雨上がりの午後

Chapter 13 雨上がりの午後

written by Moonstone


 久しぶりの雨が朝から降っている。
大粒の雫が叩き付けられるというものではなく、鉛色の雲から細い軌跡を描いて音もなく降っている。
雨のひとく有の湿気の増加と昨日までの冷え込みが幾分和らいだのもあって、教室内の暖房がちょっと蒸し暑く感じる。
 天気に影響されたかのように、時間はゆっくり静かに流れていく。講義も淡々と進んでいくように思う。
暗く沈んだというものではない、ゆったりと流れていく落着いた時間。天気がこんな感覚を呼び覚ましたのだろうか?
それもあるだろうが、それだけじゃない。そんな感覚を感じることが出来るようになったこともあるだろう。

 思えば突然絆を失ったあの日以来、俺はその後遺症で激しい脈動と震動を繰り広げる自分の感情に振り回されていた。
そして色々なことが息つく間もなく降りかかってきた。
井上との出会い、執拗ともいえる井上からの接触、同じバイトの始まり、そしてその井上に音楽を教え、歌えるようにする為の指導・・・。
それらが井上の初ステージの成功という形で一区切りを迎えて、ようやくあの日以外の過ぎ去った時間を振り返る余裕が、自分の心の中に生まれたんだろう。
 その井上とは今日の午後、東門前で待ち合わせるという約束を交わしている。
女と待ち合わせの約束をするなんて、あの絆が途切れて以来もうないだろうと思っていた。そしてしたくもないと思った。
だが、あれほど接触を避け、疎ましくさえも思っていた井上からの誘いを、俺はあっさりと受け入れた。・・・本当に不思議なものだ。

「おい祐司。どうしたんだよ、お前。」

 智一の声で俺は我に帰る。
何時の間にか2コマ目の講義が終わり、続々と教室から引き上げていく中、俺はノートを広げたまま正面を眺めたままだったようだ。
何かを考えているうちに意識が何処かへ行ってしまう癖が付いてしまったんだろうか?

「早く行かないと、食堂いっぱいになっちまうぜ。」
「あ、ああ悪い。ちょっとぼうっとしてた。」

 俺は鞄に放り込むように荷物を片付けると、いそいそと立ち上がる。
智一が怪訝そうに俺を見ている。余程不審に映ったに違いない。
 教室の外はまだ雨だ。相変わらず音もなく静かに降っている。
傘立ての傘を広げ、湿り気を帯びて色を濃くしたアスファルトの道を歩き始める。
雨ということもあってか、だだっ広い構内に人気は少ない。鉛色の背景に佇む建物に時が停まったような印象を受ける。

「祐司。お前何か変だぞ、今日。」
「そうか?」
「そうか?じゃないって。お前が物思いに耽っても似合わないぞ。」

 えらい言われようだ。だが、物思いに耽っていたというのは当たっている。
それが井上絡みのことだというのは・・・本当に不思議なもんだ。

「晶子ちゃんのことなんだけどさ。」

 正味5分ほどの待ち時間の後、昼食の乗ったトレイを厨房寄りの席に運んで食べ始めて間もなく、智一が切り出す。
無意識のうちに箸の動きが止まる。井上の名前を出されたせいだろうか?
・・・それだけにしては、何となく気分が良くない。
何というか・・・もやもやした感じがする。何故だろう?

「・・・どうかしたのか?」
「最近素っ気無いんだよなぁ。文学部の方へ出向いても挨拶くらいしかしてくれないし、教養で一緒になった時に話し掛けても聞き流されてるようだし・・・。」

 気分のもやもやを無視して尋ねた俺に、智一が井上の「無反応」をぼやく。
文学部に出向いている時の対応は知らないが、教養の講義で席が隣り合う時−井上が俺を見つけて近寄って来る−、
頻りにアプローチする智一に対して井上が少し迷惑そうに感じている様子なのは知っている。
井上はそういうことを俺に話したことがない。
智一が俺と親しいのは知っているだろうし、その親しい相手を悪く言うことで俺が井上に抱く印象を悪くしたくないと思っているのかもしれない。
 それにしても・・・智一は前に聖華女子大との合コンで意気投合した相手が居たと言っていたような覚えがある。
その件はどうなったんだろう?

「お前、前に聖華女子大の相手と付き合い始めたって言ってなかったか?」
「ああ、あれとは別れた。」
「別れたって・・・何時?」
「ん?1週間くらい後かな。話しててもこう、俺の求めるイメージに合わなかったから止めた。」
「そんな簡単に・・・。」
「やっぱり晶子ちゃんだよ。あの清楚で落着いた感じは文学部ならではってとこだ。やっぱり晶子ちゃんの代役は他じゃ無理だ。俺は晶子ちゃん一筋で行く。」

 ・・・聞いちゃいない。それにこいつ、合コンまでやって相手を一度見つけておきながら、よくそんな台詞が言えるもんだ。
この辺りの感覚はどうも理解できない。振られっぱなしの俺では振る側の論理を理解すること自体が無理なのかもしれないが。
 食べながら聞いても良いだろう、と思って再び箸を動かし始めると、天を仰いで嘆いていた智一が真剣且つ懇願するような表情で俺に向き直る。
何か頼み事か、と直感が走る。

「教養科目の様子から、晶子ちゃんはお前に気があると見た。そこで一生の頼みがある。」
「・・・何だよ。」
「晶子ちゃんに俺を売り込んでくれ。お前は晶子ちゃんと付き合う気がないんだから、俺の方に向かせてくれよ。な?」

 俺にキューピット役をしろということか。
それは構わないが、売り込んだところであの井上が視線を向ける先をそう簡単に変えるとは思えない。
・・・もやもやが濃くなってきたように思う。何故だろう?

それより前に、このもやもや感は何だろう?


 俺は何となく釈然としない思いを抱えたまま、智一の頼みを承諾した。
講義が一緒になった時にでも井上に智一の良さをアピールして、興味を持たせるようにするというものだ。
但し、興味を持たなくても俺を恨むなよ、とは言っておいた。
お世辞にも巧みといえない俺の話術で、一度思い込んだらとことん、と自認する井上の視線の先を変えることが出来るとは考え辛い。
 それにしても・・・このもやもや感は一体何なんだ?
さっきから懸命に払拭しようとしてはいるが、一向に消える気配はない。立ち込めたまま時が止まってしまったかのようだ。一体どうして・・・?

 結局心のもやもやが何か分からないまま、3コマ目の講義も何時の間にか終わった。
俺はいそいそと荷物を鞄にほうり込んで、外へ向かう。
時計を見ると2時50分。この教室がある場所から東門まではちょっと距離があるが、3時過ぎという曖昧な時間指定なので、全力疾走まではしなくて良いだろう。
 朝から降り続いていた雨は何時の間にか止んでいた。
空に灰色をべた塗りしたような雲は所々に亀裂が走り、青空が垣間見える。

「祐司。何ぼうっとしてんだよ。」
「・・・あ、ああ。ちょっとな・・・。」
「今日のお前、何か変だぞ。物思いに耽るなんて。」
「たまにはそういうこともあるさ。」

 俺は適当な言い訳をすると、傘立ての傘を取って広がらないようにする。
しっとりとした冷気が肌に不思議と心地良い。静止していた時間がゆっくりと動き始めたような感覚を覚える。
 天気を人の表情に喩えた書き出しで始まる小説を、前にwebで読んだことがある。
あの時は詩人ぶった表現だな、と冷笑すらしたが−丁度、付き合っていた女とのすれ違いが表面化した頃だった−、今は不思議とその感覚が分かるような気がする。
その表現手法を使うなら今日の天気は・・・悲しみに静止していた時間が終わって、雨上がりと共に光が差し込む、といったところだろうか?

「だから、お前にアンニュイは似合わないって。」
「別にそんなつもりは・・・。」

 否定はしてみたものの、俺自身不思議だ。
気にも留めなかった周囲の風景に時空の流れを感じ、動き始めた時空に感情の移ろいを思う。
一時は全てが灰色に思えたこともあったというのに・・・。今は自分の心が分からない。
 ・・・何にせよ、井上との待ち合わせ場所である東門へ向うのが先決だ。
俺はちらっと時計を見る。ちょっとばかり急いだ方が良さそうだ。

「おい祐司。何処へ行くんだよ。」

 智一が呼び止める。 まさかこれから井上と待ち合わせだなんて口が裂けても言えない。どうすれば良い?

「駅は正門の方だろ?アンニュイに浸って道間違うなよ。」

 俺は東門のある方向に行くんだから、道を間違っちゃいない。
だが、それを口には出せない俺はただ立ち止まるだけしか出来ない。

「それにそっちは文学部の方だろ?晶子ちゃんは今日講義がないから、行っても居ないぞ。」
「・・・よく知ってるな。」
「そりゃお前、恋する者たれば相手のことを知りたいと思うのは当然だろ。」

 ・・・まただ。またあのもやもや感が胸の中に充満する。
これは一体何だ?それに何に反応して出て来るんだ?全く分からない・・・。
何時だったか感じたことがあるような気がするが・・・。

「晶子ちゃんに俺を売り込むのは、講義が一緒になった時で良いって。」
「・・・そうだ・・・な。」
「どうかしたのか?」
「いや、ちょっと対策を・・・。」

 対策といっても智一の売り込みじゃない。待ち合わせのことだ。
どうする?このまま駅の方へ行ってそれから東門へ戻るか?
だが、それだと相当のタイムロスは避けられないから、確実に3時を過ぎてしまう。

・・・かくなる上は・・・。

「あ、電車が行っちまう。急がなきゃ・・・!」
「へ?お前今日バイト休みだろ?急がなくたって良いじゃないか。」
「急用なんでそういう訳にもいかないんだよ。じゃあな。」
「お、おい!祐司!」

 強引だし無理があるのは百も承知だ。
だが、智一を振り切って待ち合わせの時間に間に合わせるにはこれくらいしか思い浮かばない。
 走りながら時計を見るとあと5分を切っている。
走ってぎりぎり3時に間に合うかどうかだ。急がないと・・・。

・・・でもどうして、俺はこんなに慌ててるんだ?
心のもやもやが・・・違うものに変わったような気がする・・・。

 途中で文学部方面へ向かう近道に入って、俺は可能な限り走る速度を速める。
井上のことだ。多分もう東門のところへ来て律義に待っているだろう。
食堂の脇を抜けて文科系の学部や教養課程棟が面する通りをひた走る。
教養課程の申請の時に入った程度の事務局の建物を過ぎると、東門が見えて来る筈だ。
 そこに井上は・・・居た。
壁際で腕時計を見たり、時々門を通る人を見たりしている。声を掛けようにも息をするのが精一杯で声が出ない。
今は兎に角、井上のところに走るしかない。井上の姿がだんだん近付いては来るが、妙にそれがゆっくりしているように感じる。
一体今日の俺はどうしたんだ?

 井上が俺の姿に気付いたのか、こっちを向いている。
落着かない様子だったのが一転して見るからに嬉しそうな表情に変わる。手まで振っている。
そんなことしなくても、ちゃんと分かるのに・・・って、どうして井上のことがよく見えるんだ?
 井上の傍まで辿り着くと、俺は足の動きに最大限のブレーキをかけて一気に止める。
膝に両手をついて前屈姿勢になると、激しく膨張と収縮を繰り返す肺の動きが収まるのを待つ。
今の状態で上体を起こすと吐き気が喉を駆け上がってきそうな気がする。日頃の運動不足が祟ったか・・・。

「そんなに慌てなくても良かったのに・・・。」

 井上の声がする。
俺がこんなに走ったのはお前との待ち合わせに遅れないようにするためだって分かっているのか?と言いたいところだが、激しく往復を繰り返す息に翻弄されてままならない。
・・・でも、そうなら何でこんなに慌てたんだろう?本当に俺自身が分からない。
 どうにか呼吸が収まったのを確認して俺は上体を起こす。
待ち合わせに間に合うように走るという命題が終了した今改めて井上を見ると、普段より幾分めかし込んでいるように思う。
それに、髪には初めて見る大きめのリボン、耳にはキーホルダーに幾つか鍵をつけたような変わったイヤリングと、アクセサリーが目立つ。
 井上が普段バイトでアクセサリーを着けたところを見た覚えはない。
せいぜいキッチンで調理の邪魔にならないように、手持ちのゴムで髪を纏めるくらいだ。
もっとも潤子さんもアクセサリーは指輪とピアスくらいだし、化粧も殆どしていない。する必要もないが。

「大丈夫ですか?」
「・・・ああ。いきなり走ったからちょっと息切れしただけだよ。それより・・・何時から来てた?」
「ついさっきですよ。」

 嘘だ。だったらあんなにそわそわする筈がない。
相当前から待っていたんだろう。10分前・・・否、20分前か・・・?
それにしても、自分が嘘や誤魔化しが下手なタイプだということが、井上には分かってないようだ。

「珍しいな。リボンとイヤリングって。」
「え?」
「結構似合ってるぞ。」
「・・・そうですか?」
「ああ。髪の毛の色に合ってるし、センスあるんだな。俺と違って。」

 自分で言うのも何だが、はっきり言って俺には服のセンスがない。
上下の色がよく似た系統なら合うだろうという程度の感覚しかないから、似たり寄ったりの服になってしまう。
もっとも服装にそれ程こだわる方じゃないし、そんなものに金をかけるくらいなら新しいギターやアンプを買うだろう。
俺にとって服なんてものは、その程度の位置づけでしかない。
 井上は恥ずかしいのか照れているのか、頬を少し赤くしている。
別に社交辞令で言ったわけじゃないし、喜ぶかと思ったんだが・・・。まあ、センスのない俺に褒められても嬉しくないか。
やっぱり「先約」に褒められる方が嬉しいだろう。

・・・また、あのもやもやが溢れてきた・・・。

「・・・じゃあ、CDショップに行くか。場所、知ってるんだろ?」
「え、ええ。国道に沿って行けば見えてきますよ。」

 俺と井上は並んで歩き始める。心の底の方にあのもやもやが垂れ込めている。・・・一体何なんだろう?これは・・・。

 俺と井上は国道に出る。
片側3車線の大河のような道路には、それこそ車が濁流を成している。

「その店って、道のどちら側にあるんだ?」
「向こう側なんですよ。何処かで渡らないと・・・。」

 こういう道は車の為にあるようなものだから、歩行者が渡るにはひと苦労する。
強引に横切るか、ひたすら歩いて横断歩道や歩道橋を探すか。
前者は轢かれるリスクと引き替えにしなければならないから、普通に考えれば後者だろう。
 左右を見まわすとかなり先の方に信号機の光が見える。車の濁流を跨ぐ橋の姿は見えないから、信号機のところに横断歩道があるんだろう。
こういう大きな道だと歩行者が地下に潜らされる時もあるから、あまり安心は出来ないが。

「店はこっちの方ですよ。」

 井上が左側、即ち北を指差す。何にしても歩くしかない。
俺と井上は並んで歩き始める。目的の店らしいものはまだ見えないから、結構距離がありそうだ。
着くまで何を話すべきか・・・?まあ、目的と合致するところで。

「・・・どんな歌を歌いたいんだ?」
「そうですねぇ・・・。『Fly me to the moon』みたいな静かな感じのも良いですし、逆にノリの良い曲でも良いかなって。」
「そういうのはあの喫茶店で聞かせる曲にはなかなかないぞ。」
「うーん・・・。でも、探せば意外に見つかると思いますよ。」

 楽観的なもんだ。CDをどれでもを試聴して買える店なんてないから、歌が入っている曲を探すのはある意味賭けに等しいというのに。
だが、こんな考え方が出来なきゃ、あれだけ冷たくあしらっても食い下がれる筈がないか・・・。
 そういえば・・・俺から井上に何か話題を向けたのって、今まであったか?
井上から話し掛けてきて、俺が答えるっていうのなら珍しくないが・・・。最初の頃、話し掛けられるのも疎ましがっていたのが嘘みたいだ。

「どうしたんですか?」
「・・・ん?いや、不思議なもんだなって・・・。」
「私と待ち合わせしたりするようになったことがですか?」
「・・・ああ。」
「最初の頃・・・安藤さんは私を嫌ってましたものね。」

 井上の一言が俺の胸に突き刺さる。
あの時は全然重いもしなかったが、井上は気にしてなかったようでやっぱり辛かったのか・・・。
よく考えてみれば、俺だって前付き合っていた女が別れたいような素振りを見せてきた時は相当ショックだった。
状況は違っても、冷たくされたらショックなのは考えてみればショックなのは当たり前だ。
なのに俺は・・・。

「でも、無理もなかったと思いますよ。たまたま店で顔を合わしただけの女が、しつこく付き纏ったんですから。」
「・・・そんなことは・・・。」
「良いんですよ。今こうしてお話できるようになったから・・・。」

 井上は微笑む。得意とする(?)子どもの悪戯を事前に見つけて詰め寄る母親のようなものじゃない。

「・・・よく・・・諦めなかったよな。」
「私しつこい方だから・・・一度駄目だったら次こそはって思うんですよ。」
「そういうのって・・・良いよな。俺はそれがなかなか・・・。」
「それは人それぞれですよ。」

 井上みたいな考え方をするのは意外に難しい。
俺の場合はもう二度と彼女なんて出来ないと思っていたところにいきなり別れを突きつけられて、もう駄目だ、となった。
井上の考え方が出来ていたら、多少はダメージが減らせただろう。
もっとも・・・恋愛で今回駄目だったから次、なんていうのは俺の性には合わない。第一、次に切替えられるほど相手が居ないというのもあるが。
 暫く歩いていくと、前方に「SILVERDISK 新京店」という巨大な看板が見えてきた。
SILVERDISKという名前からしてあそこのようだ。

「あ、あれですよ。」
「でかそうだな。」
「ええ、大学の帰りにぶらっと歩いてて偶然見つけたんですけど、凄く広いんですよ。」
「ぶらっと歩いてたって・・・?」
「私、気まぐれに彼方此方歩き回ったりするんですよ。」

 妙な癖というのか・・・。井上は何処か変わってると思う。
まあ、俺に興味を持つこと自体、変わっていると言えるか・・・。
 看板が間近に迫るに連れて、巨大な駐車場とその奥にある建物が見えてきた。
成る程、これはでかい。
規模によっては店で演奏出来るようなジャンルが殆どなかったりするが、恐らくこれなら曲を探すだけの品揃えは期待出来るだろう。

「横断歩道はもうちょっと先ですね。早く行きましょ。」

 左腕に軽い圧迫感を感じる。見ると、井上の右手が俺の左腕を取っている。
呆然とする俺は井上にされるがままに引っ張られる。
払いのける気は・・・起こらない。
何のつもりか問い質す気は・・・起こらない。
 胸が疼く。
前付き合っていた女が新しい男の存在を仄めかした時のような、あの辛い記憶が蘇ってきた時のような、不快な痛みじゃない。
これは・・・ずっと前に感じた記憶がある。

あれは確か・・・。
・・・まさか、そんな・・・。

 井上に左腕を掴まれたまま、俺は丁度信号が青になっていた横断歩道を渡る。
井上には直ぐに追い付いたが、1日2回も走るのは弛んだ肺と心臓にはきつい仕打ちだ。
目の前には家が何件も建てられそうな広い駐車場と、今時の大型量販店にありがちな横に広い建物が見えている。もう少しの辛抱だ・・・。
 横断歩道を渡りきったところで、井上は一気に速度を落とす。
肺と心臓が限界に近かった俺もそれに続いて足を止める。こんなに慌てなくても良かったのに、と思いながらふと後ろを振り返ると、
歩行者用の信号が何度か点滅を繰り返した後、青から赤に変わった。道路の幅の割に変わるのが早いようだ。

「ここの信号・・・なかなか変わらないし、変わるのが・・・早いんですよ・・・。」

 井上が左手で胸を押さえながら補足説明する。
井上も勢いで走ったのは良いものの、それなりに苦しかったようだ。右手はまだ俺の左腕を掴んだまま放す気配はない。
今なら振り払うのは容易いが・・・やっぱり今もそんな気は起こらない。

「・・・連続ダッシュは・・・ちょっと堪えた・・・。」
「御免なさい。でも・・・案内して待たせるのも何だと思って・・・。」
「まあ・・・良いや。あとは・・・ゆっくり歩いて良いんだろ・・・?」
「・・・ええ。」

 ある程度呼吸が落着きを取り戻したところで、俺と井上は歩き出す。
まだ井上は左手を離さないが・・・もう、そんなことはどうでも良くなってきた・・・。
走った疲労で半ば投遣りな気分になっているのか、それとも・・・

・・・このままだと・・・それすらも受け入れてしまいそうだ・・・。
それだけは・・・絶対駄目だ・・・。また・・・俺が泣く羽目になるんだから・・・。

 店内はやはり広い。
基本に忠実というかコスト削減とやらの為か、天井は灰色に塗装された鉄骨や梁が剥き出しだ。
そこから何本もの水銀灯がぶら下がって店内を隈なく照らしている。
見渡せばそこは整然とジャンル毎に区分けされた棚が並び、その間に人が居るという情景だ。
 大学には生協があってCDも1割ほど安く買えるが、店内はこれの何十分の一という狭さで、品揃えもやはり売れ筋のものが多くて、
俺が聞くようなジャンルは名の知れた幾つかのグループや個人の数枚しか置いていない。

「広いでしょ?前に買ったCDも此処で見つけたんですよ。」
「・・・探すのが大変そうだな。」
「検索コーナーがあるから、CDかミュージシャンの名前を知っていれば結構簡単に探せるんですよ。」

 CDショップで検索コーナーとは初めて聞く。
だが、ジャンルが判らないとか探すのが大変なのは図書館でも同じだし、その図書館には検索コーナーがあるんだから、理に適っているといえばそのとおりだ。
 俺は井上に腕を取られたままレジの隣にある、『検索コーナー』という看板が下げられている一角に足を運ぶ。
10台ほどのタッチパネルが並び、そこに触れていくことで目的のCDを探すというもので、図書館のそれと同じと考えて良さそうだ。
 半分ほどは既に使用中だ。やはり便利なのは間違いない。
俺と井上は空いているタッチパネルの前に並ぶ。タイトル、ジャンル、アーティスト−俺はこの呼称は嫌いだが−の3つの選択肢がある。

「どれにします?」
「まあ・・・ジャンルから探すのが妥当じゃないか?」
「そうですね。じゃあ・・・。」

 井上は左の指でタッチパネルに触れる。右手は・・・まだ俺の左腕を掴んでいる。
井上が『ジャンル』を押すと画面いっぱいにジャンル名が並び、さらにページが複数ある事を示す矢印が現れる。
目的のジャンルは・・・『ジャズ』や『フュージョン』か。
大体これらは同一のものとして扱われる傾向が強くて、ここでも一つのジャンルとして登録されている。
系統は同じだが本来は別物だ。この辺りに少数派故の扱いの違いを感じる。
 俺が言うより前に井上が『ジャズ・フュージョン』の位置に触れる。
てっきり『J-POPS』辺りに触れるかと思ったんだが、そう言えば井上は俺と同じジャンルの曲を聞くんだったか・・・。
次に現れたのは、曲名、CDのタイトル、アーティストの選択肢だ。
ここで井上の手が止まり、俺の方を見る。

「・・・日本のだったら神保彰とか・・・。歌詞は英語だけど。」

 井上は『アーティスト』『神保彰』の順に触れる。
別に俺の意見に従わなくても自分の好みを探して良いんだが・・・。まあ、敢えて言うことでもない。
 検索結果として現れたCDの数は予想以上に多い。
タイトルを見ると、JIMSAKUのものも含まれているらしい。
ベスト版も含めて俺が知っている限り全てのCDを置いてあるようだ。
成る程、この広さは有名どころを押さえる為だけのものじゃないってことか。

「いっぱいありますね・・・。私、神保さんのCDは持ってないんですよ。名前は知ってますけど。」
「俺が持ってるのもあるな・・・何なら貸しても良いけど。」
「でも、それだと安藤さんが聞きたい時に聞けないし、覚えるには何度か聞かないと駄目ですから、自分で持っておきます。」
「・・・分かった。じゃあ、どれか適当に選んでその場所へ行くか。その近くに他のやつもあるだろうから。」
「じゃあ・・・これに。」

 井上は指を少しさ迷わせた後、タッチパネルに触れる。表示されたタイトルは・・・『LIME PIE』。
これは俺も持っているが歌モノが結構多くて、それもあの店で歌って問題無いタイプだ。
ただ、俺は弾き語りが出来ないし、歌に自信がないのもあって、歌モノはレパートリーに殆ど入っていない。
「Fly me to the moon」は例外と言って良い。
 となると、曲を決めると同時に俺はアレンジをしてそれを弾けるようにしなきゃならないわけか・・・。
まあ、井上の「専任」演奏者だから仕方あるまい。リズム楽器がないから、アップテンポのやつは出来れば避けたいところだ。
・・・しかし・・・以前の俺はこんな風に思えただろうか・・・?

「・・・どうしたんですか?」

 井上の呼びかけで俺は我に帰る。
横を見ると、井上が少し不安げに俺を見ている。
どうも俺は最近、考え事をすると深みに嵌まり易くなったようだ。

「・・・いや、どの曲が良いかなって・・・。」
「もう曲のこと考えてたんですか?」
「一応中身は知ってるからな。でも歌う当事者の意見を聞いてないから、個人的な想像の範囲だ。・・・探すか。」
「ええ。」

 俺は「印刷」の部分に触れて『LIME PIE』の情報をプリントアウトさせるとそれを取って、井上と共に検索コーナーを出る。
これから目の前にずらりと並ぶ陳列棚の中から、印刷された情報に該当する場所を探す訳だ。
・・・もう暫く、井上と一緒に居る時間は続きそうだ。

何だ、この気分は・・・?
まさか・・・俺は嬉しいのか・・・?
駄目だ・・・そう思うようになったら・・・前の二の舞だ・・・。

それだけは絶対に嫌だ!!

 プリントアウトした情報を頼りに歩き回ること数分で、俺と井上は『LIME PIE』のCDを見つけることが出来た。
何せだだっ広いこの店内、大まかな場所を掴むだけでも結構歩かないといけない。どうせなら階を分けてもらった方が有り難い。
土地が狭いと騒ぐ割には土地が広い国と同じ様なことをしようとするのは、全くもって理解できない。
この辺が「素人」と「専門家」やらの違いなのか?
 一先ず当事者の井上にCDを聞かせて、歌えそうなものがあるかどうかの判断材料を用意する必要がある。
歌ってみると実際には難しい曲だってあるんだが、最初じゃないんだから本人が気に入った曲を練習するのが一番良いだろう。

「一度聞いてみてよ。」
「そうします。」

 井上は俺が差し出したCDを受け取って、近くの試聴コーナーへ俺を連れて行く。
・・・まだ俺は、井上の手を振り払う気になれない。
俺は・・・どうしたいんだろう?
井上と近付きたいのか?遠ざかりたいのか?

俺には・・・判らない・・・。

 
CDを見つけてから半時間ほど過ぎて、店を出た俺と井上は国道沿いに歩いている。
井上の左手には店のロゴが描かれた白い袋に入った『LIME PIE』のCDがある。
右手は・・・まだ俺の左腕を取って離さないし、離そうともしない。
 俺にも振り払おうという気は起こらない。
振り払えばこれからの練習や演奏に影を落とす可能性があることは俺の頭でも分かるし、それを避けたいという意識は確かにある。
だが・・・それだけじゃない。
それは分かっているが、それを自覚することは拒否している俺が居る。
二人の人格が俺の内側で主導権を巡って争い、一歩も譲らない戦いをしているように思う。

「今日はありがとうございました。」

 井上が突然−本人にはそんなつもりはないだろう−話し掛けて来る。
俺はどうにか我に帰る。1日に何度も反応が鈍いと、呆けていると思われかねない。
・・・以前なら、井上にどう思われても構わなかった筈なんだが・・・。

「いや・・・、俺も無関係じゃないしな。」
「アレンジして演奏出来るように練習して、その上私の面倒まで見てもらって・・・。何だか安藤さんに迷惑かけてばっかりですね、私。」
「教えるのは俺の責任でやってることだから・・・迷惑なんて思う必要はない。」

 俺がそう言うと、井上は驚いたような表情を見せる。
そりゃまあ、以前追えば追うほど逃げ回っていた俺の態度からすれば随分な変わりようだから、当然ともいえる。

「安藤さんって真面目ですね。」
「・・・ずぼらだよ、俺は。」
「いいえ。だって私がどれだけ失敗してやり直しても、ずっと付き合ってくれたじゃないですか。
あんなこと、なかなか出来ないと思いますよ。嫌ってる相手なら尚更。」
「・・・。」

 井上の言葉が・・・痛い。井上が許容してくれるだけに、余計に痛い・・・。
もし不満や怒りを内側へ押し込んでいるのなら、遠慮は要らない。以前俺がそうしたように力任せにぶつけてくれ。

「安藤さんももっとずるかったら、あんなに思い詰めなくても良かったんじゃないかなって思うんです。」
「俺はただ・・・、腹いせに当たり散らしてそれでも猫可愛がりして欲しかったんだけだよ。・・・ずるいよな。」
「悩んで考えて、泣いて苦しんで・・・。それだけでも良いんですよ。何時か、時間が解決してくれますよ、きっと。」
「時間、か・・・。」

 俺は縁の方が紅に染まり始めた、黒に近い灰色をした雲の切れ端を見上げる。
雨も何時しか上がり、重く垂れ込めた雲が消えていくのもまた・・・時の流れが創り出す自然が持つ忘却のシステムなのかもしれない。

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