまで走って来た大通りが片側3車線だから狭く感じるのも無理はないが−通りに入る。
それから5分もかからず、ヨーロッパの古い教会を思わせる造りの建物が見えてくる。かなり大きいあの建物が新京市公会堂だろう。
車はその建物の側面を添う形で走り、裏側に回る。そこには広大な駐車場があって、マスターはその一角に車を止める。
「よし、お疲れさん。早速機材の搬入だ。俺について来てくれ。」
「「はい。」」
俺は晶子からアコギの入ったケースを受け取って車から出て、ストラップに身体を通してアコギを背負うと、開いている車のトランクへ向かう。
シンセサイザーの入ったハードケースを一つ、そしてエレキの入ったソフトケースをそれぞれ手に持ち、同じくシンセサイザーの入ったハードケースと
音源モジュールなどが入ったラックを両手にぶら下げたマスターの後をついて行く。
マスターは開いているかなり大きな扉から−多分、搬入口だろう−中に入る。俺と晶子と潤子さんもそれに続く。
薄暗いがかなり幅広い廊下らしいところを通り抜けると、眩しい照明が目に飛び込んできたので、俺は思わず目を閉じる。
再び目を開くと、照明に照らされた広大なステージと、控えめの照明に照らされた、これまた広大な客席が見える。
大きい。想像以上に大きい。俺は半ば呆然としつつ、マスターの後に続いてステージ中央へ向かう。
ステージは2段になっていて、高台には既にドラムとパーカッション(註:リズム楽器の総称)がセッティングされている。
そしてステージでは桜井さんが公会堂の職員らしい人達と打ち合わせをしている。
高台で腕組みをして立っていた青山さんが俺達一行に気付いてこっちを向く。
「思ったより早かったな。」
「ああ。道が割と空いてたからな。」
「「こんにちは。」」
「こんにちは。今日は、否、今日も宜しく。」
青山さんは少し笑みを浮かべてそう言うと、再び表情を引き締めて客席の方を向く。演奏のイメージトレーニングをしているんだろうか。
俺達一行は、潤子さんが持ってきたキーボードスタンドを組み立て、そこにハードケースから取り出したシンセサイザーを乗せ、音源モジュールなどが
入ったラックなどと結線する。
その一部はエフェクト切り替え用のフットスイッチに繋がっているから、俺は結線されたフットスイッチをステージ前方に持って行く。
この日のためにマスターが購入した長いケーブルのお陰で余裕で届く。
シンセサイザーの配線が終わったら、今度は俺の番だ。
ソフトケースから取り出したエレキを結線し、アコギに小型マイクを−アコギ単独では会場に対して音が小さ過ぎるからこれで集音するわけだ−取り付けて
また結線。そして潤子さんが用意してくれたスタンドに二つのギターを立てて配線終了。
当日はこの作業をもっと早い時間から迅速に行う必要がある。
「お待たせー。」
明るい声が背後から響く。振り向くと、国府さんがグランドピアノを持ち上げた数人の職員らしい人を誘導しながら近付いてくる。
国府さんはグランドピアノをステージ下段中央に配置するように誘導し、配置されたら予め用意されていたスタンドマイクをグランドピアノの胴体内側に向ける。
これで集音してミキサーに持って行くんだろう。
ステージ下段中央には、床から生えているようにマイクが何本かセッティングされている。その中にスタンドマイクが一本ある。晶子が歌うのはあそこだろう。
客席から見てど真ん中に位置している。晶子、本番で緊張して声が出ないんじゃないか?
・・・否、そんな心配は無用か。俺より心臓が強いから。
「遅れてすみません。」
続いてハードケースを2つ、ソフトケースを1つ抱えた勝田さんが入ってきた。
かなり持ち辛そうなので、俺は勝田さんに駆け寄って溢れそうだったソフトケースを受け取る。
「悪いね、安藤君。」
「いえ。それより何で3つもあるんですか?」
「あ、まだ話してなかったっけ。「BIG CITY」と「HIBISCUS」は、僕と文彦さんがユニゾンすることにしたんだ。まあ、メロディ部分だけだけどね。
ちなみに文彦さんがアルトサックスで僕がテナーサックス。」
これは驚きだ。サックスが映えるあの曲でサックスのユニゾンが聞けるなんて。
二つの個性がぶつかり合うユニゾン、しかも片方はプロでもう片方は玄人裸足のベテラン。
2曲とも俺は一部を除いてバッキング担当だが、マスターと勝田さんのサックスのユニゾンが聞けるステージに立てるだけでも価値がある。
勝田さんは両手にハードケースをぶら下げて−中にはフルートとテナーサックスが入っているだろう−、打ち合わせをしている桜井さんのところへ向かう。
俺はソフトケース−これにはEWIが入っているんだろう−を持ってその後を追う。
「すみません。遅くなりました。」
「あ、いや、十分間に合ってるよ。・・・これでメンバー全員揃ったな。」
笑みを浮かべて勝田さんに言った桜井さんが、一転して真剣な表情に戻って公会堂の職員らしい人達に言う。
「全員揃いましたので、一度通しで演奏したいと思います。照明とミキサーを宜しくお願いします。」
「分かりました。では。」
職員らしい人達はステージ脇へ消える。桜井さんが両手で手招きをする。
俺達一行と青山さん、国府さん、勝田さんが桜井さんの元に集まる。桜井さんは全員の顔を見回してから口を開く。
「聞いてたかもしれないけど、これから一回通しで全曲演奏する。照明もミキサーも本番同様に行って貰う。いきなりだけど、本番だと思って
気を引き締めて演奏して欲しい。」
桜井さんの言葉に全員が頷く。
「明。MCも入れるのか?」
「勿論だ。本番と同じタイムスケジュールで進めるからな。一度幕を閉めて貰うから、『幕が開きます』っていうアナウンスが流れたらスタートだ。」
青山さんの問いに桜井さんが答える。
MCまで入れるとは桜井さんの言うとおり、これから本番に臨むものと思った方が賢明だな。
緊張感で身が引き締まる思いがする。
潤子さんの演奏する曲やごく一部の曲を除いて出ずっぱりの俺は嫌でも目立つだろうから、今のうちに緊張感に慣れておく必要があるな。
「他に質問はあるか?」
「MCはどなたがされるんですか?」
「文彦が主体で、話の内容はアドリブだ。その辺の調整は文彦と予めメールで打ち合わせてある。」
晶子の問いに桜井さんが答える。
メールで打ち合わせ・・・?マスターって携帯電話持ってたのか?それともPCだろうか?
何れにしても、俺と晶子が知らないところで具体的な下準備は整えられていたらしい。
セッション出来る機会はおろか、顔を合わす機会そのものが限定されているから、細かい部分に関してはプロの代表とベテラン、否、元プロに任せるのが
一番効率が良いだろう。
高校とかの文化祭と違って、関係者が何回も顔を突き合わせてああだこうだ議論する時間的、回数的余裕がないからな。
「よし、それじゃ1曲目、『MORNING STAR』の配置に就いてくれ。演奏しない、あ、一人歌う人が居たな。そういう人は舞台脇好きな方へ退いてくれ。」
「「はい。」」
「了解。」
「分かりました。」
俺や晶子を含めた全員は各々返答したりしなかったりしつつも、素早く1曲目における自分の持ち場に散開する。
俺はギタースタンドに立てかけてあるエレキのストラップに身体を通して位置を調整し、フレットに左指を当てて右腕は力を抜いて肩から吊り下げる。
この場面で音出しは厳禁だ。本番前にポロポロ音を出すもんじゃない。
出かける前に施したチューニングが大幅に狂っていないことを祈るしかない。
今時期は気温も高くて湿気も多いから、チューニングが直ぐ狂うんだよな・・・。こういう時、弦楽器が「生もの」だと実感する。
シンセサイザーじゃこんなことは自分で設定しない限りありえないもんな。
勝田さんがステージ下段中央、俺がその−勝田さんから見て−左隣、ベースのストラップを通した桜井さんが右隣。
そして後ろをチラッと振り向くと、ステージ中央奥のピアノ前に国府さん、ステージ上段左側、シンセサイザーの前に潤子さん、その−俺から見て−右隣の
ドラムの前に青山さんが居る。全員、演奏準備を整えたようだ。
「幕が開きます」
アナウンスが天井の方から降り注がれる。俺の緊張感がピークに達する。高校時代のステージ演奏直前を思い出す。
あの時はいっぱいの観客を前にしてあそこにあいつが居る、あそこに宮城が居る、とか観察出来た。
しかし、今回はそんな状況でもなければそんな余裕もない。幕が開いたら見えない大勢の客を前にして演奏開始だ。
ステージの照明が弱めのブルーに切り替わる。前方の幕がゆっくりと上がり始める。
それを合図にするかのように、柔らかいシンセブラスの音色が浮き上がってくる。
「MORNING STAR」。その名が示すとおり、明けの明星が早朝の空に浮かんでくる様がイメージ出来る。
それまでゆったりした響きを流していたシンセブラスが、ファンファーレのように勢いを増して旋律を奏でる。
そこに勝田さんの演奏する、やや金属的な響きを持つEWIのシンセブラスの音色が加わる。
そして青山さんの演奏する、ドラムのフィルが入ると、ステージが一気に明るく照らし出される。
俺と国府さん以外のパートが一斉に奏でるフレーズの重なりは、まさに明けの明星の輝きそのものだ。
俺と国府さんも、その音の調和に加わる。
さあ、始まりだ。もう後戻りは出来ない。やり直しも許されない。
そんな張り詰めた緊張感が俺の全身に行き渡り、不思議と心地良ささえ感じてしまう。
俺の出せるもの全てをギターに注ぎ込んでやる。俺は総勢8人の中で唯一のギターだ。
俺に代役は居ない。居てもステージに出ることは許さない。そんな演奏にしてみせる。
マスターのソプラノサックスと勝田さんのテナーサックスが飛び入りしたラスト曲「Fly me to the moon」が、演奏者全員の白玉と、晶子のアドリブの
ヴォイス(註:曲中の喋り)で終焉を迎える。
全ての音が消えたところで俺はフレットから手を離す。そして落とされていた客席の照明が戻る。
俺は一つ大きな溜息を吐く。照明の熱もあるが、やはり演奏に熱中していたせいだろう、上から下まで汗だくだ。
チラッと見ただけでも、マスターは額を右腕でぐいと拭い、晶子も額を手で拭いつつ溜息を吐いているのが分かる。
スタートからラストまでひととおり演奏したが、十分本番の体裁を成していたと思う。
「よーし、皆、一旦ステージ中央に集合してくれ!」
文字どおり一息吐いたところで桜井さんから集合がかかる。全員が晶子と潤子さんが居るステージ中央に集まる。
早速反省会か。やはりプロは違うな、と実感する。本番を想定しての通し演奏ということもあるんだろうが。
俺は晶子の後ろ側から顔を出す。手ぶらの−「Fly me to the moon」のベースはウッドベースだった−桜井さんが照明で顔を彼方此方キラキラ輝かせている。
「ひととおりやってみたんだが、いい感じに纏まってたんじゃないか?演奏曲順もあんなもんで良いと思う。何か意見とかはあるか?」
桜井さんの問いかけに対して誰からも手は上がらない。
どうやら全員がこれまでの通し演奏に挙げるべき問題点を見出せないようだ。
俺や晶子は兎も角、プロ側、特に青山さんが何も言わないところを見ると、プロが聞かせる本番の演奏として十分通用するだけのものになっていたと
いうことだろう。
「どうやら意見はないようだな。よし、演奏曲順は今回ので行こう。MCは当日多少変わるかもしれないが、まあ、今日みたいな感じで行く。
問題はアンコールだな。どうする?これは文彦サイドも俺たち音楽屋サイドもk経験がないし・・・。」
「アンコールには応えなくても良いんじゃないか?別に義務じゃないだろ?」
「でも、俺が高校時代バンドやってた時は、アンコールで派手なのと大人しいのを1曲ずつやりましたよ。」
青山さんの答えに俺は思わず異論を述べる。
言ってからでしゃばり過ぎたか、と後悔するのは、青山さんに対するある種の畏怖があるからだろう。
青山さんは勿論、他の人達が俺の方を向く。前に居た晶子まで振り向いて俺を見る。
引っ込みがつかなくなったな・・・。ええい、この際だ。過去の記憶を引っ張り出して言いたいこと言っちゃえ。
「俺の過去は別としても、プロのライブでもアンコールはつきものですよ。大体2曲、やっぱり派手めなやつと大人しめのやつが1曲ずつです。」
「「「「「「「・・・。」」」」」」」
「今まではそれぞれアンコールをやらないか必要ないかのどちらかの環境でしたけど、やっぱりアンコールに応えた方が客も喜ぶと思います。
これだけの会場を使ってやるんですから、アンコールまでやった方が盛り上がりますよ、きっと。」
言いたいことを言ってしまった。素人のガキが何を偉そうに、と思われただろうな・・・。
でも、高校時代に耕次の誘いで、所謂インディーズのロックバンドのライブを何度か見に行ったことがある−宮城も連れて行った−。
その時は俺が言ったように殆どの場合、対照的なタイプの曲を1曲ずつ、合計2曲はアンコールに応えて演奏するのを目の当たりにして来た。
今回のコンサートは今までの店のクリスマスコンサートでもなければ、店のBGMとしての演奏でもない。
これだけの会場を借りてプロと同様−実際にプロは居るがここでは言葉は悪いが表街道で活動するプロのことだ−大掛かりなコンサートをやるんだから、
アンコールに応えた方が絶対良いと思う。
「・・・なるほど。安藤君の言うことにも一理あるな。」
「だが、曲はどうするんだ?本番は1週間後だぞ?今更新曲を組み込もうたって、音合わせの機会そのものがもうないっていう現実はどうする?」
桜井さんは前向きな態度を示したが、青山さんは現実的な、しかし重要な問題を挙げる。
確かに青山さんの言うとおりだ。来週はもう本番。音合わせ出来る機会がない。でもアンコールには応えた方が良いと思うし・・・!
「一つ提案があります。」
「何だい?言ってご覧。」
「『Make my day』と『Fantasy』をやるんです。」
「『Make my day』?・・・ああ、最初演奏候補になってたけど、俺達サイドの都合で替えてもらったやつだね?」
「はい。あれならベースもドラムも桜井さんと青山さんなら今から練習すれば十分間に合うでしょうし、曲もきっちり終わるタイプですからラストをどうするかで
打ち合わせや音合わせをする必要もないですから、ぶっつけ本番で可能だと思うんです。」
我ながら名案だと思う。
あれはバリバリのロックチューンだからバックの演奏はギターがメインみたいなもんだし、ベースもドラムも桜井さんと青山さんなら1週間あれば
十分演奏出来るようになるレベルだろう。
晶子のことを考えてない、というのが唯一の欠点だが、晶子は出番が割と少ない方だし、良いんじゃないだろうか?
「曲は文彦から貰ったMDで聞いてる。確かにあれは派手だし、ベースは殆どギターとユニゾン、ドラムも基本的なタイプだし面倒なフィルもない。
俺や大助なら1週間あれば十分出来るようになるな。どうだ?大助。」
「ああ、あの曲ね。あれは簡単だ。タム(註:ドラムを構成する音程のある太鼓のこと。普通は3つか4つ)を使わないから原曲を再現するのは簡単。
まあ、原曲そのままじゃつまらないから、アドリブでタムを交えてフィルを入れるのも悪くないな。でも、シンセとヴォーカルは大丈夫なわけ?」
「シンセは原曲じゃ白玉ばかりだから、中間の大人しくなるところで青山さんと同じく適当に音を混ぜるわ。曲は祐司君と晶子ちゃんが店のステージで
何度か演奏して知ってるから問題ないわ。」
「私も大丈夫です。ゆ・・・安藤さんの言うとおり、店で何度か歌ってますから歌えます。」
懸案だった晶子と潤子さんからも心強い賛同が得られた。青山さんは納得したように小さく何度か頷いている。
どうやら俺の提案は受け入れられそうだ。言って後悔した時もあったが、今になって言って良かったかな、と思う。
「じゃあ、『Make my day』は決まりだな。ところで安藤君。『Fantasy』ってどんな曲?今から間に合う曲なのかい?」
しまった。もう一つの曲、「Fantasy」のことをころっと忘れてた。俺は慌てて桜井さんの問いに答える。
「『Fantasy』は『Make my day』と同じく、倉木麻衣の曲です。ヴオーカルとギターだけでほぼ再現可能です。」
「ほぼ、っていうのは?」
「原曲ではシンセが入るんですけど、無いなら無いでもギターだけで十分雰囲気を出せます。去年の店のクリスマスコンサートで飛び入り的に演奏したんです。
今でも時々リクエストで演奏しますから、俺とま・・・井上さんで大丈夫です。な?井上さん。」
「はい。最後を締めくくるのに丁度良い、静かでゆったりした良い曲です。」
晶子は俺のいきなりの提案にも関わらず、両方に賛同してくれた。後で礼を言わなきゃな・・・。
ひと安心した次の瞬間、一つの問題点が急浮上してくる。ヴォーカルが2曲続くから、マスターと勝田さんの出番がない。
やっぱり思いつきで言ったのは間違いだったかな・・・。
「じゃあ、試しに聞かせてみてくれない?」
桜井さんの口から思わぬ言葉が飛び出す。その言葉に呼応して、俺と晶子以外の全員が頷く。
こりゃ口であれこれ言うより実際に聞いてもらうしかないな。そもそも俺の説明力や説得力に疑問があるし。俺は答える。
「分かりました。」
「よし。それじゃ残りは客席へ移動、移動。井上さんが言うように、ゆったり聞かせてもらおう。」
「そうしよう、そうしよう。」
「賛成。」
「祐司君、晶子ちゃん、しっかりね。」
桜井さん達は続々とステージを下りていく。
ステージと客席にはかなりの段差があるんだが、男性がほとんどということもあってか、スイスイと飛び下りていく。
潤子さんだけは一旦ステージに腰を下ろしてから下りる。その際、先に下りたマスターが手を差し出して、潤子さんがその手を取って下りる。
さり気ないところで夫婦の仲の良さを見せ付けてくれるな。
さて、ステージには俺と晶子だけが残された。丁度アコギをぶら下げている俺は、晶子と同じ列に並ぶ。
これは、「Fantasy」がイントロなしでいきなり始まる曲だから、二人で呼吸を合わせて、せーの、で始めるためだ。
晶子はスタンドマイクの前に移動して俺の方を見る。俺は晶子を見てから一旦客席に視線を移す。
マスターと潤子さん、そして桜井さん達が客席の前列中央付近に固まって座ってこっちを注視している。
再び緊張感が高まってくるのを感じる。だが、俺の提案を納得させるにはもはや実演しかない。
俺は再び晶子を見て、左手をフレットに乗せ、右手を弦に添えて小さく頷く。準備OKという合図だ。
晶子は顔を正面に移して両手をマイクに乗せ、視線だけ俺の方に向けて微かに頷く。そして息を吸い込む動作を見せる。
これが俺と晶子の間で取り決めた歌い始めるという合図だ。俺は晶子の動きと両手に神経を分散させる。
晶子が歌い始める。それと同時に俺のギターが入る。
一旦始めてしまえばこっちのもんだ。晶子の透明感ある声と俺のギターの音が朗々と響き渡る。
晶子の歌声と自分の演奏に半ば酔いしれながら、俺は演奏を続ける。
歌とギターだけのシンプルなハーモニーが会場いっぱいにこだまする・・・。
俺のストロークと晶子のハミングがゆっくり溶けるように消えると、客席から拍手が起こる。会場に比較して数こそ少ないものの逆によく響く。
マスターと潤子さんは満足げな笑みを浮かべて、桜井さん達は感心した様子で拍手をしている。
「いやあ、良い。これは良いや。」
桜井さんが席を立ち、ステージに近付きながら言う。
「これは下手にシンセを加えない方が良いな。シンプルにヴォーカルとギターだけで聞かせた方が客に与えるインパクトの面からも良い。」
「果たしてどんなものかと思ったが、これはなかなか・・・。」
桜井さんに続いて青山さんも感心した様子で言う。
表情を殆ど変えないでいた青山さんがこれほど明確な表情の変化を見せるということは、余程のインパクトを与えたということだろう。勿論、良い意味での。
マスターと潤子さんとはじめ、国府さんと勝田さんも皆一様に感心した様子でステージに歩み寄って来る。
どうやら俺と晶子のペア演奏は成功に終わったようだ。
店のリクエストタイムで時々演奏することがあるけど、本当に時々で、晶子の家での練習も毎回というわけじゃないから、事実上ぶっつけ本番だったわけだが、
成功に終わって何より何より。
「皆。アンコールは安藤君の提案どおりで良いだろ?」
「異議なし。」
「賛成だね。」
「勿論、賛成です。」
「言うことなし。」
「私も同じく。」
桜井さんの問いかけに、俺と晶子を除く全員が賛同する。
俺の思いつきで言ったことがこんなにあっさりと受け入れられるとは正直思わなかった。
それなりのものを示せば認めてくれる。それが本物のプロということなんだと俺は思う。
でも、一つだけ気がかりなことがある。
「あの・・・俺の提案どおりだと、桜井さんと青山さんと潤子さんは兎も角、国府さんと勝田さんとマスターの出番がないですよ?」
「ああ、それなら心配無用。曲に合った演奏をプラスするさ。こう見えても俺と賢一と光はプロだし、文彦もプロ経験のある現役のサックスプレイヤー。
曲調を壊さないような演奏を加えることくらい造作もない。だろ?賢一、光、文彦。」
「お任せあれ。」
「勿論、大丈夫ですよ。」
「さあて、どんなフレーズを加えようかね。」
「というわけだ。だからその点は気にしなくてOK。他に何か疑問点とかはあるかい?」
国府さんとマスターと勝田さんの心強いOKを得て、桜井さんが尋ねてくる。少し考えてみるが思い当たるものはない。
「いいえ、もうありません。」
「私もありません。」
「んじゃ、まだ時間もあることだし、もう一回通し演奏するか。」
な、何?!もう一回全部演奏するのか?なんて体力だ。俺なんて足がかなり疲れて、立ってるのもかったるいっていうのに。
まあ、高校時代もそういうことはあったが、あの時はもっと体力があったからな。
やはり疲れより演奏が大事なんだろうか?この辺でプロの違いと重みを感じさせられる。
「おーし、もう一丁行きますか!」
「こんな会場で演奏するなんてまずないことだからな。」
マスターは威勢良く、青山さんはクールにそれぞれやる気を見せる。潤子さんも涼しい顔をしている。
この面子の中で一番若い俺がへばってたらみっともないことこの上ないな。よし、俺も気合を入れ直すか。
俺と晶子以外の面々が再びステージに上がってくる。それぞれさっきまでの通し演奏の疲れも見せずに颯爽と飛び乗ってくる。
潤子さんだけはマスターに身体を上げてもらって上ってくる。やっぱりこの夫婦は仲が良い。
桜井さんが客席上方の明かりが灯っている場所−恐らくあそこで照明や各楽器の音量を制御しているんだろう−に向かって、人差し指を上げて見せる。
すると客席の照明が落ち、幕が下りてくる。1曲目の「MORNING STAR」に関わる面々がそれぞれの配置に就き、その他の面々はステージ脇に引っ込む。
ステージの照明が明るい白色光から弱めのブルーに切り替わる。一瞬目の前が暗くなるが直ぐに目が慣れてくる。
もう一度最初からだ。そう思うと俺の身体に再び力がみなぎって来る。
「幕が開きます。」
アナウンスが上方から聞こえて来た後、幕が上がり始める。
それとほぼ同時に、柔らかいシンセブラスの音色が闇の中から浮かび上がってくる。「MORNING STAR」の始まりを告げる「夜明け前」の演奏だ。
身体が引き締まってくる。やがてメリハリの効いたファンファーレが鳴り響き始める。
目の前には見えない客が居る。さあ、存分に聞いてもらうぞ!
・・・終わった。服は上から下まで汗でびっしょり。限界まで体力を使ったという気分だ。
足は固い棒のように突っ張り、ギターの上を動いていた両手がびりびりと痛い。
右腕で額の汗を拭うが、まさに焼け石に水。直ぐに汗が噴出してくるのが分かる。
他のメンバーも演奏が終わって一気に脱力した様子だ。
比較的出番が少ないマスターや勝田さんも膝の屈伸運動をしたり、俺と同じように額の汗を拭って肩で息をしている。
俺と同様殆ど出ずっぱりの桜井さんや青山さんは、いかにも疲れたという表情だ。
青山さんまでこんな表情を見せるということは、相当疲れたという証拠だろう。
「・・・よし。こんなところで良いだろう。」
腕時計を見て桜井さんが言う。
「音は纏まっていた。疲れがピークに近付いた最後の方でもリズムは崩れなかった。これなら本番でも大丈夫だろう。時間も近づいているし、
今日はこれで打ち上げだ。お疲れさん。」
「ふーっ、やれやれ。これだけの照明を浴びながらだと流石に汗が出るな。」
「足が痛いです・・・。」
マスターは割と元気だが、ステージ中央の晶子はかなり疲れているようだ。マイクに両手をかけて上体を下に倒している。
晶子の出番は少ない方だが、待機している間も突っ立っていなきゃいけないから、足にかかる負担は相当なものだろう。それは誰でも同じだが。
青山さんもそうだが、潤子さんも今まで見たこともないくらいの疲れた表情をしている。
潤子さんの演奏スタイルも立ってのものだから、ピアノ演奏のとき以外はずっと立ちっ放しだったということになる。
演奏時間なんて長くても1曲5、6分だし、演奏に集中しなきゃならないから、精神的な疲れも相当なものだろう。
「じゃあ、機材搬出といこうか。時間も迫ってることだし。」
桜井さんの言葉が力任せに振るわれる鞭の音の様に聞こえる。
機材は全てそれぞれの持ち物だから、練習が終わったからといって後はお任せ、というわけにはいかない。
機材を搬出するまでが練習・・・なんて、小学校や中学校の遠足の最後に言われたような言葉だな。
メンバーはそれぞれ機材の搬出に取り掛かる。青山さんのドラムと国府さんのピアノは恐らく此処のスタッフが搬出するんだろう。
あんなもの一人じゃどうにもならないし、搬入の時もスタッフがやってたし−青山さんのドラムの搬入現場は見てないが−。
俺はギター2つをソフトケースに収めてから、ステージ脇へ向かう。シンセサイザーや音源モジュールの入ったラックを搬出するためだ。
俺はステージ脇に隠してあったハードケースを持って、潤子さんのところへ向かう。
晶子は先にステージに上がって、潤子さんの指示を受けて配線を外している。
俺は一先ずハードケースを床に置き、シンセサイザーを両手で抱えて下ろし、ハードケースに慎重に収める。
シンセサイザーは精密機器だから、疲れているからといっていい加減に扱うことは出来ない。万が一壊してしまったら洒落にならない事態になる。
マスターが駆けつけてくる。サックスを片付けたんだろう。
もう1台残っていたシンセサイザーを両手で抱えて下ろし、ハードケースに収める。
もう1台持ち上げるだけの体力に疑問があったから、マスターの助けはありがたい。
此処のスタッフらしい人たちがわらわらと入ってきて、青山さんのドラムと国府さんのピアノを搬出し始める。
ドラムは幾つものパーツが組み合わさっているから、それを分解して搬出することが迫られる。
ピアノは単独だが重さがあるから、スタッフが何人か集まって一斉に力を込めて持ち上げる。
シンセサイザーの収納と配線の片付けが終わった俺達は、それぞれ荷物を分担して搬出する。俺はハードケース1つを持っていく。
途中でギター2つを拾って一つを背負い、疲れた身体に鞭打って搬出する。
外は暑いが、ステージの照明の直射を長時間受けていたせいもあってか、暑さで目眩がするということはない。
俺はハードケースとギター2つを持ってマスターの車へ向かう。割と搬入口に近い位置に駐車してあったから、それほど時間もかからずに到着する。
・・・肝心のマスターがまだだ。
マスターがサックスの入ったハードケースと音源モジュールの入ったラックを持って走ってくる。
幾ら出番が少ない方とは言え、待機中はずっと突っ立っていたのは他のメンバーと同じなのに、体力あるなぁ・・・。
マスターは、スマンスマン、と言って駆けつけ、サックスの入ったハードケースを一度地面に置いて車のキーを取り出し、トランクの鍵を開けて開放する。
俺はトランクにシンセサイザーの入ったハードケースを入れる。続いてマスターが音源モジュールの入ったラックを入れる。そして直ぐに走り去る。
それと入れ替わる形で晶子と潤子さんがケーブルやギタースタンドといった軽いものを持ってくる。
恐らく潤子さんの疲れを考慮してマスターがシンセサイザーを運び出すんだろう。
青山さんのドラムと国府さんのピアノが運び出されてくる。ドラムは分解されているから全容は見る影もない。
青山さんはスタッフをトラックに誘導する。青山さんはトラックを持っているのか?
国府さんもピアノを抱えたスタッフを誘導する先はトラックだ。二人揃ってトラックを持っているんだろうか?借りたのかな?
最後にエレキベースの入ったソフトケースを背負い、ウッドベースを抱えた桜井さんと、サックスが入ったハードケース2つとEWIが入ったソフトケースを
持った勝田さんが出てくる。
桜井さん、俺と同じで殆ど出ずっぱりだったっていうのに、あんな重そうなものを抱えて来るなんて体力あるなぁ。
ミュージシャンはやはり体力勝負の面があるようだな。日頃運動不足気味の俺はもっと体を鍛える必要がありそうだ。
程なくして全員の機材の搬出が完了した。
軽トラックの荷台にウッドベースを乗せた桜井さんが手招きをする。メンバー全員が桜井さんの元に集まる。
2回連続の通し演奏に加えて重量物の搬出があったせいで、大半が疲れきった顔をしている。恐らく俺もその一人だろう。
「今日は皆、お疲れさん。本番までくれぐれも体調を崩さないように。誰一人欠けても今度のステージは成立しないんだからな。特に安藤君と井上さん。」
「は、はい。」
「何でしょうか?」
「二人はこの中で一番若いから、余計に無理をしないように。若さに任せて無理をするのが一番良くないからね。今日はゆっくり休んでくれ。」
「「・・・はい。」」
桜井さんは相当疲れている筈なのに俺と晶子のことを気遣ってくれる。本当に体力に、否、心に余裕のある人だ。
自分が疲れている時に他人のことを気遣えるなんて、相当の精神的余裕がないと出来ないことくらいは何となくだが想像出来る。
ミュージシャンになるにしてもならないにしても、こういう大人になりたい。
成人式で大人の仲間入りをしたといっても、所詮それは通過儀礼でしかないんだから。
「明。今日、店があるんじゃないのか?」
「ああ、今日は全員臨時休業。当日も休みにする。俺達も文彦同様若くないんでね。無理は利かないんだよ。」
マスターの問いに桜井さんが答える。
やっぱり本番を想定しての練習と本番での体力消耗とその回復を計算に入れているんだな。
所謂裏街道を歩くミュージシャンだから、自分が休むことは即ち収入が減るということなのに・・・。
ミュージシャンは思ったより、そして見た目よりはるかに大変な職業だと思い知らされたような気がする。
「そっちも店、臨時休業だろ?潤子さんの登場で稼ぎ時だってのに。」
「前々から告知はしてあるから、客も納得してくれるだろう。『コンサートに向けて全力投球します。』って告知の紙に大書したし。それに明の言うとおり、
俺も若くないんでね。これから店を開けるのは流石に辛い。俺はまだしも、殆ど立ちっ放しだった潤子や出ずっぱりだった安藤君、喉を酷使した
井上さんにも十分休む時間は必要だろう。走るばかりが人生じゃないさ。」
「走ってたのは認める。ただし、障害物競走だっただろうけどな。」
「それもコースがぐちゃぐちゃのな。それはお互い様だろ。」
マスターと桜井さんが笑うと、他の人達も笑う。疲れを感じさせない、屈託のない笑いだ。
こんな笑いが出来るのは、人生を心底から時に楽しみ、時に悩んでいる証拠だろう。
俺の表情も自然と緩む。こういう人達と一緒に音楽をやれたら幸せだろうな、きっと。
「んじゃ、これにて解散ということで。お互い、居眠り運転には注意を。」
「スピードの出し過ぎにもな。」
マスターと桜井さんの言葉の交わしを最後に、メンバーはそれぞれの車に向かう。
俺は晶子とマスターと潤子さんと共にマスターの車へ向かう。
マスターは車に向けてキーを向けてボタンを押し、ドアロックを解除する。ガチャッという音が聞こえて来る。
往路と同じく、マスターが運転席、潤子さんが助手席、俺と晶子が後部座席に乗り込む。
俺は乗り込む時に背負っていたアコギを抱え込むようにして座る。
全員が乗り込んだことを確認して、マスターが車のエンジンをかける。
閑散とした駐車場から大小様々の車が出て行く。マスターはカーステレオのボタンを押す。
スピーカーから演奏曲の一つでもある「BIG CITY」が流れてくる。
そう言えば、この曲での国府さんのピアノとマスターのサックスは都会的な雰囲気が出ていて凄く良かったな・・・。
「大きなステージで歌ったりするのって、凄くドキドキするものですね。」
晶子が言う。その表情には疲労の色こそ滲んでいるものの、広いステージで思い切り歌えたという充実感が溢れている。
回りを気にせずに歌いたい、と以前に漏らしたこともあるし、晶子にとっては夢のような時間だったんだろう。
「井上さんもそうかい?俺もドキドキして身体が震えたよ。あんな大きなステージで演奏するのは、30年音楽やってきて初めてだったからな。」
「私も緊張したわ。最初の曲は私からでしょ?だからきちんと演奏出来るかって不安で不安で・・・。でも、やり始めたら、もう後はなるようになれ、って
開き直っちゃったけどね。」
マスターも潤子さんもやっぱりと言うか、緊張してたんだな。
店のステージでの演奏でステージ慣れしていると思ってたんだが、場所が違えばやっぱりそれなりに緊張するんだな。
緊張してたのが俺だけじゃないと分かってちょっとほっとする。
「祐司君は殆ど出ずっぱりだったから、相当疲れただろ?」
「ええ、まあ・・・。でも、気分は良いです。ああ、やり終えたんだなぁ、って。」
「その気分は本番が成功した時にもっと大きくなるぞ、きっと。」
「そうでしょうね。本番が楽しみです。」
初めての、そして最後の本会場でのリハーサルは無事終了した。今は疲れが充実感を生み出してきている。
これが成功した本番の後だったら、マスターの言うとおりきっともっと疲れて、もっともっと充実感を味わえるだろう。
「今日は二人共、家で夕飯食べていきなさい。」
潤子さんが振り向いて言う。
とんでもない。潤子さんは俺と同じくらい出ずっぱりで、しかも殆ど立ちっ放しだった。
疲れているところに4人分の夕飯の準備なんて無茶なことはさせられない。
「それじゃ、潤子さんが倒れちゃいますよ。」
俺が言おうとしたことを晶子が言う。
そのとおりだ。潤子さんはシンセサイザーの演奏担当であると同時に、4曲のピアノソロ曲のプレイヤーでもある。
誰一人欠けても今度のステージは成立しない、と桜井さんは言ったが、潤子さんは言葉は悪いが自殺行為そのものだ。
だが、潤子さんは心配ご無用、といった笑みを浮かべて言う。
「大丈夫。今日は出前を取るから。ね?あなた。」
「ああ。今日は寿司でも取るか。前祝ということで。」
「お、お寿司ですか?!」
「そんな、お寿司なんて・・・。」
「あら、二人共お寿司は嫌い?」
「そうじゃなくって、そんな豪華なもの食べさせてもらうなんて・・・。」
「そうですよ。バイトの私達を度々食事させてくれたりしてくれているのに、お寿司を取ってくれるなんて・・・。」
俺と晶子が口々に恐縮の言葉を言うと、潤子さんは笑みを崩さずに言う。
「前に言わなかった?貴方達はただのバイトの子じゃない。店にとって掛け替えのない存在だ、って。それに二人はそれぞれ今度のステージに欠かせない存在。
だから遠慮なんてする必要はないのよ。」
「そうそう。ゆっくりしていきなさい。バイト料から差し引くようなことはしないから安心して良いぞ。それに食事は人数が多い方が何かと楽しいしな。」
「あら、私と二人きりじゃ楽しくないとでも?」
「何もそんなこと一言も言ってないだろ。」
前の席でマスターと潤子さんの掛け合いが始まる。
言葉は切迫した印象を与えるものだが、潤子さんの顔は穏やかだし、バックミラーに映るマスターの顔にも笑みが浮かんでいる。
此処でもこの夫婦の仲の良さを見せ付けられた。やれやれ、お熱いことで・・・って、俺がこんなこと思っててどうする。
俺は視線だけ動かして晶子を見る。俺と晶子も周囲から羨ましがられるような、でも嫌味にならないような関係でありたい。
そのためにはどうしていったら良いんだろう?俺には漠然とも分からない。
ただ、少なくとも晶子との関係を続けていくことが大前提だということだけは分かる。当たり前と言われればそれまでだが。
車は大通りに入ってスピードを上げる。
ビデオの早送りのように後方に過ぎ去っていく景色を見ながら、あと1週間に迫った今度のステージに思いを馳せる。
練習は成功した。だが本番でトラブルが起こらないという保障はない。
幾ら練習が上手くいっても、本番が成功しなかったら話にならない。
本番までに不安を払拭出来るまで十分練習を積んでおかないといけない。
そして何より身体を壊さないようにしないといけない。誰一人欠けてもステージは成立しない。桜井さんの言葉が胸に響く。
暦の上では残暑という夏の陽射しを浴びながら、車は疾走していく。
走るばかりが人生じゃない、というマスターの言葉をふと思い出す。
確かにそのとおりだと思う。だが、今の俺は何らかの未来に向かって走り出すことを余儀なくされている状況にある。
今度のステージが俺にとって試金石になるかもしれないな・・・。ミュージシャンになるかならないかを決める試金石に・・・。
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