written by Moonstone
「・・・祐司君。」
重い沈黙を破ったのは、潤子さんの声だった。「今年の夏、祐司君が前に付き合ってた女の子と話をしに行った時のこと、覚えてる?」
「・・・はい。」
「祐司君が民宿の部屋を出て行った時ね、晶子ちゃんが猛然と立ち上がって祐司君の後を追いかけようとしたのよ。私が止めなかったら、
まず間違いなく祐司君は晶子ちゃんに引き摺り戻されてたと思うわ。」
「・・・それで?」
「私が止めた時、晶子ちゃんはどうして止めるんですか、ってもの凄い剣幕だったのよ。その時私が言ったのはたった一言。『祐司君を信じてあげたら?』
その一言で晶子ちゃんは落ち着いたわ。そして祐司君の邪魔はしないことを私に約束して、祐司君の後を追いかけていったのよ。」
「・・・。」
「普段温厚な祐司君がささくれ立つ原因と言えば、今は晶子ちゃんとのことしか考えられないわ。何があったかまでは流石に分からないけど、
祐司君にとっては余程のことだったんでしょうね。前に付き合ってた女の子と別れた直後と同じ雰囲気だもの。」
「・・・信じろ、って言いたいんですか?」
「率直な意見を言えばね。でも、信じられなくなった何かがあったんでしょ?真面目な祐司君が今みたいに頑なな態度になるくらいだから。」
「「・・・。」」
「推論だから間違いがあったら遠慮なく言ってね。多分晶子ちゃんが祐司君の信頼を壊すようなことをしたか、晶子ちゃんにはその気はなくても
祐司君にはそう見えたか、どちらかのことがあったんだと思う。前者の場合は100%晶子ちゃんが悪い。自分が好きな人の信頼を壊すようなことを
するなんて自殺行為よ。でも後者の場合はどちらが悪いとは断言出来ない。祐司君から見て信頼を壊すようなことをした晶子ちゃんも悪いし、
確証がないのに一方的に晶子ちゃんを疑った祐司君も悪い。」
「「・・・。」」
「どちらにも共通することは、これから二人で話し合うんだろうと思うけど、結論を急がないで欲しいってこと。特に祐司君は、その時の激情に任せて
縁起でもないけど関係断絶とかに突っ走らないで。今の問題の結果が最終的にどうなるかは分からないけど、性急に結論を出したら絶対に後悔すると思うわ。
前にも祐司君には言ったけど、言う前にゆっくり10数えてみて。それだけで随分違ってくる筈だから。」
「・・・本当に、浮気しようなんて思ってないです。」
俺の左隣で声が聞こえ始める。俺は声の方を向かずに歩を進める。「2コマ目の講義が田畑先生なんです、この曜日は。講義が終わってから数人と世間話していて、他の子達は皆揃って食事に行っちゃったんで、
じゃあ一緒に、っことで生協へ向かう途中だったんです。」
「仲良く二人で飯食いながらお話か?」
「そう言われれば否定出来ません。でも・・・」
「俺から見れば、一緒に食事ってだけで充分浮気なんだよ!」
「何で3日前俺が慎めって言ったことを堂々と人前でやったんだ!否、人前じゃなければ良いってもんじゃない!他の男と、それもよりによって
浮名流しの教官と分かってて、どうしてそんなことが出来るんだ?!お前にとっては日常行為でも、俺にとっては充分浮気に値する行為なんだよ!」
「・・・。」
「その左手薬指の指輪の重みは感じないのか?いい歳の独身教官が言い寄ってきたから、俺と天秤にかけてるのか?それで俺から乗り換えるなら
遠慮は要らん!この場でそう宣言しろ!その指輪を返せ!」
「それは・・・嫌です。」
「私にとって田畑先生は気軽に話が出来る先生でしかないんです。決して恋愛対象としては見てません。祐司さんと天秤に掛けてるつもりもありません。
だから・・・この指輪は返せません。返したくありません。」
「じゃあ、何で俺が慎めって言ったことを堂々とやってのけたんだ?!」
「それは・・・ことの成り行きで自然にそうなっただけで・・・。決して親密になろうとかそういうつもりはありません。」
「お前はそう思ってなくても、相手はそういうつもりかもしれないって考えたことはないのか?!」
「そ、それは・・・。」
「それ以前に!何で俺が慎めって言ったことを、俺の舌の根が乾かないうちに堂々とやってのけたんだ!きちんと質問に答えろ!」
「どうせ俺が見ることはないだろうと思って安心してたんだろう!まさか見られるはずがないと思ってたんだろう!それが計算違いで運悪く
俺に見られちまった!違うか!」
「・・・。」
「良いか!一度しか言わんから良く聞け!俺にとっては、相手が他の男と親しそうにしてる段階で浮気と断定出来る材料になるんだ!
ましてや問題の男は浮名流しの教官!いいや、相手が誰だかなんて関係ない!浮気の材料を堂々と俺に提供したんだよ、お前は!」
「・・・。」
「今度お前がこんなことをしたり、そんな話を耳にしたら、もう俺とお前の関係はおしまいだ!勝手に浮名流しの教官といちゃつくなり、どうにでもしろ!
俺はお前と付き合う前に、相手の浮気心が原因で別れた経験があるんだ!もう二度とそんな思いはしたくない!そんな思いをする前に、
俺がお前をふっても良いんだぞ!」
「そ、そんなこと言わないで下さい!」
「私は祐司さんと別れたくありません。私は、祐司さんが私の指に合わせてプレゼントしてくれた指輪の感触を忘れたことはありません。
だから・・・だから、私をふるなんて言わないで下さい。そんな恐ろしいこと、聞きたくありません!」
「・・・だったら誓えるか?もう二度とあの教官と仲良くしないって。」
「・・・はい。」
「今度今日みたいな光景を見たり、そんな話を聞いたら、俺とお前の関係は終わりだ。その覚悟は出来るか?」
「・・・はい。」
「覚悟が出来たんなら、今日のことはなかったことにする。何時までもぐちぐち言いたくないしな。但し、これが最後だってことは忘れるなよ。」
「はい。」
「はあ・・・。やれやれ。美人の彼女を持つと苦労するよ。他の男が言い寄ってこないかどうか、四六時中心配してなきゃいけないんだから。」
「それは私も同じですよ。」
「俺に言い寄ってくる女なんて居やしないぞ。」
「自分でもてないと思ってる人ほど、もててたりするんですよ。それが表に出てこないだけで。」
「そんなもんかねえ・・・。まあ、そうだとしても、表に出てこない方がありがたいな。」
「どうしてですか?」
「仮に表に出てきたら、今の俺はそれを退けるだろ?そうなったらその相手は大なり小なり傷つくことになる。自分の現状が誰かの犠牲や悲しみの上に
成り立ってるなんて嫌なんだよ。」
「・・・。」
「突き詰めりゃ、今こうして親元離れて大学に通ってること自体、親の犠牲の上に成り立ってるってことになる。だからせめて、きちんと大学に行って
4年で卒業する。犠牲の上に成立してるものなら、その現状を最大限に生かすことが大切だって、俺は思う。」
「・・・やっぱり、祐司さんって真面目な人ですね。」
「私はその真面目さを踏みにじるようなことをしたんですね・・・。祐司さんの気持ちをもっと考えるべきでした・・・。」
「まあ・・・自分にとって何処からが浮気で此処までは許せるっていう境界線について話し合ったことはないから、今回のことはある意味
必然的だったのかもしれないな。これは宮城との時もそうだったけど、あの時は気付くのが遅かった・・・。」
「この夏に宮城と二人で話し合った時、高校時代に宮城が他の男と仲良くしてるのを見て俺が何度も怒ったことが話題に出たんだ。
俺にとってはそれが浮気に映ったんだけど、宮城にとっては、俺にとっては気分の良い表現じゃないけど、視野を広く持ちたいっていう考えに
基づくものだったんだって、その時初めて知ったんだ。そういう考え方の違いをぶつけ合うのが怖かったからそのまま関係が続いて、
でも結局は距離が出来たら考え方の違いが気持ちのずれになってしまった・・・。」
「どちらが悪いって問題じゃないですね。」
「ああ。自分の内面まで全部出し切らなかったのが、破局の一因になったんだと思う。今回、言葉はきつかったけど自分の考えをはっきり口に出来て
良かったと思う。もう晶子も何が何だか分からないのに俺の機嫌を損ねてしまったって思うこともないだろう?」
「ええ。私は祐司さんが他の女の人と単に話をすることは全然気にしません。一緒に食事ってこともそれ相応の必然性があるなら、例えば職場の飲み会とか、
そういうことなら気にしません。でも、他の女の人と仲良くなりたいっていう意思が感じられるようなら、絶対その人から引き離します。」
「それって、かなり主観的じゃないか?」
「そう思います。でも、自分の大切な人を取られるようなことを未然に防ぐには、主観的判断に委ねるのが一番だと思うんです。」
「俺は工学部で女は片手で数えられるくらいしか居ないし、そいつらと話をしたこともない。俺が女と事務的じゃない話をする機会があるとすれば、
宗教か何かの勧誘か、潤子さんくらいしか考えられないな。」
「祐司さんの場合、潤子さんとの距離が気になるんですよね・・・。どうしても祐司さんが潤子さんを見る目が、バイト先の女の人を見る目じゃなくて、
憧れめいたものが多分に混じっているように見えてならないんですよ。」
「うーん・・・。潤子さんに対する俺の気持ちは、晶子の言うとおり、単にバイト先の女の人というより憧れてみたいなものがあると思う。」
「やっぱり。」
「でも、それは俺がずっと前から姉さんが欲しいっていう気持ちがあるのと、たまたま潤子さんが年齢的に姉さんと言っても良い歳の差だから、それが重なってるんだと思う。」
「お姉さんが欲しかったんですか・・・。」
「ああ。男兄弟しか居ないせいかもしれないけど、何か昔から姉さんが欲しいって思ってたんだ。まあ、これは親に相談したところでどだい無理な話だけど。」
「それに、バイトが初めてで右も左も分からなかった俺を親切に指導してくれたのが潤子さんだったんだ。マスターが無関心だったとか
そういうことはないけど、姉さんみたいな人が親切にしてくれるってことが嬉しかったんだ。その名残が憧れになって今でも残ってるんだと思う。」
「何だか・・・妬けちゃいますね。」
「祐司さんがこの町に来てバイトを始めてから私と出会うまでの約半年間の間には、私には埋められないものがあるんですね・・・。」
「それを言い出したら、俺が高校時代、宮城と付き合っていたことまで絡んでくるぞ。逆に晶子が以前付き合っていた相手との出来事は、
俺でも埋められないんだから。」
「そうですね・・・。出会うまでの時間は埋め合わせのしようがないですよね。」
「だからその分、重なってる今の時間を大切にしよう。どうにも出来ない過去の埋め合わせ方法を考えるより、その方がずっと建設的だと思う。」
「祐司さんの言うとおりですね。私、今回のことで色々分かりました。祐司さんのものの見方とか、今の気持ちのあり方とか、色々・・・。」
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