雨上がりの午後
Chapter 61 宿泊の誘い、語らいの夜
written by Moonstone
しかし、時間や事情というものは自分の思い通りにならないものだ。
程なく母親から電話があって、自動車免許を取るように、と半ば命令された。
俺は車に乗るつもりはないから必要ない、と断ったんだが、母親はしっかりした身分証明にもなるし、それに何時必要になるか分からないでしょ、
と強く言い、結局俺は押し切られる形で自動車学校に通う羽目になった。勿論、費用は自分持ちだ。
まあ、バイトで稼いで仕送りと合わせてその残りを貯めた金が意外にあるから、多分金の面は大丈夫だろうが。
問題は時間だ。
2年になってコマもかなり埋まっていて、空いているコマやその日の終わりからバイトが始まるまでの時間、そして土日の一部を自動車学校に充てるしかない。
そうなると、晶子と一緒に帰れなくなる日が出てくるわけだ。
正直言ってこれが一番頭を悩ませることだ。俺が居ないその間に、智一が晶子にちょっかいをださないとも限らないからだ。
「大丈夫ですよ。私も一人で帰れますし、伊東さんのことは心配しないで下さい。毅然とした態度で臨みますから。」
晶子に自動車学校のことを話したら、晶子は微笑んでそう言った。
一緒に帰れなくなる日が出来て泣かれるんじゃないかと半ばドキドキしたが、晶子の明瞭な回答に安心すると同時にちょっと期待外れな感がした。
全く勝手なもんだ、俺って奴は。
ちなみに晶子はバイトを始める前、つまり1年前に自動車学校に通って免許を取っていて、晶子の家で歌の練習をしていた間に見せてもらった。
晶子は写真写りがなかなか良い。俺はどうしても指名手配写真みたいになっちまう。
「こんばんはーっ!」
「おっ、祐司君。今日もギリギリセーフだな。」
「仕方ないですよ。自動車学校がありますからね。やれるときにやっておかないと、平日はなかなか時間が取れませんし。」
「1年のうちに取っておくべきだったな。俺も一言忠告すべきだったと今更思うよ。」
「俺、車持つ気ないから良いや、って思ってたんですよ。まあ、今は金の方に多少余裕がありますから、それが底をつくまでに免許を取りますよ。」
「大丈夫大丈夫。こんな運転するおばさん連中に免許渡して良いのか、って思うくらい簡単なもんだ。祐司君の頭だから学科試験は心配ないだろ?
実技に重点を置いて丁寧にやれば、直ぐ取れるさ。」
出迎えたマスターとちょっと会話して、俺は照明の薄いカウンターに腰を下ろす。
ステージ上では晶子が「Stand up」を歌っている。時間帯の割に結構入っている客から手拍子が鳴っている。
俺が会心の出来の演奏を決めた時のように、晶子の歌声に気合が入っているように感じる。
潤子さんが水の入ったポットを持ってカウンターの方にやって来た。
俺の姿を確認して安心したのかどうかは分からないが、安堵の表情を浮かべている。
「あら、祐司君。今日も自動車学校からの帰り?」
「ええ。坂道発進でちょっと梃子摺って・・・。」
「私でも取れたくらいだから、祐司君なら簡単に取れるわよ。夕飯の支度するからちょっと待っててね。」
「はい。」
潤子さんはカウンターに入ると、マスターの後ろを通り抜けて鍋が乗ったコンロに火を点けて、ピーマンやもやしを冷蔵庫から取り出して、
フライパンを別のコンロの火にかける。野菜炒めとこの匂いは・・・ビーフシチューか。ちょっと食べ頃の季節は過ぎたが、まだ朝晩よく冷える今時期の夕食にも合う。
潤子さんは弱火にかけた鍋の中を焦げ付かないようにかき混ぜつつ、フライパンに油を引いて野菜を放り込み、手早く炒め始める。
そこに胡椒と塩を適量入れてさらに炒める。
その相変わらずの手際の良さを眺めながら、晶子の歌声に耳を傾ける。
張りのある歌声が滑らかに、しかも力強く歌詞を紡いでいく。本物を髣髴とさせる透明感のある声がより一層、雰囲気を盛り上げる。
Stand up、と歌って曲を締めると、客席から大きな拍手が起こる。俺もカウンターから拍手を送る。
晶子は俺の存在に気付いたのか、ステージに向かって一礼した後、笑顔で手を振る。俺はそれに笑みを浮かべて手を振って応える。
そして少しの間を置いて、ミドルテンポのリズムが流れ始める。「Secret of my heart」だ。
「Stand up」とは対照的に、優しく艶っぽい声で歌う。
曲に応じて歌い方を変えるなんて、楽譜もろくに読めなかった時があったという記憶を疑ってしまうくらいだ。
「はい、出来たわよ。」
「あ、どうも。いただきます。」
「晶子ちゃんの良い歌声をBGMに潤子の美味い料理を食べる・・・。祐司君も幸せ者だなぁ。」
「あなた。からかうもんじゃないわよ。」
「いいえ、実際そう思いますよ。こんなこと、此処でしか味わえませんからね。」
俺が何気なく言うと−別に晶子や潤子さんを持ち上げるつもりはない−、マスターがひゅう、と口を鳴らす。
「おおっ、祐司君も言うようになったなぁ。」
「お世辞でもそう言って貰えると嬉しいわ。ありがとう。」
「お世辞なんて言うつもりないですよ。そんな器用なタイプじゃないですし。」
「さっきの言葉、後で晶子ちゃんにも言ってあげろよ。きっと喜ぶぞ。」
「そうですね。」
客の入りが多いので、俺は早めに夕食を済ませて着替えに向かう。
晶子の「Secret f my heart」をBGMに出来たのは幸運だという他ない。「always」を聞き、「Stand up」の途中で食べ終わった。
途中で音量が大幅に下がってしまうのが残念だが、俺も客じゃなくて、バイトしに来てるんだから仕方ない。
急いで着替えを済ませて店に降りる。
残念ながらその時には「Stand up」も終了して選択した歌唱リストが終ったらしく、満場の拍手と「井上さーん」という声援を受けながらステージを下りた直後だった。
歌唱が終っても熱気が冷めそうにないのは、俺が以前会心の演奏を決めた時の様子に似ている。それだけ晶子の歌が客の心を打ったんだろう。
まかりなりにも一緒に歌を練習する身として−今でも月曜日の夜の選曲や練習は欠かしていない。勿論、食事も−、我がことの様に嬉しく思う。
晶子はぺこぺこと照れくさそうに客に頭を下げながら、カウンターの方に戻ってくる。
着替えが終った俺と視線が合うと、満足そうな笑みを浮かべて駆け寄ってくる。そんな姿が愛しく思えてならない。
「祐司さん。聞いてくれてました?」
「ああ。ちょっと今日は梃子摺って遅くなったけどな。良い歌をBGMにして夕食を戴いたよ。」
「良い歌って・・・祐司さんにそう言って貰えると・・・私、何て言って良いか・・・。」
「おいおい。今更俺に誉められて感激することないだろ?」
「だって・・・嬉しいから・・・。」
晶子はそう言って目を指でそっと拭う。感激のあまり涙が出たのか?
そこまで感激されるようなことを言ったつもりはないんだが・・・。
「こらこら。祐司君。女の子泣かせちゃ駄目じゃないか。」
「俺、泣かそうと思って言ったつもりないんですけど・・・。」
「それだけ祐司君に誉められたのが嬉しかったんでしょ?晶子ちゃん。」
「はい・・・。」
「泣かれると心臓に悪いよ。」
「女の涙は強力な武器だからなぁ。祐司君の気持ちは分かるぞ。俺も昔、潤子に・・・」
「余計なこと言わないのっ!」
口を滑らせそうになったマスターを潤子さんがぴしゃりと封じ込める。
マスターと潤子さんの間で何があったのか知りたいところだが、潤子さんを泣かせるなんて、余程のことをしたんじゃないだろうか?
何だか胸が落ち着かない。あのいつも朗らかな潤子さんを泣かせるなんて、マスターも相当罪作りな人だ。
「さ、注文の品が出来たから早速運んで頂戴。祐司君、これ、8番テーブルにお願いね。」
「あ、はい。」
俺は気分を切り替えてバイトの体制に入る。熱々の鉄板の器に乗ったナポリタン・スパゲッティを持って、俺は8番テーブルへ向かう。
服を着替えたらバイトの始まり。幾らとんでもないことが起こっても、この店の従業員としての行動を欠かすわけにはいかない。
晶子や潤子さんのことは、バイトが終ってからでも充分間に合う。でも、注文の品の到着の遅れは時に店の信用に関わる。しっかりしないとな・・・。
今日のバイトも慌しく、そして賑やかに過ぎていった。
今日は日曜日と言うこともあってか、リクエストタイムは晶子と潤子さんが仲良く2回リクエストを受け、俺も予想外に2回受けた。
そのうち1回は潤子さんと絡む「EL TORO」だった。噂を聞いて立ち寄ったクリスマスのコンサートで感動して再び訪れたという客がリクエストしたものだ。
久しぶりに、それも抜群の音圧を誇る潤子さんとのセッションに緊張しつつも、良い感じで演奏できて好評を得られた。
掃除を終えた後の「仕事の後の一杯」でも、今日の「EL TORO」の話題が中心になった。
セッション曲の−晶子とのステージはちょくちょくあるが、俺は補助的な役割だ−リクエストは初めてだったが、してはいけないというルールはないので受けた。
今日も盛況だっただけに、何時セッション曲のリクエストがあるか分からないから、結構真剣な議論になった。
結局、セッションのリクエストも権利を獲得した客のものだから、ということで今後も受けることになった。
セッションする曲はそれなりにあるし、特に俺と晶子はヴォーカルとギターという、共に目立つ「楽器」を持って一緒にステージに上がる機会も多いから、
新曲を中心に今以上に練習を積んでおいた方が良さそうだ。
「仕事の後の一杯」を済ませての帰り道、静まり返って時間が止まったような夜道を晶子と一緒に歩いていく。
そこでも珍しく、会話が長く続いた。話題は勿論、二人でステージに上る時に向けてどうしていけば良いか、月曜日の練習ではセッションを想定して
練習することに専念した方が良いか、とか、まだ肌寒さが残る空気の中で結構白熱した議論が展開された。
殆ど無言、ということもあるだけに、尚更珍しいことだった。
晶子のマンションの前に辿り着いて、俺が何時ものように名残惜しそうな晶子の見送りを受けて自宅に帰ろうとすると、背後から晶子が呼びかける。
「祐司さん・・・。」
思わぬ呼びかけに俺が振り向くと、晶子が俺のジャンパーの背中の部分を掴んでいる。
俺は振り解こうともせず、晶子の方を向いたままその場に立ち止まり続ける。
「・・・どうしたんだ?」
「・・・。」
晶子からの答えはない。ただ俺のジャンパーの背中の部分を掴んで、やや俯き加減で立っているだけだ。
何が言いたいのか、俺にどうして欲しいのか、気になってどうしようもない。
・・・次第に胸が高鳴ってくる。まるで初めてのキスを交わす前のように・・・。
「・・・今日、家に泊まって行きませんか?」
晶子の口を付いて出た言葉に、俺は言葉を失う。
確かに正月以来、俺と晶子は相手の家に泊まったことはない。
月曜日の夜の練習の後、遅くなっても晶子は名残惜しそうに、俺は後ろ髪を惹かれる思いを感じながらも、泊まっていくと言い出すことはなかった。
なのに今日、突然泊まっていかないか、と誘ってきた。その意図は何だ?晶子・・・。
「何でまた・・・いきなり・・・。」
「・・・祐司さんと・・・もっとお話したいから・・・。」
「・・・。」
「・・・駄目・・・ですか?」
正直、晶子の誘いを断る理由はない。
だが・・・何と言うか・・・はっきり言って今日はそれまでの成り行きがないだけに、自分の中に押さえ込んでいた−付き合って3ヶ月、
もっと仲を深めたいという気持ちがない筈がない−欲望が弾けかねない。
そうなったら・・・晶子の気持ちに反して俺が暴走してしまうかもしれない。
それだけは絶対避けたい。避けたいが・・・内心チャンスだ、と思う自分が居ることを否定できない。
どうすりゃ良いんだ?こういう場合は・・・。
晶子を諭して振り切って帰るか?それとも晶子の願いに応えるか?どうすりゃ良いんだ?どうすりゃ・・・。
なまじこういうシチュエーションに慣れてないだけに、答えが即座に見つからない。
「駄目・・・なんですね?」
晶子の悲しげな声が胸に重く響く。
晶子の涙だけは見たくない。晶子が悲しむことだけはしたくない。
そう思うと、俺の中で混濁していたものが一つの答えに集約されていく。
「否・・・。俺は良いけど・・・。何せ急な話だったから・・・返事に戸惑っちまって。」
「御免なさい・・・。でも、今日はどうしても一緒に居て欲しいから・・・。」
「分かった。今日は晶子の家に泊まらせてもらうよ。」
沈んでいた晶子の表情に微笑みが浮かぶ。本当に嬉しそうで幸せそうな・・・。
それを見ているだけでも、俺は充分幸せだ。妙なことを考えていた自分が気恥ずかしく思えてならない。
最近何かと慌しい日々だ。晶子とゆっくり話す時間を持つのも必要だろう。
例のガチガチのセキュリティを晶子に解除してもらって、俺は晶子に家へ案内される。
電灯が灯った室内は屋外同様結構冷える。
晶子はエアコンの電源を入れ、紅茶の準備を始める。この辺は月曜日の夜の練習と大差ないからさして緊張感は感じない。
「直ぐ準備できますから、リビングに行ってて下さい。」
「ああ、分かった。頼むよ。」
俺はジャンパーを羽織ったまま、ドアを開けてリビングへ向かう。入り慣れているから、何だか自分の家にいるような錯覚さえ感じる。
最も俺の部屋は以前ほどではないにしても散らかっているから、錯覚が現実感まで発展することはない。ちょっとみっともない話だが。
俺はガラスのテーブルの前にクッションを引き寄せて座り、辺りを見回す。相変わらずきちんと整理されていて、俺が手を出す余地は全くない。
背後にあるベッド、CDとコンポが並ぶ棚、机の上に乗っているノートパソコン。何時見ても変わらない風景が此処にある。
変化がない分、ちょっと写真やポスターなんか、インパクトとは言わないまでも変化が欲しいな、と思ったりする。
少しして、ドアがコンコンと軽く数回ノックされ、俺がどうぞ、と答えると、ドアが開いて片手で下からトレイを支えて晶子が入ってくる。
トレイの上には茶褐色の液体が入ったティーポットとお揃いのティーカップが乗っている。
結構重い筈なんだが、バイトで慣れた成果と言おうか、その様子が様になっている。
晶子はトレイをテーブルに置くと、ティーポットとティーカップ2組をトレイから降ろすと、トレイをテーブルの足に立て掛け、
ティーポットからラベンダーの芳醇な香りを放つ紅茶をゆっくりと注ぐ。
八分目程で注ぐのを止めてティーカップを俺の前とその隣に−俺は暗黙の了解で座る位置をずらす−置く。
「じゃあ・・・今日もお疲れ様でした。乾杯。」
「乾杯。」
晶子の音頭で俺と晶子はティーカップを軽く合わせる。そして一口分芳香香る液体を口に運ぶ。
ティーカップを一旦テーブルに置いて、俺は晶子の方を向く。
晶子も俺の視線に気付いたのか、ティーカップをテーブルに置いて俺の方を向く。
「・・・なあ、晶子。」
「はい。」
「どうして今日・・・俺に家に泊まっていかないか、なんて勧めたんだ?」
俺の問いに晶子は微かな笑みを浮かべて答える。
「もっとお話がしたいから・・・。そう言いませんでした?」
「ああ、聞いたよ。でも・・・。」
「でも?」
「何だか・・・それだけじゃないような気がしてさ・・・。気のせいだと思うけど。」
俺は何となくそう思っていた。
話をしたいだけじゃない。一緒に居たい。むしろその思いの方が強いんじゃないか。
口にはしないが−尋問するような感じがするからだ−、そう思えてならない。
俺が自動車学校に通う羽目になって、晶子と一緒に帰れることが少なくなった。
大学へ行く時間も常に同じというわけでもないし、譬え一緒に行けても学部が別だから一般教養の講義以外では顔を合わせる機会を持つのは難しい。
バイト中にくっちゃべっているわけにもいかない。当然、俺と話す時間は勿論、一緒に居られる時間も少なくなる。
だから晶子は・・・俺を誘ったんだろう。本来なら一緒に居られた筈の時間を少しでも取り戻す為に。
そう思うと・・・俺もその気になってくる。一緒に居られない寂しさやつまらなさは俺とて同じだと思う。
他愛のない話題でも良い、話がしたい。会話がなくても良い。一緒に居たい。そんな気持ちが心の奥底から湧き上がってくる。
そして晶子の抱く気持ちも身に染みてくるような気がする。その気持ちに応えることは俺の欲求を満たすことと等価だ。
今まで晶子と付き合ってきて、こんな状況になったことは初めてなんじゃないか?
・・・何だか妙な気分になってきた。
一緒に居たいと思う気持ちは同じ。そして俺が泊まっていくという後に控えている状況。
これらが重なる時、新たに生まれる気持ちは・・・。
・・・駄目だ!その気持ち、否、精神へではなく肉体への欲望が膨らんでくる!
俺は・・・そんな気持ちで晶子と一緒に居たいんじゃない!一緒に居て、時に話が出来ればそれで良い筈なんじゃないのか?!それ以上を求めるのか?!
付き合い始めてまだ半年も経っちゃいないのに!
でも・・・求めちゃ駄目なのか?
恋愛は気持ちだけじゃ続かない。そのことは俺自身知ってる。
晶子との関係が友情や単なる師弟関係じゃなくなった今、晶子に精神的欲求を満たす肉体的欲求を向けちゃ駄目なんだろうか?
「祐司さん。どうしたんですか?」
晶子の声で我に帰る。久しぶりに思考の泥沼に嵌り込んでいた。
俺は早まった胸の鼓動を押さえ込みながら、思考を元の起動に修正する。
そうだ。俺は晶子に誘われて泊まらせてもらうことになったんじゃないか。一緒に居て話をしたりするための時間を持つために。
晶子は怪訝そうに俺の顔を見ている。
此処は一先ず、晶子をほったらかしにして志向の泥沼に嵌り込んでいたことを取り繕わないとな・・・。
「いや、悪い悪い。考え事しててな。」
「私と向き合って、ですか?」
「ほら、こうして夜に面と向かって話する機会なんて月曜くらいのもんだろ?今はだんだん日が長くなってきてるから、
それも夜までっていう感じじゃなくなってきてるし・・・。それに月曜は殆ど練習やレパートリーに関係する話だし。」
「今はまだ、何もお話してませんよ。」
晶子に言われて俺は答えに窮する。
確かに俺と晶子は向かい合いはしたが、まだ何も話らしい話はしていない。
困ったな・・・。どうしようかな・・・。
「ま、まあ、それもあるけど・・・特に何の用事もないのに晶子の家に泊まるなんて多分、初めてだろ?それで・・・何て言うか・・・緊張して頭の中が混乱して・・・。」
「そうならそう言ってくれれば良いのに・・・。」
晶子は少し呆れたような顔で言う。しかし、直ぐにその表情は消え、大きな瞳で俺をじっと見詰める。
この瞳に見詰められると、心が洗われるような、俺がさっき思考の泥沼に嵌っていたことが馬鹿らしくて、同時に恥ずかしく思えてしまう。
そんな魔法の瞳に自分の顔を映しながら、俺から話を切り出す。
「最近、一人で帰ることが多いだろ?一緒に居られなくて御免な。」
「良いんですよ。祐司さん、自動車学校に通ってるんですから。」
「智一の奴とよく会うんだろ?」
「え?どうして分かるんですか?」
「あいつのことだから、俺が居ない間に、なんて思っていそうだからな。言い寄られたりしてないか?」
「それが結構・・・。『俺の魅力に気付いたかい?』とか『祐司さんと自分、どっちが君に相応しいと思う?』とか・・・言ってきますよ。」
「・・・あの野郎。」
晶子が苦笑いしている。やっぱりそうだったか・・・。
多分俺が居ないのを良いことに、晶子に迫ってるんじゃないかと危惧してたんだが・・・。こういう悪い予想に限ってよく当たるんだよな、まったく・・・。
しかし、智一も諦めが悪いというか何と言うか・・・。
合コンで意気投合した相手とはたった1週間で「性格の不一致」を理由にあっさり別れたくせに、晶子に対しては相手が俺に確定した
−現時点では、としておくべきか?−今でも、自分にチャンスがあれば、とばかりに言い寄るんだから・・・。
それだけあいつにとって、晶子は魅力溢れる存在なんだろうな、きっと。
だが、心配なのは智一だけじゃない。何度も言い寄られるうちに、なんてことが絶対無いとは言い切れない。
智一が俺の居ない隙に晶子に言い寄るのは予想していたことだが、まさか晶子が・・・なんて、信じてはいるがどうしても気になってしまう。
しかし、だからと言って尋問するのも何だしな・・・。
「その・・・晶子はどう対処してるんだ?」
「不安ですか?」
「そりゃそうだよ。俺の目が届かないところでの出来事なんだから。」
俺が少しむきになって言うと、晶子は口を右手の指先で軽く押さえてくすっと笑う。初めて見るその仕草が妙に可愛らしい。
「大丈夫ですよ。私、そんな軽い女じゃないつもりですから。」
「まあ、晶子がホイホイついて行くとは思えないけど・・・自分が見てない分、やっぱり不安なんだよ。」
「それは私も同じですよ。祐司さんが自動車学校で別の女の人に目が行ってないかとか・・・。」
「目移りしてる暇なんてないさ。こっちはきつい教官にあれこれ言われながら、実技が進むかどうか、びくびくしながらハンドル握ってるんだから。」
「教官の人、厳しいんですか?」
「厳しいも何も・・・ちょっと安全確認を忘れただけで『ほら、そこでミラーの確認!』とか怒鳴られるんだから・・・。」
「私の時は、確かに厳しい教官の人も居ましたけど、怒鳴られたりはしなかったですよ。」
「それが男と女の違うところなんだよ。自動車学校の教官は男の時と女の時とで人柄を使い分けるんだよ。大抵女には優しくて男には厳しい。」
「でも、練習の時に厳しく指導された方が良いと思いますよ。実際路上に出てからじゃ、誰も安全なところで止めたり注意したりしてくれませんから。」
「・・・そういう考え方もあるな。」
晶子もなかなか面白いことを言う。
確かに免許を取って車に乗って路上に出たら、自動車学校の時みたいに危ないところで止められて注意や指導を受けるなんてことは出来ない。
そう考えると、やっぱり男で良かったのかな、とも思える。
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