雨上がりの午後

Chapter 62 忘れ得ぬ気持ちと記憶 

written by Moonstone


 話に夢中になっているうちに喉に渇きを感じて、紅茶を口に運ぶ。豊潤な香りが心を落ち着かせ、流れ行く液体が喉の渇きを癒していく。
落ち着いたところで再び晶子の方を向く。晶子も俺と同じように紅茶を飲んでから俺の方を向く。
大きな瞳に俺の顔が映っている・・・。それだけでも俺は想われているんだと感じさせる。
 俺の自動車学校の話題も底をついた。次は何を話そう・・・。そう考えている間も晶子は俺をじっと見詰めている。
こういう場合ちょっと困る。考えるにも視線を逸らすことが出来なくて考えることに集中できないからだ。
何の話をしようかな・・・。無難に音楽や練習の話をするか?でもそれだとマンネリだしな・・・。

「音楽、かけますね。」

 そんなことを思っていると、不意に晶子が立ち上がってCDやコンポの並ぶ棚へ向かう。
そこでCDを選んだ後、CDをケースから取り出して引き出たコンポのCDスロットに置いてボタンを押す。
鐘のような甲高いエレピ(エレクトリックピアノ)らしい音色のリフ(一定パターンの繰り返し)に乗って聞こえてきたのは倉木麻衣の声だ。
初めて耳にする曲だが、クリスマスソングのような感じがする。
 晶子がさっさと俺の横に戻ってきて腰を下ろす。他の人間だったら邪魔に思えるくらいぴったりと・・・。
やがて安っぽい一定のリズムを刻むドラムが−パーカッションと言っても良いくらいだ−入って、ミディアムテンポの曲の体裁を成す。
これがなかったら本当にクリスマスソングだと言われてもああ、そうかと信じてしまいそうだ。

「これ、何ていう曲なんだ?」
「倉木麻衣の『Can't forget your love』っていう曲ですよ。新しくレパートリーに加えようかな、って思ってるんです。」

 『Can't forget your love』か・・・。日本語にするなら『忘れ得ぬ貴方の愛』といったところか。
本格的なストリングスも入ってきて、倉木麻衣のウィスパリングも相俟ってロマンチックでタイトルに相応しい曲に聞こえる。
店の雰囲気にも充分マッチしている。レパートリーに加えても何ら支障はないだろう。

「これはなかなか・・・良い曲だな。」
「そうでしょ?店頭で初めて聞いた時、これは良い、って思って迷わず買ったんですよ。」
「まだシングルしか出てないのか。」
「ええ。前のアルバムが出てからまだ日にちもそんなに経ってませんし。」
「次のアルバムには間違いなく入るだろうな。」
「私もそう思います。」

 少しの会話を挟んで俺と晶子は曲に聞き入る。
ストリングスとの掛け合いが今までにない倉木麻衣の魅力を醸し出しているように聞こえる。
そしてほぼ独唱と言って良い部分を経て、再びストリングスやコーラス、リズム音との掛け合いが始まる。この手の曲にしては変化に富んだ構成だ。
 左肩に軽い重みを感じる。晶子が凭れてきたな・・・。
勿論嫌な気はしない。俺は少し冷め始めた紅茶を口に運ぶ。その香りも加わって、心が眠くなりそうなほど静まってくるのを感じる。
ついさっきまであれこれ話題を探していたり、精神的欲求だの肉体的欲求だのとあれこれ考えていたのが小恥ずかしくさえ思える。
 どうも俺はその場を取り繕おうとする傾向が強いようだ。無理に会話を作ろうとしたり・・・。
晶子は会話がなくても一緒に居られればそれで良い、ってタイプの今時珍しい女だってことを忘れてしまう。
宮城が話し好きで退屈を嫌うタイプだったから、その余韻をまだ引き摺っているのかもしれない。

「祐司さん・・・。」

 曲がフェードアウトし始めた頃、俺の左肩に凭れた晶子が声をかけてくる。
その方を見て俺は胸をぎゅっと締め付けられたような気がする。
微かに笑みが浮かぶ口元、潤んだ瞳、何かを求めているような表情・・・。どれもこれも魅力的で官能的で、視線を逸らすのを忘れさせるには充分だ。
 晶子が少し顎をしゃくりあげる。俺の唇を求めるように・・・。
俺はそれに吸い寄せられるように晶子の肩を抱き寄せ、目を閉じながらその唇に自分の唇を覆い被せる。
温かくて柔らかい感触が俺の身体を幸せで痺れさせる。その痺れが身震いとなってより強く晶子の肩を抱かせる力の源となる。
 俺の唇を割って熱くて柔らかいものが入ってくる。俺はそれに抗うことも驚くこともなく、それに自分の舌を絡める。
内側から熱くなってくる身体を誤魔化すように、俺は口の中を彷徨う晶子の舌を追う。
 晶子の舌が俺の口から出て行く。
それを追いかけて晶子の口の中に舌を滑り込ませる。否、吸い込まれると言った方が良いかもしれない。
晶子の舌は待ってましたとばかりに俺の舌に絡みつき、俺の舌の動きに合わせて生温かい空間を彼方此方彷徨う。
 ・・・俺が少し名残惜しい気持ちで晶子の口の中から自分の舌を引き上げさせようとするが、晶子の舌がなかなかそれを許してくれない。
行かないで、と懇願されているような気がする。離れたくないのは俺も同じだが、そろそろ離れないと息苦しい。
「大人のキス」は意外に難しいものだ。
熱中すると−どうしても熱中してしまうものだが−呼吸を忘れてしまうし、かと言って鼻で充分な酸素を確保するのはムードを殺いでしまう。
 俺は晶子の肩を抱いていた腕の力を緩めて一度離れたい、という無言の意思表示をする。
すると晶子も俺の「状況」を理解したのか、ゆっくりと、それこそ名残惜しそうに俺の舌を解放する。
俺と晶子の間に距離が出来るが、さっきまでの想いの濃厚なダンスの痕跡が蛍光灯の光に照らされて虹色に輝く。
 俺は晶子に軽くキスをすることで、その虹の橋を落とす。
これで一旦−またムードが高まったらすることになるだろう−舌のチークタイムは終了、という合図を兼ねている。
目を開けると、晶子が俺の左肩に凭れ、顎をしゃくりあげたままの態勢で俺を潤んだ表情で見詰めている。
この表情を見ると、キスを止めたのがもの凄く惜しい気がしてならない。女のこういう表情に男は弱いんだよな・・・。俺だけかもしれないが。

「・・・はぁ。」

 晶子が艶かしい表情で小さな溜息を吐く。この仕草がまた色っぽい。
キスの度に思うことだが、どうして晶子はこんなに恍惚とした表情が出来るんだろう?そもそも晶子にとってキスとはどういう位置付けなんだろう?
 俺にとっては告白と並んで一大イベントだという位置付けだ。
告白は普通1回だけだが−俺は同じ相手に何度も告白したことはない−キスは一度通じ合えば大抵何度かするものだと俺は思っている。
最初は唇を重ねるだけだが、何度かするうちに、気持ちが高ぶるうちに、相手の口に自分の舌を入れるというある種セックスに近い行為へと発展する。
そういう二段階を踏まえるうちにより親密な仲になれる。そういうものだと思っている。
 晶子にとってキスは、精神的欲求を満たすものであると同時に、肉体的欲求を満たすものなのかもしれない。
舌を滑り込ませてくるのは必ずと言って良いほど晶子からだし、それを終えて恍惚とした表情になるのも−俺の表情は鏡を見てみないと分からないが、
そんなに普通の時と変化はないと思う−、その表れなんじゃないだろうか?

「もっと・・・したいか?」
「・・・したい。」
「そうか・・・。」

 俺は呼吸を整えてから再び晶子の肩を抱き寄せて唇を塞ぐ。と同時に、晶子の舌が俺の唇を割って入ってくる。
そこから先はもう晶子の思うが侭だ。
俺の口をかき回し、その動きに追いつこうとする俺の舌に時に絡ませ、時に追いかけさせながら巧みに自分の口へと誘い込む。
 俺は晶子を捕らえて離すまいと晶子を限界まで抱き寄せて舌の動きを早める。
晶子の口の中で二つの舌が濃厚なダンスを踊り、そして追いかけっこをする。,
半ば翻弄される俺の舌と入れ違いに再び俺の口の中に舌を滑り込ませてくる。<
俺はその舌に自分の舌を絡めて吸う。すると晶子も俺の舌を吸う。互いの唾液が交換される。紅茶の香りが染み込んだ味がする・・・。

・・・。

 俺と晶子はほぼ同時に舌を引っ込めて口に距離を挟む。蛍光灯の光で虹色に輝く唾液の橋が俺と晶子の唇を結んでいる。
俺も晶子も荒い呼吸をゆっくりと整えながら互いの顔を見る。
ラベンダーには鎮静作用があると言うが、少なくとも今の俺と晶子には興奮作用を齎したような気がする。
 どうにか呼吸も落ち着いたが、晶子は尚も求めているようだ。
やっぱり晶子にとって、キスは精神的欲求と肉体的欲求を同時に満たすものなんだ。
一緒に居られる時間がバイトと月曜日の練習くらいになった今、晶子は精神的な繋がりと同時に肉体的な繋がりもしっかり保っておきたいんだろう。
そうしないと、絆が切れそうで怖いんだろう。俺も永遠に続くと思っていた絆が呆気なく切れた経験があるから、晶子の気持ちは分かるつもりだ。
 虹の橋を切る為に、俺は晶子の唇に軽いキスをする。俺が顔を近付けると、晶子は反射的に目を閉じる。
唇を離した後はちょっと長めのタイムラグの後に目を開く。それももっとキスして、という意思表示なんだろうか?

「・・・満足したか?」
「したと言えばしましたし、してないと言えばしてないです。」
「禅問答みたいだな。」
「出来るものなら、ずっとキスして居たい・・・。そうすれば、祐司さんが私から離れることがないから・・・。」
「おいおい・・・。」

 とんでもないことをいともさらりと言ってのける晶子。そりゃずっとキスしていれば離れようにも離れられないが・・・。
そんなに俺とキスがしたいのかと思うと、正直言って嬉しい。
晶子ほどの美女にキスして欲しいと言われれば、つい舞い上がってしまうのが男の性というものだ。
 「Can't forget your love」はまだ流れている。
シングルだからとっくに終ってて良い筈なんだが、同じフレーズがまた聞こえるということは、晶子がリピート演奏させているんだろう。
忘れ得ぬ貴方の愛・・・自分が思った言葉が頭の中でリフレインされる。
晶子はその意味を込めてこの曲を選んだんだろうか?何となくそんな気がしてならない。ムードを大切にする晶子のことだからな・・・。

「祐司さん。」
「ん?」

 晶子の表情が何時ものそれに戻り、俺に話し掛けてくる。
濃厚なことこの上ないキスを二度もしたから、一先ず欲求は満たせたんだろう。俺は晶子の肩を抱いたまま応答する。

「近い将来・・・オーディションとか受けるんですか?」
「・・・まだ考えてない。今の俺はまだ力不足だから。」
「そんなことないと思うんですけど・・・。」
「否、まだ自分の腕に確固たる自信が持てないんだ。」

 店での最近の演奏は好評を得ることが多い。
今までそっぽを向いて自分達の喋りに夢中になっていた高校生集団や顔も知らない人まで、自分の演奏に盛大な拍手を送ってはくれる。
だが、それは「Dandelion Hill」という、外に比べればごくちっぽけな閉鎖空間の中での話だ。
そんな腕がマスターですら勝ち残れなかったオーディションの厚い壁を打ち破れるとは思えないし、思わない方が良いと思う。
その中で満足してたら、前に潤子さんが忠告したとおり、鍍金で終るのが関の山だ。
 どうせプロになるなら、その手のジャンルには疎い人でも名前くらいは聞いたことがあるとか、ああ、あのCMや映画音楽の演奏者か、
と言われるくらいになりたい。
そのためには練習あるのみなんだが・・・いかんせん自動車学校という奴が時間を食ってくれるから、どうしても焦ったり、
自分の腕に自信が持てないでいるというのが現状だ。

「私が思うに、祐司さんに一番欠けてるのは自信だと思うんです。お店でもあれだけの人から満遍なく拍手をもらえるんですよ?
私みたいに固定のファンが居てその人達が決まってリクエストしてくれたり拍手をしてくれるのとは、レベルが違いますよ。」
「それはあの店の中での話だろ?それがそのまま通用するなら、俺が入ってた高校時代のバンド仲間は全員プロになってるさ。」
「祐司さんが入っていたバンドの実力は知りませんけど・・・、私が初めて祐司さんの演奏を聞いた時の腕だとしたら、相当な実力派バンドなんじゃないかな、
って思いますよ。私も高校は共学でしたし、文化祭でバンドのライブをやってましたけど、その演奏を思い出しても祐司さんは
相当な実力派バンドにいたんじゃないかな、って思うんです。」
「バンドのメンバーは確かに全員上手かった。俺を誘ったのも、お前の腕なら間違いないからだ、って言ってたくらいだからな。」
「だったら・・・。」
「でも、それがそのままプロに直結するわけないだろ?」
「可能性はゼロじゃないですよ。」

 晶子は譬え1%、否、ほんの僅かな可能性さえあれば夢は叶うと信じてるらしい。
この辺は「現実的」な俺との考え方の違いだからどうしようもない。
だが、晶子の言うことも全否定は出来ない。
インディーズで地道に活動していたバンドがメジャーデビューするや否や全国区になった、って話もあることだし・・・。

「まあ・・・それはそうだけど。」
「ね?だから祐司さんはもっと自分は出来る、って胸を張って良いんですよ。実力があるんですから。」
「自分でどうもしっくり来ないんだよな・・・。何て言うか・・・俺はギターなら誰にも負けないっていう確証が持てないんだ。
常に自分の腕はあのミュージシャンに比べてどうか、とか考えちまうんだよ。」
「祐司さん、慎重な人ですからね。でも、慎重も度が過ぎると臆病になりますから、もっと自分を信じてあげてくださいね。」
「自分を信じる、か・・・。」

 俺は晶子の肩を抱いていた自分の左腕を戻して見詰める。
何時もフレットの上を踊るこの五本の指に、どれだけの可能性が秘められているんだろう?
自分のことなのに分からない。分からないことが多過ぎる。

「祐司さんにとって、左手は宝物ですよね。」
「・・・そうだな。」
「この手から色々な音が生み出されてくるんですよね・・・。」

 晶子は俺の左手に自分の右手をそっと乗せる。
晶子の仄かな温もりが左手を通して伝わってくる。俺を労わるような、柔らかい感触と共に。この温もりが愛しくてたまらない。
俺を支えてくれるというこの温もりを大切にしなきゃな・・・。
 手を重ねているだけで時間がゆっくりと過ぎていく。
晶子が俺を誘った理由であるところの「もっと話がしたい」というのはやっぱりきっかけに過ぎなくて、俺と触れ合いたいということが一番だったんだろう。
でも別に騙されたとは思わない。俺自身、こうして晶子と触れ合う時間が持てて良かったと思ってるんだから・・・。
 俺は空いている右手でティーカップを取る。
ティーカップからはもう温もりは感じられない。すっかり冷めてしまったラベンダーの紅茶を一気に喉へと流し込む。
ラベンダーの香りだけが相変わらず自己主張する液体が喉を通って腹へ流れ込んでいくのが分かる。温かいうちに飲んでおくんだったな・・・。

「お風呂、沸かしてきますね。」

 晶子がそう言って俺の手から手を離して、自分のティーカップを手に取ってくいっと傾ける。
意外な飲みっぷりに俺は声が出ない。まさか晶子が一気飲みをするとは思わなかった・・・。晶子の意外な一面が見れてちょっと嬉しい。

「けっこう豪快な飲み方するんだな。」
「え?・・・あっ、こ、これは・・・その・・・残すのは勿体無いと思ってつい・・・。」
「隠さなくて良いって。今更隠すこともないだろ?それに勿体無いっていう気持ちがある方が、俺は好きだな。」
「祐司さん・・・。」

 晶子はティーカップをテーブルに静かに置くや否や、がばっと俺に抱き付いて来た。
突然の大胆な行動に、俺は晶子を抱き締めることさえ出来ずに一方的に抱き締められるだけだ。
 と思っていたら、晶子は俺の唇を唇で塞ぐ。そして半ば強引に口を割って舌を入れてくる。
晶子の舌が俺の口の中をかき回す。俺は舌を絡めることも動きに合わせることもしないまま、晶子のなすがままに全てを委ねる。
やがて晶子の舌が俺の舌に絡みつき、くちゅっ、くちゅっ、と艶かしい音を立てる。
俺は晶子の背中にそっと手を回して、華奢な背中をゆっくりと撫でる。今の俺はそれくらいしていれば良いだろう・・・。
 ・・・晶子の「独演」がようやく終わる。晶子は俺からゆっくりと離れる。その目から涙が零れている。
どうして・・・泣く必要があるんだ?
感極まったと言わんばかりの晶子の表情に、俺は疑問を感じずにはいられない。

「何で泣いてるんだ?」
「ありのままの私を・・・受け入れてくれたから・・・。」

 そうか・・・。晶子は自分の「素」を思わず見せてしまったこと、そしてそれを俺が「受け入れた」ことに感動したんだな。
そんなことでそこまで感激しなくても良いのに・・・。晶子は感受性が相当強いんだな。
 晶子は服の袖で涙を拭うと、俺に向かって微笑んでからティーカップとティーポットを手早くトレイに乗せて立ち上がる。
そして普段バイトで鍛えている(?)腕力でもって右手一つで下からトレイを支え、左手でドアのノブを捻る。
ドアのノブは大抵右利き用に作られているからちょっと無理がありそうな感じがしたが、それでもドアを開けてダイニングへ消える。
 一人リビングに取り残されたようにぽつんと座り込んだ俺は、何回繰り返されたか分からない「Can't forget your love」を聞きながら、
机の方に視線を移す。そこにちょこんと乗っているノートパソコン・・・。以前聞いた時、家計簿に使っていると同時に、小説を書いているって言ってたな。
その小説は書き進んでいるんだろうか?その小説はどんな内容なんだろうか?
 俺は無性にノートパソコンの中を覗いてみたい−分解したいという意味ではない−衝動に駆られる。
A4サイズの箱に封じられている晶子のもう一つの顔・・・。せめて冒頭部分だけでも読ませてもらえないだろうか?
 ドアが開いて晶子が戻って来た。俺は内心ちょっとどぎまぎしながら晶子を迎える。
風呂を沸かすといってもボタンを押してガスを入れ、決まった量だけ風呂桶に湯を注ぐまで待つだけだ。全く便利な世の中になったもんだ。

「あと10分ほど待ってくださいね。」
「ああ。そんなの直ぐだよ。それよりさ・・・。」
「何ですか?」

 再び俺の横に陣取った晶子が俺の顔をまじまじと見詰める。
参ったな・・・。この目で見詰められると、自分が何か邪なことを考えていたような−実際そうとも言えなくもないが−気がしてならない。
 でも、ノートパソコンの中にある小説がどうしても気になる。体が内側でむずむずする。
此処は一つ、思い切って頼んでみるか・・・。
晶子が風呂に入ってる間に盗み見するのも気が引けるし、パスワードを設定されていたらどうしようもない。

「あのさ・・・晶子が書いてるっていう小説、チラッとだけでも良いから見せてくれないかな?」
「私の・・・小説ですか?」
「ああ。どうしても見たくてさ。無理にとは言わないけど・・・。」

 俺が遠慮気味に言うと、晶子はちょっと考え込む。
私小説に近いものだそうだからやっぱり見せたくないんだろうか?見てみたいのは山々だが、無理強いは決して出来ない。
無理なら無理で想像するだけに−どうしても邪な方向に行ってしまうが−して置けば良いことだしな。

「・・・ちょっとだけなら・・・。」
「?!良いのか?」
「自己満足の世界ですけど・・・誰かに読んで欲しいっていう気持ちも正直少しありますから。」

 晶子は徐に立ち上がって机の方へ向かい、身を屈めて何やらごそごそした後、ノートパソコンを持って戻ってくる。
さっきのは電源コードを外していたんだろう。
晶子はノートパソコンの液晶画面を上げて、電源スイッチを押す。ウィーンというハードディスクの稼動音に続いて、画面に製造会社のロゴが出る。
 それがフェードアウトすると、「Enter Password」と書かれた、カーソルが点滅する画面に移る。やっぱりパスワードを設定してたか・・・。
俺は視線をドアの方に向ける。他人のパスワード入力画面を見るのはマナー違反だ。
俺の様子を見て「安全」を確認したのか、後ろでカタカタとキーボードを叩く音が聞こえる。

「もうこっちを向いても良いですよ。」

 晶子の声がしたので、俺はドアの方へ逸らしていた視線を再びパソコンの液晶画面に向ける。
カリカリというハードディスクならではのアクセス音と共に液晶画面上の緑色のLEDが細かい周期で点滅し、桜の花びらで彩られた壁紙の背景に
続々とアイコンが並んでいく。
 アクセスが終ると、マウスカーソルが時計の形から矢印になる。これでようやく使用可能になったわけだ。
一昔前のパソコンのようにコマンドプロンプトが出るわけでもないが、時間がかかるのはいただけない。

「えっと、小説はっと・・・。」

 晶子はマウスでカーソルをアイコンの一つ、ペン先の形をしたアイコンの上に移動させてダブルクリックする。
その様子からしてパソコン初心者ではないことは容易に分かる。意外にパソコンマニアだったりするかも・・・。
 俺がそう思っている間に再びカリカリというアクセス音がして、画面いっぱいにA4サイズの紙の画面が表示される。
晶子は「ファイル」のところにカーソルを動かしてクリックしてメニューをプルダウンさせ、「最近使ったファイル」のところにフォーカスを移してクリックする。
すると「雨上がりの午後」で始まるタイトルが縦に幾つも並んで表示される。
1回書いたらそれで終わり、ではなく、何度か修正や加筆をしているんだろう。晶子のこだわりの一面が窺い知れる。
 晶子はそのファイル名の中で「Chapter1」とあるファイルにフォーカスを移してクリックする。
するとA4サイズの画面にびっしりと文字が並ぶ。目眩を起こしてしまいそうだ。

「まだ出だしの部分ですよ。」

 晶子は少し恥ずかしそうに言う。
俺はマウスの上にある晶子の右手に自分の右手を被せるように乗せて、画面右横のスクロールバーの空白部分にカーソルを合わせて
びっしり詰まった文字列を追って行く。
 物語は一人暮らしの女性が自宅でくつろいでいるところから一人称で始まる。
音楽を聴きながら主人公の女性が自分の好きな恋愛小説を読んでいたところで、お茶菓子が切れたことに気付く。
・・・ん?何だか何処かで聞いたことがあるような・・・。

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