雨上がりの午後
Chapter 54 想い合う二人は新年の宴へ
written by Moonstone
・・・ルルル、トゥルルルルル・・・。
・・・ん?何だ?この音・・・。
トゥルルルルル、トゥルルルルル。
・・・電話?
音の正体が分かった俺は起き上がろうとするが、横で寝ている晶子に左手と左腕をがっちり掴れていて身動きが取れない。
電話はベッドから出ないと出られない位置にあるから、どうにかしないことには・・・。
トゥルルルルル、トゥルルルルル。
鳴り続ける電話は、恐らく実家からだろう。
昨日はかかってこなかったが−初詣や親戚めぐりで家に殆ど居なかったんだろう−、今日は普通に店を営業しているか正月休みを満喫しているかの
どちらかだろう。
その「一環」で俺が新年のメッセージを吹き込んだ留守番電話を聞いて、電話してきたことは十分に考えられる。兎に角、晶子の「腕固め」から脱出しないと・・・。
「ん・・・。どうしたんですか?」
「腕固め」をしていた晶子が、俺の足掻きで眠っていた意識を覚醒させられたのかようやく目を覚ます。
だが、まだ寝ぼけているのか、俺が「腕固め」からどうやって脱出しようか足掻いていることには気づいていないようだ。
「電話鳴ってるんだよ!頼むから手と腕、放してくれ!」
「はーい・・・。」
少々間延びした返事と共に、晶子はようやく「腕固め」を解く。
俺はベッドから出て床に落ちていた上着を取って羽織りながら受話器を取る。
「はい、安藤です。」
「あんた、こんな時間まで寝てたの?」
この声は俺の母親の声だ。電話に出るのが遅れたのが原因か、やや声が荒い。
ステレオの時計を見てみると、12時をとっくに過ぎている。昨日夕食でおでんを食べてから深夜まで新しいレパートリーを選んだり軽い練習をしていたし、
休みだから、と目覚ましもかけなかったからこんな時間まで寝てたわけか。
「悪い悪い。さっきまで寝てた。目覚ましかけてなかったし。」
「まあ、今日は正月休みだし、あんたも大学休みだろうから良いけど・・・普段ちゃんと大学行ってる?」
「行ってるに決まってるだろ。1年と2年のうちに教養課程の単位全部と専門課程の一部の単位を取らなきゃ、留年になっちまうんだから。」
「そう。念のため言っとくけど、家(うち)には4年分以上の学費を払って仕送りをする余裕はないからね。」
「分かってるって。バイトで生活費を補充するって約束したうえで此処で一人暮らしすることを許してくれたんだろ?」
「そんだけ分かってりゃあんたは大丈夫だと思うけど、変な宗教団体とかに入ったりしてない?あんた、昔から自分が信じたことや自分の主張とかは
頑として曲げない子だったから。」
「そんな団体に入ってたら、まともに生活費稼ぐ時間なくなる。」
「それもそうね。他に何か変わったことない?」
「いや、別に。」
「そう。じゃあ、身体に気を付けるのよ。それから留守番電話にメッセージ吹き込んであったわね。1日遅れだけどおめでとう。」
「おめでとう。」
「父さんもあんたがまともに生活してるか心配してるから、何かあったら直ぐに連絡しなさいよ。」
「分かった分かった。」
「それじゃ電話切るから。ちゃんとしなさいね。」
「はいはい。」
母親が受話器を切る音が聞こえたのを合図に、俺は受話器を置く。ちょっと乱暴な新年の挨拶だったが、まあ気にするほどのものじゃない。
電話に集中していた神経が部屋の冷気に気づき、俺を身震いさせる。
「電話、お母さんからだったんですか?」
晶子が布団の中から尋ねる。冷気の鋭さを感じたのか、うつ伏せになった状態で布団から頭だけ出している。・・・ちょっとずるいと思う。
「ああ。よく分かったな。」
「話の内容から何となく分かりましたよ。」
「昨日の留守番電話は聞いてくれたみたいだった。いきなり『あんた、こんな時間まで寝てたの?』って言われたときは、ちょっとドキッとしたけどな。」
実家から電話がかかってくるのは、去年の−とは言っても、まだ3日前までのことだが−12月半ば以来だ。
内容もさっきとよく似たもので、大学に通っているか、変な団体に入ってないか、身体は大丈夫か、といったもので変化に乏しい。
まあ、こういう場合は「変化がないのは良い便り」なんだが。
実際、前に高熱出して寝込んだ数日後にそのことを話したら、病院へ行ったか、薬はあるか、食事はどうしたのか、とあれこれ問い質された。
そのときはバイト先の人に助けてもらった、と言っておいた。
晶子に付きっきりで看病してもらった、なんて言ったら大騒ぎになるのは目に見えていたし、「バイト先の人」というのは本当だから嘘はついてない。
・・・我ながらなかなかの屁理屈だ。
晶子が起き上がって床に落ちていた上着を羽織ってベッドに座る。
俺は今日着る服を適当に見繕って取り出す。そして暖房のスイッチを入れる。
「晶子。今日どうする?」
「マスターと潤子さんのお宅にお邪魔しませんか?」
「そうだな・・・。昨日来ても良いって言ってたし、行くか。」
「ええ。途中、私の家に寄ってもらえます?」
「晶子の家に?・・・ああ、そう言えば晶子は実家に電話してないんだったっけ。いっそ此処で電話しても良いんだぞ?本当に。」
「・・・自分の家からにします。」
晶子はどういうわけか自分の家からに固執しているように思う。何故だろう・・・?
聞かれたくないことでも話すんだろうか?
晶子が・・・俺に何か隠し事をしている・・・?
そう思うと、心の中で急に疑念が膨らみ始める。疑念が膨らんでいくに合わせて、晶子への気持ちに暗雲が覆い被さっていく。
・・・止めだ。このままだと晶子を警察みたいに尋問しかねない。
それに晶子にだってプライバシーってものがある。聞かれたくないことだってあるだろう。
第一・・・また同じ苦しみと悲しみを味わいたくない、二度と騙されてなるものか、という疑心暗鬼を逃げの気持ちを乗り越えて
晶子と付き合うことを選んだのは他ならぬ俺自身じゃないか。気持ちを逆戻りさせてどうするんだ?!晶子を信じないでどうするんだ?!
「そう言えば大晦日にも同じこと聞いたよな。はは、馬鹿だよな、俺って。2日で忘れちまうなんて。」
半分以上晶子への気持ちを覆っていた暗雲を振り払うように、軽い調子で言ってみたりする。
「御免なさい。祐司さんの電話を聞いておいて自分の電話は聞かせない、なんて勝手なこと言って・・・。」
「新年の挨拶くらいだろ?謝ることなんてないさ。それより早く着替えよう。あっという間に外が真っ暗になっちまう。俺は風呂場で着替えてくるから。」
「はい。」
晶子は微笑んで頷く。俺は服を抱えて風呂場へ向かう。・・・これで良い。
もう心に壁を作って疲れるのは御免だ。試したり疑ったり、そんな駆け引きはもう恋愛ではしたくない。
苦しいのは相手に想いが届かないときだけで充分だ。
「お待たせしました。」
時間にして5分少々で、晶子は待ち合わせ場所にした、晶子の家があるマンションのロビーに戻って来た。
再び外に溢れ出ることを伺う暗雲を押さえ込みながらソファに座っていた俺は立ち上がる。
「直ぐ済みますから」と言って此処で待っているように頼んだ晶子を、俺は正直訝った。そんなに聞かれたくないことを話すのか、と。
だから払い除けた筈の暗雲が外に出ようとしていたわけだ。
だが、予想を遥かに越える短い時間で戻ってきたことで、外に出ようとしていた暗雲は簡単にその勢いを失う。
往復の時間を考えても、1日遅れの新年の挨拶以外話しようがないだろう。
俺と晶子は管理人に会釈して−入ったときに新年の挨拶をしたら、礼儀正しい若者だね、なんて誉められた−外に出て、
自転車置き場に向かいながら話をする。
「早かったな。」
「基本的には新年の挨拶だけですからね。でも、親は大晦日と昨日も居なかったのはどういうことか、って聞かれました。」
「・・・どう答えたんだ?」
「お友達の家で年越しして初詣に行って、そのままそのお友達の家に泊まった、って。『お友達』以外は間違ってないでしょ?」
「ああ、間違ってない。何て言うか・・・晶子も俺も似た者同士だな、本当に。」
「え?」
俺は晶子が自転車の荷台に乗ったのに続いてサドルに跨って、マスターと潤子さんの家、つまりは俺と晶子のバイト先へ向けて出発する。
「ほら、前に俺が高熱出して寝込んだことあっただろ?あの数日後に親から電話があって、熱出して寝込んだことを話したんだ。
そしたら食事や薬とかはどうした、とか聞かれたんだ。そのとき『同じバイトの人に助けてもらった』って言ったんだよ。これも間違ってないだろ?」
「ええ。本当によく似てますね。私達。」
「本当なら、晶子に看病してもらったって言うべきだったんだろうけど・・・、まだあの時は付き合ってなかったし、親が大騒ぎすると思ってな。
一体その井上晶子って娘(こ)は何なんだ、とか。」
「祐司さんの判断は正しかったと思いますよ。いきなり聞いたことのない女の人が看病してくれた、なんて言ったら大抵の人は誰だそれって驚きますよ。」
「晶子の場合はもっと驚くだろうな。男の家で年越しして、さらにその男の家に泊まった、なんて娘から聞かされたら親がびっくりするのは目に見えてる。」
「でも、何れは両親に言わないと駄目ですね。『この人が安藤祐司さんよ』って。」
突然の「爆弾」に、俺は思わず前につんのめる。
危うく転倒は逃れたが、一旦自転車を止めて足をペダルから道路に移して呼吸を整える。
「と、突然何言い出すんだよ。」
「え?両親に紹介する時の一般的な口上を口にしただけですけど。」
「い、一般的な口上、ねえ・・・。何か・・・想像できる雰囲気が一般的じゃなかったんだけど。」
「そう思ったってことは、祐司さんの意識の中にそういう雰囲気があるってことじゃないですか?」
「う、うーん・・・。」
参ったなぁ・・・。晶子が言ったように、「そういう雰囲気」が頭に全くなかったわけじゃない。
まだ付き合い始めて一月も経たないのに、もう「そういう雰囲気」を頭に思い描いているってわけか・・・?
幾ら何でも気の早い話だが、想像してみると悪い気はしない。
「祐司さん。その話はまた後にして、先にマスターと潤子さんのお宅へ向かいましょうよ。」
「あ、ああ。そうだな。よし、行くか。」
俺は何故か高ぶる気持ちを沈めて、再びペダルに足を乗せて自転車を進ませる。
冷気が頬を伝っていくのが心地良い。多分、頬が火照っているんだろう。無論、温かい食べ物を食したり適温の風呂に使ったのでもない。
その後は背後から「爆弾」を食らうこともなく、無事にマスターと潤子さんの家、同時に俺と晶子のバイト先に着いた。
晶子が自転車を降り、裏口へ自転車を押す俺の後ろをついて来る。
「CLOSED」のプレートがかかっている店の出入り口には、さらに注連縄(しめなわ)が飾られていて、両脇には割と大きな門松が置かれている。
洋風そのものの店の外見からは妙に浮いて見える。
一方の裏口にも車と入り口に注連縄が飾られている。結構まめに正月の準備を施してある。
此処にお邪魔するということは俺の家を出る前に電話で伝えてある。
何時来ても良いとは言われてはいるが、いきなり押しかけるのは流石に気が引ける。
潤子さんお手製のおせち料理に雑煮。どんなものか早く味わってみたいものだ。
俺はインターホンのボタンを押す。少ししてガチャッという音がする。
「はい、どちら様でしょうか?」
「あ、潤子さんですか?安藤祐司と井上晶子です。」
「待ってたのよ。ちょっと待ってね。ドアの鍵開けるから。」
再びガチャッという音がして、間もなくドアに向かって走ってくる足音が徐々に大きくなって聞こえてくる。
そしてドアのノブで軽い金属音がして、ドアが開かれる。顔を出したのは潤子さんだった。長い黒髪は括られてなくて、肩口からふわりと流れている。
「さ、入って。食事の準備は出来てるから。」
「「はい。」」
俺と晶子は、潤子さんが開けてくれたドアから中に入る。
玄関もほんのりと暖かい。俺はコートを脱ぐ。ついさっきまで冷気に晒されて半ば強張っていた頬も柔らかさを取り戻し始める。
「二人共、頬が真っ赤よ。寒かったでしょ?」
「ええ。太陽は夏と変わらないように見えるんですけど、空気はやっぱり冬ですね。」
「雑煮作ってあるから、少し温めれば直ぐ食べられるわよ。」
「「ありがとうございます。」」
「ふふっ、良いのよ。日頃頑張ってくれてるんだから。」
女神を思わせるような微笑を湛える潤子さんに先導されて、俺と晶子はダイニングに入る。
と同時に、それまで新聞で上半身を隠していた人物が「正体」を明らかにする。「正体」といっても勿論、マスターなんだが。
「よっ、お二人さん。いらっしゃい。」
「「こんにちはー。」」
「空いてる席に座ってて。雑煮をもう少し温めるから。その間、テーブルのおせち料理を摘んでて良いわよ。遠慮しなくて良いから。」
「「はい。」」
俺と晶子は席に着く。俺がマスターの隣、晶子がその向かい側に。丁度去年のクリスマスコンサートの音合わせで泊り込んだときと同じ位置だ。
マスターの横に晶子を座らせたくないとか、潤子さんの隣に座って晶子に睨まれたくないというわけでもない。何故かこの位置がしっくり来るからだ。
潤子さんは火加減に注意しながら大きな鍋をゆっくりかき混ぜている。出汁の良い香りが鼻を心地良くくすぐる。
あの鍋の中に潤子さんお手製の雑煮があるのかと思うと、それだけで腹の虫が騒ぎ出す。
潤子さんお手製の料理の味は、バイト前の夕食やクリスマスコンサートの音合わせの時の食事で充分分かっているだけに、期待も大きい。
潤子さんが火を止めて、予めテーブルに重ねておいてあった茶碗を手に取って、そこに雑煮をすくって入れる。
薄い茶褐色を帯びた餅と白菜が、湯気を立ち上らせながら茶碗に流れ込んでいく。
出汁の香りをバックグラウンドにしているだけに、その様子が一層期待を膨らませる。
「祐司君と晶子ちゃん、それぞれ住んでる所によっては初めて見るタイプかも知れないけど・・・。」
潤子さんは俺と晶子の前に雑煮の入った茶碗を置く。
実家の雑煮と同じく、出し汁で白菜と餅を煮込んだものだ。実家で正月の度に食べているタイプだが、潤子さんが作ったものだけに期待は大きい。
一方の晶子は・・・ん?大きな瞳をより大きく見開いて物珍しそうに見ている。もしかして晶子にとっては初めて見るタイプの雑煮なんだろうか?
「良い香りですね。これって鰹出汁だけですか?」
「そうよ。それに醤油を加えて餅と白菜を一緒に煮込んだの。晶子ちゃんは・・・初めて見る?こういう雑煮。」
「はい。実家の方では餡(あん)の入った餅を大根や白菜と一緒に砂糖で煮込むんです。だから初めて見た人はびっくりしますよ。
『甘い雑煮なんて初めてだ』って。」
「そうなの。じゃあ晶子ちゃんの口には合わないかもしれないわね。祐司君はどう?」
「俺はこの雑煮と全く同じタイプですよ。母親の雑煮との食べ比べになりますね。」
「あら、じゃあ、私の方が不利ね。お母さんの雑煮とはやっぱり違うだろうし。」
「でも、出汁の香りとかは実家のを彷彿とさせられましたよ。」
「じゃあ、祐司君、晶子ちゃん。どうぞ食べて頂戴。」
「「いただきまーす。」」
俺と晶子はお馴染みの食前の挨拶を済ませた後、箸を手にして出汁の香り芳しい餅を口に運ぶ。
じっくり煮込まれたらしく柔らかくて旨味が存分に染み込んだ餅は口の中で容易くとろける。
・・・これは美味い。実家の雑煮に全く引けを取らない、否、激しい鍔迫り合いだ。どっちが優勢なんて言えないレベルだ。
「流石は潤子さん、美味いですね。」
「どう?お母さんの味と比べて。」
「比較なんて難しいこと、出来ませんよ。」
「あらそう。良かった。晶子ちゃんはどう?」
マスターの向かい側、晶子の隣に座っている潤子さんの顔が若干曇る。
初めて目にするタイプという雑煮を食べられて、その批評を受ける身だ。潤子さんといえど緊張するだろう。
だが、晶子は何度か咀嚼するうちに緊張気味だった表情が和らいでいき、飲み込む頃には満足感溢れる表情になった。
「薄味ですけど凄く美味しいです。さっぱりした醤油味が良いですね。」
「そう?タイプが根本的に違う雑煮だからどうかと思ったけど・・・。」
潤子さんの表情に安堵の色が浮かぶ。やはり初めて自分の料理を食される緊張感が相当あったんだろう。
如何に際立つ外見に加えて常連客を−もはや固定客と言って良いかもしれない−店に呼び寄せる料理の腕を持っていても、
食文化の違いを超えるのは難しいだろう。
料理がまるで駄目な俺でもそのくらいは想像出来る。
「そろそろお互いの食文化の違いは知っておいた方が良いんじゃないか?」
それまで黙っていたマスターがいきなり切り出す。
俺はマスターの言葉の中に含まれたものを感じ取って、思わず続いて口に運んだ餅と白菜を噛まずに飲み込んでしまいそうになる。
何故そこまで話を飛躍させるんだ、このおっちゃんは・・・。俺は胸を何度も叩いて、吐き出しそうになった冷静さをどうにか取り戻す。
「おいおい、どうした祐司君。喉に痞えたか?」
「なら大変じゃない!祐司君、ちょっと待っててね!」
「い、いえ、大丈夫です。ちょっとむせただけですから。」
慌てて立ち上がった潤子さんをどうにか制する。
表面上は落ち着いた俺は、咳払いなどして取り繕う。しかし、隣の熊さんの言ったことに対する心の動揺は隠し切れない。
想像するとぜんざいみたいな雑煮が実家の雑煮だというなら、食文化の違いは多分これだけに留まらないだろう。
まあ、洋食はそれほど影響はないだろう。現に俺は何度も晶子の作る洋食を食していて違和感を感じたことは一度もない。
しかし、和食は地域の特色や文化が色濃く出る料理だ。
刺身や天ぷらといった、割と洋食に近いとも言えるメニューはまだしも、肉じゃがやきんぴらゴボウとか、煮込みが入ってくる料理となると話は違ってくる。
肉じゃがやきんぴらゴボウは2、3回食卓に上ったことがあるが、どれも甘く感じた覚えがある。
そのときはあまり作り慣れてないって晶子が言う和食だから、砂糖の加減を間違えたかな、という程度にしか思わなかった。
しかし、今思えばそれが俺と晶子の決定的な違いの一つだったわけだ。
食文化に大きな違いがあるということは、そのバックグラウンドになっているその地域の文化や風習にも違いがあるってことだ。
幾らコンビニやファーストフードで食文化の全国均一化が進んでいるとはいえ、地方ではまだまだその文化や風習が根強く残っているものだ。
・・・もし、俺が晶子の実家に案内されるようなことになって、見たこともない食事を目の前に並べられたら・・・どうすりゃ良いんだろう?
「祐司君、どうしたの?」
久しぶりに深い思考の海溝に沈んでいた俺は、潤子さんの問いかけで我に帰る。
潤子さんは席を立って身を乗り出し、心配そうに俺を見ている。
「あ、いえ、ちょっと考え事してただけですから・・・。」
「そう。なら良いんだけど・・・。」
「見たことのない食事が並んだ時のことを考えてたんじゃないのか?」
「?どういうこと?」
「これ以上祐司君を苛めると、晶子ちゃんが怖いから止めとく。」
マスターはちらっと晶子の方を見て、新聞を畳んで机の隅に置いて重箱の中にある数の子を箸で摘んで食べる。
何事もなかったようなその豹変振りに俺は苦笑いするしかない。潤子さんは首を傾げながら椅子に腰を下ろして、黒豆と蓮根の煮込みを
−これも俺の実家や親戚のおせち料理にあったメニューだ−添えられてあったスプーンで取り皿に取って一口分食べて顔を上げる。
「祐司君も晶子ちゃんも遠慮なく食べて良いからね。むしろ食べて欲しいくらい。」
「どうしてですか?」
「実はね、二人分で良いのにちょっと作り過ぎちゃったのよ。昨日月峰神社で会った時に誘ったのは、実家に帰らない二人に正月気分を味わって欲しかったのと、
作り過ぎたおせち料理を食べて欲しかった、ていう理由があったからなのよ。」
「というわけだ。二人が来てくれて良かったよ。さあ、遠慮なく食べてくれ。勿論、好みじゃないやつは無理して食べなくても良いからな。」
「「はい。」」
マスターと潤子さんの都合があったとは言え、豪華な正月料理の、それも実家を髣髴とさせる料理の数々に、俺は雑煮と交互に重箱の彼方此方を突付く。
晶子も最初こそちょっと手を出しあぐんでいたが、数の子や栗金団(くりきんとん)といった、おせち料理の中でもお馴染みの料理から手を出し、
初めて口にするタイプの雑煮と共に、徐々に軽快さが出てきて他の料理にも手を出していく。晶子は食生活にかなり柔軟に対応できるようだ。
「あ、そうそう。お酒飲む?」
黒豆と蓮根の煮込みを食べていた潤子さんが尋ねてきた。料理は勿論美味いが、酒があるともっと楽しい場になると思う。
杯一杯程度では言えなかったことや聞けなかったことが飛び出すかもしれない。
もっとも酒が原因で折角の人間関係をぶち壊してしまうようなことになることだけは避けなきゃならない。これは飲む側の自己責任だ。
「じゃあ俺は・・・ビールお願いします。」
「私もビールお願いします。」
「俺は熱燗を頼む。」
「ビールは丁度冷えてるから直ぐ飲めるわよ。あなた、熱燗はちょっと時間かかるけど良い?」
「構わん構わん。正月くらいのんびり行こうや。」
「じゃあ、早速準備するわね。私も飲みたいし。さて、ビールはっと・・・。」
潤子さんは席を立って、冷蔵庫から瓶ビール1本取り出す。
続いて床下の倉庫から一升瓶を取り出して、食器棚からお猪口と大きめの徳利を取り出して、手早く鍋をコンロにかけて湯を沸かし始めて、
そこに徳利を入れる。
そして瓶ビールを栓抜きとグラス二人分と一緒に俺と晶子の丁度真中に置く。
潤子さんの動きには無駄が全くない。マスターが潤子さんにどんな魔法をかけたのか聞いてみたい衝動に駆られる。これで何度目か分からない。
晶子が瓶ビールの栓を抜こうと席を立ったところで、俺が栓抜きを持って立ち上がる。
俺と晶子がテーブルを挟んで席を立った構図に、マスターと潤子さんはきょとんとした表情を俺と晶子に向ける。
「どうしたの?二人揃って立ち上がって。」
「まさか、頼んだビールを前にして帰る、なんて言わないよな?」
「あ、ち、違うんです。ビールの栓を抜こうと思って・・・。」
「俺もビールの栓を抜こうと思って、栓抜きを持って立ち上がったんですよ。」
俺と晶子がそれぞれ事情を説明すると、マスターは如何にも面白そうに、潤子さんは右手の先で口を押さえてくすくすと、それぞれ特徴的な笑い方をする。
「何だ何だ。互いにビールの栓を開けて相手のコップに注ごうとしてたのか。こりゃ面白い。」
「・・・そんなに面白いですか?」
「二人同時に立ち上がるんだもの。何かと思ったら、祐司君も晶子ちゃんも同じこと考えてたなんて・・・。」
俺と晶子はちらっと視線を合わせて直ぐに俯く。
俺と晶子の間にちょっと気まずい空気が漂う中、マスターと潤子さんはまだ笑っている。・・・そんなに面白いか?
このまま突っ立っていても仕方ないから、俺は持っていた栓抜きで瓶ビールの栓を開ける。
晶子もこれ以上笑いの種になりたくないのか−そりゃそうだろう−、コップの一つを持つ。何が何でも自分が注ぐ、というある意味
押し付けがましいところがないので、瓶を手に持った俺もやり易い。
俺はやや斜めに構えた晶子のコップに静かにビールを注ぐ。
黄金色の液体がある程度コップの容積を閉めたところで、晶子はコップを徐々に垂直にしていく。これで充分、という意思表示だろう。
俺はビールを注ぐのを止めて瓶をテーブルに置いて、代わりにもう一つ置いてあったコップを手に取って少し晶子の方に口を傾ける。
晶子はビールの入ったコップを置いて瓶を手に取って、俺のコップに静かにビールを注ぐ。
泡を吐き出し続ける黄金色の液体がコップの半分を超えたところで、俺は晶子がやったようにコップを垂直にする。
晶子は瓶を置いて椅子に座る。続いて俺も椅子に座る。
俺と晶子はビールの入ったコップを手に取ると、徐にコップを軽くあわせる。そして俺はビールをぐいっと一気に飲み干す。
晶子は1/3ほど飲んだところで一旦コップを置いて、残りの雑煮を口に運ぶ。
ビールを相手に注ごうとしたりビールの注いだりするところは同じでも、ビールの飲み方はかなり違う。
「ビールはまだあるから、なくなったら言ってね。」
「はい。ありがとうございます。」
「祐司さん。もう1杯飲みます?」
「あ、ああ。」
俺は泡だけを残してビールが消えたコップを、少し斜めにして差し出す。そこに晶子がビールをゆっくりと注ぐ。
1杯目より二口分くらい量を増やした辺りでコップを垂直にする。
晶子は瓶を置いてあった場所に置いて、俺に向かって優しくて温かい微笑を向けて再び残りの雑煮に手をつける。
食べながらも俺の様子を気にしてくれていたんだろうか?だとしたら・・・嬉しいな。
マスターや潤子さんがからかいに出るか、と思ってちらっと見やるが、マスターはおせち料理を摘んでいるし、潤子さんは席を立って熱燗の準備をしている。
ほっとすると同時に、ちょっと残念な気もする。からかって欲しかったんだろうか?・・・全否定することは出来ないように思う。
そう言えば・・・優子、否、宮城と付き合っていたときも、悪意があると感じた時は別として、周囲からからかわれても嫌な思いはしなかったっけ。
何と言うか・・・むしろからかわれることが俺と宮城の仲の良さが周囲にアピールできているように感じたものだ。今もそういう気分なんだろうか?
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