雨上がりの午後
Chapter 87 「あの日」へ向けて考え、考え
written by Moonstone
試験が終わって月が変わった。新しい講義日程と共に前期の試験結果も発表された。
俺も智一も全てクリア出来た。智一は電気回路論Tと電磁気学Tがクリア出来たのを知った瞬間、その場で万歳三唱した。
本人曰く「落ちるかと思ってた」ということだ。
そして後期からのメインとも言える専門教科の実験のテキストとグループ分けの表が配布された。
やっぱりと言うか案の定と言うか、俺と智一は同じグループになった。
これを知った智一は万歳三唱した。そして俺の肩をポンと叩いて「よろしく」と一言言った。
俺は「知らん」と一言言っておいたが、それが効力を発揮するとは正直思えない。
晶子の方も全ての試験をクリアした。
晶子は自分のことはそっちのけで、俺が全ての試験をクリア出来たことを聞いて喜んでくれた。
最後の週末に自分が突然来訪したことで妙な影響を残さなかったかどうか、不安だったそうだ。あれは俺にとって至福の時だったから心配なんて必要ないのに。
そう言えば、専門教科の実験は月曜日に組み込まれることになった。
で、当日に実験内容や手順を簡潔に纏めたレポートを提出して、同時に先週の実験のレポートを提出して承認を受けないといけない。
更に実験も終わったらデータや結果を纏めて報告に行って承認をもらわないといけない。つまり、土日はこれまで以上に負荷が掛かることになったわけだ。
「食事を作りに行きましょうか?」
晶子が言ってくれたが俺は丁重に辞退した。
レポートの纏めの時間は集中したいのもあるし−晶子は居ても邪魔するわけじゃないんだが、念のため−、何より俺のためにわざわざ
そこまでしてもらう必要はないと思ったからだ。
晶子は俺の召使いじゃないんだから。ただでさえ月曜は厄介になってるって言うのに。
で、実験が月曜日になって−始まりは2コマ目からというのはありがたいが−それが何時終わるか分からないからどうしよう、ということになったんだが、
晶子には俺が4コマ目の終了時刻少し過ぎに連絡すると約束した。
それで夕食を作って待っていてもらうか、一人で夕食を食べてもらうか−自分の夕食は学食で済ますしかない−決めてもらうというわけだ。
それが一番適切だろう。
実験は一応4コマ目までとはなっているが、テキストを見た限りではそれで終わる保証など何処にもないし、智一が仕入れた情報でも
終了が夜になる実験もあるそうだ。
まったく厄介なことになったもんだ。でも、そう言うことがあるのを承知で受験したんだから、今更文句を言っても始まらない。
さて・・・、月が変わって「あの日」が目前に迫って来た。
「あの日」とは勿論、俺と晶子が出会った日、10月11日だ。
今年は第1回目の実験がある週の木曜日になる。もう本当に目の前だ。なのにそれを前にしても、まだ何をどうするか決められないでいたりする。
プレゼントは誕生日とかクリスマスとかそういう時には良いがこういう日にはあまり似合わないような気がするし、かと言って俺にとって
重大な転機のきっかけになった大切な日を疎かにしたくない。
果たしてどうしたものか・・・。
マスターや潤子さんに相談しようかとも思ったが止めた。
誕生日は晶子に言われるまですっかり忘れてたという無様を晒してしまったから、今回は自分で考えた演出で貴重な思い出を作りたい。
「何難しい顔してるの?」
不意に潤子さんが話しかけてきた。
二人の記念日まであと1週間を切ったバイトの暇な時間、俺はカウンターで水を飲んで休憩していた。
晶子は水の入ったポットを持って客席を回っている。マスターはステージでサックスを吹き鳴らしている。「TWILIGHT IN UPPER WEST」だ。
「秋は夕暮れ」って確か枕草子にあったけど、黄昏時をタイトルに含んだこの曲は今の時期に良く似合うと思う。
「そんな顔してました?」
「鏡見せてあげれば良かったかしらね。」
潤子さんはそう言って微笑む。俺は苦笑いするしかない。頭の中の様子が顔に出易いってことを忘れてた。
でも実際、今日もバイトをしながら暇さえあれば「あの日」のことを考えていたりする。
晶子やマスターにも尋ねられたが、来週からの実験のことで、とか言って誤魔化した。
「ちょっと来週からの実験のことを考えてて・・・。」
「それにしちゃ、複雑な感じがしてたけど。」
「複雑な感じ?」
「実験のことだけならそのことだけに集中している様子になるところなのに、さっきの祐司君はあれをどうしようとか、これはこうした方が良いかな、
とか考えてるみたいだったわよ。」
う、考えてる様子がそのまま表情に出てたか・・・。
それにしても潤子さん、人の表情をよく観察してるな。
別に悪さを企んでるわけじゃないんだが、晶子とのことはあまりマスターや潤子さんに知られたくない。
二人だけが知っていることにしておきたいところだ。
「そういえば、この時期じゃなかったっけ。」
「何がですか?」
「祐司君が前の彼女にふられたのって。」
「・・・ええ。よく覚えてますね。」
「それまで皆勤賞だった祐司君がいきなり無断で休んだから、印象に残ってるのよ。理由を話してくれた時は凄く重い表情だったしね。」
そう、バイトを始めてからずっと無遅刻無欠勤を通してきた俺が、宮城にふられたショックで飲みまくった自棄酒の煽りで無断で休んだんだ。
それ以外で自分の事情でバイトを休んだのは熱を出して寝込んだ時だけだから、潤子さんの印象にも残っていても不思議じゃない。
「まだ、前の彼女からよりを戻そうとか言われて悩んでるとか?」
「いえ、みや・・・前の彼女とは夏に海に行った時に、二人合意の上で綺麗さっぱり清算しました。潤子さんが行くように助言してくれたじゃないですか。」
「あ、そうだったわね。じゃあ、何を悩んでるの?」
「それはちょっと・・・。」
「・・・まあ、無理に言わせるつもりは毛頭ないけど、ご実家の事情とかそういうのだったら遠慮なく話してね。マスターと私も相談に乗るし、
出来る限りのことはするから。」
「ありがとうございます。実家絡みとか、そういう厄介な性質の問題じゃないんで・・・。」
とは言ってみたものの、ある意味実家絡みとか宮城関係とかより厄介な問題なんだよな・・・。
「あの日」まで日にちもそんなにないし、実験のレポートの調べ物とかで大学でじゃ考えてる余裕もあんまりなさそうだし・・・。本当にどうすりゃ良いものやら。
晶子が戻って来た。その表情は少しばかり訝しげだ。俺と潤子さんが二人で話をしていたところを見てたんだろうな。
自分に話をしないで潤子さんに話すなんて、と嫉妬じみた感情を抱いているかもしれない。
晶子はポットを置いてこっちにやって来る。絆の糸が縺(もつ)れないうちに誤解を解いておいたほうが良いな。
「潤子さんとは世間話してただけだから。」
「そうですか・・・。その割に祐司さん、深刻そうな顔してましたね。」
「世間話にも色々あるだろ?明るい話ばかりとは限らないさ。」
「まあ、それはそうですね。」
「・・・あんまり納得してないだろ?」
「離れたところで二人でお話なんて、見ててあんまり良いものじゃないですよ。」
そりゃもっともだ。俺が晶子との付き合いの不満を漏らしているとか、所謂恋愛指南を受けているとか思われても仕方ないシチュエーションだよな。
晶子の目はやっぱり少し訝しげだ。
何とか誤解を解いておきたいんだが、まさか「あの日」のことを口に出すわけには行かないし・・・。
「大丈夫よ、晶子ちゃん。祐司君を奪ったりしないから。」
潤子さんがさらりと、しかし刺激の強いことを言う。
フォローのつもりだろうけど、今の状況じゃますます晶子の疑念を膨らませるだけのような気がするんだが・・・。
「そんなこと、譬え潤子さんでもさせませんから。」
「それだけの気概を持ってるなら、祐司君と私の間に何もやましいことがないってこと、信じてくれても良いんじゃない?」
潤子さん、上手い。
晶子の心理を読んで俺と潤子さんとの間で妙な密談があったことを否定して、同時にそれを晶子に納得させようとするとは。
流石に勘当とかの荒波を乗り越えてマスターと結婚して、二人で店を切り盛りしてるだけのことはある。
晶子は少し視線を落として沈黙した後、納得したような表情で小さく頷く。
内心ではまだ疑っているかもしれないが、とりあえずこの場は丸く収まった。俺も当事者の一人だっただけに内心胸を撫で下ろす。
でも、バイトが終わって帰る途中で問い質されるんだろうな・・・。
何て言ったら良いんだろう?
今回は俺が晶子を感動させたいから「あの日」が近いことを言うわけにはいかないし・・・。実験とかよりこっちの方が遥かに厄介だな、こりゃ。
「祐司さん、正直に答えてくださいね。潤子さんと二人で何を話してたんですか?」
その日のバイトが終わった帰り道、案の定晶子から質問、否、尋問を受けた。
晶子の目は真剣そのもの。疑念に加えて怒りすら篭っているように見える。
仕方がない。ここは「あの日」のことを伏せた上で経緯を丁寧に話すしかないか。
沈黙や誤魔化しは通用しない。それどころか余計に晶子の疑念を増幅させるだけだ。
「俺が考え事してるところに潤子さんが何考え事してるの、って話しかけてきて、丁度この時期俺が宮城と切れたことに話が移って・・・。
宮城とはこの前の夏に清算したって話したら、潤子さんが困ったことがあったら遠慮なく話してくれ、相談に乗るし出来るだけのことはするから、
って言ってくれたんだよ。」
「・・・そうだったんですか。」
「ああ。俺は晶子と付き合ってて何の不満もないし、潤子さんに晶子のご機嫌取りの指南を仰ぐ必要もないだろ?晶子がそういうタイプじゃないって
ことは分かってるつもりだよ。」
「それなら良いんですけど、一つだけ引っかかることがあるんですよね・・・。」
「何が?」
「ここ最近、祐司さん、しょっちゅう考え事してるじゃないですか。実験のことにしては長過ぎるし頻繁だし、何か別のことを考えてるんじゃないかと思って。」
「それは思い違い。実験で智一と同じグループになったから、データと結果だけもらうような良いとこ取りされないようにするにはどうしたら良いか、
考えてたんだよ。一般教養の実験でも散々な目に遭ったからさ。」
実際以前に考えていたことを口にすると、晶子は小さく何度か頷く。
その目からは疑念や怒りといったものは感じない。
どうやら「あの日」を伏せることは出来たみたいだ。表情に出さないように気を付けながら内心で安堵の溜息を吐く。
「前に祐司さん、伊東さんの実験のフォローとかで、同じ実験を同時にやってるみたいだ、って零してましたものね。」
「今度ばかりは良いように使われたくないからな。まあ、晶子には関係ないことで愚痴ってたことには変わりないけど。」
「祐司さんって私の時もそうでしたけど、冷たいようで実は親身に接する人ですからね。今の時代、そういう人の良さに突け込む人が多いですから、
祐司さんみたいな真面目で誠実な人は損ばっかりですよね。」
「否、そうでもないぞ。少なくとも俺は。」
「え?」
「だって、それがきっかけで晶子と今みたいな良い関係になれたんじゃないか。こんな幸運が飛び込んできたんだから、晶子が言ったような性格は
損ばっかりじゃないさ。」
俺がそう言うと、晶子の顔に嬉しそうな、そして照れくさそうな笑みが浮かぶ。
晶子のこういう表情を見ると、俺まで嬉しくなってくるんだよな。連鎖反応ってやつかな?
「そう言ってもらえると嬉しいです。」
「前に智一に言われたんだけど、むしろ俺は晶子に礼を言わなきゃならない立場だよ。晶子が一途で挫折にへこたれない性格だから、あれだけ晶子を
邪険に扱ってた俺の心の壁を突き崩して晶子の方に向かせたんだ。今の俺と晶子の関係があるのは晶子のお陰だよ。」
「今の祐司さんと私の関係があるのは、祐司さんは私のお陰だって言ってくれる。私は祐司さんの真面目さや誠実さに惹かれたからだと思ってる・・・。
お互いに相手に感謝し合えるって、良いですよね。」
「ああ、そうだな・・・。」
俺と晶子は顔を見合わせて微笑む。
ふと空を見上げると星が煌いている。一時はこの幻想的で綺麗な空にさえ何の感慨も感じなかった。
そこまで荒んでいた俺の心を変えてくれたのは、智一が言ったとおり晶子だ。
俺が邪険に扱っても、無関心を装っても諦めたり見限ったりすることなく、俺の傍に居てくれたお陰だ。
「あの日」はそんな晶子を感動させる日にしたい。でも未だ良い方法が思いつかない。もう残された時間は少ないというのに・・・。
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