雨上がりの午後

Chapter 33 名前で呼び合い、絆深め

written by Moonstone


 朝食を終えた後、俺と井上は早速2階に戻って練習の準備を始める。
俺はアンプとかが必要ないアコースティック・ギターを取りに店内に入る。まだ回転前の店内は当然だか照明はまだ灯っていなくて、
閉じられたブラインドから漏れ込んで来る光と足音の長い残響が少し寂寥感を感じさせる。
ステージにおいてあるアコースティック・ギターを取って、俺は2階へ向かう。井上は先に俺の部屋に行っている筈だ。
井上が俺の部屋で練習しようと言い出し、特に反対する理由もなかったからだ。
 必要ないだろうとノックもせずにドアを開けると、井上は床に腰を下ろして待っていた。
部屋はほんのりと暖かい。エアコンのスイッチは入っているが温度設定を控えめにしてあるみたいだ。
昨夜もそうだったが、音楽は歌うにしても演奏するにしても意外に運動の側面があるように思う。

「待たせたな。それじゃ早速始めようか。何からする?」
「やっぱり・・・『Fly me to the moon』から。」
「よし。それじゃ・・・。」

 俺はストラップを身体に通して畳んだ布団に腰を下ろしてチューニングを合わせる。
井上は俺とは逆に立ち上がる。座って歌うことはないから、本番に則した姿勢にするというわけか。
 ちらっと井上を見ると、喉に手を当てて小さい声で色々な音程を出している。
井上の楽器である喉も生楽器の一つといえるから、やはりチューニングは欠かせないらしい。音程の外れた伴奏と歌は違和感たっぷりだからな・・・。

「チューニング完了。井上は?」
「・・・はい。準備できました。」
「それじゃ始めるか・・・。」

 俺は何時ものようにアレンジした4小節のイントロからボサノヴァのリズムを刻み始める。
そしてそれが4小説分刻まれたところで、井上のヴォーカルが被さる。何時もと変わらない『Fly me to the moon』だ。
俺が初めて人に音楽を教えた題材になった曲であり、井上が初めてステージで見知らぬ客に自分の歌声を披露した曲・・・。
俺にとっても井上にとってもこの曲との因縁は深い。
昨日の音合わせで喉を傷めた様子だったので心配だった井上のヴォーカルは、何時ものように繊細で透明感があって、
それでいて輪郭がはっきりしている・・・。ギターで伴奏をするのが心地良い。
思わず俺も歌詞を口ずさむ。練習というよりくつろぎの時間という感じがしないでもない。
演奏する手だけが勝手に動いて、意識は井上の歌声に傾いている。
 最初の頃、音程を追いかけて真似るのが精一杯だった様子は見る影もない。
腹の辺りに両手を当てて−腹式呼吸を意識してのことだろう−朗々と歌う姿は、ヴォーカルとして立派に様になっている。
もう俺があれこれ教えるなんて余地はないように思う。

 適度に間隔を置きながらだが、練習は淡々とした調子で進んでいく。
俺と井上がペアを組んで演奏する何時もの曲に加えてジングルベルや赤鼻のトナカイなんていうクリスマスソングの定番曲もだ。
これらはマスターと潤子さんも加わるんだが、自分達のパートをしっかり練習しておくに越したことはない。
ひととおり演奏したところで休憩することにする。
俺も腕が疲れてきたし、何より井上が喉を傷める恐れがあるから、様子を見て負担がかかるようなら練習を切り上げてでも井上の喉を保護しないといけない。
これは今の俺の責任でもある。

「俺、下に行って何か飲み物貰ってくる。」
「あ、それなら私が・・・。」
「たまには俺にもこういうことさせてくれ。」

 俺は立ち上がろうとした井上を制して部屋を出る。
こういう気配り的なことは何時も井上のやることだ。たまには俺がやらないと後ろめたいものを感じる。
階段を駆け下りてダイニングと廊下を抜けて店の様子を伺う。
キッチンではマスターが食器を洗っている。珍しい光景を目にしたような気がする。
マスターがキッチンで目にするときは大抵コーヒーを沸かしているときだからな。

「あの・・・マスター。」
「ん?おお、祐司君か。一瞬誰かと思った。」
「2人分の飲み物を何か貰えませんか?練習の合間に一息入れようと思って・・・。」
「ん、分かった。温かい方か冷たい方かどっちが良い?」
「・・・冷たい方で。」
「冷たい方というと・・・オレンジジュースで良いか?」
「はい。」

 マスターは手を洗ってタオルで拭うと、手早くコップを取り出して氷を入れ、冷蔵庫から取り出したオレンジジュースを注ぐ。
そして最後に2つのコップにストローを添えて銀色のトレイに乗せる。
この辺り、流石に喫茶店のマスターだけあって手際が良い。

「ありがとうございます。」
「いやいや。それより、上手くやってるか?」
「はい。順調に進んでます。」
「そうかそうか。大いに結構。無理だけはしないようにな。」
「はい。それじゃ・・・。」

 オレンジジュースの入ったコップを二つ持って部屋へ戻るうちに、マスターの言ったのは別の意味を含んでいたんじゃないか、とふと思う。
要するに井上とどうとかそういう意味で。だとすると、あの受け答えはちょっとまずかったかな・・・。
 ドアの前に辿り着いてトレイの下側に左手を回してドアを開けようとノブに手を伸ばすと、先にドアが開いて井上が出てくる。

「何で俺が来たって分かったんだ?」
「え?足音が近付いてきたからですよ。」
「あ、そうか・・・。」

 意外に足音はよく聞こえるらしいが、これほどタイミングが良いと戻って来るのを待って外の音に注意深く耳を傾けていたんじゃないか、
と都合良く考えたりする。・・・そんなわけないか。
俺は中に入って布団の上に腰を下ろしてから、トレイの上に乗ったコップとストローを一つずつ井上に手渡す。
俺はストローを使わずに、そのままコップからジュースを口に運ぶ。
井上は俺の傍の床に腰を下ろし、ストローを取り出してコップに入れてそこから飲む。思わぬところで育ちの違いが出たみたいだ。
 休憩の間にも俺と井上の間に会話はない。
練習のときも抑揚とかテンポとか歌や演奏に関する細かいところを指摘したり打ち合わせたりはしたが、それ以外の会話はまったくない。
練習から切り離したこの休憩時間は氷がコップや別の氷と擦れあって立てるカラカラという軽い音くらいしか部屋にはない。
それがないとまさに沈黙の真っ只中だ。気まずいことこの上なく感じる。
 困ったな・・・。どうもこういう状況になると井上と二人っきりということを意識してしまう。
練習のときはパートナーということにのめり込んでそれ以外考えないが、練習から離れると途端に特別な存在に思えてしまう。
さっきのマスターの問いかけを別の意味に取る。
井上への返事・・・。昨日の夜は遠回しが過ぎて空振りに終わったから、今度言う時は失敗しないようにストレートに・・・。
そんなことを考えているとどんどん心拍数が上がって来る。
オレンジジュースで喉を潤しているつもりが、逆に喉が渇いてくる。
意識しないようにと思えば思うほど井上の一挙一動を意識してしまう。
このままじゃ間が持たない。どうしよう。どうやって話を切り出そう・・・。

「い、井上・・・。」
「・・・はい。」
「・・・喉は・・・良いか?」
「ええ。今日は全然痛くないです。」
「なら良いけど・・・。」

 俺は良くない。思い切って話を切り出したつもりが、結局井上の喉の具合を尋ねてしまった。
好きだ、の一言がどうしても喉に引っかかって出てこない。喉をどうこう考えなきゃならないのは俺の方じゃないか・・・?
 こうしている間にジュースはなくなり、後は溶けかけの氷が残るのみになった。
わざとコップを振ってカラカラと音を立ててみたりする。・・・余計に気まずく感じるから直ぐ止める。

「・・・安藤さん。」
「・・・ん?何だ?」

 何か別の切り出し方は無いか、それとももう練習を再開するか、と考えていると、今度は井上から話し掛けてくる。
横を向いたままの井上の表情は真剣で何処か悲しげで・・・何かを訴えたいという意思がありありと見える。

「あの女性(ひと)のこと・・・今でも心の中では名前で呼んでるんですよね。」
「な、何だよ、いきなり・・・」
「前に安藤さんが熱で魘されていたとき、うわ言であの女性のこと、名前で呼んでたから・・・。」
「・・・あれは習慣みたいなもんだよ。別に・・・意味なんてない。」

 何を言い出すかと思えばあの時のことか・・・。ちょっと嫌な気がする。
自分の身に覚えが無いことを−うわ言だから自分で言っているなんて分かる筈が無い−いきなり蒸し返されたこともあるが、
まだあの女のことをあの時のままで呼んでいる自分が嫌に思う。
意識して口に出したことは無い筈だが、少なくとも夢の中ではまだ優子と呼んでいるのは確かだ。
そしてあの女のことを心の中で呼称するときには未だに時々だが、優子、と言っていることも確かだ。
考えてみればあの時のままで呼ぶ理由なんて何処にも無い。
中学高校で女子を呼ぶときのように−そんなに呼ぶ機会はなかったが−苗字で宮城、と言えば良い筈なんだが、習慣ってやつは恐ろしい・・・。

「何だか・・・ちょっと悔しいです。」
「悔しいって・・・?」
「だって、嫌いになった筈の人のことを名前で呼んで、嫌いじゃない私のことはまだ他人みたいに苗字で呼ばれてるから・・・。」
「・・・付き合ってもないのに名前で呼ぶなんて変だろ?馴れ馴れしいし・・・。」
「でも・・・潤子さんのことは名前で呼んでますよね・・・。」
「・・・。」
「数ヶ月の違いで・・・こんなに変わるんですか?」

 俺の方を向いて投げかけられた井上の言葉が重く響く。
確かに潤子さんのことは此処でバイトをするようになって程なく名前で呼ぶようになった。
そう呼んで構わないと潤子さん自身が言ったのもあるし、ずっと欲しいと思っていた姉のような存在である潤子さんに対する憧れが自然とそうさせたのかもしれない。
井上とは出会ったときの俺の精神状態が最悪だったし、井上、と呼ぶことに何も違和感を感じなかった。
今でもそうだ。ただ、呼ぶときの感情は今と昔とじゃ全然違う。昔といってもつい2ヶ月くらい前のことなんだが。
 潤子さんと出会った時間と井上と出会った時間の差は半年くらいだ。
それを考えると・・・井上の言うことはもっともかもしれないな・・・。
前にも井上は俺が潤子さんを引き合いに出されたことを快く思ってなかった。そういう気持ちもあるんだろうか?

「井上が嫌いだとかそんなんじゃないけど・・・今まで井上って呼ぶことに違和感が無かったから・・・そのまま続いてるだけさ。」
「私は・・・私が知る限りの人の中で一人だけ安藤さんに苗字で呼ばれてるんです・・・。それが何だか・・・寂しくて・・・。」
「・・・。」
「無理強いはしませんけど・・・私のことも名前で呼んで欲しい・・・。」

 そう言った井上の頬が急に赤みを増して井上は俯く。井上自身かなり勇気が必要なことだったようだ。
そして俺も、潤子さんのことを名前で呼ぶようになった頃とは比較にならない、そして全然違う身体の火照りを感じる。

「・・・良いのか?」
「ええ・・・。」
「じゃあ・・・晶子・・・さん。」
「最後の『さん』は要らないですよ。」
「ん・・・一応井上の方が年長だし・・・。」
「同じ学年ですよ・・・。それに・・・さん付けされたら名前で呼んでもらう意味が薄くなるように思うから・・・。」
「そうかな・・・。じゃあもう一回・・・。」
「・・・。」

 井上は小さく頷いて真剣な、そして少し潤んだ目で俺を見詰める。
心拍数とその抑揚が胸を突き破りそうなほどに激しく、強くなる。
ジュースを飲んで間もないのに喉の渇きが凄い。
俺は緊張を解す意味を兼ねて唾をごくっと飲み干す。そしてがちがちに固くなってさらに震えまで出ている唇を動かしてその名を呼ぶ。

「・・・晶子・・・。」
「はい・・・。」

 胸を触らなくてもはっきり聞こえて感じられるほど、俺の胸は痛く高鳴る。でもこの痛みは少しも不快じゃない。
この痛みは・・・一度感じたことがある。あの女と付き合って2年になろうというとき、二人でとある観光地へ出掛けたときのことだった。
今でもあの時のことは覚えている・・・。

ねえ・・・。名前で呼び合わない?
名前で・・・?ちょっと照れくさいな・・・。
何時までも安藤君、優子ちゃん、なんて余所余所しいじゃない。
・・・まあ、付き合って2年になるし・・・。
私、祐司って呼ぶね。決まり。ねえ、私のこと呼んでみて。・・・祐司。
・・・うーん。・・・じゃあ・・・優子。
はーい。

 異性と名前で呼び合うというのは、俺にとっては一大事だ。
潤子さんのときは例外中の例外と言って良い。それにあの時は相手と正式に−告白があってそれを相手がOKしたという意味で−付き合っていたし、
期間もかなり経ってからだったからそろそろ名前で呼んで良いかな、と心の何処かで憧れめいたものもあったから、
まだ心の準備がし易かったのかもしれない。
でも、今回はまだ正式に付き合っていない相手から−俺が返事をすればそれで済むことなんだが−いきなり言うように頼まれたから
心の準備もろくにないままに口にすることになった。緊張して当然といえば当然か。
 頭の中で何度か晶子、と呼んでみるが・・・やっぱり慣れないせいか物凄く照れくさい。
俺は溶けかけの氷を数個口に含む。口の中に含んだ冷気とその感触は口の中で何度か転がしている間に小さくなって少し冷たい氷水になってしまう。
俺はバリバリと氷を噛み砕いて一気に飲み干す。
この冬の最中に氷水を飲むなんて普段ならしないんだが、今日は、否、今はそうでもしないと火照りが収まりそうにもない。

「私も・・・名前で呼んで良いですか?」
「え?!」
「安藤さんって呼んでるのも私が知ってる中では私くらいだから・・・。」
「ん・・・。それでも良いんだけどな。今まで安藤さん、なんて呼ばれたことなんてないし。」
「でも・・・私も名前で呼びたいです・・・。」

 マスターや潤子さんに名前で呼ばれるようになった頃は多少照れくさかったし、智一と名前で呼び合うようになるには最初ちょっと抵抗があった。
あまり名前で呼び合うことに慣れてないし、それほど親密な関係にならないこともある。
だが、井上と、否、晶子と名前で呼び合うというのは全然意味や重みが違う。
まだ返事もしていないのに、俺にとって付き合っているという事実だけがどんどん積み重なっていくような気がする。
・・・悪い気はしないが、返事をする意味が薄れていくような気がしなくもない。
このまま既成事実だけがどんどん積み重なっていったら、何のために井上、じゃなくて晶子を待たせ続けているのか分からない。
このままだと気付いたら付き合ってたってことになりそうだ。

もしかしたら・・・もう、付き合ってるのかもしれない・・・。

 俺にとって付き合っているかどうかの基準は、どちらかが告白をして相手がそれをOKしたという経緯を踏まえているかどうかだと思っている。
ある意味明確な基準を置いているのは、それが異性と付き合うのに必要な通過儀礼だと思っているからだ。
だが、その基準はあくまでも俺が自分で決めて−何時の間にか決まっていたというべきか−自分の中でしか有効でない。
井上の・・・まだ晶子と呼ぶのに慣れないな・・・付き合うという基準は俺と違っても何ら不思議じゃない。
井上・・・晶子にとっては、名前を呼び合う仲かどうかが基準なのかもしれない。
そう思うと・・・名前で呼ばれるのは俺にとってもかなり覚悟が必要なように思える。
 静まりかけていた心臓が再び激しく脈動する。
井上・・・晶子が心なしか俺の方にじりじりと迫って来ているように思える。その潤んだ瞳が名前で呼んでと訴えているように思えてならない。

「ん・・・。何か・・・照れくさいな・・・。」
「慣れの問題ですよ。マスターや潤子さんには名前で呼ばれてるじゃないですか。」
「そりゃそうだけど・・・マスターや潤子さんとは全然重みが違うから・・・。」
「重みって・・・?」
「マスターと潤子さんの場合は身内みたいな感覚だけど・・・井上の場合は・・・」
「晶子、ですよ。」
「・・・晶子・・・の場合は・・・特別だからな・・・。」

 言ってから告白に近いようなことを言ったと気付く。まあ・・・そう受け取ってもらっても構わないんだが・・・。

「嫌じゃないんですね?」
「それは・・・間違いない。」
「何て呼べば良いですか?」
「うーん・・・。俺がファーストネーム呼び捨てにしてるから、それで良いよ。」
「それだと・・・あの女性(ひと)と同じになっちゃう・・・。」
「・・・。」

 晶子はあの女のことを意識しているみたいだ。
未だ俺の心の中に巣食っていることに対する対抗心の表れと考えるのは思い上がりだろうか?

「祐司君、じゃマスターと潤子さんと変わらないし・・・。だとすると、あと残るは・・・祐司さん・・・?」
「?!」

 心臓が大きく、どくん、と脈打つ。
祐司さん、って・・・。今まで一度も呼ばれたことのない呼ばれ方だぞ。同じさん付けでも、苗字と名前とじゃ衝撃が全然違う。
同じ名前で呼ばれることでも、さん付けだと衝撃が違うなんてもんじゃない。まして相手が・・・晶子なんだから。
 全身がまた熱くなってくる。
心の準備がまったくないところに祐司さんと呼ばれたことのない呼ばれ方をされた衝撃は身体を火照らせるには十分すぎる威力を持っている。

「さ、さん付けは・・・や、やっぱりちょっと・・・その・・・。」
「私もちょっと恥ずかしいですけど・・・慣れの問題ですよ。」
「で、でもなぁ・・・。」
「他には祐君とか祐ちゃんとかが考えられますけど。」
「それもちょっと・・・。何か可愛過ぎる・・・。」
「じゃあ・・・祐司さん、しかないですね。」
「・・・あーっ、やっぱり恥ずかしい!それは!」

 俺はコップを放り出すように床に置くと、目を腕で覆い隠して布団に仰向けに倒れこむ。
全然免疫がないところにそんな呼ばれ方をされたら、照れくささを隠しようがない。
祐司って名前で呼ばれるのは実家の家族は勿論、バンドの仲間とかマスターや潤子さんとかごく限られた面々だけだ。
それ以外は呼び捨てか君付けのどちらかだったから、さん付けなんてのは初めての経験だ。
 井上の・・・否、晶子の言った言葉を反芻してみるが・・・やっぱり照れくさい。
こんなの今は二人だけだからまだしも、マスターや潤子さんの前で呼び合ったらそれこそ格好のからかいのネタにされてしまう。
俺は再び起き上がって晶子に言う。

「なあ・・・。普段は今までどおり、苗字で呼ばないか?」
「何でですか?」
「ちょっと慣れないし・・・その・・・まだ返事もしてないわけだしさ・・・。」
「じゃあ、今返事をしてくれれば良いんじゃないですか?」
「・・・それは・・・。」
「返事は・・・決まってるんですか?」

 井上・・・晶子との距離がさらに縮まる。俺の座っている位置はそのままだが、晶子がじわじわとにじり寄ってくるように思う。
今この場で返事を聞かせて、とその瞳が切々と訴えているように感じる。
俺は目を逸らそうとするが、その瞳に捉えられて視線を動かすことが出来ない。
時間の流れがさらに遅くなったような、否、滞ったような沈黙が漂う。
俺の耳には早鐘のような脈動の音しか聞こえない。
 返事は・・・もう決まっている。
それを代表する言葉を一言言えば時の流れは戻るだろうし、この場も丸く収まるだろう。
だが、口が強張って動かない。昨日の夜は遠回しに言って空振りに終わったが、ストレートに言おうとすると言葉に出る以前の問題になってしまうなんて・・・。
 何とか・・・何か言わないと・・・。
この機会を逃したら、一体何時になったら井上に返事できるのか分からないぞ・・・!

「・・・ずるいですね。私・・・。」

 井上、否、晶子がそう言って儚げな微笑を浮かべる。
滞っていたときの流れが少しずつ動き出したように思う。

「自分で待てるだけ待つって言っておいて、言うように迫るなんて・・・ずるいですよね。」
「・・・俺に・・・勇気がないだけだよ・・・。」
「好きだって言葉を口にすることにそれだけ重みを感じてるんでしょ?」
「・・・ああ。何度か好きだって言ったことはあるけど、どれも一大決心して挑んだし・・・。
まあ、その度に悉く蹴られてきたから無意識に怖がってるのもあるんだろうけど。」

 言ってて我ながら言い訳がましく思う。
今まで連戦連敗なのは事実なんだが−あの女の場合は結果的に「負け」た−、気持ちは決まっていて、その上さらに状況が整っていても、
どうしても肝心の「あと一歩」が踏み出せないのは、結局のところ恋愛に臆病になってるだけなんだろう。
 相手が自分のことを好きと分かっているのはあの時と同じだから、頭の何処かで記憶のリフレインが起こっているのかもしれない。
あの時と違うのは、好きだと言われることに多少なりとも免疫が出来ているかどうかということくらいだ。その免疫も大したものではないが。

「ふられたら好きだって言うのが怖くなる気持ちは・・・分かるつもりです。」
「・・・。」
「その怖いっていう気持ちを乗り越えた先に、前よりもっと良い幸せがあるって思えたら・・・絶対言えると思うんです。
それに・・・祐司さんは好きだっていう言葉を大事な節目に思ってるみたいですし、その気持ちは大切にしたいから・・・。」
「・・・何もかもお見通しなんだな。凄いよ、本当に。皮肉無しにそう思う・・・。」

 井上・・・まだ言い慣れないな・・・晶子は俺が好きだと返事をすることに拘る気持ちを知っていたんだ。
だから敢えて俺が自分から言おうとあがく俺をある意味突き放したんだろう。晶子の優しさは・・・本物だ。
そして俺は・・・その優しさの上に胡座をかいているようなものかもしれない。
晶子が言えと言わないことを良いことに、ずるずると返事を先送りにしてばかりで・・・。
 俺はふと思う。同じような思いをしてきたのに、この違いはどうして出来たんだろう?
それに、同じように結婚したいと思っていた相手にふられてその後どうやって立ち直ったんだろう?
返事を先送りにさせている遠因かもしれないあの記憶の糸を断ち切るためにも・・・言うなれば「先輩」に聞いてみたい。そんな衝動に駆られる。

「嫌なこと聞くかもしれないけど・・・良いか?」
「何ですか?」
「・・・その・・・晶子はどうやって前の傷を乗り越えたんだ?」

 俺の質問に晶子は答えない。その代わりに徐々に視線が下へ落ちていく。
茶色がかった長い髪が晶子の顔をヴェールのように覆い隠す。
言ってからやっぱりこんなこと聞くんじゃなかった、と思うがもう手遅れだ。言った言葉は喉の奥に取り戻せない。
 また井上の泣くところを見てしまうのか?昨日あの映画の後で見たばかりなのに。
それも今度は俺が・・・自分の言った言葉で泣かせてしまうのか?泣かせてしまったのか?
何か・・・何か言ってくれ、晶子・・・。

「・・・悪い。嫌なこと思い出させてしまって・・・。」

 罪悪感を感じながら俺が言うと、晶子は視線を下に向けたまま首を横に振る。
でも、まだ晶子からの言葉はない。晶子が首を横に振っただけじゃ全然安心できない。

「良いんです・・・。祐司さんが謝ることないですよ・・・。」
「今更遅いけど・・・さっきの質問は答えなくて良い。晶子の泣くところなんて・・・もう見たくないから・・・。」

 今更こんなことを言ったところで大して慰めにはならないだろう。だけど、言わないよりはまだましだろう。
俺は慰めのつもりで晶子の方に手を乗せる。すると、晶子の手がそれに重ねられる。
柔らかくて少しひんやりとした感触が手の甲に伝わってくる。

「私だって乗り越えたって言えるほどのレベルじゃないんです・・・。徐々に心の奥の方に仕舞いこんで、
良い思い出だけを思い出せるようにして来ただけですよ・・・。」

 晶子がようやく顔を上げる。
泣いてこそいないが、その大きな瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。ぎりぎりのところで泣くまいと堪えている・・・そんな感じだ。

「私は・・・祐司さんが思ってるような強い女じゃないんです・・・。ふられた時は泣いて泣いて・・・。
泣いても涙が出なくなるまで泣いて、それでも相手のことを忘れられなくて苦しんで・・・。」
「俺も・・・泣いた。少し後で、だけど。」
「でも・・・その経験があったから今こうして祐司さんと一緒に居られるのかもしれない・・・。そう思うんです。
あのまま続いていたら、祐司さんと出会っても追いかけて一緒のバイトをしようなんて思わなかっただろうし、
もしかしたら祐司さんと出会うこともなかったかもしれない・・・。そう思うと、あの時ふられたから今の祐司さんとの時があるんだなって思うんです。」
「俺も・・・ふられてなかったら、あの日あの時間コンビニや本屋に行ってない筈だから、学部の違う晶子とはそのまま出会うことがなかったかもしれない・・・。」
「だから、ふられた経験は無駄じゃなくて、何処かで少しでも今の出会いに繋がってるって思うんですよ・・・。
でも、昨日みたいに映画を観て思い出して大泣きした上に、さっきもつい泣きそうになった私が言っても説得力がないですよね。」
「いや、俺よりはましだよ・・・。ずっと・・・。変に拘ったりカッコつけたりしてる俺よりはずっとな・・・。」

 自嘲気味の笑みが漏れる。
好きだ、と言うことのプロセスやタイミングに拘って肝心の新しい一歩が、あの記憶を過去のものとして塗り替えられる第一歩が未だに踏み出せない・・・。
弱い男だ、俺は・・・。晶子を見ているとそう思えてならない。
こんな弱い男だから、昨日映画を見終わった後で偶然優子と顔を合わせたときに他人のふりをして、
挙句の果てに手を強引に振り解いて逃げ出したんだろう。
あの時、久しぶりだな、とでも気軽に言えるような男なら、晶子への返事をずるずると先延ばしにしてはいないだろうな・・・。
 井上が、晶子が再び首を横に振る。
その顔にあの、心を羽でそっと撫でるような心地良さを感じさせる微笑みが浮かんでいる。
それを見るだけで自分を責めないで、と慰められるような気がする。

「簡単に好きだ、って言える人より、ずっとずっと祐司さんの考え方の方が良いです。
それだけ自分の気持ちやそれを言葉で表現することを大切に思ってるって証拠ですから・・・。」

 晶子の言葉がじんという深い響きと共に、胸の奥にまで優しく染み透って来る。
晶子の気持ちを弄んでいると言われても仕方がないような俺には勿体無いような言葉だ・・・。
俺と晶子は、晶子の肩の上で手を重ねあった状態で見詰め合う。そうしているだけで胸が高鳴る。
高鳴るといっても身体の芯から振動が伝わるような激しいものじゃない。
母親が子どもを寝かすときに子守唄に合わせて子どもの身体を軽く叩くような、軽くて早く、心地良いリズムを刻む。

今なら・・・言えそうな気がする・・・。

 閉じていた俺の唇が自然に少し開く。
あの言葉を紡ぎ出そうとして。井上の、晶子の告白に対する答えを返そうとして・・・。
井上の、晶子の目がさらに潤みを帯びてきたような気がする。
その潤みは過去の記憶が齎した悲しみの雫から、俺が紡ぎ出そうとしている言葉、過去との決別と
手を伸ばせば直ぐ届く未来へ向けた言葉への期待の呼び水に変わったと思う。都合良くそう思えるだけかもしれないが、今はそうとしか思えない・・・。

「い、井上・・・。」
「晶子、ですよ。」
「あ、御免。・・・晶子。」
「・・・はい。」

 出だしでいきなり躓いたが、仕切り直しても気分は変わらない。いまなら間違いなく言える・・・。
パタパタパタパタパタパタパタパタパタ
 急速に近付いて来る足音で、俺は井上から弾かれるように離れる。
足音はドアの前で止まり、軽いノックの音に続いて潤子さんの少し焦っているような声が聞こえて来る。

「祐司君、晶子ちゃん、居る?」
「あ、は、はい。」
「悪いけど、お店が急に混んできたから、先に昼御飯食べちゃってくれない?」
「わ、分かりました。」
「昼ご飯はダイニングに置いておいたから、お願いね。」

 そう言い残した潤子さんの足音は急速に遠ざかっていく。
下へ向かって消えていく足音を聞きながら、俺は何とも言いようのない滞った雰囲気を感じずにはいられない。
晶子は胸に軽く握った右手を当てて、やや俯き加減に視線を忙しなくさ迷わせている。
俺とどうやって再び顔を合わせればいいか分からない、といった様子だ。無理もない。俺も井上の、晶子の顔をじっと見ていられない。

「・・・昼御飯、食べに行くか。」
「そう、ですね・・・。」

 今までなかったような重い気まずさをどうにか破る。だが、垂れ込めた空気が重い。
俺は無言で二つのコップをトレイに載せて立ち上がる。すると晶子はすっと立ち上がってドアを開ける。

「ありがとう。」
「いえ・・・。これくらいは・・・。」

 晶子が口元に笑みを浮かべて言う。その笑みを見ると、不思議と気まずさが解れるように思うその笑みに、俺は笑みで返す。
俺は晶子に先導される形で廊下を歩き、階段を下りて行く。
結局返事は出来なかったが、潤子さんを恨むつもりは毛頭ない。
店が混むかどうかはその日その時になってみないと分からないということは、俺自身この店で半年以上バイトを続けていて十分分かっている。
もう少し決断できるのが早かったら・・・言えていただろう。所詮、仮定と推測の域を出ないが。
 でも、さっきの流れの中で俺の気持ちはもう分かった。既成事実も十分に出来上がった。
今度二人きりになった時に、そして誰も邪魔が入らない時に言おう・・・。最もその時に近いのは・・・今日の帰りか・・・。

悪い、晶子。もう少しだけ待っててくれ・・・。


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