雨上がりの午後
Chapter 12 宴を終えて結ばれる、緩やかな絆
written by Moonstone
時刻が8時を少し過ぎた頃、一頻りサックスを拭き終えたマスターがマイクを握る。
いよいよ間近に迫った井上の初ステージを前にして、俺も少なからず緊張感を覚える。
「Fly me to the moon」は何度も演奏して来たものだが、歌と合わせるのは初めてだ。そういう意味では俺も初ステージといえなくも無い。
俺と少し離れた場所に居る井上は、真剣な表情でマスターの方を見ている。
今マスターが立っているところが、丁度井上が歌声を披露する場所になるから、ステージを見る目が何時もと違って見えるだろう。
「さて・・・、本日この場にいらっしゃる皆様は、非常に幸運だと思います。何故なら記念すべき瞬間をお目に出来るからです。」
マスターの思わせぶりな台詞に客席が少しざわめく。マスターはサックスの腕も然る事ながら、こういう演出にも長けている。
相当場慣れしているのと話し上手とを兼ね備えている証拠だ。まさにステージ向きといえる。
「当店は楽器の生演奏をお聞かせできるのを特徴としているのは、皆様ご存知だと思います。私はサックス、潤子はピアノ、そして祐司君はギターと
それぞれ得意の楽器で皆様の憩いのひとときを演出させて頂いております。」
「・・・。」
「そんな中・・・一月ほど前に新しく店の仲間に加わった彼女、井上さんもそれに続こうと懸命に練習を重ねて参りまして、
この度皆様にお披露目出来る運びとなりました。」
一旦収束していた店のざわめきが大きくなり、同時に客の視線が一気に井上に捕捉して集中する。
井上は普段とは全く違う注目にエプロンの裾をきゅっと握り、肩と表情を強張らせる。
・・・大丈夫か?
「先に挙げた三人は楽器演奏をお聞かせしておりますが、井上さんは人間が生まれながらにして持つ楽器といえる声を使って、
新しい演奏の形をお見せすることになります。では井上さん、ステージへどうぞ。」
マスターが手招きすると、井上は視線を一身に浴びてゆっくりとした足取りでステージへ向かう。
ゆっくりと、というよりぎこちなく、というべきだろう。上半身は完全に固まっている。大勢の視線を一斉に浴びる緊張感には耐えられないのだろうか?
しかし、此処まで来たらもう後戻りは出来ない。井上の発奮に期待する他ない。
俺も同じステージに立って音を合わせるとは言え・・・心まで歩調を合わせることは出来ないんだから。それが・・・口惜しく思う。
井上はステージに上がると、緊張してますと宣言するような固まったままの表情を客席に向ける。すると、客席から拍手が起こる。
如何にも初めてという初々しさが良いのか、男性客からは指笛や声援が飛ぶ。
「手始めにまず、ご挨拶をお願いしましょうか。」
マスターが井上にマイクを手渡す。井上は右手でマイクを持ち、左手を強く握って胸に押し当てて固く結ばれていた唇を開く。
「・・・こんばんは。井上です・・・。」
ややリバーブ(エコーの音響用語)が掛かって聞こえる井上の声はやはり強張っているように感じる。
声や目というのは感情の鏡みたいなもので、表面上平静を装っていても−今の井上は装うどころの話じゃないが−声や目には感情の動きが忠実に表現されるものだ。
俺が意を決して抱き寄せたことなど、恐らく忘却の彼方に消え失せているだろう。・・・これじゃ意味が無い、と文句を言っても始まらないか。
客からは再び拍手が起こる。
初々しさに声援を送りたいと思うのか、単に如何にも緊張しているという様子が面白いのか判らないが、客も井上の様子がよく分かるのは間違いない。
「・・・この店でバイトさせてもらうようになってから一月・・・。今までずっと、ステージに上がることはありませんでした・・・。
私、楽器を弾けなくて・・・だから・・・歌を練習して来ました・・・。」
「・・・。」
「マスターも潤子さんも安藤さんも・・・本当に演奏が上手くて・・・私がそこまで出来るとは思えませんけど・・・練習の成果を、聞いて下さい。」
井上が話し始めて一旦静まっていた客席が、井上の話が終わるとより大きな拍手を巻き起こす。
考えてみると、司会でマイクを握るマスターを除いて、ステージに立った者が話す機会は殆どない。俺もこの店での初ステージで一度挨拶をしたくらいだ。
俺が知る限り、潤子さんがステージで何か話したという記憶はない。
今日この場に居る客は、井上の初ステージだけじゃなく、滅多に聞けない話も聞けたわけだ−妙な団体みたいだが−。
特にファンにとっては願ってもない機会といえる。
マスターが予想もしない拍手喝采に戸惑っている様子の井上にマイクを戻させて、掌を下にして上下に振り、抑えて抑えて、というジェスチャーをする。
客席が静まったところでマスターが再び口を開く。
「井上さんからのご挨拶でした。さて・・・記念すべき初ステージで彼女が皆様に歌声を披露する曲ですが、
それにはこの店のスタンダード・ナンバーの一つとも言えます、『Fly me to the moon』を選びました。」
客席からどよめきが起こる。
常連の割合が多い上に、『Fly me to the moon』は俺とマスターと潤子さんの3人がそれぞれのアレンジを持っていてよく演奏する、
まさにスタンダードナンバーだけに客の期待は否が応にも高まるだろう。
逆にそれだけ井上のプレッシャーは強まることになるのは皮肉だ。
「アカペラでも良いのですが、何分初ステージの彼女には、キャリアのある演奏者をつけた方が心強いでしょう。
入念な話し合いの結果、歌の伴奏に相応しい楽器でなおかつ原曲に近いアレンジを持つということで、祐司君が担当することになりました。」
・・・一つ気になる嘘があるが、それより自分の名前が出たことで俺もそれなりに緊張感が高まる。
初めて歌と合わせるということは勿論だが、リクエストの時以外で最初から注目を集める演奏の機会はそうそうなかったと思う。
高校時代は最初から注目されるのが当然だったんだが。
「では、祐司君もステージへ。」
マスターに言われて俺もステージへ向かう。
井上に集中していた視線が一斉に俺の方に向きを変えたのが分かる。
久しく味わったことのない緊張感に少し戸惑うが、ここは多少なりともステージ慣れしている俺の腕の見せ所だろう。
井上がマスターの左隣に立っているので、俺は右隣に立つ。
別にお前を避けると井上に暗喩するつもりはないが、男性客に人気が高い井上とくっついてきつい視線を浴びたくないし、
何よりそれを井上が見て緊張が不安に転じるようなことは避けておきたい。
ほんの何十cmか高いだけのステージだが、客席の様子は意外によく見える。
学校の朝礼とかで居眠りやお喋りが後ろの方でむしろ目立ってしまうのと同じ理由だ。
「祐司君はギター演奏のキャリアが長くて、楽譜の読み書きやアレンジも出来ます。その能力を生かして今回、井上さんの指導もやってもらいました。」
・・・これじゃ何のために井上の隣を避けたか判りゃしない。案の定、客席の一部に少々不穏な空気を感じる。
誤解しないでもらいたい。俺はあくまで井上に音楽を教えただけだ。
男と女が何かを一緒にすると、只ならぬ関係があると勘ぐるのは、俺だけじゃなくて割とありがちな思考パターンなのかもしれない。
「論より証拠といいますが、私の論はこのくらいにしておいて、一月に及ぶ練習の成果を聞いて頂きましょう。それでは二人には準備を・・・。」
俺は早速ギターの準備を始める。
ストラップに肩を通して小さな椅子に腰掛けて、チューニングを合わせて・・・何時もの順番で準備を進めていく。頭の中で楽譜を早送りする。
・・・大丈夫だ。
ちらりとステージを見る。潤子さんによって少し絞られた照明の中に、観客の視線が浮き彫りになる。俺が初ステージの時これが怪獣のそれに感じたものだ。
初ステージを踏むものに向けられる期待と訝りが交錯する視線。井上はこの視線を乗り越えて称賛に変えるだけの歌声を披露しなければならない。
「準備が整ったようです。それでは聞いて頂きましょう。『Fly me to the moon』です・・・。」
マスターがスタンドにマイクを戻してステージを降りると、さらに照明が絞られ、代わりに井上が淡い青のスポットライトで浮かび上がる。
井上はマイクに両手を乗せて正面を向いたまま動かない。大丈夫か、なんて声を掛けるわけにはいかない。
・・・やるしかない。
客席は演奏が始まるのを今か今かと待ち構えている。
物音一つしない蒼の濃淡だけの世界に、井上の姿が際立つ。
今気付いたが、井上はエプロンを外していない。
まあ、楽器演奏でないから気にならないし、それよりも緊張でエプロンに気が回らなかったということだろう。
もう待たせるわけにはいかない。客も井上も。
俺はギター用にアレンジしたアルペジオ(分散和音)のイントロを爪弾く。
原曲ではストリングスのイントロが終わると、この曲の基本のリズムである、ボサノヴァのバッキングに移る。
これを4小節分奏でると、いよいよ井上のヴォーカルの出番だ。
ちらっと見ると、井上の喉が一度上下に動く。
・・・準備は良いか・・・?
俺のギターがヴォーカルの部分に突入する。と同時に井上の口が開き、あの歌詞がマイクを通して響き始める。
少し怖々とした印象があるのは否めないが、練習で何度も聞いた歌声に違いない。
これなら・・・いける。
俺は意識的にほんの少しテンポを落として演奏を進める。緊張しているとどうしても先走り易くなるので、井上に注意を即す為だ。
井上は身体を規則的に揺らしてリズムを取りながら演奏に合わせて歌う。俺はその動きに合わせるようにテンポを微調整する。
二人三脚でもするように、互いに歩調を合わせて前へ進めていく。
キーは合っている・・・。
声は最初こそ怖々していたが、徐々に張りが出てきた・・・。
テンポも思いのほか安定している・・・。
・・・大丈夫だ・・・。あとは・・・最後まで歌いきるだけだ・・・。
ダウン・ストロークの和音が消えると、客席から一斉に拍手が起こる。
照明が戻り、客席の好感触が手に取るように分かる。中高生の男性客に至っては「井上さーん」とか「最高ー」とか歓声を上げている。
これは極端にしても、客の表情は一様に柔らかい。最高の初ステージといえるだろう。
井上はマイクに両手を乗せて固まったままだ。
歌い終わったことで緊張から一気に解放されたことに、思っても見ないほどの好感触が加わって戸惑っているんだろう。
マスターが拍手をしながらステージに上り、井上の肩を叩いて我に帰らせる。
ようやく初ステージが成功に終わったと実感し始めたのか、井上は客席に向かってぺこりと頭を下げる。
「井上さんの初ステージ、如何でしたでしょうか?」
「最高だったぞーっ!」
「そうですか。私も今日初めて彼女の歌声を来たのですが、予想以上に素晴らしい歌声で驚きました。彼女は今日、ヴォーカルという新しい楽器演奏を
皆様にお聞かせすることが可能になったと宣言してよろしいでしょうか?」
マスターの問いかけに、客席は再び歓声の混じった拍手で応える。俺もそれに加わる。
唯一最初から井上の歌声を聞いてきた俺にしても、客の前で披露するだけのものは十分あると思う。
これは井上がどうとかいう問題じゃなくて、音楽に親しむ同じ人間としての見解だ。
「まだ彼女は音楽の世界に足を踏み入れたばかりです。しかし、これから徐々に歌数を増やし、皆様に聞いて頂ける機会が増えていくと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。」
マスターが頭を下げると、客席からの拍手と歓声がより大きくなる。
これで井上も「楽器が出来る」というこの店でバイトする条件を満たしたと判断して良いだろう。
俺の中で少しだけ・・・井上を認めようという気持ちが芽生えたようだ。
だが・・・もう、否定する理由はない・・・。
宴の後も余韻はまだ残っている。
井上の初ステージの後、俺自身初めて目にするアンコールが飛び、井上はその後のリクエストを含めて2回余分に歌うことになった。
恒例の「仕事の後の一杯」の席で、井上は喉を押さえて何度か軽く咳払いしている。
明日は店も定休日だし、練習も休んだ方が良いだろう。ここで無理をして喉を潰したら取り返しがつかない。
楽器は壊れても修理が出来るが、人間の身体はそう簡単にはいかない。
俺と井上は、それぞれ用意された飲み物を飲む。
俺とマスター、そして潤子さんは何時もの通りコーヒーだが、井上だけはホットミルク。喉に良いから、と潤子さんが用意したものだ。
井上は手頃な温もりの白い液体を喉に流し込んで、一度溜め息を吐く。今ようやく大舞台が終わったことを実感したのかもしれない。
「いやあ、それにしても今日は二人とも本当に良くやってくれたよ。」
マスターがこれ以上ないという程の満面の笑みを浮かべる。「秘密兵器」だった井上が予想以上の出来だったことはやはり嬉しいらしい。
潤子さんの口添えで井上をバイトさせるようにしたとは言え、マスターがナイトカフェへの拘りをそう簡単に棚上げできるとは思えない。
それに加えて、当初あれだけ井上を避けていた俺と井上を敢えて組ませることが成功したことが嬉しいのかもしれない。
音楽という共通項で交流を持ち、やがて・・・とシナリオを考えているとしても不思議じゃない。それは度々仄めかしていたことだし。
生憎マスターのシナリオ通りにはならず、俺には恋愛感情はない。
だが、井上に対する感情が変化したのは事実だ。少なくとも「バイト仲間」として井上を見れるようになった。
「晶子ちゃん、ステージに立って歌った心境はどう?」
俺から見てマスターの向こう側から、潤子さんが問い掛ける。
井上はカップを置いて少し考えてから答える。
「・・・歌い始める前までは本当に、安藤さんが初ステージの時は怪獣に見えたって聞きましたけど、お客さんが怖かったんです。」
「ほうほう。」
「で、演奏が始まって歌の部分になってえいやっ、って声を出したら、何て言うか・・・胸の痞えが取れたって言うか、そんな感じがしたんです。
歌っていくに連れてちょっと変な表現ですけど、凄く気持ち良くなってきて・・・。」
「それは良い事だよ。音楽は自分がやってて気持ち良くならなきゃ駄目だ。そうでなきゃ、お客さんを喜ばせるなんて出来やしないからね。」
自分の技量やセンスを披露してそれが客に受け入れられる感動は、ステージに立った者だけが分かる至福の時だ。
これを覚えると、次のステージに対する良い意味の欲が生まれるだろう。
「じゃあ、祐司君の指導はどうだった?」
俺は無意識に意識を井上の方に集中する。
思えば今回初めて、俺の指導者−そんな大層なもんじゃないが−としての力量が問われたわけだ。井上の評価は・・・どうなんだろう?
今まで人に教えたことなんてなかったから、俺のやり方が良かったどうかは判らない。それどころか、特に最初の頃は感情的になったことが多かったように思う。
個人的感情が先走ったとは言え、教える側が尊大であって良いという理由はない。この辺りは反省すべきだと今更だが思う。
「しっかり教えてくれました。殆ど何も知らないところから教えるのって大変だと思うんですけど、何度も同じ個所を演奏してもらったり・・・。」
「・・・。」
「叱られたことも何度かありますけど、自分がやりたいって言い出したことだから早く覚えて上手くなろうっていう気になりました。」
庇ってるんだろうか、俺のこと・・・。むしろ「教え方がきつかった」とか言ってもらった方が良いような気がする。
本心なら勿論嬉しいが・・・。
一月前ならきっと、「よくもそんな心にもないことを」と端から決め付けていただろう。本当に俺の井上への気持ちは変わったと思う。
井上に質問を投げかけた潤子さんも、聞いていたマスターも満足そうだ。
もしかしたら今回の組み合わせは、俺に井上への歩み寄りの機会を持たせる為だったのかもしれない。
今なら・・・良かったと思える。
「これからも晶子ちゃんの指導は祐司君にお任せしたいんだけど、どうかしら?」
「おっ、そりゃ良いな。井上さんはどうだい?」
「私も・・・お願いしたいです。」
三人の視線が一斉に俺に集中する。
前なら何とかして回避しようと策を練っただろうが、今は不思議とそんな気はしない。
「・・・良いですよ、俺は。」
俺が答えると、反応を窺っていた三人の表情がこれまた一斉に明るくなる。
一月前は押し切られるような感じで良い気分はしなかったが、やはり一月の間で俺自身が気付かないうちに、俺は変わったんだろう・・・。
あの記憶の傷が癒えたかどうかはまだ自信がない。また黒い濁流が吹出すかもしれない。
だが、少しは他を見る目が柔らかくなった、そんな気がする・・・。
和やかなひとときを過ごした俺と井上は、共に帰途に着く。
熱気が未だに残っているような感じだった店内とは違い、外の冷え込みは一段と厳しくなっている。
井上の足取りはやはりというか軽い。緊張に押し潰されそうだったのが嘘のようだ。
以前は忌々しいとすら思った井上の表情の変化も、今は気にならない。
「今日は・・・本当に楽しかったです。」
井上が俺を見て言う。その表情は充実感に溢れている。
その充実感に関われて良かったと今は素直に思える。やっぱり俺は変わったようだ。
「拍手されてどうだった?」
「ステージに居た時、最初は頭の中が真っ白で何が起こってるのか分からなかったんです。でも、マスターがお客さんに『ヴォーカルという新しい楽器演奏を
披露できるようになったと宣言して良いですか?』て尋ねて拍手が返って来ると、ああ、私の歌で喜んでもらえたんだって・・・。」
「・・・良かったな。」
呟くような俺の一言。だが、前のように井上を敬遠するような、軽く扱うよな含みはない。思ったことそのままを言葉にしただけだ。
俺も初ステージで同じ様な経験をした。拍手を受けた時、それまでの苦労が一瞬で消えてしまったように思った。
俺も初ステージを踏むまでに随分練習したし、それなりに苦労もした。
井上も殆どゼロの状態から楽譜の読み方を覚え、何度も練習して来た。
それは最初から付き合っていた俺も知っている。だから、井上の気持ちは分かるつもりだ。
「そう言えば私・・・まだ安藤さんから感想聞いてませんよね。」
「・・・そうだった、か?」
「ええ。マスターと潤子さんから褒めてもらったのは勿論嬉しいですけど、一番聞きたいのは教えてくれた安藤さんの感想なんです。」
井上は俺の顔をじっと見詰める。
一刻も早く聞きたいという気持ちの後ろ側で、どんな感想が出て来るんだろうという不安が前に出ようとしているような気分なんだろう。
・・・何となく分かる。井上は感情がよく表情に出るからな。
「・・・予想以上にしっかり歌えてた。テンポもしっかり取れてたし。最初ちょっと遠慮気味だったけど、これは仕方ないから・・・。上々の出来だったと思う。」
「良かった・・・。」
安堵と喜びが同時に井上の顔に表れる。本当に分かり易い。
「安藤さんに褒めてもらえて凄く嬉しいです。何と言っても私の先生ですから・・・。」
「よせよ。先生って言われるような柄じゃない。それに・・・俺は音楽を教えただけだ。ステージで歌う時の緊張感をどうするかとか、
本番で大事なことは何一つ教えなかったからな・・・。」
「ちゃんと教えてくれたじゃないですか、本番前に。安藤さんのお陰でお客さんを前にしても歌うんだ、っていう気力が緊張に負けなかったんですよ。」
「・・・そう・・・か?」
「本番前に私、本当にどうにかなっちゃいそうだったんです。でも、安藤さんに緊張感が悪いものじゃないって励ましてもらって、それに・・・。」
「・・・?」
「抱き締めてもらって、凄くほっとしましたよ・・・。」
心臓を下から突き上げられるような感覚が全身を貫く。その直後、内側から急激に身体が熱くなって来る。
てっきり少し前の緊張感と今の充実感に飲まれて忘れられたかと思っていたんだが・・・。
井上は「得意」とする、子どもの悪戯を事前に発見した母親のような笑みを浮かべてはいるが、街灯で白く照らされる筈の頬には明らかに赤みがさしている。
やっぱりあの出来事が井上にとって強烈なインパクトになったのか・・・。
緊張を逸らすなら、もっと別の方法にするべきだったとまたしても今更ならが思う。あの時は俺自身が無意識のうちに緊張していたんだろうか?
どうやって弁解する?あれは緊張を逸らす為だった、とそのままを言うか?・
・・井上がそんな都合の「悪い」解釈に切替えるとは思えない。
別に好きで抱き寄せたわけじゃない、と突き放すか?
・・・その程度で離れていくなら、今頃同じバイトをしている筈がない。
「知ってます?お母さんが赤ちゃんの頭を胸に当てる理由(わけ)。」
「・・・知らない。」
「心臓の鼓動を聞かせると、安心するからですよ。それは幾つになっても同じ・・・。」
「・・・。」
「あの時安藤さん、『気は楽になったか?』って聞いたから、多分私の緊張を解そうと思ってのことだと思うんですけど・・・、
凄くほっとしたのは本当です。それに・・・嬉しかった。」
井上の口調が少ししんみりしたものになる。内心では不安が溢れる寸前だったのだろう。
一月前まで殆ど何も知らなかったところから、人前で歌を披露するところまで来てしまったんだ。不安に思って当然だろう。
俺は井上が好きだからという理由であんな行動に出たわけじゃない。これは確かだ。
でも、井上の緊張をどうにかしようと思っての行動には違いない。これも確かだ。
それが伝わったのなら俺は嬉しく思う。
・・・やっぱり俺は変わったんだ。そう思う。
「だから今言いますね?」
「・・・え?」
「・・・ありがとう。」
・・・好きです、と言うのかと思った。今まで井上が俺に向ける意思表示はそればかりだったから、そう決め込んでいた。
だけど、俺にはこっちの方がずっと・・・嬉しく感じる。
ありがとう、なんて言われるのは、何時以来だろう・・・?
胸の奥からじわじわと何かが広がり始める。
決して井上と出会って間もない頃に井上と顔を合わせるだけでも直ぐ噴き出したような、嫌な感じじゃない。
胸が芯から熱く震える。空の容器に人肌の温もりの飲み物がゆっくりと注がれていくような、そんな感じだ。
「・・・家へ寄って行きませんか?」
暫しの沈黙を破って井上が誘う。何時もは井上を玄関先まで送った後真っ直ぐ帰るんだが・・・今日はそんな気はしない。
同じ時間と過程を共にしたことが上手く実を結んだことを喜び合いたい。だから俺は自然に答える。
「そうさせてもらうかな・・・。」
思えば日曜の夜に井上の家に入るのは、井上が「Fly me to the moon」を歌うことが決まった日以来のことだ。
あの時は本当にスタートラインに立ったばかりだったが、それがこうして初ステージを無事に終わらせるまでになったかと思うと、
何だか妙に感慨深いものがある。
卒業式の時に泣き出す教師の気持ちが分からなくもない。
井上は暖房のスイッチを入れると早速紅茶の準備に取り掛かる。
俺は暖房が効いて来るまでコートを着たまま椅子に座って待つ。
これも一月前と同じ光景だ。
時間の流れを飛び越えて過去に舞い戻ったような錯覚を覚える。
だが、あの時と今とでは、井上に対する感情は確実に違う。
あの時は近くに居ることを疎ましくさえ思い、音楽を教えることにもなし崩し的に決まったこともあって乗り気じゃなかった。
それに井上の家に入ったのも、蟻地獄に引っ張り込まれた蟻のような気分だった。
言い換えれば井上に対する感情はマイナスの要素ばかりだったわけだ。
今は少なくともマイナスじゃない。じゃあプラスだから井上が恋愛対象として好きかというと・・・そうじゃないと思う。
「まずはお友達から始めてみたら?」と潤子さんに以前言われたが、知らず知らずのうちにそう思うようになったのかもしれない。
女友達なんて今まで居なかっただけに実感が湧かないが、多分今俺が井上に抱いている感情はそうだと思う。
・・・井上とは食い違っているかもしれないが。
「はい、どうぞ。」
井上が俺の前に紅茶の入ったカップを差し出す。
そろそろ暖房も効いてきたので俺はコートを脱いで椅子の背凭れに掛けて、控えめだが存在感のある香りを漂わせる紅茶を口に運ぶ。
・・・液体の動きに合わせて口の中に香りと味が広がる。それを飲み干すと同時に俺は小さく溜め息を吐く。改めて「ほっと一息」というところか。
「明日から練習する曲、何が良いですかね?」
「・・・明日は休みにしよう。」
「え・・・どうしてですか?」
「喉、少し痛むだろ?一日休ませてやった方が良い。無理して喉を潰したら洒落にならないからな。」
井上のやる気に水を差すかもしれないが、ここは「楽器」のメンテナンスが最優先だ。
井上は少しがっかりしたようだ。練習を終えた後に夕食を一緒に食べるようになっていたが、練習が休みだとそれもお預けになるからだろう。
・・・俺としても手作りの食事は捨て難いんだが。
ちょっと気まずくなったかと思った時、井上は俺を見る。
意外に落ち込んだ様子はない。俺と顔を合わせられないことで残念に思うかというのは俺の勝手な思い込みだったか?
「じゃあ、明日は一緒に曲選びしましょうよ。」
・・・次の手を思いついたって訳か・・・。
本当に井上はめげないというか、切替えが上手い奴だ。だからこそ、今こうして一緒に紅茶を飲んだり出来るんだろうが・・・。
「曲選び・・・か。」
「選ぶだけなら喉は使わないでしょ?」
「・・・そりゃそうだ。」
「大学の駅から10分ほど歩いたところに、大きなCDショップがあるんですよ。新作から中古まで色々揃ってますから、そこで一緒に探しませんか?」
「俺もか・・・?」
「演奏してくれるのは安藤さんですから、安藤さんの意見を聞いて決めるべきかな、と思って。」
それは理由の片一方だろう。
むしろ一緒に買い物をしたいというもう一つの理由をカモフラージュするためのものと言っても過言じゃあるまい。
だが、以前なら兎も角、今は一緒に居るのが嫌だからお断りだ、という気にはならない。
一緒に居たいと積極的に思うわけでもないが、一緒でも苦にならない、というところか。
「・・・明日、俺は講義があるけど。」
「じゃあ、待ち合わせしましょうよ。私が安藤さんの講義が終わる頃に大学へ行きますから。講義が終わるのって何時頃ですか?」
「3コマ目だから、3時過ぎかな・・・。」
「待ち合わせ場所は何処が良いです?」
「東門前にしよう。」
「東門って文学部とかの方ですけど、それだと遠くないですか?」
「いや、良い。」
これは安全策だ。
井上の家に出入りして、さらに週に一度夕食を一緒に食べてるなんてことは智一に知られていない筈だし、知られるわけにはいかない。
今でも智一は暇を見つけては文学部に出向いたり、講義がいっしょになる時にアプローチを仕掛けているくらいだ−俺は隣に居るが知らない振りをしている−。
それだけ熱を上げている相手と、よもや早々に「試合放棄」を宣言した俺が一緒のバイトだったり、あろうことか家に出入りしたりしているなんてことが
智一に知れたら、それこそどうなるか分かったもんじゃない。
「じゃあ、東門前に3時過ぎってことで。」
「・・・分かった。」
井上と待ち合わせをするなんて一月前に想像できただろうか?
一月という時間の前後で俺の井上に対する感情がこれほど変わったのかと改めて実感する。
「どうしたんですか?」
「・・・不思議なもんだな、って。」
本当に不思議なものだ。何時の間にかあの女のことや絆が切れたあの日のことをふと思い出しても、懐かしささえ感じるようになっている。
井上が恋愛対象として好きという意識はないし、恋愛をしようという気も起こらない。
でも、このままの関係でも・・・良いんじゃないか?
そう思う。
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