雨上がりの午後
Chapter 32 すれ違う心合わせ、そして悪夢
written by Moonstone
そんな騒動の後の音合わせは、一転して真剣かつ入念に進められた。
今日が泊り込みの最終日だから、事実上4人揃って音合わせができるのはこれが最後になる。熱が入って当然というものだ。
予定されたプログラムにしたがってクリスマスの定番ソングを交えながらそれぞれのソロ曲とセッションする曲を順番にこなしていった。
中でもセッションする曲のうち、コンサートで初めて披露する曲は本番並みの緊張感が漂っていた。
「これくらいで良いかな?」
3回目の「COME AND GO WITH ME」の音合わせが終わってマスターが言ったときには、時計の針はとっくに午前0時を回っていた。
空調が効いている中で緊張感たっぷりの演奏をしたから、もう汗だくだ。
この熱さでセーターなんて着てられない。とっくに脱いでしまって今座っている椅子の背凭れにかけてあるし、
下に着ていたシャツも袖を肘のところまで捲っている。捲るといっても井上みたいに袖口の幅に合わせて丁寧に折り曲げるというものじゃなくて、
乱暴に引っ張りあげただけのようなものだが。
井上の頬はすっかり上気して赤みを帯び、そこに照明を浴びて輝く汗の湿り気を含んだ髪が少しばかり張り付いている。
早く小さく肩で息をする様子が妙に艶かしい・・・。
見詰めたままだと変なこと考えてしまいそうだ。
視線を素早く井上から逸らして、疲れきった体に食い込むストラップから身体を抜く。身軽にはなったが、逆に疲れがどっと出てきたように感じる。
「良いと思いますよ・・・。俺が聞いていた限り、気になる部分は特になかったですし。」
「じゃあ、これで終わりにするか。本番さながらだったから皆疲れただろう。」
「さすがに熱いわ・・・。当日はお客さんも居ることだし、空調を控えめにした方が良いかもね。」
「そうだな・・・。」
「体力勝負ですね、コンサートって・・・。」
「そうなんだよ。普段のリクエストより曲数も多いし、それもフル稼働だからね。腕は別としてコンサートは兎に角体力が第一だよ。」
「晶子ちゃん、喉は大丈夫?」
「さすがに・・・ちょっと痛いですね。」
井上は喉に手をやって小さく何度か咳をする。
クリスマスソングには歌がつき物だし、他にも手持ちのレパートリーやセッション曲もある。
井上は自分そのものが楽器だから、その疲れ方は俺やマスターや潤子さんのものとは質が違うだろう。
「大丈夫か?井上。」
「え、ええ・・・。」
「無理すんなよ。井上の楽器は井上自身なんだ。壊れたら修理に出して治す、なんて簡単にはいかないんだぞ。」
「・・・はい。」
小さく頷く井上の顔はまだ赤い。だが、ちょっと赤みが増したようにも思うのは気のせいか?・・・それより何だか二つの強い視線を感じる。
辺りを見回すと、マスターがサックスを片手に、潤子さんがピアノの向こうから俺と井上をじっと見詰めている。明らかにその視線は何かを期待している。
妙な沈黙が俺の身体の熱気を急激に冷ましていく。それに反比例して別の熱気が急上昇してくる。
「・・・な、何じっと見てるんですか?!」
「あ、私達に構わなくて良いから続けて頂戴。」
「そうそう。映画みたいなシーンを見せてくれよ。」
「あ、あの・・・何か勘違いしてません?」
「え?そうじゃないの?」
「違いますよ!」
まったくこの夫婦は・・・。俺は懸命に否定するが、多分また顔色には出てるんだろうな。
井上の喉の具合を気にかけていたら、好奇たっぷりの視線が二つ控えていることをすっかり忘れていた。
でも、実際問題として井上の喉は気がかりだ。声も多少掠れていたように思う。さっき俺が口にした言葉は本心そのままだ。
コンサートの本番も近い今、井上が喉を壊したらプログラムそのものを大幅に縮小せざるを得ないだろう。
それだけヴォーカルとしての井上の存在は不可欠なものになっている。
・・・さすがにこの場で口にするのは憚られるが、俺自身にとっても同じだ。
井上がヴォーカルとして一歩を踏み出した頃から「パートナー」として、「教える側」として−そんな大層なレベルじゃないが−
ずっと行動を共にしてきた存在だ。それがそっくり抜け落ちたら・・・演奏曲が減ってラッキー、だなんてとても思えない。
・・・言うならやっぱり・・・今日か・・・?
気持ちの持ち上がっている今日言わなかったら・・・何時言えるんだ?
音合わせは井上の喉の具合もあって、そのまま終了となった。
潤子さんが温い牛乳を用意して井上に飲ませた。何でも痛めた喉には良いらしい。
風呂は昨日と同じく、井上からということになった。否、自然にそうなったと言った方が良い。
兎に角井上の具合が気がかりだ。この時期喉を痛めて、そこに疲労が重なって風邪をひく、なんてことも十分有り得る。そうなったら・・・洒落にならない。
エアコンのスイッチを入れて自分の部屋で待つこと暫し、ドアがノックされた。
俺は着替えだの何だのを抱えてすぐさまドアを開ける。風呂上りの井上がそこに立っていた。
音合わせを終えた後の横顔に似た艶っぽさがたっぷり滲んでいる。特にその整った形の唇に・・・。
「お風呂、空きましたよ。」
「・・・喉、大丈夫か?」
「ええ。かなり楽になりました。」
声の掠れも殆ど無くなっている。潤子さんの用意したミルクが効いたんだろうか?
或いは風呂場で湿気を吸い込んだことが良かったのかもしれないが、何にせよ大事に至らなかったようでほっとする。
「良かった・・・。暖かくしてゆっくり休んでくれよ。今、井上が風邪ひいたら洒落にならないから。」
「それは安藤さんも同じですよ。マスターも潤子さんも・・・誰一人欠けても駄目なんですから。」
「・・・そうだな。」
そりゃ確かにそうなんだけど・・・井上が風邪をひくのと井上以外が風邪をひくのとでは俺の中での重みが違う。
マスターや潤子さんがどうでも良いと言う訳では決してないが、井上が心配だったと言うことが上手く伝わらないのがもどかしい。
「・・・それじゃ、お休みなさい。」
「・・・あ、あの・・・。」
「何か?」
「・・・風邪、ひかないようにな。」
「ええ。心配してくれて嬉しいです、凄く・・・。」
井上はその言葉どおり嬉しそうに微笑んで向きを変えて部屋へ向かう。
心配していたことは伝わったみたいだが・・・やっぱり特別な気持ちは遠まわしじゃ伝わらないか・・・。
言うべきことをスパッと言えれば良いんだが、そんな勇気が整わないまま、気持ちの盛り上がりだけで伝えようとしたことが間違いだったか・・・。
今更あれこれ気付いたところでもう遅い。
風呂の順番もあるし、これ以上長時間井上を寒い廊下に引き止めるわけにはいかない。
風邪をひくのを心配していながら俺が風邪をひいたら、それこそ犯罪同然だ。
俺は溜息混じりに階段を下りていく。
もどかしさがひととき忘れていた疲れをどっと噴き出させる。
腕が重く、足がだるい。兎に角今はゆっくり風呂に浸かって休もう・・・。
風呂から上がってきてマスターと潤子さんの部屋のドアをノックする。すると程なく潤子さんが顔を出す。
「お風呂空きました・・・。」
「・・・何だか随分疲れたみたいね。」
「ええ、ちょっと・・・。」
風呂に浸かってはっきりしない自分について考えていたら、益々疲れが噴き出してきて、身体はさっぱりしたが心はぐったりしたままだ。
こういうときに限ってすんなり表に出るから困ったものだ・・・。
「はっきり言えれば良いんだけど、それがなかなか難しいのよねぇ。いざってなるとやっぱり相手に先に気付いて欲しいって思うから。」
「・・・?!」
「まあ、今日はドクターストップってところね。ゆっくり休んで体力気力が充実してからでも遅くないんじゃない?」
潤子さん、聞いてたのか?!
俺が風呂に入る前の井上とのやり取りを。そう思うと全身がかあっと熱くなる。風呂に入っていたときとは全然違う熱さだ。
「盗み聞きするなんてずるいですよ。」
俺は小声で潤子さんに抗議する。井上がもう寝ているかもしれないと思うと無意識にそうなる。
井上も疲れているだろうし、寝ているところを起こされたら迷惑なことくらい分かってるつもりだ。
「あら、この静かな廊下で普通の声で何か話してたら、ドア越しでも十分聞こえるわよ。テレビとか点けてなければね。」
「・・・。」
「やっぱりこの際、ストレートに言った方が良いんじゃない?その方が女の子としては嬉しさが増すと思うけど。」
「・・・そうですか?」
「私の考えだけどね。好きだって言われて嬉しいのは男の子の側だって同じでしょ?」
「それは・・・確かに。」
からかうかと思ったら一転アドバイスをする潤子さん。少し意外にも思えるが、気にかけてくれているんだろうか?
「イブの日とか、クリスマスの夜っていうのも狙い目かもね。まあ、何にしても事前の心構えはしっかりね。」
「は、はい。・・・お休みなさい。」
「お休みなさい。」
俺は部屋へ戻って暖房のスイッチを切って布団に潜る。
ひんやりとした感覚が暖まるのを待つ間、潤子さんのアドバイスを反芻する。
ストレートに気持ちを伝えること、事前の心構え・・・。今日の俺にはどれも欠けていたことだ。
ただ盛り上がった気持ちの勢いだけで井上が気付くようにさり気なく言おうとして、結局心配していると言うことだけしか伝わらなかった。
ただでさえ不器用な俺が、相手が気付くようにさり気なく言おうとすること自体、無謀というか身の程知らずだったといえばそうだ。
井上もそうだし・・・あの女も面と向かって言った。気持ちを伝えるには・・・やっぱり・・・シンプルに飾り気ない言葉の方が良いんだろうか・・・。
・・・布団が自分と一体になってきたような感触と共に、眠気が急速に増してくる・・・。もう・・・考えるのも・・・ままならなくなって・・・
Fade out...
「待ってくれ、何処へ行くんだよ。」
「知らない。ついて来れば分かるかもね。」
「ついて来ればって・・・。」
俺は優子の後を追う。
優子は俺から付かず離れずの距離を巧みに保ちながら見知らぬモノクロの街の中を小走りで進んでいく。
全力で走れば簡単に追いつけそうな気がするし、実際走って追いつくには短すぎるような距離だが、どうしても足が動かない。
俺の足が優子の歩調に合わせて動いているような感じだ。
それにこの街は変だ。俺と優子以外に人の気配が全く感じられない。
それどころか子どもの歓声や車の走行音も聞こえない。一体、この街は何処だ?
否、そんなことより優子は何処へ行こうとしてるんだ?
「待てってば。優子。」
「追いついてみれば?追いついたら教えてあげる。」
「くそっ・・・。」
俺は懸命に走るが、優子とは付かず離れずの距離を短くすることも、そして長くすることも出来ない。
何だか俺と優子の間に見えない壁が出来ているか、虚像を追っているかどちらかのように思える。
街の景色は変化してはいくが、色はモノクロのままだ。
優子は何処へ行こうとしてるんだ?優子は何処まで行くつもりなんだ?俺は優子に永遠に追いつけないのか?
待ってくれ、優子、待ってくれ・・・。
次の瞬間、ぱっと視界が変わる。起き上がって周囲を見回す。
何度か見回すがそれは俺が寝泊りしている部屋に間違いない。
カーテンは既に明るく輝いている。枕元に置いておいた腕時計を見ると、8時を過ぎている。
あのモノクロ世界での優子の追跡が−追いかけっことは言わない−夢だったと分かると、安堵と同時に嫌悪感が湧き上がる。
この期に及んでまだあの女のことを夢に見るなんて・・・。もういい加減にして欲しい。
俺は立てた膝に肘を乗せ、広げた手に額を乗せて目をぐっと閉じる。今日は朝から嫌な気分だ・・・。
「・・・安藤・・・さん?」
不意に声がかかる。顔を上げて声の方を見ると、井上が半分ほど開けたドアから不安そうに俺を見ている。
そして不安の色をさらに増して俺の傍に駆け寄ってくる。
「どうしたんですか?具合悪いんだったら薬とか貰ってきますけど・・・。」
「いや、違う・・・。夢見が悪かっただけ・・・。」
俺は無理に微笑を作って首を横に振る。井上に無用な心配をかけたくないという一心が俺にそうさせる。
「かなり顔色が悪いですよ。」
「・・・自分じゃ分からないけど・・・そう見える?」
「見えるも何も・・・真っ青ですよ。余程嫌な夢だったんですね?」
「・・・ちょっと、な。」
実際はちょっと、なんてレベルじゃないんだが、井上をさらに不安にさせるわけにはいかない。ここは我慢のしどころだろう。
「・・・風邪とかは?」
「いや、それは大丈夫・・・。夢だけだから・・・。」
「それなら良いんですけど・・・起きられます?」
「そんなに気を遣わなくて良いよ。・・・夢なんて少ししたら簡単に忘れるようなものだから。」
普段ならそうだ。リアルだった夢でも目覚めて数分もしないうちにすっかり忘れてしまうか、こんな感じの夢だったな、という漠然としたものになる。
だが、今日の夢は今でもまだはっきり覚えている。まだ輪郭や声すら消えそうにない。
夢そのものがリアルだったのは勿論−夢の途中でこれが夢だって気づくことは稀だと思う−出てきた相手が悪過ぎるし、
昨日井上と住宅街に迷い込んで歩いたことがあって、記憶の彼方此方に感染してしまったような感じだ。
俺はまだ醒めない悪夢を頭から跳ね飛ばすように何度も首を横に振る。
放っておいたら何時まででもついて回りそうな気がしたからだ。
「本当に・・・大丈夫ですか?」
「ああ、そのうち忘れるから。それより・・・井上はどうして此処に?」
「安藤さんがまだ起きてなかったらそろそろ起こそうかな、って思って。今、潤子さんが朝御飯の支度してますから。」
「・・・起きたら朝御飯が待ってる生活がどんなに楽か、今日改めて思い知った。」
「私もそうですよ。でも、二人で交代するだけでも結構楽になると思うんですけどね。」
そりゃ負担は半分になるからな、と言おうとしたところでふと思う。
何だか一緒に住まないか、と暗に誘っているような台詞じゃないか?現に今の井上の目はそう言っているように見える。
こういう目で見詰められると回答に困る。
以前なら何言ってるんだ、とか邪険に扱えば終わりだが今はそんな気はしないし、そんな訳にはいかない。
「・・・まあ、そうかもしれないな。」
結局曖昧な言い方しか出来ない。言ってから気付くが、今は二人だけだし返事を言うには絶好の機会じゃないか?
そう思うと冷気を感じ始めていた体が内側から急に熱くなってくる。朝から気持ちが忙しなく移り変わる日だな、今日は・・・。
「じゃあ、私、先に下へ行ってますね。」
井上はそう言って立ち上がると、さっさと部屋を出て行く。
その素っ気無いまでの動きに俺は止める間もない。呼び止めようとしたときには、足音は下へ向かって降り始めていた。
また機会を逃してしまった・・・。気持ちはそれなりに高揚してはいるが身体の反応がそれについてこない。
目覚めてまだ間もないせいもあるだろうが、無意識のレベルでまだ躊躇しているのが原因なんだろうか?
さっきの夢といい、まだ心の何処かにあの女、優子への未練があって井上に気持ちを移らせまいと抵抗しているのか、
それとも優子との終わり方が今でも引っ掛かっていて、また同じ思いをしたくないなら止めておけ、と引き止めているのか分からないが・・・
優子の記憶が絡んでいるのは確かだろう。何と言っても昨日本人に出くわしてしまったから、記憶や顔形が再び鮮明さを取り戻してしまったように思う。
・・・思うようにことが進まないのは状況が変わっても変わらないってことか。
俺は布団から出て冷気が身体に染みないうちに手早く着替えて、荷物を鞄の中に突っ込んで布団をそれなりに畳んでから部屋を出て下へ向かう。
もう今日で泊り込みの「合宿」は終わる。思い返してみるとあっという間だった。井上と昨日の昼間に出掛けなかったら、
時間の流れる感覚はもう少し遅くなっていたかもしれない。あの時間は本当に・・・色々なことがあった。
ダイニングに降り立つと、潤子さんが朝ご飯の仕度をしていてマスターが自分の席で新聞を読んで、井上がその斜め前に座っている。
井上が座っている以外は昨日の朝と同じ風景だ。
「・・・おはようございます。」
「祐司君おはよう。もう少しで出来るからね。」
「おお、おはよう。・・・何か今日は寝起きが良くないみたいだな。」
「・・・そうですかね。」
「瞼がちょっと腫れぼったくて重たそうだし・・・やっぱり井上さんに添い寝して貰わないと駄目か?」
「な・・・何言ってんですか?!」
「お話は座ってからでも良いんじゃない?」
「話すも何も・・・単に嫌な夢見ただけですよ。」
まだあの夢は頭から離れようとしない。あの女はいともあっさりと切って棄てたが、俺はまだ切りたくない、切れているなら繋ぎたいと
心の何処かで思ってるんだろうか?
もしかしたら、あの女に未練がないと思っているのは表向きだけなんだろうか?自分の心の本当の姿が分からない・・・。
俺はマスターの隣、井上と向かう合うという昨日と同じ席に座る。
あの女の影がちらつくような今の心の状態だと、井上と顔を合わせるのが辛い。井上が居ることが辛いんじゃないのは勿論なんだが・・・。
こういう場合、視線を合わせる位置が難しい。
井上と顔が向き合うのは辛いから、俺は頬杖をついた姿勢で、井上の斜め後ろで目玉焼きを焼くらしく火にかけたフライパンの様子を
ちらちら眺めながら鍋の味噌汁をかき回している潤子さんの後姿をぼんやり眺めることにする。
長い髪を後ろで束ねて調理をしている潤子さんを見ていると、構図は違うが、俺が寝込んだとき井上がお粥を作ってくれたときのことを思い出す。
そして思う。あの日井上がバイトに出掛けた後井上に対して抱いた気持ちは・・・ただ、寂しいというだけだったんだろうか?
あの時の気持ちの背景を考えれば確かに寂しかったのは事実だ。だが、それだけだったのかどうか・・・今となっては覚えていない、
否、分からない・・・。
「安藤さん、大丈夫ですか?」
井上が不意に声をかける。
勿論井上には驚かすつもりはなかっただろうが・・・揺れ動く心の動きを見られていたような気がしてびくっとしてしまう。
「あ、ああ、大丈夫だって。本当に・・・。」
「何だかぼうっとしてるから・・・。」
「朝ぼけっとするのは珍しいことじゃないよ。それに言っただろ?今日は夢見が悪かったって・・・。」
語尾の方で声の調子が少し荒くなってしまったように思う。
心配してくれるのは嬉しいが、あの夢のことに少しでも触れられようとすると反射的に拒否して跳ね返そうとする。
・・・これじゃ、井上と出会った頃と同じじゃないか。あの頃から全く進歩してない俺が情けない。
「相当嫌な夢見たのね。」
潤子さんがキッチンの角で卵を叩いて言う。
器用に次々と片手で卵を割って焼いていながら、話は聞いていたのか・・・。本当に器用な人だ。
「本当に嫌な夢見ると、どうしても表に出ちゃうのよね。意識してなくても。」
「・・・そうですね。」
「まあ、あんまり気にしないようにね。演奏とかにも出ちゃうから。」
「はい・・・。気をつけます。」
心が荒れていると彼方此方にその余波が及ぶ。表情にも言葉にも、そして指先にも音にも・・・。
大舞台が間近に控えている今、メンタルな部分の制御が下手な俺は余計に神経を使わないといけない。
潤子さん手製の朝食が続々と食卓に並び始める。
明日からジャムを塗った食パン1枚、インスタントコーヒー1枚の食事に戻るかと思うとちょっと気が重いが、
今くらいは贅沢な気分に浸っておくことにしよう・・・。
「祐司君と晶子ちゃんは、今日の昼はどうするの?」
朝食が終わりに差し掛かった頃になって潤子さんが尋ねる。
俺と井上のバイトは夕方からということになってるから、半日は一応フリーだ。昨日は映画に行ったが・・・さて、今日はどうしようか。
「別にすることも出掛ける用事もないですけど・・・。」
「2階でコンサートの練習してても良いですか?」
「それは全然構わないわよ。床を激しく踏み鳴らしたりしなければね。」
「安藤さん、一緒に練習しませんか?」
何時の間にやら2階で井上と練習する方向に向かっている。
まあ、暇を持て余すよりは良いだろうが・・・喉は大丈夫なんだろうか?練習に精を出して喉を潰したらそれこそ洒落にならない。
「井上。喉の方は良いのか?無理すると・・・。」
「もう大丈夫です。昨日はつい力が入りすぎて喉から出しちゃいましたから、安藤さんに教えてもらった、
お腹から声を出す基本に返って練習しようかなって思って・・・。」
ああ、そうだった。喉で歌おうとすると喉が潰れやすいから腹から声を出すと喉の負担が軽くなるし響きも良くなる、と教えたのは他ならぬ俺自身だ。
もっともその知識は、高校時代のバンドでヴォーカルをやってた奴が喉を痛めたとき、合唱部の知り合いに相談して教えてもらった方法の受け売りなんだが。
それにしても、昨日の喉の痛みが歌った曲の量が多かったせいなのは勿論だが、それを反省材料にして声の出し方を原点に戻そうと思うなんて、
なかなかの向上心だと思う。俺がそれを反故にする理由は何処にも見当たらない。
「じゃあ、俺も練習に付き合うかな。」
「ありがとうございます。」
「別に礼なんて良いよ。伴奏があった方がやり易いだろ?」
「・・・ええ。」
礼を言ったときの笑顔に少し陰りが出たような気がする。
別に気に障るようなことを言ったつもりはないが・・・。井上は感情が表情に出易い分、表情が曇る方向に傾くとちょっと戸惑ってしまう。
井上が歌う曲の大半は俺が演奏を担当するから、井上と一緒に練習することは俺にとってもプラスであることには変わりはない。
それに半日あれば相当練習できるだろう。井上が喉を潰さないように気をつけないといけないが。
「じゃあ、お昼の時間になったら呼びに行くわね。」
「はい。」
「二人とも熱心なのは良いが、あまり無理をしないようにな。昨日の練習で分かったと思うが、結局は何をするにしても身体が資本なんだから。」
「は、はい。」
それまであまり口を開かなかったマスターがアドバイスする。こちらもちゃんと話を聞いていたのか・・・。
会話がある朝食なんて、こっちに引っ越してきてから随分縁遠くなっていたから、何だかじんわりと温かいものが心に広がるような気がする。
実家に居たときは家族の大切さとか重みなんて全然意識しなかったし、時には家族というものに鬱陶しささえ感じたこともある。
別に親兄弟と深刻な諍いがあったわけじゃなくて、今思うと多分反抗期に毛が生えたようなものだったんだろう。
俺が生活費を一部自分で賄うという親からの条件を飲んででも一人暮らしが必然になる距離にある今の大学を選んだのは、
その鬱陶しさから逃れて一人暮らしがしたかったことが一つの要因だ。
だが、こうして今親でも兄弟でもない他人と一緒に食事をして何かの話題で会話をしているだけで・・・
不思議と夢見の悪さが和らいでいくような気がするのは何故なんだろう?人間は一人で生きていけないというのは、こういうことなんだろうか?
・・・俺が井上に抱いている気持ちは、その一種なんじゃないか?
一人じゃ寂しいから誰かと一緒に居たい、誰かに傍に居て欲しい・・・。寝込んだとき俺はそう思った。
その対象がたまたま井上だったというだけじゃないんだろうか?
だけどあの時、井上がバイトから帰って来てベッドの傍らにあった椅子に井上が腰掛けた瞬間、
俺の心の隙間にぴったり嵌ったのは井上だったとも確かに思った。
あれが潤子さんや母親や、・・・あまり考えたくないが優子だったら同じように思ったかというと、多分違うと思う。
・・・何だか考えれば考えるほど、自分の本当の気持ちがどれなのか何なのか、分からなくなってくる。
映画館から井上を連れ出したときみたいにあまり考えないうちに行動に出られれば良いんだが・・・。
やっぱりいざ返事をしようとなると考えてしまう。自分の気持ちが本当に「好き」というものなのかどうかということを・・・。
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