雨上がりの午後

Chapter 60 新しい春の日にて−夜−

written by Moonstone


「「こんばんはー。」」
「こんばんは。あら、今日も仲良くご出勤?仲良くて良いわね。」

 出迎えたエプロン姿の潤子さんが軽く茶化す。俺と晶子は薄明かり程度の照明が灯されているカウンターに並んで腰を下ろす。
今日は客の入りは少ない方だ。急いで夕食を腹に投げ込む必要はないようだ。もっとも、食べている途中で団体さんご来店、なんてこともあるから油断は出来ないが。
 潤子さんはキッチンに回り、夕食の準備を始める。
マスターはステージでサックスを吹いている。この曲は・・・「NO END RUN」か。珍しい曲を演奏してるな。
個人的には好きだが客層にあまり馴染みが無い曲は、客が少ない時に演奏するのが暗黙の了解になっている。
でも、この店で演奏される曲は一部の例外を除いてジャズやフュージョンが大半だから、耳に馴染んでいる客はむしろ少ないだろう。
俺のレパートリーもその手のジャンルが多いが、ステージで演奏を繰り返すうちに客に知られるようになったってものが目に付く。
「NO END RUN」と同じアルバムに収録されている「GOOD-BYE HERO」もその一つだ。
こういうときに演奏されることを繰り返していくうちに客の耳に馴染み、レパートリーに「昇格」するっていうと分かりやすいか。
 潤子さんは客席の様子をこまめにチェックしながら、大きなフライパンを煽ってチンジャオロースを作る。
見るからに重そうなフライパンを軽々と操りながら一方で客が席を立つかどうかをチェックする。その器用さには脱帽する他無い。

「もうちょっとで出来るからね。」
「あ、はい。」

 潤子さんは別のコンロにのっている中華風卵スープの入った鍋に火をかけ、一旦フライパンを降ろして皿を二つ並べる。
そして冷蔵庫から予め盛り付けられてあるポテトサラダを取り出して、再びフライパンを大きく煽り始める。
その手際の良さに、晶子が加わる前はずっとキッチンを切り盛りしてきただけの風格さえ感じられる。
 何度かフライパンを煽った後、潤子さんはチンジャオロースを皿に盛り付けて、沸騰しかかった卵スープの火を止め、
トレイに料理の盛り付けられた皿をさっさと乗せて最後に御飯を茶碗に盛り付けて、二つのトレイを同時に持ち上げて俺と晶子の前に差し出す。

「お待たせ。さ、どうぞ。」
「「いただきまーす。」」

 俺と晶子は食前の挨拶の後、箸を手に取って食べ始める。
特に会話も無く、淡々と潤子さんお手製の夕食を口に運ぶ。
今更美辞麗句を並べる必要もない。潤子さんもそれなりの自信があるだろうし、実際料理は美味いの一言に尽きる。
 少々急ぎ気味に食事を食べ終わると、ご馳走様でした、の一言と共に空になった皿の乗ったトレイを潤子さんに返す。
潤子さんは何時もの穏やかな表情で取れを受け取り、皿を手早く流しへ移してちらっと客席の様子を伺った後、皿やフライパンを洗い始める。
 俺は着替えるため、カウンターの中に入り、店の奥に上がる。
晶子はカウンター横にかけてある自分専用のエプロンを身につけている。夕食が終ったら早速バイトの始まりだ。今日も張り切っていこう。
 着替えを済ませてキッチンに降り立つと、そこに晶子の姿は無い。
客席の方を見ると、大人数用の席に腰掛けた高校生の集団の−晶子のファンだ−ところで注文を取っている。
憧れの対象である晶子に注文を取ってもらっているせいか、高校生の集団は目を輝かせながら口々に注文する。
晶子はその注文を手早くメモしていき、注文が終了したところでそれらを復唱する。そして客に一礼するとキッチンに走ってくる。
晶子ももうすっかりこのバイトが板についたものだ。

「えっと、ホットコーヒーが4つ、レモンティーが2つ、野菜サンドが3つ、ツナサンドが1つ、ミートスパゲッティが3つ。以上です。」
「あら、随分多いわね。さすが晶子ちゃんのファンなだけはあるわね。」
「からかわないでくださいよ。さ、私も準備しないと。」
「お願いね。」

 キッチンは晶子と潤子さんの戦場と化す。
3つのコンロに火が灯され、そこに周囲を上に曲げたような感じの鉄板を置く。
冷蔵庫から野菜とツナが取り出され、パンが棚から取り出され、大きなコンロに火が灯され、大量の水に塩を溶かした大きな鍋が置かれる。
そして二人で手分けして注文の品の調理に取り掛かる。晶子がサンドイッチ系、潤子さんがスパゲッティを主に担当する。
 俺は二人に声をかけずに素早くカウンターから外に出て、注文の品が出来上がるのを待つ。同時に客席を見渡して、客のコップの水の量をチェックする。
足りなければ銀光りするポットを持って水を注ぐのが、今の俺の役割だ。
マスターはまだステージでサックスを吹き鳴らしている。今度はソプラノサックスからアルトサックスに持ち替えての「STILL I LOVE YOU」だ。
今でもこの曲を耳にすると目頭が少し熱くなる。条件反射みたいなものだろうか?
 客はマスターの情熱的な演奏に引き込まれたか、席を立つ気配はない。
晶子のファンの高校生集団も神妙な面持ちで演奏に聞き入っている。
俺は照明が殆ど落されたカウンターに凭れて、注文の品が出来るまでマスターの演奏に心身を委ねることにする。

「祐司さん。野菜サンドとツナサンドが出来ました。ホットコーヒーとレモンティーも併せてお願いします。」

 晶子の声で俺は演奏から心身を引き剥がして注文の品を運ぶ体制に入る。
キッチンから差し出された大きめの皿に乗った野菜サンドとツナサンドを受け取り、続いてトレイに乗った飲み物の類を受け取る。
まず全員分揃っている飲み物を運んで、その後に野菜サンドとツナサンドを運ぶ段取りが適当だろう。
 俺はトレイに乗った飲み物の類を高校生集団のところへ運ぶ。
形式どおりお待たせしました、の一言を沿えて飲み物の入ったカップをテーブルに置くが、高校生集団からの反応は全く無い。
それだけ演奏に聞き入っているのか、それとも晶子が持ってこなかったから無視を決め込んでいるのか分からないが、今は注文の品を運ぶのが先だ。
俺はそそくさとカウンターの前に戻る。野菜サンドとツナサンドの乗った皿をそれぞれ片手で持って、再び高校生集団のところへ赴く。
 丁度そのとき、アドリブの複雑な旋律が終わり、マスターの口からサックスのリードが離れる。
すると客席から惜しみない拍手が沸き起こる。数こそ少ないが、その拍手は素晴らしいの一言に尽きる演奏に対する正当な報酬だろう。
マスターも満足そうな表情で客席に一礼してステージを下りる。高校生集団もステージを下りたマスターに目を丸くして拍手を送っている。
ファンでなくても良い演奏には拍手を惜しまないあたり、なかなか人間が出来ているな。
 ステージを下りたそのマスターが皿を置き終えた俺の元に歩み寄って、俺の方をぽん、と軽く叩く。それは次の演奏は任せた、というサインだ。
スパゲッティが出来上がるまでにはまだ時間があるだろうし、マスターの演奏に触発されたのか、俺の中で演奏したい、と音楽の虫が疼く。
 俺は野菜サンドとツナサンドの皿を置き終えたその足でステージに上がる。
エレキギターのストラップに身体を通し、ステージ後方に隠されるように置いてあるシンセサイザーや音源モジュールの一角にあるシーケンサの
−ちなみに型落ちしたパソコンだ−演奏リストから、あまり演奏しない曲が並ぶ、でも俺自身はお気に入りの曲があるリストを選んで
演奏のボタンをクリックする。
あとは俺がフットスイッチを押せば演奏リストに従って演奏が始まるから、それにギターの旋律を乗せるだけだ。もっともそれが一番重要なことなんだが。
 俺はステージ備え付けの椅子に腰を下ろし、客席を軽く見回してからフットスイッチを押す。
軽やかなイントロで始まるその曲は「プラチナ通り」だ。
俺は軽快なリズムに乗ってギターの弦を爪弾く。・・・今日も快調だ。
複雑だが不思議と自然に聞こえるコード進行の波に乗って、俺は軽く身体を揺らしながら演奏する。
 すると、前の方から音量こそ少ないがリズムに合わせて手拍子が飛んで来る。
常連というほど頻繁に訪れるわけではないが、よく顔を目にする女性客数名からだ。
丁度この曲が派手でもなく、かと言って鎮静を求めるものでもないから、その客には心地良く感じられるんだろう。
 その女性客が目を見開いて手拍子を送ることで俺の精神が高揚するのが分かる。
こういう軽快な曲で少なくても客からの反応があると、より上手く、という意欲が増すというものだ。
俺はその「反応」に応えるように、弦を爪弾く指に神経をより集中させる。
硬くならないように、でもルーズにならないように、俺の指がギターの弦の上で気持ち良く踊る。・・・今日は絶好調だ。

 「プラチナ通り」「HI!SAKURAKO-SAN」そして「GOOD-BYE HERO」を演奏し終えると、割れんばかりの拍手が店いっぱいに広がる。
演奏中はさほど気にしていなかったんだが、何時の間にか満員近くまで達した客からのものだ。
無論、晶子ファンの高校生集団も感嘆の表情で拍手しているのが見える。
俺はフットスイッチを押してシーケンサを停止させてから
立ち上がってストラップから身体を解放して、客席に向かって一礼する。
拍手はなおも収まる気配がない。参ったな・・・。こんなに拍手を貰うのは俺以外、即ち晶子や潤子さん、マスターだけかと思ってたんだが。
 すっかり汗だくになってステージを下りても、俺に向かって拍手が送られ続ける。全く予想外の好評に俺はどう応えて良いか分からない。
ただ左右に頭を下げながら店の奥に退散するくらいしか出来ないのが、これほどもどかしく思ったことはない。

「お疲れさん。立派なもんだったぞ。」

 マスターが会心の一撃を受けたような表情で俺を出迎える。

「今日一番の出来じゃないか?俺の演奏が霞んで見える。」
「自分でも良い出来だとは思うんですけど、まさかこんなに反応が良いなんて・・・。」
「それだけ演奏が良かったってことですよ、祐司さん。」

 満面の笑みを浮かべて拍手をしながら晶子と潤子さんが出迎える。俺は照れくささで頭を掻く。

「これだけのお客さんが祐司君の演奏に共鳴したってことは、お世辞抜きに凄いことよ。」
「何時もよりちょっと快調かな、とは思ってたんですけど、まさか俺に此処まで反響があるなんて、ちょっと信じられないです。」
「でも、こうして現に凄い拍手の嵐だったじゃないですか。祐司さんの演奏は人をひきつける魅力があるっていう証拠ですよ。」
「そうかな・・・?」
「そうですよ。今この場で祐司さんがプロだ、って言っても誰も疑わないですよ。」

 晶子はまるで自分のことのように興奮して言う。
そんなに凄い出来だったんだろうか?自分のことながらいまいち実感が湧かない。それだけ演奏に集中できた証拠とも言えるが。

「この分だと、今日のリクエストタイムは祐司君メインで決まりだな。」
「そうなっても全然不思議じゃないわ。」
「そうなりますかねぇ。」
「なりますよ。祐司さん、もっと自分に自信を持ってくださいよ。お客さんがこれだけ認めてくれてるんですから。」

 晶子に言われて俺は後ろを振り返る。
勢いは多少収束したとはいえ、まだ鳴り止まない拍手・・・。それが俺の演奏に対する報酬であることは間違いないだろう。
晶子の言うとおり、俺の演奏は贔屓目で見なくても充分なものだったと考えて良いんだろうか?
・・・やっぱりまだ実感が湧かない。自分自身のことなのに、と言われればそれまでだが、実際そうなんだから仕方ない。
でも、自分の演奏がこれだけ賞賛されたことに悪い気はしない。
慢心に繋がるのは警戒しないといけないが、晶子の言うとおり、もう少し自分に自信を持って良いかもしれない。

 マスターの予言は見事的中した。俺がこの店でバイトを始めて以来初めて、リクエスト総数の過半数を俺が「獲得」した。
5つのリクエスト権のうち、俺が3つを「獲得」して、残りがマスターと晶子各1つずつだった。
俺がリクエストされた曲は予想どおりと言うか「プラチナ通り」と「GOOD-BYE HERO」、そして俺が指名されるときには必ずと言って良いほどリクエストされる
「AZURE」だった。
ちなみにマスターは「STILL I LOVE YOU」、晶子はレパートリーに「昇格」してまだ間もない「always」だった。
 ようやく静けさを取り戻した店内で、この店の面々がそれぞれの「指定席」に座って「仕事の後の一杯」を堪能する。
BGMには「HEAVEN KNOWS Reprise」が静かに流れている。
品運びに演奏に、そして締めくくりの店の掃除で疲れが溜まった俺の体から、コーヒーを一口啜る度にそれが少しずつ抜けていくように感じる。

「今日は本当に祐司君様様だったな。」

 マスターが満足げに言う。
セミプロ、否、下手なプロよりプロらしいと言って良いマスターに此処まで持ち上げられると、何だか体がむず痒くなる。

「確かに演奏そのものは今まででもあまり覚えがないほど良い出来だったのは自分でも分かるんですけど・・・、あんなに拍手があるとは
全く予想してなかったです。」
「お世辞抜きで本当に会心の出来だったと思うわ。私も晶子ちゃんも、注文を作ったり洗い物をする手が何度も止まったもの。」
「凄いなぁ、って思ってたら水出しっぱなしで祐司さんのステージ見てましたよ、私。」
「今日、何か良いことがあったのか?祐司君。」
「いえ、特に何も・・・。」
「うーん、本人の精神状況に関わらずあれだけの演奏が出来るくらいだ。いっそこのままプロを目指したらどうだ?」

 マスターが大胆に切り込んでくる。大勢の観客の前で自分の演奏に拍手や歓声が飛ぶ光景を頭に思い描く。
・・・今日目にした光景をもう少し拡張してみる。確かに心地良い、そして何とも言えない充実感が沸いてくる。

「もっともプロへの道は険しいのは言うまでも無いと思うが、一度きりの人生だ。挑戦してみる価値はあるんじゃないか?」
「私もそう思います。」
「祐司君の心次第ね、あとは。」

 マスターがプロへの道の途中で壁を突き破れなかったことを前に話してくれた潤子さんも満更ではなさそうだ。
音楽のプロ・・・。ギターを始めてバンドに入ってステージに何度も上る度にそういう夢が芽生えてきたのは間違いない。
それが大学受験や日々の生活や感情の大灘に忙殺されて、心の奥底に沈んでいった。
今、その夢をサルベージさせて、実現への道に向かって驀進すべきなんだろうか?
 だが、マスメディアに登場する「アーティスト」など足元にも及ばない腕前を誇るマスターでさえなしえなかった夢だ。
どうしても壁が破れなかったら引き返すしかない。
でも、今俺や晶子、否、学生全体を取り巻く社会はやり直すことを容易に認めないようになっている。
いちかばちかに賭けて失敗した時、俺はどうすれば良い?引き返して険しさを増した「無難な道」とやらを進むのか?
 ・・・晶子は俺をバックアップしてくれる心積もりだ、と潤子さんは言った。
言い換えればそれは、俺が音楽のプロを目指すにしろ無難な道を選択するにしろ、晶子の人生を俺のために使わせることだ。
それで失敗したから安定するまで援助し続けてくれ、なんて言えるか?晶子を自分の都合で振り回す気か?!

「・・・今は・・・まだ何とも言えません。今日がたまたま出来が良かっただけってことも考えられますし・・・。」
「随分慎重だな。まあこんな世知辛いご時世だから無理も無いが、パートナーに頼ってみても良いんじゃないか?」
「若いうちなら、やり直しは幾らでも出来るわ。祐司君の人生だから祐司君のものだから、私もマスターもいい加減な事は言えないけど、
祐司君にはプロになれる素質は充分あると思う。あとはその夢への道に挑戦する勇気と・・・運ね。」
「私は祐司さんを応援しますよ。勿論無利子無担保で。」
「ほら、パートナーは心強いことを言ってくれてるぞ。勿論、祐司君がその気になったら、オーディションの情報やプロダクションの伝(つて)の方は
任せてくれ。君には俺がなしえなかった、プロのステージを踏める夢を実現できる素質があると思う。だから自分一人で、なんて思わなくて良いぞ。」
「・・・ありがとうございます。でも、暫く考える時間を下さい。」
「それは勿論よ。祐司君自身のことなんだもの。祐司君が進む道を選ぶ為に考える時間を持つのは当然のことよ。」
「私は見てみたいです。祐司さんがホールいっぱいのお客さんの前でギターを引く姿を。」

 晶子の言葉が胸に響く。俺をバックアップしてくれるという晶子の夢を叶えたい。
そう思うと、プロへの夢がゆっくりと心の深淵からサルベージされてくるような気がする。

「・・・俺も全くその気がないわけじゃありません。今日のステージで少し自信がついたくらいです。よく考えて道を決めたいと思います。」
「そうだな。祐司君、くれぐれも忘れないでくれよ。君や晶子ちゃんは俺と潤子の子どもも同然だ。出来る限りのことはするから、
安心して自分の道を模索してくれ。」
「そうよ。貴方達でどうしようもなくなったら、遠慮なく私とマスターを頼ってね。本当に出来る限りのことはするから。」
「・・・ありがとうございます。」

 今の俺にはそれしか言えない。そんな自分がもどかしくて仕方がない。
そんな自分を応援してくれるマスターと潤子さんに、そして・・・俺をバックアップしてくれるという晶子に、心の底から「ありがとう」と言いたい。

 俺と晶子は静まり返った夜道を並んで歩く。
店の建つ丘にたんぽぽが咲き乱れる−店の名前どおり「Dandelion Hill」になっている−季節になったとはいえ、まだ朝晩には薄手でも羽織るものが欠かせない。
 俺の左腕には手袋の消えた晶子の手が回っている。
こんな風に往復の道を共にするようになってまだ半月にも満たないが、もう随分長くこうしているように思う。
あくまでも自然に、無理や勇み足の無い、そんな理想的といって過言ではない関係が続いていることに、改めて今の幸福を感じずにはいられない。

「本当に今日は凄かったですね、祐司さん。」

 沈黙が続いていた道程で晶子が話を切り出す。
往復の道程で話題に上るのは、その日のバイトのことや新しいレパートリー候補についてのことが殆どだが、今日はやっぱり俺のステージが話題に上ったか。
まあ、自然と言えば自然なことだが、こうも何度も話題に上るとどうも照れくさい。だが、他に話題があるかと言えば見当たらないのもまた事実なんだが。

「ようやくあのステージが凄い反響だったんだな、って振り返る心の余裕が出来てきたよ。」
「何て言うか・・・祐司さんとギターとステージが一体になってる、って感じでしたよ。もし友達があの場に居たら、絶対私、あの人が私の彼よ、って
自慢してましたね。」
「俺は特に意識しないで演奏を始めたんだけど、途中から手拍子が入ってさ。それに応えなきゃ、って気になった。それが良かったのかな?」
「だと思いますよ。私もお客さんから手拍子とか貰うと、よーし、って張り切っちゃいますから。」
「でも、それからあんなに凄い反響が得られるなんて思ってもみなかった。今思い出しても不思議にしか思えないよ。」
「だーかーら、それは祐司さんの実力の証明なんですってば。」

 晶子が半ば呆れ顔で言う。そうは言われても、あんな凄い反響は初めてだから実力の証明といわれても俄かには信じられないというのが俺の本音だ。
俺は顔を顰めて頭を掻く。そうしても納得できるわけじゃないが、そうでもしないと落ち着かない。

「それで・・・どうです?」
「ん?何が?」
「プロになる道を選ぶ気になったのかってことですよ。」

 晶子が話の核心に切り込んでくる。まだ俺自身決めかねてるって状況なのに・・・。
そんなに俺がプロとしてステージに上る姿を見たいんだろうか?

「・・・まだ決めてない。俺自身、プロに慣れればなりたいっていう気持ちはある。でも、それに到達するまでにある壁や断崖絶壁をやりすごせるかどうか、
その覚悟と自信と実力が俺には備わってない。」
「実力はありますよ。あれだけのお客さんを満足させたんですから。」
「プロになるなら公立の体育館や公会堂とか、クラブハウスにぎっしり詰まった観客を満足させられなきゃ駄目だ。俺にそれだけの実力があるか、と問われたら、
分からないとしか答えられない。そんな状況でプロへの道を踏み出そうなんて考えが甘すぎる。」
「祐司さん・・・。」
「正月に店に泊まった翌日の朝食兼昼食の席で潤子さんに言われたんだ。ジャズバーを席巻したマスターでさえオーディションの壁を突破できなかったって。
それに何かの偶然で運良くプロになれても直ぐに鍍金が剥がれるってな。」
「・・・。」
「それから、今日の一杯の席上でも晶子自身が言ってたし、正月に潤子さんから話を聞いたよ。俺がプロを目指すなら、プロになるまで二人分の食い扶持は
どうにかするって。それって言い換えれば、俺のために晶子の人生を振り回すってことだろ?俺は・・・そんなことできない。俺のために晶子の人生をくれ、
なんてとても言えない。第一、そんな資格は俺にはないよ・・・。」

 晶子からの反応は無い。重い沈黙の中、足音がやけによく響く夜道を暫くの間歩いていく。
晶子の家があるマンションまであと少し−もう建物自体は夜の闇にシルエットを浮かべている−というところで、晶子が足を止める。

「私と祐司さんって、パートナー同志ですよね?」
「あ、ああ・・・。」
「パートナーなら、人生を共にしても何も不思議じゃないんじゃないんですか?」
「晶子・・・。」
「私の人生は私のものです。それを祐司さんのバックアップのために使うのも、私の自由でしょ?」

 そう言って微笑む晶子に、俺は返す言葉が無い。
確かに晶子の言うとおりだ。晶子がそういう人生の選択肢を選ぶのを妨げる権利は俺にはない。だけど・・・。

「良いのか?」
「何がですか?」
「俺のために自分の人生を台無しにするかもしれなくても・・・良いのか?」
「台無しになるかどうかは祐司さんの進む道次第ですよ。それに、失敗が台無しに直結するなんて思ってませんから。」
「それはそうかもしれないけど・・・。」
「祐司さんは宮城さんと、私は前の彼と失敗しました。でも、その失敗で人生がぶち壊しになりました?現に今、こうして私と祐司さんは出会って
パートナーになれたじゃないですか。」
「!!」

 そう言われてみれば確かにそうだ。
俺は宮城と切れて、晶子も手痛い失恋を味わった。
でも、その向こう側は断崖絶壁じゃなくて、紆余曲折はあったにせよ、きちんと道はあった。
俺と晶子がパートナーとして公私を共にする時間を持つことになるという道が・・・。
 失敗したらそれで全てが終るわけじゃない。
険しいかもしれないけど、曲がりくねっているかもしれないけど別の道がある。
俺はそのことを学んだじゃないか。
否、それよりも前にも、告白で連戦連敗続きだった俺に、宮城の方から告白されるっていう、それまでの経験からは信じられないことがあったじゃないか。
 失敗で全てが終わるなんて考えるのは、慎重を通り越して臆病なだけじゃないか?
折角晶子やマスターや潤子さんが応援するって言ってくれるじゃないか。
なら・・・その好意に甘えても良いんじゃないだろうか?

「勿論祐司さんの人生ですから、私は強制は出来ませんし、そんな権利もありません。でも、祐司さんが夢に賭けてみる、って言うなら、
私はそれを応援します。祐司さんがその夢を実現するにしても、挫折して引き返すにしても。」

 晶子がそう言った次の瞬間、俺は晶子を抱き締めていた。ありったけの力を込めて固く、強く・・・。
晶子は抵抗する素振りも見せず、ただ俺が抱き締めるのに身を任せている。

「・・・まだ結論は出せない。だけど・・・音楽のプロになりたいっていう気持ちが強くなってきた。」
「・・・。」
「俺の実力と運で何処でどうなるか、何処まで通用するか分からない。失敗したり挫折したりするかもしれない。それで良ければ・・・
世間の荒波に翻弄されても良いなら・・・晶子には俺についてきて欲しい。」

 言ってから気付く。これじゃプロポーズと変わらないじゃないかって。
でも・・・さっきの言葉は俺の本心そのものだ。もう言い逃れはしない。
すると、俺自身も強く、しっかりと晶子の方に抱き寄せられる。晶子からの無言の返答だろう。少なくともNOじゃないと思う。

「私は・・・祐司さんを応援します。ずっと・・・。これは私が決めた私の進む道です。だから祐司さんは、自分の決めた道を進んで下さい・・・。」
「晶子・・・ありがとう・・・。」

 急速に熱くなってきた目頭から熱い感情の雫が零れ落ちそうになるから、それだけしか言えない。
晶子の温かい励ましと支援の約束にたった一言しか返せない自分がもどかしい。
でも、何らかの形で、譬え音楽のプロを目指さない道を選んだにしても、晶子の気持ちに精一杯応えたい。それが今の俺に課せられた責任だ。
 その責任を全うするには・・・今から真剣に自分の進む道を模索していかなきゃいけない。
今日のたまたまかどうかすら分からないステージの成功に安住することなく、今通っている大学のブランドに頼ることなく・・・。
それで選んだ道に向けて進むのみだ。多少の困難や失敗は覚悟の上で。
 今日は今まで漠然とも考えていなかった自分の将来と真剣に向き合う絶好の機会になった。これだけは間違いない。
この機会を今日この時だけで終らせるんじゃなくて、毎日少しずつでも持つようにしよう。そして近い将来、自分の進む道を見出そう。
俺を応援してくれるマスターや潤子さん、そして晶子の厚意に応える為にも・・・。

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