雨上がりの午後
Chapter 92 悪夢の再来、絆が切れる日
written by Moonstone
クリスマスコンサートの日があと半月後にまで迫ってきた。だが、俺の周囲はそんなことなどお構いなしに忙しさを提供してくれる。
こんなプレゼントははっきり言わなくても御免だ。
実験とそのレポートに始まり、普通の講義でもレポート提出が度々あるしで、おちおちギターの練習に専念出来やしない。
平日はバイトが終わってから深夜までレポートに追われて、その上ギターの練習を指慣らし程度でもするもんだから、翌日寝不足でフラフラになるなんて
珍しくもない。だから週末は昼過ぎまで寝て過ごす。そうしないと破綻を来たすと身体が無意識のうちに動きを停止しているんだろう。
そんな中幸いなのは、晶子とのペア曲が順調に仕上がってきていることだ。
「Tonight's the night」の方はほぼ完璧だ。「Mr.Moon」の方は原曲の出だし部分が拍子が取りにくいので、その辺を俺がアレンジして、晶子にはアレンジ版の
MIDI音源出力のMDを渡して、最初の8小節を重点的にしっかり感覚を掴むように頼み、俺は俺でその部分でつんのめったりモタったりしないように
同じく重点的に練習している。で、月曜日の夜には音合わせをしてチェックしている。
その成果でどうにか形にはなってきたが、まだもう少し練習が必要だろう。
「祐司。お前、疲れた顔してるな。」
智一が話し掛けてくる。かく言う智一の方は何時もと変わらない口調と表情だ。こいつは疲れってものを知らないのか?
「そう見えるか?」
「見えるも何も、俳優とかだったら相当メイクしないと誤魔化せないくらいだぞ。マジで一日くらい休んだ方が良いんじゃないか?」
「講義休んだらその日の内容が分からなくなるじゃないか。ただでさえわけ分からないところをどうにか追いかけてるっていう状況なのに。」
「他の奴らもただノート取ってるだけで、講義の内容を理解してる奴なんて、殆ど居やしないって。ノートくらい後で写させてやるさ。
それより身体壊したら、そっちの方が洒落にならんぞ。」
「そりゃそうだけどさ・・・。今の状態じゃ講義は休もうにも休めないし、バイトはあるし、洗濯とかもしなきゃならんし・・・。」
「あ、そうか。お前、一人暮らしの上にバイトで生計補ってるんだったな。となると、バイトはそうそう休めないか・・・。」
「そういうこと。」
そう言えば、智一も一人暮らしだったか。ま、こいつん家は裕福だから、仕送りで十分生活していけるんだろう。食事も外食で済ませりゃ良いだろうし。
でも、洗濯と掃除は自分でやらないと出来ない筈だが、それはどうしてるんだ?
「智一。お前はバイトやってないんだろ?」
「ああ。仕送りで十分やっていけるからな。ありがたいことに。」
「掃除とか洗濯とかはどうしてるんだ?こればっかりは自分でやらなきゃならんだろ?」
「洗濯は全自動で乾燥機付きだし、上物の服はクリーニング行き。掃除は月に一度業者に頼んでる。その方が確実だし手っ取り早いからな。」
「・・・業者に掃除頼んでるのかよ。」
呆れたと言うか何と言うか・・・。
時々郵便受けにそんな関係のチラシが紛れ込んでるが、掃除ごときに金払いたくない。そんな金があるならもっと良いもの食べる方に回すぞ。
智一の奴、金に任せて楽し放題してるって感じだな・・・。
「業者に掃除頼むなんて、会社とかじゃあるまいし・・・。」
「親父の会社で清掃を委託してる業者があるんだ。そこにやって貰ってるから料金は実家持ち。流石にプロだけあって、綺麗にしてくれるぜ。」
「金持ちの生活は違うな・・・。」
「まあ、俺ん家は会社経営してるからな。しかし、お前んところは厳しいな。仕送りは最低限で、必要分はバイトで賄え、だなんて。」
「仕方ないだろ。家は自営業だけど、一人暮らしするなら最低限度しか仕送りは出来ないって条件を俺が飲んだんだから。」
「お前の実家って、生活苦しいのか?」
「家に居る分には感じなかったけど、一人分の生活費を毎月捻出するのは厳しいんだろうな。私立には行かせられない、って受験前から言われてたから、
滑り止めもなかったし。」
俺はまさに後がない状況で此処を受験した。
私立は合格しても行かせられなから、ってことで受験すらしなかったから、此処ともう一つ受験日程の違う、割と地元に近い大学に賭けるしかなかった。
まあ、結果両方合格してこっちを選んだんだが、今にして思えば、地元に近い方にしていた方が自宅から通学出来るし、洗濯や食事の面でも
不自由しないから良かったのかもしれない。
でも、こっちを選んで厳しい条件を飲んでこっちに一人で来たから、何だかんだ言いつつ気心知れた友人と出会えたし、趣味が結構いい金になる
バイトにも巡り会えたし、何より晶子と出会えたわけだ。もう一つの方にしていたらそれらがなかったわけだから、やっぱりこっちを選んで良かったんだろう。
こういうのはどっちが良いと断言出来ないところがあるもんだ。
「今時お前みたいな苦学生も珍しいな。」
「馬鹿言うな。俺より苦学してる奴は全国にいっぱい居る。それに苦学しようにもそれさえ出来なくて進学を諦める奴だって大勢居るんだ。
インターネットで少し調べりゃ、そんな事例はわんさか出てくる。俺はまだ恵まれてる方だよ。」
「少なくとも俺には真似出来んな・・・。全く大したもんだよ、お前は。」
「ま、夜行性になっちまうのは仕方ないけどな。」
そんな話をしながら、俺と智一は専門教科の講義を終えて教養課程棟へ向かっている。残された一般教養科目、英語の講義を受けるためだ。
前に晶子があの浮名流し教官と一緒に歩いているところを目撃した時の講義とは別枠であって、あっちが文法や読解中心なのに対して、
こっちは発音や会話が中心になっている。教官曰く、「当大学は英語が読めて書けて話せるエンジニアや研究者を養成するカリキュラム」らしい。
前の講義が早く終わったから、歩いていっても十分間に合う。
俺と智一は時折吹き抜ける寒風に身を縮こまらせながら講義のある部屋の方へ向かう。
講義室には暖房が完備されているから、特にこういう寒い日は早めに行って、後ろの方の席を確保するに限る。
講義室に入ると、半分ぐらいの席が埋まっていた。
自転車や原付といった移動手段を持ってる奴は流石に早い。それでもまだ後ろの方の席は空いているようだ。
俺は智一と並ぶ形で鞄を置いて席を確保する。これで一安心だ。
俺は鞄から教科書とノートとペンケースを取り出す。あとは教官が来るのを待つのみか・・・。暖房もよく効いてるし、このまま寝てしまいそうだ。
・・・いかん、一瞬だが、本当に寝てしまった。智一が推測したとおり、疲れが溜まっているのは事実だな。
高校までと同様、木の机と椅子で寝心地は決して良いとは言えないが、そんなことお構いなしに強力な睡魔が度々襲ってくる。
まあ、この講義は指名されることが少ないし、指名されても名簿順だから、今日俺が指名される確率はほぼゼロに近い。
今回は素直に睡魔の言うことを聞いた方が良さそうだな・・・。
「おい、祐司。大丈夫か?」
智一の声で消えかかっていた俺の意識が急激に戻ってくる。この睡魔は今まで以上に強力なようだ。
専門教科の時はノート取りで必至になっていて忘れていたが、一旦気が緩むともう防ぎようがないらしい。決壊した堤防と同じだな。
「眠いんなら寝た方が良いぞ。どうせ今日は指名される可能性はないに等しいんだしさ。ノートは講義が終わったら貸してやるから。」
「悪いな。ちょっと耐えられそうにないから頼む・・・。」
俺は椅子の背凭れに体重をかけて、やや俯いた姿勢で身体の力を抜く。
するとそれを待っていたかのように、猛烈な睡魔が俺の意識に覆い被さってくる。
駄目だ。もう耐えられない・・・。智一の厚意に甘えて90分間寝させてもらうか・・・。
・・・。
世の中そんなに甘くなかった。
この講義が発音や会話中心、即ち音声が頻繁に飛び交うものということを忘れていた。
教官の発音や話し掛けで−勿論英語だ−学生がそれを復唱するもんだから、意識が途絶えたと思ったら直ぐに50人くらいの一斉の復唱の声量で
叩き起こされてしまった。
結局まともに寝られないまま、講義は終わった。
寝るか寝ないかはっきりしない状態が連続したもんだから、余計に意識が朦朧とするようになった。
講義が終わって席を立ったが、目の前がぐらっと揺れて危うく倒れそうになった。
「くそ・・・。頭がふらふらしやがる・・・。」
「マジで休んだ方が良いぞ、祐司。」
額を押さえる俺に智一が声をかけてくる。
「ノートくらい責任持って取って貸してやるからさ。今日はもう帰ってバイトの時間まで寝ろ。講義1回休んだくらいで死にゃしない。
それより今時期特に睡眠不足は風邪に結び付きやすいんだ。風邪ひいたらそれこそ洒落にならないんだろ?」
「ま、まあな・・・。」
「いつもお前にゃ実験で世話になってるからな。ノート取って貸すことくらいお安い御用だ。さ、本当に倒れちまう前に帰って寝ろ。」
「・・・すまん。」
「気にすんな。困った時はお互い様ってやつさ。」
俺は態勢を立て直して額を押さえ、首を何度か振って正面を見る。どうにか視界のぶれはなくなった。
智一の言うとおり、ぶっ倒れないうちに帰ってバイトへ行く時間まで寝てた方が賢明だな。
今からなら大体3時間くらいは寝られる。それだけでも結構違ってくる筈だ。
「じゃあ悪いが、ノートは頼む。」
「おう、任せとけ。それより気ぃ付けて帰れよ。新聞沙汰になったら笑うぞ。」
「好きにしろ。じゃあな。」
「ああ。」
俺と智一は挨拶代わりに手を挙げる。俺は足取りを確かめるように講義室を出て行く。
ここんとこ、連日睡眠時間3、4時間ってのが続いてたから、とうとう身体が悲鳴を上げ始めたか・・・。
人間ならストライキが暴動を起こすところだろう。まあ、今の腰抜け労働組合にストライキなんて出来やしないだろうけど。
それより少々意外だったのは智一だ。まさかノート取りとそれを貸すことを自分から買って出るとは思わなかった。
恋愛問題とこういう時は話は別、ってわけか・・・。智一の奴、嬉しい心遣いしてくれるもんだ。
自分が困っている時に自ら手を差し伸べることが出来る奴こそ本当の親友だって言うが、智一は何だかんだ言っても、俺の親友なんだな・・・。
普段は尻の軽いところに呆れさせられたり、晶子との仲に割り込もうとするところに警戒感を抱かされたりするが、智一が親友だってことが
実感出来たのは不幸中の幸いってところか。
俺は少しでも歩く距離を短縮しようと、文系学部の建物がある方向へ向かう。
生協の前を通った先に、獣道に毛が生えた感じの道がある。
それを横断すれば普段工学部の講義棟への往復に使っている道に通じる。そこを通るのは随分久しぶりだが、迷っていられる状態じゃない。
俺は何とかぶっ倒れることなく生協の建物に向かって歩いていく。
頭が重い。これは間違いなく寝不足の証拠だ。とっとと帰って仮眠した方が良さそうだ。バイトは生活が懸かっているだけに休むわけにはいかないからな・・・。
そうでなくてもクリスマスコンサートの予行演習も兼ねる時間が確保出来るから、演奏者の一人として行かないわけにはいかない。
生協の前を通り過ぎ、左手に建物、両脇に木々が林立する狭い場所に差し掛かる。
ん・・・?
建物の壁に凭れてるのは・・・晶子?
その頭の横に手をついて何か言っているのは・・・田畑じゃないか?!
何やってるんだ、晶子の奴は!
俺は駆け出したくなるが頭が重くて足が思うように動かない。とりあえず声が聞こえて表情がはっきり見える位置まで接近して、何をやってるのか
確認しないことには・・・。
俺は晶子と田畑に気付かれないようにゆっくりと距離を詰める。何で晶子の彼氏の俺がこんなことしなきゃならないんだ・・・?
だが、何を話しているのか確かめないことには、晶子を責めたり出来ない。
・・・つまりは晶子を責める材料になるかどうかを聞くためってわけか・・・。何てこった。
やや朦朧としていた意識もくっきり輪郭を帯び、晶子と田畑の会話を聞きうける耳に集中する。
一体こんな人目につき難い所で何を話してるんだ?そんなに聞かれるとまずいことなのか?
俺の頭の中に嫌な予感が続々と浮かんでくる。
どうにか声が聞こえるところまで距離を詰めたところで俺は木の陰に身を隠して、晶子と田畑の会話を聞く。
「−そろそろこっちとしても明確な返事が欲しいんだよ。」
「それは先生の都合じゃないですか?」
「君だって今日まで考えさせて欲しいって言ったじゃないか。彼氏にも黙っておくって言ってまで。」
「・・・それは・・・そうですが・・・。」
「それだけ君の気持ちは揺れてるってことだ。」
お、俺に黙って、だと?!晶子の奴、俺に黙って何を考えてたんだ?!
俺に言えないことなのか?!一体何があったっていうんだ?!
話を先に進めろ!俺に黙っていたことを言え、晶子!!
「僕は君の彼氏に浮名流しと言われたが、そろそろその汚名を返上したいんだ。君は彼氏と別れて、僕と付き合ってもらう。僕の担当の講義の単位と
ゼミへの優先加入もセットでだ。」
「!!」
「こんな条件は滅多にないことだよ。これは君を見初めたからこその話なんだ。僕としても真剣に君と付き合いたい。勿論、普段はこういうところで
話をするような秘めた関係になるけどね。」
「・・・先生。私は・・・。」
「そうか・・・。そういうことだったのかよ。」
俺は今にも破裂しそうな怒りを押し殺しつつ木の影から出る。
俺の声の方を向いた晶子と田畑がそれぞれ驚いた様子を見せる。晶子は口を押さえ、田畑は目を見開いている。
そりゃ驚くだろう。まさか俺が此処に来るとは思わなかっただろうからな!
許せない・・・!絶対に許せない・・・!
「秘めた関係ね・・・。そりゃそんな条件がセットになってりゃ、人前で話は出来んよな。」
「君・・・。何時の間に此処に・・・?」
「フン、ちょっと前からだよ。お前とその女が付き合う話とセットの条件、それに口説き文句も聞かせてもらったぜ・・・。」
「講義はどうしたんだい?」
「睡眠不足で頭がふらつくから、近道して帰ろうと思ったところだよ。」
「ゆ、祐司さん・・・。ち、違うんです。私は・・・」
「何が違うんだ!!この裏切り者!!」
とうとう怒りが爆発した。俺の喉からあらん限りの怒声が迸る。
「俺に黙ってたのは、俺とそいつを天秤にかけてた以外に何があるっていうんだ!!俺とこれからも付き合う気があるから、問答無用で断るところだろうが!!
そりゃ俺に話したくないよなあ!!単位とゼミの優先加入の餌がちらついてるんだからな!!」
「ち、違うんです!私は今日・・・」
「もうお前とはこれまでだ!!勝手にその浮名流しの教官と付き合え!!もうお前なんか知らん!!どうにでもしやがれ!!」
俺は左手薬指に嵌っていた指輪を引き抜いて投げ捨て、首に巻いていたマフラーも解いて放り投げる。そして二人の間を割って走り出す。
後ろから待って下さい、と声が聞こえるが、もう知らん。もう聞くことなんてありゃしない。
俺は見事に天秤にかけられてて、傾きが決まったから天秤から取り出されるところだったんだ。それ以外に何もありゃしない。
俺は走る。懸命に走る。目が熱くなってくる。途中車のクラクションがけたたましく鳴り響いたが、何があったかそんなこと知ったことじゃない。
走ることで全てを捨てたい。
あの女との出会いも、付き合うまでのストーカー張りの粘りを受けたことも、俺の心の変化も、告白も、共に祝い合った誕生日も、季節に絡まる思い出も、
一夜を共にしたことも、出会って1年の記念日も、何もかも・・・!
駅に着いた俺は、膝に両手をついて呼吸を整える。
視界に入るアスファルトが滲む。そしてアスファルトに幾つもの染みが浮かぶ。
・・・泣いてるのか?俺は・・・。悔しいのか?あの教官に女を取られたことが。
悔しくなんかない。前に約束したんだ。今度あんな場を見たり噂話を聞いた時点で関係は終わりにするって。今更何で泣く必要があるっていうんだ・・・。
畜生・・・。また女心に弄ばれちまった。また痛い思いを味わわされちまった。
俺が掴んだと思った幸せはほんの一瞬で幻になるって、宮城との経験で学んだ筈だったのに・・・。
やっぱり耳を貸すんじゃなかった。心を傾けるんじゃなかった。今度こそ、なんて思うんじゃなかった。
結局俺が痛い目に遭うことは分かってたのに・・・。畜生・・・。俺の馬鹿野郎・・・!
喉の喘ぎが多少収まったところで、俺は袖でぐいと目を拭うと正面を向く。まだ視界が滲んできやがる・・・。
畜生。悔しくなんかない・・・。悔しくなんか・・・。悔しくなんか・・・。
畜生・・・。
俺は改札を通ってホームに立つ。
時刻表と時計を見比べると、あと2、3分で急行が来る。
これから家に帰って・・・一先ず寝よう。智一の厚意は大切にしなきゃな・・・。
俺は滲みが収まらない目をもう一度袖でぐいと拭う。これで家に帰ってベッドに潜ったら、まさしく泣き寝入りってやつだな。
はは・・・。バイトが終わったらビールでも飲みまくるか。ぐっすり眠れるだろう。宮城と切れたあの夜の再現だな。
「おい、あの兄ちゃん、泣いてやがるぜ。」
声の方を向くと、三人の中学生か高校生か分からない学ラン姿の奴らが、しゃがんだ姿勢で俺を見てにやついてる。
再び腹の底からふつふつと怒りが煮え立ってくるのを感じる。
「おっ、こっち向いたぜ。」
「今から傷心旅行にお出かけかな?」
その言葉で俺の頭の中で何かが音を立てて切れた。
俺はその三人に向かって歩み寄る。
そいつらはちょっとビビったような様子を見せつつ、嘲笑混じりのからかいを浴びせてくる。
「な、何だよ、やろうってのかよ。」
「おいおい兄ちゃん、痛いとこ突かれてお怒りか?」
その言葉が発せられた次の瞬間、そう言った奴の顎に俺の力任せの蹴り上げがヒットする。
そいつは口から歯と血を吹き出しながらもんどりうって後ろに吹っ飛ぶ。
「泣いて悪いか。」
「「・・・。」」
「悪いかって聞いてんだよ!!ガキが!!」
俺の力任せの蹴りが、もう一人の頭を捉えて横に吹き飛ばす。
残った一人の腹にも間髪入れずに爪先蹴りを叩き込む。そいつは口から唾液か何かを吐き出してひっくり返る。
俺は倒れてうめいているガキ共に容赦なく蹴りの連打を浴びせる。
「人おちょくるのも大概にしやがれ!!」
「す、すみません、すみません・・・。」
「すみませんで済んだら警察要らねえんだよ!!ああ?!」
俺はガキ共の顔や腹に靴底を叩き込み、靴先をぶつける。
そして痙攣している一人の髪を掴み上げてホームの屋根を支える鉄柱にその顔を力任せにぶつける。ぐしゃっという音がする。
手を離すと、鮮血を鉄柱に塗りながらそのガキはずるずると倒れていく。
俺は残る二人も同様に髪の毛を掴んで身体を起こさせ、一人には顔面に膝蹴りを入れ、もう一人には鳩尾(みぞおち)に爪先蹴りを叩き込む。
そいつはそれで派手に嘔吐する。
ホームの踏み切りが鳴り始めたところで、俺は「制裁」を止める。ガキ共は痙攣していて立ち上がる気配はない。
俺はとどめに三人に満遍なく蹴りを浴びせて、程なくホームに入って来た急行に乗り込む。
ホームがざわめく中、俺は人気が少ない電車の席に腰を下ろして、何食わぬ顔で電車が出るのを待つ。
ホイッスルの音がしてドアが閉まり、電車がゆっくりと動き始める。
誰かが呼んだらしい駅員が駆けつけて来るが、俺は電車に揺られてその場を後にする。
少々胸がすっとしたような気がする。俺を挑発するようなことを言うからだ。相手が泣いてるからって調子に乗って嘲笑するようなあいつらが悪い。
・・・泣いてた・・・か・・・。
急に重苦しい気分が垂れ込めてくる。
今日この日であの女とはただのバイト仲間になったってわけか。
否、仲間じゃない。単なる同僚だ。クリスマスコンサートの候補曲は変更しなきゃならないな。
危うくぶっ倒れそうになるほど睡眠不足になる状況で、さらに半月後に押し迫った今になって変更するのはかなりきついが、あの女とはもう係わり合いに
なりたくないから・・・。
あ、コーラスは潤子さんに頼めば良いことか。潤子さんは曲を知ってるし−演奏する曲は決定している−、CDを貸して少々練習してもらえば
十分客に聞かせられるものになるだろう。
暫く電車に揺られてふと下を見る。
右膝には血飛沫が転々と付着している。さっきのガキ共の一人の顔面に膝蹴りを入れたときに付いたものだろう。家に帰ったら着替えないといけないな。
・・・それにしても・・・神経を逆なでするような嘲笑を交えたからかいをしてきたとはいえ、あそこまでやる必要はなかったんじゃないか?
ひたすら無視して電車に乗ればそれで済むことじゃなかったのか?
潤子さんが言ってたゆっくり10数えろ、は行動にも当てはまることなんだな・・・。
だが、あの話はこの耳でしっかり聞いちまった。
自分が担当する講義の単位とゼミへの優先加入という「おまけ」までつけて交際を迫る田畑と、それに対してNOと言わず、俺と天秤に掛けて迷っていた
あの女の会話・・・。
何が違うのか分からないが、NOならNOと言える筈だ。なのにNOと言わずにいたということは、そして俺に黙っていたということは、
俺と田畑を天秤に掛けて、それが激しく揺らいでいたという何よりの証拠だ。
結局1年ちょっとで終わっちまったか・・・。電車の窓の外の風景がビデオの早回しのように流れていく中、様々な思い出が蘇ってくる。
「忘れることなんて出来ませんよ。」
あの女は以前、そう言った。
全速力で走ったら心から零れ落ちていくと思ったけれども、実際は何一つ零れ落ちちゃいない。むしろ心にしっかりこびりついて離れようとしないように感じる。
疎ましい。憎らしい。こんな思い出はとっとと捨て去りたい。
所詮時間が解決してくれるのを待つしかないのか?
人間の心ってものは、どうしてこうも都合の悪いように出来てるんだろう。
忘れたくないことはあっさりと忘れてしまい、忘れてしまいたいことはしつこく抱きかかえて離さない・・・。
これも神や仏とやらの嫌がらせの一つだろうか?弱いものが苦しんでいても助けもせず、強いものがより強く、よりやりたい放題やり倒すのを眺めている・・・。
嫌がらせもここまでくれば完璧だ。
「ご乗車ありがとうございました。間もなく胡桃町駅です。お降りの方はお忘れ物のございませんよう、よくお確かめ下さい。」
聞き飽きたのを通り越して耳に馴染んだアナウンスが車内に響く。
寝不足のところにひと暴れした上に気が緩んできたせいか、急に眠くなってきた。
自転車で居眠り運転することはないが−上り坂でペダルを終始漕がなきゃならないから寝るどころじゃない−、この調子だと家に帰って
ベッドに横なったら即KOだな。目覚ましをセットするのを忘れないようにしないと・・・。
電車が徐々に減速を始め、これまた見慣れたホームに入る。窓の風景の流れが止まって少しの間を置いてドアが開く。
俺は席を立って電車を降り、改札を通って自転車置き場へ向かう。
ぎっしり詰まった自転車の中から自分の自転車を取り出し、押して外へ出てサドルに跨る。
ペダルを漕ぎ始めると、またあの女との思い出が鮮明に蘇ってくる。何年かぶりに自転車の後ろに人を乗せて走ったことを・・・。
だが、今、俺の後ろには誰も居ない。
元に戻ったんだ。そうだ。それだけの話だ・・・。
寒風が頬を掠めていく中、自転車を運転していく。その風が妙に心地良く感じる。
この風があの女との思い出を全て吹き飛ばしてくれれば良いんだが、走った時と同様、そんなに都合良くはいかないだろう。
また傷と痛みを引き摺って過ごす日々が暫く続くのか・・・。
前の教訓を踏まえて二度と女に目を向け、耳を傾けるんじゃなかった、とつくづく思う。自業自得の一言だな、まったく・・・。
あの女と出会ったコンビニの横を通り過ぎ、自分の家に辿り着くと、何時ものとおり自転車を押してドアの近くまで持っていき、鍵を開けて中に入る。
薄明かりが差し込む室内はしんと静まり返っている。これも元に戻ったんだ。
俺は溜息を吐いて鍵をかけ、鞄を机の上に放り出してコートを脱いで椅子の背凭れに放り投げ、枕元の目覚まし時計を5時半にセットし直して布団に潜り込む。
時計を見たら3時半前だったから、大体2時間くらい寝られる。計算だ。
急に眠気が強まってきた。瞼が重くなってくる。
このまま夢から覚めて、女と縁のない一人の生活に戻れれば良いのに・・・。
俺の願い事は叶わないように世の中動いてるんだろうか・・・。畜生・・・。
Fade out...
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