雨上がりの午後

Chapter 30 涙の余韻、触れ合いの歓び

written by Moonstone


 俺は井上の手を引いたまま、映画館から程近い喫茶店に駆け込んだ。
場所を知ってたわけじゃない。兎に角たまたま目に付いた看板の方へ行って中に入っただけだ。
混んではいたが幸い席にはまだ余裕があったので、俺と井上はウェイトレスに店の中心付近の席に案内された。
 その時のウェイトレスと周囲の視線が妙に痛く感じた。俺が泣かせたわけじゃないんだが・・・。
まあ、そう見られても止む無しといえばそれまでだが、こういうとき男は不利だとつくづく思う。
 井上と向かい合わせに座って、少しして注文を取りに来たさっきのウェイトレスに−やっぱり何となく視線が厳しく感じる−
紅茶と手頃なところでハンバーグセットを2つ頼んでおいた。
少々強引かもしれないが、腹ごしらえより井上を落ち着かせることが重要だ。
 井上はどちらかというと洋食好みのようだし、紅茶好きなのは前から知っているから、妥当な組み合わせじゃないかと思うが・・・。
それより気になるのは目の前のことだ。

「・・・どうだ?ちょっとは落ち着いたか?」
「え、ええ。本当に御免なさい・・・。みっともないところ見せちゃって・・・。」
「いや、それは気にしなくて良い。メニューは・・・勝手に決めたけど。」
「それは良いです。私がどうこう言える状況じゃなかったですし・・・。」

 まだ目の充血は完全には消えていないが、どうにか平静を取り戻し始めたようだ。
俺は内心胸を撫で下ろす。このままぐずっていられたら、俺はこの店に居る全員の視線を敵に回すのは必至だっただろう。

 少しして、井上は軽く深呼吸をする。微かに吸い込む息が震えている。
感動してジワリときたというレベルの泣き方ではなかったことは確かだ。気にはなるが・・・聞かない方が良いだろう。
聞かれて嫌な思い出とかだったらまた泣かせてしまうかもしれない。周囲の目も気にはなるが、それ以上に井上の泣き顔は見たくない。
 ・・・涙の跡がまだ見える。井上は気付いてないみたいだ。
俺はハンカチをもう一度取り出して、身を乗り出す感じで井上の目元を頬を軽く拭う。
拭い終わると、井上は少し驚いたような顔になっている。

「・・・ど、どうかしたか?」
「・・・ありがとう、安藤さん。」

 井上の表情が解れて柔らかい微笑が浮かぶ。
また泣き出すんじゃないかと冷や冷やしたが・・・どうやらもう大丈夫のようだ。

「落ち着いた・・・みたいだな、ようやく。」
「ええ、もう大丈夫です。御免なさい、本当に・・・。」
「いや、良い・・・。」

 俺は首を横に振って急に表に出てきた喉の渇きを癒そうと水を一口飲む。
井上の感情の嵐が一先ず収まってほっとしたのもあるが、ある種の気まずさのようなものがあるからだろう。
 やっぱり・・・正直なところ、井上があれほど取り乱した理由が気になる。
以前の俺はあの女に一方的に別れを通告されてから暫く、何かと過剰かつ過激な反応をした。
井上の反応は俺のような反応が内に向かって爆発したからなんじゃないだろうか?
 そう言えば・・・井上の過去はあまり知らない。ふられた事があるということは何度か聞いたが、それ以上深くは知らない。
聞いてもいないから当然なんだが、今は無性に聞いてみたい衝動に駈られる。

「気になりますか?何で私があんなに泣いたか・・・。」
「まあ・・・多少はな・・・。」
「・・・。」
「言わなくても良いよ。尋問する気もないから・・・。」

 また泣かれたら余計大変だし、やっぱり目の前で泣かれるのは辛い。
涙は女の武器、というが確かに強力だ。相手の方が悪いと自分にも周囲にも思わせる力があるから、譬えるなら強力な爆弾みたいなものか?

「私も・・・前にふられたことがあるって、言いましたよね?」

 俺と同じように一口水を飲んでから、井上が呟くように話し始める。
やや俯きがちな視線の向きが、あまり話したい内容ではないことを感じさせる。

「・・・ああ。」
「結婚しようね、とか言ってたんですよ。・・・映画みたいな感じで・・・。でも・・・ふられちゃって・・・。」
「・・・似たもの同士って訳か、俺達二人って。」

 成る程、というのも何だが、井上も俺と同じような経験をしてたのか。ずっ続くと思ってた絆を相手から一方的に切られて・・・。
だから、俺が最初の頃あんな荒っぽい態度でも我慢できたのかもしれない。
自分がかつて経験したようなことを味わわされたから、ああ、私と同じだ、って・・・。

「でも、今頃その相手は後悔してると思うぞ、きっと。ああ、勿体無いことしたなって。俺の場合は多分けろっと忘れられてるだろうけど。」
「・・・安藤さんの場合も・・・同じだと思いますよ。」
「まさか。」

 俺は苦笑いをする。疲れた、なんて言って放り出した奴が後悔してるとは思えない。
すると井上は首を横に振る。

「絶対後悔してますよ。だって安藤さん、自然にあんな優しいことしてくれる人なんですから・・・。」
「優しいことって・・・?」
「涙を拭いてくれたことですよ。さっきだって・・・。」
「・・・ああ、それは・・・井上の泣くところはもう見たくなかったから・・・。」

 俺が熱を出して寝込んだあの日・・・井上は泣いて俺に詫びた。
まさか泣くとは思わなかった意外性もあるが、あの時の強烈な印象は未だに忘れられない。
その原因の一つが俺の妙な意地を張ったことだったというばつの悪さが、井上の泣き顔を見たくないという気にさせるのかもしれない。

「泣くな、って言うかな、とも思ったんですけど・・・優しくしてくれて嬉しかったです・・・。」
「・・・そうか?」
「ええ。」
「妙に好いところ見せようとか思わない方が良いのかな・・・。そういうの出来るほど器用じゃないけど。」
「器用じゃない方が良いです。器用な人だと・・・本気かどうか分からないから・・・。」
「・・・そんなもんかな。」

 智一にも不器用なのに誤魔化そうとするな、と言われたくらいだから、妙に気負わない方が良いみたいだ。
だが、もし俺が器用な人間だったら、優子と長続きできたかもしれない。どっちが良かったか・・・今はもう迷うことはない。

「不器用でも・・・たまには良いこともあるもんだな。」
「良いことって・・・何ですか?」
「今、こうして井上と一緒に居ること。」

 ・・・言ってからはっと気付く。自然にそんなことが言えた自分に・・・。
言おうと思って試みてもきっと言えなかったと思う。だからこそ今まで延々と返事を先送りにしてきたんだろうが。
井上は一瞬驚いたような顔をして−そりゃ驚くだろうな−視線を少し下に傾ける。
そしてその頬がじわじわと赤味を増していくのが手に取るように分かる。
 そんな様子を見ていて、俺の方まで急に気恥ずかしくなってきた。
考えてみればかなりストレートな、それもドラマででも出てきそうな台詞じゃないか?
そう思うと体の彼方此方が痒くなってくる。思わず頭に手をやってがしがしと掻く。
 多分、この分だと頬にも出てるに違いない。
参ったな・・・。こんな人の多い場所でこんなシチュエーションになるなんて、思っても見なかった・・・。これもあの映画の影響か?

「・・・。」
「・・・。」
「・・・いや、さっきのは・・・その・・・。」
「・・・冗談・・・ですか・・・?」
「そ、そうじゃなくて・・・何て言うか・・・思わず口から出たっていうか・・・。」
「・・・そうなら・・・その方が嬉しい・・・。」

 消え入るような音量しかない井上の言葉が、一言一言、深く深く、俺の胸に食い込んでくるように思う。
周囲の音が消えたようなこの感覚・・・これは3年前に経験したあのシーンそのままだ・・・。違うのは場所と、目の前の相手くらいで・・・。
 もう俺の目も耳も、井上から離れない。
井上以外は何も見えないし、井上の声以外は何の音も感じない。
あの時と同じこの状況で井上が再びあの言葉を口にしたとき、俺もあの時と同じように答えを返すんじゃないか?

「安藤君のこと、好きです。良かったら・・・付き合って・・・。」
「俺で良ければ・・・。」

それは嫌だ!

 あの時と同じ状況で同じことを言い合えば、また同じことの繰り返しになるんじゃないのか?
それだけは絶対、何が何でも御免だ!
もうあんなどうしようもない思いは、後になって怒りと悲しみしか湧き上がらないような結末は絶対嫌だ!
 だけど、そんな思いも、以前なら直ぐに口や態度を動かしたどす黒い感情すらも呆気なく霧散してしまう。
井上の一点に集中した意識は他の思考が働くのをもはや許さないみたいだ・・・。
 井上がゆっくりと顔を上げて、俺と向き合う。俺の意識はさらに絞られる。
キーンという軽い耳鳴りのようなものが走って、周囲の音から完全に意識が隔絶されてしまう。

もう・・・受けるしか・・・そして・・・
言うしか・・・ない・・・?

「井上・・・。あの・・・。」
「・・・。」
「お待たせしましたー。」

 一気に意識の焦点が井上から周囲全体に拡散する。
驚いて振り向くと、さっきとは別のウェイトレスが皿を両手に持って立っていた。
ウェイトレスは少し怪訝な顔をしている。注文の品を持ってきて驚かれては当然か。

「あ、どうも・・・。」
「失礼しまーす。」

 少々機械的な挨拶の後、ウェイトレスは持っていたライスが乗った皿を俺と井上の前に置く。
時が止まったような状態の俺と井上を尻目に、ウェイトレスが往復してカップスープとハンバーグと付け合せの野菜が乗った皿を置く。
 注文の品は紅茶を除いて出揃った。紅茶は食後を見計らって持ってくるつもりなんだろう。まあ、そんなことはどうでも良い。
極限に達した緊張感と雰囲気が一瞬にしてぶち壊しにされたから、かなり気まずい・・・。
あのウェイトレスにそんなつもりはなかっただろうが・・・あの空気があのまま続いていたら・・・

はっきりさせることが出来たかも・・・しれない・・・。

「・・・取り敢えず・・・食べませんか?」
「・・・あ、そ、そうだな・・・。」

 井上が滞った空気を切り分ける。こういうとき俺の方から空気の入れ替えが出来れば良いんだが・・・生憎不器用な俺には厳しい要求だ。
さっきあんな大胆な行動に出られたのが、今ではちょっと自分でも信じられない。どうやったら気持ちどおりに自分を動かせるんだろう?
 気持ちばかりが先走ったり手を拱いたりして何一つ出来ないこともある。
かと思えば、大して考えもしないで行動したら思いのほか上手く運んだこともある。俺はどうすれば・・・良いんだろう?

・・・何かと考え過ぎなのかもしれないな、俺は・・・。


 食後に持ってこられた紅茶を飲みながら、ふと思う。
井上を映画館から連れ出して此処に入ったとき、俺は兎に角昼時だったのと取り乱した井上を落ち着かせる場所を
映画館の中の食事場以外に求めただけだった。
 それに・・・井上と意地を張り合っていたことに収拾が着いて、それまでより俺の中での井上の存在が大きくなったと自覚できたのも、
ただ井上に居て欲しいと思ってそれをそのまま言葉に出したからじゃないだろうか?
 行動してから考える世代、と言われるようになって久しい。
まあ、そういう世代の奴等がどれほど考えて動いていたか歴史を見れば正体が見えて嘲笑するだけのことだし、
何も考えずに行動するのはトラブルの元になるのは分かってるつもりだが、感情に突き動かされるような行動ってのも時には必要なんじゃないだろうか・・・?

 ・・・それにしてもこの紅茶、あんまりというか・・・湯に薄い紅色をつけて匂いを足しただけのような味だな。
出涸らしなんじゃないか?それも安物のティーバッグの。これなら・・・

「井上の入れる紅茶の方がずっと美味いよな・・・。」
「・・・え?」

 井上の問いかけに俺ははっと我に帰る。
・・・井上の入れた紅茶の方がずっと美味いなと思って、それが口に出て・・・。
自分の言動の関係というか法則というか、それが全く分からなくなってきた。と、兎に角今は井上に何か返さないと・・・。

「・・・いや、そう思って・・・。井上の紅茶って色々種類があって、俺にでも味の違うが分かるし、匂いもはっきり分かるからさ、
それに慣れてしまったんだな、って・・・。」
「・・・もう数を忘れるくらい飲んでもらってるんでしたっけ、そう言えば・・・。」
「もう年の瀬だからな・・・。知り合ったときはまだ朝晩肌寒いかなってくらいだったか・・・。」
「あっという間ですよね、本当に・・・。」

 気まずかった雰囲気が徐々に和らいでいく。
過去というにはまだ大した時間の積み重ねでもないが、それを今振り返ってみると、もう女は、恋愛は嫌だと
井上を弾き飛ばそうとしていた時間の方が圧倒的に長い。改めて思うと・・・そんな自分が単に八つ当たりしてただけのように思える。
 前よりちょっとは気持ちの整理がついたように思う。
どう悔やんで悲しんでも、怒って憎んでももう終わったことなんだ。あのことは・・・。
だからもう・・・目の前にある新しいものに手を差し出しても・・・良い筈だ。

 紅茶を飲み終えた俺と井上は店を出た。料金はこういう場でのマナー(?)に則って俺が出そうか、と思ったが、
それより先に井上が自分の分を俺に差し出した。聞くまでもない、というのはちょっと違和感を感じなくもないが、
単になれの問題というか、妙な慣習に縛られていただけなのかもしれない。
 外へ出ると急に寒くなったように感じる。映画館を出るときはそんなこと考える余裕もなかったが、
やはり年の瀬の寒さと暖房の効いた室内の温度差は激しい。全身がぎゅっと収縮させられるような気がする。
 左腕に密着感と微かな温もりと弾力を伴う柔らかさを感じる。井上がぴったりと俺の横に密着している。
俺は一旦ジャケットのポケットに突っ込んだ左手を出して、手をさ迷わせる。何だか・・・無性に井上と手を繋ぎたい。
気恥ずかしさは勿論あるが、肌が触れ合う温もりが兎に角欲しい・・・。
 ゆっくり歩きながら手をさ迷わせていると、何かに触れる。
明らかに服や髪ではない。弾力のある温もりと滑らかな肌触りが指の先を通して伝わってくる。
井上の手も俺の接触に反応したのか、手の向きをもぞもぞと変える。
 やがて掌同士が触れ合うと、互いに指の間を開いてその間に指を滑り込ませる。
そして軽く、でもしっかりと握り合う。それだけで胸が高鳴る。全身が熱くなる。
伝わる全ての感触が俺の意識を完全に支配してしまったようだ。

「安藤さんの手って、温かいですよね・・・。」
「・・・そうかな・・・?」
「何だか・・・こうして繋いでるだけでほっとしますよ。一緒に居るんだなって・・・。」
「一緒・・・なんだよな。」
「そうですよ。少なくとも・・・私はそうありたい。」
「・・・俺も・・・今はそう思う・・・。」

 よくもまあ、こんな台詞がほいほい出てくるものだ。
我ながら口と頭が切り離されて口だけ勝手に動いているような気がする。
それでもその方が、自然と会話ができるというのは妙な気分だ。
 やっぱり思ったことを口にするってことも時には必要なんだろうな・・・。
相手の気持ちを考えるのは勿論だが、考えてるばかりじゃ何も進まないんだ。
今日のデートで−といえるかどうか不明だが−、それがおぼろげにでも分かっただけ、俺は変わって来たのかも知れない。

「・・・ねえ、安藤さん。」
「・・・ん?」
「安藤さん、以前よりずっと柔らかくなりましたね・・・。」
「・・・片意地張ってただけだよ。思いどおりにならないのが嫌で、それが自分のせいなのに全部相手が悪い、周囲が悪いって決めつけてさ・・・。」
「でも、そうやって自分を率直に見れるなんて、なかなか出来ることじゃないですよ。」

 井上の言葉が嬉しい・・・。手痛い思い出のあとが井上で本当に良かったと今改めて思う。

 太陽が西に傾き始める時間が早い季節とはいえ、時間としてはまだ余裕がある。
さっきの喫茶店から出るときにちらっと時計を見たら1時を少し回ったところだった。
あと5時間弱・・・井上と二人で居られる時間はまだある。気分的にも雰囲気的にも良い感じのこの時にこそ、自分をはっきりさせておきたい・・・。
 さっきの喫茶店は昼時だというのもあって混んでたし、衆人環視の前であいこの言葉をやり取りするなんて
何処かのTV番組みたいなことはしたくなかった。
俺自身、そんな大胆な神経は持ち合わせていないし、周囲の好奇の目に晒されることになる井上のことを考えると、止めておいて賢明だったと思う。
 身を寄せ合って時間と風景が進むのを惜しむように、俺と井上はゆっくりと歩く・・・。
さて、あと残された時間で何処に行くか・・・。
勿論、何処へ行くかなんてことは副次的なことでしかない。二人だけになれて、尚且つそういうことに相応しい場所は・・・この近くにあったか?
まさか、路地裏に引っ張りこんで・・・などとするわけにはいくまい。
内緒の話をする場所という点では共通項がなくもないが、雰囲気をわざわざぶち壊しにするようなものだ。

「安藤さん・・・。これからどうします?」
「取り敢えず・・・人気の少ない場所へ行こうかな、と。」
「・・・。」
「あ、こ、断っとくけど妙な意味じゃなくって・・・その・・・場所の選択が重要というか・・・。」

 こんなことが勝手に口から出て行くが、これじゃ何かあります、と仄めかしているようなものじゃないか。
雰囲気をどうこういうより自分で壊すようなことをしていてどうするってんだ?

「あんまり人の多い場所じゃなかったら・・・私はそれほど拘りませんよ・・・。」
「・・・も、もうちょっと歩くか。」
「はい・・・。」

 雰囲気を保持しながら相応しい場所を見つけて、なんて気の利いた芸当は俺では難しすぎる。
だが、井上は俺の意味ありげな−そりゃ分かるだろう−様子に待ち望んでいたことが近付いていると察したのか、すんなり応じてくれる。
やっぱり・・・ストーカー並に執念深いところすらある井上で良かったと思う。
 かと言って目ぼしい場所を知っているわけでもないから、俺は井上の手を引いてぶらぶらと駅前の通りを散策する。
随分のんびりした時の流れだが、今はこの方が良い。

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