雨上がりの午後

Chapter 89 心と絆に垂れ込めてくる暗雲

written by Moonstone


 冷気が針のごとく鋭くなって久しい。もはやコートと手袋、マフラーは手放せない。
朝起きるのも辛いことこの上ない。月曜は別として。
今年の冬は厳しくなる、という長期予報が秋にあったが、あれはどうやら当たったようだ。
こういう予報は当たって欲しくないんだが、寒い時に寒くないというのは問題が多いから約3、4ヶ月は耐え凌ぐしかない。
 今年もあと一月を切った。例年どおり−とは言っても俺と晶子は2回目だが−喫茶店Dandelion Hillのクリスマス・コンサートが開かれるということで、
俺と晶子はそれぞれ、時には一緒に練習していた。
晶子のレパートリーも随分増えて、俺とだけじゃなくて潤子さんともコンビを組む曲も加わり、前回よりバリエーション豊かなコンサートになりそうな
気配濃厚だ。
 今回の注目株は、自分の贔屓目もあるかもしれないが、晶子の新レパートリー「Winter Bells」と「Like a star in the night」だろう。
どれも冬をイメージさせる−前者はクリスマスソングと言って良いと思う−曲だけに客の人気も高い。
後者は潤子さんとのペア曲ということもあって、初公開以来毎回のようにリクエストされている。
練習に付き合っている俺としてはちょっと悔しいような・・・。
 かく言う自分はというと、晶子をコーラスにしたギター曲「Tonight's the night」と「Mr.Moon」が目玉だ。
片方はエレキ、片方はアコギと同じ種類だが違う性質の音を出す楽器と、片やダンサブル、片やメロウな感じの曲で対比を印象付けるという「作戦」だ。
本当はもっと候補曲を増やしたかったんだが、何分実験とレポートで忙しいし、晶子のコーラスと合わせることを考えるとこれが限界だ。
 今日も講義を終えてくたびれた身体を押し進めるように歩く。その隣には晶子じゃなくて智一が居る。
4コマまで講義がある日が殆どだし、晶子は大学に来る時間も帰る時間も違う。
傍目にはすれ違いカップル状態だ。当然、智一がそのことを見過ごす筈がない。

「祐司。お前、後期になってから晶子ちゃんとご無沙汰なんじゃないのか?」

 ほら、今日も来た。
生憎だがバイトを続けているから夜には必ず会えるし、日曜の夜は晶子の家にお泊まりという日々が続いている。
・・・そう言えば、バイト先が同じことや週1回のお泊りのことは言ってないな。まあ、言う必要はないか。

「週末とかに会ってるからご心配なく。」
「とか言うけどさ、普段会えないと心配じゃないか?」
「何がだよ。」
「晶子ちゃんが浮気してないか、とか。」
「してない。」
「言い切るな、お前。」
「信じてるからな。」

 そう、信じてなきゃやってられない。
俺だって晶子と一緒に大学を行き来したいし、俺の目が届かないところで、なんていう不安というか疑念というか、そんな感情が頭を擡(もた)げて
くることがまったくないといえば嘘になる。
だが、晶子は人の目を盗んで悪さを−勿論悪い意味でだ−するような女じゃないし、そう信じてる。
 智一はひゅう、と口を鳴らす。
信じるもんか、で凝り固まっていたあの時から考えれば、俺は豹変したと言えるだろう。
宮城と切れた時は全てが終わったと思った俺だが、妙な気を起こさなくて良かったと思う。
一時の激情に全てを任せていたら、何をしていたか分からない。宮城との思い出の品が全て粉々になったが、人が粉々になるよりはずっと可愛らしい。

「なかなか言うねぇ。ま、それくらい信じてりゃ、俺が耳にした噂は文字どおり馬耳東風ってやつだな。」
「噂・・・?」

 噂、という一言と智一の思わせぶりな言葉で、俺の心に急速に暗雲が広がり始める。
たかが噂だ、気にするな。
心にそう言い聞かせてはみるものの、この暗雲は広がる一方で晴れる気配がない。

「何だよ、噂って。」
「文学部の奴から聞いたんだけどさ、晶子ちゃん、田畑とかいう助教授と仲良いらしいぜ。」
「・・・単に教官と学生の関係だろ?」
「お前知らないのか?田畑助教授って言えば、文学部じゃ知らない奴は居ない教官だぜ。」
「だから何が言いたいんだ。」
「田畑助教授はな、凄い女たらしで、目をつけた女子学生に言い寄ることで有名なんだ。それだけならまだしも、独身で金持ちでルックスも抜群だから
文学部の男衆の敵って言われてる食わせ物なんだぞ。」

 ありがちな話だな・・・。目をつけた女に言い寄るところは智一と一緒だが、教官と学生という立場が気にかかる。
単位と引き換えに女子学生に交際を迫る不届きな教官の話は、インターネットでもよく目にするからな・・・。

「田畑助教授は英文学科だ。晶子ちゃんも英文学科だろ?独身貴族の女たらし教官と、清楚可憐な晶子ちゃん。そんな二人が・・・」
「単なる噂だろ!妄想は一人で布団の中でやれ!」

 俺は語気を強めて智一の言葉を遮る。
そんな話、所詮噂に過ぎない。噂をいちいち本気にしてたら噂に翻弄されてしまう。
噂の対象が付き合ってる相手となれば尚更噂は切り捨てていかないといけない。噂が元になって関係が壊れるってこともありうるんだから。
 でも・・・心に垂れ込めた暗雲は消えない。
晶子を信じたい。信じなきゃどうするんだ。
幾ら自分に言い聞かせても暗雲は一向に晴れない。晶子が絡んだこの噂、もし本当なら・・・。
駄目だ!余計なことを考えるんじゃない!好きな女を信じないで何が彼氏だ!さっき自分で智一に言ったばかりじゃないか!単なる噂だろ、って!

「・・・俺は晶子を信じる。」
「その分なら大丈夫だな。」
「まさかお前、噂をでっち上げて割り込もうなんて考えてのことじゃないだろうな?!」
「そ、そんなことするかよ!割り込む隙は窺ってるけど、噂を捏造してまで割り込もうなんて考えやしないさ。そんな卑怯な手、使うかよ。」
「まったく、噂ってやつは・・・!」

 俺は吐き捨てる。苛立ちと不安と共に。
否、言葉に併せて苛立ちはどうにか吐き捨てられたが、不安だけは吐き捨てられずに心の中にしぶとく居座っていやがる。
どうにかならないのか、この胸の中で蟲がむずむず蠢くような嫌な気持ちは・・・!
 俺はたまたま近くに転がっていた石を力いっぱい蹴り上げる。
石は大きく水平に飛んだ後、かなりのスピードで道路を跳ねながら視界から消える。それでもまだ、心にあるこの嫌な疼きは消えない。
くそ・・・。どうにかならないのかよ・・・!

「・・・い、言わない方が良かったか・・・な。はは・・・。」

 そう言う智一の顔には引き攣った笑みが浮かんでいる。俺が言葉とは裏腹に激しい苛立ちを露にしたのに驚いているんだろう。
確かにこの苛立ちは智一の発した妙な噂によるものだ。だが智一本人のせいじゃない。その辺りは俺も弁えているつもりだ。
前みたいに彼方此方当たり散らすようなことはしない。

「まあ・・・、言わないでいてもらった方が良かったことには間違いないな。」
「そ、そうだよな・・・。ま、まあ、俺も文学部の奴に聞いただけで実際に現場を見たわけじゃないから、あんまり気にすんなよ。」
「ああ・・・。」

 そう同意はしてみるものの、益々噂の広げる暗雲が広く重くなってくるのが分かる。この暗雲を晴らすには・・・どうしたら良いんだ?
噂のレベルで晶子を問い質したくはない。何処かの歌じゃないが、噂を信じないで、とか晶子に泣かれかねない。
だが、噂のレベルで真偽を確認しておかないと・・・、また・・・俺は・・・大切なものを失ってしまうかもしれない。

俺の知らないうちに!

 否、真偽を確認しなくても噂が真なら黙っているわけにはいかない。
ただ教官と変に仲違いすることなく講義を受けている分には何ら問題ない。
だが、個人的に親密になるのは如何なものか。ましてや相手は浮名を流している男だ。
厳しく咎めておかないとそのまま俺とは違う方向に突き進むことに・・・。
 駄目だ!まだ俺は晶子を信用してない!
晶子を信じる、って智一に言い切ったのは他ならぬ自分じゃないか!
何度言い聞かせれば分かるんだ!俺は・・・俺は晶子を信じたいのに・・・!

「お、おい祐司。」

 智一が声をかけてくる。俺が智一の方を向くと、智一はひっ、と小さい悲鳴を上げて身体を少し仰け反らせる。
俺の表情がどうなっているのかは分からないが、恐らく苛立ちと不安がごちゃ混ぜになった、鬼のような形相になっているんだろう。

「何だよ。」
「しょ、所詮噂だからさ・・・。い、言っとくけど俺が流した噂じゃないからな。俺はあくまでそういう話を聞いただけだからな。これだけは信じてくれよ。」
「分かってる。お前は聞いた噂をおれに聞かせただけだってことくらいな・・・。」
「そ、そうか・・・。」
「こんな気分になるなら聞きたくなかったけどな。」

 俺がそう言うと、智一は益々表情を引き攣らせる。余程恐ろしい表情で智一を睨んでいるんだろう。
噂を聞かせただけだとは分かっているが、智一の行動を恨まずにはいられない。
何も知らなければ普段どおり帰宅してバイトして晶子の家で紅茶をご馳走になって、という平凡だが幸せな時間を過ごせた筈なのに・・・。

 カランカラン。
カウベルの音が何時ものとおり最初に俺を出迎える。だが、その音が今日はやたら耳障りに感じる。

「こんばんは・・・。」
「おっ、こんばんは。・・・な、何だ一体。随分ご機嫌斜めみたいだな。」
「気のせいですよ。」

 そう言っては見たものの、俺は内心やはりそうか、と思う。
智一と別れて帰宅してから此処に着くまでの間、暗雲は晴れるどころか完全に俺の心を覆い尽くしてしまった。
胸が嫌に疼く。この気分はかつて感じたことがある。高校時代、宮城が他の男と親しそうに話している様子を見た時に感じたものと同じだ。

「こんばんは。・・・祐司さん、何かあったんですか?」

 カウンターに座っていた噂の「関係者」である晶子が、気遣うように尋ねてくる。
俺は反射的に晶子の方を向いて口を動かそうとしたところで、どうにか自分を制止する。この場くらいはとりあえず抑えないと・・・。
第三者の客もいるから、そんな状況で噂を元にした痴話喧嘩なんてみっともないどころの話じゃない。

「いや、別に何も。」
「そうですか・・・。」

 何時もなら何かあったんでしょう、と突っ込んできそうなところだが、晶子はそれ以上俺に尋ねようとはしない。
これもあの田畑とかいう助教授と仲良くやってて気分が良いせいか?
そう思えて余計に暗雲が重く垂れ込めてくる。いつか雨雷が発生してもおかしくない空模様だ。
 俺は何時もの席に腰を下ろして、客席の方を見る。客はまだ疎らだ。
潤子さんが俺が来たのに気付いたのか−カウベルの音で気付いているとは思うが客相手で直ぐには来れなかったんだろう−、何時ものような
温かい笑顔を浮かべて小走りでこっちに来る。

「こんばんは。」
「こんばんは、祐司君。あら?今日はちょっとご機嫌斜め?」
「いや、単に講義の連続で疲れてるだけですよ。」
「そう・・・。ならまだ良いんだけど、心に毒を溜めるのは身体にも良くないわよ。」

 !潤子さん、俺の心模様が分かるのか?!
・・・まあ、誤魔化しが効かないとか不器用とか言われる奴だから、潤子さんでなくても分かるよな。俺に今日何かがあったかってことくらい・・・。
でも潤子さんが言うところの「毒」は此処で吐き出すわけにはいかない。
兎に角今は外部から余計な刺激を受けないことが肝心だ。その刺激で毒を溜め込んだ心が破裂してしまいかねない。

「夕食の用意するから、ちょっと待っててね。」
「・・・はい。」
「はい。」

 カウンターの内側に入った潤子さんの呼びかけに対する応答も、俺と晶子では全然声の張りや調子が違う。
晶子は普通どおりだが、俺は確実に落ち込んでいるのが自分でも良く分かる。
晶子の普通どおりの応答が、俺には無神経で脳天気にさえ思える。
 ・・・危ない。このままじゃ晶子に対する気持ちまで、何もかも奈落の底に叩き込んでしまいそうな暗雲に飲み込まれてしまう。
晶子を信じるんじゃなかったのか?!俺は何をやってるんだ?!自分で言ったことすら実行できないでどうするんだ?!

「・・・さん、祐司さん。」

 晶子の声で俺は我に帰る。
俺は何とか平静を取り繕って−多分取り繕えてないと思うが−晶子の方を向く。その表情は不安そのものだ。
そういう表情は俺がするものだ、と思うと、腹のそこからふつふつと嫌なものが沸き立ってくる。

「・・・何だよ。」
「具合悪いんだったら、無理しない方が良いですよ。」
「俺はバイトが生活に直結するんだ。気楽なこと言うな!」

 無意識に語気が荒くなってしまった。晶子はびくっとして困惑した表情で俺を見る。

「お、おいおい、祐司君。一体どうしたんだ?」

 マスターが髭面に似合わない−失礼だがそう思えるんだが仕方ない−心配げな表情で俺を見ている。
考えてみれば、今までマスターと潤子さんの前で晶子を怒鳴りつけたことはなかったんじゃないだろうか?
だとすると、俺の感情は制御不能に限りなく近い状態になっているのかもしれない。

「井上さんは君を気遣って言ったんだぞ。何も怒鳴りつけることないじゃないか。」
「・・・すみません。」

 俺は口ではそう言いつつも、視線をマスターに合わせない。それこそ吐き捨てるように、上っ面だけ謝っただけだ。
マスターと潤子さんはあの噂とは何の関係もない。なのにマスターにまで怒気を向けてしまった。
 ・・・そうだ。俺は怒ってるんだ。智一からあの噂を聞いたことで。
もっと厳密に言えば、その噂で晶子が他の男と、それも浮名を流している教官と親しくしているということに。
事実かどうか確かめたわけじゃない。だが、噂を聞いたことがきっかけで心に広がり始めた暗雲は、晶子に対する一番大切な感情の一つ、
信じるということを確実に蝕んでいる。蝕まれたそれは怒りに変質してしまっている。
とうとうそれが表面化したわけか。否、智一との時で既に表面化していたと思うが。

「井上さん、祐司君に何か悪いことした覚えはあるかい?」
「私はないんですが・・・祐司さんにしてみれば悪いことをしてしまっているのかもしれません。推測の域を出ませんけど。」
「祐司君、井上さんが何か君の感情を害することをしたのかい?」
「・・・断言は出来ませんけど・・・。」
「ん?どういうことだ?」
「此処では言いません。これは俺と・・・晶子の問題ですから。」

 俺が言ったことが晶子とマスターに聞こえたかどうかは分からない。
だが、そんなことはどうでも良い。やっぱり晶子を問い質すしかない。
そうしないとこの暗雲は晴れそうにない。何時までもこんな恐ろしい暗雲を心に漂わせておくわけにはいかない。
 だが、俺が問い質したところで晶子は本当のことを言うだろうか?
真相が発覚するのを恐れて、はぐらかしたり偽ったりするんじゃないか?
噂が噂じゃなかったら、俺は何としても晶子をその女たらし教官から遠ざけなきゃならない。どんな手を使ってでも。

「はい、お待たせ。」

 潤子さんの声で俺は視線を上げる。湯気の立ち上る器が乗ったトレイが二つ前に差し出されている。
俺は、いただきます、と言ってトレイを受け取ってさっさと夕食を食べ始める。
今日は肉団子と野菜のスープに回鍋肉という俺好みのメニューだが、味を味わう心理的余裕はまったくない。

「私から二人にそれぞれ一つずつ忠告させてもらうけど・・・。」

 潤子さんが顔を上げた俺に向かって言う。

「祐司君は晶子ちゃんに何か尋ねる時、絶対に感情的にならないように。言う前に必ずゆっくり10数えなさいね。それだけで随分違ってくるから。」
「・・・はい。」

 俺が返答すると、潤子さんは同じく顔を上げた晶子の方を向いて言う。

「晶子ちゃんは祐司君の質問に、包み隠さず正直に答えるように。嘘や誤魔化しは何ればれるし、ばれた時には取り返しのつかないことになりかねないわよ。」
「はい。」
「それから最後に二人に共通することを一つ。どうしようもなくなったら私やマスターに相談して頂戴。少なくとも私やマスターは、貴方達二人を
ただのバイトの子とは思ってないから。」
「・・・はい。」
「分かりました。」

 俺と晶子はそれぞれ返答する。
マスターと潤子さんが俺達を自分の子どものように思っていることは知っている。
確かにどうしようもなくなったら、二人に相談した方が賢明だろう。
会えない時間の多さ、潤子さんは親から勘当、そんな試練を乗り越えて結婚して仲睦まじい家庭を作ってるんだ。
赤のの他人の俺が本当の家族のように思えるような・・・。
そんな二人の「セーフティネット」があるなら、場合によっては利用した方が良いに決まってる。出来れば、そんな事態にならないで欲しいんだが・・・。

 今日のバイトも終わった。
クリスマスコンサートを約一月後に控えていることもあってか、リクエストタイムでは俺が1曲、晶子が2曲、マスターが1曲、そして晶子と潤子さんの
ペアが1曲と分散した。
俺が演奏したのはクリスマスコンサートの候補曲である「Mr.Moon」。練習はそれなりに積んできたからきちんと整ったと思うが、俺の心の違和感が
消えないままだったから客にもそれが伝わったかもしれない。
 「仕事の後の一杯」でも会話は殆どなく、潤子さんが念のため、と言って夕食の時に言った忠告を繰り返した。
感情的にならないように、と。
言う前に必ずゆっくり10数えるように、と。
言うのは簡単だが、一旦感情が高ぶったらそれを実行できるかどうかの保証はまったくない。
だが、付き合う前の智一との一件で俺が一方的に怒鳴り散らして心がすれ違いを起こしたことを踏まえれば、潤子さんの忠告をしっかり
胸に刻んでおくしかない。

「・・・今日大学から帰る時、智一から聞いたんだけど・・・。」

 それまで俺と晶子の間に立ち込めていた沈黙を俺が破る。
今日は俺と晶子は手を繋いでいない。
俺が繋ぐことを拒否したんじゃない。晶子が拒否したわけでもない。
どちらからも手を差し出せる雰囲気じゃなかった。それだけだ。

「晶子。お前・・・、田畑とかいう助教授と仲良いんだって?」

 俺が率直に尋ねると、晶子ははっとした表情になる。
思い当たる節はあったのか・・・。俺は黙ったままの晶子に畳み掛ける。

「これも智一から聞いたんだけど、その田畑っていう助教授は彼方此方で浮名を流してることで有名なんだってな。それは別としても、だ。
晶子がその田畑とかいう助教授と仲良くしてるっていうのは本当なのか?」
「・・・はい。田畑先生とは仲が良いです。」

 噂は本当だったのか・・・。
暗雲が晴れる代わりに、心の底から嫌な感情がふつふつと沸き立ってくる。
・・・怒りだ。間違いない。

「でも、仲が良いって言っても、専門教科の話とか世間話とかしてるだけです。疑われるような関係じゃありません。」

 それが疑われるような関係なんだ、と言いそうになったところで、俺は潤子さんの忠告どおりゆっくり10数える。
そうすると不思議と破裂しそうな感情が静まっていくように感じる。

「でも、その田畑助教授と仲が良いのは事実なんだろ?」
「はい・・・。」
「それに話の内容が何であろうが、傍目から見れば晶子の行動がその助教授と親しく見えるとは思わないのか?」
「私はそんなつもりはないんですけど・・・、確かにそう思われても仕方ないですね・・・。」
「別に絶対俺以外の男と話をするなとは言わない。そこまで晶子を拘束する気はない。でも周囲から疑われるような行動は慎んで欲しいんだ。
噂ってのは簡単に尾鰭が付く。俺がその助教授との関係を疑うのは勿論、晶子自身が変な目で見られることになるかもしれないんだぞ。
晶子が前に言ってたじゃないか。俺がプレゼントしたペアリングを左手の薬指に填めたから、言い寄られる回数が激減した、って。」
「はい。覚えてます。」
「なのに、彼方此方で浮名流してる助教授と仲良く話してる現場を誰かが見れば、あんなところに指輪填めてるのに相手が居ないところじゃ
あの男と仲良くしてるのか、って思われかねないんじゃないか?晶子はそれが良いのか?」
「良くないです。」

 晶子は断言する。その表情は真剣そのものだ。嘘や誤魔化しは一片も感じられない。

「だったら・・・もう噂を生むような行動は慎んでくれ。講義が殆ど専門教科になって行く場所が離れてても、今回みたいに噂ってやつは簡単に届くんだから。」
「祐司さんが今日不機嫌だったのは、伊東さんから私と田畑先生の噂を聞いたからだったんですね。実感しました。」

 晶子は神妙な表情で言う。

「私自身は気軽に話が出来る先生としか思ってなかったんですけど、祐司さんの言うとおり、確かに周囲から見れば疑いを持たれて噂になっても
仕方ないですね。」
「・・・。」
「これからは注意します。それからはっきりこの場で宣言します。私は祐司さんを愛してます。その気持ちに変わりはありません。嘘偽りはありません。
自分が原因を作っておいて無責任と言われればそれまでですけど・・・信じてください。お願いします。」

 晶子の表情は真剣で、その大きな瞳は真剣さを訴えているように見える。
どうやら噂は浮気という最悪の事実とは違うものらしい。否、違うんだ。
晶子がこれほど真剣に言っているんだ。肝心の俺が何時までも疑ってたら話が進まないどころか悪い方向に進んでしまう。

「・・・分かった。信じるよ。俺だって疑いの目で晶子を見たくないし。」
「ありがとうございます。本当に御免なさい。祐司さんの気持ちを踏みにじるようなことをして・・・。」
「噂が噂でしかなかったってことが本人の口から明らかになったんだから、信用する以外にないさ。第一、晶子がそこまで真剣に言うのに
俺が信用しなかったら、俺と晶子の関係は・・・縁起でもないけど、破局へ向かって一直線だからな。」
「祐司さん・・・。」

 安堵の笑みを浮かべる晶子が俺との距離を詰めてくる。そして手が触れ合い、自然と重なり合う。そう、何時ものように・・・。
俺の感情もさっきまでのが嘘みたいに静まり返り、暗雲も沸き立つ怒りもすっかり消え失せてしまった。
 正直言えば、軽はずみなことをするな、と晶子に釘を刺しておきたいところだ。
でも今はそんなことをするべきじゃないだろう。晶子があんなに真剣に噂を否定して、信じてくれ、と懇願したんだ。
そんな相手を突き飛ばすようなことはしたくない。
噂は噂でしかないと分かった。それで良いじゃないか・・・。

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